59 感傷的な選択
十二層目の泉で疲労を癒し、眠気を感じながらも先へと進んでいく。
とうとう十三層目へ降りる階段にたどり着いたが、神官モルディアスは見つからなかった。
戻るしかない。昨日と同じ無力感に襲われながら、カミルは考えている。
隣に立つティーオは、ここまでの道のりの虚しさが耐えられないのか、こんなことを言い出している。
「もしかしたら、この通路の向こうにいるかもしれないよな」
階段へ至る道の手前に、分かれ道があった。
自分たちが選ばなかった道の先は、目の前にある壁の向こうに繋がっている。
違う道の果てに、ひょっとしたらマスター・ピピがいるかもしれない。
「もう夜になっているだろうから、夜明かしをして戻ろう」
若者の肩を優しく叩いて、キーレイは近くにある休憩用のスペースへ向かうよう話した。
すべての道をしらみつぶしにするわけにはいかないのだから。
樹木の神官が交渉してくれたのだから、これで終わりにしなければいけない。
四人はとぼとぼと歩いて、ちょうどいい出っ張りへと向かう。
十層目で休憩をした時に気が付いたが、キーレイは地図がなくとも道のり、罠の位置がわかるようだ。
気落ちしている初心者たちの先頭に立って、道案内をしてくれている。
「ティーオ、あれを使ったらいいんじゃないか。持ってきているよな」
ぽっかりと空いたスペースでフェリクスに言われて、ニーロから譲られた炭を取り出し、おそるおそる床に線を描いていく。
ティーオが震える線を描く様子を、キーレイは不思議そうに眺めた。
「それはなんだい」
「ニーロさんにもらったんです。これで線を描いたら、魔法生物が入ってこれなくなるって」
「そんな道具が?」
キーレイが探索に行く時には開発者であるニーロ本人がついてくるはずで、こんな道具を使うことはないのだろう。
「そんな貴重そうなもの、ティーオはどうやってもらったんだい」
コルフに問われ、どう説明したものか若者は悩む。
フェリクスには知られたが、カミルとコルフには術符の独り占めについては話していない。
「みんな、もう休んでくれ。その線があるなら大丈夫なんだろう」
四人が座り込んだところで、キーレイは突然こんなことを言い出した。
「そろそろ業者が通りかかる頃だろうから、階段のところまで行ってくる」
「業者って、そんなのわかります?」
「十七層に白耳草が大量に採れるところがあるんだ。これ目当ての業者は多くて、毎日必ず何組かいるはずでね」
今がちょうど戻ってくる時間帯だと、キーレイは言う。
十三層よりも下で見かけた可能性があるかもしれないから、確認したいのだと。
「あの、だったら俺たちも一緒に行きます」
フェリクスがこう言い出して、ティーオは驚いていた。カミルは少しうんざりし、コルフは感心している。
「私のことは心配いらない。話を聞いたらすぐにここへ戻るから」
「でも……」
確かに、キーレイは「緑」に慣れているのだろう。
ここは特別だと言うだけあって、自分のいる位置も、進むべき道もすべて承知しながら歩いているのだとわかる。
けれどこの探索に来たのは、自分たちのミスがあったからだ。
マスター・ピピの様子はおかしかったのだから、そもそも連れていくべきではなかった。
時には指示を無視したのだから、三層で悩んだ時に戻れば良かったし、六層では泉に浮かれて見失ってしまった。
考え直すチャンスは何度もあったが、逃してしまった。
今朝、もしもタグロンが自分たちのところへ怒鳴り込んできたら、どうなっていただろう。
たまたま因縁があってキーレイに矛先が向いたらしいが、屋敷の方へ来ていたら?
