36 秋意(下)
喜ぶだろうなどと、カッカーは思っていなかった。むしろ嫌がるだろうと想像はついていた。
迷宮へ行くなんて危険な真似はやめなさい。
もっと安全でひとの役に立つ仕事をしなさい。
こんな「くだらない」小言も嫌、口を挟まれるのも嫌、行動を縛られるのはもっと嫌に決まっている。ニーロがまだ出会ってすぐの十歳のころだったとしても、きっと同じ表情で同じ答えをしただろう。
夜の約束を済ませたあと、カッカーが訪れたのは樹木の神殿だった。夜勤の最中のキーレイを捕まえて、神像の前に二人で座り込んでいる。
「ニーロが会うとは思えませんね」
キーレイの考えはカッカーと同じらしい。
「だが、十七年間諦めず、ひょっとしたらという希望に賭けていた人物なのだ」
帰れだとか、諦めろだとか。そんな言葉で追い返されるかどうかわからないし、気も引ける。
ラーデン様に確認は出来ないのでしょうか、としごくまっとうな神官は言う。
「ラーデンはもう死んだと、ニーロは言っていた」
あの時、ラーデンはただ去っていっただけだった。どこへ行くとも、これからどうするとも言わずに、ニーロをカッカーに託すと煙のように姿を消してしまった。
「ラーデン様のお年はカッカー様と同じでしたね。年齢的には、まだまだと思いますが」
だからまだ元気でいるのではないか、とキーレイは話す。
キーレイは生まれも育ちも迷宮都市で、ラーデンを直接知っている数少ない人物だ。カッカーがラーデンと共に探索をしていた頃はまだ十歳程度だったが、樹木の神官になりたいと神殿へ勉強をしにやって来ていた。
「だが、ラーデンはまともに飯も食わない男だ」
かつての仲間の奇妙な暮らしぶり。健康的とはとてもいえない様子。放っておけばニーロもああなってしまいそうな気がして、カッカーの眉間には深い皺が寄っていく。
「ニーロに聞いてみますよ、明日会う約束がありますし」
「そうなのか」
「ええ、ちょうど今、ウィルフレドの住処の相談をしているんです」
ウィルフレドはもう「初心者扱い」できない。今日三人が集まってしていたのは、そんな話だったらしい。カッカーの屋敷の世話になるのは終わりにしたいが、そこまでのたくわえができたわけでもない。かわりに出てきたのが、誰かの家に居候してはどうかという案だった。
「ニーロは自分の家に来ればいいと言っているのです。でも、ニーロと二人暮らしは難しいだろうとマリートが反対しています」
「確かにそうだな」
ベリオはよくあの家に住んでいられた、とカッカーは思った。あまり屋敷に集う連中とは馴染まなかったあの青年は、今どこにいるのだろう。レンドの話していた「地図」について確認したいが、行方がわからない。
「マリートの家では駄目なのか?」
「マリートは神経が細いところがあって、たとえば物の位置を少しでもずらすと怒る、うるさいとニーロが反対しました」
「そうか」
それでキーレイの出番がやってきたらしい。
自分とヴァージが探索者をやめ、更に「ある事件」が起きてから、ニーロとマリートの間の絆は弱まってしまったように見えた。だがウィルフレドを迎え、再び結びつきは強くなろうとしている。
「カッカー様。初心者に開放されている屋敷の話は、昔よりも広く知られるようになりました。最近では部屋が空いていないので、諦めて帰る者もいるのです」
深夜の静かな神殿の中で、キーレイは突然こう漏らした。
屋敷の管理はヴァージに任せている。各々の食事や洗濯は自分でやる決まりにしており、先に暮らし始めた者が後輩の指導をしている。掃除や武器の手入れなど、必要なしごとは全員でするようにいつの間にかなっていた。
カッカーの屋敷ではあるが、すべては把握できていない。最近は、特に。
「ですから、ウィルフレドは屋敷を出ます。それとティーオの連れ帰った少女ですが、私の家で引き受けることにしました」
女性の探索者はほとんどやって来ない。アデルミラが去った今、あの少女のために一部屋使うのは気が引けるのだとティーオからも相談を受けたらしい。
