230 荒療治
「ケルディ、落ち着いて」
クリュが傍にやって来て、顔を覗き込んでくる。
女神像の鎮静効果はすさまじく、腹の底で煮えたぎっていた怒りのようなものは、少しずつ収まっていった。
「シュヴァルも、今は迷宮の中だから」
「ああ、そうだな。悪かったよ」
意外にも少年は、すまねえな、と謝罪の言葉をくれた。
軽薄極まりないものではあったが、年端の行かない少年が頭を下げたのだから、ケルディも応じなければならない。
「そろそろ行こう。皆、もうちょっといけるでしょ」
クリュがこう言い、エルンも立ち上がって明るい声をあげている。
「ねえねえ、珍しい草はないのかな。結構いい値段で売れるんだよね?」
「浅いところにはないと思うよ。簡単に見つけられるなら、皆摘みに来るだろうし」
「それもそっか。じゃあ、次は剥ぎ取りを教えて」
クリュは昼食の後片付けを済ませながら、わかったと答えていた。
どやどやと五人の探索者がやって来て、ケルディたちは再び、迷宮の道へと戻る。
歩き出すとすぐに諍いの気配は消え去り、ただの探索の時間が始まっていた。
六層を過ぎたせいか他の探索者の姿は見当たらなくなり、戦いの数が増えていく。
敵を倒した後は、剥ぎ取りの授業が行われていった。
エルンは解体作業に抵抗はないらしく、自らナイフを振るってはクリュに助言を求めている。
魔法生物の皮を剥ぎ、肉を集めて、迷宮の道を行く。
変わった形の草を見つけて摘み取り、蔦の中に落ちていた光る石を拾って、九層目までたどり着き、そろそろ潮時だと判断して地上へと引き返した。
シュヴァルの案内は揺るぎなく、一行を最短距離で進ませていたようだ。
次々に上りの階段が現れ、一段一段、日常へと近づいていく。
レテウスはどんな敵にも臆さず、鋭く力強い剣で勝利を重ねていった。
その強さは圧倒的で、怪我をするはずがないのだとケルディに思わせている。
クリュは必要な時に声をかけてくれた。戦いが始まる時、終わってから、傷ができていないか問いかけ、丁寧に確認をさせた。前に出たいとは一度も言わないままで、問われれば答え、求められれば惜しみなく教えてくれた。
エルンもよく戦ったが、敵の数が多い時には傷を負った。
泣き言は言わず、歯をくいしばって癒しを頼んできて、ケルディはそれに応じている。
癒しの温度についての言及はなく、ただ、礼だけが返されていた。
「緑」の探索はそんな風に進んで、無事に終わった。
最後に近くにある道具屋に寄って、持ち帰った物を現金に換えて、五等分にして、分けた。
「ねえ、あのさあ」
きっちり報酬を分け合ったら、後は解散するだけ。
そんな気配の中でエルンが声をあげ、クリュの袖を引いている。
「今日はありがとう。これまでで一番いい感じにやれたよ。一緒に行って良かったと思ってる」
エルンは嬉しそうにこう話すと、本題に入った。
「この五人で組むのってどうかな。レテウスはすっごく強いし、シュヴァルも頼もしいし。もっといろいろ教えて欲しいんだけど」
レテウスもシュヴァルも、同じタイミングでクリュに目を向けている。
大柄な怒り顔と生意気な子供に挟まれて、麗しい探索者はすぐに「ごめん」と答えた。
「この二人は探索者じゃないんだ」
「え?」
「今日は本当に特別に、俺が頼んで来てもらっただけで」
「でも、できるでしょ。探索すればいいじゃない?」
「……そういうわけにはいかないよ」
「えー、えー? そんな。こんなに上手くやれるのに、そんなこと言わないでよお」
エルンはクリュの腕を両手で掴んで、ぶらぶらと揺らしている。
若い女の子らしい可愛らしいわがままだが、女神像の顔はみるみる曇っていった。
「手を離して」
「いいじゃない。考えてみるのも駄目?」
「お願い、離して」
同じ言葉が繰り返された瞬間、シュヴァルが間に入ってエルンの手を掴んだ。
「おい、やめてやれ」
「え、うん。わかったから、そんな怒った顔しないでよお」
景色は見えているし、声も聞こえている。
この五人で組むという提案が却下されたことも理解できていた。
自分がどれだけ集中力を失っているか、わかっている。
それではいけないという思いは確実に頭の中にあるのだが、しかし、胸いっぱいに溢れる不安のせいで、ケルディは現実に追いつけない。
小さい男のままで、終わり。