カッカーか、ヴァージがなんとかしてくれただろうか。
頼れる人などいなくて、マスター・ピピを絶対に連れ戻せなんて無茶な約束をさせられていたのではないか。
「どんな探索も、必ず探索者の想像を超えていくんでしょう。誰かいれば、なにか起きた時に助かるかもしれないですし」
説得力のない言葉だった。
フェリクスはそう感じていたが、キーレイは穏やかな顔で微笑んでいる。
「そうか。では、一緒に行こう」
樹木の神官はまた若者たちの額に手をあてて、小さな声で祈りを捧げた。
頭が冴える効果があるのか、鈍い感覚が取り去られていく。
再び十三層へ続く階段へ戻ると、すぐに下から声が聞こえて来た。キーレイの言った通り、目当ての草を採り終えた業者が戻ってきたのだ。
「おお、リシュラの坊ちゃん」
知り合いだったようで、顔中髭だらけの男が声をかけてくる。
後ろに続いている三人は大きな籠を担いでいる。布がかけられていて中身は見えないが、ずっしりと重たそうにぶら下がっている。
「途中で皿の神官をみかけなかっただろうか。背は低くて、どうやら体が丸いようなんだけど」
「なんですかい、丸いって」
キーレイの説明に業者は笑ったが、行方のわからない神官を探していると話すと、驚いたのか揃って目をぱちくりとさせている。
「本当に探してらっしゃるんですかい?」
そうだと伝えると、薬草業者たちは互いの顔を見合わせて、小声で話し始めた。
見ていないよな、と確認しあっていたが、一番小柄な男が「そういえば」と手を叩いている。
「妙なモノが落ちていたじゃないか」
「なんだ、妙なモノって」
「十五の曲がり角のトコだよ。テンツも見ただろう?」
「俺が? なにを見たって?」
「あれだ。白くて、丸まってて、ころころとした」
「なんだそりゃあ、夢でも見たんじゃないのか、ルギルは」
最初に通りかかったのはアードウの店で働く四人組の業者で、彼らは神官を見ていないが、白くて丸いなにかを見たらしい。
帰り道の安全を祈って彼らを見送ると、しばらくして今度は三人組の男が階段を上がってくる。
「おや、リシュラの坊ちゃん」
どう見てもキーレイよりも年下なのに。薬草の業者たちはこう呼ぶと決めているのだろうかと、四人は思う。
「ルンゲ、帰る途中にすまない。どこかで神官を見かけなかっただろうか。皿の神官で、背は低くて体が丸いんだけれども」
「丸い? なにをおっしゃってるんですかい、坊ちゃんは」
二番目に通りかかったのは、ミッシュ商会で働く若い男の三人組だった。
彼らにも事情を話してみたが、同業者にしか会っていないらしい。
「気になることはなかっただろうか。いつもと違う場所はなかったかな」
「そういや、変な白いものが落ちてたよ」
アードウの店の面々と同じように、三人組も大きな籠を担いでいる。
そのうちの一人が白いものが落ちていたと話し、もう一人もそれを見たと続けた。
「その白いものがなんだったか、確認はしていないのかな」
「ルートから外れてたんでさ。お宝には見えなかったし、誰かが落としたんじゃないかと」
「ばっか野郎、坊ちゃんにそんな適当な話をするんじゃねえ」
リーダー格らしきルンゲが、曖昧な話をする部下に蹴りを入れている。
キーレイはそれを止めて、白いものを目撃した男に問いかけた。
「誰かが落としたように見えたのかな、それは」
「布みたいなモンでしたよ。小さく丸めてあるみたいな、しょうもないモンです」
「坊ちゃんにいい加減な話をするんじゃねえ、ミンゲ!」
「私が頼んで話してもらっているんだから、怒らないでくれ、ルンゲ」
何層で見たのか。キーレイの最後の質問に、ミンゲは十五層目だったと話した。
二組目の業者を見送り、捜索中の五人が残る。
ルギルとミンゲ。二人の薬草業者が、十五層目で見た「白い布のようなもの」。
「包帯じゃないのかな、それって」
カミルが呟き、キーレイは首を傾げている。
「包帯?」
「マスター・ピピはケープの中にすごい量の包帯を持っていたんです。ポケットがたくさんあって、その中に小さく畳んで入れていたのを見たんです」
誰かがけがをするたびに取り出しては巻いていた。
ケープの中をはっきり見たのはカミルだけだったが、包帯をどこからか取り出していたのは他の三人も知っている。
「十五層に行ったんでしょうか」
「それか、もっと下の層かもしれないね。白耳草がたくさん採れる場所へ行くには、最下層への最短ルートとは違う階段を降りるんだ。神官モルディアスは最下層への道を進んでいて途中で落とし物をし、ルギルやミンゲがそれを見かけたのかもしれない」
キーレイに促されて休憩場所へ戻り、四人は休むように言われ、横になっていた。
樹木の神官は祈りを捧げているようで、ささやくような声が耳の裏側をくすぐっている。
マスター・ピピはどこまで下りていってしまったのだろう。
六層から、たった一人で、十五層まで歩いて行ってしまったなんて。
途中でなにかに襲われたりしなかったのだろうか?