「あの子はまだ目覚めないのか?」
キーレイは静かに頷き、カッカーは小さく唸った。
「私たちの部屋に置いても」
「カッカー様。ご家族のための部屋は、ご家族だけのために使ってください。今はよくとも子供たちは成長します。なにもかもをいっしょくたにしてしまっては、あの子たちのためになりません」
リーチェとビアーナ。可愛い二人の娘。そしてヴァージ。
まだまだ赤ん坊の二人と、たくましい妻。
今のままではいけない。難しい。なにかが起きるかもしれない。
漠然とした不安は、カッカーの中に既に芽生えている。
迷宮都市にやって来てから二十年以上が経つ。最初は神官としての修業のためだった。体格の良さを買われ付き合ううちに、いつのまにか「探索者」になってしまっていた。
迷宮の中で起きるすべてを、カッカーは知っている。容赦のない運命に襲われ、命を落とした経験すらある。あらゆる敵、あらゆる罠、あらゆる裏切り、そしてあらゆる信頼を見た。その果てに仲間と富、そして愛を手に入れた。
幸運だった。誰よりも運が良かったのだとカッカーは思っている。だからこそ、得た富で大きな屋敷を作り、大勢にわけてまわった。請われれば教え、問われれば答えてきた。後悔はない。
だが、未来についてはなにもわからない。
キーレイの穏やかな声に送られて、屋敷へと戻る。廊下にできたでっぱりに躓き、よろめきながら、暗い通路を抜けて、自分の部屋へ。
ベッドではヴァージが眠っている。
その隣に横たわると、カッカーは柔らかな髪を撫で、腕を伸ばして妻を抱き寄せた。
次の日の朝、カッカーはひさしぶりに屋敷の食堂でゆっくりと朝食をとっていた。
屋敷に集う若者たちはいつもより緊張した面持ちで、スプーンを口に運び、きびきびと後片付けをしてまわっている。
ほとんどの者が探索か仕事へ出て行って、残った者も庭で訓練を始め、食堂にはカッカーの家族だけが残っている。二歳のリーチェは父親の膝の上にのり、上機嫌でパンを口に運んでいる。
「今日の予定は?」
「どうしても行かねばならない用はまだない。今日は一日、ゆっくりしたいと思っている」
こんな返事にヴァージは目を丸くしたが、やがて肩をすくめると少女のようにあどけない顔で笑った。その顔は膝の上にいるリーチェによく似ていて、愛おしさに突き動かされ、カッカーは娘の頭を優しく撫でた。
行かねばならない場所はいくつかある。だが、いつもの「今日済ませよう」という気持ちを抑えて、カッカーは屋敷の中を見てまわった。いくつもある狭い部屋は、どこも荷物が乱雑に放り出されているし汗臭い。唯一違うのはアデルミラと意識不明の少女が使っていた部屋だが、明日からは同じような青年の香りに塗り替えられるだろう。
乱暴に打ち付けられた板をはがし、カッカーは廊下の穴を塞ぐ仕事を始めていた。
珍しく家にいる父親を、リーチェがじっと見つめている。
「危ないから、それ以上近寄ってはいけないよ」
愛らしい娘は、素直にこくんと頷いてみせる。つくづく自分に似なくて良かったと思いながら、カッカーは廊下に開いた穴の周りにのこぎりを入れて、四角く成型し直していく。
「どうして、穴をあけるの?」
「ぎざぎざにされてしまったからだ。ぎざぎざだと、けがをしてしまうだろう?」
「うん」
愛娘が監督してくれたおかげで、仕事は早く進んだ。この小さなこどもが安心して暮らせなければ、意味がない。赤の他人ばかりに気を配って、まだ弱い命をないがしろにしてはいられない。
釘を打ちながら、カッカーは時折リーチェを見つめた。父の仕事を大きな瞳で見つめながら微笑む、自分に与えられた二つ目の奇跡。
キーレイの言葉が心に突き刺さって、痛む。
この子たちは成長していく。探索者になろうとして迷宮都市にやってきた若者たちとは違う成長だ。こどもにはこどもの世界があって、大人はそれを守らなければならない。こんな特殊な街で、同じ年頃の友達もなく、娘たちはどんな人間に育っていくだろう?