あんな子供が言っただけ。ただの言葉に過ぎない。たまたま通りでぶつかった酔っ払いの放つ「馬鹿野郎」と同じ程度の重さしかないはずなのに。
「おい、忘れるなよ。あの男にまた会っても、絶対についていくな。なにを言われても知らん顔して、知り合いのいるところか、神殿に逃げるようにしろ」
「ええ。シュヴァルってもしかして、今日はそれを伝えるためにわざわざ来たの? 探索者じゃないのに、迷宮に付き合ってまで?」
いくつか言葉を交わした後、わかったと答えて、エルンは去って行った。
クリュは落ち込んだ顔をして、シュヴァルになにか話しかけられている。
そんな光景を見ていたはずが、気が付いた時には既に誰の姿もなかった。
のろのろとしたケルディは置いて行かれたらしく、ならばもう、寮に戻るしかない。
財布は膨らんだが、心から抜け落ちたものがある。
すうすうと冷たい風が吹き抜けているような心細さがあって、足がいつものように動かない。
これが迷宮の中だったら、クリュが気付いて声をかけてくれていただろう。
どうしたの、大丈夫、ケルディ。
でも今は地上に戻ったから。探索は終わってしまったから。これからも仲間としてやっていく仲にはなれなかったから、神官に寄り添う者はいない。
樹木の神殿の、無駄にデカい、親玉。神殿の親玉は、神官たちの長。
ケルディにとってそれは、やけに背が高い今の長ではなく、海のような大きな心の持ち主である、敬愛する偉大な叔父上、カッカー・パンラだった。
まだ幼い頃に一度会ったことがあって、大きな手で頭を撫でられ、大人たちの囁く噂話を誇らしく思っていた。
以来、強く憧れ、同じように、いつか超えられるように、聖なる岸壁を目指して歩いてきた。
シュヴァルはカッカーに会ったことがあるのだろうか?
まだほんの子供でしかない彼は、いつから迷宮都市で暮らしているのだろう。
カッカー・パンラを知らないから、あんな風に言えるのかもしれない。
鋭く突きさすような目をして、強い言葉で話していたけれど。
あの大きさならせいぜい十歳くらいで、そんな子供の言葉に振り回されるなんて。
「ケルディ・ボルティム・パンラらしくない」
樹木の神殿に寄ろうかと考え、今日はやめておこうと決めて、寮へと戻る。
すると入り口にはシュクルがいて、帰って来たケルディを見るなり声をかけてきた。
「ケルディ、どこに行っていたの?」
「やあ、シュクル。今日は『緑』へ探索に行ってきたんだ」
「あれ、そうなの。君と約束してたって人が訪ねて来たんだけど……」
行き違いになったのかなと呟くシュクルに、どんな人物がやって来たのか問いかける。
まだ若い少年の面影を残した神官は、ごく普通の探索者だったよと答え、首を傾げた。
「なにかあったの? 戻ってきたら、水鳥の棲み処って店に来てほしいって言っていたけど」
「そうか。……すまない、手間をかけてしまったようだな」
部屋へと戻り、片付けを済ませ、ケルディは結局また外へ出ていた。
ジマシュという男が本当はどんな男なのか、自身の目で見極めたかった。
クリュを疑うわけではないが、自身で会ったことはないと話していたから。
あの少年はいかにも口が上手そうで、誤った情報を伝えられている可能性がある。
いや、きっとそうだとケルディは考え、真実を伝えてやりたいと思った。
神官の眼で確かめた揺るぎないものを、信頼に値する情報として、女神の前で報告したい。
ケルディは夜の道を歩きながら、すれ違う人に「水鳥の棲み処」がどこにあるか問いかけていった。
人々によれば、それは街の北に、食堂や酒場が多く並ぶ通りにあるらしい。
「ああ、水鳥のね。それなら、あそこだよ、赤い看板の店の左側の路地を入って、奥のところ」
北の大通りは夜でも人通りが多く、皆親切に神官の問いに答えてくれた。
看板が小さいから見逃さないようにと助言を受けて、言われた通りに路地へと進む。
店と店の間の狭い路地に入ると、一気に暗くなり、道の先にあるどこかの店の灯りしか見えなくなっていた。
賑わいは遠ざかり、ひんやりとした空気が首筋を撫でていく。
もう遅い時間になっているのだとケルディは考え、シュクルが伝言を頼まれたのはいつだったのか、今更ながら気付いていた。
店が開いているのか、まだ、待っているのか。
歩みは鈍り、進んでいくべきかどうか、悩む。
そんな自分を、心の奥から叱咤する声が聞こえる。
それはケルディ・ボルティム・パンラらしい振る舞いなのか?
