28 蜘蛛の糸
「ここが、死体の落ちていた場所なのですか?」
バリーゼは重々しく頷き、チェニーへこう答えた。
「ああ、昨日はここまでじゃあなかったんだな」
伸びた蔦の隙間から、ちらちらと通路の先が見える。
蔦の密度は下に行くほど、床に近いところほど高くなっているようだ。
緑色の葉は大きく広がり、毒々しい赤色の花までつけている。
バリーゼに促されてチェニーと学者たちが前に出たが、三人には「なにをどうしたらいいのか」さっぱりわからない。
「この中に埋もれているのでしょうか」
「恐らくは」
答えたのはニーロで、チェニーたちへ冷たく厳しい視線を向けている。
「確認しましょう、か。このままでは死体があるのかどうかすらわかりませんし」
学者二人は頷いて荷物から手袋を取り出したが、絡み付いた蔦の余りの密度に、立ちすくむばかりで動けない。
バリーゼとウィルフレドはここまで、邪魔な蔦を剣で斬り払っていた。
少し量は多いが、たかが「蔦」だ。同じようにすればいい。チェニーはそう考え、自分の剣に手をかける。
その途端、ニーロが進み出て、チェニーへ向かってため息を吐きかけてきた。
「事前に『紫』について調べなかったのですか? 半端な切り方では危険です。あなた方は下がってください」
学者の二人は追いやられ、ウィルフレドとバリーゼに「通路の先の見張り」の役が割り振られる。
「キーレイさんは解毒の用意を」
学者の二人が取り出した手袋をひったくり、ニーロは一方を自分の手にはめると、もう一方をチェニーに向けて突き出した。
「あなたは蔦を取る手伝いをしてください」
「……二人でやるのですか?」
「ええ。初めて迷宮に入った人間に見張りなど任せられません。これがあなたの役割です」
素手でこの量を片付けるのかとチェニーが顔をしかめると、ニーロは両手を突き出して風の渦をいくつも作ってぶつけ、通路を塞いでいた蔦のほとんどを吹き飛ばしてしまった。
死体を乗り越えた通路の先をバリーゼ、背後をウィルフレドに守らせ、ニーロとチェニーは蔦の除去作業を始めていた。
毒々しい濃緑の蔦をちぎって、引き抜いては投げていく。周囲に漂っていた腐敗した臭いは薄まり、少しずつ哀れな誰かの姿が見え始めている。
学者たちは背後から覗き込んでいるだけ。
彼らはきっと興味津々で様子をうかがっているのだろう。
その傍らで、神官は口を噤んだまま控えている。
蔦をぶちぶちとちぎりながら、チェニーは自分の隣でしゃがみこんでいる魔術師の横顔を時折見つめていた。
肉体労働など好みではなさそうなのに。
肌は真っ白で、首は細い。だが、現場に辿り着くまでは流していた髪をうしろで一つにまとめ、一心不乱に死体を覆う蔦を取っている。
「乾いていますね」
突然放たれた言葉に、チェニーは慌てた。
「なにがですか?」
「体ですよ。吸われてしまったのでしょうね。もしかしたらただの植物ではなく、魔法生物の一種だったのかもしれません」
答えを示してくれたものの、その発言のほとんどは独り言のようだった。
蔦の中からのぞいた足に触れ、軽く動かし、ニーロはまた作業へ戻る。
やがてチェニーの視界にも、誰かの体の一部が見え始めた。
破れた服の奥、手袋の先に感じるのは確かに乾きだった。
無残に腐りはてた姿よりはマシなはずだ。感じた吐き気をなんとか堪え、チェニーは気を逸らそうと会話の糸口を探す。だが、結局は目の前で起きている事件以外に話題に出来るものはない。
「死体が消えるというのは本当ですか?」
「本当ですよ。迷宮の中で死んだ者は、置き去りにされた場合いつか消えます」
「でも、この人は消えていないではありませんか」
「そうですね。つまりこの誰かは、迷宮の中で死んだのではないのです」
きん、と耳が痛くなるほどの静寂がチェニーを包んでいた。
ニーロは変わらず蔦をちぎり続けており、ぶちぶちという音は聞こえている。だが、静寂の冷たさがチェニーを締め付けていて、ひどく息苦しい。
「どういう意味だ、ニーロ」
「いつかは起きると思っていました。迷宮の中では死体が消えると聞きつけ、処理に使おうとする輩が現れると」
キーレイの問いに答える魔術師の声も、ひたすらに冷たい。なんの感慨もない表情で、作業を続けながら答えている。
「外で殺された人間が、ここに捨てられたということか?」
「僕はそう思います。彼らは探索をした経験がないか、少ないのでしょうね。誰かに金を払ってこの死体を投棄させたのかもしれません」
