35 秋意(上)
ラディケンヴィルスで暮らすひとびとは大勢いて、そのうちの半分以上が探索者で占められている。残りは商売に関わっている者とその家族、神官、探索以外の仕事を求めてやってきた者が一定数。医者と魔術師がほんの少しと、王都から派遣されてきた調査団。それ以外の者は稀だ。
その稀な人物の一人が、街で最も有名であろうカッカー・パンラだった。
もともとは神官であり、長い間迷宮に潜り続けた元探索者であり、そして今現在はなにをしているかというと、本人にもよくわかっていない。広い交友関係と深い知識、情の篤さ、力強さのせいで、なにかある度に呼ばれては仲裁、説得、問題解決に努める日々を送っている。
「さっき使いが来たわ。ムーレンから」
屋敷に滞在している初心者たちが店で揉めているからと呼ばれ、ようやく戻ってきたのにまたこれだ。たまには自分たちの部屋でゆっくりと、妻と娘と過ごしたいのに。
「なんの用か言っていたか?」
ムーレンは主に薬品を扱う商売人たちのまとめ役をしており、こちらもなかなか顔が広い。カッカーとは長い付き合いであり、彼の頼みであれば無碍には出来なかった。
「具体的な内容は言わなかったけれど、かなり大切な用事みたいよ。なるべく早く伝えたいことがあるからと」
ヴァージがぶらぶらと揺らしている袋には、王都では有名な店の菓子が入っている。男ばかりのラディケンヴィルスでは売られない甘くて愛らしい形の菓子に、きっと娘は大喜びするだろう。
「仕方ないな、じゃあ今から行ってくる」
「戻ってきたばかりなのに?」
「夜には約束があるんだ。すまないが、留守を頼む」
いつだって留守にしているじゃない。そんな呟きに背中を刺されながら、カッカーは屋敷を出て南へと歩き出した。
たとえば、道の上に誰かが倒れていたとする。
商店で働いている娘なら男たちがこぞって手を差し伸べるし、商人ならば誰かしらが気が付いて助けてくれる。
だが、その誰かが探索者の格好をしていたなら?
「どうした、大丈夫か?」
大抵の者が行き過ぎる場面だが、カッカーは立ち止まり、倒れていた男を助け起こした。
武器や防具の類は身に着けていないが、単に売り払ってしまったからだろう。汚れて、やせ細り、薄着で震えている。
「もう少し行けば船の神殿がある。ひとまずそこで休ませてもらいなさい」
男は弱々しく頷いたような、そうではないような。カッカーの姿を見上げはするものの、渇いた唇は動かない。
なんらかの理由で仲間を失い、行き場もなくした探索者たち。彼らを救うには覚悟が必要だ。怪我を負っていれば神殿か医者へ連れて行かねばならない。着る物、食べる物を与えてやらねばならない。夜、安心して眠れる場所を用意してやらなければならない。彼らは善人とは限らず、大抵は金を持っていない。すべて用意してやるか、はたまた借金を負わせるか。出来なければまた、路上へ放り出すしかない。
だから彼らはしばしば、見捨てられたままでいる。
カッカーのような人間に出会えても幸運だと思えるかどうかわからないほどに、未来を見失っている。
「また人助けをされたのか?」
客を迎え入れたムーレンは、笑顔でカッカーの上着を指差した。行き倒れた誰かを抱えた時についたのだろう、白い埃が濃緑の上着を汚している。
「本当にお人好しな方だ」
上着を脱いで小さくたたむと、カッカーはぼそぼそと答えた。
「命さえ繋がれば、どんな未来が待っているかわからない」
だから、屋敷を解放して初心者たちを迎え入れている。
人はカッカーの行いを褒めてくれるが、同じようにする者はいない。
「確かに。いまは未熟な若者でも、いつか名うての探索者になる日が来るかもしれません」
言葉の裏には隠された小さな棘があるが、いつものことだ。
「ムーレン、今日はどんな用かな」
「人探しを頼まれたのです。あなたならばすぐに解決できると思って、使いをやりました」
