43 誰そ彼
やりがいのない仕事を放棄して、チェニーは探索の訓練を重ねていた。
彼女の導き手の名は、この街に似つかわしくない紳士であるところのジマシュ・カレートという男だ。彼の仲間にはずいぶんと下卑た連中も混じっていたが、それでも、ジマシュの囁きはチェニーにとって魅力的だった。
やってもやらなくても同じであろう町の見回りや、つまらない相談の当番を放り出し、「橙」、「緑」、そしてとうとう「藍」へ。
騎士を目指して鍛錬してきた女の剣の腕、勘の鋭さ、呑み込みの早さを、男たちは称えてくれる。
失敗をする日はあっても、それまでの人生にない高揚と充実があった。
大丈夫だ、心配しなくていい。君ならば、次はもう同じ失敗をしないだろう?
穏やかな声が心地良い。ジマシュの眼差しは、チェニーが初めてみる煌めきだった。
自分を必要以上に女扱いしてくるか、それともまったく女として扱わないか。こんな対極のふたつではない、信頼に満ちた視線。戦士として、将来のある仲間として。この町で唯一輝ける星に照らされた気分で、チェニーはラディケンヴィルスでの日々を過ごしていた。
「ダング調査官」
当然、その日はやってくる。
誰も身の入った仕事などしていない組織ではあっても、チェニーのさぼり方は少しばかり大胆すぎた。
「最近姿を見かけないので、心配していたよ」
迷宮調査団をまとめているのは、ショーゲンという名の男だ。
かつては高名な騎士だった。今は違う。目つきは鋭いが、瞳の色は濁っていて、暗い。
「私なりにこの町について調べておりました」
「かまわんのだがね。だが、あまり怪しげな連中とつるまないことだ」
女は目立つ。ましてや、武装しているとなれば尚更だと、ショーゲンは言う。
「やりがいがないと思っているのだろう。それについては否定せんよ。だが、たまには顔くらい出したまえ。与えられた仕事も、少しくらいした方がいい」
その方が帰還する日も早まるだろうから。
このセリフにひどくいらだって、チェニーは眉間にしわを寄せた。
「帰還する日が来るのですか?」
「除隊するというなら、今日にでも帰れるが」
それを望んでいるのかね?
気だるげに呟き、まるで野良犬でも払うように手をぱたぱたと振られて、チェニーは更にいらだちながらショーゲンの部屋を出た。
勢いよく町へ飛び出したチェニーだったが、商店が並ぶ西側の道を歩いているうちに、すっかり後悔に捕らわれていた。
ジマシュと過ごす時間は満たされていて、これこそが正しい道だと思える。
町の人間は調査団をあてにしていない。新しく発見されるものはもう滅多にないし、地図だの魔法生物の生態なんてものは探索者たちが勝手にまとめあげている。
暇を持て余しているよりもずっと有意義だと、感じていた。
しかし、やはり任務の放棄は「いいこと」とは言えない。
生真面目な女騎士は顔をしかめたまま北に向かって歩き、やがて大きなため息をひとつつくと、そばにあった食堂へ入った。
さきほどまでの反省はどこへやら、酒を一気にのどへ流し込んでいる。
小さな杯に入る量は多くはなくて、店主にもう一杯同じものを頼み、再びあおる。
ずっと抱き続けてきた、正義感と憤り。
必死になって隠し続けてきたが、最近ではすっかり不満の方が大きくなってチェニーの心を揺らしていた。
このまま探索者になってしまえばいい。そんな声も、心の奥底から聞こえてくる。だけどそれは、今までの自分への否定にも感じられるし、大体、そこらじゅうを歩いている探索者たちの姿が、チェニーは好きではなかった。昼を過ぎて、浅い探索から戻ってくる者が増えていく。誰もかれも薄汚い格好で、たいした収穫もなく、貧相な装備品をがちゃがちゃ鳴らしながら歩いていて、品がない。
チェニーの瞼に浮かぶのは、ジマシュの顔だった。
揺れる金髪が光の粒をこぼし、世界を照らす。彼の髪はいつもきれいだ。整えられているし、乱れない。汚れていないし、嫌な臭いもしない。
彼とならば探索業も悪くはないのだ。けれど、二人だけではあまり複雑な仕事はできないだろう。ジマシュは目利きだし、剣の腕もいい。交渉にも長けているが、探索に必要な技術はほかにたくさんある。
ジマシュの連れてくる連中は汚らしいが、腕はいい。彼らもまた、ジマシュを崇拝しているようだとチェニーは思う。
波の中で揺れるチェニーの隣に、薄汚れた爪の大男が立つ。
「なあ」
すぐに財布を取り出し、酒の代金を置いて店を出た。
そんな女騎士の目に、よく見知った顔が飛び込んでくる。
ショーゲンだった。フードを目深に被っているが、すぐにわかった。
そわそわした様子で北へ向かって歩いていく。
自分に説教をしておきながら、あんな姿でどこへ向かうつもりなのだろう。
