49 一番大切な仲間
闇の中を振り回されて、たどり着いた場所もまた暗闇だった。
地面に這いつくばった姿勢のまま、息ができずにキーレイはもがく。
いや、息はしている。そんな気がする。やがて、ぜえぜえという音が聞こえてきて、キーレイは悶えながらもほっとしていた。
真下に向けられていた体をひっくり返して、ぼやけた視界の向こうに瞬く星を見る。
炎のはぜる音がする。金色のかけらも見える。つまり、ここは迷宮の入り口だ。「黄」の入り口の扉の前、迷宮という名の渦へ繋がるみすぼらしい穴の底。
震える手を動かして、腰につけたポーチを探った。何度も手を滑らせてようやく、中にある小瓶に触れる。何度も何度も両手を不器用に揺らしているうちに落ち着いてきて、小瓶を掴むと、それを顔の前へと持ってくる。ふたを開いたら中身は一気に飛び出して、キーレイの口の中を満たした。
咳き込みながらも半分を飲み込むと、体の震えはようやく収まったように思えた。いや、ちっとも足りない。身を起こして、もう一本。これで終わりだ、自分のぶんは。
キーレイがよろめきながら立ち上がると、すぐそばには仲間の魔術師が倒れていた。
灰色の若い魔術師は仰向けになって、両手を広げた姿勢で目を閉じている。
体の下には黒い染みが広がり、本当に嫌な臭いが漂っていた。
キーレイは隣にしゃがみこみ、仲間の細い体に触れていく。
深い傷がある。首のそば、胸の真ん中。血は今もまだ溢れ続けている。
無意識のうちに、神官は祈った。若い命を救うため、神の力を借りて、傷を埋めていく。大地に撒かれた種が力強く成長する力。樹木の神が司るのはそのまま、命の力だ。春の芽吹きのように力強い、生きる力を傷ついた者に分け与え、眩暈がして、キーレイはニーロの上に倒れこんだ。
「おい……、ニーロ……、ニーロ……」
どこからか声がして、危うく去りかけた意識を揺り起こす。
キーレイは魔術師の荷物を探り、中から回復の薬を取り出すと一気に煽った。
息を整え、足をさすって、立ち上がる。
右側へ目をやると、スカウトの姿があった。
穴の隅にいる。
ひどい姿だ。
横向きに倒れたロビッシュには、左腕がない。
首も取れかけている。
キーレイは黙ったまま振り返り、残りの二人の姿を探した。
「ニーロ……!」
呼びかけの声は上からする。
迷宮へ続く穴にかけられた梯子を登ると、仲間たちの姿があった。
「キーレイなのか?」
迷宮へ続く穴は、二層になっている。地上から少し浅い穴に降りて、そこから更に下れば入り口のある場所にたどり着く。
その中二階と言える場所で、ウィルフレドが倒れていた。穴のギリギリ内側で、うつぶせになっている。
声をあげていたマリートはその奥で、膝くらいの高さで浮いていた。
「私だマリート、少し待ってくれ。先にウィルフレドを見る」
近づいてわかったが、マリートは腰から下が埋まっているようだ。下を向いた姿勢で壁から生えているような状態になっていて、やってきた誰かの足元しか見えていないらしい。
「お前が『脱出』を使ったのか?」
ウィルフレドもまた傷が深い。体が大きく、重たくて、簡単には動かせない。
首元、肩にできた傷を癒していくと、また眩暈に襲われてキーレイは唸った。
「おい、大丈夫か」
マリートの声は不安そうで、珍しいものを聞いたとキーレイは思う。
確かに、不安だろう。仲間の安否はわからないし、ようやく現れた頼みの綱が唸ってふらついているのだから。
「マリート、薬はあるか?」
「あるが、取れない。なんでこんなことになっちまったんだ」
腰の荷物入れは壁の中に埋まってしまっているようだ。
マリートは苦しそうに息を吐きながら、そういえばウィルフレドも一応荷物に入れていたよと話している。
髭の戦士からも薬をもらって、キーレイは再び神に祈った。癒しの力が働いて、傷は塞がり、さらなる深い信仰によって失われた命をも呼び起こしていく。
