228 剥落
朝の目覚めはいつでもすっきり。起きた瞬間に覚醒し、ベッドからはすぐに出る。
身支度を整えたら部屋を出て、すれ違う人間には必ず挨拶。必ず自分から声をかけるのが基本だ。
神官としても、戦士としても、人に会った時は声をかけるべしと習った。
声を出す時には腹に力を入れ、発音もはっきりと明確に。
「おはようございます!」
廊下の先でネイデンに遭遇して声を張り上げると、ベテラン神官はくらくらとよろけながら返事をしてくれた。
「おはよう、ケルディ」
「今日も良い一日になりますように!」
「それはいいが、少し声をおさえてくれないか」
「はい!」
返事は迷わず、即座明朗。
特に、目上の人間にははっきりと答える。
清々しい朝を迎え、朝食を済ませたら神殿へ。
男性用の寮から神殿へは少し歩かねばならず、賑わう迷宮都市の道を行く。
夜中の番をしていたシュクルたちと顔を合わせ、必要な連絡を済ませたら、勤めの始まりだ。
神殿を頼ってやって来る者に対応しなければならないのだが、その前に、大切なことがもうひとつ。
ケルディはそそくさと神殿の奥へ向かい、中庭を抜けた先、前神官長、偉大なる叔父であるカッカー・パンラの屋敷を覗いた。
探索者たちが廊下を行き来しているが、目当ての人の姿は見当たらない。
中に入って探すべきか、ケルディは悩んだ。
管理人のギアノについて、皆、口を揃えて親切だというが、新入りの神官に対しては厳しく接してくる。
用がないのなら早く戻るように言い、すぐに追い返そうとしてくるから。
なのでできれば、遭遇したくはない。
けれど、確認しないと気が済まない。
結局ケルディは屋敷へ入り、廊下を進んだ。
この時間なら厨房か食堂辺りにいるはずで、初心者たちの隙間から様子を窺っていく。
「あら、ケルディさん」
厨房を覗き込むケルディに声を掛けてきたのは、雲の神官のアデルミラだった。
小さな愛らしい神官はいつでも穏やかで、ケルディに対しても優しい。
「おはよう、雲の神官アデルミラ」
「おはようございます」
にっこりと微笑まれ、ケルディはほっとしてこう尋ねた。
「サークリュードはどこにいるのだろう」
白い肌に煌めく髪、瞳は薄青の神秘の輝き。
初めて目にした時の記憶はない。なにかしゃべったような気はしているが、受けた衝撃のすさまじさ以外なにも覚えていない。
その姿は、かつて女神の再来とまで言われた麗しき流水の使徒と瓜二つだという――。
ケルディ・ボルティムは奇跡的に二人が揃ったところに出くわし、その美しさを全身に浴びた。
これはどまでに得難い体験をした者など、他にはいないだろう。
リシュラ邸で目にした奇跡の光景は目に焼き付いて離れず、以来、あの美しさを目にしなければ一日が始まらない。
今日も満たされた気持ちで過ごしたい神官に対し、返事はこうだった。
「クリュさんなら、昨日の夜帰られましたよ」
言葉の意味がひとつもわからず、ケルディはアデルミラに迫っていく。
「帰った? とは、なにかな」
雲の神官はゆっくりと仰け反りつつ、再び答えを示してくれた。
「貸家へ戻られたんです。もう、魔術師に探されなくなったからって」
「かしや?」
「クリュさんはここの利用者ではないんですよ。ギアノさんのお部屋にいたのは一時的なことで」
頭を真っ白にしたケルディへ、アデルミラは優しく問いかけてくれた。
クリュさんになにか御用があるのですかと。
ない。用などない。姿を見られればそれで充分なだけ。
あの生ける女神像が目の前をすうっと横切ってくれさえすれば、それでいいのに。
貸家が並ぶ通りは、寮の近くにある。
この街に来たばかりの時に説明を受けたから知っている。
なんの考えもなく、ほとんど無意識のうちにケルディは屋敷から飛び出していた。
探索中級者が多く暮らしている貸家はそれなりの数があり、詳しい場所を知らなければすぐに辿り着けるものではない。
故に、ケルディは道に迷っていた。
似たような見た目の家が並ぶ通りにはごみがあちこちに落ちて小汚く、通行人はほとんどいない。
