60 動揺の日
「ハクスは大勢を助けてまわっていたが、最も大切にしていたのは共に迷宮へ向かう仲間たちだった」
だから、何度止めても行きたがったのだろう。
昨日の勢いはどこに消えたのか、タグロンの声はひどく小さい。
「すまなかった」
神官長たちは互いの手を取り、同じ祈りの言葉を紡いでいる。
ひょっとしたら、キーレイの悩みはこれでひとつ減ったのかもしれない。
そう思える光景に、四人の初心者たちもほっとしていた。
「あの、キーレイさん、すみませんでした、大事な術符を使わせちゃって」
屋敷へ戻るために再び歩きだし、コルフはまずキーレイにこう声をかけた。
樹木の神官長はなんとも頼りない足取りで歩きながら、四人に向けて笑いかけてくる。
「報酬のない探索なんて嫌なものだろう」
確かに、今までにない挑戦ではあった。
ずいぶん多くの魔法生物を倒したのに、皮も肉もすべて置き去りにして、今手にしているのはタグロンがくれた一食分の食事だけだ。
けれど、今までにない経験ができた。
迷宮で人を探すのはとても難しいし、迷宮の中をひょいひょいと歩き回れる者がいることがわかった。
薬草を専門にする業者たちは、敵を追い払う秘密の薬を持っていると知った。
神官の奇跡は大勢を癒してくれるありがたい存在なのに、それを望まない者もいるらしい。
「キーレイさん、いろいろとその、術符以外にも使ってくれましたよね」
朝早くから探索の為の準備を済ませてくれたのは神官長で、カミルたちは何も用意していない。
途中でくれた菓子も、見たことのないものだった。おそらくは高価なものだ。
気力を取り戻す薬だって、初めて飲んでいる。コルフは店で見かけたことがあったが、こちらも値が張る。
請求されたら支払えないかもしれない。カミルとコルフは不安な思いでいたが、キーレイはただ首を振るだけだ。
「タグロン様があんな無茶を言ったのは、私の顔がチラついたからだよ。気にしなくていい」
消耗しただろうから、しっかり休みなさい。
屋敷のそばに着いたところで、キーレイはそう言って、ため息をひとつ吐き出している。
「ひとつだけいいかな」
「なんでも言ってください」
「少し疲れてしまったから、明日まで休ませて欲しいと神殿の誰かに伝えてくれないか。明日の朝ではなくて、明日いっぱい休むと」
「お安い御用です」
ティーオは勢いよく頷いて、樹木の神殿へ駆けだしていってしまう。
続こうとする残った三人の若者に、キーレイは慌てて更に声をかけた。
「もしニーロに会うことがあったら、同じように伝えてくれ!」
「緑」の探索を終えた初心者たちは、樹木の神官長との約束をちゃんと守った。
ニーロが夜になってキーレイの部屋へやってきたのは、フェリクスたちと出会うことがなかったからだ。
この日も屋敷へ勝手に入って来た魔術師は、キーレイの肩をそっと揺らした。
「……ニーロか」
「お疲れですか」
月明りしか入ってこない部屋の中は薄暗く、ニーロは立ち上がると明かりをつけて、キーレイのもとに戻った。
いつもならば、単純に睡眠が足りていないだけならば、キーレイはこれで必ず起きる。
どんなに眠たくても人前で横になり続けたりしないのは育ちの良さの賜物で、マリートとは違う。
そのはずが、キーレイはベッドの上でまだぐったりと横たわっていて、ニーロは首を傾げた。
「どうしたんですか、キーレイさん」
ベッドの端に腰を下ろし、神官の頭の上に手を置く。
キーレイは横たわったまま、魔術師へ顔を向けた。
「酷い顔をしていますよ」
「そうか」
せっかく上げたのに、キーレイの顔はぐったりとベッドの上に落ちていく。
「ニーロに言われるなんて、相当なんだな」
「なにがありましたか?」
「疲れているとわかったなら、休ませるべきだぞ」
常識のない魔術師はこれだから困る、とキーレイは言いたい。
だが、普通ではない魔術師は、神官の状態の深刻さに気が付いたようだ。
「単純な疲労には見えませんが」
そう。たかだか一人を生き返らせるだけなら、ここまで疲れ果てたりはしない。
これまでの経験から、キーレイには今日の異常さがよくわかっている。
酷い傷を癒し、ちぎれた腕を繋ぎ直した上での復活ですら、ここまでの消耗はないはずだ。
皿の神殿からの帰り道を、よく歩き通せた。