ウィルフレドに小さく鼓動が戻ってきてようやく、キーレイは狭い足場に座り込んでいた。
「キーレイ、ニーロはどうしたんだ」
「ニーロは下にいる。ロビッシュも」
「無事なのか」
「無事ではなかった」
みんな、無事ではなかった。マリートだって気が付いていただろう。
「お前が『脱出』を使ったのか?」
二度目の質問に、神官はようやく答えを示す。
「恐らくは。無我夢中だったけれど、できたようだ」
だが、そんなにうまくはいかなかった。残念ながら。
「すまない、マリート。どうやったらそこから抜け出せるのか、私にはわからないよ」
「なんだと」
「ニーロが回復したら確認する。とりあえず薬が必要になるだろうから、買ってきていいかな」
こんな状態で一人、穴を抜け出すのはもちろん気が引ける。
マリートは壁にささったまま動けず、一人はひどい死体の姿だ。
どうやら真夜中のようで、辺りには誰の姿もなかった。いや、「黄」の周辺にはそもそも誰も寄り付かない。回収の業者たちも、ここと「青」には人を置かない。
神官はゆっくりと歩いた。急ぎたいのに、足が動かない。力が尽きそうで、頼みは仲間を思う気持ちだけだ。あの高名な無彩の魔術師と、慧眼の剣士が穴の底で力尽きるなんて、許されない。普段は考えないこんな下世話な考えを力に変えて、ふらつきながらも闇を往く。
人通りがありそうな方へ向かったはずなのに、たどり着いたのは別の渦の入り口だった。そこは何色の迷宮へ続く穴だったか。わからなくて、キーレイは唸る。よろめきながら唸る神官に気が付いたのか、穴の外で座り込んでいた若者が立ち上がった。
「神官様、どうしたんで……」
樹木の神官衣にはべったりと血がついていて、目はうつろで、経験の浅い若者が驚かないはずがない。
「すまないが、使いを頼まれてくれないか」
「はい、はい、もちろんです」
薬を買ってきてくれ、とキーレイは名も知らない若者に頼んだ。自分の名を出せばもらえるはずだから、と。
こんな賭けはしたくなかった。けれど、体がどうしても動かない。どうしようもない。お礼の額に驚いて小さく飛び上がった彼を信じるしかない。
掲げられたたいまつの明かりの下で座り込み、キーレイはひたすら歯を食いしばって待つ。
気を失ってはいけない。頬を叩き、カッカーの力強いまなざしを思い出し、神に祈り、はっと気が付く。
ニーロの状態がどうだったか、はっきり思い出せなかった。傷は塞いだが、生きていたか、それとも死んでいたのか。
仲間の魔術師の名前を呟く。
澄ました顔で、なにごともなかったように起き上がっていればいい。
やれやれ、大変な目に遭いましたね、と。
あんな魔法生物がいるなんて、驚きました。
霞む目をこすって、大きく息を吐く。吸うのを忘れかけて、キーレイは慌て、うまくいかずに咳き込んでしまう。
「買ってきました!」
遠くから大きな声がして、神官は心底安心して立ち上がった。
「ありがとう、早かったね」
「いやあの、大丈夫なんですか」
若者が指をさしてきて、キーレイはやっと自分の服についた魔術師の血のあとに気が付いていた。
「これは仲間の怪我に触れたからなんだ」
「そうなんですか」
回収業者の下っ端は言われた通り、薬を十本も持って帰ってくれた。
こんな深夜でも行ってくれたし、売ってもらえた。追加で料金を取られるかもしれないが、金で済むなら安いものだ。
すぐに小瓶の中身を飲み干し、もう一本。ようやく意識が冴えてきて、若者の名を聞くとキーレイは「黄」の穴へと戻っていった。
「キーレイなのか?」
足音に気が付いて、マリートが声をあげる。
「そうだ。すまない、待たせてしまって」
「本当だ。なんなんだ、こんな姿にしやがって」
「脱出」とは高度な魔術だったらしい。確実に外に出られる術符はなんとありがたいものなんだろう。キーレイは息を吐き、まずはウィルフレドの様子を探る。息はある。出血は止まっているようではある。