行って駄目でも仕方がないが、行かず、確かめず、放り出すのが正しいことなのかと。
「樹木の神官」
前に進むべきだと決意した瞬間。
足を一歩踏み出すと同時に声がして、ケルディは立ち止まり、振り返っていた。
狭い街の隙間は暗く、その人物は通りの灯りを背に立っていて、顔は見えない。
「あなたがケルディ・ボルティムですか」
「そうだが、何故私の名を知っている?」
初めて聞く声で、響きからして男なのだろうと思う。
それだけしかわからないケルディの前で、ふわりとなにかが揺れ、光が現れて辺りを照らした。
「僕は魔術師、名はニーロといいます。樹木の神殿に新たな神官がやって来たと、神官長から聞きました」
「……ニーロとはまさか、あの?」
「あなたの縁者であるカッカー・パンラの、探索の仲間のうちの一人です」
ケルディは思わず感嘆の声をあげ、目の前の人物を見つめた。
噂に聞いた通り。まっすぐに肩の下まで伸ばした灰色の髪に、灰色の瞳の若者で、見間違いようがない。
魔術師ニーロはケルディの前に進んでくると、唐突にこんな言葉を投げかけてきた。
「その先へ行ってはいけません。必要ならば説明をしますから、場所を変えましょう」
「何故そんなことを言う?」
「では、ついて来て下さい」
ニーロはくるりと振り返り、道を戻っていってしまう。
説明が必要だと判断されたのだとわかり、ケルディは慌てて後を追った。
暗い路地を何度も曲がりながら進んでいく。
迷宮都市の北側は小さな店と狭い道で構成されており、夜になると大勢が道を見失い、迷うようになる場所だ。
何度も右へ左へ曲がって、簡単にはもう戻れないとケルディが悟った頃、魔術師の足はようやく止まった。
小さな灯りがぽつんと掲げられただけで、看板の類も見当たらない小さな建物があり、ニーロは二度扉を叩いて、中に入っていく。
ケルディも後に続くと、まずはカウンターと、その中に立つ男の姿が目に入った。
瓶がいくつか置かれ、椅子が五脚並んでいて、おそらくは酒場なのだろう。
「奥の部屋を借ります」
魔術師は声をかけたが、男は答えない。
狭い店の奥には扉があり、ニーロが入っていくので、ケルディも続いた。
「なにか要りますか。飲み物ならば用意ができますが」
「いや、……結構だ」
酒は断り、勧められるままに椅子に腰かける。
小さなテーブルと椅子が二脚しかない狭い部屋で、ニーロは向かいに腰かけるなり、口を開いた。
「水鳥の棲み処に行こうとしていましたね」
ずばりと言われて、ケルディはゆっくりと頷いている。
「ジマシュ・カレートという名の男に呼ばれましたか」
おそらくはそうだが、不確定な部分はある。
ジマシュの名をすべて知らないし、呼びに来たのはおそらく、本人ではない。
どう答えたらいいのか迷うケルディに構わず、魔術師はこう続けた。
「あの男に関わってはいけません。これから先、二度とです」
「そんな話をする為に私を呼び止めたのか。何故だ。あのシュヴァルという少年になにか言われたのか?」
「シュヴァルならば知っていますが、彼にはしばらく会っていません」
部屋の中は薄暗く、灰色の瞳は黒く輝いている。
それは鋭く光を放って、ケルディを圧倒していた。
「彼になにを言われたのですか」
「いや、そもそも最初に言って来たのは別の人物なんだ。あの少年に会ったのは偶然で」
「どこかでジマシュ・カレートに会ったのならば、そこから順に話して下さい」
「あの」魔術師ニーロに出会えたのだから、もっと違う話をしたい。
質問は山のようにあり、それに答えてもらいたい。
「そんな話をしなければいけないのか」
「ええ。遠縁とはいえ、あなたはカッカー様に連なる人物であり、神官でもありますから」
「それがなにか?」
「カッカー様には世話になりました。まだ十歳だった僕を預かり、導いてくれた恩人です。周囲に降りかかる悪いものは、払わねばなりません」
明瞭な説明になっていないが、不穏を感じさせる言葉が出て来て、ケルディは悩む。
けれど最後には、魔術師ニーロが口にした恩義をを信じたい気持ちが勝って、自身に起きた出来事をすべて伝えた。
