223 朝が来るまでに
「橙」の迷宮を、五人で歩く。
今はレアンテ少年が前に立ち、地上とは一味違う戦いの経験に身を投じている。
すらりとしていて背は高いが、それでもロイズの肩よりも低い。
まだ小さな体を活かして立ち回り、レアンテは戦闘をこなし、三度目からはギャレンを感心させる程の動き見せている。
レアンテの活躍に刺激されたのか、マリエスが交代するよう言い出し、二人の位置が入れ替わる。
後方で考えていたのだろう、二度目の前衛での戦いぶりは力強く、動きも良い。
少年たちの位置を入れ替えながら進んで、五層目の終わり。
ギャレンの表情は険しく、階段の途中まで降りるとロイズにこう話しかけて来た。
「回復の泉とやらまでは遠いのか」
後列を歩く神官からの返事がない。
想像はついていたが、ジビランは疲れ果てた顔をしている。
迷宮の中という息苦しさ、これまでの戦闘の回数、作って来た死骸の山や血の匂いを考えれば、当然と言えた。
「すぐそこという程近くはありません。たどり着くまでに何回か戦いがあるでしょう」
だが、ここですぐ戻るよりは、泉に寄った方がいいと思う。
ロイズは自分の考えを明かし、改めて回復の水の効果について説明していった。
「ギャレン、もう帰る相談か? 十二層まで進んでいいと言っていただろう」
二人の話を聞きつけ、終わりの気配を感じ取ったのだろう。マリエスは不満を露わにして、強い口調でこう尋ねた。
ギャレンの視線を受け、意図を正しく理解して、ロイズは帰るべき理由を口にしていく。
「事前にジビラン殿と来た時は、迷宮は封鎖されていませんでした。大勢の探索者が入り込んだ状態だったので、六層に辿り着くまで戦闘の機会はそう多くはなかったのです」
けれど今は、五人だけ。
最初から最後まで戦いを引き受けるのは自分たちのみであり、普段とは状態が違いすぎる。
「迷宮を歩く他の探索者たちは、いわば協力者のようなものなのです」
「なるほど」
「この後、進んだ分と同じ道のりをもう一度歩いて戻らねばなりません。帰り道にも敵は現れ、戦いは避けられないでしょう。行きと同じかそれ以上時間がかかると考えるべきです」
ロイズの説明に、ギャレンはこう付け加えている。
これ以上、迷宮の封鎖を続けるわけにはいかないのだと。
「封鎖は今日中に終えなければなりません。探索者たちの反発は想像以上でしたし、封鎖の影響であちこちで混乱が起きて、神官らの手を随分煩わせているようですから」
「そうか」
マリエスは年長の二人の話をよく聞き、理解したようで、仕方がないなと呟いている。
「青い札が落ちていればいいのに」
まったくもってその通りだが、そう簡単には見つからないだろうとロイズは思う。
買い取り価格は十万シュレール以上、何年働けば手に入るのかわからないほどの大金であり、札の希少さを示している。
このまま戻るよりは、泉で回復をしてからの方が帰り道は楽になる。
ロイズの提案通りに探索は進み、一行は回復の泉に向かい、水を飲んだ。
迷宮に備えられた不思議な力の恩恵を受け、体が少し軽くなる。
マリエスとレアンテを順番に前で戦わせながら、今度は一層目、迷宮の入り口に向かって歩いていく。
そこまでに倒した魔法生物の死骸、床に広がった血の跡を辿り、一層ずつ。
少年たちの戦いは上手くなったが、今後役に立つことがあるかどうかとロイズは思う。
二人の万全な戦いの為に、多くの雑魚は若い騎士に任され、装備品はすっかり血で汚れていた。
早く体を洗いたい。特に、髪を洗いたくて仕方がない。
飛び跳ねて上から襲い掛かって来る兎は、避けてから低いところでとどめを刺した方がいい。
