222 贅沢の極み
「ロイズ、準備はいいか」
神殿の奥の部屋に、びりびりと重低音が響く。
人間はこんなに低い声が出せるものなのかと驚いた日から、そろそろ二年。
地響きのギャレンと呼ばれるだけあって、声は間違えようがない。
今日も足元から這い上がって来るような上司の呼びかけに急き立てられ、若き騎士ロイズ・エリグは慌てて答えた。
「はい、万事完了しています」
迷宮へ向かう為の装備は万端。必需品と言われている物も揃えたし、何度も確認している。
袋の中身はジビランにも見てもらったから、ぬかりはないはずだ。
荷物を背負って衝立の陰から出ると、ギャレンが腕組みをして待ち受けていた。
磨かれた鎧に愛用の剣を提げ、腰には小さなポーチをつけて。
普段ならばすべて自分が持たねばならないのだろうが、今日行く先は「迷宮」だから。
初心者用と言われていようが油断はできない。
なので、薬だけは各種、全員が持つと決まっている。揃いのポーチの中に傷薬、気付けの薬と、気力薬と呼ばれるものも用意していた。
神官であるジビランが同行するが、万が一は誰の身にも同等に降り注ぐ。後列にいても、絶対は約束できないところだ。普段は決して持たないであろう短剣も持って歩き、いざという時には抜いて振るわねばならない。
できれば、そんなことになって欲しくはないのだが。
「では、行こう」
「マリエス様たちは」
「ジビラン殿と一緒だ。準備もとうに済ませておられるだろう」
早く行こうとうるさかったからな。
ギャレンは眉間に深く皺を寄せ、鼻をぴくぴくと動かしている。
噂によればそれは、ため息を我慢している時に出てしまう癖なのだという。
ギャレンの憂鬱はよくわかる。
遥か昔に魔術師が作ったという怪しげな遺跡に足を踏み入れるなど、自分の人生には無縁だと思っていたから。
許されるなら断っていただろうと、ロイズも思う。
ただ迷宮に足を踏み入れるくらいなら、そこまでの問題はなかった。
「橙」の迷宮とやらは地図も完成しており、大勢が中を歩いていたし、その辺で声をかければ有用なアドバイスをいくらでも聞けた。言われた通りに注意して歩けば、さほどの危険はなかったし。十二層目まで歩いたが、初めてでも、素人だけでも無事に地上へ帰って来られた。
「マリエス様、お待たせ致しました」
神官長の為の部屋を乗っ取って作った急拵えの控え室には、少年が二人。
どちらもそれぞれの体格にあった鎧を身に着け、短剣を提げている。
この二人を迷宮に連れて行き、無事に戻って来なければならない。
行っても十二層までと決めて、納得してもらっている。
マリエスは歳の割に随分と冷静で、それ以上は危険だと説明すると、すぐに理解して受け入れてくれた。
もう一人、同行するレアンテについても心配はしていない。
彼も賢く、分別のある少年だからだ。
自分が同じ年の頃はもっといい加減で、向こう見ずだったと思う。
しょっちゅう怪我をしては母に心配され、喧嘩をしたと話しては父にちゃんと勝ったのか確認されるような子供時代を送った。
こんなに落ち着いた子供に育つにはなにが必要なのだろう。結局、生まれには勝てないのだろうか。
現実逃避をしながら、ロイズは直立不動のまま、ギャレンの指示を待っている。
最後の確認は恙なく終わり、鍛冶の神殿から出て、迷宮へ向かった。
周囲には護衛の騎士たちが大勢ついているが、迷宮に入るのは五人だけだ。
彼らが共にいるのは、二人の少年の姿を隠す為。迷宮都市の住人たちの目に留まらないよう、目隠し代わりに一行を囲んで歩いている。
このまま大勢で向かえばいいのに。
ロイズはそう思うが、進言に対する答えは否だった。
