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12 Gates City  作者: 澤群キョウ
07_So Young 〈笑い話〉

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31 下り坂

 フェリクスたちは落ちた。暗がりの中を落ちていった。

 幸いだったのは、「落とし穴」ではなかったことだ。フェリクスたちがかかった罠は、床が傾いて下の層へ滑り落とされるもの。ただし、蛇も一緒だ。なので、声をあげて心を奮い立たせながら、短い剣を振り回しながら滑り落ちて行った。


 急な坂で、とても長かった。滑り落ちた先は薄暗かったが、完全な闇ではなく、広い。今いるこの場所の詳細を知りたいが、最初にすべきは、一緒に落ちてきた蛇の退治だ。

 荒く息をしながらもなんとか魔法生物を駆逐して、フェリクスは辺りに浮かぶ影を見回した。

「みんないるか!」

 まずはアデルミラの名を呼ぶ。弱々しかったが、返事はあった。

「僕は大丈夫、コルフも!」

 カミルの声もする。

「ティーオ、いるか?」

 すると、灯りがついた。コルフがランプに火をつけて、高く掲げている。顔色は悪い。アデルミラが慌てて側へ駆け寄っていく。

「ティーオ!」

「大丈夫、じゃないけど、いるよ!」


 少し離れた場所から最後の返事があって、全員が安堵の息を漏らしていた。

「ごめん、失敗だった」

 こちらも顔面蒼白のティーオがランプのそばへ進み出てきて、フェリクスはなんとか声を絞り出した。

「仕方ない。……仕方ないさ」

「何層落ちたんだろう。随分長かったよな」

 カミルはナイフを片手に右へ左へ視線を動かし、辺りの様子を窺っている。

 すぐに大きな、扉が閉まるような音が暗がりの中から上がった。アデルミラは怯えたが、カミルは冷静に答えた。

「さっきの落とし穴が閉じたんだ」

 

 急勾配の長い長い坂を、上って戻れるとは思っていなかった。だが、選択肢は一つ減った。一番確実に戻れる道は、失われてしまった。


 ティーオの顔色は悪い。

 蛇の雨はちょうどフェリクスたちの真上に降り注いできて、ティーオはあまり戦いには参加していない。だが、表情が最も硬いのは間違いなくティーオだった。

「時間は戻せない。起きてしまったことは仕方ない」

 カミルはこう言ったが、部屋に満ちた不安は重く、暗く、冷たい。

「あんな坂みたいな罠があるなんて、聞いた覚えがなかったな」

 殊更に明るい声をあげて、コルフは小さく笑う。

「四層は落ちた気がする。地図があれば、すごく有効なショートカットになるだろう」

 コルフの掲げたランプの下に六層目の地図を出して、カミルは泉のそばの通路に罠のしるしをつけた。


 そして、会話が途切れる。


 五人は同じ言葉を胸に浮かべていたが、誰一人として外に出せずにいた。


 アデルミラがよろけ、床にへたりこむ。

 カミルがすぐにそばへ駆けつけ、優しく肩を抱く。


 フェリクスも倒れてしまいそうだった。蛇の飛ばした毒液で服はまだらに染まっているし、ズボンには噛まれて空いた穴がいくつもあった。もしかしたら傷から毒が入り込んでいるのかもしれないが、そのせいでフラフラしているのか、ただの疲れなのか、よくわからなかった。


 長い長い坂を滑り落ちて、もしもカミルの言う通り四層落ちたのだとしたら、今は十層あたりのどこかにいるのだろう。六層まで降りたのも初めてなのに、突然の十層。出てくる魔法生物は強くなっているだろうし、地図もなく彷徨って――。

 