歩いて、戻って、うろついて。
売家が並ぶ通りに出たり、細い路地に入ってしまったり。
時間をたっぷり無駄にした末に、ようやく遠くに人影を見つけて、ケルディは走った。
「そこの方々!」
声をあげてみるが、遠い。
背の高い男と小柄な、まるで子供のような二人連れの背中を追いかけて、ケルディは足を速めていく。
すると二人はすぐに立ち止まった。どうやら目当ての家に辿り着いたようで、扉を叩いているのがわかる。
「レテウス、シュヴァル!」
聞き覚えのある声がして、ケルディの全身に電流が駆けぬけていった。
扉が開いて中から誰かが飛び出し、小さい方を抱きしめている。
その瞬間、白く眩い輝きが放たれ、よろめいて足が止まってしまう。
「やめろ、リュード」
「痛っ! もう、シュヴァル、心配してたんだよ、全然帰って来ないから」
「すまなかったな、サークリュード。便りを送りたかったのだが」
三人は家の中に入り、扉が閉まると会話も聞こえなくなってしまった。
絶対に確実とは言えない。遠かったから、見間違えかもしれないが。
でも、クリュが頭をぽかんと叩かれていたような気がして、ケルディは動けない。
「なんだ、あいつ。神官か?」
「大丈夫かな。様子が変だぞ」
周囲からひそひそと聞こえる声が、どうやら自分を話題にしているのだと気付く。
ようやく我に返ったケルディの傍には三人の男がいて、心配そうに様子を窺っていた。
「あのう、神官さん。どうなさいました? なにか問題でも」
「なんでもない。失礼する!」
とりあえず駆け出してみたものの、あてずっぽうに進んでも神殿へ帰り着くことはできないようだ。
しばらく進んだ先で辺りを見回し、樹木の神殿らしき影を見つけて、また走って。
「どこへ行っていたのかな」
帰るなりネイデンに捕まり、神殿の隅へと連れていかれ、当然の問いを投げかけられる。
朝の申し送りが済んだ後から姿が見えなかったが、なにをしていたのか?
答えは明確に存在しているが、言いたくない。
「いえ、その。少し、体を動かそうかと考えまして」
見抜かれている気がする。クリュを探しに行っていたとバレているような気がして、ケルディは言葉を探した。
「……叔父上のような探索者になる為、体を鍛えねばと思ったのです」
ネイデンはふんふんと頷き、小さく首を傾げた。
「ならば、隣で暮らす探索者たちに手を貸してあげなさい。彼らも神官が同行してくれれば心強いだろうし、君にとっても良い経験になるだろう」
厳しい叱責を受けずに済んで、ほっとしてケルディは歩き出す。
早速隣へ向かおうとしたが、ネイデンの声が追いかけてきて、背中に当たった。
「ケルディ、もうパンラを名乗るのはやめなさい」
同じことは既にもう二度言われている。
来たばかりの日にした自己紹介の後にも言われたし、その日の夜にも再び言われた。
確かに、ケルディの名に「パンラ」はつかない。
けれどカッカーは伯父の従兄弟であり、それはつまり、ほぼ大体「おじ」で良いはずであり。
ケルディの親族は、一族の中に名高い神官戦士がいることを誇りにしていた。
幼い頃から正義感が強く、人に親切だったカッカー少年は故郷でも有名な存在で、樹木の神に仕え始めてからの快進撃は語り草になっている。
大きな体、少しばかり迫力のある顔に、慈愛に満ちた心の主で、子供から老人まで、カッカーに助けられた者は多い。
若くして近隣の大きな神殿へ招かれ、迷宮都市で更に名を挙げて、最後には長まで務めた名士であり、ケルディも「あのカッカーの」縁戚のひとりとして育った。
何故だか女子ばかり産まれるせいで、パンラの名を継ぐ者はいない。
カッカーもようやく結婚したが、生まれたのは娘だけと聞いている。
だから自分が大成し、パンラの名を継ぐ者になる。
ケルディの説明は至極真っ当なのに、ネイデンには伝わらなかったようだ。
「やあ、ケルディ」
お隣の屋敷へ向かうと、廊下でギアノに遭遇し、声を掛けられてしまう。
