07 清浄と喪失
街の中央には迷宮の入口がある。
九つの入口のうち「橙」だけは少し離れた位置にあり、残りの八つは正方形を描くようにして並んでいる。
それぞれが目指す迷宮の入口に向けて、大勢の探索者達が歩いていた。
探索者たちに人気があるのは、「橙」「緑」「白」「赤」の四つの迷宮だ。「橙」を除いた三つの入口は南側にあり、大勢がそこに向けて進んでいる。
その流れのどれにも乗らず、ニーロとベリオの二人は北へ向かって歩く。
武器と防具を扱う商人が集う通りの裏側、「黄」の迷宮が隠された窪みの周囲には誰もいない。通りの商店はまだ開いていないので、商人たちの姿もなかった。
「連日ここに来るなんてなあ」
ベリオの小さなぼやきが穴の中に響き渡っていく。
とはいえ、昨日よりは少しだけ気楽な気分ではあった。目的地は二層目だとニーロは言っている。一番初めの罠が目的地ならば、すぐにたどり着けるし、死ぬ危険性は「恐らく」ない。
黄金に輝く扉を抜け、明るい通路を進む。
「黄」の迷宮は美しい。九つある穴の中で最も明るく、床のタイルを囲む縁、壁に引かれた線には繊細な模様が刻み込まれている。一層目までならば「観光」に使えるのではと考えた商人がいたが、迷宮は「遊びに来た者」を許さないらしかった。いつまでも一層目に留まっている者がいると、どこの誰が判断しているのか。美しく輝く風景をうっとりと眺めていた商人は、得体の知れない巨大な影に襲われ、命からがら逃げ出したという。
二人は階段を降りて、二層目へ足を踏み入れた。
目指す「天井の罠」はもうすぐそこ。まっすぐに進めば、すぐにたどり着ける場所。
故に、その異変にベリオはすぐに気が付いた。
漂い始める異臭に胸がむかつき、通路の先に一ヶ所、明らかに様子のおかしい箇所が見えてくる。
それでも進んで、やがてその正体が何なのか想像がついて、ベリオはたまらず振り返ると壁に手をつき、ここに来るまでの間に食べた朝食をぶちまけてしまった。
そのすぐ隣を、ニーロが通り抜けていく。
無慈悲な「天井の罠」に、三人の探索者たちがかかった。
床が抜け落ち、その上に天井が落ちてきた。逃げるどころか、悲鳴をあげる暇もない。おそらくは、何が起きたのかすらわからぬままその命を終えたはずだ。
どれだけ気を付けていても、「黄」の迷宮のこの一つ目の罠にかかる者は多い。
はっきりと何処に仕掛けられているかを知っていなければ、大抵の探索者はここで死ぬ。
「何故あの二人はかからなかったのでしょう?」
それはきっと、前列の三人から離れていたからだろう。
地図を見ながら歩いていたか、もしくは前の三人が張り切って歩みを早めていたか。
「運がいい」
「黄」と「青」、そして「紫」の迷宮の罠は特に「性質が悪い」。即死、もしくは長時間苦しんだ挙句助からない。
「天井の罠」も、やってきた探索者が「五人組」ならば、全員を一気に飲み込むサイズのものだった。
「この罠にかかれば、もう『誰が死んだ』のかすらわかりません。骨も肉も、身に着けていた物もすべて粉々に砕かれます」
ベリオが嘔吐した原因である、無残な「探索者達のなれの果て」の姿。何人だったか、男か女か、髪は何色だったか、何歳だったのか。重たい天井が落ちてきて床との間に挟まれ、ただの血と肉に成り果てて天井と床にこびりついている。
「前を行く者がこの罠にかかり、運よく生き残った場合。仲間を追いかけて降りれば、三層の罠が待っています。毒の泉、刃の雨、落とし穴と、どれもかかれば命を落とすいやらしいものばかり」
潰れた三人の前までやってきて、ニーロはようやくベリオへ振り返った。
「慌てて逃げた場合、一層で罠にかかるのです」
ベリオは答えない。いや、答えられない。
「『天井の罠』が戻るからです。この天井の罠は戻る時に一層の床を押し上げます。走って戻って来た者は、ちょうど飛び上がってきた床と天井の間に挟まれて死ぬ」
ニーロはまた振り返り、「黄」の迷宮を汚す「死」を見つめる。
「まさか、これを見に来たのか?」
ベリオは水を取り出して口に含むと、それを床へと吐き出した。ブーツの先にかかった自分の吐瀉物に少し顔を歪め、鼻を押さえながらニーロへ歩み寄っていく。
「そうです」
「なんでだよ。こんな胸糞悪いものに何の用がある?」
「迷宮は美しすぎる。ベリオはそう思ったことはありませんか?」
「なんだと?」