カッカーの脳裏に過ぎるのはニーロの顔だ。彼もまた特殊な環境で育ってきた。悪い人間ではないが、だがしかし、どうしたものか。これまでに「かわいい」と思った瞬間も、なくはない。だがそれも、まだ背が低いだとか、顔立ちの幼さだとか、周囲の大人に比べればの話に過ぎなかった。
心を溜め息で満たしながら、カッカーは廊下の修繕を終えた。
「わあ、なおった」
「これで安心して歩けるだろう」
直した箇所でさっそくぴょんぴょんと飛び回る娘に、カッカーは目を細めてしまう。
「どなたかいらっしゃるかしら?」
玄関から聞こえた声にこたえ、カッカーは娘の手をひいて廊下を進んでいった。訪れたのはシュア・リシュラ。キーレイの母親であるこの女性は、後ろに二人の男を連れている。
「わざわざ奥様自らいらっしゃるとは」
むさくるしいところで申し訳ない、と頭をさげる家主にシュアは微笑み、しゃがみこんでリーチェの小さな手を握った。
「奥様だなんて、堅苦しいわカッカー。それに、キーレイに頼まれて来たのよ」
カッカーは恐縮しながら来客を食堂へ通し、ヴァージを呼んで、自分は二階にある少女の部屋へ従者を案内した。
迷宮の奥深くを目指すのではなく、珍しい品を求めるのではなく、ある一定の品だけを採取して売る。彼らは「探索者」ではなく、「業者」と呼ばれている。
キーレイの父もかつて、薬草専門の業者だった。「緑」や「紫」に潜っては薬草を採り、調合して販売する。夫は迷宮へ潜り、妻は薬を作る。ムーレンとも、リシュラ夫妻を通じて知り合った。リシュラ商店は今では街で一、二を争う薬品専門店であり、品質が保証された名店として知れ渡っている。
だがかつては、毎日が命がけだった。カッカーも何度か探索に付き合ったし、キーレイを連れていったこともあった。
やがて神官になろうとキーレイが神殿にやってきて、リシュラ家とはずっと、付き合いが続いている。
すぐに帰ろうとするシュアを、カッカーは引き留めていた。帰りは自分が送るからと言うと、シュアは承諾して、従者たちに少女を連れて先に帰るように伝えた。
「珍しいわね、カッカー。あなたはいつもあちこち飛び回ってばかりだし、お茶に誘われたことなんて今までに一度だってなかったように思うけれど」
容赦ない言葉に、カッカーだけではなく、ヴァージも苦笑いを浮かべている。
しばらく、女性たちはリーチェとビアーナの話で盛り上がっていた。可愛らしい様子に頬を緩ませ、抱き上げたり、みやげの菓子を食べさせたり、華やかな空気を振りまいている。
やがてこどもはくたびれ、昼寝をするために部屋へと戻っていった。残っているのは二人。シュアとカッカーだけだ。
「奥様」
「いやね、カッカー。昔のように名前で呼んでちょうだい」
自分より十も年上の女性を名前で呼ぶのは気恥ずかしい。もう四十をとうに超えたカッカーだが、鼻を裏側からくすぐられているような気分になってしまう。
小さく咳払いをして頬の熱さを吹き飛ばすと、カッカーはこう切り出した。
「悩みを聞いて頂けませんか」
シュアはくすりと笑って、キーレイと良く似た顔を斜めにかしげた。
「私には、探索のことはなにもわかりませんよ」
探索ではなく、こどもたちについて。そう切り出すと、シュアは穏やかな笑みを湛えたままカッカーに向けて頷いた。
リシュラ夫妻には子供が三人いる。一番上がキーレイで、その六歳下に弟がひとり。こちらは商店を手伝っていて、後を継ぐのは彼になるだろう。その二歳下に確か妹がいたはずだった。探索にあけくれる日々の中にいたカッカーは、彼女が今どこでどうしているかはっきりとは知らなかった。
「今の環境で娘たちを育てていっていいのか、悩んでいるのです」
ぼそぼそと話す大男に、こんな返事が降りかかる。
「そうね。良くはないでしょうね。大勢の若い男が出入りして、みんな物騒な探索をしているし。時には揉めごとだってあるでしょう?」