ニーロは言い終わると何故か小さく笑った。
隣で微笑む魔術師に慄きながら、チェニーは尋ねた。なぜ、そう思うのかと。
「迷宮が歓迎するのは探索者のみです。自らの意思で足を踏み入れ、怯えながらも奥へ進もうと決めている者だけ。それ以外の存在を許しはしません」
ですから、迷宮の外でのたれ死んだ誰かの後始末などしないのです。
ニーロが口の端をあげると、どこからか風が吹いてきて長い灰色の髪をふわりと揺らした。
蔦を取り去り露わになった誰かの遺体を布で包んで、一行は「紫」の迷宮から無事に脱出を済ませた。道中で手に入れた薬草や戦利品をバリーゼと分け合い、報酬を受け取るとニーロたちはあっさりと去って行ってしまった。
良き報告者であるバリーゼとその雇い主にも礼をして、王都の調査団本部には乾ききってしまった死体だけが残っている。
「どうするべきでしょう?」
迷宮の中に残された死体が消えず、それを引き揚げたというのは前例のない話であり、調査団の責任者であるフーライも困った様子で首を傾げている。
「どうって、どうしようもないだろう。どこの誰だかわからないんだから、埋めるしかないんじゃないか?」
「服もボロボロで手掛かりになりそうにないしなあ」
同行した学者たちも同調して、話はまとまろうとしている。
そこへ、チェニーは意を決して口を挟んだ。
「この被害者が誰なのか、なんとか調べる方法はないのでしょうか」
集まっていた調査団の人員たちは困惑した表情を浮かべて新入りを見つめている。気にする必要があるか、とフーライは問う。
「同行を頼んだ魔術師は言いました。この哀れな誰かは、迷宮の外で死んだのだろうと。だから、消えなかったと」
「それがどうかしたのか?」
「もしもあの魔術師の仮説が本当だとしたら、これは大変な事件です。ただの行きずりの犯行だとしたら、わざわざ迷宮の中へ、しかも難度の高い『紫』にわざわざ捨てに行くでしょうか? 死体を消し去りたいという強い悪意があったからなのではないでしょうか」
チェニーは熱く語ったが、結局意見はすべて流されてしまった。
だとしても調査団には関係ない。犯人捜しは迷宮都市の調査団の仕事ではない。
死体は街の西側にある墓地の端に、埋められることが決まった。
「またあなたですか?」
探索の次の日、埋葬が済んでチェニーが向かったのはカッカーの屋敷だった。同僚から聞き出した「協力的な探索者」の屋敷では若い魔術師が食事をしている真っ最中で、隣にはキーレイとウィルフレドもいる。
食堂は広く、他にも大勢の探索者が集っていた。誰も彼も若い。少年といって差支えのないあどけない顔の彼らが、毎日無謀に命を賭けているのかと思うと、胸のうちにはやるせない気分が溢れていく。
そんな思いを飲み込みながら、チェニーは声をあげた。
「どうしても聞きたいことがありまして」
ニーロは明らかに迷惑そうな顔だ。
食事は始まったばかりのようで、皿の中にはなみなみとスープが注がれている。
返事をせずにそっぽを向いたニーロを、キーレイがなだめていく。
「調査団には協力するようカッカー様に言われているだろう」
「協力ならもうしました」
「ニーロ」
強く咎められてようやく、魔術師はチェニーへ顔を向けた。明らかに不服そうな顔に、思わず笑ってしまう。この高名な魔術師は確かに若く見えるが、中身はそれ以上に子供じみた人物のようだ。
灰色の髪をかき上げ、ニーロは渋々といった様子で口を開く。
「聞きたいこととは?」
すると、部屋中の注目が一気に集まった。
「あの『紫』で見つかった死体が誰なのか、突き止める方法はないのでしょうか」
「ありませんね」
「おいおい、ニーロ。怒っているからってそれはないだろう」
助け舟を出したのは、キーレイの奥に座っていた若い男だった。チェニーに向かって名乗り、マリートはこう続ける。
「話は聞いた。迷宮の外で死んだというのはニーロの予想に過ぎないが、俺もそうだと思うね。もっと奥の層で死んだ奴をやむを得ず置いていった可能性はなくはないが、もしそうなら迎えに行かないのは不自然だ」
会話に加わって来た剣士に頷き、キーレイもこう話した。
「『紫』の奥へ行けるほどの実力の持ち主も限られますからね。もしも仲間を失ったなら、噂になるでしょう。そういった話も聞きません」
ニーロは澄ました顔でスープを口に運んでいる。
その隣で、ウィルフレドも口を開いた。
「迷宮の中へわざわざ捨てに行ったのは、死体を消し去りたかったからなのでは? だとしたらその辺りで起きた喧嘩の被害者とは考えにくい。もっと大きな理由があるのではないだろうか」