 後悔は役に立たない。過去に足を取られてはいけない。見つめるのは未来だけ、どう切り抜けるか、考えるべきはそれだけ。そうでなければならない。


 ――足を止めていては、心も止まる。

 初代調査団長ラディケンの言葉だと伝えられている。


「あたりの様子を調べよう」

 中心にランプを持ったアデルミラを残し、四人は周囲の様子を調べ始めた。

 かなり広い部屋のようだった。

 一方だけはすぐ近くに壁があった。おそらくは落とし穴の出口があったであろうその壁を南と仮定して、残りの方角も調べていく。

 西側、東側は確認できた。だが、北の方向が長い。行けども行けども暗がりで、四人はアデルミラのもとへと帰って行った。


「向こう以外は行き止まりだ」

 魔法生物の出現に備え、五人は部屋の南西の角で話している。

 コルフのランプの中で火が揺れて、壁に伸びた長い影が躍る。アデルミラは不安げに体を縮めており、それでも気丈にまっすぐ前を向いていて、四人の青年たちの心をくすぐっていた。

「あの落とし穴の出口は、やっぱり開かないのかな?」

 コルフの質問に、カミルは「残念だが」と返していく。

「あの坂はとても登れないだろうし、六層の床が開くかどうかもわからない」


 ティーオが呻く。低く、小さい声で、奥歯を食いしばりながら。

 肩を叩いて慰め、カミルは次の指示を出した。

「北側に向かおう。こんなだだっぴろい場所に敵が出たら対応しにくい」


 迷宮の中といえば、狭い通路が続いているばかりだと思っていた。

 こんなにも広い空間があるなんて、耳にした覚えがなかった。


「『藍』は踏破された迷宮なのに……。こんな部屋の話、聞いたか、カミル?」

「いや、全然」


 西側の壁に沿って、五人は進む。

 フェリクスとカミルが前。ティーオはしょげた様子で少し遅れて、その後をアデルミラが、少女の小さな背中を見守りながらコルフが続く。


「多分、最短のルートから外れているんだよ」

「そうか、そうだよな」


 それに、罠にかかって命を落とした小物の話なんか、誰の耳にも届かないから。


 悪い想像は探索者の動きを鈍らせる。

 それが一番良くないのだと散々聞かされてきた。

 いつだって生きるための道を求め、前に向かって進まなければならないのだと。


 そんな強い心など持っていない。持っていたいし、持とうとしているけれど、胸からぽろりと零れ落ちてしまう。


 思いはそれぞれに膨らんで、胸のうちで弾けようとしていた。

 暗い気持ちの方が大きい。そう感じて、フェリクスは思わず目を強く瞑った。開けていられない。明るいとはいえない半端な灯りに包まれて、藍色のはずの道が暗闇のように感じられる。頼れる仲間の背中はなくて、「緑」の中で見たウィルフレドの姿を思い出してしまう。力強くてまっすぐで、自信に満ちあふれていた。自分があんな戦士になれるまで、一体どのくらいの時間がかかるのか。いや、そもそも、なれるのかどうか?


「行き止まりだ」


 カミルは全員に聞こえるよう、大きく声を張り上げた。

 隣を歩いているフェリクスは危ない状態であり、いつもより後ろへ下がっているティーオはもう当てには出来ないと感じている。

 頼りに出来そうなのは、相棒であるコルフだが、今はアデルミラを支えるようにして歩いている。


 壁沿いに進み、通路を探す。まだ、行き止まりと決まった訳ではないのだから。

「フェリクス、向こう側を警戒してくれ」

 新米の剣士は慌てて大きく頷いてみせた。


 結局曲がり角は見当たらない。もしも道があるとしたら、部屋の中央部分か、隠された通路があるかどちらかだ。

 北東の隅で座り込んで、五人はほんの少しだけ休憩をとった。水を飲み、携帯用の食料をかじり、ほんの少しだけ雑談をしたりする。


 フェリクスは、戦利品を入れていた袋がなくなっているのに、ここでようやく気が付いた。

 フレームの曲がってしまったランプ。油はまだあるが、今にも壊れてしまいそうだ。

 六層で落ちてからここまで、長い時間ではなかったけれど。


 頭によぎる不吉な言葉をすべて投げ捨て、カミルは立ち上がった。

「通路を探すぞ。まずは壁を調べたい」


 脂汗をかきながら、五人は壁に沿って進む。

 雲の神に祈りを捧げながら、アデルミラも暗がりの中、目を凝らしていた。


 あんな奇跡はもうない。ニーロのような太っ腹の実力者が偶然通りかかるなんて奇跡は、もう起きない。だから、自分達で切り開いていく以外にない。

 けれど、足がふらついてしまう。

 その度に、フェリクスやコルフが支えてくれる。言葉はないが、心配をさせているのだろう。そう思うといたたまれなかった。

 

