55 アンバランス(下)
ウィルフレドが部屋の中に一歩入ると、少年はすぐに気が付いて、視線だけを入り口に向けた。
反応はそれだけで、少年はじっと来客の姿を見つめ続けている。
その間に、背後の扉は音もなく閉まっていた。
部屋の中はそう広くはなかったが一人で過ごすには十分なサイズで、柔らかそうなベッドがあって紫色の布がかけられている。
テーブルや椅子、荷物を入れる箱もあり、隅に置かれた壺からは花のような香りが漂っていた。
無言のままウィルフレドを睨み続ける少年は、この屋敷で見た青年たちのような透けた布を身に着けてはいない。
薄い紫色のゆったりとした服を着ていて、道具屋や迷宮の中で見かけた時よりも清潔な姿になっている。
げっそりとしていた顔も色つやが良く、彼本来の美しさが取り戻されていた。かなりの怒気を孕んだ表情ではあるのだが。
「お前、あの灰色の仲間のヒゲオヤジか」
部屋の様子をじっくりと見ているウィルフレドへ、とうとう声がかかった。
「なんで俺をこんな不気味な場所に連れて来たんだよ」
「連れてきたとは?」
「とぼけやがって! あの灰色が寄越した変な紙切れのせいで、こんなところに閉じ込められてんじゃねえか!」
「ここに閉じ込められているのか」
「バカ野郎、なんだお前、このヒゲジジイ、あの灰色の奴を今すぐここに連れてこい!」
少年は勢いよく立ち上がって、荒々しくウィルフレドに向かって進んでくると、思い切り右足を蹴りつけてきた。
鍛えられた戦士の体はビクともしないし、蹴った少年の方が痛みを感じてひっくり返っている。
「さわるんじゃねえ!」
差し伸べた手を払われて、ウィルフレドは思わず笑った。
「元気そうでなによりだ」
「はあ? なんだと?」
道具屋では周囲の人間全員を激しく罵り、暴れ、取り押さえられていた。
一緒にいた男が倒れ、どうやら死に向かっているとわかった時には、悲痛な声をあげて泣いていた。
迷宮で罠にかかっていた時は、限界ぎりぎりの状態だったはずだ。一度目の探索のあとを追って罠にかかり、動かないように、眠らないように必死で耐えていたのだから。
口の悪さには閉口してしまうが、バイタリティに溢れた少年であるのは間違いない。
「私は確かにあの灰色の魔術師、ニーロ殿の仲間だ。だが今日ここへ来たのは、私が個人的に君に話があるからで」
理由を話したいのに、少年はぎゃあぎゃあとわめいている。ここから出せ、自分になにをした、あの生意気なヒョロヒョロ灰色野郎を殴らせろ、ぶっ殺してやろうか、などなど、ちっとも止まらない。
仕方なく、ウィルフレドは素早く、喚き続ける少年の頬を打った。
「痛ええ!」
床に倒れた少年の上に覆いかぶさって、少し強めに押さえつけていく。
少年は激しく暴れたが、ウィルフレドの力に敵うはずもない。
わめき声と暴言の間にできた隙間を見つけて、ぐっと力をこめる。
「まずは話を聞け」
少年の顔は真っ赤に染まった。それでやっと諦めがついたのか、暴れるのをやめた。
脱力してしまった少年に手を貸してベッドの上に座らせ、ウィルフレドは傍らに椅子を持ってきて腰かける。
「すまないが、さきほどの質問には答えられない。ニーロ殿の真意はまだ私にはわからないからだ。だから、君がなぜここに閉じ込められることになったのか、私には答えようがない」
悔しそうな顔をしながら、少年はしばらくの間無言だった。
ウィルフレドはじっと待っている。少年の顔に白さが戻ってくる様子を、じっと見つめ続けていく。
「あの、変な、紙」
ようやく言葉が出てきて、戦士は静かに頷いた。
「俺は字なんか知らないのに、あれは読めた」
そんな効果もあるとは。新たな事実に、ウィレフレドは感心している。
「話ってなんだよ」
「……私の名はウィルフレドだ。君は」
少年は口をひんまげたまま、またしばらく黙っていたが、こう答えた。
「シュヴァル」
「年はいくつなんだ」
「十一」
そっけない返答をしたシュヴァルは、ぷいっと顔を逸らすと、小さな声でこう呟いている。
「ついこの間十一になった。祝ってもらったから間違いないと思う」
