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12 Gates City  作者: 澤群キョウ
09_Special Neighbor 〈灰色ののぞき窓〉

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39 神子と神官

 神殿には様々な人間が訪れる。

 ごく普通の街にある神殿であれば、やってくる者の目的は祈りや懺悔、人生相談などになる。

 だがここは迷宮を九つも地下に抱いている街なので、怪我人や死人、手伝いを頼みに来た探索者が主な来訪者だ。


 怪我人が最も多く来るのは、迷宮入口に近いところに建っている「雲」と「鍛冶」の神殿。「かまど」も探索者の人気が高い。「車輪」も近いが、こちらは神官の数が少ないのであまりあてには出来ない。

 「樹木」の神殿は街の南側にあるので、迷宮の入口からは少しばかり遠い。商人たちの住居や彼らが好んで使う高級店ばかりが並んでいる通りを移動しなければならないので、癒し目的の者はあまり来なかった。

 探索者の来訪が少ない「皿」と「流水」の神殿は、財政が厳しく、それぞれ建物の老朽化に悩んでいる。「石」も似たような状況で、年に何回かある神官たちの会合で必ず愚痴を聞かされる。

「『樹木』はいいですね、商人たちのお抱えですから」

 南側には「船」の神殿があって、商人たちが好むのはむしろそちらの方だ。「樹木」にそれなりの寄進があるのはカッカーの人徳の賜物であって、キーレイが大きな商店の長男坊であることは関係がない。だがそんな事情を、相手はいちいち考えてはくれない。

 会合のたびに繰り出される嫌味に対して、愛想笑いを浮かべながら話題を変える。そんなやり方にも慣れてきたところだが、やはり気は重い。


 後輩の指導、神殿での仕事、会合、実家からの使い、それから探索の要請。

 キーレイ・リシュラは忙しい。神殿での仕事は朝早かったり、夜通しだったり、休みがあっても呼ばれたり。カッカーの引退後、神殿の責任者に任命された。仕事は倍増し、これまではカッカーに寄せられていた初心者たちの悩み相談も引き受けている。それどころか、夜勤の時にはカッカーが悩みを打ち明けにくる始末だ。

 自分も頼られる立場になったのだと心に言い聞かせながら、キーレイは足を踏みしめて立っている。仕事を見つけ、確たる自分を作る。自分の居場所を見つけ、そこに根を張って生きていく。樹木の神が説く教えを、かなり忠実に実践していると言っていいだろう。


 だが、歯を食いしばって踏ん張るキーレイに、今日の深夜の相談は重たかった。


「ヴァージが誰かと会っているようだ」


 ひっそりと静まりかえった神殿の端で、カッカーの表情はげっそりしているように見える。

「誰かとは」

「わからん。最近入った若い神官がいるだろう。女の」

「ララですね」

 まだ十五歳の若い神官に娘たちを預けて、ヴァージはどこかへひっそりと出掛けた。

 ヴァージもキーレイ同様、忙しい。娘たちの世話もあるが、屋敷の切り盛りもしなければならない。掃除、洗濯、相談、炊事、備品の管理などに加え、スカウト技術の指導もしている。その貴重な合間をぬって、誰かと、密会に及んでいた。

「カッカー様には内緒で、ですか」

「そうだ。留守について誰にも口外しないで欲しいと言って出て行ったらしい」

 まだ若く、なにもかもに不慣れな新入りの神官は、うっかりカッカーに娘たちと遊んだ時の話をしてしまったようだ。

「なにか理由があったのではないですか」


 カッカーの心配はわかる。ヴァージは若くて美しい。二人のこどもを産んでもまったく衰えない美貌の持ち主で、既婚と知っていても想いを寄せる男は何人もいる。キーレイにも心当たりはあるが、しかし、ヴァージが応じるとは思えない。


「私もそう思うのだが……」

「ヴァージほど誠実な女性はいませんよ。カッカー様を心底愛しています。ですから、隠し事があったとしても、それは良い行いのためなのでしょう」


 励ましながら、うすっぺらな言葉だとキーレイは思った。

 恋愛とはほぼ無縁に生きてきた自分に、夫婦や恋人たちの心の機微など、わかるよしもないだろうと。

 しかし、ヴァージのひたむきな視線には特別なものを感じている。どれだけの男に言い寄られても、なびかなかった。カッカーは今、迷宮都市を去ろうと考えているが、彼女は決して反対しないだろう。カッカーのために生き、いつまでも尽くす。そう信じられる輝きが、ヴァージの瞳の中に存在している。と、思う。