役に立たない知識を増やしながら、それでも魔法生物を切り、倒し、蹴飛ばして通路の端に寄せていく。
「二層目へ続く階段です」
散々戦った末に三層目が終わり、若い騎士はそっと息を吐いていた。
ロイズの隣で、ギャレンもほっとした様子を見せている。
二層目でも敵は出て来るが、帰り道ならば、最初だけ。
階段を上ってからのしばらくを無事に抜けられれば、危険はない。
「ジビラン、大丈夫か」
「はい、もちろんです。マリエス様、レアンテも、かわりはありませんか」
二人の少年は少し疲れた様子ながらも、笑みを浮かべて神官をからかっている。
「最後まで油断されませぬよう」
「わかっている。最後は私が前で戦うぞ、いいか、レアンテ」
二層目へ上がるとすぐに鼠が襲い掛かって来たが、三人で息を合わせればすぐに決着がついた。
これで迷宮の中の戦いは終わりだが、出口に辿り着いた後に最後の仕事が残っている。
来た時と同じように、二人の姿を隠したまま鍛冶の神殿まで戻らなければならない。
迷宮の入り口に辿り着くと、すぐに付近が騒がしくなっていった。
穴の上で兵士たちが待ち受けており、いつからああしていたのだろうと考え、ロイズは笑みを漏らしている。
再び大勢に囲まれて、迷宮都市の道を行く。
ちょうど夕日が沈もうとしている時間のようで、迷宮から出たのにまだ橙色に包まれていた。
安堵のせいで、気が緩む。今すぐ鎧を脱ぎ捨てて体を洗い、暖かい食事をかきこみ、ベッドに潜って眠りたい。酒が一杯あれば、もっといい。
もちろん、鍛冶の神殿に戻ったところで、自由に振舞えるわけではない。
ジビランが話をつけたと聞いているが、鍛冶の神官たちは不満そうだし。どんなこともマリエスたちが優先であり、水浴びも食事も、ロイズの番は後回しだから。
鎧を外し、靴を脱ぎ、物を片付けながら順番を待つ。
迷宮探索体験が済めばすぐに王都へ戻る予定だから、明日身につける物以外はしまっておくべきだろう。
時々伸びをしながら時間を潰し、順番が来て、まずは身体を洗った。
魔法生物との戦いで汚れた服を脱ぎ捨て、指の先まできっちりと磨いていく。
髪を洗うと自分を包んでいた不快な臭いがようやく消え去り、ロイズはほっとして、窓から覗く星空を見上げていた。
空に輝く星だけは、王都と変わらないようだ。
星の瞬きはどれだけ見ていても飽きないものだが、仮の宿であまりもたもたしてはいられない。
着替えを済ませて食堂へ向かい、端の席で食事を平らげていく。
終わった後は神像の前に進んで、神官たちと共に祈り、逗留させてもらった礼を告げた。
これで、後は眠るだけ。酒はないが、仕方ない。
神官たちの仮眠の部屋は狭いが、ついて来た兵士たちはどこかの安宿に押し込まれており、彼らを思えば我儘など言えはしない。
迷宮歩きで溜まった疲れがどっと押し寄せてきて、ベッドに横たわるなり、眠りの波に攫われる。
仕事に終わりはない。明日は王都に戻らねばならないし、帰ってからも日々は続いていくのだから。
ロイズに課せられた役割は、二人の少年の「良き兄貴分」でいることだ。
堅苦しい中年たちには言えない話も打ち明けられるような、他人の中では最も身近な存在でいること。
頼れるけれど、親しみやすく、一緒に怒られてくれる存在として、いつでも二人の傍に居続ける。
ロイズ自身は、兄弟の中では一番下。三人の兄に可愛がられ、導かれてここまで来た。
本当の弟のように扱うわけにはいかないが、兄を手本に年下の二人に寄り添っている。
マリエスとレアンテ。
これから先もずっと、力になってやりたい。
そんな日が出来る限り、長く続いていけば良い。
「ロイズ……、ロイズ、起きてくれ」
体をゆらゆらと揺らされて、はっとして飛び起きる。