「どこか近くの町に家族がいるのか」
この問いかけに、返答はなかった。シュヴァルと名乗った少年は足を伸ばしてみたり、膝を抱えてみたり、首を傾げたりして、落ち着きがない。
「シュヴァル、私は君に聞きたいことがある」
「答えたらここから出してくれんのか?」
「それは出来ない。残念だが、ここでは他の都市よりもずっと、窃盗が重い罪になるようだから」
「使えないヒゲオヤジだな、お前」
十一歳はまだ子供だ。体が大きくなり、知恵もついてくる年頃だが、大人の仲間入りをするにはまだ早い。
シュヴァルの体はまだ細いし、肌も子供特有の柔らかさがある。しかし、口は一人前以上と言えるかもしれなかった。
「母親の名前はなんと言う?」
構わずに質問をぶつけると、シュヴァルはむっとしたような顔をして、ウィルフレドへ鋭い視線を向けた。
「なんでそんなの知りたいんだ?」
「長い間探していた女性に、生き写しだからだ」
「いきうつしって?」
「似ているということだ。ほとんど同じといっていいほど似通っている」
「あんたをこっぴどく振った女に?」
シュヴァルはことさらに大きく、下品な声で笑った。
ウィルフレドの髭を引っ張り、整えていた髪を掴んでぐしゃぐしゃに乱していく。
「使えないだけじゃなくて、気持ちの悪いオヤジだな、お前は。好きな女にそっくりだって、こんな子供を追っかけてくるなんてよ」
乱れた髪を手で撫でつけて、ウィルフレドはそっとため息をついた。
素直な子供ではなさそうだとは思っていたが、これほどまでとは。
「たまたま目についた街に入ったと言っていたな。あの大男と一緒に来たのか?」
この言葉で、笑い声はぴたりと止んだ。
キーレイから聞いた話では、ティーオはシュヴァルと連れの大男にしてやられたはずだ。
あの男は本当に突然、顔を真っ青に染めて、口から泡を吐き出して死んでしまった。
「オンダと呼んでいた男だ」
「オンダの名前を気安く口にするな!」
ゼステリー商店の主は頭の回転が速い男で、大男と少年の怪しい二人組の気を引いて時間を稼ぎ、ニーロたちのもとへ使いを走らせた。
一緒に来るよう言われてウィルフレドも同行し、修羅場に立ち会うことになった。
大男は少年を「坊ちゃん」と呼び、逃げるように叫んでいた。
用心棒が取り押さえた大男を、シュヴァルは「オンダ」と呼んで、激しく泣いていた。
「あの店に来る前。ティーオから金を盗む前になにがあった。あの時、お前の連れの様子はおかしかった。急に苦しみだして、毒に侵されてしまったように見えたが」
シュヴァルが泣くのを堪えている音しか聞こえない。
誰もこの部屋の様子を窺ってはいないのだろうか。いきなりやって来た客のせいで騒いでいても、誰も気にしないのだろうか。こんなに怒鳴り声が響いても、ホーカ・ヒーカムに「内密」にしておけるのだろうか。
シュヴァルも突然の客とのやり取りで混乱していそうだが、ウィルフレドも困惑の中にいた。
少年の攻撃的すぎる態度も、屋敷の妙な空気も、これまでに体験したことのない時間だと思う。
「俺たち、しばらく紫色のところにいたんだ」
「紫色の……、迷宮か?」
「お前らと会ったのと同じような入り口のところ。紫色の」
「なぜ、あんなところに」
「追われてたんだ」
追われて逃げてきて、迷宮都市にたどり着き、仕方なく迷宮へ飛び込んで。
シュヴァルは道のりを思い返しているのか、深く深くため息をついている。
「追われて仕方なく穴に入った。大変だった」
「それは、そうだろうな」
「息が苦しかったし、怪我したけど、オンダが守ってくれて、誰か来たから隠れたら、下に落ちて」
その誰かは追っ手だったのか、探索者だったのか。少年にはわからなかったのだろう。
シュヴァルはしゃくりあげながら、涙をこぼしながら話していく。
「水を飲んだら元気になった。誰か来たら隠れて、気分が悪くなったら水を飲みに行って」
「食糧は?」
「動物が出てくるから。オンダが捕まえて、一緒に食べた」
そんな生活をかなりの長期間していたような話しぶりだった。