 悩み深い元神官は、納得したような、していないような半端な表情で去って行った。

 深夜の神殿はまたひっそりと静まり返っていく。

 キーレイはランプの油を点検してまわってから、仮眠のための小部屋へ移って横になった。



 微かな物音で目を覚まし、キーレイが神殿へ移動すると、見慣れた後姿が目に入った。

 神殿に並べられた長椅子の一番前、左端には灰色の長い髪。

 長い間不思議に思っている、迷宮都市の謎の一つだ。信心などかけらも持ち合わせていなさそうなニーロはしばしば早朝に神殿を訪れて、片隅でじっと座っている。

「早いな、ニーロ」

 普段は声をかけない。だが、この日は違った。なぜなのか考えてみたが、起きたばかりだからか、寝不足だからなのか、キーレイにはまだわからなかった。

「おはようございます、キーレイさん」


 よく見知った人間であれば、感心だと言う。

 初めて会う誰かにであれば、どんな用か問いかける。


 ニーロが相手ならば、やはり迷宮の話をするのが妥当だ。


「『白』はどうだった? 思ったよりも長かったな」

「ええ、深くへ行けました。ウィルフレドの力です」

 それは良かった、とキーレイは笑う。

 気を良くしたのか、ニーロは「白」の探索について話を始めた。

 二人の剣の腕が良いので、怪我がなかったのが奏功した。ウィルフレドはやはり精神的にも強い戦士だった。マリートは家の件でまだ不機嫌だったが、表だって諍いは起きなかった、と。

「マリートはまだへそを曲げているのか」

「困ったものです」

 この返答にキーレイは笑ったが、ウィルフレドが迷わずニーロの家を選んだのは少し意外だと思っていた。

「二人暮らしはどうだ?」

「問題ありません」

 本当に「問題ない」のならば、ウィルフレドの精神的な強さは相当なものなのだろう。まだ不慣れなこの街で、こんなにも風変りで、親子ほどの年齢差の魔術師と共に暮らせるのだから。

「ベリオはもう、戻ってこないのかな」

 ついでに前の同居人が気になって、キーレイはこう問いかけた。

 ニーロは首を小さく傾げて、どうでしょう、と呟いている。

 ひょっとしたら、もう、「戻って来られない」のかもしれない。

 頭をかすめたこの考えをどう読み取ったのか、魔術師は小声でこう答えた。

「まだこの街のどこかにいますよ」

「わかるのか」

 苦笑いしているキーレイに対し、ニーロの表情はいつも通り、真摯なものだ。

「僕といるのが嫌になったのかもしれませんね」

 自分勝手ですから、とニーロは言う。

「そんな自覚があるんだな」

 これには、返答はなかった。意外な言葉だったが、この魔術師らしいともキーレイは思った。

 ニーロは扱いにくい人間だが、嘘がない。誤魔化さないし、逃げない。


 だからウィルフレドがニーロと共にいたいと願うのも、理解できる。

 マリートがいつまでもニーロにこだわるのも、わかる。

 ロビッシュが「一番好き」と言うのも、納得がいく。

 ただ実力があるというだけではなく、彼の姿勢に惹かれるのだろう。


 だが、共に歩み続けるのは難しい。


 ベリオは諦めたのかもしれない。

 実力がない者は容赦なく置いていかれるとわかっていたから、無様な姿を晒す前に、自分から去った。

 屋敷の面々とはあまり打ち解けなかった若者について考えていると、ふと深夜の相談が思い出されてきて、キーレイはこう切り出した。


「ニーロ、ヴァージがこっそり会っている相手がいるらしいんだが、なにか知らないか」

 