まず考えたのは、寝坊の可能性だ。
慌てて身を起こし、辺りの様子を窺い、まだ暗いと気付いて、自分を起こした相手が誰なのか、薄闇の中目を凝らす。
「ガドリック、どうした?」
騎士ガドリックは青い顔をして、ロイズの傍らで震えていた。
同い年で、幼い頃から長く時を共にしてきた友人であり、探索の予行にも同行している。
「マリエス様がいないんだ」
わざわざ起こしに来たのだから、それなりの理由があるとは思っていたが。
その中では最悪の一言を告げられて、ロイズは一瞬で立ち上がり、服を着替え、靴を履いた。
「ギャレン様には?」
「まだだ、これから」
「今、何時くらいだ。いつ気付いた」
「正確な時間はすまん、確認してないが、夜明け前だよ。マリエス様たちがいないのは、神官が気付いて教えてくれたんだ。子供たちがいないようだが、大丈夫かと言って」
「どこで見張っていた? 扉の前じゃないのか」
ガドリックの返答はなく、ロイズは装備を整えながらため息を堪えていた。
腰のベルトを巻きながら少年たちの使っていた部屋に向かい、開け放たれた扉の中を覗き込み、レアンテの姿もないことを確認していく。
「探しに行ってくるから、ギャレン様とジビラン様に伝えてくれ。まずは近くを確認する、見たら一度戻る」
「なあ、お前が戻って来てからじゃ……」
「駄目だ。すぐに話せ」
うたた寝でもしていて、気付かなかったのだろう。
言いたくない気持ちは理解出来るが、隠しておいて良いことなどない。
「後はギャレン様の指示に従ってくれ」
「わかった。すまない、ロイズ」
神殿から飛び出してみたものの、辺りはまだ薄暗い。
それでも大通りへ向かうと、あちこちに灯りが掲げられていたし、人通りもそれなりにあった。
人の流れは西に向いているようだ。
南へ行こうとする者はあまりいないようで、神殿付近には人通りがなかった。
東門から続く大通りで、通行人を呼び止める。
迷宮都市には子供はいないらしいから。
まだ幼い少年二人が歩いていれば、きっと目立つと考え、見かけていないか問いかけていった。
「なんだ、あんた」
「連れの子供とはぐれてしまって、探している」
商人らしき男は、ロイズの出で立ちを足元から頭までじろじろ見つめると、なにも答えずに去って行ってしまった。
探索者らしき若者たちも、反応はほとんど同じだ。
「子供を見かけなかっただろうか。背はこのくらいで、二人でいるはずなんだが」
「……なあ、その格好、『橙』の封鎖をしてた連中か?」
三組に同じように冷たく当たられ、ロイズは急いで神殿へと駆け戻った。
叩き起こされたであろうギャレンとジビランが待ち受けていて、ロイズは上着を脱ぎ捨てながら報告を済ませていく。
「この格好では駄目です。話を聞いてもらえません」
「見つかっていないのだな」
「はい。人通りはそれなりにあります。誰か見かけているでしょうから、もう一度話を聞きに行ってみます」
腰に提げていた剣をジビランに預けて、ロイズは再び街へ飛び出していった。
中に着ていたシャツを少し緩めて、ズボンの裾もめくって巻いていく。
王都から来た人間だと一目でわからないように、髪もくしゃくしゃと乱して、再び大通りへと向かった。
あの二人が向かうところ。
こっそりと早朝に抜け出してまで、目指しているもの、行きたいところ。
マリエスとレアンテ。
二人とのこれまでの日々について、ロイズは考えを巡らせる。
王都での日々、聞こえてくる噂話。細かな思い出の中に、些細なひっかかりを探し出し、集め、まとめて、繋げていく。
レアンテ・ラダンにはいくつか不穏な噂がある。
いや、レアンテ自身にではなく、彼の家族について、いくつか「話」を聞いている。
