30 手招き
カミレイル・ダル・エッセとコルフ・ヒックマンの二人は、生まれた日こそ違うが、たくさんの共通点を持っていた。
同じような時期に迷宮都市を訪れ、同じような失敗をした後、同じ日にカッカーの屋敷に辿り着いている。髪の色は違うが、目の色は同じ。似たような背格好をしていて、一番の好物は鹿肉入りのシチュー。同じ部屋で暮らすようになって以来、共通点を発見しては絆を強めてきた。
しかしなによりも二人の結びつきを強くしているのは、同じ夢を見ているからだった。
カミルとコルフがなりたいもの。
ただの探索者ではなく、「詩人がその物語を謳う」有名人になりたい。
かつて故郷の街で暮らしていた頃、まだ幼かった日々に聞かされた「探索者達の物語」は二人の胸に強力な杭のように打ち込まれ、自分もそうありたいという夢を抱かせたのである。
なので、カッカーの屋敷が初心者に開放されていると知り、更にはそこで過ごせることになった時の二人の感動は、計り知れないほどだった。
探索者の物語で最も人気があるのは、初代調査団団長であるラディケンの物語だが、それ以降は似たような構成の似たような冒険譚が続くだけ。詩人のアレンジによって人気、不人気があるが、それほど強烈に印象に残るものはない。
だが、カッカーたちの物語は違う。今でも迷宮都市で暮らしているカッカーだが、彼の物語は多くつくられていた。探索者暮らしが二十年と群を抜いて長いせいもあるが、カッカー自身も、歴代の彼の仲間達も「個性的」だからだろうとカミルたちはよく話していた。
偏屈で非常識だが魔術の腕は一流のラーデンをはじめ、女と見紛うばかりの美貌の神官チュール、もとは詐欺師だったという、おしゃべりなスカウトのゴリューズ、騎士から転身した正義の戦士アークなど。カッカーの探索者人生の前半を支えた仲間達の物語は多くつくられている。
だが、なにより二人が素晴らしいと思うのが、「赤」の迷宮を踏破した時のメンバーだった。
線は細いが沢山の特技で探索を有利に進める剣士のマリート。
スカウトとしての能力だけではなく、抜群の美貌とプロポーションを兼ね備えたヴァージ。
船の神から幸運を分け与えられた、女戦士のピエルナ。
かつての仲間が育てた、生まれながらの魔術師であるニーロ。
たった三年前の探索な上、メンバーが多くを語らないので、物語は作られていない。
だが、この時のパーティが一番素晴らしい。
その理由についてカミルとコルフは熱く語り合い、最終的になにが決定的に素晴らしいのか、こう結論を出していた。
「なんていったって、女が二人もいる!」
探索者になる女性は少ない。いても、逞しいだとか、生涯を神に捧げただとか、いわゆる美女とはほど遠い者が多い。
だが、ヴァージは美女だ。
まあるい尻を惜しげもなく揺らしながら廊下の奥へ去っていくし、見事な実りをちらつかせながら台所を仕切っている。スカウト技術を教えている時の瞳の瞬きはあまりにも眩しくて、多くの若人の気を散らしてしまう。
もう一人の女戦士ピエルナにも、純朴な良さがあったと聞く。
とにかくカッカーの組んでいたパーティは派手だ。二十年にも及ぶ探索者生活を終えて引退し、うら若い美女と結ばれたという結末も憎い。男など選び放題だったに違いないヴァージと家庭を築いてなお、困っている者に手を差し伸べずにいられないお人よしなエピソードを更新し続け、今日も北へ南へ駆け回っている生ける伝説。それがカッカー・パンラであり、カミルとコルフの目指す頂だった。
そう考えていたので、最初に組んだパーティに「女性がいる」ことに、二人はかなり満足していた。
