234 信頼と葛藤
自分の目がおかしかったのか、確認が持てずにキーレイは呻いていた。
「人のような形に、盛り上がっていましたよね?」
魔術師は二人とも頷き、三人で棺の中を覗く。
布を取り払って見えたのは、石だけだ。台の材料であり、まっすぐに削られて美しく光沢を放つ、つるりとした底部分だけ。
空気を人の形にして、詰めていたとでもいうのだろうか。
こんな馬鹿げた疑問を飲み込んで、キーレイは上から下まで、台を隅々まで見直していく。
「キーレイさん」
ニーロの声が聞こえて振り返ると、無彩の魔術師は朽ちた椅子の前に佇んでいた。
なにかがおかしい気がするが、心が乱れているせいか、どこに異常があるのかわからない。
「おや?」
今度はグラジラムが声をあげて、ニーロの傍まで進んでいく。
なにかを探すような仕草を目にして、キーレイもやっと気が付いていた。
エラン・デランの死体がない。椅子の傍に倒れていたのに、今はどこにも見当たらない。
三人で互いを見合って、キーレイは首を傾げた。
この場にいる全員が同じことを考えているはずだ。
誰かが勝手に死体をどこかへ運んでしまうなど、あり得ないと。
「さっきまでそこに倒れていたのに」
グラジラムは明らかに動揺して、視線を彷徨わせている。
狭い部屋で、大人の男を隠せるような場所はない。そもそも、音も立てず、誰にも気づかれずに、移動させられるはずもない。
ニーロはなぜか床を見つめている。
鈍い銀色の床に向け、目を凝らしている。
「ニーロ、なにか見つけたのか」
無彩の魔術師は視線をゆっくりと、左へ向けた。
右にも、背後にも、少し斜めの方にも向けて、ようやく口を開いた。
「迷宮の仕組みが働いているのかもしれません」
「仕組み? ……まさか、清掃の?」
「エラン・デランが死んだのは昨日。迷宮として考えると、ここはかなり浅い層に当たるでしょう。清掃の仕組みが働くまでの時間は、かなり短いのではないかと思います」
「そんな馬鹿な」
「ここは本当に、迷宮の描く四角形の中心です。魔術師たちが最後まで避けた場所であり、一方で強い探究心を持つ者を惹きつけるところでもある。なにかあってもおかしくはありません」
レガル・アラードはここに住み着き、ホーカ・ヒーカムも屋敷を建てた。
心に暗い物がよぎって、キーレイは思わず目を閉じている。
「清掃の力が及ぶのなら、彼は?」
グラジラムは椅子の上の遺体を指さし、首を傾げている。
「検証のしようがないので確かめられてはいないのですが、清掃の仕組みには一定のルールがあると僕は考えています」
「どんなルールなんだい」
「死因を見ているのです。恐らく、外から持ち込まれた死体は消えません」
「外から? 見たことがあるのか」
「『紫』の三層に残り続ける死体があって、調査に行きました。それでもうひとつ、考えたことがあります」
以前にも聞かされた、ニーロの疑念。
――迷宮は、誰かに殺された者の始末はしない。
「迷宮がそんな判断をいちいちするなんて、あり得るかな」
「『藍』に長く残されていたであろう死体も見つけたことがあるのです。断言はできないのですが、彼らは薬を使われ、大穴の仕掛けの底へ落とされたのだろうと思います」
グラジラムはぎょっとした様子で身を縮ませ、ニーロを見つめている。
地下室に取り残されていた死者は、レガル・アラードに体を乗っ取られていた誰か。
ガリンダムへ魂を移す時に放棄された体は、「殺された」と考えられるのだろうか?
