61 迷宮を泳ぐ魚
四人の客が去って行って、ウィルフレドは戸惑っていた。
ニーロの視線がずっと向けられたままになっているからだ。
同じ家で暮らしているのだから、二人で過ごした時間はそれなりにある。
だが、ニーロはあまり食事にこだわらないし、そもそも食べる姿を見せない。部屋の隅で膝を抱えて寝てしまうので、二階にある立派なベッドで休ませてもらっているウィルフレドと並んで眠ることもない。
同じ空間で過ごすのは、大抵がニーロが机に向かってなにかを研究している時で、ウィルフレドは傍で装備品の手入れをしたり、迷宮の地図を見せてもらったりして過ごす。
こんな風にじっと見つめられたのは初めてのことだった。それはつまり、「貸家を探している」という話が引っかかっているのではないか。
「ウィルフレド」
ようやく声をかけられて、戦士は柄にもなく緊張を強めている。
シュヴァルのこれからについて考えたが、この家に置くのは違うだろう。
そもそも、ウィルフレドの家があったとしても、あの少年を招き入れるのは無理だ。
探索に連れていけないし、留守の間になにかしでかすに決まっているのだから。
ヴァージに問う前に気が付いてはいたが、それでもなんとなく、相場を聞いてしまった。独立云々ではなく、単なる世間話として。
「泳ぎは得意ですか?」
ニーロの問いは意外なもので、髭の戦士は悩みながら答えた。
「泳ぎは、それなりにできる方だとは思います」
この数年、川にも海にも入っていない。水遊びに興じる誰かに付き添いはしたが、一緒に水に入ったりはしていない。
だが、生まれた村のそばには大きな川があって、子供の頃はよく入って遊んでいたし、魚を獲っていた。村の子供たちはみんな泳ぎが得意で、誰が一番かよく競いあったものだった。
「水の中で、どのくらい動けるでしょう? 水の中を自在に移動してくる生物と戦うことはできますか」
そんな経験をしたことがなくて、ウィルフレドは答えに詰まる。
「わかりませんか」
残念ながら、その通りだ。相手の大きさ、その時着ているもの、武器など、条件になるものが多すぎるし、水中の生き物と戦ったことなどない。
「では、行きましょうか」
ニーロは薄く微笑んだ顔をしている。
武器は短剣、鎧は軽めのもの、長いロープと、革でできた袋を持たされ、迷宮都市を北に向かって進む。
行先は聞いていないが、嫌な予感がしている。こんな装備で向かう先は――。
「『青』ですか」
家を出て少ししたところで、思い切って問いかける。
魔術師はくるりと振り返って、そうです、とだけ答えた。
「二人で行くのですか」
「本当はキーレイさんにもいてほしいところですが、今日は無理そうなので」
「マリート殿は」
「泳げないので『青』では役に立ちません」
ひどい言われように、ウィルフレドの口からは乾いた笑いが漏れていく。
「役に立たないということはないのではありませんか」
「マリートさんは泳げないだけではなくて、水が怖いのです。だから連れて行きません」
ニーロはまた振り返って、ウィルフレドに力強く頷いてみせた。
少し見に行くだけだから、大丈夫なのだと。
「『青』の迷宮はいまだに地図が作られていません。水に飲まれる罠があるからです」
だから、入った探索者は死んでばかりなのだとニーロは言う。
少しくらいは進んでいけるが、その先からは戻ってこられないことがほとんどなのだと。
「水の中に敵が出てくるのですか」
「出ると思います。対策が必要ですから、いくつか試してみたいのです」
水の中で自在に動けるようになるとか、呼吸ができるようになるとか、そういった魔術を開発したいのだとニーロは話した。
