34 安堵
目を覆っていた闇ははぎ取られたが、眼前にはまだ薄闇が広がっている。
視界は霞んで、浮かぶ人影ははっきりしていない。一つは暗く、もう一つはもっと暗い。
「見えますかな?」
聞き覚えのない低音。年齢は自分と同じか、やや上くらいか。男の声は穏やかで聞き取りやすい。
「無理に声は出さなくてよろしい。もし出来そうなら、答えても良いが」
視界同様ぼんやりとした意識を動かして、ウィルフレドは目の前の誰かが医者なのだろうと考えた。屋敷の廊下で対峙した暴漢と、彼の放った最後の一撃。闇に焼かれて、目と喉に手酷いダメージを受けている。
口を開けてみると、喉がひどく乾いていると感じた。試しに息を吸い込んでみると苦しかったが、何度か空気を出し入れしてから、意を決して声を出した。
「ぼんやりとしています」
掠れた小さな返答は、周囲の人間に無事に届いたらしい。
「では見えておるのですな。なら、大丈夫」
同じ台詞を、魔法生物との戦いの後にも聞いた。
あの時のぞき込んでいたのはキーレイで、目は見えるか、声は出せるか、体は動くか、細かく確認されたものだった。
包帯は外され、一つの影が部屋を出て行く。
弱った視力のせいではなく、部屋が暗くされているのだと、ウィルフレドは気が付いていた。匂いからして、いつも滞在している部屋とは違う。扉が開いて、あかりが差し込んでくるとひどく眩しかった。
医者は去ったが、部屋の中にはまだ影が残っている。暗いばかりの影は、おそらくキーレイとニーロだろう。
この考えは当たっていて、大きい方の影は扉を閉めるとすぐそばまで寄ってきてウィルフレドの手を取った。
「良かった、光を失っていなくて」
目も喉もじきに治る、と柔らかな声は言う。
「待っています」
怜悧な若者は、それだけ言い残して去ったようだ。
三日の間、ウィルフレドはベッドの上で過ごした。
厚手の布がかけられた窓辺だけがうっすらと明るい、陰気さの漂う部屋には何人もの人間が出入りを繰り返していた。屋敷に留まる探索者たちが何人も様子を見に来たし、カッカーとヴァージの夫妻も見舞いに訪れてくれた。キーレイも足繁く通っては容体を確認し、フェリクスとティーオもしょっちゅう顔を見せていた。
だが、アデルミラの姿はない。
誰も彼女の話題を口にはしない。
「ねえ、馬と戦ったって本当?」
四日目、ようやくまともに動けるようになったウィルフレドは、少しだけ明るくなった部屋で食事をとっていた。この部屋はどうやら、カッカー夫妻の寝室の隣らしい。屋敷の誰かが動けなくなった時に使われる救護のための部屋で、幸いなことに同室の者はいなかった。
瞳をキラキラとさせるティーオの隣で、フェリクスは呆れたと呟いている。
「やっと話せるようになったところなんだぞ。話をせがむにはまだ早い」
「だって馬なんて聞いた覚えがないじゃないか。俺はもう、気になって気になって仕方がないよ」
正直極まりないティーオに、ウィルフレドも思わず笑みをこぼした。
「ああ、本当だ。地上のものとは比べ物にならないほど、大きな体だった」
声はまだ掠れているが、喉の不快感は随分改善されている。
「まだ無理しない方がいいんじゃないか?」
「ありがとうフェリクス。だがもう平気だ。日が暮れた後に少し体を動かそうと思っている」
ずっと薄暗い部屋で暮らしていたせいか、普通のあかりがひどく眩しかった。こちらもしっかり調子を整えていかなければ、魔術師の期待に応えられなくなってしまう。
「それなら、付き合うよ。稽古をつけてもられれば嬉しい」
「ずるいぞフェリクス。なあウィルフレド、俺も一緒にいい?」
「ありがたい申し出だ」
朗らかな若人たちの笑顔に、心が緩む。
起きて、自分の足で歩いて、鏡の前に立ちたい。なによりも、乱れているであろう髭の手入れをしたいとウィルフレドは思う。
「で、で、馬だよ。一人で戦ったってキーレイさんが言っていたんだけど」
だが、その前に一仕事しなければならないらしい。
身を乗り出して思い切り覗きこんでくるティーオに苦笑しながら、ウィルフレドは口を開いた。
「ああ。一人で戦った。そういうものだと思って挑んだのだが、あれはどうやらマリート殿の冗談だったようだ」