出来ればもう一人、ついでに美少女が良いのだが、まだ駆け出しの身で贅沢は言えない。アデルミラという愛らしい少女が、信心深く清らかな瞳を持つ神官が仲間にいるだけで、相当に「充分」な状態といえるだろう。
五人組を結成した夜、満足して、一呼吸。幸せな空気が部屋に満ちていた。
「フェリクスもいいよな」
カミルがベッドの上でこう呟き、コルフもすぐさまこう返した。
「うん、フェリクスもいい」
アデルミラは、美少女神官として充分にキャラクターが出来上がっている。
そこに、明るく朗らかで相性抜群、息はぴったりなスカウトと魔術師である「希少職」が加わる。そうなると、残っているのは「物静か」な枠だ。
フェリクスは多額の借金を背負い、暗い過去があるらしかった。だが、悪い人間ではなく、むしろ公正で真摯な性格だと二人は当たりをつけている。剣の腕だけでは生きていけないと気づき、剥ぎ取りの技能を磨こうとしているところにも将来性がある。故郷がない、つまり、すぐに逃げ帰る場所がないという「悲愴」も良い。
「ティーオも、いいよな」
「ああ、ティーオも、いい」
朗らかな性格は二人と重なるが、無鉄砲ともいえるティーオの行動力には魅力があった。
誰とでも仲良くなれそうな人懐っこさを持っていながら、実は基礎がかなりしっかりとした実力派。誰よりも訓練に真剣に取り組んでいるからこそ、変な連中と探索に行っても無事に戻って来られるのだ。
そんなトラブルメーカーの可能性を秘めているところが、これまた良かった。
「いいよなあ。ティーオがうっかり起こしたトラブルを、俺たちは団結して乗り越えるんだ」
コルフの溜め息はうっとりと漏れ出し、天井へ向かって広がっていく。
目指している路線に乗った。二人が求めてやまない、「大勢の憧れる」探索者への道への第一歩を、確実に踏み出している。
「あとは、あれだな」
「ああ、あれだ」
次の日の朝、ティーオがアデルミラを連れて部屋へ戻ってくれたお蔭で、またとないチャンスが生まれていた。
二人は目配せをし、カミルが代表して口を開く。
「なあ、フェリクス」
「なんだ?」
「フェリクスとアデルミラは、恋人同士なのか?」
真正面からぶちかまされた質問に、フェリクスは少しばかり慌てた様子だ。
「いや、違う。確かに一緒に借金を返さなければならないが、そもそも出会ったばかりだし、それに」
「それに?」
フェリクスは少し悩んだ末に、アデルミラについて「妹のように思っている」と答えた。
フェリクスの横顔に浮かんだ影は、秘めた過去のせいなのだろう。想像力が豊かなカミルとコルフは神妙な顔で頷いて、「変な質問をして悪かった」と謝った。
フェリクスとアデルミラが恋仲だったとしても、将来についてはわからない。仲間内恋愛はトラブルの元であり、もしも心変わりがあったら、深く追い続けてはならない。この問題についてカミルはいつも熱く語っている。コルフもそれに同意し、かつて愛した女の「未来の幸せ」を祝うべきだと、もしそのような状況になったら、潔く身を引くと誓っている。
カミルとコルフが満足げに浮かべた笑みにフェリクスは戸惑ったが、すぐに話題は変わって「次の探索」をどうするかが話し合われた。
「次は『藍』だよ。やっぱり、色々考えたけど『藍』だと思う」
ティーオとアデルミラが戻ってきて、再び食堂の隅。コルフの発言に、まずはティーオが頷いた。
「だなあ、なんといっても鹿がいるもんな。稼ぐなら確かに『藍』が良いよ」
アデルミラは不安げだし、フェリクスは悩んでいるようだ。
そんな二人の背中を、カミルは先輩ぶって叩いてみせる。