南には港町、東には王都付近に大きな河がある。北へ向かえば渓谷があるし、西に向かえば大きな森林の向こうに湖がある。だがどこに行くにも距離があって、わざわざ試しに行く気にならないようだ。
「魔法生物も出ませんし」
「……そうですな」
ただの水辺では練習にならないと考えているのだろう。だからといって、最悪最凶の「青」に、いきなり仲間を入らせるとは。
キーレイを待つわけにはいかないのだろうか。さすがに不安がよぎるウィルフレドに、ニーロは前を向いたまま、珍しく声を出して笑った。
「ふふ、大丈夫ですよ。最近少しだけ、安全に進める箇所が見つかったんです。ほんの少しですけどね」
「そうなのですか」
「『青』の迷宮に入ってみると、前にしか進めないように見えます」
扉を開けると、まっすぐに道が続いている。そこを進んでしまうと、床に見せかけた水に落ちてしまい、引きずり込まれるのだとニーロは話した。
少しだけ、と入り込んだ者は大抵この罠にかかって、暗い渦の底に消えてしまう。
「左右に水が溜まっているところがあるんです。入ってすぐのところですが、奥に進めることがわかりました」
随分危険な調査だと、ウィルフレドは考える。
そんな相棒に、ニーロはこう答えた。
「水溜りの奥には魚がいます」
「魚ですか。迷宮の中に、普通の魚が?」
「普通の魚ではないですね。少し凶暴な魚です」
歩きながら、ニーロは迷宮都市の課題のひとつである、街の西側に住み着いた「脱落者」たちの話をした。
迷宮に入る勇気は既にないが、地道に働くのも、故郷へすごすご帰っていくのも嫌で、賑わう街に未練もあって動けない。そんな元探索者たちは街の西側に粗末な小屋を建てて住み着いている。
彼らは基本的に飢えているので、時に大きく揉める。
人数が多くなり、ぶつかりあうことも増えてきて、最近かなり大きな争いが起きた。
彼らは散々罵り合い、殴り合い、傷つけあった挙句、何人かが「青」に放り込まれ、閉じ込められてしまった。
扉の前で待ち構えられて、外には出られない。閉じ込められた者たちはもう終わりだと嘆いたが、そのうちの一人が水が跳ねる音を聞いた。
川のそばで生まれ育った脱落者の一人が、水に飛び込んでいった。腕に噛みつかれながらも魚を獲って、殴って大人しくさせ、食糧が手に入ったからと喧嘩相手を説得し、無事和解が成立。それ以来魚を獲りに「青」にこっそり入っているという――。
「本当の話ですか?」
疑いの目を向けたウィルフレドに、ニーロは笑っている。
「ロビッシュさんと別れた時に穴堀りを頼んだのを覚えていますか」
「黄」での散々な時間の後に出会った脱落者たちのごみ捨て場に、魚の骨が落ちていたとニーロは話した。
「噂はあったのです。『青』に魚がいて、獲る者がいるようだと。僕は見たことがなかったので、とても気になりました」
「よく気付きましたね」
「かすかに匂いも残っていたのです。調理をしたのだろうと思ったので、どこで魚を手に入れたのか聞きに行きました」
脱落者たちはなかなか教えてくれなかったと、ニーロはまた笑っている。
「魚はこの街では珍しいものですから、ひと儲けしたかったのでしょう」
「なるほど」
「代金を弾むと言ったら、採ってきてくれました」
「食べたのですか?」
「食べましたよ。幼い頃は魚ばかり食べていましたから、味は違いましたが懐かしい気分になりました」
意外なことに、ニーロは随分機嫌がいいようだ。ウィルフレドはなにも聞いてもいないのに、魚の思い出話をし始めている。
「ラーデン様と暮らしていた森の奥に、泉があったのです」
そこで魚を釣ったとか、釣ってもらったとか。そんなのどかな話になるだろうかと戦士は疑っている。
「そこで、魚を獲る練習をしました」