「寮に戻ったら、探索者が訪ねてきたと聞かされた。あの水鳥のなんとかという店で待っていると伝えられて、行かねばと思ったのだ」
「止められたのに、何故向かったのです」
「それは……、自分の目で確かめたかったから。私は神官として、修行を重ねてきた。騎士に稽古をつけられ、それにも耐えて腕を磨いた」
「わかりました」
主張を途中で遮ると、ニーロはケルディを見つめた。
刺すような視線はシュヴァルと似た気配があり、居心地が悪いことこの上ない。
「あの男が危険だと伝えるのはとても難しい。けれど、言わねばなりません。僕の言葉を信じてもらいたいのですが、聞いてもらえますか」
「もちろん。叔父上の仲間だった魔術師だ。話くらいは聞く」
決意をして伝えたものの、ニーロの話は曖昧だった。
クリュの話とそう変わらない程度で、警告でしかないように思える。
「そんな話を信じろというのか」
「信じてもらえなくても仕方がありませんが、彼に近付かれては困るのです」
「何故?」
「あなたはきっと信じてしまうでしょうから」
「ジマシュという男を?」
「ええ、そうです。あなたは自分の意思で彼を信じると決め、深く心を掴まれるでしょう」
「なにが悪い。信頼できる人物が一人できるだけじゃないか」
「彼に染まれば、あなたの心からカッカー様への敬意は消え去ります。神殿の人間はすべて敵に変わり、自身が最も正しいと考え、相応しい形にする為に行動し始める」
酷い侮辱の言葉に、ケルディは立ち上がる。
体の震えが止められないまま、目の前の魔術師を睨みつけていた。
「私のことを知らない癖に、よくもそんなことが言えたな!」
ニーロは目を伏せ、口を閉ざしている。
ケルディは怒りでわなわなと震えていたが、僅かな動きに敏感に気付いて、手に込めていた力を緩めた。
無彩の名で呼ばれる若い魔術師は、気付かれないように、そっとため息をついたように見えた。
刹那の瞬きの中に「呆れ」を感じたような気がして、ゆっくりと拳を下ろしていく。
「どうしてなんだ?」
「なにを聞きたいのですか」
「何故、あのシュヴァルという少年も、サークリュードも……、そんな目で私を見る?」
あまり意識しないようにしていたが、神官たちからも似たような気配を感じていた。
話す度、声をあげる度に呆れた顔をされ、明らかに歓迎されていなくて、そんな現状はどうしても認めたくなかったのに。
「あまり話を聞いていないように見えるからではありませんか」
「聞いているぞ」
「音として耳に入れているだけでは、聞いたことにはなりません」
ついさっき会ったばかりの魔術師に、子供の頃母に散々言われた言葉をそのままぶつけられ、ケルディは驚愕している。
「僕の話を聞く気になったのも、『カッカー様の仲間だった』からなのでしょう」
大事な話があると告げられたとか、シュヴァルと同じ注意をされているからではなく、「偉大なる叔父上が育てた若者」のニーロだから、聞いてみようと決めた――。
心の奥底に隠していたはずの醜いものに光を当てられて、動揺が止まらない。
「目を逸らさず、受け止めて下さい。あなたは神官なのでしょう」
「そうだ、私は神官だ。厳しい修行に耐えた。強い心を持っている」
「身分は関係ありません。強さは、弱さを認めて初めて得られるものなのですから」
震えるケルディの瞳を覗き込み、魔術師ニーロはこう続けた。
これは、カッカー・パンラに伝えられた言葉だと。
「ジマシュ・カレートの危険性について、明確な説明をできないことは申し訳なく思います。けれど、どうか理解してください。僕はあなたに、絶対に近付くなと伝えねばならないのです」
「私から、この情熱を消しさってしまうというのか?」
「いいえ。違う色の火をつけるのです。彼に利益をもたらすようすべて塗り替え、邪魔な存在を消すように唆す。神官という身分にあり、剣の使い手でもあるあなたは、ジマシュ・カレートにとって、最高最適な獲物に成り得るのです」
「獲物だと?」
「あなたはジマシュ・カレートになんと名乗りましたか。パンラの名を、もう伝えてしまいましたか」