曖昧な表現ばかり続いたが、一日や二日の話ではなさそうな様子が伺える。正確な日数は本人にもわからないようで、聞いてみても明確な答えはなかった。
「でも、火をつける道具がなくなった。それで、仕方ないから出ようと決めたんだけど、道がわからなくて」
シュヴァルは唇を噛んで、しばらくの間黙っていた。
記憶を探るように首を傾げては、鼻を指で擦って、ため息をついている。
「また穴に落ちて、そこで気分が悪くなって倒れた。たぶん、オンダも」
「倒れた?」
「すごく冷たかったんだ、手が。それに声も、小さかった。助けられなくてごめんなさいって」
ところが、次の瞬間、外にいたのだという。
迷宮都市の外側、大きく掘られた穴の中で、二人は半分埋められた状態で目を覚ました。
「知らない変な男も一緒に穴の中にいて、このままじゃ埋められそうだって、逃げたんだ」
その後、街の中で盗みを重ねながら、ちょうどいい獲物を探したという。
浮かれた様子のティーオに目をつけ、寄る場所帰る場所を確認していったらしい。
シュヴァルの話はどこまで本当なのだろう。
ティーオに狙いをつけたところからは間違いないだろうが、腑に落ちないことが多すぎる。
追われて逃げてきたのは、なんらかの事情があったからなのでいいとして、今の話からすると「紫」で行き倒れて、誰かに助けてもらったとしか思えない。
回復の泉を使っていたのなら六層に潜んでいたのだろうし、その後「落ちた」というのなら、七層よりも下の階で力尽きたはずだ。
七層よりも深いところに倒れていた見ず知らずの二人組を、地上に戻す誰かがいるとは考えにくい。
しかも、埋葬されかかっていたのではないか。話からしても、シュヴァルたちは「死んでいた」可能性が高い。
二人の死者を地上に戻し、埋葬するのをやめて、生き返らせる?
そんなもの好きな探索者が、そんなにも親切な誰かがこの街にいるというのだろうか。
「『紫』は毒を浴びやすいところだから、体に毒が残っていたのかもしれないな」
しかしそれならば、オンダの死に様には少し納得がいく。
全身が青く染まって、苦しんでいた。用心棒に組み伏せられただけでああなるとは思えない。
「オンダ……、ドーム……」
急に年相応の少年に戻って、シュヴァルはめそめそと泣いている。
コルフを随分長い時間待たせてしまっている。それとも、先に戻っているのだろうか。
ヴィ・ジョンはすんなりと通してくれたが、面会に時間の制限はないのだろうか。
質問はたったひとつなのに、聞き出せそうにない上、話がすっかり複雑になってしまっている。
どうすべきかウィルフレドが悩んでいると、シュヴァルは顔をあげて、戦士の逞しい腕を掴んだ。
「あれを読んだら、この変な屋敷の前に出たんだ。気持ちの悪い色の家ですごく嫌だったのに、へとへとで、気が付いたらこの部屋にいれられてた」
「あれというのは、ニーロ殿にもらった術符か」
「そうだよ。いやだ、こんなところ。不気味なやつらが裸でうろうろしてて、あの壺から変な匂いがするし、頭がおかしくなりそうだ!」
「帰還の術符」は、帰還者の門へ運ばれる道具ではなかったのだろうか。
この屋敷の前に出たとは意外な話で、にわかには信じられない。
シュヴァルはまるで小さな子供のようにわんわんと泣いている。
油断させるために子供のふりをし始めたのだろうと警戒していたが、本気で嘆いているようにも見える。
「俺をここから出してくれよ。十三歳になるまでここにいるなんて嫌だ。オンダ、オンダ、俺を迎えに来てよ! ドームと一緒に、来て、あの扉を壊してよ!」
最後にはウィルフレドにすがりつくようにして、シュヴァルは泣いた。オンダとドーム、二人の名を何度も呼んで、ここから出たいと訴え続けた。
小さな少年は力尽き、泣き疲れて戦士の膝の上で眠ってしまったようだ。
部屋に窓はなく、時間がどのくらい過ぎたのかはわからない。
仕方なく、シュヴァルを抱き上げてベッドに寝かせ、ウィルフレドはそっと部屋の外へ出た。
誰もいないと思っていたのに、扉を閉めて振り返ると、目の前にはヴィ・ジョンが立っている。
