62 ラディケンヴィルス労働白書
町の南西部に、ギアノは初めて足を踏み入れていた。
商人たちの屋敷がたくさん並んだこの辺りは、あまり探索者が歩く場所ではない。
南側には高級住宅街。その隙間のあちらこちらに立派な飲食店がある。それぞれに趣向を凝らした店構えは個性に溢れていて、北西の安い食堂との差は大きい。
立派な住宅街の北側には、薬草業者のための宿舎や加工場があった。大量の籠があり、荷台が置かれ、これまた探索者たちが集まる安宿街とは雰囲気が違っている。
忙しそうに走り回っている若者が大勢いる。空の籠を運んでいる者、大切そうに木箱を抱えている者、隙のない顔つきで鉢の中身をこねまわしている中年の女など、初めて見る迷宮都市の別の顔に、ギアノは感心しながら歩いて行った。
街の外から運ばれてくるものの為の市場はこの業者街の先にあるようで、看板が掲げられていた。
たくさんの草が積まれた籠の中には野菜のように見えるものがあって、間違える者もいるのかもしれない。バルディを笑って悪かったかなと思いながら、ギアノはようやく目当てのアードウの店を見つけて、木箱の上にぼんやりと座り込んでいる男に声をかけた。
「なあ、ちょっと聞きたいんだけど」
「おい、遅かったなチャレド」
「チャレドじゃないよ。人違いだ」
男は疑いの目を向けてきたが、睨まれている間に本物のチャレドがやってきて、無事に誤解は解けた。
「すまないな、チャレドによく似ていたから」
「いいんだ。ちょっと、薬草のことを聞きたくて」
「薬草のこと? ここで働きたいってことかい」
「違うんだ。迷宮で採れる草を料理に使ってみたくてさ。味とか匂いとか、詳しい人に話を聞きたくて」
「はあ? バカだな、あんた! はははは! 料理に使うだって? あははははは」
男の大きな笑い声が気になったらしく、従業員が何人も集まって来る。
服にいろんな色の染みをつけた面々は理由を聞いて、一緒になって体を揺らしだした。
「なにを騒いでいるんだ、お前たち」
無精ヒゲの男が現れて、爆笑していた集団は慌てて散っていく。
木箱に座っていた男すらいなくなって困っているギアノの肩を、無精ヒゲは強く叩いた。
「チャレド、お前も仕事に戻れ」
チャレドではないと説明をして、ギアノは再び経緯を話していく。
男は来客に丁寧に謝り、バリーゼだと名乗ってギアノと握手を交わした。
「薬草について、なにが知りたいんだ」
「教えてもらえます?」
「今日はもう採集には行かないから、今なら時間があるんだ。うちの従業員が随分失礼な態度をとったみたいだし、少しなら説明するよ」
バリーゼに案内されて、業者の作業場を通り抜けていく。籠の林を抜けて、小さな葉が舞い踊るテーブルを通り過ぎ、奥の小部屋へ入っていく。
「先に言っておくが、薬草のレシピは教えられないぞ。ここで働きたいのなら、アードウさんに頼んで面接をするけれど」
「そういうんじゃないんだ。薬草を使って料理をしたいだけでね」
「料理? なんでまた、あんなものを使いたいんだ」
匂い消しの為なら、香草を使えばいいのに。
迷宮産の魚について話すべきかギアノは悩んだが、そういわれてしまっては仕方がなくて、どうしようもなくまずかったことまで含めて理由を伝えた。
「魚が獲れるという噂は聞いていたが……。本当だったのか?」
「普通の魚ではないけどね」
あれを打ち消すためには、普通ではない強烈ななにかが必要だ。
そう伝えると、バリーゼは顎に手をやって無精ヒゲを撫で始めた。
「味を知りたいって話か」
迷宮で採れる草の類を使うのならば、まずは「食べても大丈夫か」どうかが問題だった。
味に関しては、いくら業者であってもわからないのではないかと思っていたのだが。
「もしかして、味にも詳しい人がいる?」
「味に詳しいというか、長い間毒見を担当してくれた婆さんがいるんだ」
「毒見? 毒見する人がいるの?」