いら立ちのままにチェニーは後を追う。お気に入りの兵士を一人連れただけで、ショーゲンが向かった先。町の北西の一角に固まっている店といえば、あれしかない。
ラディケンヴィルスは迷宮を中心に、少しずつ広がっていった街だ。
調査隊のための宿舎ができ、学者がやってきて研究をはじめ、噂を聞きつけた商人が集まって、成長してきた。
大勢の男が集ったら、彼らのための安らぎも必要になってくる。誰が始めたのかわからないが、ひとつできればすぐに次、さらに次の店が立ち並び、今では相当な数の娼館が存在している。
食堂が並ぶ通りが途切れて、雰囲気はがらりと変わった。
女たち、借金返済のために働かされている者たちが逃げ出さないよう、用心棒がそこかしこに立っている。
ショーゲンがそそくさと通りに入っていこうとしたところで、チェニーは声をあげようとした。
人を責めておきながら、自分も日が暮れないうちに遊びに来ているではないかと糾弾しようとしたが、出来なかった。
通りの向こうから男が一人歩いてくる。
背の高い、堂々とした体躯の男。太陽の光に照らされて、顔には色濃く影が落ちていた。
「ウィルフレド殿」
チェニーの呟きはとても小さなものだったのに、ウィルフレドは足を止め、顔を上げた。
すると、前を行くショーゲンも立ち止まっていた。表情は見えないが、足を止めた戦士に目を向けているようだ。
ウィルフレドはチェニーを認めて、ほんの少しだけ口の端を上げて笑う。
その姿は薄汚れた通りには似合っていなくて、こんな場所で出会うなんてという思いが湧き出し、チェニーの胸を強くたたいた。
「あの……」
チェニーには気が付いていないのだろう。ショーゲンはゆっくりと、ウィルフレドの前へ進んでいく。
「あなたはひょっとして、ブルノー様ではありませんか」
声をかけながら、ショーゲンは慌てた様子でフードを取っている。
「人違いです」
「しかし」
「私は北にある小さな町から流れてきました。王都から来た調査団に知り合いなどおりません」
強い目の光に気圧されたのか、ショーゲンは二歩ほど後ずさって、やがてくるりと振り返ると来た道を戻っていってしまった。
それを見送り、ウィルフレドはまた小さくほほえみを浮かべると、チェニーの前へと歩みを進めた。
「失礼。調査団にも知り合いはおりましたな」
嘘だ、とチェニーは思う。
ただの田舎の小さな町で、こんな戦士が育つはずがないと。
「こちらでなにをされていたのですか」
「人探しですよ」
すぐそこに大きな娼館が並んでいる。
だが、鎧で身を包んだ女と鋭い眼差しの偉丈夫という組み合わせに、客引きも遠慮して声が出せないようだ。
「娼婦に聞こうと思ったのですか?」
「あの屋敷にいるものたちが探していたのですが、皆まだ若い。このあたりには足を踏み入れないだろうと思って、それで来ました」
借金のかたに働かされている者が多くいるらしいので、とウィルフレドは言う。
「ダング調査官は、こちらでなにか仕事があるのですか」
「いえ、こんな場所には用はありません」
慌てて否定をするチェニーに、ウィルフレドは小さく頷くと、調査官の背中を優しく押した。
「では行きましょう。私の用も済みましたから」
ひょっとしたら、女を買って楽しんでいたのかもしれない。
人を探すついでにか、もしくはお楽しみのついでにか。紳士然とした姿のウィルフレドだが、彼だって男なのだから。
けれど、そうではないかもしれない。このあたりが賑わいだすにはまだ時間が少し早くて、ウィルフレドは下働きをしている男たちに声をかけてまわっただけなのかもしれない。
なぜ自分がそんな風に考えているのか、チェニーはわからなくなって、歩きながらため息を漏らしている。
「調査隊の仕事は気苦労が多いでしょう」
ラディケンヴィルスの町はどこもかしこも騒がしいのに、髭の男は耳がいいらしい。
なんと答えればいいのか、悩んだあげく、チェニーは手短に答えた。
「ええ」
それ以上の会話はなく、二人の邂逅はすぐに終わった。
東西の馬車乗り場をつなぐ大通りに出ると、ウィルフレドは小さく会釈をして、すぐに東へ向かって去っていってしまった。
あの生意気な魔術師のもとへ帰るのだろうか。実力があっても、失礼な少年だった。あそこに集っていた連中は出自の良くない者ばかりで、ウィルフレドの暮らしが彼らと交わっているのはおかしいと思う。
正直にそう訴えれば、共に来てくれるようになるだろうか。
考えながらチェニーは歩いて、まっすぐに職場に戻り、部屋に入ろうとしていたショーゲンを捕まえた。
「さきほどの方をご存じなのですか」
「さきほどの方とは」
「娼館の前で声をかけたでしょう。口髭をはやした、手練れの戦士に」
ショーゲンはあきらかに慌てている。