灰色の光に照らされながら、ケルディは必死になって記憶を探った。
あの時。出会いの店が並ぶ通りに行く前に、ネイデンに声を掛けられた。
いくつか注意を受けて、納得はしなかったものの、気にはしていた。
前日にパンラを名乗るのをやめるよう言われたことを、思い出したはずだ。
「いや、言っていない。ただ、ボルティムとしか、名乗っていない」
ニーロはようやく頷き、良かったと囁くように言った。
パンラと名乗れば、相手は食いつく。聖なる岸壁の甥と聞けば、悪人なら利用しようと考える。
ネイデンが注意してきた理由がわかった気がして、ケルディはがっくりと落ち込んでいた。
自分よりもニーロの方がずっとカッカーを尊敬し、大切にしているのだと感じて、まともに座っていられない。
「叔父上」
「叔父ではないと聞きましたが」
更にダメージを受け、ケルディは椅子からずり落ちていた。
あまり掃除の行き届いていない床の上に倒れ込み、立ち上がらなければと考えつつも、動けない。
「無彩の、魔術師よ」
「なんですか」
「私のことは神官長に聞いたと、さっき言っていたような気がしているのだが」
キーレイ・リシュラはなにをどこまで把握しており、この魔術師に話したのか。
べったりと座り込んだまま呟くケルディに、ニーロは顔色ひとつ変えずに答えてくれた。
「ええ、聞きました。カッカー様の遠縁であり、憧れを抱いて神官になった若者が来たとキーレイさんが教えてくれたのです」
「リシュラ神官長とも親しいのか?」
「この街に来て以来ずっと世話になっていますし、今は探索の仲間でもあります」
「探索の……」
シュヴァルの言葉が思い出されて、問い掛ける。
「リシュラ神官長は、強いのか」
魔術師の眉間に皺が寄っていく。何故知らないのかと言いたいような顔だと、ケルディは感じている。
「叔父……、聖なる岸壁である、カッカー・パンラと並ぶほど、強いのか?」
震える声で放った問いに、ニーロははっきりと答えてくれた。
「キーレイさんと並べる者などいません」
「叔父上よりも強いと思っているのか」
「ええ。近いうちに『白』を、いつか『黒』と『紫』も歩き通し、最も偉大な探索者として、神官として、いつまでもその名を語り続けられる。キーレイさんは、それほどの人です」
魔術師の手が伸びて来て、立たされる。
そのまま店の外へ連れ出され、夜の道を歩いた。
辿り着いたのは樹木の神殿で、ケルディはふらふらと中に入り、神像の前まで進んで、長椅子に座らされている。
「これはニーロ殿。ケルディと一緒に? 来られたのですか」
ネイデンの声がする。背後から聞こえて、ケルディの耳にも会話が届いていた。
「街の北を歩いていたので、声をかけたのです。伝えなければならないことがあったのですが、少し言いすぎてしまいました」
申し訳ないとニーロが謝り、ネイデンが恐縮した様子で答える声がした。
足音が近付いてきて、今は顔を覗き込まれている。
「なにがあったのかな、ケルディ」
探索に行ったようだし、探索に来なかったと伝えに来た者がいたようだし。
答えたいが、唇が震えて、うまく動かせない。
そんなケルディになにも言わず、ネイデンは隣にただ座っている。
樹木の神の像に向けて祈りを捧げて、静かに若者に寄り添ってくれた。
「ネイデン様」
時間が過ぎると、心の震えがようやく止まった。
ケルディが掠れた声をあげると、ネイデンはまっすぐに若い神官を見つめて、頷いてくれた。
「リシュラ神官長は、そんなにも強い方なのですか。聖なる岸壁と称えられた、カッカー・パンラよりも」
「そんな問いに意味があるとは思えないが」
「無彩の魔術師がそう言ったのです」
「どうしてそんな話になったのかな」
今したのと同じ問いを投げたからだ。
カッカー・パンラは偉大な神官であり、探索者であり、誰も超えられない、堂々と聳え立つ岸壁でなければと思っていたから。
「なるほど」
「叔父上ほどの神官など、いないはずでしょう」
すがるように訴えるケルディに、ネイデンはゆっくりと首を振っている。