昨日の自分の訴えと同じ意見が飛び出してきて、チェニーは思わず顔をほころばせていた。
四人から一斉に視線を向けられ、ようやく諦めがついたのか、ニーロは答えた。
「そうでしょうね。この街では暴力は特に目立ちます。喧嘩が起きればすぐに噂になりますから、その可能性は低いでしょう」
「そうなのですか?」
「迷宮の外で負った傷は神殿で治してもらえません。怪我をすれば仕事になりませんから、探索者は喧嘩をしません」
ここ最近派手な争いはなかったと、魔術師ははっきりと言い切ってみせた。
「なぜ『紫』の三層に捨てたんだろうな」
マリートに問いかけられ、ニーロはじっと前を見据えたまま答えていく。
「二つの理由が考えられます」
一つは、人に知られずに消し去りたかったから。
手っ取り早いのは「青」か「黒」だが、この二つの迷宮はすぐそばに北の門から続く大きな通りがあって、夜中であっても誰かが通りかかる可能性が高い。
「『青』と『黒』の危険度の高さも関係していると思います。あの二つは、ほんの少しの油断があっという間に死を招く」
「では、入口付近に置き去りにすれば良かったのではないですか? 人が余り来ない迷宮ならば、見つかる可能性は低い」
差し挟まれたウィルフレドの声に、チェニーは深く頷いていく。
髭の男の喋り方には品があり、堂々とした姿は憧れていた騎士団の団長を思い起こさせる。
「もう一つ、考えられる理由のせいだと僕は考えます」
「どんな理由なのですか?」
「確実に消し去りたかったのだと思います。どの迷宮も、入ってすぐの場所には敵はほとんど現れません。罠もありません」
「紫」の迷宮に入る者は多くない。厄介な毒はあるものの、敵や罠は少なく荷を運びやすい。だから、「紫の三層に捨てた」のだと思う。
そこまで話すとニーロは自分に向けられた大勢の視線に気が付いて、怒ったような表情で食堂を出て行った。
マリートとキーレイがニーロを追って去っていき、チェニーの前に残ったのはウィルフレドだけだ。
「怒らせてしまったのでしょうか」
「探索が中止になったのはやむを得ないこと。確かに彼は苛立っているが、あなたにではない」
彼はまだ若いから、と髭の男は微笑んでいる。
「みなが一目置いているようですが、何歳なのですか?」
「十六、ですよ。しかも探索者になってもう六年というベテランの」
驚いて口を開けるチェニーを見て、ウィルフレドはまた笑った。自分も聞いた時にはあなたと同じような顔をしたのだと。
「相当な手練れだと聞いていますが」
「相当な手練れですよ。共に調査に行けて、感謝しています」
道理であの学者たちがはしゃいでいたはずだ、とチェニーはようやく理解していた。
大勢が集う迷宮都市でも貴重な魔術師が参加し、その技と知識の一端を見せてくれたのだから、たとえ「紫」へ踏み入らなければならなかったとしても喜びがあったのだろう。
「あなたは初心者だと言っていましたね」
「剣は多少使えるし、年を食っているのでなかなかそうは見られないのですが、ひと月ほど前に来たばかりで間違いありません」
多少ではない、とチェニーは感じていた。
この体つき、喋り方、姿勢。辺境で暮らしていたとしても、かなりの地位にいた人物でなければこうはならないはずだ。ウィルフレドの姿はこの街にまるで馴染まない。滲み出る清冽な空気は、欲と苦悶に満ちたこの街の中で、明らかに浮いている。
「どこからいらしたのですか? 一体どなたに仕えていらっしゃったのでしょう」
チェニーのストレートな質問に、ウィルフレドは困った様子で肩をすくめてみせた。
「昨日バリーゼ殿も言っていましたが、この街では過去について聞くのは禁忌です。あなたは調査団の人間であって探索者ではないが、ラディケンヴィルスのルールについてはよく知っていた方が良い」
気が付けば、食堂中の人間がチェニーを見つめていた。
気がよく、明るい若人たち。
さきほどまではそうだったはずが、今、自分に向けられている瞳の色は暗い。
邪魔をしたと詫びると、チェニーはカッカーの屋敷を後にし、街の西側へと続く道をとぼとぼと歩いて帰った。
たとえばあの優秀な魔術師が協力を惜しまなかったとしても、死んでいた誰かの身元を突き止めるのは自分の仕事ではない。
平和に暮らす人々を守りたくて警備隊に入ったが、今は迷宮都市の調査団の所属である。今課せられている使命は、迷宮で発見された新しいものの管理や、探索者たちからの報告を聞き、時折ある迷宮の立ち入り調査で学者たちの護衛をすることだ。