廊下の端には兵士が立っているが、大きな声を出さなければ話の内容までは聞こえないだろう。
「どなたと間違えられたのか教えていただけませんか?」
「彼と知り合いなのかね」
「『紫』の調査に行った際に同行してもらったのです。とても腕の立つ戦士で、協力的でした」
ウィルフレド・メティスと名乗ったはずだ。
チェニーが口にした名に、ショーゲンは首を傾げている。
「なぜ気にする?」
「……彼はこの町に来たばかりの探索初心者だといいます。ですが、とてもただものとは思えません。名のある戦士だったのではないかと考えていたのです」
チェニーの説明に納得がいったのか、ショーゲンは悩んだそぶりを見せたものの、結局はその考えを部下に明かした。
「王の直属の騎士の一人と似ていると思ったのだ。最後に見たのはもう十年も前だが」
「なんという名のお方ですか?」
「ブルノー。ブルノー、……ルディスだった、はずだ」
知ったところで意味などない。
ウィルフレドがもし「王に仕える騎士」だったとしても、認めないだろうから。
けれど、王の直属の騎士だったのならば彼のあの鋭さ、清冽なオーラには納得がいく。
だから彼はきっと、ブルノー・ルディスなのだろう。
少し浮かれた気分でくだらない書類仕事を済ませ、夕方になってチェニーは宿舎へ戻っていた。
調査団の宿舎には、部外者は入れない決まりだ。だが、チェニーの部屋には来客が入り込んで、持参したであろう果物をかじっている。
「君の婚約者だと話したら、入れてくれたよ」
ジマシュの白い歯が果実の皮を破って、甘い香りを部屋中に振りまいていく。
「君には王都に残した婚約者がいるんだね」
「いいえ、そんな相手はおりません」
チェニーの部屋は宿舎の一番奥にある。
ほかの利用者といくつもの空き部屋を挟んだ、奥の部屋を使っている。
女性の調査団員はほかにいない。一応の配慮があって、この部屋を割り当てられていた。
「そうか。では、君にはいかにも決まった相手がいそうで、私は王都からやってきた騎士に見えたと思っていいのかな」
ジマシュは腰から真っ白いハンカチを取り出して、指についた果汁をぬぐっている。
「君に婚約者がいなくてよかった」
「……なぜそう思うのです?」
「君に触れた男はまだこの世にはいないようだから」
気障な物言いは、チェニーがかつて世界で最も嫌っていたもののひとつだった。
なのになぜだろう。目の前で微笑む男から、目を離せないでいる。
いつもは乾いたばかりの自分の部屋に、果実のふりをした至福の香りが満ちていた。
理性で否定しながら、体は既に酔っている。
「チェニー、もしも仕事が忙しくないのなら、また共に探索に行ってほしい」
こんなにも濃密な恋の香りを振りまいておきながら、ジマシュの唇から出てきたのが「探索の誘い」だったことに、チェニーの心は火であぶられたような痛みを覚えている。
「ええ、別に、構いません」
けれど、誘いは誘いだ。
ジマシュの波打った金髪が、差し込んだ太陽の光を受けて輝きを放っている。
その光が自分までは届いていないことに気づき、チェニーの足が震えた。
「今度は『赤』へ行こうと思っているんだ」
光に触れ、照らされたい。
そうすれば生まれ変われるような予感が、女の心を染めていく。
「チェニー」
踏み出せないチェニーに向かって、ジマシュは薄い笑みを投げかけた。
食べかけの果実をテーブルの上に置き、戸惑う女の手を取り、顔を優しい形に変えて。
「踏破したいと思っているんだ。『赤』は既に最下層に降りた者がいるから、たいした栄誉は得られない。けれど、最下層にたどり着くまでにたくさんの貴重なものが手に入るだろう」
最下層はすべての探索者たちの夢。
最初の踏破者にならなくても、強者として認められるし、多大なる富を得られる旅だ。
だけどそれは、とても平凡な夢想とも言えた。
目の前の男から語られる言葉に失望しかけた瞬間、再び光は差し込んだ。
「君にそのすべてを捧げたいと言ったら、気を悪くするかな?」
ジマシュの白い指が、体の中のすべてを掴んだように思った。
必死で守り続けてきたちっぽけなプライドは砕かれ、かわりに頑なに拒んできた娘のこころが、一面に花を咲かせていく。
香しい匂いに世界が揺れて、視線が定まらない。
そんな女の変化を残さず見抜いて、男はすかさず進み、二人の間の距離をなくした。
「もしも君がいいのなら、私の部屋に来てほしい」
葛藤は山のように降り積もってきたのに、すべてが砕かれて散ってしまった。
自身をつないでいる鎖は何本もあったのに、すべて砂になって崩れ落ちてしまった。
ジマシュが去って、一人。
チェニーはしばらく部屋で座り込んでいたが、夜が更けると宿舎を出て、黄金の髪を持つ男の部屋へと走った。