その光景はやはり気分の悪いもので、ベリオは結局ニーロの隣までは進めなかった。少し離れた位置で止まり、目を逸らして、「黄」の迷宮の壁に描かれた黄金のラインを見ながら考える。
「美しすぎる?」
「そうです。迷宮にはこの数十年、街が出来てから大勢の探索者が入り込んでいます。それなのに、ないのです」
「ない……」
確かに、おかしいかもしれない。昨日の朝入った時になかったもの。何度も入った事のある他の色の迷宮の中で、みかけないもの。
「確かに、罠のある場所はもっと、汚れていていいはずだよな」
「そうです。昨日通った時、ここには何もなかったでしょう? あらゆる迷宮には罠があります。探索者はそれにかかって命を落とすし、傷を負います。血が流れ、死体になる。ですが次に来た時にはなくなっています」
助けに来る者がいない誰かの死体も、血の跡も、探索者たちがその辺りに撒き散らす糞尿も。
ニーロの言葉に、ベリオはまたこみ上げてきた吐き気を押さえながら頷いていく。
「誰が片づけてるのか、見に来たのか?」
「その通りです。これまでもずっと気になっていて、何回か『死体』の確認に来ています」
誰かが死んで、倒れた。仲間がいれば、大抵は助けようとする。「帰還の術符」か「脱出の魔術」があればその場で戻って、神殿へ担ぎ込む。
問題はそれらが「ない場合」だ。
低い層で、死人が一人か二人だった場合。担いで帰れるのなら、探索者は連れて戻ろうと努力をする。仲間を探すのは大変だし、死んだ者が特に「有用な特技」を持っていれば猶更だ。新しい誰かを探すよりも、連れて帰って「生き返らせる」方が話が早い。それまでに築いてきた「絆」があれば、そんな努力をしてもらえる可能性はますます跳ね上がる。
だが、そうできない場合。
体の大きな者がやられてしまった。
三人以上の死者が出てしまった。
辺りに強い魔法生物が出てくる。
仲間よりも、「どうしても持って帰りたい物」が他にある。
そんな理由で、毎日大勢が迷宮の中に取り残されていく。
ニーロもベリオも、見捨てられた「誰か」の隣を何度も通り過ぎてきた。
探索に慣れてきた頃の者は皆、その光景に気が付くようになって心を痛める。自分だけはそうしないと心に誓うし、その前に立ち止まって祈りを捧げたり、なんとか救ってやれないだろうかと仲間に訴えかけたりする。
そんな気持ちが薄れてきて、黙って通り過ぎるようになれば一人前だ。
いちいち情けをかけていては迷宮の探索などできはしない。だから、今日もその「誰か」は見捨てられたまま、冷たい迷宮の床に横たわり続けている。
「置いて行かれた探索者の死体は、しばらくの間そのまま残っています。ですが、一定の時間が経つと消える。オッチェもそれを承知していたからこそ、急いで回収して欲しいと依頼しに来ました」
昨日受けた依頼は無事に果たしている。
「黄」の迷宮でしか手に入れられない貴重な品と、置いて来てしまった四人の仲間。その全てを回収して、ニーロたちは迷宮を出ている。
「帰還の術符」と違い、「脱出の魔術」に人数制限はない。六人と、荷物。それだけを連れて帰るには大きな力が必要だが、ニーロはやってのけた。魔法生物はベリオに任せ、罠を作動させないように進み、誰もが避けて通る「黄」の迷宮から脱出してきた。
当然、報酬は高くなる。貴重な品を手に入れたはいいが、オッチェたちは購入したばかりの家を手放さなければならないらしい。
「死体が消えるまでの時間は、層が深くなる程伸びていくようです」
そして、今ここにいる三人はそろそろ消える。ニーロはそう考えている。
「僕は消えるその瞬間をこの目で見て、確かめたい」
げえ、と舌を出すベリオに構わず、ニーロは凄惨な光景をまっすぐに見つめた。
「そこにベリオが吐き出したものも、そのうち自然と消えます。どのような仕組みなんでしょう。感謝しなければいけませんね」
嫌味を言うニーロに顔をしかめ、ベリオは小さく舌打ちをして答えた。
「そんなの見られるのか? 俺は一度だってそんな光景、お目にかかった覚えがないぜ?」
「僕もありません。彼らが罠にかかったのは昨日の昼過ぎ。二層目ならばおそらくそろそろだろうと思います。これは、僕が考えたただの予想に過ぎませんが」
ニーロは腰につけた袋の中から「帰還の術符」を取り出して、手の中に収めた。
「そんな準備が必要なのか?」
「何が起きるのかわかりませんから」
誰も見たことがないもの。飛び散った血の跡、救ってもらえない誰か、必要がないと判断された「道具」、魔法生物の死骸。それらはいつまでも残らず、気が付いた時には消えている。