「薬を飲んでいたと言っていましたね」
「命を脅かすようなものなら、殺されたと解釈できなくもないのかな」
「ホーカ・ヒーカムはどうなのだろう」
記憶を探り、ロウランの言葉を思い出す。
「理由はわからないが、ホーカ・ヒーカムは命を落とした」
死期を悟って新たな体を用意しようとしていたのなら、病を得ていた可能性もあるのではないか。
「寿命だとか病死ならば、清掃で消えてしまうのかな」
「エラン・デランが消えたのが清掃の仕組みのせいなら、そう考えても良いのかもしれません」
エラン・デランが死んでしまったのは、記憶を取り戻したショックに耐えられなかったからだと思える。
もともと体が弱っていたところに、余りにも強い衝撃を受けたせいであんな風に命を失った。
他に考えつかないし、いきなり消えてしまった理由もわからない。
エランが倒れていた場所の近くには、遺体の他に古びた椅子が残されている。
「あの椅子は消えないのかな」
キーレイの疑問に、グラジラムが続く。
「レガルが暮らしていた時、ここは随分と散らかっていたよ」
迷宮が消してしまうのは、死体だけではない。装備品や、落とし物も消し去ってしまう。
ニーロは二人に問われてしばらく黙っていたが、やがて小さな声で自らの考えを示した。
「力が及ぶ範囲が狭いのかもしれません」
「なるほど。ごく一部にしか効果がないのなら、あり得るか」
魔術師たちが急に生き生きとし始めて、キーレイは焦って二人に声をかけた。
今は研究をしている場合ではないし、いつまでもここに居続けるわけにはいかない。
「皆いなくなってしまって、真相はわかりそうにないな」
「けれど、明らかになったこともあります。ホーカ・ヒーカムが何故マティルデ・イーデンの体を乗っ取ったのか、理由もはっきりしたのではありませんか」
確かに。レガルとの邂逅があり、秘術について触れた記憶が蘇り、屋敷の建築と薬の研究に繋がった――かもしれない。
カッカーはホーカ・ヒーカムとラーデンの間に接点はないと話していたが、本当はあった。
「ラーデン様はホーカとは関わらないよう言っていたと話していなかったか?」
「言われました。執念と嫉妬に塗れた醜い女で、関わるだけ損だと」
余りの言葉にキーレイは絶句しているが、グラジラムは吹き出し、笑い出している。
「けれど、他人を支配する魔術について、話していたことがありました」
「なに? では、ラーデンも?」
驚き問いかけるグラジラムに、ニーロはゆっくりと首を振って答えた。
「そういったものがあるのだと独り言のように言っただけです。それも、たった一度だけ」
ジャグリンとファブリンが死んだ後。ザックレン・カロンの企みについて語り合っている時に、ニーロは同じ話をしていた。
「では、ラーデンも覚えていたのかな」
「あの瞬間、思い出したのかもしれませんね。迷宮都市であった、特別な夜の出来事を」
記憶を消す薬の効果は不完全で、ホーカもラーデンも、レガルについてすべて思い出していたかどうかはわからない。
はっきりしているのは、悍ましい秘術の再現は為されなかったことだけ、なのだろう。
「ひとつ、いいかな」
考えを巡らせているキーレイの隣で、グラジラムはニーロに呼び掛けている。
「なんでしょう」
「……君は本当は、ラーデンなのでは?」
強く決意をした目で、魔術師は問いかけている。
魔術師ラーデンが育てた子供がやって来たと耳にしてから、ずっとこう問いたかったのではないだろうか。
短い問いの中にずっしりとした重みを感じて、キーレイもニーロを見つめた。
「いいえ、違います。この街へやって来た日、僕はカッカー様と共に、ラーデン様を見送りました」
「ラーデンは一体どこへ?」
「わかりませんが」
部屋が一瞬で沈黙に満たされ、神官は思わず唾を飲みこんでいる。
「迷宮の果てに去ったのだろうと、僕は思っています」
グラジラムは静かに頷き、失礼したね、と頭を下げてみせた。
そして二人に改めて向き合い、ありがとうと囁くように言った。
「今日、私を訪ねて下さって、心より感謝致します、魔術師ニーロ、リシュラ神官長」
いくつもの疑問が解消したとグラジラムは言うが、それは二人にとっても同じことだ。
「あの夜の出来事で兄を失い、王都に戻ったものの、ラーデンとホーカがどうなったのか、レガルを探す者がいるのではないか、どうしても気になりましてね。結局、迷宮都市に戻って来た。兄の夢であった魔術師に、自分がなってやろうと考えて」
エラン・デランにも声をかけたが、断られてしまったという。
「エランは悲しみ、怖れを抱いて家族のもとへ帰っていったが、きっと後から来てくれたのだろうな。私に会う前に、ホーカに見つかってしまったのか……」