「ダステ婆さんは、若いころはごく普通のどこかの店員だったらしいが、なんでか薬草をつまみ食いする癖があったらしくてな。よくこの辺りでひっくり返ってたって話だ」
「なんでそんなわけのわからないことをしたの」
「婆さんにもわからないんだと。何度出入り禁止になっても忍び込んできて、しょうがないから毒見役にしようって話でまとまったらしいぞ」
業界では知らない者がいない伝説の毒見役・ダステはこれまでに何度も死にかけたが、なんだかんだ今日も元気に薬草を摘まんでいる。
ぜひ会わせてほしいと頼むと、バリーゼは快く頷いて案内してくれた。
アードウの店から出て、他の薬草業者たちの仕事場を通り過ぎ、傾きかけた小屋へたどり着く。
「婆さん、いるかい」
バリーゼが扉を何度か叩くと、古びているせいか勝手に開いてしまって中の様子が見えた。
おんぼろの小屋には似合わない、色鮮やかな調度品が置かれている。ベッドやテーブル、椅子や戸棚など、愛らしい色合いのものがそろっているようだ。
「バリーゼか」
扉が大きく開くと、小屋の主であろうダステの姿が見えた。
可愛らしい家具には似合わぬ、皺だらけの白髪の老婆が座って、パイプを咥えている。パイプの先からは薄い桃色の煙が出ていて、甘ったるい香りがギアノの鼻に届いた。
「ちょっといいかい」
「あいよ」
促されて中に入り、ダステに紹介される。バリーゼが正確に用件を伝えてくれて、ギアノは再び大きな笑い声を浴びせられていた。
「とんだ物好きがいたもんだ! がっはっはっは!」
迷宮魚に打ち克つためには、迷宮の草で対抗するしかない。
ギアノとしてはこれしかないのではと考えた方法だが、薬草のエキスパートである業者たちにこんなに笑われてしまうとは。間違っていたのだろうかと、不安が募る。
「そんなにマズイもんを、どうして食べようなんて思うのさ」
迷宮からは兎、鹿、猪など、探索者たちがいくらでも肉を運んでくるのに。
ダステの言葉は尤もなものだが、それではバルディの悩みは解消できない。
「食堂を経営するのも大変なんだよ。金に糸目をつけないやり方をする人たちが出てきちゃったから。ただの高級店じゃ、超高級店には勝てないんだ」
「はっ。そんなの、おとなしく潰しちまうしかないだろうに」
パイプの煙が途切れて、部屋の中から桃色が消えていく。
それではっきりとダステの姿が見えてきたが、小さく背中を丸めた老婆の全貌はなかなか強烈なものだった。
顔の右側は、はっきりと青い。左側は緑がかっていて、目は白く濁っている。パイプを持った左手はほとんど紫色に染まっており、右手だけはどうやら本来の色が残っている……と思いきや、白い斑点のようなものがいくつも浮き出していた。
「まあでも、面白いね。あのおっかない『青』で魚が泳いでいるなんて。面白いじゃないか」
長生きするもんだとダステは呟いて、ギアノに向けてニィっと笑った。
「その魚、持って来られるかい」
「あ、ちょっとですけど、一応今持ってきてます」
薬草の業者に理由を正直に話したとして、味見をしてくれるかどうか、無理ではないかと思っていた。
念のためにバルディから預かってきた昨日の魚料理を取り出し、申し訳ない気分で差し出していく。
バリーゼはそれを受け取って、思い切り顔をしかめながらテーブルに置き、ダステへ匙を渡した。
「なんて臭いだ!」
老婆は怒ったような声をあげたが、匙で魚をとって口に運んだ。
おおマズイ、信じられないと言いつつ、モッチャモッチャと音を立てている。
「そんなにマズいのか」
「うん。すごく臭い」
バリーゼの質問に、ギアノは正直に答えた。
ダステは座ったまま、体を左右に揺らして悶えている。
「あの、大丈夫ですか」
ギアノが問いかけると、ダステは顔をくっしゃくしゃに歪めたものの、こう答えた。
「死なないとわかっているだけで上等さね」
とんでもなく嫌な味の魚を焼いたものを、ダステは長い間口の中で転がし続けている。
歯がもう残っていないのではと思えるふにゃふにゃの口元の様子を見て、一体何歳なのだろうとギアノは考える。