それが何故なのか。どうして消えるのか、どうやって消えるのか。目にした、なんて話は耳に入って来ない。それは、「見た者がいない」からであるが、果たして「見られない」ものなのかどうか。
不可能ではないだろうとニーロは考えている。だから、見たい。そして知りたい。
彼らが何処へ、どうやって消えるのか。
それを知りたかった。知りたいと思う理由があった。
迷宮の中はしんと静まり返っている。
ここは来客が滅多に来ない、「黄」の迷宮。
「確かに、不思議だ」
ベリオがぽつりと呟く。
「でもそんなの、王都から来てる連中が調べてるんじゃないのか? あいつらに任せておけよ」
「自分で調べた方が早いので」
王都から派遣されてきた調査団が百年かけて調べるよりも、ニーロの師であるラーデンが十年迷宮に潜り続けて得た物の方が遥かに多い。
師がよく言っていたその言葉を、ニーロは子供ながら「大袈裟だ」と思っていた。だがラディケンヴィルスへ来て探索をするようになり、考えを改めている。
迷宮の入口の西側には、王都からやってきた「迷宮調査団」の施設がある。だが彼らはひどく呑気で、時折「橙」か「緑」、ごく稀に「白」の迷宮へ足を踏み入れるくらいの活動をしているだけだ。
かつて、迷宮が発見された頃には彼らこそが「探索者」だった。どこにどのような魔法生物が出現して、どんな道具が手に入るのか、彼らの働きによって新しい事実が次々に判明していった。
しかしそれも過去の話だ。街が出来て、あちこちから迷宮の噂を聞きつけた命知らずが集まり、その数がいつしか調査団よりも多くなり――。公式の調査団がいなくとも、迷宮からは新しい物が発見されるようになり、魔法生物の情報も酒場で交換されるようになった。図鑑や地図を作る者も現れ、それらが売買されるようにもなった。
調査団がまだ街にいる理由は、「迷宮の全容が解明されていない」からだ。まだ踏破されていない迷宮はいくつもあって、そこだけで入手できる「貴重品」があった場合、それを把握できないのは困るからだった。
命懸けで調べようという気概は既になく、「黄」や「青」のような危険な迷宮の調査などは物好きな「探索者」に任せようというのが、今の調査団のスタンスになっている。
商人たちには、「初めて見た迷宮から持ち出された道具」について届け出るよう義務付けられているし、ある程度の強さを持つ探索者の下には使者がやってきて、新しい発見があった場合報告するように伝えに来る。
ニーロの下にはまだ使者は現れないが、この話は過去にカッカーから聞かされていた。神官であり、誠実な男であるカッカーは、ニーロに「ちゃんと協力するよう」何度も言って聞かせている。
相変わらず不快な臭いが辺りに充満していた。
元は人であったとは信じられない程に三人は粉々に砕かれている。ところどころに肉片が落ちており、その生々しさにベリオは再びの吐き気に襲われている。
また壁に向かって嘔吐しているベリオに、ニーロは少しだけ顔をしかめた。
その瞬間。
ニーロが鋭い瞳を更に細めた瞬間、何かが視界の中を走り抜けていった。
十六歳の少年魔術師は、滅多に感情を表に出さない。
誰かが目の前で死んでも悲しまないし、どんなアクシデントにも慌てない。ごく稀に口元に笑いを浮かべているが、本人には笑っているという「自覚」はないらしかった。
ところが今日は、前を歩くニーロの背中に「哀愁」を感じている。初めての経験にベリオはいつもの軽口を叩けずにいた。黙ってニーロの後について、南へ向かって歩いていく。
道順から考えて、どうやら「カッカーの屋敷」へ向かっているようだった。何度も歩いたその道の途中には一軒の食堂がある。そこは南門付近にある高級宿の客に向けて作られたもので、味はいいがとにかく値段が高い。
その高級店、「ルッケーノの厨房」の前で突然ニーロが振り返り、ベリオも慌てて足を止めた。
「ベリオ、僕はカッカー様の屋敷へ行きます。夜には家に戻ります」
「ああ」
こんな風に予定を一方的に告げてくるのは、「一人で行きたい」という意志表示だ。いや、「一人で行きたい」というよりは、「ついて来るな」の方がより正確だろう。家に勝手に居つかれても気にしないニーロがわざわざ宣言をするのは、絶対に邪魔をされたくない時だけだ。
わかったと答え、ベリオは一人、北の安い食堂へ向けて歩き出した。
ニーロは住宅街を進み、「カッカーの屋敷」を訪れていた。