「怪我したのかな……」
背中の向こうから、ティーオの呟く声が聞こえてくる。
しばらく、迷宮の中には静寂が続いていたが、カミルがぼそりと答えた。
「それで包帯を使ったのかもな」
うっかりひとつ、落としてしまったのかもしれない。
最下層へ続く道の途中に、ころりと。
「けが人がいたのかもしれないよね」
コルフの声は小さいが、迷宮は静かで、思いのほか響く。
それなら、誰かといるのかもしれない。
マスター・ピピがひとりきりで夜明かしをしていないなら、その方がずっといいとフェリクスは思う。
「ちゃんと休まないと、無事に戻れなくなるよ」
眠れずにいる若者たちの上に、神官の穏やかな声が降り注いだ。
ニーロの炭で書いた線はうっすらと輝いている。
ちょろちょろと駆けて来た鼠の群れは、線の手前で止まって、来た道を引き返していった。
どれくらいの時間効果が続くのかはわからないが、「緑」の十二層程度ならば安全に過ごせるのだろう。
行方のわからない神官が気になるのに。不安な気持ちでいたのに、フェリクスたちは皆眠りに落ちていた。
緊張に満ちた探索をして、疲れ果てていたのだろうか。
それとも、キーレイが四人を眠らせてしまったのか。
初心者たちの中で一番に目覚めたのはカミルだったが、樹木の神官長の方が早かったようだ。
荷物の中から保存食を取り出して、人数分の用意をすすめている。
「すみません、キーレイさん」
慌てて仲間たちを起こし、目覚めさせていく。
それぞれに用を済ませて、キーレイの仕事を手伝っていく。
朝食を済ませ、荷物を片付けていく。
おまじないの魔法の線はまだ消えていなかったが、輝きは少し弱まっているように見えた。
自分たちがどのくらいの時間眠ったのか、よくわからない。
キーレイは澄ました顔で支度を終わらせているが、ひょっとしたら若者たちの目覚めを待っていてくれたのかもしれない。
「あの、キーレイさん」
フェリクスに声をかけられ、神官が振り返る。
「昨日、もしも一人で行っていたのなら、何層まで下りていましたか?」
キーレイは驚いたような顔をしたが、十二層までだと答えた。
「本当でしょうか」
「どうしてそう思うんだい」
「十二層まででいいのなら、わざわざ業者の人たちに話を聞く必要はないんじゃないかと思って」
「ああ」
あそこで話を聞いたのは、「間違いなく十二層まで下りた」証明になるからだとキーレイは言う。
タグロンが疑いの目を向けてくるかもしれず、第三者の証言があれば助けになるからだと。
「でも、十二層じゃ済まないかもって言っていたじゃないですか」
冗談だ、と笑っていたけれど。
手がかりがあればもっと奥へ探しに行ったのではないかとフェリクスは思っている。
「神官モルディアスがどうなったのか、気になるんだな、フェリクス」
その気持ちはわかる。キーレイは真剣な顔で若者の肩を強く叩いた。
「仕方がないからといって、迷宮の中に誰かを残していくのが普通だなんて、ろくでもない考えだと思うだろう」
理解はできると、神官は言う。けれど、流されすぎてもいけないのだと。
「君たちの命も大事だ。神官モルディアスを見つけ出すのが困難であろうことは最初からわかっていた。彼が見つかっても見つからなくても、この五人で無事に地上に戻るのが最も大切なことだよ」
フェリクスの瞳が揺れる理由を、カミルとコルフは知らない。
ティーオは少しだけ聞いていたが、心に抱えるやるせなさのすべてを理解できていない。
「せめて十五層まで見に行くわけにはいきませんか」
「黒」の迷宮で見捨ててしまった哀れな親子。
「黄」の迷宮と知らずに罠にかかってしまった、希望に満ち溢れていた三人の若者。
死んでしまったのだと、知らせてあげられない。
自分と違って、彼らには家で帰りを待つ人がいるかもしれないのに。
昨日。確かに、今の自分たちの実力では諦めるしか道はなかった。
またなのか、と思ってしまう。フェリクスの心は激しく揺れて、それが苦しくてたまらなかった。
「まだ生きているかもしれないのに」
声を震わせる仲間の隣に、ティーオがそっと寄り添っていく。
「フェリクス……」