 カミルはこの広い部屋を囲んでいる壁をすべて調べるのだろうか。どれくらい時間がかかるだろう。二手にわかれて動けたら、どれだけ効率がいいだろう。だが、出来ない。

 

 集中が途切れた隙間に、後悔と不安がいちいち耳打ちをしてアデルミラを揺らす。

 そのすべてが、もしああだったら、こうしていたら、あの時、あの瞬間、違う選択をしていたら、というささやきだった。

 ため息と、涙。体の震え。弱い自分が嫌だったが、抑えきれない。

「兄様……」

 小さな小さな呟きも、迷宮の底ではよく響く。

「アデルミラ、まだだ。終わっていない」

 コルフの手が、背に触れる。暖かくて、心強い。けれど、心の震えは止められない。

「ごめんな、アデルミラ。俺」

 ティーオの苦しげな声を止めたのはフェリクスだった。

「言うな、ティーオ」


 誰かを責めたら、終わりだ。五人組で行ったのなら、すべての責任は五人で負わなければならない。どんなに苦しくても、どんなに悔しくても、どんなに辛くても、どんなに絶望的だったとしても。


 だが、心がおさまらなかったらしく、ティーオは思い切り壁を殴りつけた。

「わあ!」

 その途端、壁が裏返ってカミルを激しく吹き飛ばす。

「カミルさん!」

「ティーオ!」


 カミルは暗がりへ落ち、ティーオの姿はない。

 スカウトを助け起こして、四人は壁を思い切り叩く。


 壁の仕掛けの奥に続く通路は真っ暗だったが、五人はほんの少しだけ安堵を感じていた。

 スイッチの切れた通路。「藍」では当たり前の光景が、ようやく取り戻されていた。


「これでチャラだな」

 カミルは笑い、すぐそばにあったスイッチを押す。すると通路には灯りがついて、細長い道を明るく照らした。

「チャラにはならないだろ」

「全部の壁を調べるより早かったはずだ」

 

 カミルが浮かべた笑顔につられ、全員が少しだけ緊張を解いた。だが、状況は「良くはない」。

 どん詰まりから逃れたはいいが、今いる場所がどこかはわからなかった。


「誰かいればいいんだが」

 「術符」が大好きな若い魔術師が通りかかればいいのに、とコルフは思っている。だが、知っていた。彼は今、「赤」へ行っている。まだ帰ってきたとは聞いていない。随分長い探索になっている。ウィルフレドの大きな背中を、最近ちっとも見かけない。彼らの探索はきっと、うまくいっているのだ。


 六層までの道のりよりもずっと注意深く。カミルはゆっくりと進んでいた。

 一見、罠は見えない。だからこそ、油断は出来ない。


 通路は細長かった。

 何もない藍色の道を進んで、そして、小さな部屋へと辿り着いた。


 転がり落ちた部屋とは真逆の、狭い狭い部屋。右側の隅になにかが落ちている。それは、剣のようだった。


「入ってみるか」


 入口手前で話し合い、五人は部屋へと入っていく。

 中にはまた、通路がなかった。

「行き止まりだな」

 ではまた、隠し通路を探さねばならない。この部屋にあればいいが、通路の途中だとか、あのだだっ広い部屋のど真ん中だとしたら? 気が重い。いや、それどころでは済まない。そろそろ、死神が忍び寄ってきていると思わなければならない頃合いだ。


