225 辿る夢路の、遠い果て 2
ほったらかしにされていた洗濯物は結構な量で、全部やっていては一日が終わってしまう。
ユレーはそう考えて、そこそこに洗い物を済ませると出かける支度を始めた。
食材は昨日買ったが、倍量求められたのだから仕方がない。
玄関へ向かおうとするとマティルデが通り過ぎ、ユレーは慌てて声をかけた。
「どこへ行くんだい?」
返事はなく、ひらひらの紫色のローブが遠のいていく。
「昼はどうするんだい? どこかで食事でもしてくるのかい」
「そうよ」
「あんた、毎日なにをしてんのさ」
マティルデは足を止めずに、いろいろよ、と答えて屋敷を出て行ってしまった。
昼食の準備が必要ないのは、正直言って助かる。
洗濯も掃除も半端なままで、まだ終わりが見えなかったから。
家事を請け負っていた人間がいただろうに、いつ出て行ってしまったのだろう。
弟子として暮らしていた癖に、マティルデはやるように言われなかったのだろうか?
少しでいいから膝を突き合わせ、じっくり話す時間が欲しい。
できるはずなのに、何故だか期待できないだろうとも考えている。
ため息を吐きだしたり、マージの顔を思い出したりしながら、ユレーは我慢強く歩いて、南の市場へと向かう。
近隣の農村から運ばれて来た野菜や、探索者たちが持ち帰った肉を見繕い、かごをいっぱいにしながら進んでいくと、背後から声がかかった。
「ユレーさん!」
振り返ると、カッカーの屋敷の勤勉な管理人の顔が見えて、ユレーは思わず涙ぐんでいる。
「ギアノ」
「どこかで働き出したの? 随分たくさん……」
籠の中身の次に、安堵で脱力した表情に気付いたのだろう。
ギアノは心配そうに友人の顔を覗き込むと、大丈夫かと問いかけて来た。
市場の片隅には飲み食いが出来る露店があり、二人で向かい合って座る。
「そうなのか、マティルデと」
昨日から起きた出来事を話し終わり、ユレーは我慢しきれずにため息をついてしまう。
「あの子、魔術師の屋敷を自分のものみたいに扱ってるんだ」
「管理を任されたって話は聞いてた。本当だったんだね」
「あんたもマティルデに会ったのかい」
この問いに、ギアノは首を振っている。
「会ったは会ったけど、話はできてなくてさ。屋敷の管理の話は、樹木の神官長、わかるかな。キーレイさんたちがずっとホーカ・ヒーカムについて調べていて、それで教えてもらっただけなんだ」
そうかいと答えたユレーに、ギアノはひとつ、問いを投げかけてきた。
屋敷の主である魔術師の行方を知っているかどうか。
「大切な用事の為に出かけてるとか言ってたよ」
「じゃあ、屋敷にはいないのか」
「あの子以外に人の気配はないね」
「そうか、ありがとう。キーレイさんに伝えるよ」
「樹木の神官長さんは、まだあの屋敷を調べてるのかい」
「調べたいけど、マティルデが管理するようになってからは入れなくなったって」
では、こんな情報でも役に立つのかもしれない。
そう考えるユレーに、ギアノは声を潜めてもうひとつ、質問を放った。
「あのさ。昨日の今日じゃわからないかもしれないけど、その、マティルデが誰かと会ってるような感じってあるかな?」
「誰かとって?」
「その、……恋人がいそうな気配とかって、どう?」
何故そんなことを聞くのかと、反射的に答えてしまう。
ギアノは更に声を潜めると、意外な話をユレーに聞かせた。
「マティルデとキーレイさんが結婚するって噂が流れてるらしくて」
「はあ? 樹木の神官長と? そんな、まさか!」
思わず笑ってしまったユレーにつられたのか、ギアノも笑みをこぼしている。
「そうだよね。俺もありえないと思ってて」
だけど、商人の間で噂になっているみたいだから、と管理人は言う。
「噂になるからには、なにか理由があると思うんだ」
「そうだろうけど、ふふ、変な話だね。あの子が神官長さんとだなんて、あり得ないよ」
こんな話をして、二人は別れた。
なにかあったらいつでも来てよという言葉に、安堵を覚えながら屋敷へと戻っていく。
残った洗濯物を洗い、掃除をし、夕食の為の支度もして。