 ヴァージが最も心を向けている相手はカッカーで間違いないが、次に近しいのはニーロのはずだ。

 スカウト技術を教わっている以上に、二人には絆がある。キーレイはそう感じていたので聞いたのだが、返事は予想外なものだった。


「五日前に会った相手ならば、僕です」


 カッカーの相談が五日前の密会についてなのかはわからない。戸惑うキーレイに、ニーロは自ら証拠を突きつけてくる。

「こどもたちを樹木(こちら)の神官に預けた日ならば、間違いありません」

「どうしてニーロと会うのをカッカー様に隠す?」


 まさか。

 ニーロからは、そんな気配を感じない。普段から女の気配を一切感じないのに、まさかヴァージと裏で繋がっているなんて、そんな馬鹿な話があるだろうか。


「そんな目で見られたのは初めてですね」

 どんな顔になっていたのか、ニーロはうんざりした様子で目を閉じている。

 

 まだ早朝の神殿には誰も姿を見せない。誰も扉を開かず、誰も緑色の絨毯の上を歩いては来ない。

 草木の彫刻がほどこされた長椅子は随分古いもので、前から二台目のものには座面にひびが入っている。早く取り替えなければと思っていたのに、すっかり忘れてしまっていた。


 現実逃避をするキーレイに、ニーロの呆れ声が降り注ぐ。

「ヴァージさんには頼まれていることがあるんです。それについて、報告するために会っていました」

「頼まれごとだと?」

「カッカー様に話しますか?」

「内容による」


 カッカーはキーレイにとって大切な人間だ。今現在最も尊敬している人物である。

 ニーロにとっても、同じはずだ。

 キーレイがまっすぐに見据えると、ニーロは観念した様子で口を開いた。


「わかりました。……この件について、ヴァージさんに頼まれたのは二年前です」

 

 ここで言葉は終わる。これ以上言わなくてもわかるだろう、とニーロの瞳は語っている。

 二年前。これだけのヒントで、はっきりとわかる。それ以外に考えられない、重大な出来事があった。


「まだ諦めていなかったのか……」


 記憶の中で急速に色づいていく光景。

 瞼を腫らしたヴァージと、隣で泣く小さな赤ん坊。


「この間フェリクスたちが『藍』へ行きました」

「それとどう関係がある」

「彼らはピエルナさんの使っていた剣を見つけ、持ち帰ったのです」


 そんな馬鹿な。自然と口から漏れ出した台詞に、ニーロは答えた。

「僕も驚きました。たまたま目にしたのですが、間違いなくピエルナさんのものだったので」


 かつてカッカーが「赤」の踏破をしようと挑戦していた時。

 共に潜ったのは剣士のマリート、魔術師のニーロ、スカウトのヴァージ。そして、戦士のピエルナ。他にはいない強運の持ち主、(運命)の神に愛されているからという理由でパーティに加わった、素朴で明るい娘だった。


「あの剣を拾った場所へ案内して欲しいと頼んで、一緒に『藍』に行きました。六層目の『大穴』から落ちた先へ。ピエルナさんの剣は長剣と短剣のセットで、シュルケーの工房に注文して作ったものです」


 覚えている。「赤」を踏破したあと、記念にといって剣を作らせていた彼女の笑顔を、キーレイははっきりと思い出していた。

「本当にピエルナのものなのか?」

「柄に『魔竜』のうろこが嵌めてありますから」


 彼らの「赤」への道の途中で起きた大きな危機(アクシデント)。最下層よりもずっと浅いところに現れた魔竜を倒したのは、幸運の使者ピエルナだった。あの時、五人のうち生き残ったのはピエルナとニーロだけ。剥ぎ取りの技術のない二人は、削り落としたいびつなうろこを戦利品として持ち帰っている。


「しかし、いまさら『藍』に落ちているなんて」


 異を唱え続ける自分に、キーレイ自身も嫌気がさしている。けれど、あまりにも不自然で、納得がいかない。


「考えられる可能性はいくつかあります。どれもこれも、限りなく『あり得ない』ものばかりですが」


 それでも、剣は確かにそこにあったのだとニーロは言う。

 短剣を見つけた場所に自ら赴き、対の長剣も持ち帰ったのだと。


 誰かがピエルナから奪ったか、それとも彼女が剣を手放すような事態があって、その後に拾ったか。その剣を持った誰かが『藍』でうっかり命を落とした? キーレイのはじき出した可能性はこんなもので、確かに「あり得ない」。