「剣だ」

 部屋の隅に落ちていたのは、剣だった。細い長剣と、短剣。重なって、交差するようにして落ちている。

 カミル、コルフ、ティーオは手を出さない。なので、最も経験の浅い二人も、ただ見下ろすだけに留まっている。


「迷宮の中で装備品が落ちているのを見たのは初めてなんだが」

 フェリクスは首を傾げながら、素直に胸のうちの疑問を吐き出していった。

「こういうものなのか? 誰かが使っていたもののように見える」


 落ちている剣には、不審な点がいくつかあった。

 柄の部分が汚れていて、誰かが使いこんだもののように見える。

 そして、ベルトがついていた。しかも、明らかに「引きちぎられた」赤いベルトだ。腰から提げた剣を、無理矢理力尽くで奪い取られてしまった。そうとしか考えられない荒々しさが、ベルトの様子から見受けられる。


「こういうものじゃあ、ないとは言い切れないとは、思う」

 カミルの返答の切れは、これ以上ないくらい悪い。

「これまでにそれほど多くのものを拾ったわけじゃあないけど、大体は新品に見えるものだったよ。うーん、誰かが一度は拾ったけれど、やっぱり必要なくて捨てたりだとか、そういうものもなくはないんじゃないのかな」

「いや、使い込んであるとか、問題はそこじゃあないだろう?」


 迷宮の中では、誰かが落とした物は「消えてなくなる」。仕組みはわからないが、いつまでも残り続けるものはない。


「とりあえず、これはもらっておこう。フェリクス、今使っている借り物よりはマシだろ」

 カミルは剣を拾い上げると中を確認し、ベルトをはずして部屋の隅へ放り投げた。そして長剣はフェリクスへ、短剣はアデルミラへ差し出して渡す。

「アデルミラも持っておくといい。女性用みたいだし、軽くて使いやすいと思うよ」


 そう、落ちていた剣は女性用のように見えた。

 フェリクスが受け取った長剣についていたベルトも同じだ。バックルの加工、ついている小さな赤い石も、細く編んだベルトも、鞘のデザインも。


 確かに、カッカーの屋敷の倉庫に収められている量産品の中古の剣ではなく、自分のものが欲しい。フェリクスはそう思っていたが、自分の手の中にある剣の様子は異様だった。

 重量は軽い。抜いてみれば刀身は輝き、切れ味も良さそうではある。

 しかし、重たい。

 誰かが落としていった二振りの剣。いつ、どうしてこんな場所に落ちたのだろう。罠にかかって訪れた行き止まりの部屋で、何故消えずに残っているのか。


 アデルミラがびくりと大きく震えた。

 自分と同じ、最悪の想像をしたのだろう。フェリクスは小さな手を取り、強く握る。

 けれど、言えない。大丈夫だなんて無責任極まりない一言など、口にはできなかった。


 誰もが必死に我慢をして言葉を飲み込み、次に目指すべき場所を話し合おうとしたその瞬間。

「うわ」

 最初に振り返ったのはカミルで、声を出したのもそう。おそらくは、今いる小部屋の中を調べようだとか、そういう提案をするつもりだったはずだ。

 カミルが振り返った先には、通り抜けてきた細い通路がある。

 その終わり、小部屋の入口に、大きな黒い塊が待ち受けていた。


 鼠、兎、蛇。どれも小さなものばかりだった。これまで戦ってきた魔法生物は。

 八層に辿り着いたら、とうとう鹿と対面するのだ、と思っていた。大型のそれを自分たちで倒す瞬間を、楽しみにしてきた。


 だが、そんなささやかな夢を打ち砕く大きな影が、そこにあった。

「まずい、熊だ」

 多分、とカミルは呟く。静かな迷宮の中では、小声で充分全員の耳に届いた。

 巨体は部屋の出入り口をまるまる塞ぐ大きさで、もう逃げる道はない。背後にまたひっくり返る壁でもあればいいのだろうが、今のところない。コルフが壁を叩いている音はするが、それだけだ。

(あいつ)は十二層から出るんだろ?」

 カミルの怯えた声に、フェリクスは思った。ならば今、自分達は十二か十三層あたりにいるのだろうと。


 幻が見える。部屋の暗がりの向こうから近づいてくる影の先に、炎が見えた。

 あの日、すべてを焼いた炎の大蛇、その太い胴体、長い舌、容赦のない冷たい瞳。愛する者がすべて息絶えた家。戻る場所を失い、流れ流れてきた。迷宮都市行きの馬車に乗ってから今のこの日、この瞬間まで、自分はなんと幸運だっただろう? 心優しい神官と出会い、「黄」からまさかの脱出を果たし、「黒」でも命を取り留めた。知らぬものがいない英雄たちと共に過ごした時間もあった。