「カッカー様は素晴らしい方だ。皆が尊敬し、大勢が助けられた。だが、探索者としても神官としても、リシュラ神官長の方が優れていると私は思う」
「そんな……、馬鹿な」
「ケルディ、勘違いしてはいけないよ。カッカー様ほどの人物もなかなかいないんだ。あれほど心が大きく、優しい方は滅多にいない」
「じゃあ、どうして」
「リシュラ神官長は別格なんだ。本当に特別な、規格外の方なんだよ」
迷宮都市にやって来てから、二十年近く樹木の神殿で仕えてきた。
ネイデンは、カッカーのことも、キーレイのことも長い時間見てきたと語っている。
「君がカッカー様に強く憧れているのは理解している。余りにも特別視しすぎていることもね」
だから、キーレイを軽視しているのもわかっている。
ずばりと言われて、ケルディは身を縮めながら、ネイデンの表情を窺っていた。
「今の姿だけを見て、リシュラ神官長を理解するのは難しい。あの方はまだ若く、実家の家業もあって勘違いをされやすいから。だが、ケルディ。樹木の神に仕える君には、知っていてほしい。あの方は特別な才能を持って生まれてきたのだろうが、努力をし続けられる人でもあるんだよ」
キーレイ・リシュラは大きな薬草業者である「リシュラ商店」の長男坊だが、幼い頃にはまだ父親の商売は軌道にのっておらず、きょうだいが生まれるのをきっかけに、まだ六歳の頃から迷宮に足を踏み入れ、薬草の採集を手伝うような暮らしをしていた。
「この街で成功している商人は、子供が生まれたら王都や大きな都市に預けて、学校に通わせる。リシュラ家のごきょうだいもそうだが、神官長はずっとこの街で、御父上の仕事を手伝っていた。神官の道に入ったのは、商売が軌道にのった後だ。最初のうちは神殿での雑用をこなしながら、呼ばれれば手伝いにも行っていたよ。そんな中で、私たちに文字の読み書きなどを教えてほしいと頭を下げ、一生懸命学ばれていたんだ」
裕福な家庭で育てられたのだろうと、ケルディもまんまと勘違いしていた。
俯く若い神官に目を向けて、ネイデンは静かに語り続けていく。
「頼まれれば探索に向かい、人が嫌がる仕事も引き受けて、どんなこともできるようになっていった。リシュラ神官長はカッカー様を師と仰いでおられるが、直接、手取り足取り教わった時間は僅かだったと思う」
「教わってはいない?」
「背中を見て、学び取られたんだ。カッカー様は本当に神官らしい、素晴らしいお方だ。リシュラ神官長もそう思ったから、樹木の神に仕えると決められた」
わかるかな、と問われた。
殊更にキーレイを褒め称えたわけではないのに、伝えたいことはちゃんと入り込んできて、目を覚ませと心の内から声をあげている。
「あの修行の日々は、無駄だったのでしょうか」
「なにを言う、ケルディ。君の日々はこれからじゃないか」
「これから?」
「神官はその身分になって終わりではない。人と触れ合い、様々な経験を経てやっと、本当の魂を手に入れられるんだよ」
ネイデンに諭されて、ケルディははっきりと理解していた。
自分が抱えてきたのは信念ではなく、ただの慢心に過ぎないのだと。
「どんなものもちゃんと見なさい、ケルディ。余計な考えは捨てて、君自身の目だけで、まっすぐに」
そうすれば、すぐにわかる。
わかれば君は、大きく強く、成長していくだろう。
背中を撫でてくれるネイデンの手の温かさに、またも思い知らされている。
癒してやっているなどと思い上がった自分の手は、優しくも温かくもなかっただろうと。
「私は今日……、何人もの人に守られました。自分が周囲の人々すべてを守ってやるんだと思っていたのに」
「それは恥ずべきことなどではない。気付いたことは、すべて学びだ」
「でも、余りにも、情けないではありませんか」
「誰にもそんな時間はある。カッカー様も、リシュラ神官長も、悩んで、間違えながらも、歩み続けているんだよ」
「ネイデン様もですか」
「当たり前だ。私はとんだ臆病者でね。自ら望んでここへやって来たのに、迷宮に入るのが怖くて、未だに足を踏み入れたことがない。君のように勇気があればと、これまでにも何度も思ってきたんだよ」