グラジラムは棺に残されていた布を手に取ると、椅子の上に残っていた遺体のかけらを集め始めた。
キーレイとニーロが手を貸すと、作業はあっという間に終わり、不気味な死体は小さな包みに姿を変えた。
そのまま三人で西の荒れ地を目指し、小さな穴を掘って、包みを埋めた。
落ちてきた日の放つ橙色の光に包まれながら、安らかな眠りが訪れるよう、祈りを捧げていく。
「申し訳ありませんでした、リシュラ神官長。あなたがホーカの屋敷の調査をされていると耳にした時に、すべてお話すべきだったでしょうに」
「いいえ、そんな」
「ホーカとラーデンがどう出るか気にしておきながら、自分にはなにもできやしないだろうとも思っておりました。せめて最後まで見届けてやろうと考えてはおりましたが、……こんなのはいくじなしのいい訳でしかありません」
グラジラムは自嘲気味に笑って、こんなことを言い出している。
「私はたいした魔術師ではないのです。ポンパは自分のことを木っ端魔術師などと言いますが、私の方がよっぽどそう呼ばれるべきなんですよ」
兄が生きていれば、きっと名の知られた存在になっていたはず。
そんなことを呟いて、グラジラム・ポラーはキーレイへ目を向けている。
「そういえば、ポンパはどうしているんでしょう。調査団の探していた男は見つかったと知らせが来ましたが、隣はいつまで経っても留守のままで」
スウェン・クルーグなる男から守る為、ポンパは調査団に匿われていた。
そこまでは聞いているが、家に戻らない理由はわからない。
「確認しておきましょうか」
「いえいえ、ご存じないならいいのです。調査団に行ってみますよ。家からも近いし。ポンパがなにかしでかしたんじゃなければいいのですが」
深々を礼をして、グラジラム・ポラーが去って行く。
街のど真ん中に建てられた屋敷には、いくつもの秘密があった。
永遠に明かされない謎もあるが、仕方がない。明らかになった事柄もあるのだから、これでよしとすべきだろう。
「キーレイさん」
新たに作られた名もなき男の墓の前で名を呼ばれ、神官は答えた。
「なんだ、ニーロ」
「話しておきたいことがあります。もう少し付き合ってもらっていいですか」
「構わないよ」
「では行きましょう」
若い魔術師は西門を抜けるとすぐに南に向かって歩き出した。
どこへ行くのか不思議に思いながら後を追い、意外な場所に辿り着く。
ウベーザ劇場、だったところと呼んだ方がいいだろうか。
しんと静まり返った暗い建物の裏口らしきところで、ニーロが手招きしていた。
「どうしてここへ?」
その理由は、中に入ってから。長い廊下を抜けた先、大きな舞台といくつもの客席が並ぶホールへ辿り着いてから開かされていた。
「ここはきっと、興味がない場所だと思うのです」
だからおそらく、聞かれずに済むはず。
ニーロが囁き、キーレイの口からぽろりと、自然にその名前が零れ落ちていった。
「ロウランに?」
ニーロは静かに頷いて、そばにある椅子に座るように言った。
自身も腰かけ、テーブルの上に光る棒を置き、小さく息を吐いている。
「いくつか話しておきたいことがあります」
大きな舞台を備えたホールにいるのは二人だけ。ひどく寒々しいし、声がよく響いた。
魔術師はいつもより声を抑えているようで、目を伏せたまま、こう話した。
「出かける前に、ケルディ・ボルティムの話をしましたね」
「そういえばなにか言いかけていたな」
「ええ。話したいのは、ジマシュ・カレートという男について」
途切れた会話の中で、ニーロは「酒場街によく現れるようになった」と話していた。
記憶を探るキーレイに、灰色の瞳がまっすぐに向けられる。
「あの男には手下のような者が何人もいたのですが、おそらくは全員がいなくなりました」
「いなくなった?」
「北の宿屋街で火事が起きたでしょう」
神官長は驚き、まさか、と口に出してしまう。
ニーロは頷き、あの日死んだのはすべて、ジマシュ・カレートの手下だったと話した。
「ジュスタン・ノープという名の男がいました。大柄で無精髭を生やした男です」
皿の神殿に寝かされていた、路上で争いを起こして死んだ男たち。
死体の並ぶ光景を思い出しながら、キーレイは話に耳を傾ける。
「ジマシュ・カレートの下で働く者たちのまとめ役の一人で、ダング調査官の後をつけまわしていました」
「ダング調査官の……」
「ポンパの家にやって来たのもこの男です」
変わり者の魔術師が三人の男に追い回されて、迷宮に逃げ込んだという話。
ザックレン・カロンの家の後始末について問われたと聞いているが、何故そこにジマシュ・カレートの手下が出て来るのか?