こんなにも足に力が入らなかったことなど、長い迷宮都市での暮らしの中にはなく、キーレイ自身も不思議で仕方がない。
「生き返りに失敗したんだ」
「珍しいですね」
「単純な失敗ではなかったと思う。……拒まれたような感覚があった」
話している間に、気を失ってしまいそうだった。
そんな神官の手を取り、ニーロはなぜか、強く握っている。
魔術師の手は冷たくて、それで少し意識が戻ったようにキーレイは思った。
「仲間を迷宮で失っている男で、『緑』を一人で降りて、その果てに命を落としていて」
博愛のハクスについて、ニーロは知らないだろう。
彼が名を挙げていたのは随分昔の話。神殿へ修行へ行くようになったのはキーレイが十四歳の頃だから、ハクスの悲劇が起きたのは十二、三年前のことだ。
「あそこはきっと、仲間を失った場所なんだ」
そうでなければ、あんな安らかな顔をするだろうか。
どうしても十六層目の、あの場所でなければならなかったのではないか。
体中に傷があった。背中には特に深い傷があった。十五層にあった血だまりから、よく進んでいけたと思うほどだ。
「あそこで死にたかったのだろうと、思った」
キーレイの呟くような告白に、ニーロは穏やかな声で問う。
「違っていたのですね」
渦の中ですべてを失ってしまったハクスは、罪の意識に囚われ、気が触れてしまった。
何度遠ざけても迷宮へ向かおうとするハクスの扱いについて、タグロンは随分悩んだようであった。
「わからない」
体を起こそうとしたが、力が入らない。
中途半端なところで脱力して、ニーロの膝の上に顔を乗せた形になってしまった。
魔術師は嫌なようで、容赦なくキーレイの頭を押してきたが、面倒になったのか途中で手を引っ込めている。
「なにがわからないのですか、キーレイさん」
冷静な魔術師は、足まで冷たいらしい。
ひんやりとしたニーロの膝の上で、キーレイは答えを探している。
「行きたかったのではなく、呼ばれたのではないかな」
蔦が這い、花を咲かせる緑色の渦の中から、ハクスの仲間たちが彼に来るように呼び掛けていたのではないか。
そう思えるのは、生き返らせようとした時にあった異様な感覚のせいだ。
「引きずりこまれそうだった」
この世から魂が去って行く先は、神の膝元だと思っていたのに。
深く底のない闇から手が伸びてきて、髪や足の先に触れ、掴まれそうになったように感じた。
「死んでしまった者も、捨てたものも、みんなあそこに行くのか」
自分の声がニーロに届いているのか、キーレイにはわからなかった。
意識があるのか、起きているのか、顔の下から感じていた冷たさも薄れてきて、よくわからない。
「ニーロ、お前は聞いているんじゃないのか、迷宮の奥から、死者の声を……」
「神官にあるまじき発言ですね、キーレイさん」
膝の上で朦朧とするキーレイの髪を、ニーロはゆっくりと撫でていく。
すると途切れかけていた呼吸はゆっくりと整っていき、冷たくなった頬にも熱が取り戻されていった。
頭を膝の上から下ろし、キーレイをベッドの上にまっすぐに寝かせ、ニーロは立ち上がった。
勝手につけた灯りを消して、横たわる神官のもとへ戻ってこう囁く。
「回復したら『白』か『黒』に付き合ってくださいね」
最下層まで行きますからと聞こえた気がして、キーレイは小さく笑った。
同じ頃、へとへとの神官長と共に短い旅をした四人の初心者たちは、それぞれの部屋でぐっすりと休んでいた。
フェリクスたちの部屋には、ヨンケの後に更にもう一人新入りが入っていて、そわそわとした空気に満ちている。
新入りのパントはヨンケと一緒になって、帰って来たルームメイトがなにをしてきたのか、これからどうしていくのがベストなのか聞きたがったが、そんな触れ合いを許してくれるほど、この日の疲労は軽いものではなかった。
泥のように眠って、朝。
起きる時間はいつもより遅く、フェリクスたちの部屋に新入りの姿は既にない。
大抵はフェリクスたちより早く活動を始めているのに、カミルとコルフもまだ寝こけていた。
「言われちゃったよな、キーレイさんに」
体に残る倦怠感のせいで、四人とも表情に締まりがない。
食堂の隅で、残り物を並べてため息をついている。
マスター・ピピを連れて行ってしまったのは、自分たちだけの落ち度ではない。