「おはよう、ギアノ・グリアド。誰か探索に行きたい者はいないかな。手を貸そうと思って来たのだ」
管理人はそうかと言って微笑み、食堂に何人か集まっていると教えてくれた。
覗いてみると、叔父の屋敷で暮らす若者が数人、いくつかのテーブルに別れて話し合っていた。
「探索者の諸君!」
全員が振り返り、視線を向ける。
探索に行く者はいないか、神官の同行を望む者はいないか。
呼びかけると全員が立ち上がり、やって来てケルディを囲んだ。
「一緒に来てくれるの」
神官が同行してくれるなんて、と喜ぶ声が聞こえる。
「橙」に行くから、「緑」に挑むから、付き合ってほしい。
わいわいと騒ぐ少年たちに落ち着くよう声をかけると、一人からこんな声があがった。
「クリュさんはいないの?」
「いないが、何故そんなことを聞く?」
「え、だって、ずっと一緒にいたでしょう」
固定の仲間ではないとわかって、何人かはがっかりした様子を見せている。
けれどそれはそれ、これはこれ。神官の同行は大歓迎らしく、探索の相談に乗ってほしいと頼まれた。
「探索には慣れているんでしょう?」
「基礎はしっかりと学んで来たし、先日は『藍』に挑んだ」
「カミルたちと一緒に行ったって聞いたよ」
「ああ、鹿を倒して戻って来た」
「すごい、鹿だって!」
きゃっきゃと騒ぐ初心者たちを諫めて、最初の一組目を決めていく。
「橙」に挑みたい者が四人がいて、そろそろ昼になる時間ではあったが、逆にもう入口の行列が終わった頃だろうからと、すぐに向かうことになった。
封鎖が解消されたばかりの「橙」は信じられないほど混雑していたらしいが、それももう落ち着き、賑わってはいても普段通りと言って良い状態に戻っていた。
既に今日の挑戦を終えた初心者たちを見送りながら、どう並ぶかを決めていく。
地図を見る練習もしたいという者がいて、ケルディは前で戦いを引き受けることになった。
「剣も使えるなんて、ケルディはすごいんだね」
「王都の騎士であった方に学んで来たのだ」
「すごいなあ。俺は騎士なんて、会ったことがないよ」
神官と共に前で戦うのは、ルプルとイザリ。
後ろで地図を確認しながら歩いているのは、ガスパンとマーリという名の初心者だった。
皆、「橙」は何度か挑んできたものの、初心者だけで探索をした経験はあまりないという。
指導を引き受けてくれる先輩がいないと不安だし、他のやる気に満ちた探索者たちに気圧されて、混みあった「橙」では戦いに挑めずにいたとかで、ケルディの参加を心の底から喜んでくれている。
「とにかくまずは三層目まで行かなくちゃね」
神官が居れば怪我をしても癒してもらえるし、剣の達人がいれば戦いが起きても安心できる。なんなら、有用な助言ももらえるから。
イザリとルプルはこんな話をしながら歩いており、ケルディは良い気分で歩いていた。
やっと正しい扱いを受けられて幸せになった神官戦士はすっかりご満悦だったので、前から歩いて来た見知らぬ初心者のこんな声にも、つい反応を見せてしまう。
「あの、その格好は神官ですよね」
どうしてそんなにも傷を受けてしまったのか、問いたくなるほどにボロボロになった探索者が一人。
なんとか五人で戻ろうとする初心者パーティに、助けてほしいと声をかけられ、ケルディは立ち止まっていた。
「助けてもらえませんか。こいつ、怪我が酷くてまともに歩けないんです。一生懸命抱えてきたけど、俺たちももう、限界で」
ズボンの膝から下は黒く染まっている。鼠や兎だのに、徹底的にしてやられてこんな状態になったのだろう。
入口まで戻るまでの間にもう敵は出ないだろうが、まだまだ、道のりは長い。
せっかく上層まで戻って来られたのだから、見捨てたくない気持ちはよくわかる。
とんだ悲劇の気配にケルディは唸り、わかった、と重々しく頷いてみせた。
樹木の神に祈り、癒しの力を注いでいく。
怪我自体はそうたいしたことはなかったが、血を多く失っており、回復させるには時間がかかってしまった。