家事に勤しんでいる間にマティルデが帰ってきたが、まっすぐに自室へ戻ったようで顔は合わせていない。
昨日の倍の量の夕食を用意して、声をかける。
もうテーブルに並べたと告げると、マティルデは渋々食堂へやって来て席につき、すぐに匙を手に取ってスープを飲み始めた。
「ねえ、マティルデ。今日は市場でギアノに会ったんだよ。あいつもちょうど買い物に来てたみたいでね」
少女はちらりと視線を向けてきたが、なにも言わない。
焼いた兎肉を口に放り入れるばかりで、皿はあっという間に空になっていく。
マティルデはおしゃべりするのが好きで、食事中もなにか思いつけばぺらぺらと話していた。
食事はゆっくりと味わい、なかなか皿を片付けられなかったのに、今日はぱくぱくぱくぱく、これまでにない姿をユレーに見せている。
「明日は鹿肉にして」
すべて食べ終わり、出て来た台詞はたったこれだけ。
「ねえ、話したいことがあるんだけど」
紫のローブをひらひらと揺らして、マティルデが去って行く。
後片付けをしないのはいつも通りなのだが。
ギアノの名を聞いたら、あれこれ言うだろうと思っていたのに。
あのお菓子を食べたいとか、美味しいものを作ってほしいとか。
これまでなら絶対に言っていたであろう台詞が、一切出て来ないなんて。
マージの話も、伝えられていないのに。
この大切な話だけは、まっすぐに向かい合って、真剣に聞いて欲しい。
ユレーは皿を集めて重ねながら、考えている。
洗濯はあらかた終わった。掃除は済んでいないが、玄関と廊下はきれいにしたから、残りは後回しでいいだろう。
明日も出かけるようなら、後をつける。
師匠の留守を預かっているというが、どこへ行ってなにをしているのか、確認しておきたかった。
「あんたならきっと朝飯前なんだろうね」
部屋に戻ってベッドに倒れ込み、尾行などできるだろうかとユレーは考えていた。
マージはその道のプロであり、なんなくこなせたことだろう。
「大丈夫だよ、ユレー。あの子はぼんやりしてるから」
心の中でまだ生き続けている姉妹に励まされ、ユレーは一人、頷いている。
きっと大丈夫だと目を閉じ、次の日に備えた。
目が覚めたら朝食の支度をし、いつでも出せるように用意を済ませる。
廊下を歩く足音が聞こえてきて、食堂の扉が開き、今日も紫のひらひらが現れていた。
「おはよう、マティルデ」
返事はなし。澄ました顔でやって来た少女は黙ったまま椅子に腰かけ、ユレーは水を用意し、食事も運んだ。
「今日の予定は?」
返事は昨日と同じだった。いろいろよ。ユレーはふうんと言って頷き、昼食が必要かどうか問う。
どうやら今日もいらないようで、夕食に鹿肉を用意すれば良いようだ。
食器を片付け、掃除にとりかかり、マティルデが再び現れるのを待つ。
玄関ホールで箒をかけていると、少女が現れ、ユレーは声をかけた。
「ねえ、ここの床、割れてるけど、どうするんだい。修繕が必要なら、頼まなきゃならないだろう」
マティルデは立ち止まったものの、顔を向けてはくれなかった。
「今はいい。そのうち頼むから」
「そうかい、わかったよ」
ぷいっと出て行く後ろ姿に、いってらっしゃいと声をかける。
独り言のようで虚しいが、悲しんではいられない。
箒を片付け、用意していた鞄を拾い上げ、屋敷を出た。
どうしてあんなに大きなローブを着ているのか、ユレーは知らない。
けれど紫色のふわふわは目立って、離れていてもマティルデを見失わずに済むようだ。
魔術師の弟子は街をふらふらと彷徨い歩いていた。
衣料品を扱う店を覗いたり、装飾品の店に入ってみたりしていて落ち着かない。
ユレーは店の陰に身を隠し、マティルデの様子を窺っている。
ウィルフレドの姿を追いかけていた時のことが思い出されて、体が震えた。
マージとマティルデも一緒になって、押し合って騒いで、声を潜めてじゃれ合っていたのに。
今は一人で、哀しみが募る。けれどぐっと堪えて、ユレーはマティルデの姿を追い続けた。
しばらく街をぶらぶらと彷徨った後に、マティルデは南にある食堂に入っていった。