 ニーロがすぐに話さないのであれば、彼の中でも結論が出ていないのだろう。どんな可能性について考えているかわからないが、とにかく、確信があれば教えてくれるはずだ。


「ピエルナの剣についてはわかった。だがなぜ、ヴァージはカッカー様にそう言わない?」


 カッカーにとっても、ピエルナは大切な仲間だ。

 彼女が故郷から離れた道の上でひとり、絶望して泣いていた時に出会ったと聞いている。命だけではなく、人生をも救った恩人であるとピエルナは話していた。カッカーを心から慕う、屋敷のために働く気のいい娘だった。明るく素直な性格は大勢に愛されていて、彼女が帰らなかった時には皆が、カッカーですらも動揺を隠せずにいた。


「……もう終わったことだからです」


 しばしの沈黙ののちに絞り出された言葉に、キーレイは息苦しさを感じた。うまく呼吸ができないような不快感が、寝不足の頭をますます鈍らせていく。


「ヴァージさんははっきり言葉にしませんが、ピエルナさんは誰かに陥れられたと考えているようです。でも今大切なのは、カッカー様と子供たちです。だから、僕に頼むのです」

「陥れられただと」

「ラーデン様は僕によくこう言いました。女は感情に囚われる愚かな生き物だが、鋭い感覚も持っていて、しばしば秘密を見抜くのだと」


 いかにもラーデンが言いそうな言葉だと、キーレイは思う。

 ついでに、十歳にもならないこどもに教え込む話でもないとも、思う。


 顔を歪めるキーレイに、ニーロは更に衝撃的な言葉を投げつけた。


「あの時、ピエルナさんのお腹にはこどもがいたはずだとヴァージさんは言います。何度も探索に行くのは止めたのに、わるい男に騙されて行ってしまった。そう考えているのです」

 まさか、がはじめに浮かんだ言葉だ。狼狽しながら、キーレイはニーロの肩を強く掴んで問いかける。

「証拠はないそうです。でもヴァージさんがそう思ったのならば、すべてが真実ではなかったとしても、『なんらか』はあったのでしょう」

 キーレイが掴んだ手をそっとはがして、ニーロは身を翻した。神殿の出口へ向かって、最後にこう言い残して去っていく。


「もしもカッカー様に報告するなら、僕が頼んできてもらったと伝えてください」




 灰色の魔術師が去ったあと、ようやく朝番の神官がやってきたが、キーレイはしばらく神殿の隅で悩んでいた。

 

 ピエルナのぴょんぴょんとはねた短い赤い髪を思い出す。朗らかな笑い声をあげる明るい女性だった。美人とはいえなかったが、愛嬌があって可愛らしかった。

 恋人が出来たとしても、不思議はない。女性の探索者は数が少ないから、彼女たちは総じて男にモテる。しかし、ピエルナには苦い過去があった。婚約者に逃げられ、失望の果てに迷宮都市へ流れ着いたのだ。

 彼女がカッカーに拾われ、屋敷へやって来た時は、ごく普通の田舎の娘でしかなかった。屋敷の掃除をし、探索者たちが汚した寝具や服を洗っては干し、よく食べる若者たちのために料理をしてくれた。

 

 あの頃よく聞いた笑い声が蘇ってきて、苦しい。キーレイはがっくりとうなだれ、迷宮の非情さを呪った。神は傷ついた者たちに手を差し伸べるが、その手のひらの大きさには限りがあって、こぼれ落ち消えざるを得ない羊も少なくない。それがよりによってピエルナなのかと、大勢が涙を落とした。あの頃、帰ってこない彼女を待って、夜遅くまで起きている者が大勢いた。「いやあ、大変な目にあったよ」と言いながら、ひょっこり戻ってくるのではないかと信じ続けていたのに。


 