本部の隣に建てられた宿舎の二階、自分に割り当てられた部屋でチェニーはため息をついていた。
持ち込まれた縁談をすべて断り、両親の反対を押し切って剣の道を選んだのに。女は警備隊には不要だと言わんばかりに、入ってすぐに厄介ばらいをされてしまった。
また、ため息が出て来てしまう。
白旗をあげて故郷へ戻り、親の選んできた相手と結ばれて家庭に入る道しか、自分には用意されていない。もう十八歳、身内からは既に「行き遅れ」の烙印を押されている。
兄が好きだった。兄のあとを追って、同じようにしたかった。花を摘むよりも草原を駆け回っていたかったし、腰から剣を提げて歩きたかった。
カッカーの屋敷で見た若い探索者たちの姿がまぶたに浮かぶ。
チェニーが余計な発言をするまでは、瞳を輝かせながらニーロたちの発言に耳を傾けていた。
自分にもあんな頃があったのに。
調査団への派遣に、期限はない。いつまでの勤務なのか聞いたし手紙も出したが、返事は得られていなかった。
三日後、意を決してチェニーは再びカッカーの屋敷を訪れたが、ウィルフレドの姿はなかった。
「赤」へ探索へ出ていて、四、五日は戻らないだろう。対応してくれた家主の妻はチェニーを丁寧にもてなし、そう教えてくれた。
再び、とぼとぼと進む。
街の西側に戻ってきた時にはちょうど昼で、なにもないまま本部へ戻るのはなんとなく嫌で、チェニーは目に入った食堂へ一人で入っていった。
店の一番奥のテーブルにつき、水を飲んでいると、誰かが向かいの椅子を引いて先客へこう声をかけてきた。
「ここ、空いているかな?」
気が付けばほとんどのテーブルは埋まっており、断る理由は特にない。
向かいに座った男は優しげに微笑み、一人きりで食事を待つ女へ語り掛ける。
「女性の探索者とは珍しい。しかも、一人?」
男の語りは少しばかり芝居がかっていて気障だった。気取った田舎者はよく、女性へこんな風に声をかける。父と叔父が酒を飲みながらしていた笑い話を思い出し、チェニーはふっと笑う。
「ええ。迷宮探索へ行ってみたいのだけれど、仲間はまだいなくて」
嘘ではない。探索者になるつもりはなかったが、その真似事はしてみるつもりだった。
警備隊へは戻れない。辞めれば、花嫁の道以外は最早進めないだろう。
迷宮都市で生きるために、知りたい。探索へ行ってみようと考えた時に浮かんだのはウィルフレドの顔だったが、彼は不在だ。おそらくはあの魔術師らと共に行っているのだろう。
「そうなのか。ここへはまだ、来たばかりなのかな?」
胸のうちにあるのは、悔しさばかりだ。
たとえ今日ウィルフレドがあの屋敷にいたとしても、きっと共には行けない。
虚しさが胸のうちを埋め尽くしていて、息苦しくてたまらない。
「剣を使えるんだろう? ならば、きっとすぐに仲間は見つかる。その辺の連中に声をかければ、大勢が力を貸してくれるよ」
向かいに座った男の意外な言葉に、チェニーはようやく顔をあげた。
探索者など粗野な連中ばかりだと思っていたが、そこにあったのは端正な顔立ちに、美しく整えられた金色の髪、仕立ての良い衣服。瞳には知的なきらめきがあった。
「声をかければ?」
「ああそうさ。食堂や酒場は出会いの場だよ。仲間を探している連中が多くいる。五人でテーブルを囲んでいる奴らは仲間だから、それ以外に声をかけてみればいい」
商人は商人が集まる店に行くから、と男は笑う。
その表情は柔らかく、親切な言動にチェニーの緊張も少しずつ緩んでいく。
「五人だと、もうパーティを組んでいるっていうことになるのね」
「そうさ。戦士が一番余っているが、君なら大丈夫だろう」
「どうして?」
「よく鍛えているんだろう。座っている姿でわかるよ。線は細いが、動きの速い戦士は重宝される。それになにより育ちが良さそうだ」
育ちの良さが何に関係するのか?
眉をひそめるチェニーへ、男は笑いかけた。
「基礎がいい人間は覚えがいい。教養のある人間というだけで信頼もできる。断言しよう。君は必ず、名のある探索者になるよ」
そして男は、こう続けた。
俺もいま、共に行ける戦士をあと一人探しているところだと。
昼食が終わる頃、二人は「緑」へ行く約束を済ませていた。
男の名はジマシュ・カレート。三日後の朝、緑の入口の前で。口の中で繰り返しながら、チェニーは急ぎ足で本部へと戻って行った。