屋敷の奥へと進んでいく。たたんだ上着を片手に、カッカーは廊下を進む。
途中、まっしろい花瓶に差された花の香りに鼻をくすぐられて、カッカーは心の中でため息をついた。先日受けた襲撃のせいで、自身の屋敷の廊下には黒ずんだ穴が開いてしまった。若者たちが修理してくれたものの、素人しごとででこぼこしているし、あちこちに釘が落ちているし、まだ幼い娘が安心して歩ける場所にはなっていない。
傷ついた戦士の襲撃はカッカーの心に大きく影を落としていた。
これまでの人生で数多の哀しみとやるせなさに出会った。それらをすべて乗り越えて今のカッカーを形作っているのだが、昔と違っていまは妻とこどもがいる。妻は強いからいいとして、娘たちはまだ幼い。二歳と、一人で座るのがやっとの赤ん坊だ。
妻にしても、強いから良いのかと言われれば違う。ヴァージは勘が鋭いし、なみの男では勝てないであろう腕もある。だが、屋敷の修繕について考えている時に気が付いてしまった。周囲が男ばかりで、まだ若くて、妻へ向ける視線に混じっているそれは少々――。
顔をくしゃくしゃにしかめたまま、カッカーは首を振った。少々なんてものではない、若者たちの間に充満している「欲」は。
初めてヴァージに出会った時。彼女はまだ十五歳だった。薄汚れた服を着て、頬に煤をつけていたが、美しくひかり輝いていた。
その光は彼女自身だけではなく、カッカーの征く道をも照らしている。
「お待たせしました、マイファーさん」
廊下の突き当りの扉の先には、美しく整えられた応接間が広がる。複雑な刺繍をほどこされたカバーがかけられた椅子に、ひとりの男が腰かけていた。男はすぐに立ち上がって手を差し出してきたので、カッカーは歩み寄って握手を交わした。
「こちらはわたしの取引相手で、ドナート・マイファー氏です。スマイドはご存じですか? 王都の西側にある都市なのですが」
「ああ、一度寄った経験がある」
続いてムーレンはカッカーを紹介しようとしたが、ドナートは微笑みながらこう話した。
「カッカー・パンラ様ですね。お噂は聞いております。迷宮都市で一番の探索者であり、大変な人情家でいらっしゃるとか」
こげ茶色の髪はきれいに切りそろえられており、それよりも少し濃い色の瞳は穏やかで、品のある男だった。年は四十かその辺りで、おそらくはカッカーと同年代だろう。口調も丁寧で、ラディケンヴィルスの商人にはなかなか見かけられない清潔さにあふれている。
「それで、人探しとは?」
ムーレンに促され、ドナートは静かに語り始めた。
同じ両親のもとに生まれた三歳年下の弟がいて、十七年前に行方不明になったのだと。
兄弟は仲が良く、祖父の代から続くマイファー商店を一緒に切り盛りしていこうと決め、額に汗しながら働いていた。
「その弟が結婚し、子供が生まれたのです。弟の妻になったミレユが自分の故郷で出産したいというので、その願いを聞いて、ひと月したら戻ってくる予定でした」
どういう話なのか、まだ見えてこない。眉間にしわを寄せるカッカーの肩に、ムーレンはそっと右手を置く。
「ところが弟は帰ってきませんでした。予定の日を過ぎて、連絡のひとつも寄越さない。そんな奴ではないのです。なので、探しに行きました。すると……」
ドナートはうつむいて唇を噛み、悲しげに体を震わせている。
ミレユの故郷から帰るべき家へ向かう道の途中、迷宮都市から北西にある森のそばに弟たちはいた。彼らがなぜそんな運命をたどったのかはわからなかったが、馬車は壊れ、馬の姿はなく、夫婦は揃って獣に食い荒らされた無残な姿で兄を待っていた。
「無念でした。これからだという時に、あんな悲劇にあって……」
ところが、赤ん坊の姿はなかった。両親と違って、てがかりのひとつも残さずに、すっかり姿を消してしまっていた。