そう高価な店ではないが、探索者たちが使うような安い店ではない。
ユレーはどうしようか迷っていたが、窓の向こうに少女の姿が見えて、慌てて壁に身を寄せた。
窓際の席に通されたお陰か、外にいても声がよく聞こえてくる。
「兎肉のソテーをちょうだい。シチューと、あとこれも持って来て」
注文を受けて、店員はかしこまりましたと返している。
それで終わりかと思いきや、更に声が聞こえてきて、ユレーは耳を澄ませていた。
「ねえ、私が誰か知っている?」
「え、あの、その出で立ちは、魔術師の……」
「ええ、そうよ。ホーカ・ヒーカムの名は知っているでしょう。私は最後の弟子、後を継ぐ者、マティルデ・イーデンよ」
「はあ、そうなのですか。いらっしゃいませ、マティルデ様」
「ようく覚えておきなさい。私は迷宮都市一の探索者であり、樹木の神官長であるキーレイ・リシュラと結婚するのだから」
「え? ……あの、リシュラ商店の?」
店の中が一気に騒めいていく。
大きな声で話していたから、周囲の客にも聞こえたのだろう。
ユレーも驚きのあまり声をあげそうになり、慌てて口を押さえていた。
ギアノの話していた結婚の噂は、マティルデ本人が流していたのか?
少し落ち着くべきだと考え、食堂からそっと離れていく。
窓から見えないように、足音を立てないように歩いて、歩いて、急き立てられるように市場へ向かう。
鹿肉を売る店を探し、買い物を済ませて。
一体どういうことなのか、考えながら屋敷へ戻る。
マティルデが樹木の神官長と深い関係にあるとは思えない。
そもそも、ついこの間まで、男が怖くてまともに話すらできなかった子だ。
マティルデが話せる男はギアノと、カッカーの屋敷で暮らす雲の神官だけだった。
そんな状態から一気に、街で一番の有名人である樹木の神官長と結婚に持ち込むなんて、天地がひっくり返っても無理だと思う。
それとも、なにかとんでもない弱味でも掴んで、脅しているのか。
結婚に持ち込むつもりなら、なにが狙いなのだろう。
神官長の財産が欲しいのか、有名な商店の一家の一員になりたいのか。
ギアノに好意を寄せていただろうに、自覚していたのかどうかすらわからなかった。
そんな少女が、いきなり玉の輿に乗ろうと考えるだろうか?
答えが出ないまま、夕食の時間がやって来る。
ユレーは悩んだ末に、正直に問いかけてみようと決めていた。
鹿肉のステーキをテーブルに並べて、なにごともなかったように、こんな風に切り出していく。
「今日も市場に行ったんだけどさ、途中で樹木の神官長さんを見かけたよ。前の神官長も有名だけど、今の神官長もすごい探索者だっていうよね」
まずは話題を振るところから。
ユレーは慎重に切り出したつもりだったが、おもいがけない反応があった。
「キーレイ・リシュラが、すごい探索者? 馬鹿をいうんじゃないよ、あいつは大したことのない腰抜けだ! 図体がでかいだけのもの知らずのくせに、よくも神殿のまとめ役なんて引き受けやがった!」
恥知らずが! と吠えながら、マティルデは荒々しくステーキに食らいついている。
「あいつは神官の皮を被った極悪人だよ! この屋敷にも勝手に入り込んで、異国から来た売女と一緒に荒らしまわった罪人なんだ!」
子供の頃から迷宮に足を踏み入れる不良だとか、強欲な父親に育てられた守銭奴だとか。
食べながらも罵詈雑言を繰り出し、悪し様に罵ってはシチューを流し込み。
食堂に吹き荒れる嵐のあまりの激しさに、驚いてしまって声が出せない。
マティルデは散々荒ぶり、それでも食事はきっちりとたいらげて、皿を空にするとドスドスと足音を鳴らして出て行ってしまった。
扉を閉める轟音が響き、食堂は一気に静けさに包まれる。
けれどしばらく、ユレーは身動きが出来なかった。
目の前で起きた出来事が衝撃的すぎたから。
「どうなってるんだよ、もう……」
なんとか気を取り直し、食器を洗いながら、ユレーはぼそりと呟いている。
キーレイとの結婚話を他人に吹聴しておきながら、ああも悪く言うのはどうしてなのか?