壮絶な戦いの後、ウィルフレドが目覚めると仲間が全員揃っていた。
キーレイの質問にいくつか答え、体を動かしてみせると、すぐに探索が再開される。
「ウィルフレド、あの鎧はお前のものだ」
いつの間にか小部屋には通路が一つ増えている。その先に仕掛けられた罠は既に解除されて、あとはお宝を頂くだけなのだという。
「いいのですか?」
「ああ、いいさ。どう見たって、お前以外に使いこなせないだろう?」
確かに、あれは「戦士」のものだ。
軽快さに重きを置くマリートには邪魔になるであろう、堅牢な造りの鎧だった。
促されるままに身につけてみると、見た目よりもずっと軽く、薄い作りの防具だった。だが、強い。そう確信できる輝きがあり、秘めた力を感じさせられる。
魔術の香りを放つ防具を着たまま、ウィルフレドは小さく笑った。
今手に入れた鎧は立派なものだが、その中に着ている衣服のぼろさときたらどうだろう。ひどい落差に、おかしな気分になってしまう。
「剣も手に入ればいいんだがなあ」
「欲張りますね、マリートさん」
ニーロに笑われ、剣士はぼやく。
「だって似合わないだろう。鎧だけ立派で服は安物、剣はあんなに細い」
「迷宮で装備を手に入れると、みなそうなります。でも、鎧一式が手に入ったならまだマシですよ」
「一度、兜だけを手に入れた時があったじゃないか、マリート」
キーレイに言われ、マリートは顔を思い切りしかめている。
「そうだよ。あの時は本当に不恰好で、カッカーの旦那にすら笑われたからな」
だから見栄えが良くなるよう、剣が欲しいと言ったらしい。
珍しくニーロまで一緒になって笑って、一行は再び探索へと戻っていく。
特別な部屋を去る時に、ウィルフレドはふと思い出し、後ろを振り返っていた。
無我夢中で振り下ろした短剣が、ない。
どうしてしまったのか、記憶が定かではなかった。それほど、必死で戦っていた。あんなにも荒れた戦いは、初めてではなかったが、久しぶりで、堪らなく熱かった。
折れてしまったような気もする。
馬の分厚い肉に挟まれ、ぬけなくなってしまったような気もする。
なぜ手放したのか覚えていない。もちろん、あんなにも頼りない武器では、倒しきれないとは思っていたけれど。
だが、ここが別れの地だったのだろう。
自分のひとつ目の人生が真に終わり、次の一歩からが新たな始まりである。
清々しい風が吹いてきたような気がして、ウィルフレドは口元の髭をそっと撫でると仲間の後を追った。
騒がしい若人たちが去っていくと、部屋は急速に静寂を取り戻し、色合いまで失ってしまったかのように見えた。そろそろ日が落ち始める頃で、料理を売る連中なら一日で一番忙しなく走り回っている時間だ。だが、探索者が帰るには少しばかり早い。
隣の部屋から話し声が聞こえてくる。窓を開けているのだろう。隣も、今ウィルフレドが休んでいる部屋も。風はないし、寒くも暑くもない季節だから。
「あの男は死んだそうだ」
低い声が急にはっきりと聞こえてきて、ウィルフレドは立ち上がった。そろそろと足音をひそめて、部屋を隔てている薄い壁に張り付き、耳を澄ます。
「そうですか」
落ち着き払った返答に、しばらく間が空く。ため息をついたか、眉をひそめたか。ひょっとしたらあの鋭い瞳で軽く睨んだかもしれない。だが、きっと話している相手に効果はない。
「確認させてくれ。あの男の言っていた『地図』に、心当たりはあるのか?」
「ええ。練習用に使っていたものだと思います。家からなくなっていましたし」
なんのためのものだったのか、カッカーは問う。
「地図の作成と、スカウトとしてどこまでやれるか試すためのものです」
「スカウトとして?」
「罠の位置と通路の構成を一人で調べて、答え合わせをしてもらっていたんです」
「ヴァージの筆跡があったのはそのせいか?」
返事は聞こえてこない。
「わかったが、その練習用のものがなぜあの男の手にあった?」
「知りません」
あの日、突然訪れた傷だらけの戦士。
彼は言った。自分を陥れた者たちを出せ、と。
「私はお前を知っている。誰かを陥れるような真似はしないし、迷宮を『利用』する気もない」