「みんなどうなったんだ?」
マリートの質問に、キーレイは答えた。
「ウィルフレドは大丈夫。ロビッシュはもう駄目だ。ニーロは今から確認する」
剣士は苦しげに息を吐いている。マリートに怪我などはないようだが、いつまでもあの姿勢でいるのはよくないだろう。壁の中に埋まっている腰から下はどうなっているのか、掘れば出てくるのか、想像がつかなくて不安が募る。
はしごを急いで降りると、去った時と状況はなにも変わっていなかった。ニーロは両手を広げたまま倒れているし、ロビッシュにも変化はない。ただ倒れていて、ただ死んでいる。血の匂いは強さを増したように思えた。
「ニーロ」
体に触れると、ほんのりと温かかった。もっとしっかりと触れて、血の巡りがあるかどうか確認していく。
「ニーロ」
あった。
「やっぱり、お前が一番頼りになるよ」
囁きながら、神への祈りを紡いでいく。傷は塞がったのだから、次は意識だ。見えない剣に貫かれて途切れたものを繋いで、元通りの魔術師の姿を取り戻さなければならない。
何本目かの薬を開けるとようやく、灰色の瞳がうっすらと開いていった。
「聞こえるか?」
頬に触れ、体を起こし、何度か名を呼んでいく。
うつろだった瞳に光が戻って、ようやくニーロの口から返事が聞こえた。
「なにがありましたか?」
なんと答えるべきか、キーレイは言葉を探す。
「敵が出た」
「どんな?」
「姿は見えなかった。お前とウィルフレドとロビッシュが斬られて、慌てて脱出したんだ」
「脱出したのですか」
会話を重ねるうちに意識がはっきりしてきたようで、ニーロはゆっくりと起き上がっている。
「私が『脱出』を使ったんだが、あまりうまくはいかなかったみたいだよ」
キーレイの言葉に辺りを見回して、ニーロは仲間の姿をひとつ見つけた。
「マリートさんとウィルフレドは?」
「上だ。はしごをのぼったところにいる」
灰色の髪を揺らして、無彩の魔術師は上の階層へと移動していく。
「ニーロ、無事だったか」
ニーロは戸惑った顔をして、また珍しいものを見たとキーレイは思った。
ウィルフレドの状態を確認したいのに、壁から生えたマリートの様子も気になるのだろう。
「ウィルフレドはここに、マリートはあんなところに出てきたらしくて」
「なるほど、仲間が見当たらなくなるのは、思いもよらない位置に飛ばされてしまうからなんですね」
そんな現象もあるのか、とキーレイは寒々しい思いをしている。
「頭まで埋まらなくて良かったですね、マリートさん」
どうやら優先されるのはウィルフレドのようだ。脈があることを確認してほっとしたような顔をすると、ニーロは更なる治癒をしてほしいとキーレイを見つめた。
「わかったよ」
ニーロにしたのと同じように、癒しの力を注いでいく。今回の探索の途中にも倒れ、終わりにまた倒れ。今までどれくらいの戦いを重ねてきたかわからないが、ここまで無様な負けは戦士の人生で初めてなのではないかとキーレイは思う。
「ウィルフレド」
呼びかけながら、意識がぼやけるたびに薬を飲み干していく。たくさん買ってきてもらったが、全部からになってしまった。これで目覚めなければ、またおつかいを頼まなければならないだろう。さきほどの気のいい若者は、一体どこの業者で何色の迷宮の入り口にいたのか。記憶が定かではなくて、キーレイは顔をしかめ、祈りに集中するために首を振る。
「我々ではとてもあなたを運び出せません」
だから、起きてほしい。起き上がって、いつものように髭を撫でて、ご迷惑をおかけしましたと大袈裟に頭を下げる姿を見せてほしい。
神の足元へ旅立った魂を呼び戻すのは大変だ。
しもべとして仕える神官の分際で、まだ用があるからと無理やり現世へ連れ帰らねばならないのだから。
理由があって世を去ったのに、捻じ曲げるのか?