「……これに合うのは、清精草の葉じゃないかねえ」
「清精草?」
「『紫』の十二層から下で採れる草だ。気力薬に使われる草だよ」
「へえ」
「紫」の十二層よりも、下。
気力薬は魔術師や神官たちの必携薬で、店ではそれなりの値段で売られている。
「もしかして高いんじゃない、それ」
「そうかもな。草だけを売ることはないから値段は設定されていないが、簡単に譲れるものではないだろう」
「俺に依頼してきた食堂の親父は、強青草の茎を齧って口の臭いを解消してたんだけど」
「強青草じゃダメだね。味が強すぎる」
ダステが即座に駄目出しをしてきて、ギアノは考える。
「強青草自体はよく採れるのかな」
「あれも『紫』で採れるものだからそう簡単ではないが、低い層から生えているし、清精草よりは簡単に手に入れられるだろう」
ダステは頭をひねりながら、その後もいくつか、これなら合うかもしれないと候補を挙げてくれた。
だがバリーゼによると、どれも「紫」の浅くないところで採れるものばかりで、料理に使うには現実的ではないだろうという話になっていく。
「あのさ、なんかすごく変な色の草があったんだけど、あれはなんて草なのかな」
茎は青黒くて、葉っぱは急に白い、勝手に不気味草と名付けた草の特徴を話すと、ダステはなぜか大声で笑い始めた。
「あの草、なにかあるの?」
「そいつは使用済みの二蜜草さね」
「二蜜草ね。どういう効果?」
「茎を折ると中からとろーりとしたモンが出てくる。折っちまうと、アンタの言った不気味な色に変わるのさ」
葉のある個所を折ると、中身が出てくる。そして折る前は、葉の色は薄い黄色で、茎は鮮やかな緑なのだという。
ダステはイヒヒといやらしい声で笑い、とろーりと出てくる蜜には「元気が出る効果」があると教えてくれた。
「疲労回復の薬になるのか」
「いや、違う。あれは……」
バリーゼは口ごもり、ダステはまた笑っている。毒見婆は笑いっぱなしで答えないので、しぶしぶといった様子で薬草業者が答えてくれた。
「あっちの方なんだ、元気が出るっていうのは」
「あっち」
「わかるだろう、ほら」
やたらと下に向けられた視線のおかげで意味が伝わって、ギアノは顔をしかめた。
使用済みだったというのなら、バルディが使った可能性があるのではないか。
「娼館なんかで使うヤツがいるんだ、あれは。専門に扱う人間がいて、二蜜草は全部そっちに売るよう決められている」
「そんなモノが迷宮にあるんだねえ」
「他の効果もあるんだが、薬にするには手間でね。そもそも、二蜜草もあんまり多くは採れないものなんだ」
「うーん」
「緑」や「紫」に入ればいくらでも草が生えていると思っていた。
けれど、効果や味、使い方など、詳しく学ぶには時間がかかりそうだ。
なにより、味がどうこう以前の問題がある。
「手に入りやすいものじゃないと、料理に気軽に使うのは難しいよね」
「それはそうだろうな」
「『緑』で手軽に入手できるのって、どうかな。料理に入れてよさそうなものってある?」
「残念だが『緑』の低層で採れるのは毒ばかりだ。薬が採れるのは深いところに入ってからでね」
ダステの言う「味が良さそう」なものは、「紫」の深いところで採れる高級品ばかり。
手軽に「緑」の低層で採れるものは、毒ばかりで使えない。
「薬草の世界、奥深いね」
「興味が湧いたか? うちの店はいつでも従業員を募集してるぞ」
バリーゼは急にいきいきと仕事内容を話し始めた。
面接をしてひととなりに問題がなければ採用される。食事は出るし、宿舎もある。
探索に行けそうな者はまず「緑」へ、難しそうなら仕分けの作業からさせる。
「素質のありそうな奴は『紫』の採集に行くし、作業担当なら薬の調合を任される。どっちも稼げるぞ。どうだ、チャ……」
チャレドじゃないんだけど、と思いながらギアノは答えた。
「いや、薬草の仕事は今はいいんだ。仲間に入れてもらいたい奴らもいるし」
「そうなのか、残念だな」