嫌な予感に苛まれるキーレイに、ニーロは更に意外な言葉を神官長にぶつけた。
「宿屋街で火事を起こしたのは、おそらくジュスタン・ノープです。彼はロウランに心を乱されていました」
「……なんだって?」
「なにをされたのかはわかりませんでしたが、ジュスタン・ノープは酷く怯えた様子で路上で一人、泣き喚いていたのです」
「いつの話だ。何故そんなことになった」
「ロウランと『白』の探索に行った少し後です。あの日ロウランは『問題解決の為の種を蒔きに行こう』と僕に言いました。そして最後に、ジュスタン・ノープに『毒を飲ませた』と」
「問題というのは?」
「ジマシュ・カレートです。僕があの男について調べていると知って、ロウランは解決してやろうと考えたのだと思います」
「解決とは、まさか」
ニーロは静かに頷き、自分の考えを明かした。
あんな男について悩まずに済むよう、「手を貸してくれた」のだろうと。
「結局、ジマシュ・カレート本人は無事でしたし、手下も少し残ってしまいましたが」
元凶の男が死ねば、すべて終わりにできると考えたのだろうか。
確かに、ニーロが調べてまわる必要はなくなるかもしれないが――。
「それが北で起きた事件の真相なのか」
「恐らくは、です。ジュスタン・ノープは正気を失い、彼の『仲間』を滅ぼそうと企みました」
「いつ気付いた?」
ニーロはこの問いに答えず、視線を遠くへ向けている。
「今日、ひとつはっきりしたことがありました」
「なにかな」
「ザックレン・カロンの家から見つかった一枚のメモについてです。あの魔術師の家は物が多く、ひどく散らかっていましたが、見つからないよう隠していた紙の束があって、その中に気になる物がありました」
それは薬草業者の書いた、魔術師から受けた注文に関する走り書きだったらしい。
「値段や量から考えて、あれはホーカ・ヒーカムからの注文だっただろうと僕は思います。ザックレンはホーカが屋敷で使っていた薬について調べていたのでしょう。他人の意思や気力を奪うような薬を使っていると勘付いて、なにを材料にしているか知ろうとしていた」
「ファブリン・ソーの様子がおかしかったのも、やはり薬のせいか」
「あれだけ落ち着きがなかったのに、まるで無気力になったのでしょう? 僕たちとの探索からそう時間も経っていない頃で、自然な変化とは考えられません。それから、デルフィ・カージンも、なにか飲まされていたと思うと話していました」
「例の、鍛冶の神官が?」
「彼は迷宮の中で意識を失った後、貸家に閉じ込められていました。毎日無理に飲まされていた物があって、不審に思ったそうです。宿屋街で起きた火事でも、人が積み上げられて死んでいたと聞きました」
ザックレン・カロンはホーカの屋敷を探り、薬の開発をしていた。
ジマシュ・カレートと協力関係にあり、危険な薬を提供していた可能性が高い。
ここまでの話を繋ぎ合わせて、キーレイは小さく唸っている。
「話に聞いている以上に危険な男のようじゃないか」
「ええ。彼は手段を選びません。ザックレンの作る薬は、さぞ役に立ったことでしょう」
「なんてことだ」
「レガルの話からも分かる通り、迷宮で採取できる薬草の取り扱いは慎重にすべきです。とはいえ、ザックレン・カロンは死に、彼の家の後始末も適切に進められました」
レガルの研究も、グラジラムがすべて破棄したと話していた。
ホーカ・ヒーカムはマティルデの体を乗っ取ったが、レガルほど鮮やかにやれた様子はない。
「ジマシュ・カレートの手元には、もう薬はないのではないかと思います」
「そう思うか」
「ジュスタン・ノープがポンパの家を訪ねたのは、ザックレン・カロンのレシピを手に入れたかったからです」