だが。迷宮都市の生ける伝説の声は、多分に苦みを含んでいる。
「この屋敷に集う、特に若い者たちはお前を知らない。それどころかきっと誤解しているだろうと思う。お前は少し、……いや、とても特別な人間だから」
会話はこれで終わった。部屋から出て行く気配があって、その後は静けさだけが戦士の横に佇んでいた。
しばらく安静に過ごした後、夕日が街の外れまで去ってから、ウィルフレドは髭を整え、屋敷の中庭へ出た。すぐにフェリクスとティーオが現れ、三人で軽く体を動かしていく。
練習用の木刀を振って汗を流し、二人の打ち合いを見守っていると、キーレイが姿を現した。樹木の神官は静かに近寄ってきて、ウィルフレドの隣に並んで立つ。
「部屋にいないと思ったら、もうこんなことをしていたんですね」
「寝てばかりいるのは性に合わないのです」
そうでしょうね、とキーレイはあきれ顔だ。
「回復しているのならなによりでした」
「キーレイ殿」
微笑む神官に、ウィルフレドは問いかけた。アデルミラはなぜ、姿を見せないのかと。
「懲戒を受けたのです」
巻き込まれて怪我を負ったのではないかと、不安に思っていた。アデルミラが帰郷した理由は意外なものだったが、キーレイの説明によると少なくとも、あの襲撃の巻き添えにはならなかったようだ。
「アデルミラは故郷へ返されました。本来ならば、まったく縁のない土地の神殿へ送られて修練の時間を過ごさなければならないのですが。でも、アデルミラには不正をしようという悪意はまったくなかったし、母親が病に倒れているという事情もあったので」
目の前で熱く語る神官が口添えをしたのではないかと、ウィルフレドは思う。
「またこの街を訪れるのは? それも、ルール違反なのですか?」
「いえ。戻ってきた者を知っていますが……」
口調は途端に落ち着いて、キーレイの声には寂しさにも似た影が差しこんでいる。
「フェリクスも同じ考えのようですが、アデルミラはもうここへ来ない方が良いと思うのです」
整えたばかりの髭を撫でながら、ウィルフレドは小さな雲の神官の姿を思い出していた。
あどけない表情、白く滑らかな肌、迷宮には似合わない花の髪飾りに、真摯なまなざし。
「彼女は兄を探しているんでしたか」
「そうです。事情を聞いた大勢が協力しているようですが、まだ手がかりはありません」
そうなれば、誰もが考えてしまうだろう。
彼女の兄はもう、いないのではないかと。
「この街にいるかいないか、はっきりとした証拠を掴むのは大変です」
「難儀な話ですな」
フェリクスとティーオの稽古はここでひと段落して、汗だくの二人はウィルフレドたちの横に倒れるようにして座り込んだ。
「ああ、疲れた」
呑気な若者は今日も呑気で、生真面目な若者は今日も生真面目だった。
「ウィルフレド、アデルミラに手紙を送る約束をしたから、なにか言伝があるなら書くよ」
打ち合いの中で会話をよく聞いていたらしい。
「ああ、では頼もうかな」
お蔭で視力を失わず、喉も潰されずに済んだ。今この庭に立っている幸福をウィルフレドは心から感謝し、そしてひとつ、気が付いていた。
「そうだ、キーレイ殿」
「なんですか?」
「赤」の迷宮を最下層まで踏破して、手に入れた物は多かった。
剣と鎧一式。珍しい石がいくつも手に入ったので、それは売り払って五等分にしている。念願の「現金」で新しい服を買うつもりだった。軽くて、丈夫で、一番好きな色の仕立ての良いものを。
「私の治療費はいくらになるのでしょう」
間違いなく無料ではないはずだ。賠償を求める相手ももういない。
問われたキーレイは、隣で汗だくになっている二人の若人へちらちらと目をやっていたが、諦めたような表情をするとこう答えた。
「それは、ニーロが払いました」
「ニーロ殿が?」
「そうですよ」
いつからそこにいたのだろう。
灰色の瞳の魔術師が、屋敷へ通じる扉の前に立っている。
「どうやら僕の管理不足が招いた事態だったようですから」
「地図とやらの話ですか?」
返事は簡素で、「ええ」だけしかない。
その地図の正体も、あの大男の手に渡った経緯も、彼らを破滅に導いた理由も、きっと語られないだろう。