「僕たちはまだ駆け出し、見習いの状態だけど、ド素人じゃあない。挑戦していかなきゃ」
この言葉に、フェリクスはゆっくりと頷いた。
「そうだな。そういえば」
心のうちに蘇ったのは、灰色の魔術師の言葉だ。
「『藍』の正確な地図を作れば高い値で売れるだろうと、ニーロは話していた」
「へえ、そんなアドバイスをくれるの? あの、いつも人形みたいに無表情な人が?」
カミルは驚いたが、いやいや、とティーオが口を挟む。
「あの人は案外親切なんだよ、この間だって」
「なにがあったんだい?」
「……ほら、ウィルフレドのお願いを聞いてくれただろ。一緒に行ってくれって、フェリクスたちも、それに夜明かしの練習まで付き合ってくれたんだ」
ティーオが慌てて隠した狼狽に、コルフは怪訝な瞳を向けている。だが、アデルミラの清らかな微笑みがすべてを流した。
「そうですね。私たちに『術符』を譲ってくれましたし、根はやさしい人なのだと思います」
この意見に全員が同意したわけではなかったが、話はここで終わり、フェリクスたちは用意を進めると次の日から「藍」の迷宮へ通い始めた。
「藍」は「三番目に訪れるべき場所」で、「初心者」から卒業するための重要な分岐点だった。フェリクスとアデルミラは初めてそこへ足を踏み入れ、まず最初にほっと安堵の息をもらした。色合いこそ暗いが、通路は照明のお蔭で明るく、一層目の最後辺りでようやく出てきた敵はお馴染みの鼠たちだったから。
しかし、「藍」の本番は四層目に降りてからだった。
歩いているうちにふいに消える照明に戸惑い、大量に現れる小さな魔法生物たちに足と時間を取られてしまう。
初日はほんの少し四層を歩いただけで終わった。
「慣れるしかない、ゆっくり行こう」
カミルが微笑み、コルフが続ける。
「金も欲しいが、命が一番さ」
「橙」、「緑」を卒業したら、次は「藍」。
敵は弱く、構造はシンプル。「藍」までの迷宮はそういう作りになっている。毒草が生えていたり、照明がなくなったり、敵は少しずつ強くなっていく。一つずつ乗り越えていかなければ、次への扉は開かれない。いや、扉は簡単に開くが、生き残れなければ意味はない。
次の日、フェリクスたちは目標を立てた。提案したのはティーオで、「四層目の完全な地図を作ろう」という挑戦をしようと決まった。
「藍」の迷宮は既に最深部まで踏破されてはいるが、完全な地図は作られていない。
「藍」には八層目から、効率良く稼げる魔法生物の代表、「迷宮牡鹿」が出現する。十層目までの「最短ルート」を記した地図は何種類か出回っているが、やはり照明の仕掛けがネックになっていて、「それ以外のルート」については誰も見向きもしない状態になっている。
「半端な地図は色々あるけれど、よく考えてみたらもっといいルートが隠されているかもしれないからな」
「藍」は探索者が多く訪れる迷宮だ。大勢の探索者達が、「藍」では特に、同じルートを進んでいく。
大勢で長い列を作って進めば、照明のスイッチが切れた時にもしかすると「後続の誰か」がつけてくれる可能性が上がる。故に「その他のルート」の可能性が完全に打ち捨てられている、とカミルは熱い口調で話した。
「出来上がった地図を調査団に持っていくと結構いいらしいんだ。商人の方が高く買い取ってくれるけど、調査団のお墨付きをもらったものの方がよく売れるし、売れた分だけ報酬をくれるらしい」
張り切って「藍」へ向かった五人はその日の夜遅く、くたくたにくたびれ果てた姿でカッカーの屋敷へと戻った。結論は「精細な地図など不要」。ランプの油ばかりを消耗し、鼠や蛇を一体何匹倒しただろう。五人とも、どうやって三層へ戻ったのか記憶がない。よく一人も欠けずに無事に帰って来れたと感心してしまうほど、ボロボロになっていた。