ロイズは再び大通りへ向かい、露店商の姿を探した。
探索初心者が大勢通るこの辺りには、商売に励む者が多くいる。
予行の時に目にした風景を思い出し、辺りの様子を窺っていると、少し先から聞こえる声に気付いた。
保存食や薬の買い忘れがないか声を上げている商人のもとへ向かい、少しいいかと問いかける。
「なんだい、兄さん」
「十二歳くらいの子供を二人見かけなかったかな。弟たちと来たんだが、はぐれてしまって」
「そいつは大変だな。すまないが、俺はさっきここに来たばかりでね。子供は見てないよ」
男はそう話したが、もっと早い時間に来る商人がいるとロイズに教えてくれた。
礼を言って、もう少し西へ。大きな鍋でスープを煮込んでいる露店を探しに向かう。
「すまない、少しいいかな」
「よう、兄さん。こんなに早くから仕事かい?」
スープを飲んで体を温めていけ、と男は笑う。
ロイズは頷き、一杯頼むと小銭を渡して、二人連れの少年を見かけていないか問いかけていった。
「子供? ああ、さっきマチェンが言ってたな。こんな朝早くに子供が歩いてたって」
「マチェンというのは」
「市場で働いている男だよ。野菜を届けてくれるんだ」
「市場……は、どこにある?」
「マチェンがいるのは南の市場さ。あっちに石やら鍛冶やらの神殿があるだろ。あの辺りの道を南に向かうんだ。一番でっかい通りをまっすぐ行けば、南門に着く。市場もその辺りだよ」
話を聞きながらスープを飲み干し、礼を言って、再び走る。
服装を変えただけでこうも違うものかと思い知りながら、大通りを戻り、南に向かう。
歩いていくうちに、景色が少しずつ変化していった。
ごちゃごちゃと並んでいた小さな店がなくなり、建物の種類が変わったように思えた。
「すまない、少しいいかな」
通りかかった商売人らしき男に声をかけ、子供を見かけなかったか問いかける。
男はうーんと首を捻って、大袈裟に首を振って答えた。
「いや、申し訳ない。ここに来るまでに子供は見かけてはいないよ。あんたの兄弟かなにかかい?」
「ああ、弟なんだ」
「こんな大きな街ではぐれるとは、それは大変なことだねえ。でも、ここじゃ子供は珍しいから。きっと見つかるさ、大丈夫、大丈夫!」
背中をバンバンと叩かれて、随分と調子のよい男だとロイズは思う。
そう思ったので、更に問いを投げかけていった。
「あなたは、王都から来た戦士を知らないだろうか。背が高くて、髭を綺麗に整えていて、かなり腕が良い」
「おお、そいつは噂の美髯の騎士殿だな」
話し終わる前に男はこう切り出し、ニヤリと笑っている。
「ここには大勢腕の立つ戦士がいるが、もうあの人が一番だろうって話になっちまったなあ」
「どこにいるかは、知っている?」
「なんだい、ははは、噂の戦士を見に来たのかい」
賭けのつもりで繰り出した問いに、はっきりと答えを示されて、ロイズは唾を呑み込んでいる。
「そうなんだ。弟たちは探索者の話が好きで」
「なるほどねえ、わかるよ、迷宮の冒険譚は面白いからな! あの人はまだここへ来たばかりだっていうが、随分活躍しているらしいよ。男前だし、連れてる女も美人ばかりだというし、強い人らと組んでいるらしいし。実際に見てみたいと思うのも当然さ」
男は勝手にこう話し、売家街で暮らしていることまで教えてくれた。
売家街はすぐ近くにあり、今いる大通りから東に向かえばいいという。
東に向きを変えて進みながら、ロイズは胸を押さえていた。
マリエスたちを見つけたいが、今から向かうところには、出来ればいないで欲しかったから。
少年らしい無邪気な好奇心で街を彷徨っていただけで、既に神殿に戻っていて、ギャレンに絞られていて欲しいと願っている。