神殿同士の揉め事にならずに済んだのは幸いだったが、迷宮の十六層目に広がっていた光景は心に強く焼き付いてしまっている。
置き去りの罪悪感に悩んできたフェリクスも、知った顔の人間が死んでいる様は初めて目にしていて、どうして自分が探索者などというものになったのかすっかりわからなくなっていた。
そんな傷心を抱えながら、カッカーの屋敷からの卒業について考えるのは辛すぎる。
フェリクスだけではなく、この話題を切り出した張本人であるはずのカミルもため息をついていた。
「貸家って高いんだっけ」
「俺、そんなの調べたことすらないよ」
ティーオが呟き、コルフも同意している。
「いきなり貸家っていうのは無理じゃないのかな。最初は安い宿でコツコツやっていくしかないだろう」
カミルはこう話したが、決意が固まっているわけでもない。
「その前に神官問題だよね。固定の仲間になってくれる神官って、もしかしたらいないんじゃないの?」
「……博愛のハクスは、組んでいたみたいだけど」
コルフの返事に、四人を包んでいた空気はますますじっとりと重くなっている。
形の悪いパンはちぎられたきりで、誰も食べない。皿に浅く注がれたスープも、ぬるくなるばかりでちっとも減らなかった。
「随分景気の悪い顔をしているわね」
大勢の食事が終わっているからか、ヴァージが現れて片づけをし始めている。
隅で落ち込む四人の姿に薄く笑って、元気を出しなさい、と囁いてくれた。
美しい女性の優しい言葉は、それだけで若者に力を与えてくれるものだ。
「ヴァージさん、貸家を借りるのに必要なものって、なにかあるんでしょうか?」
「貸家……は、あなたたちにはまだ早そうだけど」
家主の妻は大きな瞳を明後日の方向へむけて、考えを巡らせている。
少し尖らせた赤い唇は見事な艶めき具合で、カミルとコルフはカッカーがうらやましくてたまらない。
「最初に必要なのは、もちろんお金ね。所有者にもよるけれど、大抵は最初に半年分の料金を払わないといけないの」
「半年分?」
「二か月だとか、三か月分でいいという人もいるわ。それと、引き取り人を決めて欲しいと言われる場合もあるわよ」
「なんですか、引き取り人というのは」
「借り手が長い間戻ってこなければ、空き家に戻してしまうの」
そうなれば、荷物を処分しなければならない。
高く売れるものばかりを持っている探索者などいない。着替えだの、汚れた鍋だの、穴の開いた袋だのが山のように残るのが常で、貸家の持ち主の悩みの種になるという。
「後片付けを引き受けてくれる誰かを用意しろって話。大抵は、交流のある探索者に頼んだりするみたい。万が一の時に知らせて欲しい人だとか、届けてほしい物についても話しておくようにするみたいだけど」
ただ、頼まれた側がいなくなることも多く、あまり意味のない取り決めになっているのが実情だった。
なので最近、貸家の後始末を仕事にする者も現れている。彼らに代金を支払うことで、引き取り人を指定しなくてもよくなってきたのだとヴァージは教えてくれた。
家主の美しい妻と長い時間話したのは初めてのことで、若者たちはどこからか漂う甘い香りにうっとりしている。
そんな反応をされるのは慣れっこらしく、ヴァージの表情は優しい。
「貸家を検討できるくらい、成長してきたのね」
迷宮都市暮らしも、探索も、しっかりやっているみたいだから。
美女に褒められるとは、なんと幸せなことなのだろう。カミルとコルフはありがたくて涙が出る寸前だ。
「そういえば昨日、貸家のことをウィルフレドにも聞かれたわね」
「え、ウィルフレド、ニーロさんの家を出るの?」
「違うんじゃないかしら。ただ、どのくらいかかるのか知りたかっただけだったみたい」
テーブルの上を拭く動作がこんなにも魅力的なものだとは。
ぼんやりとするコルフの腕を、フェリクスが叩く。
そのあたりはあなたたちが片付けておいてね。
ヴァージは子供の泣き声に呼ばれて去って行く。
「行っちゃった……」
「じろじろ見すぎだぞ、コルフ」
あんなにきれいな人を他で見たことがあるかい、とコルフが呟き、ティーオもフェリクスも心の中では納得している。
「ウィルフレド、貸家に移るのかな」
「最近稼いでいそうだもんな。ニーロさんたちと深いところまで行って、珍しいものをたくさん手に入れているのかも」