迷宮都市で喧嘩はご法度である。迷宮の外で負った傷は神官に癒してもらえないし、大きな怪我をすれば収入が断たれてしまう。探索に行けなければ、仲間から見捨てられてしまうかもしれない。
そう知っていてもなお、まだ発展途上にある若者だから。理解できない、譲れない、許せない時がある。だから彼らは時折、カッカーの仲裁が必要なほどに揉める。
ましてや、二人のこどもたちは「娘」だ。あと十年もすれば、餓えたけだものに狙われるようになるかもしれない。美しい母に似ているのはひょっとしたら、大変な不幸なのかもしれなかった。
「男であればまだ良かったと思うのです」
「男の子でも、向き不向きがありますよ。キーファンにはこの街はあわなかったから、何年か王都の親戚に預けました」
むしろキーレイが特殊だったのだとシュアは笑っている。キーレイが幼い頃から「父の手伝い」に付き合わされており、何度か危険な目にあったので、弟のキーファンは決して行かせなかったという。
「妹のシーラもそう。キーレイには可哀想なことをしたと思っています。弟と妹は王都の学校へ行かせたのに、あの子はずうっと迷宮暮らしだもの」
そのキーレイを今も探索へ行かせている原因になったのは、明らかに自分だった。カッカーはひたすらに恐縮して、大きな体を縮ませている。
「あら、ごめんなさいね。いいのよ、あの子は今立派に神官をやっているし、皆さんのお役に立っているのだから。可哀想なんて言葉を使ってはいけなかったわね」
「いえ、しかし、探索者なんて……。ならずに済むならそれに越したことはないでしょう」
シュアを送り届けて屋敷へ戻ると、食堂にはキーレイの姿があった。ニーロとマリート、ウィルフレドもいる。ニーロはカッカーの登場に眉をひそめたような顔をしたが、すぐにいつもの無表情を作ると話し合いに戻った。
「ウィルフレド、私の家にも部屋は余っている。一度見に来ればいいと思う」
カッカーも部屋の隅の椅子に腰かけ、様子を見守っている。今提案をしているのは一同の中でもっとも「まとも」なキーレイで、新しい仲間にもう一つの選択肢を示していた。
だが、礼をするウィルフレドの隣で、ニーロとマリートは不機嫌な表情を浮かべている。
「キーレイさんの家は確かに広いですし、使用人もいるから綺麗です」
「でも、周りは気取った奴らの家ばっかりだからな。探索者はあんな場所に住むものじゃないぜ」
せっかくの折衷案が、熟練の探索者によって潰されていく。キーレイは呆れた様子を隠そうともせず、気取ってなどいないと反論している。
ニーロは滅多に他人に興味を抱かない。誰かと一緒でなければ、という発想がない。
どこへでもひとりで行くし、発言にも遠慮がない。
執着する場合があるとしたら、一緒に探索に出たい時だけだ。マリートに対してはなにも言わない。それは、仲間への信頼の証なのだろう。
マリートも似たようなもので、手先こそ器用だが、人間関係を築くのはあまり得意ではない。気安く口も手も出せるのはニーロかキーレイくらいのもので、他の人間には「無口」だと思われている。
そんな二人が「自分の家に」と言うのだから、よほどウィルフレドが気に入ったに違いない。
「三人で暮らしたらどうだ。金ならあるんだろう?」
カッカーが口を挟むと、ニーロもマリートも顔を向けたが、なんの返答もせずにまた議論に戻ってしまった。
思わず、笑ってしまう。無理強いをしたくはないのだろう。ウィルフレドが愛想を尽かせて去ってしまっては嫌なのだ。「赤」の探索の話については少ししか聞いていないが、彼は間違いなく強い。最悪の敵の一種である「馬」をたったひとりで倒してしまえるほどの、実力の持ち主なのだから。
「カッカー様」
若者たちを見守る家主に、背後から声がかかる。食堂の入口に現われたのは、ドナートだった。
「どうしても気になって、来てしまいました」