怒りの激しさからいって、食堂でぶちまけた方が本音なのだろうと思う。
けれど、キーレイへ憎しみを募らせた経緯がわからない。見当もつかない。
ならば、本人に聞くしかない。
あくる日の朝、食堂にマティルデの姿が現れ、ユレーは思い切って問いかける。
「ねえマティルデ。昨日、樹木の神官長さんを随分悪く言ってたけどさ」
ちらりと視線を向けられ、おそるおそる続けていく。
「ギアノと会った時に、神官長さんとあんたが結婚するって噂があるって聞かされたんだ。本当かなって、あいつ、心配していたよ」
昨日の剣幕を思うと、あまりズバズバとは切り込めない。
マイルドに抑えた問いかけに、やはり答えはなく、ユレーはまた片付けをしながら考えていた。
樹木の神官長の話は巷に溢れているが、悪く言う人間などいなかった。
神官は誰でもなれるようなものではなく、極悪人のはずがない。
「そうだよ、ユレー。あの素敵な人とも親しい仲なんだから」
マージの憧れのお髭の君、無彩の魔術師と組んで探索にも挑んでいる。
本当に嫌な人間なら、パーティも長続きしないはずだ。
ましてや神官は精神的に支える立場なのだから。
一流の探索者と呼ばれる者たちなら、仲間に迎え入れることはないだろう。
マティルデに起きた変化についた考えを巡らせて、はたと気付いた。
キーレイを悪し様に罵ったのは、師匠にそう吹き込まれたからではないのかと。
ホーカ・ヒーカムについては詳しく知らないが、長く迷宮都市で暮らしてきたと聞いている。
樹木の神官長は生まれも育ちもラディケンヴィルスであり、三十年近くこの地で暮らしているだろう。
だったらその間に、なにか起きた可能性くらいは、あるのかもしれない。
これは納得いくような気がして、ユレーはまた考えを巡らせていく。
キーレイへの恨み言は、マティルデ自身から出て来たものではないとして。
では、どうしてあんな噂を流しているのか?
偶然再会し、家に招き入れられたが、マティルデはユレーとまともに話してくれない。
ヌエルを優先する為にマティルデを追い出したと考え、怒りを募らせているのだろう。
最後に会った時のことを思い出すと、ため息が出てしまう。
「あ……?」
あの時。マティルデは怒っていた。雲の神殿に預けられたことも、探索を諦めるよう言ったことも。
それに、こうも言っていたはずだ。
ギアノは私のことなんかどうでもいいのに、と。
ギアノがマティルデを雲の神殿に預けたのは、いくつもそうした方がいいと思える理由があったからだ。
若い男だらけのカッカーの屋敷では窮屈だろうと考え、男を怖いと思う気持ちを克服できたらいいと願って、神官の手を借りた。
マティルデは神殿に預けられたこと自体を不満に感じていたのだろうと思っていたが。
もしかして、あの屋敷の管理人となにかあったのだろうか?
まだ芽を出した程度でしかない二人の恋心を揺らすような、トラブルが起きたとか?
あり得るだろうか。
いつの間にか止まってしまっていた手を再び動かしながら、ユレーは更に考える。
絶対にないとは言えない。鈍感な子だったが、間違いなくギアノに好意を抱いていたはずだから。
親切にしてもらったとか、助けてもらったとかだけではない、もっと深い思いがあった。
「そうだよね、マージ」
マティルデの淡い恋心について、本人よりもユレーとマージの方が理解していたと思う。
早くくっついてしまえばいいのにと、もどかしい思いで見守っていた。
ギアノは神官長の噂について問いかけて来た。
樹木の神殿はカッカーの屋敷の隣にあり、神官たちとも親しくしている。
あえて神官長との噂を流したのは、ギアノの気を引く為だったのでは?