ケルディはこの後もいくつも弱音を吐いたが、ネイデンはすべて受け止めてくれた。
剣は崩れ落ち、鎧も剥がれて消えていく。
ケルディがただの青年に戻った頃にはすっかり夜が更けていて、ネイデンの瞼も限界を迎えているようだった。
「まだなにか、話したいことがあるかな」
「いいえ。ネイデン様、ありがとうございます。こんなに夜遅くまで」
「こんな機会はなかなか訪れるものではないよ、ケルディ。すべて吐き出していきなさい。朝を迎えた時に、正しい魂で歩き出せるように」
優しく微笑むネイデンに、神官としてあるべき姿を見出して、ケルディはこんな宣言をした。
「もう、パンラを名乗るのはやめます」
「そうか」
「迷った時には、相談に乗って頂いても良いですか」
「もちろんだ。いつでも、どんなことでも話しに来なさい」
神像の前での面談は、これで終わった。
神殿の仮眠室を使うよう言われて、ネイデンの隣で身を横たえ、眠りの中に落ちていく。
次の日、遅い時間に目を覚まして、ケルディは神官たちに挨拶をして回った。
一から学びなおすのだという強い決意を抱えて歩き回り、どこから聞こえてくる大きな声に気付き、神殿と繋がる前神官長の屋敷を覗く。
わあわあと騒ぐ声は、裏庭から聞こえてくるようだ。
廊下を通り抜けて庭に繋がる扉を開けると、大勢の若者の姿があり、なにかがぶつかり合う音が響いていた。
「フォールード、頑張れ!」
囲みの向こうを覗き込んでみると、レテウスとフォールードが気合の声をあげ、剣をぶつけあう姿が見えた。
どちらも背が高く、戦う姿は迫力に満ちている。
鋭く剣を打ち出し、跳ね返し、距離を取って、また振り下ろして。
二人とも自分よりもはるかに腕が良いと、一目でわかった。
神官としてだけではなく、剣の腕すらもまだ未熟だったと悟り、ケルディは身震いしながらも立ち合いを見守っている。
何度か剣を交わした後に、決着はついた。
怒り顔の重たい一撃を食らい、フォールードの手から剣が落ちて、それで終わりになったようだ。
「やっぱりすごい、強いよ、レテウスさんは!」
「惜しかったな、フォールード!」
礼を交わした二人に、若者たちが駆け寄っていく。
自分にも教えてほしいと騒ぐ声が響く中、ケルディの肩を叩く者がいて、振り返る。
「おはよ、ケルディ」
「サークリュード!」
今日も朝から生ける女神像との邂逅があった。
心の中で感謝の祈りを捧げるケルディに、クリュは声を潜めて問いかけて来る。
「ねえ、あの男に会いに行ってない? 誰か呼びに来たりとか、なかった?」
結論だけ言えば、行かなかった。
そう言い張れば済む場面だが、違うのではないかとケルディは思い、正直に打ち明けていく。
「呼びに来た者はいた。本人ではなかったのだろうが、北にある店で待っていると伝言があって」
「行ったの?」
「……自分の目で見極めるべきだと考えてしまって」
クリュの青い瞳が揺れている。
軽蔑されているかと思ったが、そうではない。ケルディの身を案じてくれているのだと気付いて、ただただ反省しながら、起きた出来事を語っていった。
「だが、店に辿り着く前に止められた。サークリュード、君は無彩の魔術師を知っているだろうか」
「知ってるよ。あの人がいたの?」
そういえば、ニーロは何故あの場にいたのだろう。
理由についてはわからない。偶然か、つけていたのか、それとも他の理由があったのか。
「あの魔術師にも、ジマシュという男に関わらないよう言われた」
「へえ」
「今後も決して関わらないと、君に誓うよ。私はつまらないことばかり気にして、君たちの言葉にきちんと耳を傾けていなかった。すまない、サークリュード。私のことを心の底から案じてくれていたのに」
「うん……。うーん、まあいいか。良かったよ、本当に。呼ばれたら、行っちゃうだろうなって思ってたからさ」
クリュは微笑み、更なる輝きを放っている。
「今日はレテウスを連れて来たんだ。フォールードに戦ってみたいって頼まれてたから」
「見させてもらったよ。二人ともかなりの使い手のようだな」