だが、なんといえばいいのかわからなかった。
いや、もう駄目だろうとは言いたくないし、危ないから行かない方がいいなんて、薄情すぎて口に出せない。
「あの、キーレイさん」
悩めるティーオの隣に、コルフが並んだ。
「せっかくなんで十八層の泉まで行っちゃうっていうのはどうでしょう」
その後ろで、カミルも悩んでいた。
フェリクスの気持ちはわかるが、感傷的すぎると。
ただ、マスター・ピピなる男が本当に「博愛のハクス」だったとしたら、皿の神殿がうるさそうだとは思っていた。
このまま帰ると本当に探しに言ったのか疑われるだろう。キーレイは業者の証言があれば大丈夫と考えているようだが、同じ業界、大手の家の大切な長男をかばっていると言われる可能性もありえる。
探しに行った証拠になるものがあればいいと思っていた。
どうやら十五層にそれがありそうなのだから、「緑」に慣れたキーレイもいることだし、拾いに行った方が良いのではないか。
「だめだ、十八層には行かない」
キーレイは首を振り、コルフの安易な提案を明確に拒否した。
「十八層の造りはとても意地悪でね。十七層から降りた地点から泉まで、とても長くかかるんだ。敵の種類は一見変わらないがどれも強くなっているし、十八層だけはやたらと罠が多い。途中で諦めた場合、十二層へ戻るにも時間がかかる。ここで仲間を失う探索者はとても多いんだ」
泉を頼りに進むことを見越しての、「あえての造り」だとキーレイは言う。
「だから、薬草の業者たちもほとんどが十六か十七層で戻る。下層にはもっと希少なものがあるけれど、簡単にはいかないから、足を踏み入れることは滅多にないんだ」
「あの、それじゃあ、十五層まで行くというのは?」
落ちている包帯が「動かぬ証拠」になるのではないかと、カミルは自分の考えを明かした。
コルフとティーオはなるほどと頷き、もう一人の仲間の表情はまだ暗い。
「フェリクス、マスター・ピピを案じるのはわかるよ。だけど、俺たちだって生きて戻らなきゃいけないから」
「……そうだな、そうだ。ごめん、探索はとても、危険なんだよな」
四人の意見は一致した。そんな気分でいたが、樹木の神官は呆れた顔をしている。
「そんなに行きたいのかな、これよりも下の層へ」
「あ」
あまりにも生き生きと活躍していたのですっかり忘れていたが、キーレイは樹木の神殿を束ねる神官の長の役目を負った人だった。
それぞれに思い出してようやく慌てたが、神官長は四人の顔がおかしかったのか、小さく笑ってくれた。
「十五層の階段までだ。それでいいかな」
「すみません、キーレイさんは忙しいですよね」
「いや、そうでもない。神官長などと言われているが、私がどうしてもやらなければいけない仕事など本当はわずかなんだよ」
四人の思い付きのようなわがままを受け入れてくれた樹木の神官は、行くのなら急ごう、と足を速めた。
すっかり先頭を引き受けているキーレイの後を、四人は追っていく。
「やっぱり急いだ方がいいんですか?」
「まだ二日だから平気だとは思うが、時間が経てば落とし物は消えてしまうから」
おそらくはここ、という地点を目指して「緑」の十五層へ。
下層へ続く道と、薬草の業者が辿った道に分かれるポイントへたどり着いた頃、フェリクスたちはみんなヘトヘトになっていた。
キーレイが荷物の中から出してくれた小瓶を受け取り、中身を飲み干していく。
気力を取り戻す薬は妙な香りがしたが、確かに疲労が軽減されたように感じられるものだった。
「あれかな」
左へ続く道の先、蔦の中に小さな白いものが見える。
カミルはすぐに気が付いたが、残りの三人にはわからない。蔦に埋もれて、少しだけ顔を出しているような状態だった。
蔦の隙間から蛇が這いだしてきて戦いになり、短剣を振る。小さな蛇は十匹も出てきて、とうとうキーレイも剣を取り出して戦いに参加した。頭を刺してしまえばすぐに蛇の退治は済んでしまうので、剣の実力はまだ未知のままだ。
「棘に気をつけて」
樹木の神官に注意をされて、カミルは慎重に進んだ。
通路を覆う蔦の間にあったのは確かに包帯で、小さく折りたたまれている。
「あっ」