「何度も探しに行ったのですが、なにも見つかりませんでした。獣が連れ去ってしまったのだろうと、諦めたのです。生まれたばかりの赤ん坊ですから、小さな体ですから。可能性としては大いにあり得ます。皆にそう言われて、私も……。そう考えざるを得なかったのです」
ところが、とドナートは急に顔をあげて、カッカーをまっすぐに見つめた。
「一昨日、この街に来た時に見たんです。ミレユにそっくりな若者を!」
ミレユ。弟の妻。つまり、赤ん坊の母親だ。
「若者ですか」
「ええ。赤ん坊が生まれてすぐに、手紙をもらったのです。こどもは男の子だったと」
見かけた若者は十六、七歳くらいに見えた。ドナートは鼻息を荒くしているが、カッカーは内心でひどく気の毒に思っていた。その年代の若者は掃いて捨てるほどにいるのだ、この街には。
だが、次の台詞で、言葉を失ってしまった。
「灰色の髪を肩まで伸ばした、灰色の瞳の若者です。ミレユと同じなんです。珍しいでしょう、灰色の髪も、瞳も! あれは間違いなくミレユとバナートのこどもだと思うのです!」
その若者を探し、出自について調べてほしい。
ドナートはカッカーの手を両手で握りしめて何度も頭を下げた。お願いします、可愛い甥に会わせてください。両親に、自分の妻と子供達にも、そして弟夫妻にも無事に育っていたその姿を見せたいのです、と。
ドナートは宿へ戻り、二人きりになった応接間でムーレンはニヤリと笑った。
「わたしとしては間違いないと思いますがね」
灰色の長い髪。この地方では珍しい色だ。街に溢れる若者たちはみな、黒か茶色、赤毛と相場が決まっている。ごく稀に金髪の者もいるが、灰色は見かけない。ただ一人をのぞいては。
瞳の色まで灰色となれば、候補はひとり。一分の一だ。かつての仲間、友人である魔術師ラーデンが「森のそばで拾った」あの子ども。
「無彩の魔術師殿には両親がおられるのですか?」
冗談めかした質問に、カッカーはため息をつくしかない。
「確かめようがない。ラーデンの行方もわからん」
ニーロを預けられたのは六年前。彼がまだ十歳の時のことだ。
ニーロには誕生日がない。わからないから。ラーデンは「拾った」、魔術師として育てたから明日から探索に行かせろ、としか言わなかった。
ラーデンの人間性からして、女性と恋に落ちただとか、うっかり子を為していたとは考えにくい。男である以上可能性が皆無とはいえないが、彼は探索に行く以外はずっと家にこもって、魔術について、迷宮について、道具についてああでもないこうでもない、部屋を独り言であふれさせていたはずだ。
ともに探索をしていたのは四年と少しだけ。迷宮の中では頼もしい味方だったが、社会性も社交性もなかった。
なので、ふらりと街を出て行っても驚かなかったし、こどもを連れてきた時には随分驚かされた。
とはいえ、ドナートの話には彼の「願望」が込められ過ぎているように思う。
結論を出すにはまだ早い。
だが、完全な「否定」ができるかどうかも、わからない。
「ニーロはいるか?」
屋敷に帰るなり、出迎えてくれたヴァージへ問いかける。
「いるわよ。今、食堂にいるわ」
今日もまた日が暮れる。
探索に出ている者も、行っていない者も、そろそろ屋敷へ戻ってくる時間だ。それぞれの今日の成果を持って、喜んだり落ち込んだりしながら帰ってくる頃合いだった。
「夜にも約束があるんでしょう?」
「ああ。その前にちょっと、ニーロと話したい」
珍しく苦々しい表情の夫に気が付いて、妻は小首を傾げた。
「どうかしたの?」
なんと答えたものか、カッカーは悩む。ヴァージは微笑むと、夫の大きな背中を優しく押した。
「ニーロがちょうどよくここにいるなんて珍しいから、とにかく話してきたら?」
若者たちが出払った屋敷は静まり返っている。
真新しい板を打ち付けた見苦しい廊下を進んで、カッカーは食堂をのぞいた。
中ではニーロとマリート、ウィルフレドが並んで座っている。