迷宮を歩くのならば流儀に従うべきだというのがマリエスの「お考え」であり、相応しい人数である「五人組」で向かうと決まっていた。
なにかあったらどうするんだと思うが、どうにもならない。
たってのご希望なのだから。
組織の中では最も下っ端であるロイズには発言権などなく、従うしかない。
母なる大地の女神よ、戦士の護り手たる鍛冶の神よ。
今日一日が無事に終わりますように、誰の身にも不幸が起きませんように。
怖ろしい渦の中でも我らを護り、どうか無事に、地上へお戻し下さい。
短い道のりはすぐに終わって、囲いに覆われた入口に辿り着いていた。
最初に比べれば人数はかなり減ったが、封鎖という暴挙に怒りを抱く住人たちが周囲にいて、やって来た集団に気付いて声を上げている。
「おい、誰か迷宮に入るみたいだぞ」
「ずるいぞ、自分たちだけ!」
「早く封鎖を解いてくれよ」
隣を歩くギャレンは涼しい顔だが、後ろを歩く少年たちはどうだろう。
声は少しずつ大きくなり、警備の兵と揉め始めているようだ。
「ロイズ、先に降りてくれ」
「わかりました」
命令通り、梯子を降りていく。
次に降りるのはジビランで、足を踏み外した時に備えておく。
中年の神官はお世辞にも健康的とは言えない体型なので、落ちないでくれと願いながら見守っていく。
アクシデントは起きず、次に降りて来るのはレアンテのようだ。
まだ十一歳の少年ならば、万が一落ちてきても受け止められるだろう。
とはいえ、穴は二層になっており、今いる途中の足場は酷く狭い。
絶対に怪我をさせるわけにはいかないと思うと、また緊張が強くなってきて、胸が痛んだ。
最後の二段辺りからは手を伸ばし、レアンテは無事に到着。
お次はマリエスの番で、こちらはもっと、いや絶対に失敗はできない。
この迷宮歩きを望んだお方である本人は軽やかな身のこなしで、あっという間に降りて来て、ギャレンが続く。
梯子はもう一つあり、再び同じ順で降りていった。
迷宮の入り口はすぐ後ろにあり、一度目と違って足場も広い。
途中でジビランがよろけて焦ったが、落ちることはなかった。
全員が無事に降りてきて、ロイズは穴の底から空を見上げていた。
迷宮を封鎖している兵士たちの頭がちらりと見える。
文句を言いに来た探索者たちを押し返しているのだろう。
わあわあと騒ぐ声が聞こえてきて、突破する者などいないでくれよと、ロイズは願った。
「これが迷宮の入り口なのか」
まだ高い少年の声に振り返ると、マリエスとレアンテが並んで入口の扉を眺めている。
「ロイズ、あれはなんだ?」
少年の指さしているのは、「帰還者の門」だ。
迷宮の中で見つかる術符を使った場合、導かれる先だと聞いている。
本当かどうかはわからないが、聞いたままを説明して、とうとう迷宮入口の前に立つ。
「マリエス様、レアンテと後ろに、ジビラン殿と並んでお進みください」
「戦士は前を行くと聞いたが」
ギャレンはいけませんと言い、マリエスは不満そうに鋭く瞳を向けている。
「最初のうちはとにかく、私とロイズにお任せください」
少年は渋々条件を受け入れ、並ぶ順番を整えていく。
「地図は?」
「ジビラン殿が持っております」
ジビランは事前の下見にも同行しており、地図の見方は理解しているはずだ。
大丈夫、敵はそう強くはない、罠もよく見れば気付ける。
念入りに確認したのだからと自分に言い聞かせ、ロイズは息を吐き、心を鎮めていった。
「では行こう」
ギャレンに指示されて、扉を開く。
魔術師が遥か昔に作ったという謎に満ちた地下道へ足を踏み入れると、背後から少年たちの驚く声が聞こえてきた。
「おお、随分と広いのだな」
「地下なのに、本当に明るいんですね」
二人が神官と話している間に、ギャレンが声をかけてくる。