「貸家より、売家はもっと高いんだろうな」
「そりゃそうだ。でも売家って、貸家よりも狭くないか?」
ようやくちびちびと食事を進めながら、四人は思いついたあれこれについて口に出していく。
「貸家は何人かで共同生活するために広くて、売家は一人か二人用のものが多いんじゃなかったかな」
建設現場での労働をよくしているティーオは、いつだったか一緒に働いた親方に聞いた話を思い出していた。
探索に行くには五人がいいが、腕のいい探索者は、資産ができたら個人の生活を重視するようになると。
「それでほら、女の人も家に呼べるようになるし。へへ。それにたくさん稼いだら、探索者はもうやめるんだって。そういう時は一人の方が動きやすいんだろうって親方が言ってたよ」
「ニーロさんもマリートさんも、一人で暮らしているもんなあ」
「ニーロさんのところにはウィルフレドがいるじゃないか」
「あれは居候しているだけなんだろう。ウィルフレドは確かにすごいけど、お金は持ってなかったもんな」
スープの皿が空になり、パンはもう小さなかけらしか残っていない。
食べ終わってみれば満腹にはほど遠くて、四人は物足りない気分になっている。
「別に一緒に探索に行かなくても、同じ貸家で暮らすっていうのは……?」
カミルがぼそりと呟き、鹿肉のシチューに思いを馳せていたコルフは、はっと気づいた。
「そうか、貸家の代金は全員で払うんだもんな。全員で一万とか、用意できればいいわけだ」
「コルフ、もしかして……」
カミルのにやりと笑った顔に、コルフは頷く。
「ウィルフレドに聞いてみないか? 五人で貸家はどうだろうって」
「俺たちと暮らしたいなんて言うかな?」
フェリクスの疑問は尤もだが、カミルとコルフの意見は一致している。
そんなの、聞いてみなけりゃわからない。
「一緒に暮らすだけなら、ニーロさんよりマシかもよ」
時々おいてけぼりにされてるみたいだし、とコルフは言う。
皿を運んで洗い、テーブルの上に落ちたパンくずを拾い、四人は出かける支度を済ませていく。
「行ってみよう」
今日は探索に行く気分ではない。神官探しは休みたい。難しいことを考えたくない。
四人の若者はそんな逃避にも似た思いを抱えていたので、まっすぐにニーロの家へ向かった。
扉を叩くと、出て来たのはウィルフレドで、四人の訪問に驚きつつも歓迎してくれている。
「どうした、四人揃って」
「良かった、家にいて。貸家を借りようと思ってるのかなって、ヴァージさんにちょっと聞いてさ」
考えなしにずばっと切り出したティーオの台詞に、ウィルフレドの顔は少し曇った。
ゆっくりと視線を右にやって、しばらくの間無言のまま、動かなかった。
「あ」
ティーオが唸って、三人も気づく。視線の先におそらく、家主であるニーロがいるのだ。
あの気ままな魔術師はどこかに行っているのだろうと、どこかで決めつけてしまっていた。
ウィルフレドの視線がゆっくりと動いていく。右に向いたまま、少しずつ近づいてくるものを見つめている。
「貸家を探しているのですか」
声は聞こえたが、姿は見えない。
「いえ、単に相場を知りたかっただけで」
「住む場所は自分で用意するのが一番です。必要なら、家を取り扱う業者を紹介しましょう。多少は融通を利かせてもらえますから、いつでも言ってください」
ウィルフレドの思惑はわからないままだ。髭の戦士は小さく頷くだけで、具体的な話にはつながらない。
すると戦士の大きな体の向こうからニーロがひょいと顔を出して、四人をじっと見つめた。
「ニーロさん」
四人は口々に、同年代の魔術師に挨拶の言葉を投げた。ニーロは「こんにちは」などと言わないようで、しばらく初心者たちをじっくりと眺めてから、唐突に質問を投げかけて来た。
「昨日、キーレイさんと『緑』に行きましたか?」
「はい、ええと、昨日というか、一昨日から行って昨日、帰りました。あの、今日いっぱい休ませて欲しいって、キーレイさんが」
ニーロは深く頷いている。
神官が疲れ果てているのを知っているような様子で、遅かったか、とフェリクスは思った。
「なにがあったか、見ていましたか?」
「え?」
「生き返りの時になにがあったか、あなた方は見ていましたか」