「なるほど。迷宮の中まで追いかけてまで、白状させようと考えていたんだな」
「ええ。ポンパはなにも知りませんから、捕まえても意味はなかったのですが」
ニーロは小さく頷いて、今度は今日あった出来事について、更に語っていく。
「ホーカ・ヒーカムについては、ロウランの言う通り、死んだと考えていいでしょう。死体がいつ消えたかはわかりませんが、あの布の下にいただろうと、僕も思います」
「そうか」
「レガルの秘術を再現しようと考え、誰にも知られないよう、迷い道の現象を起こしていたのかもしれません」
無彩の魔術師はここまで話すと、またキーレイをまっすぐに見つめた。
ここ最近街を騒がせていた出来事について、いくつか理解できたものの、話題は繋がっているようで、どこかまとまりがないように思う。
「……ニーロ、お前は私になにを伝えたい?」
わざわざこの劇場を選んだ理由は、一体なんなのか。
キーレイのまっすぐな問いかけに、ニーロは一度瞬きをしてから、答えを示した。
「話しておきたいことがいくつもあって、とりとめのない話になってしまいましたね。先にひとつ伝えておきます。ケルディ・ボルティムについて」
「ああ」
「彼はあの男と探索の約束をした時、パンラと名乗らずにいたそうです。神官ネイデンに繰り返し注意されていたお陰で、名乗らずに済んだそうですよ」
「それは良かった」
「ええ。ただ、一度した約束を破っていますし、彼は神官で所在もはっきりしています。向こうから接触しようとしてくるかもしれません。今後も注意しておいた方がいいでしょう」
「わかった。ありがとう、ニーロ」
「……ジマシュ・カレートは手下をすべて失って、自ら動くようになりました。彼の誘いに乗ってしまう者すべてを救うことはできない。僕は、間違っているのかもしれません」
「なにを間違っているというんだ」
「僕はあの男に、ピエルナさんになにをしたか、すべて聞き出したいと思っています」
ニーロは哀しげに目を閉じて、こう続けた。
「そんなことは不可能だと、わかっているのです。だから」
「ニーロ」
「ロウランに『手っ取り早い』やり方をされては困るのに、彼の力が自分にもあればと考えてしまうのです」
魔術師の青年が迷宮都市にやって来てから七年が経つ。
まだ幼い少年であったニーロと最も長く、密に付き合ってきたのはキーレイに違いなく、こんな思いを打ち明けられる相手は他にいないのだろう。
「ロウランは強い力を持っています。レガル・アラードは秘術を完成させたといいますが、ロウランにも同じことができるはず。しかも、薬の力に頼る必要もありません。その気になるだけで、ありとあらゆる秘密を暴くことができるでしょう」
「そんなことを考えるな、ニーロ」
「そうですね、キーレイさん。そもそも僕には扱えません。些細な感情の変化に気付くくらいはできますが、他人を自在に操るような真似は、僕には出来ないのです」
キーレイはニーロの手を取り、祈りを捧げた。
珍しく弱さを見せる灰色の瞳の若者を思いやり、信頼を伝える為に、手に力を込めていく。
「ロウランを信用していいのかな」
心の奥底に燻っていた不安を、キーレイもまた口に出していった。
仲間として迎え入れ、迷宮を共に歩くには最高の存在だが、ラフィ・ルーザ・サロについて考えると、どうしても納得いかないものがあったから。
「彼の興味はただひたすらに迷宮に向いています。ですから、探索の仲間として信頼しても、問題はないでしょう」
「気を付けておくべきことは?」
「やり方を選ばないところです。屋敷の調査も早く終わらせようとしていたのではありませんか」
「確かに、地下のことには先に気付いていたように思う。もしかして、先に入っていたのかな」