「ご用事は済みましたか、御武人様」
「済んではいませんが、今日はもう……」
「左様で」
ヴィ・ジョンは目をぎゅっと細めると、ウィルフレドの右手を掴み、手のひらになにかを握らせてきた。
冷たい感触を確かめてみると、薄い紫色に輝く鍵のようなものだとわかる。
「それをお持ちください」
「これは?」
「『紫』の迷宮の入り口から、北へ向かってお歩きください。その鍵を持っていれば、こちらの部屋の裏口へたどり着きます。御武人様ならば自由に出入りできるようにしておきますので」
木箱の置かれているところに扉がありますから、とヴィ・ジョンは囁くように話した。
「またあの少年に会いに来られますでしょう」
「そうかもしれませんが、良いのですか」
「ええ、ええ、良いのです。とても美しい少年ですが、些か品がなさ過ぎて。この屋敷にはふさわしくありませんので。できればお引き取り願いたいのです」
呆れるような、笑えるような展開だった。
ここに送ったニーロも、一旦は迎え入れたこの屋敷も、一体どんなルールに則って動いているのか。ちっともわからない。
「すぐにというわけには」
「ええ、ええ、良いのです。わかっております。商人たちから厳しくしつけをされた者を、おいそれと街に放つわけにはいきません。良いのです。できるだけ速やかに、いつか必ずと約束して頂ければ、なんの問題もございません」
「この鍵は、術師ホーカ・ヒーカムから」
ヴィ・ジョンの長い指が伸びてきて、ウィルフレドの口をふさぐ。
「ご内密に」
これは、わたくしからでございます。ヴィ・ジョンの声は更に小さくなっている。
「良いのですね」
「ええ、ええ。御武人様、あの少年には伝えておきます。また、美しい髭の御武人様が必ずいらっしゃるからご安心なさいと。わたくしのためにもぜひ、何度でもお立ち寄りくださいませ」
なんと答えたらいいのか迷うウィルフレドに、ヴィ・ジョンはぺこりと頭を下げる。
次の瞬間、目の前に屋敷に入ってすぐの庭園が広がっていた。
入り口に一番近いベンチにコルフが座っていて、居眠りをしている。
「コルフ、すまない、待たせたな」
「ん、あ、ごめん、ウィルフレド。寝ちゃってたよ」
「いいんだ。随分待たせたようだから」
「用は済んだ?」
済んではいない。なにも解決できていない。
迷宮都市で起きる摩訶不思議な事象のうちのいくつかについて、知っただけの時間だった。
「残念ながら情報は得られなかった」
「そうなんだ。残念だね」
「そんな日もあるさ」
二人で揃って屋敷から出て、まっすぐに進んでいく。するとあっという間に「紫」の迷宮近くに出て、街のざわめきが聞こえだしていた。
「この辺はあんまり歩いたことがないな」
まだ初心者レベルのコルフたちは「紫」に入ろうとは考えないだろう。
町の南側には商人たちの屋敷が多く、店はたくさんあるがどこも値段が高い。
「今の時間、どのくらいなんだろう。みんなもうご飯を食べたかな」
腹から大きな音を響かせて、コルフは恥ずかしそうに笑っている。
「今日の礼に、夕食を奢ろう」
「え、いいの」
「この辺りはいい店が多いらしいから。旨いものが食べられるだろう」
「いい店ってどのくらい? 俺みたいなのが入っても平気かな」
「大丈夫さ。食事をするだけなんだから」
ウィルフレドが答えると、コルフは小さく笑って、自分の荷物の中から財布を取り出し、持ち主へと返した。
「俺より後から来たのにな、ウィルフレドは」
気のいい若者に、一足先に探索上級者になった戦士も笑いかけていく。
「まだまだわからないことは多い。魔術師のことは本当に、まだなにひとつわかっていないようだ」
困った時には教えてほしいと頼むと、コルフは楽しげな顔をして頷いている。
二人は最近名を挙げている「クロッケンの祝砲」という名の食堂へ入って、いつもより高級な食事を楽しんだ。
コルフと別れ、ウィルフレドは居候をしている黒い家へと帰る。
シュヴァルの今後をどうしたらいいか、ウィルフレドはベッドに入ってからもしばらくの間悩み続けた。