カミルは首を振り、ティーオとフェリクスも同じように否定をした。
見ていた可能性があるのは、コルフだけだ。
仲間たちから視線を向けられ、駆け出しの魔術師は慌てて記憶を探った。
「俺も全部見ていたわけではないんです。なにかあったら術符を使うように言われていて」
「構いませんよ。見ている間、おかしなことはありませんでしたか?」
生き返りの奇跡を目の当たりにできると思って、あんな場面だったのに興奮していた。
そう言うのは憚られるが、滅多にない機会だと嬉しく思っていた。
キーレイが祈りの言葉を口にすると、白い輝きの粒が現れ、集まっていった。
マスター・ピピを包んでいったのを見た。
見とれている場合ではないと思って、術符を確認した。浮かび上がる文字は白い光のせいで薄れていて、不安になった。
「生き返りを見たのは初めてだったので、普通はどうなるものか、知らないんですけど」
このタイミングで質問しても許されるのか悩みながら神官たちへ視線を戻すと、白い光は一瞬で掻き消えて、キーレイが弾かれるように後ろに倒れた。
「後ろに倒れたのですか?」
「はい、そうです。後ろにこんな感じで」
マスター・ピピの前に跪いていたのに、飛ばされたかのように背中から床に落ちていた。
ぴょんと飛ぶように再現をして、びっくりしたことまで話していく。
「それで慌てて、術符を読んだんです」
「キーレイさんはその後、どんな様子でしたか」
「すぐに目を覚ましたけど、ちょっとフラフラしていたかな」
「ちょっとじゃないだろ。みんなで手を貸さないと倒れそうだったのに」
皿の神殿ではしゃっきりとしてタグロンと話をつけてくれたが、その後は随分辛そうだった。
そう話すと、ニーロは満足したようで「わかりました」と言って、家の中に入っていってしまった。
「なんか、ごめん、ウィルフレド」
「大丈夫だ。貸家の話だが、借りる気はないんだ。少し考えてはみたのだが、まだ現実的ではなくて」
「そっか。まだそんなにお金もないよね」
髭の戦士が頷いて話は終わり、四人はニーロの家を後にした。
せっかくここまで来たのだから、見学でもしてみようかと住宅街をぶらぶらと歩いていく。
上級探索者たちの集うトゥメレン通りは、ティーオが言った通り、少し小さいがしっかりとした造りの家が並んでいて、整然としている。
その向かいにある貸家街に向かうと、一目瞭然だった。
家は大きいが、壁に使われている素材が安っぽい。バケツや棒、焦げついた鍋などがところどころに落ちていて、通りそのものが小汚い。
「どこか良さそうな宿も探しながら、まずは資金を貯めないとね」
コルフの意見に、全員が同意していく。
先立つものができなければ、どんなところであろうと入居などできやしないのだから。
「そうだ、忘れてた」
樹木の神殿に祈りに行こうとカミルは言う。あれだけ世話になったのだから、たまには真剣に感謝を捧げようじゃないかと。
反対意見はなく、四人は樹木の神殿へと歩いて行く。
寄付するほどの手持ちはないので、それについてはまた後日、と話しながら西に向かって進んでいく。
屋敷の隣に立つ神殿は、よく見てみればなんとも荘厳で、神秘的な建物だった。
少なくともこの日の四人はそう思って、入り口に立つ神官へ丁寧に頭を下げて中に入っていった。
すると、並んだ長椅子の中に一人、座っている誰かがいた。
その後ろ姿、赤い髪には見覚えがあり、フェリクスが叫ぶ。
「アデルミラ!」
なに、とばかりに三人も駆け出すと、座っていた誰かが立ち上がり、焦った様子で振り返る。
「嘘だろ、俺、後ろからみてもアデルに似てるのか?」
神殿にいたのは麗しい雲の神官ではなく、その兄のアダルツォだった。
フェリクスは明らかに落胆したようで、ティーオは背中をなでてやっている。
「せっかく戻ったのに。なにしに来たの、アダルツォは」
コルフの言い方は鋭く、アダルツォは口をへの字に曲げたが、やはり顔立ちは妹によく似ていてどこか愛らしい。
「そんな言い方はないだろう。確かに世話になったけどさ……」
ぶつぶつと文句を言いながら、不肖の兄は、フェリクスというのは誰かと四人に尋ねた。
「俺だけど」
「アデルから手紙を預かって来た。それと、ちょっといいかな」
秘密の話なんだ、とアダルツォは話した。