次の日は昼過ぎにようやく起き出し、五人は食堂で反省会を開いた。
「『藍』に関しては完全な地図なんか売れないさ。最短ルートとスイッチの位置だけ書いてあるものの方がよっぽど役に立つ」
昨日はティーオの提案に頷いていたカミルだが、今日は目が据わっている。
もちろん、全員に異論はない。ティーオにもない。
「やっぱり鹿だよ。八層を目指そう」
次の目標を立てたのはコルフだった。
迷宮牡鹿は、兎と同じように食用の肉と、加工用の皮が採れる。兎よりもサイズが大きいし、市場にも出る数が少ないので高く売れる。そしてなにより、角があった。角は薬になるので、専門の店に買い取ってもらえる。
「俺たちが強くなるために必要なのは、経験だ。けど、経験だけじゃない。いい装備だとか、道具、魔術を身に着けていくのも重要だよ。そのためにはやっぱり、金がいる」
「自分だけの装備っていうのは、それだけで気分がいいからねえ」
まだ借り物の剣と胸当てを使っているフェリクスとティーオに、カミルはこう語った。
「魔術の力で強化されているものはもっといいんだ。軽かったり、簡単な魔術を使えるようになったりするから」
迷宮都市には武器、防具の強化を請け負ってくれる魔術師がいる。だが、もちろん金は大いにかかる。
「迷宮の中で見つけられればいいんだけれどな。中で見つかった物なら、誰も使えなくても高く売れるし」
五人組を結成してから六日目。フェリクスたちはごくごく普通の探索者らしく、「効率良く稼ぐ」という目標を設定して「藍」へ挑むと決めた。
適度な距離を保って、他の探索者たちの気配を追う。直接関わりはしない、戦闘の邪魔はしないが、照明の罠については「無言の協力関係」でいる。これが「藍」の迷宮の歩き方だった。
このマナーを守っているうちに、三日目、フェリクスたちはいつの間にか六層まで辿り着いていた。
「カミル、『泉』の場所はわかる?」
「大体わかっている。なにせ暗くなるから曖昧な部分もあるけれど、方角は問題ないはずだよ」
カミルとコルフはこれまでに一度だけ、「藍」の六層にある癒しの泉を使ったことがあるという。その時作った地図を頼りに、一行は進む。小さな敵たちとの戦いを何度も繰り返してきて、そろそろ体力も限界が近い。
五層から続く階段を降りて、まずは道が三つに分かれている。辺りに他のパーティの気配はなく、照明はついていて明るい。敵の姿も、通路に落ちている道具の類もない。
「まずはまっすぐ」
左右へ伸びる通路は無視して、進む。先頭はティーオとフェリクスが引き受け、その少し後ろをカミルが続いていた。地図を片手に、方向を確認しながら、罠が仕掛けられていないか目を凝らしている。
後ろに続くのはアデルミラとコルフ。敵が出ればコルフは炎の弾を出してぶつけ、アデルミラは戦いには参加せず、怪我人の治療に専念している。
「藍」は深く暗い青に包まれていて、長いまっすぐな通路を歩いていると「星空の中を進んでいる」ような気分になる。そう歌った詩人は間違いなく、探索の経験がない。
ロマンなど皆無の、海の底のような暗がりの中。暴力の忍び寄る足音が聞こえてくる「黒」よりマシだし、水底へ引きずり込んでやろうとする悪意の手が伸びてくる「青」よりは希望が持てる。だが、いい場所ではない。暗くて、うすら寒い。母親とはぐれた幼い子供のような、心細い気分になるだけの場所。迷宮は、どこも、そうだ。
藍色の床の上を進みながら、五人はそれぞれに目を凝らし、耳を澄ましていた。