「最初のうちは敵性生物も出て来ないのだな」
そのはずだと頷き、実際に予行の時にも遭遇しなかったと答えていく。
あの時は大勢の探索者で賑わっていたから、ひょっとしたら誰かが倒していただけなのかもしれないが。
不安は残るが、調査団の資料にも「黒」以外はすぐに敵が出て来ないとあったし、信じるしかない。
「しばらくまっすぐに進みます」
景色の確認が終わり、五人で歩き出す。
「橙」の迷宮と呼ばれている通り、壁も床も橙色のタイルが並べられている。
以前に入った時はごみが溢れていたが、今日は落ちている物はなく、染みや汚れはひとかけらもない。
「随分と綺麗なものなのだな」
マリエスの疑問に、ジビランが答えている。
迷宮には「清掃」の仕組みがあり、誰かがまき散らしたごみも、魔法生物の死骸も、すべて消し去ってしまうのだと。
「落とした物は消えてしまうのか?」
「瞬時に消えてしまうわけではございません。一定の時間が過ぎた後に、消えてしまうそうです」
「だから大切な物は持ち込まないように言っていたのだな」
今回の探索にはいくつも条件が付けられている。
必要な物以外は身に着けない、装備品はすべて騎士団の備品を使うなど。
落とし物には気を付けるよう言われたが、気を付けるよりも持ち込まない方がいい。
見つからないのではなく、どこかへ消えてなくなってしまうのだから。
迷宮に備わる気の利いた仕組みについては、実際に目にしていないので、半信半疑ではあるのだが。
きれいに片付いた道を歩きながら、本当なのだろうなとロイズは思った。
長く敵が現れる迷宮の道のすべてを、掃除して回る者などいないだろうから。
「そろそろ階段があるはずです」
五人の足音しか聞こえない道を歩き通すと、ジビランの言った通り、下へと続く階段があった。
鍛冶の神官は二層目の地図を用意し、ギャレンに確認を取っている。
ロイズは後ろの少年二人に声をかけ、喉は乾いていないか、体調に変化はないか尋ねた。
「私は問題ない。レアンテはどうだ?」
「大丈夫です」
レアンテの方が一歳下だが、マリエスよりも背が少しだけ高い。
幼い頃から傍にいて、ほとんど兄弟のような間柄だと聞いている。
レアンテ・ラダンにはいくつか不穏な噂があるが、マリエスは気にしていないようだ。
二人の間には既に絆があり、噂程度で揺らぐものではないのだろう。
まだ十二歳と十一歳なのに、二人はとても冷静で、性格も穏やかだった。
そろそろ大人に反抗し始める年頃だが、荒れる姿は想像できない。
「準備はよろしいですか」
ギャレンが確認を済ませ、五人で再び歩き出す。
資料によれば二層目もほとんど敵との遭遇はないらしい。
更に下に続く階段近くまで進めば、現れるかもしれないが。
「ジビラン殿、半分以上進んだら教えて下さい」
「わかりました」
地図を見て道のりを確認するのは、難しい作業だ。
自分には難しいとロイズは思い、素直にそう報告している。
苦手な人間に任せる理由などないが、ジビランが引き受けてくれて安心したものだった。
鍛冶の神官は体を動かすのは苦手らしいが、頭を使うのは苦にならないらしい。
二人の少年から時々質問され、それに答えながらも、道を見失わずに五人を導いてくれている。
「そろそろ半分を過ぎます」
しばらく歩いた後に声をかけられ、ロイズは背筋を伸ばした。
剣を抜いたまま歩くかどうか悩み、隣に並ぶギャレンの顔を見て、やめておこうと決める。
魔法生物が現れる時には、足音がするだろうから。
初心者用の迷宮の浅いところに、突然音もなく現れるような恐ろしい敵はいないはず。
迷宮調査団が集めてまとめた資料は何度も読んだ。