「ニーロ」
「カッカー様」
礼をしたのは髭の中年だけで、無事に回復したであろう姿にカッカーは笑みを浮かべた。
「ウィルフレド、もう大丈夫なのか」
「おかげさまで回復いたしました」
顔は少し赤みを帯びているが、視線も口調もしっかりとしている。
「それは良かった。すまないが、ニーロと話したい。マリートもいいか?」
剣士は黙って頷いて、ニーロの背を叩く。魔術師の青年は長い髪を揺らして、首を傾げた。
「秘密の話なのですか?」
「ああ」
二人との会話を打ち切って、ニーロは素直にカッカーに続いた。
屋敷の奥、夫婦の寝室の隣の小さな部屋には、小さなテーブルと小さな椅子が二脚置かれている。
「ニーロは……」
カッカーやヴァージとの「相談」は、大抵この部屋で行われる。素行が悪くて注意されたり、借金の申し込みをしたり、この屋敷に滞在させてほしいと頼むのもここだ。
「ラーデンから聞いていないか、お前のその、生まれについて」
歯切れの悪い問いに、ニーロはまた首をかしげている。
「聞いていません。ただ、森の外に『落ちていた』としか」
そんな台詞を幼い子供にぶつけるなんて。今はどうでもいいそんな思いが、カッカーの中で溢れていく。
「お前がラーデンに拾われたのは、うんと小さい頃なのか? 赤ん坊の時?」
「ラーデン様以外の記憶はありません。ここに来るまで、僕はラーデン様以外の人間を見たことがありませんでした」
続けて、ニーロは問いかけた。なぜ今さらになって、そんな質問をするのかと。
「そうだな、突然こんな、不自然に思って当然だ」
「僕の『両親』でも現れたのですか?」
勘のいい若者は、嫌味ったらしく微笑んでみせる。
「両親ではないんだが」
仕方なく、カッカーはことのあらましについて話して聞かせた。
想像通り、ニーロの反応は悪い。浮かべていた笑みを早々に引っ込めて、今ではいつもの無表情を通り越した仏頂面だ。
「ちらりと見ただけでよくそこまで思い込めるものです」
カッカーは小さくため息を吐きだし、額をそっと押さえた。
たとえばこれがティーオだったら、もっと興奮して、あれやこれや想像して騒ぎ、今すぐ田舎に戻って家族に確かめてくる、くらいは言うだろう。ひょっとしたら、もしかすると。大きな運命のうねりが自分を飲み込んだのか? 考えてみるくらいはするはずだ、普通の若者だったならば。
「だが、ニーロ。お前の髪と瞳の色は珍しいし、年頃も同じだ。どこの森かはわからないが、西の方から来たと言っていただろう」
「言っていましたか?」
ラーデンが言っていたような、そんな気がするのだが。言葉を濁すカッカーに、ニーロはぷいっと顔をそらしている。
「せめて顔を見せてやってほしい。大切な家族を失った人の希望なんだ。だから」
「嫌です」
ニーロは長い髪をふわりと揺らし、まっすぐにカッカーを見据えるとこう主張した。
「確かに僕と同じ色の瞳の者を見た覚えがありません。髪もそうです。珍しいのでしょう。だとしたら、会えばその人は僕を『自分の甥』にしてしまうのではないですか? なんの証拠もないまま、自分の都合だけで」
そうなった場合、どうするでしょうね?
情熱的に語るドナートの様子を思い出すと、あっさりと身を引くとは考えられなかった。家族に会わせ、弟の墓に報告して、それで満足して「じゃあ探索に戻りなさい」と言うだろうか。
「僕を育てたのはラーデン様とカッカー様です」
「だが、お前をこの世に送り出した親は別にいる」
「僕にはいません」
カッカーの中に、ニーロを納得させられる言葉の用意はない。
魔術師はもう、部屋を出て行こうとしている。
「なあニーロ。ラーデンが今どこにいるか、知っているか?」
なんとか絞り出した最後の問いへ、ニーロは背を向けたままこう答え、去っていった。
「ラーデン様はもう、亡くなられました」