前へ。右へ曲がる道は無視して、再び直進。ふいに照明が揺れる。だが、まだ消えない。
前へ。三歩進んで、ティーオが右手を横にあげ、前進を止める。
「足音だ」
たっ、たっ、たっ。
「兎だな」
音は重なり、奥から小さな影が二つ現れる。
左手に提げていた剣をあげて、ティーオが構える。フェリクスもそれに倣う。
腕が重い。六層までの道のりは長い。足を一歩出して低く構える。下から鋭く蹴り上げてくるか、ちょこんと飛び出した前歯で腕へ噛みついてくるか。
カミルも少し後ろで構え、アデルミラは小さなナイフを取り出し、コルフはランプに火を灯し備えている。
前を走っていた一羽が強く床を蹴って飛んだ瞬間、照明が消えた。
自分の影が伸びて、兎の姿は掻き消える。
あてずっぽうに振りおろした剣はなにかを切ったが、手ごたえがほとんどない。
床に落ちたものは、耳の先。フェリクスの腕はそんな程度で、軽やかに着地した兎は背後から彼の足に噛みつき、うめき声がこだまする。
「大丈夫だ、フェリクス!」
カミルの剣は兎を仕留めた。そう確信しながら、ティーオは身をよじる。コルフの掲げたランプの光を避け、斜めによけながら飛び掛かって来た兎を切り落とした。前足のすぐ下あたりをざっくりと切ってしまい、思わず舌打ちが飛び出していく。こんな切り方では革が採れない。
アデルミラの癒しを受ければ、傷は治る。だが、破れたズボンは直らない。
ここ数日の「藍」の探索のお蔭で、全員の衣服がボロボロになっていた。噛まれ、裂かれてつぎはぎだらけになっている。今日も戻ったら、針と糸を用意して修繕しなければならない。慣れない作業をしているうちに、なるほど、マリートもこんな生活を重ねたおかげで革細工の腕を手に入れたのかもしれない、などという思いが浮かんでいく。
だが、そんな余計な考えにとらわれている時間はない。
疲労の蓄積した体と頭の重さを振り払い、五人は進む。
通路の先の壁のスイッチを押し、三匹の鼠を切ったら次は左へ。まっすぐ、まっすぐ、三番目の角を右に曲がれば、そこが愛しい「回復の泉」だ。
「藍」の六層にある回復の泉の手前には十字路があった。
まっすぐ進めばすぐに泉が。右に曲がった先には七層へ続く階段が。左はしばらく行くと行き止まり。カミルの持つ地図にはそう書かれている。
まずは回復。
そのために十字路の手前まで五人は進んだ。
右への道をフェリクスが覗き込み、左への道はティーオが目を凝らす。
「おい」
ティーオがあげた声は震えていた。驚きを多分に含んだ響きに、カミルも慌てて左の通路を覗き込む。
「うわ……」
通路の先には小さな、ほのかな輝きがあった。
藍色に塗りつぶされた世界にぽつんと、青白い光が落ちている。
カミルとコルフは、同時にある記憶を思い起こしていた。
カッカーの屋敷に居ついて随分長いという、うわさ好きのガデンが漏らした、こんな台詞だ。
無彩の魔術師ニーロはなぜかしょっちゅう「藍」に潜っている。それも、たった一人か、二人で。
そのたびに大量に持ち帰っているものがあるんだ。あの、貴重で、滅多に手に入らないっていうアレ。信じられるか? でも、あの若い魔術師は何十枚も持っているんだってよ。
俺は思うんだ。あいつが「藍」に好きこのんで行く理由。……出やすいんだ。拾いやすい場所なんだよ、あそこは、きっと。多分、の話だぜ? でも、俺はそうだと思う。
確信するにはまだ早い。ほのかな青い光までは距離があって、はっきりと何が落ちているのかは見えない。