「それは、うまく働けそうって思ってもらえてるのかな。ありがとう、バリーゼさん」
ダステにも礼を言って、毒見婆の小屋から薬草業者の作業場へ戻っていく。
他の店の作業場も似たような様子で、どこも独特の匂いが漂っていたし、同じように籠の中に薬草を山のように積んで並べていた。
「『紫』に行くのってやっぱり大変なの?」
「そりゃあそうだ。ルートは決まっているし、人数が足りなきゃ無理はしないが、命がけの仕事だよ」
そういいながら、バリーゼの顔はどこかキラキラとしていた。やりがいのある仕事さ。そんな、男の矜持を感じさせるいい表情をして、道の先を見つめている。
「毒が出てるんでしょう?」
「俺たちは必ず、まず『緑』から仕事を始めるんだ。何度も通っているうちに、少しずつ毒に強くなっていくからな」
「へえ」
「ある程度耐性がついた奴だけが『紫』に行けるようになる。なぜだか全然、強くならない奴もいるがね」
「バリーゼさんも強いんだね」
「もっと強い人もいるぞ。リシュラ商店の長男坊はもう『緑』の毒は一切効かないっていうからな。あの人が五人いたら、『紫』の最下層も余裕で行けるだろう」
いくらなんでも話を盛りすぎじゃないか。ギアノは心の中で吹き出しながら、顔は感心した風を装っている。
アードウの店の作業場まで戻ると、バリーゼはギアノに少し待つように言って、籠の並んだ通路の奥へ消えていった。
待つ間に何度かチャレド呼ばわりされ、仕事をしろと責められたものの、バリーゼが戻ってきてくれて労働はせずに済んだ。
「役に立つかはわからないが、よかったら持っていってくれ」
小さな籠の中に、何種類かの草が入っている。
それぞれの名前と効果を告げられたが、完全に覚えられたかどうか、ギアノには自信がない。
「これはどれも低層で簡単に採れる、毒のないものなんだ。味はダステ婆さんが言ったもののように良くはないだろうが、組み合わせでまともな味にできるかもしれないだろう」
混ぜても無害だから、体への影響はないという。
どれも疲労の回復や、目が覚める、解毒などの薬の素になるものらしい。
「助かるよ」
「もしもその料理がうまくできたら、薬草はうちの店から仕入れてくれよ!」
「はは。わかった、店主に伝えとく」
薬草の籠をお土産に抱えて、バルディの店へと戻る。
昼を過ぎた食堂に客はなく、二人の従業員と店主が夜の営業に向けて仕込みをしている最中だった。
「お……、なんだったか、ピアッチョじゃないピアッチョ似の」
「ギアノだよ」
確かに、チャレドと自分の容姿はよく似ていた。目つきがほんの少しだけ鋭いのがギアノで、ちょっとだけ優しそうなのがチャレド、くらいの差しかない。
街で一番多い髪の色、一番多い瞳の色、平均的な身長と体つき、一番多い年代の、男。多分、ピアッチョもそうなのだろう。
「料理に使いやすいであろう薬草をもらってきたよ」
「使いやすいであろう?」
「それがねえ、バルディさん。味が合いそうなのは、採るのが難しいものばっかりみたいなんだ。仕入れができるかどうかもわからないヤツだよ。高い薬に使うものみたいだったから」
「困るな。それじゃあ、値段が高くなっちまうじゃないか」
「うん。だから、この籠の中にあるやつで手を打つしかないんじゃないかな」
高いものを売りつけなかったのは、バリーゼの優しさなのか、それとも本当においそれとは売れないからなのか。
「紫」の毒に耐えながら進んでいって必死で採集してくるものなのだから、後者が正しいのだろう。
「ひょっとしたらうまくいくかもしれないし、試してみようよ」
ごく普通の香草とも組み合わせてみればいい。合いそうなものがあれば、野菜と組み合わせたっていい。
バルディの作ってくれた賄いを遅い昼食にもらって、ギアノはまず、薬草の味の確認を始めた。
紙とインクを用意して、少しずつ味見をしていく。
口の中がキンキンに冷えるもの、ピリピリとした刺激の走るもの、息をするたびに胸の奥が叩かれるような感覚がするもの。体調に変化はないが、薬草の味は様々だった。