強い強い視線に耐えて、どうしても彼が必要なのですと言い訳をして、魂を呼び戻す。
ならぬ、と言われれば失敗だ。仕方がないなと許してもらわなければならない。成功率を上げるのは信仰心の強さで、日頃からどれだけ勤勉に暮らしているかが問われる。と、キーレイは思っている。
「ウィルフレド」
手を握り何度か呼びかけると、ようやく瞼が動いた。
「聞こえますか」
戦士はやっと目を開けると、左手が空を切って驚いたようだった。なにせ、穴の縁ぎりぎりのところに倒れていて、少し動けば落ちてしまう位置にいる。
「一体なにがあったのですか」
「敵が出たのです。正体のわからないなにかが出て、斬られたのです」
「ロビッシュ殿は」
キーレイが振り返ると、いつの間にやらマリートがまっすぐに立っていた。やはり手練れの魔術師は頼りになるらしい。
「ロビッシュも斬られました」
腕は迷宮の中に落としてしまっただろうし、あの首の傷は深すぎて、今の自分では癒しきれない。
彼のために力を使っていては、ニーロとウィルフレドを救えなくなる。
朦朧としつつもそう判断したのは自分で、キーレイは小さく肩を落とした。
仲間はなにも言わない。ロビッシュを救わなかったというキーレイの行動について、なにも言わない。
ニーロが体に不調がないかよく確認するように言って、皆が腕をまわしたり、飛んだりして体を動かしている。
問題ないと結論が出てから、四人ははしごを降り、仲間のもとに集ってそれぞれに祈りを捧げた。
「ニーロ、なにか聞いているか?」
マリートの問いに、無彩の魔術師ははっきりと答えた。
「もし自分が死んだら、故郷に送ってほしいものがあると頼まれています」
「ロビッシュがそんなことを?」
「ええ。弔いはどうでもいいとも言っていました」
考えが追い付かなくて、キーレイはため息をついた。
そんな神官の肩を叩いて、マリートは穴を出ていき、すぐに大きな布を抱えて戻ってきた。
「回収の奴がいたぞ、珍しく」
さきほどの若者がいたのかもしれない。ふらふらと戻っていく自分を気にしたのかもしれないとキーレイは思う。
黒い布を広げ、ロビッシュの体を包んでいく。盛大にぶちまけられた血のあとは、しばらく「黄」を冷やかしにきた素人たちを驚かせることになるだろう。
「西の墓地でいいか?」
マリートの問いかけに、ニーロは小さく頷いた。
「少し高くなっている、いい場所があります。そこに連れていきましょう」
夜空が少しずつ明るくなって、朝が来ようとしていた。
長い一日が終わろうとしている。散々な目にあった、ひさしぶりの酷い探索の記念日が。
街の西側へ歩いていって、たむろしている男たちに頼んで穴を掘ってもらった。
神に祈りを捧げて仲間を弔ったはずだ。そんな気がする。だが、いまひとつ確信がない。
気が付くとキーレイは樹木の神殿にいた。仮眠をとるための部屋で横になっていた。
ニーロの血がついた上着はなくなり、新しいものを羽織っている。
よく寝たように思うが、頭が重い。体の動きもやたらと鈍くて、起き上がるだけで一苦労だった。
部屋を出てみると神殿の中には誰の姿もなくて、またため息をつく。
当番の者はどこにいるか、ふらふらと歩いて、よろけて、一番前の長椅子の左側に腰を下ろした。
あの時に見た夢。
あの体験がなければ、脱出の魔術は使えなかっただろう。
「なにか、意味があったのですか?」
キーレイの問いかけに答えるものはない。神殿の中は薄暗くて、なんの音も聞こえず、今何時なのかが気になってきたものの、体がだるい。
「キーレイさん」
呼ばれてはっと目が覚めた。どこまでが夢で、どこからが現実なのだろう。わからないまま、キーレイは瞬きを繰り返し、眼前に立つ魔術師を見つめる。
「ニーロ」
「どうしてこんなところで寝ていたんですか」
「どうして?」
寝ていたのだろうか。仮眠の部屋で目が覚めて、ここに座って。眠ってしまったのだろうか。
「夢だったのかな」
「どんな夢ですか?」
「一緒に『黄』に行ったのは……」
ニーロはいつも通りの涼しげな顔をして、キーレイの隣に座る。
「それは夢ではありません。僕たちは行き止まりの部屋で失敗して、ロビッシュさんを失いました」
「そうか」
「キーレイさんはとても疲れていて、埋葬の途中で倒れてしまったんです」
そうだっただろうか。どんなに探っても、記憶にない。小さくなってしまったスカウトが土の向こうに消えていくのを見たような気がするし、見ていないような、夢だったような気もしていた。
「すまない」
ニーロは小さく首を振る。
「魔術を、それも『脱出』を初めて使って、僕たちの命を救ってくれたのですから、消耗は当然です」
そうだ、薬の代金を支払わなければならない。いつもの店で、この街では最大限の保証を持つキーレイなのだから、多少の遅れは許してもらえるだろうが、それでも早いに越したことはない。
「僕は死んだのですか?」
キーレイはぼんやりとした視線をニーロに向ける。
「……どうだったか」
「わからないのですか?」
そう。わからない。キーレイにははっきりと、ニーロが死んでいたかどうかはわからなかった。
「あの時、すごく気分が悪かった。頭がぐらぐらと揺れていて、音もよく聞こえなかったし、吐きそうになった。気を失いそうだったが、ニーロがすぐ隣に倒れていて、急いで傷をふさいだ……」
ほとんど無意識にしたことだとキーレイは思った。