カミルの目配せに、ティーオも頷く。ティーオもガデンの話を共に聞いていて、更には実際「藍」であっさりと「術符」を手に入れている。あれは通路に、ぽつんと、気紛れに落ちているものなのだ。四層にだって落ちているんだから、六層にだってあっていい。
フェリクスとアデルミラの鼓動も早くなっていた。二人の胸のうちに浮かぶ思いは同じだ。――あれさえ、手に入れば。
そこに鋭く放たれる声。コルフのものだ。
「落ち着け」
五つの口から一斉に息が漏れだしていった。
五等分にしても、二万。
それぞれの意識が、ゆっくりと動き出す。
裏切ろうなどという思いは持っていない。ただ、ほんのりと「術符を手に入れたら」という夢想の中に浸っただけで、自分だけの手のうちに収めようなんて、考えていない。
「まずは回復しよう」
乾いた唇を動かし、コルフは囁く。
泉まではすぐだ。ひしゃくで順に飲めばいい。万端の準備を終えてから、あのほのかな光を掴みたい。
確実に。
「……待て」
踏み出しかけた足を空中で止めて、カミルが振り返る。
「誰か来る」
前からか後ろからか、それとも右からか。足音がする。獣ではない「誰か」の足音がする。
カミルは通路の先、天井を見上げる。
フェリクスは右の通路に目を凝らす。影は見えない。
コルフは五層へと繋がる道へ目をやった。照明はまだ着いている。
アデルミラは戸惑っていたが、次の瞬間驚いて声をあげた。
「ティーオさん!」
ティーオは駆けた。誰かが来たらお終いだ。先に手に入れていたとしても、「術符」を手にしている姿を見られては駄目だと思った。もしも、自分達よりもはるかに経験があって、強い「誰か」がやってきたら? 「術符」は命、「術符」は富だ。
力尽くで奪われる。かも、しれない。
せっかく出会って明るい未来を描いた「仲間」たちが、「藍」ごときで消え去ってしまうのは、嫌だった。だから、走った。
「ティーオ、待て、蛇が落ちる!」
「藍」の天井からは蛇が降ってくる。にわか雨のように一気に、どばどばと蛇が天井から放たれる罠がある。
どこにそのスイッチがあるかはわからなかったが、魔法生物を吐き出す特徴的な小さなでっぱりに気が付いてカミルは叫んだ。鋭い声にティーオは焦ったが、足を止められなかった。
フェリクスも駆けた。蛇の雨に打たれたら、ティーオだけでは危険だ。アデルミラも身を翻す。蛇には毒があるから。カミルも、コルフもそれに続く。
「ティーオ!」
フェリクスの呼ぶ声を聴きながら、ティーオは飛んだ。飛ぶようにして駆けた。
青いきらめきが手招きをしている。またお前か? よほど運がいいんだな。そう囁きながら微笑んでいる。
あと十歩。大きく足を動かして飛んで、あと九歩。
遠くから聞こえてきていた足音は、仲間達のものに消されてもう聞こえない。
飛んで、あと八歩。
なにかを踏んだ。
飛んで、あと七歩。
きらめきが一気に強くなる。
飛んで、あと六歩。
照明が落ち、みえるものはもう「術符」だけ。
飛んで、あと五歩。
コルフが声をあげている。
飛んで、あと四歩。
あかりをつけろと叫んでいる。
飛んで、あと三歩。
アデルミラの悲鳴、剣を抜く音。カミルの怒声。
飛んで、あと二歩。
のはずが、よろける。悲鳴は大きくなる。床が傾いている。足に何かが当たる。
逃げていく床を蹴って、ティーオは飛ぶ。落ちていく。背後からは悲鳴。落とし穴だ。
飛んで、手を伸ばす。青いきらめきが遠ざかっていく。見えなくなっていく。嘲笑っている。
ばかめ、罠だ!
すべてが罠だった。「術符」が欲しくて我慢できない探索者達から灯りを奪い、蛇を降らせ、穴の底へ落として、そして、奪う。彼らの持つ、なにもかもを。
理解して、悔しくて、たまらず叫んだ。
「ちくしょう!」