適当な噂に誘われてやって来ただけの有象無象が入り込んでも生きて帰れる場所なのだから、騎士である二人がやられることは、きっと、ないだろう。
胸のうちで自分を納得させて、振り返る。
「もう少し進むと敵の出現が始まります」
「そうか」
マリエスは不敵な笑みを浮かべ、レアンテを肘で突いている。
「敵の足音が聞こえなくては困りますので」
「余計なおしゃべりはやめろということか」
今度は真面目な顔で頷いて、腰から提げた短剣に触れている。
前を行く二人がやられた時には、自ら戦うしかないと理解しているのだろう。
すべて部下にお任せとしないのは立派だが、そんな事態になっては困る。
ミスは出来ない。絶対にだ。予行の時に遭遇した魔法生物との戦いを思い出し、ロイズは足首を意識して動かしていった。
浅い層で襲い掛かって来る魔法生物は小さい。鼠にしては随分と大きいのだが、普段の戦いとは、いつも剣を交えている仲間たちとのやり合いとは、なにもかもが違うから。
ちょこまかと動き回る小型生物とは、低い位置でやり合わなければならない。
事前にギャレンには伝えてある。剣の腕は確かで、ロイズよりも経験豊富だろうし、そう不安はないけれど。
若い騎士は緊張しながらも、歩みを止めない。
ミスは出来ないが、ここで投げ出すのはもっと駄目だから。
事前の視察や確認を任され、今日も同行を命じられた。
期待されていると考え、認められる為に力を尽くさなければならない。
ギャレンにも、マリエスにも、やれるのだと示さねばならない日なのだから。
背後の少年たちはひそやかに言葉を交わすようになり、鼠の鳴き声や足音の邪魔にはならなかった。
キイキイ、タンタンと小さな音が聞こえてきて、ロイズは剣に手を伸ばす。
「敵が来ます」
王都の西の荒れた地に隠されていた、九つの迷宮。
そのうちのひとつ、魔術師の作り上げた謎めいた渦を進む者たちが、すべてを学ぶ為に用意された橙色の迷宮、二層目の終わりにて。
「マリエス様」
「わかっている」
ギャレンに声をかけられ、少年たちは短剣を抜いて構えた。
通路の先に現れた鼠は三匹。普段は波のように押し寄せる若者たちが初めての戦いで大騒ぎする場所だが、今はただ、五人だけ。
見つかって以来の静けさに包まれた「橙」の迷宮で戦いが始まり、鋭く剣が振り下ろされる。
ギャレンは最初の一匹を切り捨て、続いて飛び込んで来たもう一匹もまっぷたつに切り裂いている。
血が激しく通路に飛び散る様を、ロイズは視界の端で捉えていた。
もう一体。自分の足元をすり抜けて、背後に続く三人へ駆けていこうとする鼠を逃さず、振り下ろす。
若い騎士の剣も見事に鼠を捉えて、戦いはすぐに終わった。
街の隅を走り回るものよりもずっと大きく、死骸からはたっぶりと血が溢れて、迷宮の床を汚していく。
ジビランは顔をくしゃくしゃに歪めている。この嫌悪の表情は予行の時にも見たものだ。
だが、あの時は通路のあちこちにごみや死骸が落ちており、先に目にしていた。
今日は美しかった通路を、三つの容赦ない死が汚したばかりだ。
切り裂かれた鼠の体からは臓物がはみ出しており、ロイズは慌てて死骸を通路の端に寄せていった。
ブーツはあっという間に血に塗れ、革を黒く染めている。きっといつまでもしぶとく残り続けるだろう。
今日が終わればもう二度と使わないだろうと考えながら、ロイズは靴底を床に擦り付けている。
「マリエス様、あまり御覧になりませんよう」
少年たちの視線を遮るように、ギャレンも死骸の傍らに立っている。
二人は黙って頷き、目を逸らしたまま血の匂いの中を通り過ぎていく。
「もう少し浅くても倒せるか?」
ギャレンから問われて、ロイズは頷いて答えた。