つかみ取りをしたのか。森の泉はあまり深くはなかったのか。そんな考えは案の定、あっさりと裏切られてしまう。
「最初の魔術の訓練です。眠っている魚を掴んで陸に上げろと言われて、最初はちっともできませんでした」
「なるほど」
「赤ん坊の頃からずっと教えているのだからできるはずだと怒られましたが……。今考えると随分無茶を言われていましたね」
それでもそのうち、魚を掴めるようになったとニーロは話した。
泳ぐ魚も取れるようになり、その後は泉に放り込まれるようになったという。
「『青』の最下層に行くために、水に慣れておけとラーデン様は言いました」
青年の今の年齢や口調からして、随分小さな頃の話のようだが、なんと容赦のない日々を生き抜いてきたのだろう。ニーロの強さの秘密はラーデンとの過去にあるのだろうが、現場を見たらきっと止めに入っただろうとウィルフレドは思う。
「ニーロ殿はその頃、何歳だったのですか」
「二歳だとか、三歳だったのではないかと思います。僕は自分の年齢をあまりよくわかっていません。今は十六歳だとカッカー様は言いますが、本当は違うのかもしれません」
年齢不詳の魔術師は、森の中で暮らした十年の間、水に放り込まれ、あらゆる草木に触れ、獣を追い払う術を教えこまれたと話した。
おそらく、少し違うだろうとウィルフレドは思う。魔術師ラーデンの「修行」としての時間と同じにするのは無理があるかもしれないと思ったが、目の前の青年にもちゃんと幼少期があったことに安堵のようなものを覚えて、こう答えた。
「私も子供の頃、川に入って魚を獲り、野山を駆け回り、獣を追いかけて過ごしていましたよ」
「そうなのですね。みな、子供の頃はそうやって過ごすものなのでしょうか」
「大勢が似たような暮らしをしていると思いますよ。王都のようなところで生まれ育った者は違うかもしれませんが」
村の子供たちと散々走り回って、空が暗くなるまで遊んだ日々が懐かしい。
見て来た景色は恐らく違うだろうが、ニーロも昔を思い出したようで、まっすぐ前を向いたままこう呟いた。
「訓練が終わると、ラーデン様が魚を焼いてくれました」
だから魚料理が出る店が出来たら、通うようになるかもしれない。
ひょっとしたら今日「青」の迷宮へ向かうのは、好物を食べたいからなのかもしれないとウィルフレドは考え、小さく笑った。
「へえ。これが迷宮で獲れた魚?」
「青」の迷宮で魚が採れる。
この事実は魔術師ニーロだけではなく、街の西側のとある厨房の主にも知られていた。
「そうだ。朝獲れたばかりの新鮮なもんだよ」
「どうかしてるな、『青』の迷宮で魚獲りなんて」
まだ開いていない店の奥で唸っているのは、最近「幸運の葉っぱ」に逗留するようになった探索者、ギアノ・グリアドだった。
入れてもらいたいパーティから仲間入りを保留され、気楽な一日仕事を探していて出会ったのが「コルディの青空」という名の店だ。
近くに雲の神殿があるからという理由でこんな名前を付けて、青を基調とした内装で高級感を出し、調査団や裕福な商人を相手にした店を営んでいる。
町の南西側に家が多く造られ始め、金払いのいい客を見込んでの営業はうまくいっていた。が、うまくいったからこそ、近くに新しい店がたくさんできてしまった。
いくつかの店としのぎを削るようになり、少しずつ売り上げが落ちてきてとうとう、審判の時がやってくる。
町の西側で今もっとも盛り上がっているホットな高級店。その名も「バルメザ・ターズ」。オーナーの名前をそのまま使うという聞いた覚えのない命名の仕方に、周囲の店主たちは笑ったという。
ところが「バルメザ・ターズ」は、ばかばかしいほどに豪華な店だった。