馬鹿正直なやつだと、カミルは呆れている。
三人から少し離れると、アダルツォはフェリクスの顔をまじまじと見つめてから、こう切り出した。
「妹がいるんだって?」
「アデルミラから聞いたのか」
「まあね。それでちょっと、事情があってさ。フェリクスの妹の名を知りたいんだ」
「なぜ?」
「アデルに頼まれたんだよ」
「事情というのは……」
「いいじゃないか。内緒なんだ。いろいろあるんだ。言えないんだよ」
多くの借金を負ってしまったのもこの正直さのせいではないのか。
考え込むフェリクスへ、アダルツォは雲の神に仕えるものがする祈りの形を作ってみせる。
「アデルを信じてくれないか。手紙だと誰かに見られてしまうかもしれないから、直接聞いてきて欲しいと頼まれたんだ」
「アデルミラに?」
「そうだよ。あいつが自分で行くと言い出して、慌てて止めたんだ。一人旅なんて危ないだろうって」
「そうだったのか、ありがとう」
「わかったんなら教えてくれ。そっと、誰にも聞こえないように」
耳にかかっていた髪をよけて、アダルツォは顔の向きを逸らしていく。
アデルミラの優しい笑顔は、信じていいものだと思える。
短い時間を共にした雲の神官の少女を思い出しながら、フェリクスは少し悩んだものの、大切な名前をアダルツォに打ち明けた。
「アデルは君たちの無事を祈っていたから、今日こうして会えて本当に良かったよ。なにかあれば伝えるから」
ティーオは無邪気に、元気で過ごしているかい、俺は元気いっぱいだよ、などと言っている。
コルフは無難な言葉をひねり出して伝え、カミルは腕組みをして考え込んでいる。
「君は、なにもない?」
アダルツォはすぐに帰るらしい。急かすように問われて、駆け出しのスカウトはこう答えた。
「アダルツォって神官なのかい」
「俺? 俺はまあ、そうだよ。神官さ。まあ、あんまり熱心じゃあないし、あんな暮らしを長くしていて、修行をやりなおせってめちゃくちゃ怒られて、神殿でこき使われる毎日だけどね」
「もう探索者はやめた?」
「うっ……」
妹と同じ雲の神に仕える者なのに、兄からはどうにも浮わついた気配が漏れ出している。
カミルはにやりと笑って、アダルツォのひじを何度かつついた。
「もしも戻ってくるなら、声をかけてほしい。俺たちは今、仲間になってくれる神官を探しているんだ」
「やめてくれ、そんな。俺はこの街で失敗したんだ。失敗というか、大失敗だよ。ろくでもない暮らしに身を落として、雲の神に呆れられてるんだから!」
あわあわとしながら荷物を拾い上げ、アダルツォは去って行ってしまった。
「まだなにも伝えてないのに」
「ごめん、フェリクス。あんなに慌てるなんて思わなかったから」
二人分の伝言しか聞いていない理由を、ちゃんとアデルミラに話せるだろうか。
アダルツォの様子をひとしきり笑ったあと、やっと本来の目的について思い出し、四人は樹木の神殿で祈りの時間を過ごした。
「アデルミラ、なんだって?」
屋敷の食堂に戻って手紙を広げてみると、簡単な近況と、探索者たちの暮らしに神の加護があるようにとしか書かれていなかった。アダルツォが必死になって隠した秘密については触れられておらず、どういう用事なのかは謎のままだ。
「戻ってきてくれたらいいよねえ」
「お母さんの病気は?」
「なにも書いてない」
良くなったのなら、良くなったと書きそうなものなのに。
優しい微笑みが思い出されて、四人はそれぞれにアデルミラについて思い出している。
「あのう」
窓の外に雲を探す四人の背後から声がかかり、振り返ると見覚えのある青年が立っていた。
「ティーオさん」
キーレイの家の下働きであるバロウは、身を縮めるようにして探索初心者たちの様子を窺っている。
「誰だいティーオ」
「コルフ、一昨日会ったじゃないか、キーレイさんのとこの人だよ」
こそこそと話すカミルとコルフには構わず、バロウは申し訳なさそうにこう話した。
「キーレイ様に頼まれてきました。あの、お預かりしていたお嬢さんなんですが、そのう……、いなくなってしまいまして」
そんな馬鹿な。いつ。どうして。一体どこに――。
言いたいことが一気に溢れ出してしまったせいか、ティーオは口をぱくぱくさせた挙句ひっくり返って、三人はしばらく介抱に追われた。