けれど、歩みを進めていく。
確認せずに戻るわけにはいかないから、教えられた道を辿っていく。
男に聞いた通り、並んだ家々が見えて来る。
北側には安価な貸家、南には小さめだがしっかりした造りの売家があり、見れば境はすぐにわかるという。
足を動かしながら視線を彷徨わせ、貸家と売家の境目を探す。
そうやって歩いたから、ロイズは二人の少年の姿を見つけることができた。
マリエスたちが目指していたのは、迷宮都市の住宅街のちょうど境目にある小さな黒い家だったから。
「マリエス様、レアンテ!」
小さな二つの影に気付いて、声を張り上げる。
周囲にいた通行人が驚いて目を向けるのがわかって、慌てて足を速めていった。
「ロイズ、……よくわかったな」
「偶然です。なにも言わずに抜け出すなど」
「待て。まずは用事を済ませる」
「お待ち下さい」
「駄目だ。ロイズ、お前はそこで待っていろ」
強い口調で命じられて、ロイズは迷った。
二人を止めねばならないが、命令には逆らえない。
日が昇り始めたらしく、周囲は随分明るくなっている。
二人が扉を叩いている小さな家だけは漆黒で、まだ夜に包まれたままのようだった。
住人たちがいたとしても、まだ眠っていて、起きてこないのではないか。
ロイズは黒い石を積んで出来た家の様子からそう願っていたが、叶わなかったようだ。
「どなたでしょうか」
家の中から声がするが、二人は顔を見合わせるだけで、なにも言わない。
なんと言えばいいのかわからないのだろう。
答えない客の為に扉が開いて、中から灰色の髪の若者が現れる。
「あなた方は?」
「ブルノー、ここにいるのか!」
家主に答えないどころか、勝手に扉をこじ開けて、少年たちは家の中に入っていってしまう。
「そのような名の人物はいません」
家主の注意に構わずに奥に進んで、声を張り上げていった。
「ブルノー! マリエスだ! レアンテもいる!」
ロイズは慌てて後を追い掛け、灰色の髪の若者に頭を下げる。
「申し訳ない。すぐに戻らせます」
言ったものの、できるかどうか。わからないし、自信はない。だが、勝手ばかりをさせるわけにはいかない。
ロイズは戸惑いながらも、出来る限りをしようと考えていた。
だが、結局、できない。
足が止まってしまう。
家の奥に、見えてしまったから。
ブルノー・ルディス。
王宮から姿を消したはずの戦士が、すぐそこに、二人の少年の前に立っていた。
「父上!」
レアンテも大きな声をあげながら駆け寄り、マリエスも戦士に迫っている。
そんな二人を、大きな手が遮っていた。
「君たち、人違いをしているのではないかな」
「なにを言う、ブルノー」
「私の名はウィルフレド・メティスといって」
「馬鹿を言うな! よくもそんな、白々しい」
ウィルフレドと名乗った戦士は首を振り、二人の少年の為に膝を曲げている。
「私には息子どころか、妻もいたことがない。誰かの父親になったことはないんだ」
「そんな……。何故です、父上。どうしてそんな嘘を言うのですか」
レアンテが泣き出し、マリエスは友人の代わりに抗議の声をあげている。
「ブルノー、お前に何があったのかは知っている。必死で隠そうとしているようだが、私たちはちゃんと知っているんだ。皆が勝手な真似をした。さぞ不本意だったことだろう。どれだけ恨んでいても仕方がない」
だが、とマリエスは言う。
まだ十一歳の少年に似合わぬ、余りにも鋭い目をして、男に向けている。
「レアンテには関係ないだろう。大人たちの勝手な事情を押し付けるなど、お前らしくないぞ、ブルノー。レアンテはずっとお前に会いたがっていた。もちろん、私も」