単なる恋の駆け引きにしては、やりすぎのような気もする。
師匠にあれこれ吹き込まれてあれだけ悪く言う相手と、自分の恋の噂をあえて流すなんてとも思う。
でも、マティルデだから。
ギアノと喧嘩をしてしまって、どう仲直りしたらいいのかわからなくて変なやり方をしてしまったのかもしれない。
魔術師の弟子になって、屋敷の管理を任されて、困り果てて混乱した末に、良い判断ができなくなったのかもしれないし。
料理も洗濯も掃除もできないのに、こんなに大きな屋敷を任されて困っていたのだろう。
下女扱いはいかがなものかと思っているが、力にはなってやりたい。
ちゃんと暮らせるようになれば、ユレーが寄り添ってやれば、気持ちも落ち着き、元通りのマティルデに戻るのではないだろうか?
思考の末に希望を見出し、ユレーは皿洗いをようやく終えて、部屋に戻った。
ベッドに横たわり、目を閉じて。
明日はギアノを訪ねようと決めて、体を休めていく。
翌朝、マティルデの様子に変化はなし。
家事を終わらせ、今日も出かける少女を見送ってから、ユレーはカッカーの屋敷を訪ねた。
扉を開けて出迎えてくれたのは小柄な少女で、ギアノに用事があって来たと告げる。
「あなたがユレーさんですか」
「知ってるのかい?」
「マティルデさんから何度もお名前を聞きました」
少女の名はアデルミラ・ルーレイ。マティルデの話の中で聞いた覚えがあり、ユレーも名乗る。
なにか言いたげだったが、早く話がしたくて、ギアノのもとへ通してもらった。
「やあ、ユレーさん」
管理人は厨房におり、話をしたいと告げると部屋へ通してくれた。
言いたいことが多すぎて、頭の中で渋滞が起きている。
どこから話すべきか決められぬままに口を開くと、一番伝えたかった話題が勝手に飛び出していった。
「昨日少しだけマティルデと話したんだ。いや、話したっていうか……、聞いただけなのかもしれないけどさ」
「うん」
「それで、多分なんだけどさ。あの子、あんたの気を引きたいんじゃないかな」
「え?」
「あの子にはあんなデカいお屋敷の管理なんて無理なんだよ。普段から家事なんか気にもしてないんだから。一緒に暮らしてた貸家ですら、あの子は持て余すに決まってる」
ギアノの困惑した顔には構わず、ユレーは続けていく。
「魔術師になるってのも、諦めた方がいいと思ってたんだよね。マティルデは探索なんてしなくていいって、マージもあたしも随分前から思ってた。本人は探索者になるって言い張ってるけど」
「それはまあ、確かに」
「あんたもそう思うだろ? だからさ、ギアノ、あの子を嫁にもらってやってよ。あたしがしばらく世話をして、落ち着かせるからさ」
ちょうど扉が開いて、雲の神官が入って来る。
ギアノは目を真ん丸に開いたまま、アデルミラとユレーの間で視線を彷徨わせている。
「いや……、なにを言ってんの」
「真面目に聞いておくれ、ギアノ。あの子は素直じゃないところがあるから、なんだかんだ言うだろうけど、でも、あんたのことを好きなのは間違いないよ。あんたもそうだろう? マティルデは可愛い子だよ。そりゃあ、多少手はかかるだろうけどさ」
「違うんだ、ユレーさん」
ギアノの視線はアデルミラに移り、何故か、力強く頷いている。
雲の神官の少女はお茶を置いて、静かに部屋を出て行き、扉が閉まった。
「マティルデに助けが必要なら、俺も協力するよ。だけどその、好き合っているってことはなくて」
「なに言ってんだい、鈍い男だね、あんたも。あの子は間違いなく、あんたを好きだよ」
「いや、そっちじゃない。俺はもう、その、心に決めた相手がいるんだ」
「……はあ?」
「結婚の約束をした人がいる」
驚きの余り立ち上がりながら、ユレーは叫んだ。
どこの誰と? いつの間に?