ドナートは屋敷の中をきょろきょろと見回し、もちろん、部屋の奥にいる灰色の影に気が付いてしまう。
「もう呼んで下さったのですか、もしかして」
「いや、違うのです。彼に用がある者がたまたまいて、それで偶然ここに来ています」
もとから知り合いであったと話すにはどうしても気が引けて、カッカーはこんな風に話をごまかしてしまった。四人は来客に気付いていないようで、まだ話を続けている。
「そうなのですか。なんという奇跡でしょう。彼に間違いありません。私が馬車から見かけた若者は、あの子です」
ドナートの瞳は潤んでおり、ニーロを見つめる視線は熱い。
「なんという名なのですか?」
答えないわけにはいかず、カッカーはニーロの名を教えた。
「そうですか。もう十六ですよね。今更弟の用意した名を与えられても困るでしょうから、私たちもそう呼びましょう」
議論を続ける四人を、ドナートは黙ったまま見つめている。どうやら、用事が終わるのを待ってくれるようだ。
カッカーはキーレイに向けて視線で合図を送ったが、一番の愛弟子は微笑むばかりでまったく気がつかない。
「僕の家が最適だと思いますが」
「ニーロは猫のように気紛れじゃないか。一緒に暮らすのは難しいぞ、ウィルフレド」
表現が気に入らないのか、ニーロは鋭い視線をマリートへ向けている。
「気紛れじゃありません」
「いいや、お前は誰かと飯を食うようなやつじゃないだろう? タイプが違い過ぎるんだよ」
一番の決定権があるのは間違いなくウィルフレドのはずだが、困惑しているようだった。誰を選んでも角が立つと考えているのだろう。気の毒に思いながら、カッカーは成り行きを見守っている。
「なんの話し合いをしているのですか?」
ドナートの疑問もまた、当然だろう。しかしなんと答えたものかわからず、カッカーは唸ってしまう。
「そうか。そうだ、タイプが違うからいけないんだな」
急になにかを思いついたらしく、マリートはニーロの髪を撫ではじめた。
「やめてください」
「俺となら平気だ。前も一緒に暮らしていただろう? それで、俺の家をウィルフレドに貸してやればいい」
渋い顔で嫌がるニーロを、マリートは撫で続けている。
「僕はマリートさんと暮らしたくありません」
「ウィルフレドならいいのか?」
間髪入れずにニーロは頷き、ウィルフレドは渇いた笑いを漏らしている。
「お前のベッドをウィルフレドに使わせるなんて、俺は嫌だね」
何度払われても、マリートはニーロの髪に触れ続けてやめようとしない。
「それでいいだろう、ニーロ。毎晩一緒に寝てやるからな」
カッカーの屋敷を出て行った時、ニーロはまだ十四歳だった。
誰かに吹き込まれたのだろう、新婚の二人の邪魔を出来ないと、ニーロらしからぬ台詞を言ってあの小さな黒い壁の家へ移って行った。
その時、マリートがあれこれ世話を焼いていたはずだ。マリートはニーロの眠り方が気に入らなかったらしく、手足を伸ばして寝ろと探索中にも注意をしていた。ベッドにこだわったのもそのせいだ。
そんな事情を知っているカッカーは思わず笑ったが、ドナートは隣で震えている。
「なんの話なのですか。あの子は一体、なにをして暮らしているのですか……?」
客に袖を引かれ、カッカーは廊下へと連れ出されている。
「この街は『探索者』ばかりが多くて、そのう、女性が少ないと聞いています」
「確かにその通りですが」
「あの子は、もしや……」
ドナートの顔は血の気を失って真っ白だが、一体なにを恐れているのか、残念ながらカッカーにはわからない。
「ウィルフレド、二人はあれこれうるさいが、断って根に持つようなことはありません。自分が良いと思えるところを選んでください」
飲み物を持ってくる、とキーレイが席を立ったようだ。当然、部屋を出たところで、震える客人と家主の二人に行きあたる。
「カッカー様、お客様がいらしていたのですか?」
「ああ、昨日話したドナート殿だ」