 だが、その前。


「アデルミラ、下がるんだ」


 これがあの時の報いだとしたら、背後で震えている少女には関係がない。彼女は、救われなければならない。

 剣を抜き、構え、息を吐く。

 隣に、カミルが並ぶ。

 壁を叩く音と、低い呟き声が聞こえる。コルフは逃げる道を探しているのだろう。


 見つけてほしい。どうか、アデルミラを無事に連れ帰って欲しい。

 

 影が近づき、はっきりと姿を見せる。

 黒い毛皮の、闇の塊のような大きな熊だった。迷宮雄熊(オヴラー)と名付けられた魔法生物は、太い後ろ足でまっすぐに立って、五人の初心者たちを見下ろしている。


 爪も、口からのぞく牙も鋭い。優しさや平和とは無縁の、生気のない瞳が恐ろしい。


 間違いなく、勝てない相手だった。

 自分よりもずっと強い敵に運よく勝てた、と歌い上げる物語もある。あるが、それは自分の物語ではない。フェリクスはそう思った。カミルと、コルフもそう思った。


「慈愛深き雲の神よ」


 アデルミラの祈りが、揺れながら部屋の中を漂っていく。

 フェリクスは、握った新しい剣の以前の持ち主に思いを馳せた。あなたの無念は晴らせそうにない、すまない、と。


「私たちの行く道を照らし、迷わぬよう導いて下さい」


 のっし、と熊が一歩進む。次の一歩で間違いなく、攻撃の範囲内に入る。

 前足は太い。だが、少し短い。だから、やるなら今しかない。奇跡に賭けるなら――。


「うわああ!」

 叫んで、フェリクスは飛び出し、剣を振り下ろした。少しでも深い傷を負わせようと、大きく踏み出し、全力を込めて振り下ろした。

 だが、手ごたえは、ない。熊の胸に受け止められて、中途半端な切り傷に剣がはまって抜けない。

「フェリクス!」


 カミルが叫び、アデルミラが崩れ落ち、コルフは魔術を行使しようと準備を始めた。

 それと同時、照明が落ちる。輝いているのは、死んだような虚ろな熊の瞳だけ。悲鳴が上がり、そして。


「昏い海の底を、ささやかなる慈悲で照らしたまえ!」


 黄金の光が瞬いた。

 