「誰と結婚するんだよ、ギアノ」
「さっき、見たでしょ。お茶を運んできてくれた」
「赤毛の?」
「そう。アデルミラと」
「なに考えてんだよ、あんな小さい子と!」
落ち着くように声をかけられ、まずは椅子へと腰かける。
それで心が鎮まったわけではないユレーに、ギアノは穏やかな声で話しかけて来た。
「確かに小柄で幼く見えるだろうけど、マティルデよりも年上だよ。アデルミラは俺と一歳しか違わない、立派な神官なんだ」
「年上? マティルデよりも?」
雲の神に仕える神官で、もう十八歳と伝えられたが、信じられない。
管理人の勝手な話に納得がいかなくて、ユレーはまだ唸っている。
「あんただってまんざらでもなかっただろ? マージだってそう思ってたんだよ。マティルデはあんたの嫁にしてもらって、幸せに暮らした方がいいんだって」
ギアノが苦悩の表情を見せたのは、きっとマージの名を出されたからだ。
騒がしいスカウトの声を思い出しているのではないかと、ユレーは思う。
寂しげな瞳はしばらく床を見つめていたが、ゆっくりと戻って来て、客の目へまっすぐのところで定まった。
「アデルミラは、俺を支えてくれる。俺の弱いところを理解して、一緒に歩いてくれる人なんだ」
ギアノの口から出て来た言葉に、言えることがない。
マティルデにはきっと出来ないことで、でも、飲み込むことはできなくて、反論の言葉を探してしまう。
「あの子、雲の神官って言ってたね。マティルデを神殿に連れて行ったのは、あの子なんじゃないか」
それはつまり、今の悪夢のような状況の、原因になったものではないか。
「マティルデがおかしくなったのは神殿なんかに預けたせいだろう。あの子のせいであんな風になっちまったんだ!」
喚きながら、ユレーは既に後悔している。
ギアノが自分に向ける視線の色に、ちゃんと気が付いていたから。
「それは違う。悪いとしたら、俺なんだよ。安易にマティルデを預かっておいて、神殿に頼った方がいいと言ったのは俺なんだ」
心は急に空っぽになり、言えることはなくなってしまった。
ギアノの真剣な眼差しは、決意をありのままに現したもので、つまり、もう動かせない。
ユレーの考えていた都合の良い未来には、もう、決して、繋がらない。
自分を動かすものは最早後悔だけになり、ユレーは立ち上がり、部屋を出た。
ギアノが呼びかけてきたが、答えられないまま、進んでいく。
管理人の部屋を出ると、廊下の先にはアデルミラが立っていた。
神官らしい、意思の強そうな眼差しが、まっすぐにユレーに向けられている。
なにを言われるかと思いきや、神官の唇から飛び出してきたのは、謝罪の言葉だった。
「ごめんなさい、ユレーさん。マティルデさんの力になれなくて」
もっと寄り添うべきだったと、アデルミラは言う。
やるせない気持ちが湧き出し、みるみるうちに怒りに変わって、ユレーはまた喚いていた。
「なんだよ、そんな澄ました顔をして! あんたがいなきゃ、マティルデは今頃のんびり幸せに暮らせてたのに!」
「やめてくれ、ユレーさん」
背後から近付いていた管理人に腕を掴まれたが、悔しくてたまらない。
「だって、おかしいじゃないか! こんなはずじゃなかったんだよ!」
「ごめん」
「謝るくらいなら、あたしの頼みを聞いておくれよ」
「ごめん、ユレーさん、本当に」
それだけは出来ない。
申し訳なさそうに、けれど、きっぱりと言われてしまった。
そもそもこれは八つ当たりでしかない。アデルミラもギアノも、なにも悪くない。
わかっているから、涙が止まらなかった。
ギアノの手を振り払い、カッカーの屋敷を飛び出したものの、行く当てもなくて。
街のど真ん中に戻るしかない。
ユレーは袖で涙を拭きながら、とぼとぼと魔術師の屋敷に戻っていった。