「不思議だな」
「なにがだ、ディアノ」
「これって薬の素だよね。こんな味の薬、飲んだ覚えがないよ」
「そりゃあお前さん、こんな風に草のまま食べることはないからじゃないか?」
「そうだよね。粉にしたり混ぜたりして、薬になるんだもんね」
まずは火を通してみようと、鍋の用意をすすめていく。油で炒める、煮る、細かく刻んだり、そのまま放り込んでみたり。
仕上がった薬草の味を見て悶え、魚のかけらと合わせてまた悶え。
厨房で苦しむギアノに、従業員が冷たい視線を向けている。
「なんですか、あいつは」
「いや、ちょっとな……」
バルディまでこんな調子で、ギアノは少しだけ腹を立てていた。誰のためにやっていると思っているのか。
バカバカしくなって、皿と匙を台の上に放り出す。
「できたのか」
「そんなわけないでしょ!」
一休みだよ、と呻くように呟いて、椅子に腰かける。
薬草の籠の中身はもうなくなりかけていて、どうしたものか、ギアノは腕組みをして唸ってしまう。
「なあ、こっちを手伝ってくれないか?」
「ごめん、ちょっと規格外の仕事してるから。休ませて」
料理人らしい男はため息をついて、座り込むギアノの前を行ったり来たりしている。
材料を運ぶのも、道具を用意するのもすべて一人でやっているようで、バルディはどうしたとギアノは目を走らせる。
すると、給仕係であろう女性と二人で隅でひそひそと話している店主の姿が目に入った。
客が来なくなり、売り上げがなくなり、「悲壮な思いを抱えるバルディ」だったはずなのに、化粧の濃い若い女とお互いの頬をつつきあっていて、そこだけは楽園の空気が漂っている。
「なにあれ」
「ああ、最近ああなんだよ。あの娘、リータって名でね。バルディさんすっかりお気に入りみたいなんだ」
料理人も不満に思っていたのだろう、ギアノの小声に即座に反応して内情をバラしてきた。
リータという娘は胸のあたりを大きくはだけた服を着ており、無駄に体をくねくねと揺らして店主にしなだれかかっている。
「なるほどね」
「なにがなるほどなんだ、ピアッチョ」
「元気が出るって草だよ。あの娘に使ったんだな、バルディさんは」
「元気が出る草?」
「あっちのね、元気が出るらしいよ」
「あっち……」
ギアノをピアッチョと勘違いした料理人はぼんやりと作業へ戻っていったが、やがてなにかに気が付いたらしく、腰に巻いていたエプロンを外して投げつけると、隅でリータとイチャつくバルディへ「やめさせてもらう!」と叫んで店を出て行ってしまった。
バルディは慌てて後を追っていったが、しばらくするとしょんぼり顔で戻ってきて、客席の一つに座るとテーブルの上に突っ伏してしまった。
「やだぁ、バルディ、大丈夫?」
「大丈夫じゃない……。これじゃあ夜の営業ができない……」
「ピアッチョ、仕込みの続き、してよぉ」
「ピアッチョは料理人だったの?」
「なに言ってるのピアッチョはぁ」
リータの舌ったらずな声は甘くて、バルディが夢中になるのもわからなくはない。
それにしても。今日の朝、雇ってもらえないかと考えて来たのに、なぜピアッチョと勘違いされてしまったのか。
ギアノにはピアッチョの正体がさっぱりわからず、夜の営業の仕込みをするべきかどうか悩んだ。
「バルディさんにやらせるべきじゃないの?」
「もお、いいでしょ、ピアッチョ。頑張ってくれたらリータがご褒美あげてもいいよ」
「俺、ピアッチョじゃないんだよね」
きょとんとするリータの胸はかなり大きくて、今にも服からはみ出してしまいそうだった。
どこから連れてきたのやら。ギアノは呆れながら、若い娘相手に張り切っていたであろう店主を立たせて、厨房へ連れていく。
「しょうがないから手伝うけど、俺に全部任せるのはおかしいでしょ。今日来たばっかりなんだよ?」
「そうか、お前さんはピアッチョじゃないんだもんな」