迷宮都市にも高級な店はいくつもあったが、それらが一瞬で過去になってしまうほど、今までにないすごい店だった。
どこで集めてきたのかわからないが、とにかく給仕の女性たちが皆驚くほどに美しい。迷宮都市の店で働くのはうら若い少女たちばかりだったのだが、今すぐ息子の嫁にくれと言いたくなるような妙齢の、洗練された美女たちがもてなしてくれる。それでたちまち評判になった。
そして、食事の間に催されるイベントだ。楽器を弾く者がいて、それにあわせて歌う者がいる。そんな催しをする店は初めてで、「バルメザ・ターズ」で食事をすれば、王都仕込みの演奏と歌で麗しの天上気分と、あっという間に噂になった。
夫の仕事にさほど興味のない豪商の妻たちがこぞって出かけるようになり、今では他の店にはもう見向きもしない。
このままでは店がつぶれてしまう。
悩める店主のもとに、ある日突然二人組の男が訪ねて来た。彼らは西側に住み着いている宿無しだったが、良い話があるとニヤつきながらこう話した。
「ここじゃ珍しい獲れたての魚だ。店で出したら、評判になると思わないか?」
どうやら汚らしい見た目のせいで他の店では話すら聞いてもらえなかったらしく、興味を示したバルディに熱心に売り込んできたという。
得意の料理で仕事にありつこうと考えてやって来たギアノだったが、「コルディの青空」の店主であるバルディの顔色は悪い。
「まずいんだ、この魚」
「そりゃ残念な話だね」
川も海も遠いラディケンヴィルスに、魚はほとんど持ち込まれない。珍味として干した物が運ばれてくることもあるが、数が少ないし、ほとんどが商人に買い取られ酒宴に使われてしまう。
確かに、魚料理を提供できれば話題になるかもしれない。バルディはそう考え、脱落者から魚をすべて買い取って、他の店には行かないように頼んだ。
ところが、どう調理してみても嫌な味がする。独特の匂いは耐えがたく、これを気に入る人間が存在するかどうかと思えるほどだ。
昨日はとうとう一人の客も来なかったから、秘密兵器をなんとか完成させて、有閑マダムたちを取り戻したいと考えているのに。
絶望にも似た気持ちで落ち込んでいるところにやってきたのが、料理の仕事を探しにやってきたギアノだった。
「お前さん、港町育ちなんだろう。この魚、うまい料理に仕上げるにはどうしたらいい?」
単純に調理人として雇ってもらえればと思っていたのに、店主の願いは思いのほか深刻でギアノは悩んだ。
「こんな形の魚、見たことないけど」
ただの魚とは違うということなのだろう、迷宮で出てくるのだから。
三匹並べられた魚はすべて種類が違うようだが、どれもこれも鱗が大きい。体は太かったり細かったり、長かったり短かったり。どれも目はぎょろりと大きくて、口の中には細かいギザギザとした歯のようなものが並んでいた。一匹は頭の上に鋭い角が生えている。触れてみるとひどく硬いが、叩いてみるとすぐに折れて崩れてしまった。
「どのくらい試したの。バルディさんは」
「焼いたし煮たし、蒸してもみたよ」
「どうやってもまずい?」
「まずいというか、臭いんだ。すごく嫌な臭いがする」
「持ってきた連中はどうやって食べてるの? 自分たちじゃ食べてないのかな」
「いや、食っているらしい。ちゃんとした食い物だから大丈夫だと言っていたから」
「味は度外視か」
そいつはまいったね、というのがギアノの素直な感想だった。
昨日買わされた分で作ったという料理の残りを出されて、匂いを嗅ぎ、焼いたものを口に入れて、すぐに吐き出す。
「臭え!」
「おい、吐き出すなよ、せっかくの魚を。酷い奴だな」
「これを食べさせる方が酷いよ。あんた料理人だろう?」