ニーロは首を傾げて、こんな風に呟く。
「ピエルナさんに会ったように思ったんです」
「赤」の迷宮で、彼女は俯いて立ち尽くしていたとニーロは言う。
ともに歩んで、最下層まで進んだ迷宮で、なにも持たず、なにも語らないまま立っていたのだと。
「そうか」
そして、思い出した。やはりふらふらと椅子に移動した後、眠っていたのだ。
夢を見た。かなり昔の光景、ほんの短い時間の邂逅を思い出したような夢だった。
「私は初めてロビッシュを見た時のことを夢にみたよ」
あれは何年前だっただろう。まだ神官としては駆け出しだった頃、ある中堅探索者の一行が景気のいい話をしていた。両親に連れられていった食堂の奥に、店には似つかわしくない品のない連中が騒いでいたことがあった。
その中で一人落ち着いて酒を飲んでいる男がいた。他愛のない話に愛想笑いで答え、自分からはなにも語らずにつまみに手を伸ばしていて、それが印象に残ったものだった。
優秀なスカウトは難しい迷宮へ挑む。そして、罠にやられて死ぬ。けれど優秀なので、地上へ戻され蘇る。
また迷宮へ行って、死んで、蘇って。
生き返りは完全ではない。神官たちの腕の良さ、傷の深さ、死んでから経過した時間が結果を左右する。
傷が塞がっていなかったり、体が傷んでいたり。蘇生しても、どこかの機能が失われてしまう者も多い。
「彼はごく普通の探索者だった。あんな風に這って進まなかったし、話し方も私たちと変わりなかった」
何度も呼び戻されるうちに姿が変わった、と聞いたことがあった。
あいつもマトモだったのにねえ、と仲間が話していたのも聞いた。
顔には傷のあとが残り、体がかゆいのかばりばりとかきむしるようになった。
よくわからない言葉で意思を伝えるようになり、勝手なルールで合図をするようになった。
姿形を醜く変えるかわりに、他の誰にもない特別な力を得たようだった。
それで彼の人生は大きく変わった。日々にあるのは、迷宮、探索、罠の解除ばかり。
「もしももう少し傷が浅くて、治せたとしても……」
生き返らせるのが、彼にとって良かったかどうか?
神に逆らうにも限界があるのかもしれない。
キーレイは考え、ニーロを見つめる。
魔術師はなにか答えようとしたが、やめたようだ。
小さく開いた口を噤んで、かわりにキーレイをまっすぐに見つめ返している。
ロビッシュについて、これ以上の言葉は必要ないらしい。キーレイはそう理解して、話題を変えた。
「ウィルフレドは? 調子はどうだ」
「傷はしっかりふさがっていて、問題ないようです」
「マリートはどうだ」
「まったく問題ありません。壁に嵌ったのは怖かったようですが」
それについて謝る必要などない、とニーロは小さく笑う。
「よく『脱出』が使えましたね、キーレイさん」
「術符を読む暇はなかった。夢中だったよ、本当に」
夢で見たラーデンの業を思い出して、自分のうちにある見えない手を伸ばした。そんな感覚だった。
見えない力に振り回されて、掴んでいた仲間も散らばってしまったようだが、それでも外には出られた。
「敵が出たと言いましたね」
「マリートに聞いてないか? 本当に姿が見えにくいが、一体倒していたように見えたよ」
「同じような話をしていました。見えないなにかがいたんだと」
「あんな厄介な敵がいるとは、驚いたな、ニーロ」
「本当です」
ロビッシュたちの背後の壁から這い出てきたように思う。
たまたま反対側にいたから、マリートとキーレイは斬られずに済んだ。
「しばらく探索はお預けだ、ニーロ。残念だろうが、必ず七日は休むんだぞ」
治癒をする神官も消耗するが、深い傷を癒された者もまた消耗している。確実に回復していると判断するには、時間がかかるものだからとキーレイは話した。
大真面目に語る神官に、ニーロは薄く笑って答える。
「キーレイさんも二日眠っていましたよ」
「なんだって?」
「すぐに起きるだろうと思ってここに連れてきてしまったのです」
ちゃんと家に送るべきだったとニーロは話した。
けれど、血だらけの探索者が抱えて行けば、キーレイの家の者たちが不安がるかもとウィルフレドが心配したのだという。
ニーロに礼を言うと、一気に空腹感が襲ってきて、キーレイは腹を押さえた。
「食事に行かないか、ニーロ」
無彩の魔術師は小さく首を振る。
「たまには付き合ってもいいんじゃないか」
「今は真夜中です、店はどこも開いていませんよ」
なんだと、とキーレイは辺りを見回した。
窓の外は確かに真っ暗で、神殿の中が静まり返っているのも当然だったようだ。
「カッカー様のお屋敷に行きましょう。なにかあるかもしれませんから」
店には行かないが、神官の食事には付き合ってくれるらしい。
二人で神殿を抜けてすぐ隣のカッカー邸へと移動していくと、食堂にはなにをしていたのか、ヴァージの姿があった。
「良かった、キーレイ、目が覚めたのね」
麗しい人妻に頬を撫でられ、初めての経験にキーレイは気恥ずかしくなって、なんと答えたらいいのかわからない。
「スープがあるから、温めるわ」
「ありがとう」
ニーロと並んで食堂で座り、燭台にともされた小さな炎を見つめる。
とんでもない探索の記憶がゆっくりと蘇ってきて、キーレイはそっと目を閉じた。
やはり「黄」の迷宮は恐ろしい。
なんの目的もなくただぶらぶらしていたわけではないのに、追い出されてしまった。
余計な秘密を探ろうとした者には罰が与えられるのだろうか?