「ああ、ネンカ! 良かったな、神官が癒してくれたぞ」
「ネンカ、俺たちが見えるか。なあ、立てるか」
怪我人は無事に目を覚まし、散々礼を言って去って行った。
パンラの名に恥じぬ振る舞いができて、ケルディにとってはこれも輝かしい歩みのひとつだ。
しかし、共に来た仲間たちの反応は芳しくない。
「すまない、待たせてしまったな」
「うん。まあ、いいけど」
ルプルとイザリは視線を交わして、こんな風に助けてくれる神官がいればきっと助かるだろうと話している。
理解を示されて頷くケルディだったが、通路の先からまたもよそのパーティが現れ、おずおずと声をかけてきた。
「ねえ、神官さん。怪我人がいるんだけど助けてもらえないかな」
反射的に目を向けた樹木の神官に、仲間たちが慌てた様子で近付いてくる。
「ケルディ、また助けるの」
「なんだよお前、さっきの奴は助けていたじゃないか」
「酷い怪我だったから、仕方なく手を貸しただけだよ。ねえ、ケルディ」
ぎゃあぎゃあと初心者同士で言い合って、無駄に時間を費やした結果、傷薬をひとつ譲ることでやっと決着はついた。
話をまとめたのは主にガスパンであり、簡単に手を貸しては駄目だと注意をされてしまう。
「私は神官だぞ。傷を負った者を癒すのも、大切な仕事だ」
「わかるけど、ここは初心者ばっかり来るんだよ。確かに、怪我人をみんな助けて回ってたって神官の話は聞いたことあるけど。でも、そんなことをしていたら僕たちはどうなるのさ」
「そうだよ。この五人で探索しに来たんだよ」
優先するべきは自身の仲間であるはずだ、と四人は言う。
神官としての務めだとか心意気は理解できるけれど、すべてに応じていては先に進めなくなると。
「確かに、仕方がないな」
そう答えながら、叔父上ならばどうするかとケルディ・ボルティムは考えていた。
ありとあらゆる弱者に手を差し伸べ、救って回るのがカッカー・パンラであり、聖なる岸壁と呼ばれる所以だというのに。
情けない気分で歩く神官に、「橙」の道は黙っていない。
時折すれ違う初心者たちは大抵怪我人を抱えていて、神官の姿を見るたびに声をあげた。
助けてもらえないかと考えるだけの者もいるが、全力ですがろうとする者も少なくはない。
どうか助けてください、お願いです神官様。
そんな風に言われて知らんぷりを決め込むのはケルディにとって苦行でしかなく、傷の深い者には結局手を差し伸べてしまい、仲間たちの表情は曇っていく。
「橙」の探索はうまくいかなかった。
ケルディが行動を徹底しなかった結果、無駄に時間がかかり、後ろの二人がとうとう地図を見間違え、まんまと落とし穴にはまってしまったから。
一層落ちた先から戻るのは大変な作業で、運良く地上へ帰ることはできたものの、時刻は深夜になっていた。
北東で暮らす初心者たちは朝早くに動き出すので、寝るのも早い。
人っ子一人いなくなった大通りを無言のまま歩いて、四人は屋敷へ、ケルディはとぼとぼ、寮へと戻る。
次の日。次の四人組との予定は、ケルディが知らぬ間にキャンセルされていた。
短い睡眠時間に耐えてなんとか屋敷へ向かったのに、「やっぱりやめておく」の一言だけでこの日の探索はなくなってしまった。
「前にアダルツォに付き合ってもらった時は全然問題なかったのに」
誰が言ったのか、ぼそりと呟く声が聞こえて来て、ケルディは振り返る。
「どういう意味かな」
神官の問いに、答える者はなし。
前日の四人から評判を聞いたであろう屋敷の若者たちは冷たい顔をして、言葉少なに去っていってしまう。
食堂の端のテーブルでしょぼくれていると、ようやく起きたのか、前日に共に探索に行ったうちの一人、ガスパンが現れて食事をし始めていた。
ちらちらと視線を向けられていると気付き、ケルディは意を決して立ち上がると、昨日の仲間の隣に座った。
「なに、ケルディ」
「昨日はすまなかった」
「うん……。まあ、慣れてないんでしょ。誰かに指導してもらった方がいいんじゃないの」