「まったく、肝を冷やしたよ! 人が悪すぎるんじゃないのか、ティーオは」

 五人が居た場所は薄暗かったが、かすかに喧騒が届くところだった。

 「帰還者の門」。「帰還の術符」を使うと導かれる、迷宮の入口横に設けられた専用スペースで、五人はへたりこんでいる。


「てっきり『術符』は取れなかったと思っていたのに」

「ごめん、そのう……本当に、ごめん」


 コルフに責められながら、ティーオはひたすらに謝り続けていた。

 自分が先走ってしまったばかりに罠にかかってしまったこと。そして、せっかく「術符」を手に入れたのに、どうやらそれを持ち帰れないことに責任を感じていたのだという。

「いや、もう、いいや。助かったならそれでいいよ。本当に駄目だと思った」

 カミルのついたため息交じりの台詞に、フェリクスは深く頷いていく。コルフも最後は呆れたように笑って、ティーオの背中を叩いた。

「確かに罠にはかかったけど、『術符』を掴み損ねなかったのは褒めてやるよ」


 次からは同じ失敗はしないだろう、と五人は笑い合う。

 だが、アデルミラは恐ろしさが過ぎたのか、足がふらついて一人では歩けない。


 とにかく、早く帰って休もう。フェリクスがアデルミラを背負い、五人はカッカーの屋敷へと戻った。

 戦利品は、二つ。アデルミラの受け取った短剣と、これ以上ない「大失敗」だ。気持ちが落ち着けば「いい経験」に変わり、笑い話の種になるだろう。


 ラディケンヴィルスは夜だった。

 通りのあちこちに食べ物を売る露店が出ていて、今日の夕食はティーオのおごりに決まる。



「いや、ビックリしたな。『藍』にあんな大きな罠があるなんて」

 出会い損ねた鹿肉の蒸し焼きを食べながら、五人はようやく本当の安息を取り戻していた。

 見慣れたどころか、最近では少し飽き始めていた屋敷の食堂の風景が、なんといとおしく見えることか。アデルミラもようやく落ち着いたらしく、口元に笑みを取り戻している。

「ごめんな、アデルミラ。危ない目にあわせちゃって」

「いいえ、私も怯えすぎだったと思います。探索に行く以上、危険は当たり前なのに」

 明日はゆっくり休んで、また再挑戦をしよう。

 五人はお互いの手を取り合い、ぎこちない笑顔を浮かべて頷き合う。


 こうしてフェリクスたちが反省だらけの夕食を終えると、食堂の入口が急に騒がしくなった。

「お帰りなさい!」

「ウィルフレドが帰ってきた!」

 

 フェリクスたちも駆けつけると、屋敷の玄関にウィルフレドとキーレイの姿があった。長い迷宮生活のせいで少しくたびれた顔をしているものの、二人とも「満たされた」笑みを浮かべている。


「お帰りキーレイ、ウィルフレド。長かったわね」

 娘を抱いたヴァージに迎え入れられ、二人は屋敷の中へと進む。


 大勢集まった屋敷の住人たちが、熱い視線を送っている。

 ウィルフレドの姿が、出発前と変わっていた。


 身に着けた鎧の輝き。腰から提げた剣の鞘の細工の見事さ。銀色に輝くブーツには、一体どんな効果があるのか? 見覚えのない優雅なラインと、神秘的なきらめきから目が離せない。

 そしてなにより、そこに立つ姿だ。自信と力強さが満ち溢れ、この街にやって来て一ケ月とは思えない堂々たる風格があった。それはもともと備わっているものだったが、これほどだったかと全員が感じている。


「ウィルフレドさん、お帰りなさい」

 声をかけたアデルミラへ、ウィルフレドは優しげに目を細めた。

「無事でなによりです」

「ありがとう、アデルミラ」


 キーレイは神殿へ戻り、ウィルフレドも装備品を置きに部屋へと戻る。

 その後、食堂へ降りてきた新しい「英雄」に、初心者たちは水やスープ、食料を運んで大勢で取り囲み、話をせがんだ。気が進まない様子だったウィルフレドも、周囲の期待に満ちた目に根負けしたのだろう。少しずつ、話をし始めていた。

 

 若い魔術師と仲間の剣士に声をかけられ、「赤」へ行くと決まったこと。

 王都の調査団のから依頼が入ったため出発が遅れたが、スカウトは約束を守って待ってくれていたこと。


「『赤』の最下層まで行くのが目標だった。最初に、ニーロ殿が設定したのだ。必ず最下層まで行って、魔竜を倒すのだと」

 