屋敷には何人も探索者がいて、どの迷宮に挑みたいだの、誰の手を借りたいだのといった話に興じている。
この場所に集う者達は交代でパーティを組んで、自分たちの目的にあった迷宮へ潜っている。戦いの経験を積みたい、罠の解除の練習をしたい、資金を稼ぐ為に高く売れる道具を探しに行きたい……。その時に応じた必要な人材を探し、交渉する。
何人かがニーロの姿を見つけて立ち上がったが、その眼差しのあまりの冷たさに、声を出さないまま手をひっこめていった。
ニーロが向かった先はカッカー夫人の部屋で、夫妻の長女である二歳のリーチェ、生まれて半年のビアーナが寝かしつけられているところだった。
「あら、ニーロ。悪いけど用なら少し待っていてくれる?」
「わかりました」
素直に答え、ニーロはすぐ隣にある小部屋へ入ると古びた椅子に腰かけて目を閉じた。
二人の子供の寝つきはいいらしく、すぐに扉が叩かれ、部屋へヴァージが入ってくる。
「どうしたの、そんな顔をして。珍しい」
ニーロの固い表情にふっと笑みを漏らすと、ヴァージは部屋を出て、カップを二つ用意して戻って来た。
「それで、見られたの?」
向かいに座ったヴァージから水を差し出され、ニーロはそれを受け取り、手に持ったまま頷いた。
「はい」
ヴァージはニーロにとって、かつてパーティを組んでいた仲間であり、スカウト技術の師匠でもある。
ラディケンヴィルスへ来てから世話になってきたカッカーの最後の願い、「赤の迷宮の踏破」の為に選ばれ、共に最下層へ辿り着いた間柄だ。
ヴァージは数少ない「女性探索者」で、とても優秀なスカウトだった。あらゆる罠を見抜き、解除する。方向感覚にも優れているらしく、精度の高い地図を作り上げる稀有な人材だった。
だがひとたび迷宮から出れば、あっという間に一人の「女」へと戻る。
長い脚を組んでちびちびと酒を飲む姿に、どれだけ多くの男が恋心を抱いていたか。豊かな胸に、形の良い尻、つややかな黒髪、物憂げな長い睫毛。どんな男でもよりどりみどりだったであろうヴァージは、何故かずっと年上、四十一歳でようやく「探索者」から足を洗ったカッカーの妻になった。
二人はすぐに子供を授かり、ヴァージはこの屋敷で子供を育てながら、望む者にスカウトの技術を教えている。
「本当に?」
ヴァージの顔が「母」から、「探索者」のものに変わっていく。
「見えた、と言うには語弊があります。確認できた、とするべきでしょうか」
「黄」の迷宮の罠の跡を確認しに行くと、ニーロに今朝告げられていた。
以前から、どういう仕組みになっているのか、二人は迷宮の中に仕掛けられた罠とその後に作動する「清掃」の仕組みについての考察を重ねていた。
これまでに何度も確認をしようと迷宮へ赴き、誰かが倒れているところ、魔法生物の死骸の近くで待機をしてきたが、「その瞬間」は一度も見られなかった。じっと待っているうちに新たな敵が現れ、それを倒している間にすべて終わっている。いつも、その繰り返しだった。
なので、探索者が来ない、魔法生物も滅多に現れない「黄」の迷宮の二層で出た死者の話はこの上なく「いい話」だった。誰かが回収しにくる可能性もおそらくは皆無。とうとうその時が来たのだと、ニーロはヴァージに話していたのだが。
「本当に突然、音もなく何かが過ぎていったんです。臭いすら消え去っていました。結局、『目視できない』ものだったようです」
「それじゃあ、今までに見たという話がないのも仕方ないのね」
「そのようです」
拍子抜けしたといった様子でヴァージは肩をすくめた。だがすぐに、落胆した様子のニーロを見て小さく声を上げて笑った。
「すごいじゃないの。きっと初めてよ。迷宮の『清掃』の瞬間をはっきり見た探索者は」
少年の肩を優しく叩くと立ち上がり、ヴァージは部屋の窓へ向かって歩いた。
古びた木枠の向こう側には、樹木の神殿の庭がある。
木が生い茂り、たくさんの花が咲く美しい光景。
窓辺に佇み、元スカウトの女は小さくこう漏らした。
「じゃあ、置き去りにされた者は跡形もなく、いなくなってしまうんだね……」
それは、探索者であれば誰もが知っている「迷宮で起きる不思議」であり、「迷宮で起きる日常」だ。それでも、二人の胸には哀しみの風が吹いていた。
迷宮に取り残された者は、手がかりを残すことすら許されず、ただ消えてしまうしかない――。
「そのようです」
答えるニーロの声も、消え入るように小さかった。