ガスパンは正直者なようで、ショックを受ける神官に更に言葉を投げかける。
「僕は前にロカに付き合ってもらったことがあるけど、もっと親切だったよ」
「親切?」
「調子はどうかってこまめに声をかけてきてくれた」
「私もそうするべきだと言っているのかな」
「神官ってその為にいるんじゃないの。アダルツォはもっともっと親切だったよ。別になにも言ってないのに、不安な気分になった時にそばに来てくれた。それで、安心させてくれたんだ」
パンをちぎって、一口齧って、もぐもぐやって。
ガスパンは首を大きく傾げると、ケルディに更なるクレームをつけていった。
「ケルディの癒しって、なんか冷たいよね」
「冷たい? とは、なにかな」
「癒しってあったかいでしょ。アダルツォとか、神官長さんに頼んだ時と全然違ってた」
「癒しに温度などあるのか」
「僕も初めて知ったよ。あったかくないこともあるだなんてさ」
「傷は治っているのだから、温度など関係ないのでは?」
「まあ、そうかもね。でも、気分は違うよ。ほっとできて、落ち着くし」
「ロカの癒しも温かいのか?」
ケルディの問いに、ガスパンは即座に頷いている。
「うん。ケルディとは違って温かかった」
何故だかこんなセリフにうちのめされて、ケルディは樹木の神殿へと戻った。
戻るなりララと目が合ったが、ふくれっ面を見せつけられ、朝の当番だったことにようやく気付く。
近くにある「藍」や「赤」の迷宮に挑んだ者は樹木の神殿を頼りにしており、午後になると怪我人が多く訪れる。
探索に慣れて、挑戦をしてみようと決めた者が向かうところであり、戦いで手こずって傷を負う者が増えるからだ。
なのでケルディもそんな勇者たちに対応しなければならないのだが、ガスパンにされた「温度」の話が気になって仕方ない。
「ララ、君の癒しは温かいのか」
「えっ?」
神官の少女は戸惑った様子で、眉間に皺を寄せている。
「癒しには温度があるらしいのだが、君は知っているか」
「なんの話なの、ケルディ」
「私を癒してもらえないだろうか」
癒しには傷が必要だと考えて、ケルディは自分の腕を思い切り叩いた。
ララは神殿の奥に逃げて行ってしまい、入れ替わるようにシュクルがやって来て、腕を突き出し、吠える。
「私を癒してくれ!」
「はあ? なにを言ってるの、ケルディは」
「君の癒しがどれほど温かいのか知りたいんだ」
「本当になにを言ってるの」
「君らの癒しは温かいと聞いたぞ」
「ええと……、今忙しいから、後でね」
シュクルも去って行ってしまい、ぽつんと一人で取り残されて。
どうしようか迷っていると、ネイデンが現れ、迷える神官戦士に声をかけてくれた。
「なにか問題があったのかな、ケルディ」
「ネイデン様、私を癒して頂けませんか」
「何故かな。怪我をしているようには見えないが」
「隣の屋敷で暮らす探索初心者たちに手を貸したのですが、彼らは私の癒しは温かくないと言うのです」
癒しは癒しであり、適温の話など教えられていない。
ケルディがこう訴えると、ネイデンは深く頷き、若者の肩を優しく叩いた。
「しばらくの間、神殿の仕事から離れなさい。探索はしてもしなくても構わないが、君はとにかく、もっと話をした方がいい」
「話とは、誰と?」
「誰でも構わないよ。神官は人の心に寄り添うのがなによりの務め。その為に必要な教えはいくつもあるが、経験しなければわからないことも多い」
「私はわかってないと、そう仰りたいのですか」
ケルディの問いに、ネイデンはしばらくの間答えなかった。
穏やかな表情を曇らせ、視線を空に彷徨わせた末に、こんな言葉をケルディ・ボルティムへ送った。
「すぐに結論ばかりを求めるのは、君の悪い癖のようだね」
人の心も物事も、そう単純ではない。
ネイデンはそう呟くと、もう少し世界を見て来るよう、若い神官に告げた。
「カッカー様を目指すのが悪いとは言わない」
「当然でしょう。叔父上は大変に立派な方です」