だが件の「地図」とやらよりも重大な理由がニーロにはあったようだ。
「手紙を書くのなら僕も伝言を頼みたいのですが」
突然自分へ話が向けられ、フェリクスは驚いている。
「アデルミラに?」
「ええ。ウィルフレドを救ってくれましたから、例の借金の額は半分にします」
十六歳の魔術師は本当に太っ腹な男だったようで、もしもフェリクスが術符を持ってきた場合、五万シュレールを返す、とまで言った。
同時に、意地が悪いとも思う。ウィルフレドの隣で、フェリクスは明らかに戸惑いを隠せずにいる。ニーロはあっという間に去って行って、ティーオは「良かったじゃないか」と慰めていたが、借金を負ったのは二人で、「あわせて」十万シュレールを払わねばならない。
だが、フェリクスは手紙に「借金はなくなった」と書くだろう。彼はアデルミラが戻ってくることを望んでいないのだから。その先はひとり。フェリクスにも目的があるだろうに、彼を縛る足枷は重たい。
いつもより少しあかりを落とした食堂で夕食をとってから、ウィルフレドは一人でそこに残っていた。二人の若人は先に部屋に戻っていて、ほかには誰もいない。あくる日が来る時間になるまでは、大抵誰かしらの姿がある場所なのに。初めて見る寂しげな広間の隅で、ウィルフレドはなにをするでもなく、ひとりでぼうっと座り込んでいた。
「珍しいわね、こんなに静かなんて」
しばらくしてようやく現れた影は、家主の妻だった。
よく引き締まった体を揺らしながら歩いてきて、熟練の初心者の姿に呆れた表情を浮かべている。
「どうしたの、なにもないじゃない」
「ああ、そうですな」
「もう体はいいの? よければ一杯どうかしら」
どう返答しようか迷っているうちに、ヴァージはもう杯を二つ用意している。
「子供たちを寝かしつけたあとのお楽しみなの。この小さな杯にいっぱいだけ」
付き合ってくれる? と小首を傾げた姿に、ウィルフレドは思わず笑った。
「そんな顔で言われたら断れません」
「あら、どんな顔になっていたのかしら」
ヴァージはほんのひとくち、酒を赤い唇に含ませると、いたずらっぽく笑いながらこう話した。
「災難だったわね。せっかく『赤』を踏破して戻ってきたっていうのに」
「まったくです」
長いまつげがぱたぱたと揺れて、ウィルフレドの心の底を優しくくすぐる。
ヴァージは長い指で杯を弄びながら、初めての長い探索の感想を求めてきた。
「思っていたよりも難しく、……考えていたよりも楽でした」
心から湧き出した素直な感想に、ヴァージはただ、微笑むだけだ。
「はじめてのことばかりだったので、少し戸惑いましたが」
「ニーロもマリートも、気が利かないものね」
ロビッシュにも期待はできない、とヴァージは笑う。あの三人が一緒では、キーレイも太刀打ちできないだろうと。
「喜んでいたわ、ニーロもマリートも。あなたのことをすごく、すごく、気に入ったみたいね」
ようやく、光が差した気がした。
確かに最下層まで辿り着いたけれど。
良い装備品を手に入れたけれど。
思いがけない襲撃があり、傷を負って、焦っていたけれど。
自分が求めていた答え。示してくれた女神に感謝しながら、ウィルフレドは杯を取ると一気に飲み干した。
「お願いがあるのですが」
「なにかしら」
「髪を切って頂きたいのです」
「わたしに?」
ニーロが、髪を切るならヴァージに頼むと言っていたはずだ。
そう説明すると、元探索者の女はまた小さく首を傾げて、笑ってみせた。
「いいわよ。この屋敷に滞在しているのは、みんな私たちの子供みたいなものだからね」
食堂の隅で散髪をしてもらい、丁寧に礼を言うとウィルフレドは自分の部屋へ戻った。
フェリクスもティーオも、ぐっすりと眠っているようだ。
久しぶりに嗅ぐこの部屋の香り。自身の昔を思い起こさせる、未熟さに満ちた匂いだとウィルフレドは感じている。
「赤」の探索へ出かけて、帰ってきて、寝込んで、十日。
多くを思い出し、得て、そして捨てた。
長い、長い、十日間だった。
ウィルフレドはゆっくりとベッドに横たわり、目を閉じると、ひさしぶりに神に感謝の祈りをささげてから眠った。