「夜は何を出すつもりだったの? それに、いくらなんでも従業員がいなさすぎると思うけど」
「それはその……。仕方ない、客が来ないんだから」
「本当にそれだけ? あの娘に入れ込んじゃって、みんな呆れてやめちゃったんじゃないの?」
どうやら図星だったようで、バルディはその場でしゃがみこんでしまった。
いい年してなにやってんのと背中を足でつついて、ギアノは材料置き場がどこか尋ね、用意をすすめていく。
この日の夜の営業には数人の客がやってきて、ギアノはごく普通の料理を提供した。
味は悪くなかったらしく、苦情はない。だがどうやら客の目当てははちきれそうな給仕係の胸元だったようで、そもそも味についての意見はなかったのかもしれなかった。
「バルディさんって家族はいないの? 結婚は?」
少ない客が帰っていって、皿を洗いながらギアノは尋ねた。
リータはどこへ消えたのか、姿が見えない。手伝う気がないのか、こんな後片付けなどやらなくていいと言われているのか。作業ができるのはギアノしかいないので、仕方なく働いているような状況だ。
「あのさあ、俺、こんな仕事させられるなんて思ってなかったんだけど」
「そうだな、すまない。すまない……」
台所の隅で座り込んでしょぼくれて、バルディはとうとう観念したのか、リータとの関係について話しだした。
「妻はいるよ。子供も三人いる」
「あの娘は奥さんじゃないよね?」
「そうだよ。仕方ないだろう、妻はこんなところじゃ子供は育てられないって、王都に行っちゃったんだから。別にあそこの出身でもないのに、他の商人のところの贅沢女に感化されちまって! 一流の教育をするには仕方がないなんて、子供だけ連れて行っちまったんだよ」
「一緒に行けば良かったじゃないか」
「あの頃は稼ぎがあったんだよ。かなり稼いでた、この店でな」
迷宮都市の店で稼いで、仕送りをして、時々家族の顔を見に王都へ足をのばす。
ラディケンヴィルスで商売をする男には、よくある暮らしだとバルディは話した。
商売をするにはいいが、子供を育てるには向いていない。迷宮都市には学校もないし、探索者ばかりの街は、幼い子にいい影響があるはずもないのだと。
「寂しくてな」
「それであんな草に手を出したの? 結構高いんじゃない、あれ」
「ピアッ」
途中でピアッチョではないと気が付いたらしく、バルディは黙る。
「楽しかった?」
「楽しい……、そりゃまあ、楽しいさ」
「あの草、二蜜草だっけ。あれ使うとやっぱり普段とは違ってくるの?」
「お前さん、なんてことを聞くんだ」
「使う機会なんてあんまりなさそうだからさ。単なる興味だよ」
バルディはぼそぼそと二蜜草の効果について話してくれたが、ギアノは皿洗いに集中してすべて聞き流していた。
妻子が子育てのために他の街へ行ってしまって身軽になった商売人は、リータのような女に狙われるようになるのかもしれない。
社会の仕組みの一端を知った気分で、最後のカップを流していく。
「……って感じになるんだ。はは、空しいよな。でもこれで全部だ。気が済んだかい、ギアノ」
「お、やっと覚えてくれたんだね」
「なあ、明日から働いてくれないか。お前さんの料理、手際も見た目も、味も良かったよ」
「それはありがとう。でも俺は、料理人になるためにここに来たんじゃないんだよ。通常の営業はなんとか自分でやってくれない?」
明らかな不貞と人目を憚らぬいちゃつきのせいで、従業員たちはみんな辞めてしまったのだろう。経営不振の気配も濃厚で、給料の心配もあったのだろうが。
ここまで壊滅的な状況になってしまった「コルディの青空」には一発逆転の秘策が必要だろう。
そのために、ぜひとも迷宮魚のメニューを完成させてみたい。
「魚料理の開発は続けるよ。面白そうだし、当たったらデカそうだもんね」
話題になって賑わえば、きっとまた働き手も見つかるだろう。
バルディは肩を落としつつも、よろしく頼むとギアノと握手をかわし、「コルディの青空」のこの日の営業は終わった。