凛々しい声は、再び大きな手に遮られていた。
戦士は顔色ひとつ変えず、冷たい瞳を向け、大きなてのひらで少年を黙らせ、ゆっくりと首を振っている。
「よほどよく似た人物がいるのだろうな。これまでに何度も、その名で呼びかけられたことがある。ブルノー・ルディスではないのかと」
「まだ言うのか」
マリエスの怒りの声にも、ウィルフレドは動じない。
「私の名はウィルフレド・メティス。しがない、ひとりの探索者だよ。共に迷宮に向かう仲間たち以外に、この世の誰とも縁のない根無し草だ。しかも、居候の身でね。これ以上迷惑をかける訳にはいかないんだ」
二人の少年の背を抱いて、戦士は入口に向かって歩いてくる。
優しげに微笑んだ顔をしている癖に、マリエスたちを容赦なく扉の外まで押し出して、穏やかな声で終わりを告げた。
「どうぞ、お帰りを」
扉がゆっくりと閉まっていく。
細くなっていく隙間の中で灰色の瞳の若者と目が合い、ロイズは慌てて扉に手をかける。
「なあ、君! 彼の正体は? ブルノー・ルディスではないのか」
黒い長いローブに身を包んでいるのは、魔術師だからなのだろう。
知的な瞳は冷静そのもので、勢いだけで繰り出したロイズの問いにも、静かに答えてくれた。
「彼は戦士、ウィルフレド・メティス。とても頼りになる剣の達人です」
「本当に?」
迷宮都市には、無彩の名で呼ばれる魔術師がいる。
幼いうちから魔術師になるべく育てられ、迷宮のすべての謎を解き明かそうとする青年がいるのだと、ロイズも耳にしていた。
何故そんな名で呼ばれるのか。
灰色の髪と瞳を目の当たりにして、その輝きを向けられて、若い騎士は思い知っている。
「僕たちは迷宮に向かう探索者。過去など必要ありません」
強い否定に押されてよろよろと後ずさっている間に、扉は閉じてしまった。
マリエスは震え、レアンテは涙に暮れている。
「帰りましょう」
ロイズはレアンテの肩を抱き、力を込めて、マリエスをまっすぐに見つめた。
「人が増えてきました。これ以上は、いけません」
「……そうだな。わかった」
マリエスがとぼとぼと歩き出し、三人で、鍛冶の神殿へ戻っていく。
「すまなかったな、ロイズ」
道中にぼそりと謝られて、若い騎士はただ頷くだけに留め、迷宮都市の朝の道を歩いた。
鍛冶の神殿ではギャレンが待ち受けており、まずはほっとしたらしく、天を仰いでいた。
言いたいことは山のようにあるだろうに、二人の少年の表情に気付いて、眉間に皺を寄せている。
「マリエス様、レアンテも、まずは飲み物を。すぐに用意させます」
二人は神官長の部屋に戻され、兵士たちにも指示が飛んでいる。
ロイズが座り込んでいるとガドリックが駆けてきて、友人の手を取り涙を浮かべていた。
「ありがとう、ロイズ。よく見つけてくれたな」
「運が良かったんだ」
「馬車の用意をしなきゃ。また、後でな」
友人が走り去り、ジビランに水を手渡され、喉を潤して。
迷宮探索体験の旅は、元通りに、終わりに向けて進んでいく。
「橙」の迷宮体験は無事に済んだから、王都へ戻る。
兵士たちは封鎖を解き、囲いの撤去と神殿の片づけを済ませたら、全員揃って帰る手はずになっていた。
「ジビラン殿、よろしいか」
ギャレンがせかせかと歩き回り、神官に声をかけている。
ぼそぼそと話しかけ、了承を得たようだ。
帰りの馬車でマリエスたちの様子を見るよう頼んだらしく、ロイズはギャレンと乗るよう言いつけられる。
「なにがあった、ロイズ」
普段なら、どこへ行っていたのかと声を荒らげていたことだろう。
ギャレンはそうしなければならない立場であり、叱られてしょぼくれる少年たちを励ますのがロイズの役目だ。