鼠だの兎だのに対して、ギャレンの剣は鋭すぎたのだろう。
いちいち真っ二つにしていては、ジビランの心が持たないかもしれない。
なるべく傷は小さく、血が出ないように倒したいところだが。
続いて現れた再びの鼠との戦いも結局、似たような結果で終わってしまう。
街の隅で残飯を漁るものとは違って、積極的に襲い掛かってくるのだから仕方ない。
ジビランの祈りの声を聞きながら歩いて、一行は三層目に続く階段に辿り着いていた。
「ギャレン」
階段を降りる前に、自分たちも戦ってみたいと要望を伝えられた。
ジビランもギャレンも一旦は止めたが、反対しきれないことくらい承知している。
なので対処法も、先に考えられていた。
「では順番に一人ずつ、我々と並んで戦いましょう」
「なるほど、いいだろう。私が先でいいか、レアンテ」
知的な笑みを浮かべて、マリエスは前に進んで来た。
獣の血で汚れた二人の騎士の間に並んで、剣を振る為に必要な距離を測っている。
「決してご無理はなさらないよう」
「わかっている」
普段の剣の訓練はギャレンが見ている。一年程前からマリエスとレアンテに稽古をつけるのはギャレンの役目になり、ロイズも練習相手として付き合ってきた。
二人の腕は悪くない。いや、同じ年頃の少年に比べて、かなり良いと言っていい。
だから、迷宮行きなどという滅茶苦茶な頼みごとにも反対しきれなかった。
「鼠以外の敵も出て来るのだろう。ロイズ、なにか注意することはあるか?」
「はい、兎はかなり高く跳ねます。犬は足が早いので、遠くにいてもあっという間に近付いてきます」
階段の途中で交わされる魔法生物の話に、ギャレンも耳を傾けているようだ。
「敵の動きを見極めるのが大事だな。レアンテ、よく見ておくんだぞ」
十二歳の少年は余裕たっぷりの顔で階段を降り、二人の騎士を急かした。
ロイズとギャレンはマリエスを挟んで並び、再び迷宮の道を歩き出す。
「罠が近くなった時は声をかけます」
「ああ、頼んだぞ、ジビラン」
一行のリーダーは一瞬で入れ替わってしまった。
マリエスは既に短剣を抜いており、通路の先に見えた犬に備えて腰を落としている。
「橙」に現れる犬型の魔法生物は「地走犬」と名付けられているらしい。
調査団の資料によれば犬型の敵は何種類かいて、「橙」に現れるのは中型と書かれていた。
鋭い爪と牙による噛みつきに注意と添えられていたが、街の外れをうろつく野犬とはどう違うのだろう。
ロイズにはわからないが、犬はこちらに気付いて走り始めている。
「来るぞ!」
マリエスの声は凛々しく、ロイズの返事も自然と大きくなっていた。
一頭しか見えなかったはずの犬は、いつの間にやら二頭に増えている。
ギャレンの合図を受けて、後から現れた方を引き受ける。
実戦でマリエスがどんな戦い方をするか見てみたいが、そんなことは言っていられない。
とびかかって来た犬の一撃を避け、がら空きになった背中に一撃を叩き込む。
真っ二つにしたくないと考え過ぎたせいか、浅い。倒しきれていない。
動きの鈍った体に追撃を入れて、よろめいた隙にとどめを刺してやる。
戦闘はジビランとレアンテのすぐ手前で終わり、神官は青い顔をして震えあがっていた。
「ロイズ、もう終わったのか!」
マリエスは短剣で犬とやり合っており、ギャレンがうまく牽制して逃がさないようにしているようだ。
ロイズも戦闘の場に戻り、背後の二人のもとへ行かないように連携していく。
犬は集団で現れやすいと聞いているから、新手がやって来ないか、通路の先も気にしておいた方がいいだろう。
迷宮内で人を襲う犬は、地上でうろつくよりものと違って逃げていかないし、頑丈らしい。
短剣での攻撃では、決着はなかなかつかなかった。