自分よりもずっと年上のバルディに思いっきり毒づいて、ギアノは水を求めて台所を彷徨った。
川だの海だのが近くになく、からっと乾いた土地であるラディケンヴィルスの生活を支えているのは、魔術師が作り出した「湧水の壺」だ。
迷宮が見つかり、調査団がやって来た時に、とにかく水がなくて苦労をしたという。
学者たちが話し合い、地面をあちこち掘り起こし、散々苦労した挙句開発されたのが、水が湧き出してくる魔術だ。
それから数十年、魔術の改良は進み、街のあちこちに湧水の壺を使った水場が設置されている。裕福な商人なら、小型のものを家にいくつか置く。そうでない者たちは金を出し合って壺を用意し、共同で使うようにする。知らずに勝手に使って怒られ、代金を請求されるといったトラブルは、街を訪れたばかりの初心者にはよくある話だ。
湧水の魔術を覚えれば、絶対に食いっぱぐれずに済む。なので、探索から引退したくなった魔術師は湧水の術をまず覚えるという。
この壺は便利だが、造り手によって水の湧く量は違い、腕の悪い魔術師の造ったものは早くに枯れて使えなくなってしまう。
迷宮都市で最も豊富な水を出す壺を作るのがホーカ・ヒーカムという女魔術師であり、高額の授業料と安定した壺の売り上げのお陰で彼女の屋敷は大変に立派なものになったらしい。
「口の中に味が残るじゃないか」
かなりの量の水をもらったが、苦いわエグいわ泥臭いわ、不快な要素はすべて消えずに残っている。
「ほら、これを噛みな」
「なんだよ、これ」
「俺も口の中が臭くてたまらなくてな。いろいろ試した。これが一番効果がある」
「紫」の迷宮で採れる、強青草の茎だとバルディは説明してくれた。
疲労回復の薬の材料の一つだが、必要なのは葉だけで、茎は捨ててしまうらしい。
料理に添えたら見栄えがよくなるのではともらってきたが、これまた匂いが強くて使えずにほったらかしにしており、魚の臭みを消そうとあれこれ口に入れていて、気が付いたのだという。
「お、確かに。だいぶマシになってきたな」
茎を噛んでみると、口の中がすーっと冷えていくような感覚があった。
咥えているうちに冷えるどころではない刺激が襲ってきて、ギアノは慌てて吐き出し、またバルディに怒られる。
「おい、人の店の厨房で吐くな、お前!」
「しょうがないだろう。この臭え料理をなんとかできないか相談してきたのはそっちじゃないか」
仕方なく吐き出した茎を拾って、ギアノはしばらく、強青草のなれの果てを眺めた。
「これ、『紫』で採れるの?」
「そうらしい。ほら、料理に使う野菜だって高いだろう? この街のおかげで農村の奴らも随分儲かるようになっただろうに、値段をじわじわ上げてきやがって。芋を諦めて帰る時に、薬草の業者の店の辺りを通ったんだ。一瞬、野菜の市場かと思った。それで閃いたんだな、俺は。料理に使えるんじゃないかって」
「疲れてんだな、気の毒に」
「なんだ、お前さんは偉そうに! 葉っぱの野菜だってあるだろうが!」
「そうだな、悪かったよ。料理をきれいな葉っぱで飾るときれいだもんな」
バルディはむっとした顔で黙り込み、荒々しく椅子に座った。
言い過ぎたかなと思いつつ、ギアノは茎を眺め、厨房に並んでいる材料に目を移した。
「ほかにもあるの、迷宮で採れる草は」
「ある」
簡潔な返事に笑いながら、ギアノは小さな籠を見つけて手に取った。
黄色や赤、青、緑、黒い斑点のついた怪しげな葉や茎が入っていて、匂いを確認していく。
見覚えのあるものも、初めて見るものも混じっている。いい香りだったり、妙な形をしていたり、チクチクしていたり、業者の連中は大変だと考えながら、ギアノはふと気が付いた。
「強烈だな、これ」
「どれだい」
「これだ。不気味な色だな、うわ、気持ち悪い」