「それに異論はないよ。君よりもずっとカッカー様の活躍を見てきたし、必要な時には手助けもしてきた」
「そうでしたね。失礼いたしました」
「君にはいいところもたくさんあるが、完成には程遠いように思う」
「私になにが足りないと?」
樹木の神に仕えて長いベテランの神官は、額をおさえてため息をついている。
「それは、自身で気付かねばならないことだ」
「教えては頂けないのですか」
帰って来たのは、深い頷きだけだった。
ネイデンはそれ以上語るつもりはないようで、静かに去っていき、ケルディは再び一人で取り残されている。
これ以上神殿にはいない方が良いのだと理解し、カッカー邸に滞在する若者たちと接するのは気が進まなくて、では、どこに向かえばいいのやら。
ケルディ・ボルティムは樹木の神殿を出て通りに立ったものの、これからどうすべきか悩んでいた。
その辺を歩く通行人に声をかけたところで、なにを話せばいいのかわからない。
ネイデンはああ言ったが、話があまりにも抽象的で、どうすべきか判断がつかなかった。
腕組みをして、首を傾げて。
ケルディは仁王立ちをしたまま悩み、はたと思い出したことがあって、北へ向かって歩き出した。
少し前に、まだ屋敷に滞在していたクリュが一人で出かけて、向かったところ。
そこは仲間を探す探索者の為の出会いの場なのだと聞いた。
あの時、クリュは何故だか大勢に追われて逃げて来て、こっそりと覗いてきたケルディに気付いて「ちょうど良かった」と言ってくれた。
屋敷に帰るから付き添ってくれと言われて、あの時は大変に良い気分だった。
うっかり思い出に浸ってしまい、慌ててそれを振り払う。
記憶の中の美しい姿のお陰ですっかりリフレッシュして、ケルディは再び歩いた。
王都へと繋がる大きな東門の手前には、主に初心者たちの為の出会いの酒場が並んでいる。
酒場といいつつ、酒はほとんど売れない。評判の良い店の売りは、記憶力や観察眼が優れた店主であり、相性が良い相手と引き合わせてくれる。
そこまでの事情は知らないものの、出会いの場であることは理解していて、ケルディは酒場が並ぶ通りを歩いていた。
いかにも探索者らしい格好をした者が大勢いて、外から様子をみていたり、話を弾ませている光景があちこちで繰り広げられている。
評判の店は知らなくても、どこが賑わっているかは一目瞭然だ。
一際大きな声が響き、若者が集っている店がひとつあって、ケルディも中を覗いた。
「へえ、そうなのか。自警団としてね。それはすごい」
「きっと腕が良いんだろうね」
店のど真ん中辺りのテーブルで、若い女性の探索者が大勢の若者に囲まれていた。
背が高く、体つきのしっかりした女性で、戦いを得意にしているタイプだろう。
そばかすの浮かんだ顔はまだあどけなさが残っていて、自分を取り囲む男たちの合間で視線を彷徨わせている。
「これまでにどのくらい探索に行ったのかな」
「『橙』に飽きているなら、『緑』に案内できるよ」
「おい、俺がしゃべってるんだぞ。邪魔するな」
「邪魔とはなんだ。別のお前とだけ話しているわけではないだろう」
店の中にいるのは、どうしても女探索者を仲間に入れたい者ばかりのようだ。
ぎゅうぎゅうと体をぶつけあい、懸命に話しかけ、とうとう喧嘩をし始めている。
「ねえ、やめてよ。話なら順番に聞くからさ」
「ほうら、本人もこう言っている」
「なんでお前が仕切るんだよ」
負けず嫌いな若者は声を張り上げ、周囲の者はなんとか止めようと手を伸ばす。
けれど、どれもこれも逆効果にしかならないようで、騒ぎは大きくなるばかりだった。
「ケルディ、人々の話を聞きなさい」
ネイデンの声が頭に蘇ってきて、若い神官は手に力を込める。
「心に寄り添うのが、神官のなにより大切な務めだ」
これほど荒れてしまった場を収められる者がいるとしたら、それは真摯な信仰を抱く神の僕なのではないだろうか。
樹木の神に、大地の女神に心の中で祈りを捧げると、ケルディ・ボルティムは意を決して、若者たちをかきわけて前へ進んだ。