通路の先に、もう一つ落ちている。目を凝らしてみると、更に先にも白いものが見えた。
「どうした、カミル」
「向こうにまだなにかある」
結局全員で通路を進んで、落とし物を回収していった。
包帯だけではなく、干し肉、紙に包まれた薬もあった。
「これは……」
そして十六層へ続く下りの階段の前に、それまでよりも大きなものが落ちていた。
裂けて破れた布は、マスター・ピピが纏っていたケープに違いない。
裏にポケットがいくつもついていて、畳まれた包帯が入れられている。
とても不吉なことに、通路には赤黒い染みもある。
大きな染みがあり、少し小さくなった染みがあり、そこから点々と階段へ続いている。
「キーレイさん」
誰がその声を出したのか、カミルにはわからなかった。
みんなの声を知っているのに、酷く弱々しくて、フェリクスなのかティーオなのか、相棒と呼び合っているコルフのものなのかわからなかった。
呼ばれた神官はひとりだけ落ち着いた顔をして、四人に向けて問いかける。
「一緒に行くか?」
下りた先になにが待っているのだろう。
いや、もうわかっている。
見たくなかった光景が広がっているに決まっている。
一緒に行くかと問われた。
恐ろしいのなら、行かなくていいという意味だ。
キーレイは行くのだろう。一人ででも行けるのだろう。
四人は足を震わせている。
フェリクスはやるせなさに震えたし、ティーオは悲しくて震えた。
コルフは悲惨な光景を想像して震え、カミルはいつか自分にも同じ悲劇が降りかかるかもしれないと考えて震えた。
「行こう」
フェリクスが呟いて、三人へ振り返る。
「そうだな」
カミルが答え、二人も頷いた。
「無理はしなくていい」
「いいえ、行きます」
キーレイが頷いて、四人の前を歩いて行く。
階段の手前にある罠に気を付けるように言われて、蔦に隠された突起を踏まないようにして進む。
赤黒い染みは階段の先にも落ちていた。
下りた先にはひときわ大きな血の跡があったが、既に乾いているようだ。
誰かが落とし続けた雫を追って、左へ曲がり、右へと曲がる。
地図を見る役目を放棄している自分に焦りながら、カミルはキーレイの背中を追っていた。
その広い背中がとうとう止まった。
十六層に降りてから、少しだけ歩いた道の先に、ひとつの旅の終わりがあった。
「彼がマスター・ピピで間違いないかな」
通路の途中で、蔦に巻きつかれ、座りこんでいる。
まあるい体はそのままに、力なく首をがっくりと倒して、服を真っ赤に染めて。
辺りにはポケットの中身がばら撒かれて、緑の通路に色を添えている。
なにが起きたのだろう。わからないが、髪は乱れて帽子がずり落ちていた。
「間違いありません」
けれど、表情はひどく穏やかだった。
微笑みを浮かべたような顔をしていて、安らかだった。
キーレイはマスター・ピピの前に跪き、丸い体に触れている。
首元、手、足に触れ、どこに傷があるか確認しているようだ。
「まだ間に合いそうだが……」
キーレイは、数少ない「生き返りの奇跡」を執り行える神官だ。
どうしようもないほど深い傷がないのなら、命を取り戻すことができる。
樹木の神官は首を傾げていたが、心を決めたようで、四人の初心者たちにそれぞれ仕事を与えた。
「カミルは向こう、フェリクスとティーオはあっちだ、敵が現れないか見ていてくれ」
三人は素直に頷き、キーレイから少し離れた位置に向かう。
「コルフはこれを頼む」
腰のポーチから取り出されたのは、「帰還の術符」。
「敵が近づいてきたり、私が倒れてしまったら使ってくれ」
「倒れるって……」
「生き返りはとても消耗するんだ。マスター・ピピが生き返ったら、彼を含めて君たち五人で戻ってくれ。駄目なら、私を入れて五人。いいね」
「え? 生き返ったら、キーレイさんはどうするんですか」
「もう一枚あるから心配しなくていい」
神官は腰をぽんと叩いて微笑んでいる。
倒れてしまっては使えないのではないか。問いかけてみたが、気を失うまではいかないからとキーレイは言う。
「コルフ、術符を使った時にどんな力が働いているかよく探ってみるといい」
実際に迷宮から飛び出す感覚の中に、学びがあるから。