「どうでしょう。キーレイさんの心証が悪くなるような真似はしないと思いますが」
「私の?」
「ロウランの興味、目的は迷宮探索で、あなたは仲間として欠かせない存在です。ウィルフレドも、それに、ノーアンも」
意外な言葉に驚きながら、どうしても気になってしまって、キーレイはもう一人の名を口に出していった。
「……マリートは?」
「もちろん、マリートさんもです。警戒心が強い人ですから、一気に近付くようなやり方をしていないだけなのだと思います」
どれだけ強い魔術師であっても、たった一人では迷宮の底を目指すことはできない。
強い仲間が必要であり、ロウランは今のメンバーを気に入って、仲を深めようとしている。
ニーロは小声でそう語り、キーレイの目をまっすぐに見つめた。
「あれだけ警戒していたはずのウィルフレドも、ロウランとの仲を随分深めています。ノーアンも単純な人間ではないと理解していて、会うたびに触れ、手名付けようと試みています」
「そんなことをしているのか?」
「キーレイさんも二人きりで話したことがあるでしょう」
「ああ、あるけれど」
「ロウランは特別な体を持っています。あの美しさは単純に魅力として働きますし、声にも力があるのです」
「声?」
「特に一対一で話した時、効果が強くなります。多少強引に話を進められても、納得させられてしまうような力があるのです」
「藍」の大穴の底に招かれた時の会話を、キーレイは思い出していた。
ロウランは「打ち解けたい」と願い、キーレイはそれを受け入れている。
おかしな話はなかったように思うが、夜の神官については話を濁していた。
最も気になる部分を「話さない」と言われたのに、確かに、やけにすんなりと、了解してしまったような。
「ロウランを疑ってほしい訳ではありません。彼について気を付けるのは、なにか問題が起きた時に、勝手に解決しかねないことです」
「そうか……。確かに、マティルデも知らない間に故郷に帰されてしまっていたからな」
あの場にはギアノもいて、一部始終を見ていたようだが。
事態は一方的に進められ、口を挟む余地はなかったようだった。
「そういえば、屋敷の鍵を手に入れていたとギアノから聞いたんだ」
「屋敷とは、ホーカ・ヒーカムの?」
「ああ。マティルデの世話をしていたユレーという女性が、屋敷の鍵を持っていてね。ロウランはそれをマティルデに見せて、もらっても構わないか確認していたらしい」
「そうでしたか。ロウランは、あの地下室が欲しいのでしょうね」
街の中央、迷宮の描く四角形の、中心地。
魔術師はあの場所の秘密に、とっくに気付いていたのかもしれない。
「バジム・ウベーザがホーカの屋敷を襲ったのは偶然なのか?」
ロウランの軽口を真に受けて襲撃が行われたと考えていたが、実際には「逆」なのではないか。
突如生まれたこんな疑問に、キーレイは焦っていた。
「あの男については本気で嫌っていたように思いますが、なにか考えがあったかもしれません」
ニーロは小さく頷いて、西の果てからやって来た魔術師について、自らの考えを伝えた。
「ロウランの力は底が知れない。ある程度は好きにさせておいた方がいいと僕は思います。彼の望みは迷宮探索であり、手を出す理由も仲間が早く暇になるようにしたいだけのようですから」
諦めにも似た告白に、頷くくらいしかできない。
あの屋敷をどうすべきかは悩ましい問題だったが、ロウランが引き受けると言い出したらどうなるだろう。
とんでもない額の遺産が残されているかもしれない屋敷だから、特に商人たちが黙って認めるはずがない。
けれどふと、考えてしまう。
あの美しい魔術師が目の前に現れ、ああだこうだと言葉を尽くしたら?