「うん。レテウスはね、剣だけは本当にすごいんだ」
あれだけの剣の使い手でありながら、探索をするわけでもなく、迷宮都市で暮らしているのは何故なのか。
謎に満ちた女神の友人の姿を見ながら、ケルディは考える。
「私も剣を教えてもらうことはできるだろうか」
「レテウスに?」
「ああ、あれほどの達人だったとは。共に探索をしたのに、何故気付かなかったのだろう」
「どうしたの、ケルディ。あんなに自信満々だったのに」
これまでの言動のせいで、こんな反応をされてしまうのだろう。
さぞ間抜けに見えていたに違いなく、たまらなく恥ずかしい。
「思い上がっていたんだ。私は自分が強い戦士であり、神官だと思っていた」
「ねえ、無彩の魔術師になにかされてない?」
そんなことはないと、思うのだが。
ケルディは唸り、クリュは首を傾げている。
「昨日までと全然違うよ」
「学んだのだ、私は。これからも神官として成長していくために必要な物事を理解したんだよ」
「そう?」
「何故疑う」
「いや、ごめん、ちゃんと変わってるよ。いいと思う。人の話もちゃんと聞くようになった?」
反射的に「ああ」と答えて、青い瞳と視線がぶつかって、これでは駄目だと気が付いて。
「今日からはちゃんと聞く。聞いて、考えて、わからない時には誰かに相談する」
「そっか」
「君にも何度も言われたな。まずは聞いてくれと」
「そうだね。ふふ。忘れないようにしなよ、ケルディ」
「わかった」
「俺のこと変な風に扱うのもやめてくれる?」
ついでのように注文を出されて、ケルディはクリュの姿を見つめた。
変な風、とはなにを指すのか。
女神の姿を目にして幸せを感じるのは、「おかしい」の範疇に入るのだろうか。
わからない。
「……俺、レテウスに頼んでくる。剣を教えてほしいって伝えて来るね」
クリュは逃げるように駆け出し、怒り顔のもとに去って行く。
神官の頼みは快く受け入れられ、午後から行われた稽古に参加し、この日は散々しごかれて終わった。
カッカー・パンラの屋敷の裏庭で、ケルデイ・ボルティムは空を見上げている。
体のあちこちが痛むが、それが逆に心地よい。
憧れの叔父上の屋敷の庭で、なんという体たらくとも思うが、なんだかおかしくて、笑いがこみ上げてくる。
「なに笑ってるんだ、ケルディ。こんなところで寝たら体が痛くなるぞ」
ひっくり返った神官の傍を、洗濯物を抱えた管理人が通り過ぎていく。
ケルディは慌てて身を起こすと、こほんとひとつ咳ばらいをして、立ち上がった。
「もう神殿に戻る?」
「ああ……。そうしようと思う」
答えながら、大切なことを思い出していた。
神官としての務めを果たすべく、当番にまた入れて欲しいと頼まねばならない。
今度は相手の話を受け止める。ただ聞くだけではなく、理解し、神官らしく寄り添っていくのだ。
「着替えた方がいいんじゃない? 背中が随分汚れているよ」
「なに」
「髪もね。良ければそこで洗っていきなよ」
ギアノは庭の隅の洗い場を指さしており、ケルディはどうすべきか迷う。
情熱の迸りのままに駆け出したいが、薄汚れた姿で向かうのは如何なものかと思うから。
「いや、着替えを貸すから、洗ってくれないかな。そのまま中を歩かれたら、多分相当汚れると思うんだ」
こんな風に言われるのは悔しくて、神官はぐぬぬと唸っている。
けれど偉大なるカッカー・パンラの屋敷を汚して回るのはもっと嫌で、ケルディは力いっぱい頷き、ギアノを見つめた。
「着替えを貸してもらっていいか」
「ああ。用意したらそこに置いておくよ」
「……親切に感謝する!」
ギアノは楽しげに笑うと、どういたしましてと言いながら去って行った。
ネイデンに会ったら、打ち明けなければならない。
素直に感謝の言葉を伝えられない時があるのだと。
神官としての道はまだ遠い。きっと想像しているよりも長く、視界の先の更に果てまで伸びているのだろう。
汚れた服を脱ぎすてて、土埃を洗い落としながら。
今日から正しく努力を重ねていくのだと、ケルディ・ボルティムは丹念に心を洗い流していった。