「魔術は力をどのように動かすかわかれば、使えるようになる。大金を払って学ばなくとも、理解できるかもしれないよ」
ニーロからそんな話を聞いたのだろうか。
キーレイの言葉に頷き、コルフは青い術符をぎゅっと握りしめた。
とても貴重なものだ。ティーオが手に入れ使ったことはあったが、コルフは実物を初めて手にしている。
「慈しみ深き樹木の神よ」
祈りの言葉が始まり、四人は自分に与えられた役目を果たすため、それぞれに動いた。
コルフは術符を手の中に広げて、浮かび上がる文字を目で追っていく。
カミルは通路の先に目を凝らし、フェリクスとティーオも反対側の様子を窺う。
迷宮の中は静かで、キーレイの祈りの声以外はなにも聞こえない。
生き返りの奇跡がどのように働く力なのか、見てみたいが、魔法生物が来ては困ってしまうので視線を向けられない。
カミル、フェリクス、ティーオは、自分たちの後ろから差し込む白い光に気が付いていた。
暖かい力が働いているとわかる。柔らかな優しい色だった。
そういえば、樹木の神殿に祈りに行っていないし、寄付もまだできていない。
ここから戻ったら、絶対に行こう。カミルはそう決めたが、次の瞬間。
「キーレイさん!」
光は途切れて、コルフの叫び声があがった。
慌てて振り返って見えたのは、コルフの足元に倒れている樹木の神官で、フェリクスとティーオも駆け出している。
その光景は黄金の光に塗りつぶされ、なにも見えなくなり。
次にカミルが見たのは、迷宮の入り口がある穴の底で探索者たちが並んでいる風景だった。
帰還者の門でまともに立っているのはコルフだけで、フェリクスとティーオは壁に当たってひっくり返ってしまっている。
「キーレイさん、キーレイさん」
順番待ちをしている五人組のうちの一組はリシュラ商店の業者だったらしく、「坊ちゃん」が倒れているのに気が付いて慌てて駆け寄ってきた。
「キーレイ様、どうなさったんですか」
「コルフ、なにがあったか見てたか?」
九人で覗き込んでいると、リシュラの坊ちゃんはぱちりと目を開け、ゆっくりと体を起こした。
「大丈夫ですか!」
「もちろん。大げさだよ、みんな。平気だから」
キーレイの手には、マスター・ピピのかぶっていた帽子が握られている。
「仕事だろう、大丈夫だから行ってくれ」
リシュラ商店の五人は列から外れてしまったせいで並び直さなければならず、はしごを上っていく。
「コルフ、ありがとう」
「俺は術符を読んだだけです」
「なにがあったんですか、キーレイさん」
「緑」に入ろうと並んでいる探索者たちが、なにが起きたのかと様子を窺っている。
ここでは落ち着かないし、行かねばならないところがある。
五人もはしごを上って迷宮の入り口から出て、北へ向かって歩いた。
「キーレイ殿」
皿の神殿で用事を告げると、すぐにタグロンがやってきて応接間へと通された。
昨日の朝怒鳴りこんだことについて、タグロンは申し訳なかったと頭を下げている。
「ハリガンがよくわかっていないと承知していない者が、神官モルディアスの世話を任せてしまっていたようで」
探索へ行きたい、探索者を救いたいというモルディアスの訴えを聞いて、それならばと思ってしまったというのが、皿の神殿で起きた一つ目の過ちだったとタグロンは話した。
申し訳ないと詫びる神官長へ、キーレイも頭を下げている。
「ハクス様を連れ帰ることはできませんでした」
見つけられたのに、救えなかった。樹木の神官はそっと、マスター・ピピの帽子を差し出している。
「その名を覚えていてくれたのか」
タグロンは悲しげに目を伏せて、けれど感謝の祈りを捧げている。
「モルディアス・ハクスはどうなった?」
キーレイはまっすぐに皿の神官長を見つめると、はっきりとこう答えた。
「十六層で倒れておられました。私たちが見つけた時には、もう命が失われておりました。まだ間に合うかと思ったのですが、ハクス様は生き返りを拒まれたのです」
皿の神殿にたどり着くまでの間に、キーレイはあの時の出来事について話してくれていた。
時折ふらつき、若者たちの手を借りて歩きながら、生き返りの奇跡は拒否されたのだと。