「遅くなってしまいましたね」
ニーロが呟き、キーレイは若い魔術師を見つめた。
「すべて伝えられたか」
「ええ。すみませんでした、キーレイさん。いくつかの事件についてわかっていることがあったのに、長い間伝えずにいて」
「……いや、いいんだ」
はっきりさせたい事はいくつもあるのに、皆死んで、なにも残されていない。
大勢が半端に知ったところで、勝手な噂が増えるだけだ。
皆好きに解釈して、まるで真実のように語り、謎ばかりが増えていく。
情報の取り扱いは慎重に考えるべきで、半端に知らされなくて良かったとキーレイは思う。
「ジマシュ・カレートという男については、私も気に留めておく。ニーロ、一人で無理はするなよ」
「わかっています」
「ケルディのことは、本当にありがとう」
「たいしたことはしていません」
主を失った劇場を後にして、二人は夜の道を歩いて戻っていった。
ニーロは小さな自分の家へ、キーレイは神殿へ。街の東で別れて、月明かりの下を行く。
南門へ続く大通りは、夜でも灯りが掲げられていて明るい。
それでも時には光が途切れることがあり、道のあちこちに闇のかけらが残されている。
神殿へ向かう神官長は、視界の端で揺れる影に気付いて足を止めた。
樹木の神像はもうすぐそこに見えているが、小さな路地に続く暗がりがあって、そこからゆったりと現れた者がいる。
「キーレイ・リシュラ」
大きな体をびくりと震わせ、キーレイはその名を呼んだ。
「ロウラン」
「奇遇だな、こんなところで」
そうですね、と答えた声が掠れている。
自分を待ち受けていたのだろうが、言葉にしてはならぬ気がして、ゆっくりと息を吐いていく。
「どうしたのです、もう夜も遅いのに」
「ひとつお前に頼みがあって、神殿を訪ねるつもりだった」
なんでしょうか、とキーレイは答えた。
そういえばホーカの屋敷で調査をした時、なにか言いかけていたと思い出しながら。
美しい魔術師は口元に笑みを浮かべて、大きな目を細め、樹木の神官長の心を撫でていく。
長い睫毛を何度もぱたぱたと瞬かせ、じっと見つめて、キーレイをじっくりと焦らしてからようやく、「頼み」を告げた。
「あの屋敷を俺にくれ」
言い放つなり、ふふ、と笑い出している。
わかっていただろうと言いたげに、背の高いキーレイを見上げていた。
「ホーカ・ヒーカムの屋敷を?」
「ああ」
「譲り受けたと主張するつもりですか」
ロウランは笑いを引っ込めて、じろりと視線を向けてくる。
「鍵のことを知っていたのか」
「ギアノが話してくれました」
「なんだと? まったく、気にせんでいいと言ったのに」
その台詞についても、ギアノはきちんと報告してくれた。
一応伝えておきますと言って、念の為に、こんなことがあったと打ち明けてくれていた。
「ギアノ・グリアドは見込みのある男だ。仕込んでやりたいが、その気になってはくれんかな」
キーレイは口を閉ざして、魔術師が次になにを言いだすか、ハラハラしながら待っている。
「お前は既にわかっていそうだが、俺はあの悪趣味な屋敷が欲しいのではない」
「地下の部分だけで良いのですか」
「ふふ。そうだよ。あの無駄に大きな屋敷をどうしようと構わん。店だろうがなんだろうが、誰かに使わせてやればいい」
いやらしい装飾を取り払えば、利用したい者もいるだろう。
ロウランは不敵な笑みを浮かべて、神官長を見つめている。
「私の一存で決めるわけにはいきません」
「だが、決定権のある者もおらんだろう。一体、誰が文句を言ってくる?」
道の上でじっとりと見つめられて、困り果てていた。
その一方で、きっとこの要求は通ってしまうのだろうと考えている。
反対する者は皆この魔術師に「説得されて」、どうぞどうぞと言い出すに違いない。
「あそこで暮らすつもりですか」
「ふむ、それも良いかもしれん。いつまでもニーロの世話になるわけにもいかんだろうし」
微笑みをひとつ投げられて、話は終わってしまった。
ロウランは片手をあげて去って行き、キーレイは路上に一人、取り残されている。
ニーロの言葉を思い出していた。
ある程度は好きにさせるしかない。
なぜなら魔術師ロウランには、「敵わない」からだ。
心がずっしりとしていて、重い。
昨日と今日で明らかになった様々な出来事が山のように積み上がり、キーレイ・リシュラを圧倒していた。
魔術師の屋敷についての調査は終わりにできそうだが、どう報告するかは慎重に考えるべきだろう。
街に潜む悪意の塊のような男にも警戒しなければならない。
神殿に帰り着くと、キーレイは神像の前に進んで膝をついた。
目を閉じて、まだ若い魔術師の顔を思い描き、心を向けていく。
きっと言葉にしなかったであろう大きな不安をひとつ、抱えているだろうと思えたから。
祈りが必要な者は大勢いる。神官はそのすべてに心を向けなければならないが。
けれど今、このひと時だけは一人の為に。
キーレイ・リシュラは灰色の瞳の若者が護られるよう、自らの仕える神に祈りを捧げた。