「ニーロから話を聞いた。まだピエルナを探しているんだな」


 悩んだ末に屋敷の奥、家主夫妻の部屋を訪れ、キーレイはまずこう切り出した。

 ヴァージは赤い唇を噛んだまましばらく答えなかったが、やがて観念したのか、いつもより低い声でぼそぼそと答えた。

「ララが話したのね」

「あの子はまだ色々と不慣れなんだ。責めないでやってほしい」

「責めたりなんかしない」


 ヴァージの足元では、二歳のリーチェが積み木を並べて遊んでいる。手先の器用なマリートが、拾ってきた木材を削って作ったものだ。ひとつひとつに樹木の神官が胸につける印が彫られており、自分にもなにか作って欲しいと頼んだところあっさりと断られている。


「ニーロには迷惑をかけていると思っているわ。あの子はありとあらゆる可能性を考えてピエルナを探してくれているの。故郷に帰っているんじゃないかって、何人も人をやって、周りの街まで確認してくれた」

「そこまでしていたのか」

「そうよ。だってピエルナが帰ってこないなんて……。おかしいんだから」


 まだ「赤」の踏破を果たせずにいた頃、カッカーが集めた四人の仲間はあまり相性がいいとはいえなかった。


 マリートは人と話すのが苦手で、自分の「好み」とそうではない相手、対応の差が激しい。

 ニーロは誰のいうことも聞かない。


 ヴァージとピエルナは女性同士だが、とても対照的な二人だった。

 ピエルナはヴァージが苦手だったはずだ。愚痴を聞かされ、ピエルナが思っているような女ではないと、何回か話した記憶がある。


 だが二人はいつの間にか、強い絆で結ばれていたようだった。

 ヴァージがカッカーとともに引退すると宣言した時、ピエルナは突然走りだし、屋敷を飛び出していった。そして腕いっぱいに花を抱いて戻ってきて、おめでとう、おめでとうと誰よりも大きな声で祝福していた。


「ヴァージ」

「キーレイ、言わないで。わかっているの。迷宮に行くといった誰かが戻ってこなかったら、死んだと考えるのが当然。皆がそう思うのは当然だってわかっている」


 ヴァージの背後には小さなベッドが置かれていて、そちらにはまだ赤ん坊のビアーナが眠っている。母によく似た大きな瞳は愛くるしく、殺伐とした話題の多い迷宮都市にとって尊い存在だ。


「もう諦めていい頃だっていうのも、わかっている」


 たとえ剣が見つかったとしても。

 「ピエルナが落とした」とは限らない。

 誰かが彼女の身ぐるみをはいで、売り払ったのかもしれない。


「あの頃、ピエルナはとても幸せそうだった。だけど、相手についてちっとも詳しく話さなかった。会わせてほしいと言ったけれど、結局名前すらわからなかった。あの日、一緒に迷宮に行ったメンバーについても、ちっともわからない。おかしいでしょう? そんなの。いくらなんでもおかしいでしょう?」


 絞り出すように話すヴァージの手を取って、キーレイは俯き、額をつける。


 すまない、自分が悪かった。

 人の死が他のどこよりも近い迷宮都市に生きていたとしても。

 大切な誰かを思い続けて、なにがいけないというのか。


「ありがとう、キーレイ」

 長いまつげに宿った涙のかけらの輝きが、美しかった。窓から入る光を受けて煌めく様を見て、キーレイはひたすらに自分の安直さを恥じた。


「だが、夜にこっそり抜け出すのは良くない。カッカー様は君が誰かと会っているのではないかと心配している」

「まあ」


 そんな必要はないのに、とヴァージは笑う。

 慈愛に満ちたその微笑みに、キーレイは不覚にも、自分も引退してしまいたいと考えた。



 ようやく仕事を終えて、キーレイは自宅への道を歩いていた。

 徹夜には慣れているはずだが、時折足がよろめいてしまう。

 人間は朝起きて、夜眠るものだ。幼い頃から言われ続けてきた父の言葉が、殊更に沁みる。


「あ、キーレイ様! 良かった、お会いできて」


 そろそろ人が多くなってきた道の先から声をかけてきたのは、キーレイの実家で働いている下男のバロウという若者だった。

「奥様から伝言です」


 キーレイが答える前に、バロウは口早にこう告げる。


「お預かりしていた、例の迷宮で保護した女の子が、目を覚ましました!」

「なんだって?」


 では、ティーオに教えてやらねばならない。

 キーレイはため息をひとつ吐き出すと、疲れた体を翻し、来た道を戻っていった。


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