長い茎の先に小さな葉が一枚。形はいいが、茎の下部分は紫がかった黒で、葉に近づくにつれて青くなっていく。葉っぱは急に白という配色で、とてつもなく不気味な植物だった。
ギアノが草を放り出したので、バルディはまた怒った。謝りながら落とした不気味草を拾い上げ、もう一度匂いを嗅いでいく。
「触っても平気だよね?」
「危険なものはちゃんと処理してるんだ、業者の連中は。ヘンなものを素人に渡したりはしないだろうよ」
かなり強いが、香り自体は爽やかだった。頭の中を掃除されるような感覚に、口の中の雑味が追いやられていく。
「なんて草なの、これ」
バルディは知らないらしく、肩をすくめている。
「どんな効果があるのかね。こういう草で臭いを消せないかな」
「なるほど。やってくれるか、ピアッチョ」
「誰だよピアッチョって。名乗ったよね、ギアノだよ」
「ピアッチョじゃなかったのか?」
よく似た顔のピアッチョと勘違いしていたとバルディは言い訳して、ギアノの馴れ馴れしい口調のせいだからと少しだけ初対面の探索者を責めた。
よくあるタイプの顔をしている自覚のあるギアノは、またかと思いつつ、バルディと交渉していく。
魚のメニュー開発が絶対にうまくいくと約束はできないが、やってみようとは思っていた。
実家の食堂は故郷では長年愛され続けている人気店で、父の作る魚料理は絶品だと漁師たちはいつでも笑っている。
叔父の猟にも付き合ったが、常連たちに連れられて漁にも出ていたし、両親と一緒に厨房にも立った。
あっさりと諦めるなんて、沽券にかかわる。
「できるかわからないのに給料を出せっていうのか、ピアノは」
「ギアノな。できるかわからないけど、この店の為に働くんだから。完成しなかったとしても、なにかの参考になるかもしれないだろ?」
交渉を重ねて、材料費はバルディが持ち、かなり抑えた額だが日給がでるよう約束させた。
いいメニューが完成した時にはボーナスが出るよう取り決めて、簡単な書面にしてまとめていく。
「しっかりしてるんだな、ギアッチは」
「ギアノだって言ってるだろ」
迷宮で採れた薬草を使ってみようとギアノは考えていた。
迷宮で獲れる魚は見た目も味も強烈なのだから、思い切った、普通とは違うやり方が必要だろう。
業者に聞けば効果や味、未知のものも教えてもらえるかもしれない。
「業者のところに聞きに行ってくるよ。どこでこれをもらってきたの、バルディさんは」
「アードウの店だよ」
「店の名前は?」
「だから、アードウの店だ」
へえ、と答えてギアノは自分の荷物をまとめた。ナントカ商会、商店と名前を付ける業者は多いのに、アードウはそうではないようだ。
「ジアノ、店を開ける時の手伝いも頼めるかい」
「どんだけ働かせる気だよ、俺を」
「成果が出ないかもしれないのに……」
「魚メニューの開発だよ、頼まれたのは」
最後に名前を訂正してから、ギアノは「コルディの青空」を出た。
薬草の店は街の中央から北側にあるが、薬草を採集して薬として調合する場所は南側に集中しているらしい。
辺りを見回しながら歩いて行くと、件の「バルメザ・ターズ」が見えてきてギアノは唸った。
外観からして、他の店とは違い過ぎる。いつの間にこんな立派な店が作られたのか。宮殿のような柱が何本も立っているし、看板も宝石がつけられているのかキラキラ輝いていてとにかく目立つ。
今はまだ営業をしていないようだが、店の前には大きな馬車が止まっていて、大勢の男が荷の積み下ろしに励んでいた。
「普通のメニューじゃ勝てないぞ、これは」
引き受けたのは間違いだったかもしれない。微かな後悔を覚えながらも、ギアノは南へと進んでいった。