 少し髪が伸びている。後ろに綺麗になでつけているが、毛先が肩にかかりそうな長さになっている。

 だが髭は、迷宮内でも切りそろえていたのか、いつも通りに美しく整えられている。


「で、それで、最下層まで行けたの?」


 気の短い誰かが声をあげたのと、その怒声が響いたのはほぼ同時。

 食堂を出て、右側。廊下の先にある玄関ホールから、叫び声と破壊音が聞こえてきて、全員が立ち上がった。


「あの生意気な小僧を出せ!」


 乱入してきたのは、レンドという名の戦士だった。

 カッカーの屋敷への出入りはしていない。大勢が、彼の名を知らなかった。

 だが、その巨体と、体中を血で赤く染めた姿に驚き、恐れて後ろへ下がっていった。


「ベリオだ。家にはいねえ……、ここにいるんだろう? 知っている者がいるだろう!」


 大勢のひよっこたちは口々に、いない、知らない、と答えた。だが、レンドは構わず、廊下に置かれた椅子を蹴り飛ばし、持っていた巨大な剣を振って壺を壊した。


「出せよ、あの小僧を! あの気取った魔術師と、女狐も、全員だ!」


 とうとう廊下に、大きな穴が開く。


「やめろ、ベリオ殿はいない。誰かに用事があるのなら、相応の尋ね方があるだろう」


 廊下の奥から子供の泣く声が聞こえてきていた。

 ヴァージはおそらく、突き当りの夫婦のための部屋にいるのだろう。

 この騒ぎでも姿を現さないのだから、カッカーは留守にしているはずだ。


 そうわかっていたから、この屋敷に集った少年たちはそう理解していたからこそ、ウィルフレドが自分たちの前へ進み出てくれて心底ほっとしていた。


 レンドの体は大きく、ひどく気が立っているようだった。

 手負いの獣、そのものだった。

 あんな巨大な敵と対峙できるのは、彼しかいない。


「おい、左手が」

 離れた位置から成り行きを見守っていたフェリクスの耳に、小さな声が届く。

 レンドの左腕は真っ赤に染まり、だらんと垂れ下がっている。怪我をしているだけかと思いきや、肘から先が見あたらない。


「なんだ、てめえは。お前じゃない、ベリオだよ。それから、ニーロとヴァージだ! 俺たちをハメやがった畜生どもを出せ!」

「ベリオ殿の行方はわからない。みな、最近見ていないと言っている。ニーロ殿もここにはいない」

「じゃああの女狐を出せよ……。あいつの描いたでたらめな地図のせいで、俺たちはなにもかも失った!」

「用があるなら落ち着いてから出直すがいい。今の状態では、ここを通すわけにはいかない」


 鬼気迫る様子のレンドに対し、ウィルフレドは冷静だった。口調は穏やかで、けれど隙はなくて、やじうまたちもすっかり黙り込んでただ、二人を遠巻きにして見守っている。


「出直す時間などない! こんな体でここで生きていけると思ってんのか、お前は。見たらわかるだろう? 全部、もう、ないんだ。腕も、未来も、相棒も!」

 だから今しかないのだ、とレンドは吠えた。

 吠えて剣を放り出し、右手を後ろに回すとなにかを取り出して、ウィルフレドに向かって投げつけた。


 腰につけていた短剣を抜き、美髯の男はその「なにか」を真っ二つに切った。


 だが、それは誤り。いや、誤りではない。切り落とさなくとも、結果は変わらなかったのだから。


「これは!」


 切った瞬間、黒いもやが宙で広がった。ウィルフレドは顔を抑えて廊下を転がり、やじうまたちは悲鳴をあげて奥へと逃げ去っていく。


「ウィルフレドさん!」


 ただ一人、駆け寄ったのはアデルミラだった。

 舞い落ちる黒い霧雨を上着で払いながらウィルフレドのもとへ駆けつけ、叫んでいる。


 フェリクスも慌てて後を追った。当然、レンドが迫っている。巨体から放たれる血の匂いと、残虐の香りが肌を粟立たせていく。倒れたウィルフレドと寄り沿うアデルミラの前に立ち、体の震えを無理やり抑え込んで両手を広げた。

 レンドが迫る。ぜえぜえと荒く息を吐きながら、投げ捨てた剣を拾い直し、鬼の形相でフェリクスへ向かって歩きはじめていた。

 自分は丸腰。どうするのか? 散々使った頭がとうとう煙をあげようとしている。その時。


「なにごとだ!」


 今日はよほど運が悪くて、運が良い日だったらしい。

 頼もしい雄叫びはカッカーのもので、レンドはあっさりと倒され廊下に伏している。

 だが、ほっとしたのも束の間。


 カッカーの背後から現れたキーレイが叫んだ。


「アデルミラ、いけない。止めるんだ!」

 

 迷宮都市で治していい傷は、迷宮の中で受けたものだけ――。


 少女の優しさは戦士を救ったが、彼女の「迷宮都市暮らし」はこの瞬間、終わった。

 

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