キーレイが挨拶をして、リシュラ家の息子だと紹介が為された。それで少し落ち着いたのか、ドナートはまだひきつっているものの、ようやく口元に笑みを浮かべた。
キーレイは立ち止まり、カッカーを見つめている。
母親によく似た瞳をまっすぐに向け、唇をゆっくりと開いていく。
「どうかしたか、キーレイ」
「いえ、こんなに早くお会いできるとは思っていなかったので。ちょうどいいのでお伝えしておきましょう」
キーレイはドナートに向けて話し始めた。
ニーロの生まれはずっと西の国で、そこでは灰色の瞳も髪も、珍しくはないのだと。
「残念ですが、お探しの甥御さんとは別人です」
神官の言葉に、ドナートはすっかり脱力してしまったようだ。ふらついて倒れそうになった体を、カッカーは慌てて支えた。
「そうですか。そうですか……、わかりました。こんな都合のいい話はありませんよね、とんだ早とちりでした。まったくお恥ずかしい」
突然押しかけた無礼を詫びながら、ドナートは去っていく。
彼の唇から漏れ出た言葉には、深い諦めと一緒に安堵も含まれているように感じて、カッカーは不思議に思った。
次の日、カッカーはいつものようにあちこちへ出かけて「用事」を済ませていった。
ムーレンの家に行く途中に助けた男の様子を見に行き、その後の身の振り方について共に悩み、キーレイの家に引き取られた少女の様子、屋敷の財政状況の確認もした。初心者たちの悩みの相談にも乗った。なぜかこの日は三人も立て続けにやってきて、終わったころにはすっかり夜が更けていた。
それでもまだ床には就かず、カッカーは樹木の神殿へ足を向けた。
この日も夜勤のキーレイがいて、二人は神像の前に並んで座っている。
「キーレイ、昨日の話だが」
「母が喜んでいましたよ。久しぶりにカッカー様と一緒に話して、散歩までしたと」
そうではない。ニーロの生まれについての話だ。
もし本当の話なら、これまで隠していた理由がわからない。
嘘だとしたら、ニーロが話したのか、キーレイが考えたのか。どちらなのだろう?
カッカーはじっと、キーレイを見つめた。
キーレイもまっすぐに師を見つめている。
先に口を開いたのは、弟子の方だった。
「それから、ドナート様が感謝していたと聞きました。諦めがついたと言って、明日帰られるそうです」
様々な思いが過ぎていったが、出てきた返事はこうだった。
「そうか」
キーレイが示したのは、おそらくは全員にとって「もっとも良い」選択肢だったろうとカッカーは思う。
ドナートはなにも知らない。迷宮都市について、探索者について。
奇跡が起きてニーロが会いに行ったとしても、きっと受け入れられないだろう。ニーロの仕事も、ひととなりも、これまでに歩んできた人生も。
小さく息を吐き出す「師」へ、弟子は更に告げた。
「カッカー様、いつもありがとうございます。あなたの導きがあったから、今の私たちがあります。ニーロもマリートもあの通りでなにも言いませんが、これまでに受けた恩を返したいと強く願っていますから」
私たちは、あなたの力になります。
キーレイはそう話すと、カッカーに深く頭を垂れた。
神殿を出ればすぐに屋敷で、カッカーはゆっくりと、まっすぐになった廊下を進んでいた。
薄暗い道を行きながら思う。
迷宮は恐ろしいところで、娘たちには足を踏み入れて欲しくない。
その思いは変わらず、いつかこの街を去らねばならない日がくるだろうと感じている。
けれど、迷宮は恐ろしいだけではなく、心も体も鍛え、強い糸で互いを結び合える場所だ。
自分を作り上げた過去は消せない。
そう思うと途端に心が軽くなった気がして、カッカーは笑みを浮かべた。
明日もまた、忙しい。
悩みも希望も、山のように積み上がっている。
まだあと少し、この街で。
去る日を少し、遠ざけて。
そう決めると、カッカーは愛する家族の眠る部屋へと戻った。