難しい罠を仕掛け、いかにもなにかがありそうな場所を作って、やってきた者をあざ笑っているのだろうか。
「またあそこに行くには時間がかかりそうだな」
キーレイがこう呟くと、ニーロはなぜか体を揺らして笑った。
「なにがおかしいんだ、ニーロ」
この問いかけに、無彩の魔術師は嬉しそうに微笑んで答えた。
「一緒に歩んでくれてありがとうございます、キーレイさん」
そう告げられて、キーレイは戸惑う。
「魔術を使う練習をしましょう。もっとうまくコントロールできるようになりますよ」
「そうか、私はますます便利な存在になったんだな?」
「そんな話はしていません。魔術など使えなくても、キーレイさんが一番大切な仲間です」
スープが運ばれてきて、キーレイの前に置かれる。
お休み、と囁いてヴァージは部屋へ戻っていった。
誰かが狩ったであろう迷宮兎の肉が入ったスープの味はいまいちだったが、温かさが体にしみわたっていくようだった。
「薬の代金は支払っておきました」
食事をするキーレイの隣で、ニーロは上機嫌なようだ。
ウィルフレドの鎧が壊れて修理に出したとか、マリートは内心で怯えているだとか。探索後二日間で起きた他愛のない出来事について報告をしてくれる。
皿が空になり、部屋に静けさが訪れる。
外はまだ真っ暗だ。夜明けまではまだ時間があるだろう。
「家に戻るか、ニーロ」
「そうですね。キーレイさん、ゆっくり休んで下さい」
「大切な仲間だから?」
軽い気持ちでキーレイがこう言うと、若い魔術師は小さく首を振って答えた。
「まだまだお疲れのようなので」
「今度は年寄り扱いか?」
「二十年以上探索を続けていて、一度も死んだことのない者など、あなたのほかにはいないでしょう」
ニーロはまっすぐにキーレイを見つめ、手を胸に当てると、ゆっくり頭を下げ、去っていった。
また記憶が刺激されている。
一度だけ見たことがある、あの仕草。
魔術師ラーデンがとある探索から帰った時に、傷だらけになったカッカーに向けてしたのと同じだ。
きっと壮絶な旅だったのだろう。
あのラーデンが、と幼かったキーレイの記憶に強く刻まれている光景だ。
屋敷から出ると、空にはたくさんの星が浮かんで輝いている。
道は薄暗く、人通りはない。なんの音もしないし、なんの匂いもしない。
ラディケンヴィルスの乾いた道を歩いていく。
今日が何日で、自分の神殿の当番がどうなっているかわからない。
「いや、いいか、そんなことは」
キーレイが来なければ、かわりに誰かがやるだろう。
そうでなければ困る。いつかどこかの迷宮の片隅で死んでしまうかもしれない暮らしをしているのだから。
神官はふっと笑って、地面に転がる小さな石を蹴った。
こんな考えで、ニーロやマリートたちのことをよくいえたものだ。
結局キーレイさんは探索者。ララの言った通り、彼女の見た通りが真実だった。
仕方がない、生まれも育ちもラディケンヴィルスで、この生活が当たり前なのだから。
こんな風に考えたのは初めてで、自分に呆れてしまう。
けれど、それが嫌ではないとキーレイは思って、星を見上げながらゆっくりと帰り道を進んだ。