けれど、今日はなにも言わなかった。レアンテの泣き腫らした目と、マリエスの憮然とした様子に気付いて、直接問わないままロイズと向かい合っている。
王都へ帰る為に馬車に乗り込んで。
騎士たちは二人きりで、顔を寄せて密やかに言葉を交わしていた。
「二人はブルノー・ルディスを探していました」
「……なんだと」
「噂はあったのです。迷宮都市に凄まじい剣の使い手が現れたと。背が高く、美しく髭を整えた男だと話す者がいましたから、耳にされたのだと思います」
ギャレンの顔がしわくちゃになっていく。
悩み深い強面になって、重低音でかすかに唸り声を漏らしている。
ギャレンも予想がついていたのではないだろうか。
ロイズと同じで、そうでなければいいと考え、神に祈りを捧げながら無事を願っていたのではないか。
「二人はブルノーを探し出し、家を訪ねましたが、人違いだと追い返されました」
「会ったのか」
ロイズは頷き、魔術師の家での出来事を思い返している。
マリエスをただの子供のように扱い、レアンテに対してもなんの動揺も見せなかった。
本当にブルノーだったのなら、あんな物言いをするだろうか。
自分ならば、多分出来ない。無関係を演じようとしても、完璧にはやれないだろうと思う。
「魔術師の家で居候をしている、名前はウィルフレド・メティスだと」
「居候? 魔術師の家で?」
「はい」
ギャレンがなにか呟いている。
馬車の音に邪魔されて聞き取れなかったが、「有り得ん」だろうとロイズは思う。
「お前も見たのか、その戦士を」
「はい、見ました」
「どう思った」
答えなければならない。
気が進まなくても、重くても。それが自分に課せられた役目だから、ロイズは正直に、こう答えた。
「間違いありません。あれは、ブルノー・ルディスです」
ギャレンは目を閉じ、また唸る。
「……こんなに近くにいたとはな」
まったくだと、若い騎士は胸のうちで同意していた。
もっと遠い何処かへ、去ってしまったのだろうと思っていたのに。
「どうしますか、ギャレン様」
「我々だけで決められない。ひとまずは任せてくれ」
「わかりました」
「他言は無用だ」
言われなくてもわかっているが、ロイズは素直に「はい」と答えた。
かたことと揺れる馬車の中で、ギャレンは目を伏せたまま、こう続けた。
「レアンテの様子をよく見てくれ。マリエス様も」
それが自分の役割だ。まだ若い少年二人の「良き兄貴分」として、共に悩み、時には秘密の共有者になる。
「わかりました」
話は終わり、ロイズは背もたれに身を預け、流れていく風景を見つめた。
荒れた土地ばかりの不毛な景色が続くが、そのうち森や山が現れ、王都も見えてくるだろう。
ラディケンヴィルスに行きたい、迷宮探索をしてみたいと急に言い出して、何故なのだろうと思っていたけれど。
二人の真の目的はブルノー探しの方だったのだろう。気付けなかった自分が情けない。
もう二度とこんなことがあってはいけない。決して許されない。
再びなにか起きれば、ロイズの未来も行く先を変え、暗いところへ向かい始めるだろうから。
けれど、レアンテの涙を思うと胸が痛んだ。
あれが演技ならば、ブルノーは稀代の名優として名を遺すこともできるだろう。
完全な他人の冷たい声で、幼い息子をあそこまで突き放せるとは――。
「マリエス様は、自分たちはすべて知っていると仰っていました」
短い再会の中にあった気になる言葉を思い出し、ロイズは最後の報告を済ませていく。
「そうか」
ギャレンの答えはこれだけだった。
馬車に揺られている間にいつの間にか眠ってしまったが、若き騎士ロイズ・エリグがこの日、叱責を受けることはなかった。