マリエスがよろけた時にはギャレンが間に入り、体制が整うまで引き付けている。
贅沢な体験だと、ロイズは思う。
稼ぎを得る為に足を踏み入れる探索者には、こんな手厚いサポートなどないだろうから。
お付きの騎士の尽力もあり、マリエスは無事に地走犬を倒していた。
やれやれと息を吐き、自分が命を奪った犬の死骸を見つめて、汗を拭っている。
「少し安易に考えていたようだ」
ギャレンは小さく頷くだけで、ロイズも同じようにするしかない。
「次はもっとうまくやれるぞ」
「お怪我などはございませんか」
「ない。見ていただろう、ジビラン」
これにて迷宮体験は終了、とはいかないようだ。
レアンテはまだ前には出ていない。戦っていない。
真剣な眼差しで立つ少年には、怖れを為している気配などかけらも見られない。
「よし、行くぞ」
犬の死骸は端に寄せ、再び歩き出す。
マリエスは鋭い目で前を見据えたまま、こう呟いた。
「ロイズ、貴重な青い札とやらは、この迷宮には落ちていないのか」
「どの迷宮でも手に入るそうですが、見つかるのは本当に稀なことだそうです」
この迷宮歩きの準備の間に、帰還の術符を手に入れるよう言われていた。
けれど、予行の探索では見つからなかったし、道具屋で売ってもらうこともできなかった。
いくつも店をまわったが、いつでも売られている物ではないと言われるだけだった。
店主の話が本当だったのかはわからない。買うとなると十四万はかかるというが、相場が妥当なのかどうかも判断がつかなかった。
「使えば瞬時に地上へ戻れるのだろう? 見てみたかったな、魔術の札とやらを。青く輝いていると聞いたぞ」
「探したのですが、残念ながら店でも売られていませんでした」
魔術師の協力者がいれば良かったのだろうが、誰も伝手がなく、こちらも諦めざるを得なかった。
王都にも魔術師を名乗る者はいるが、研究をしているだけで、実際には使えないのではないかと囁かれている。
迷宮都市に集う者とは人種が違うと聞くが、この辺りの事情もロイズにはわからない。
今日はとにかく、便利な道具や秘術には頼らずに進むしかない。
わかっているのはこれだけだ。
自分たちの力で進み、自分たちの足で戻るしかない。
進んでいくと今度は兎の群れが現れて、ロイズは三羽を引き受け切り捨てている。
犬よりは肉が柔らかく、マリエスの剣もよく通ったようだ。
高いジャンプからの攻撃に驚いた声をあげていたが、戦闘は早いうちに終わり、また死骸を通路の端に寄せて積んでおく。
「帰り道の目印になりそうだな」
確かに、とロイズは思った。
事前に何日も封鎖していたから、迷宮はきれいに片付き、今は犬と兎の死骸しか落ちていない。
「それとも、帰る時には消えているかな。どうだ、ロイズ」
「清掃の仕組みとやらが動くのは、少なくとも一日は経ってからのようです」
「では、残ったままか。余り気持ちの良い物ではないが、道を間違えた時にすぐに気付けるのなら、悪くはない」
予行の時はごちゃごちゃと様々な物が落ちていた。探索初心者たちが自分たちの戦闘の跡を目印にすることなど、できはしないのだろう。
これはきっと、とてつもなく贅沢な体験に違いない。
迷宮が発見された当初、調査の為に足を踏み入れたという王都の騎士、ラディケン・ウォーグ以来のことなのだとロイズは考え、ふっと笑う。
その後いくつかの戦闘をこなすと、マリエスはレアンテと入れ替わった。
レアンテもまた若さに似合わぬ剣の使い手であり、最初こそ手こずったものの、すぐに魔法生物をうまく仕留められるようになっていった。
休憩を取るべきだとジビランが言い、地図を頼りに相応しい場所へと向かう。
四層目へ続く階段に近い、ちょうどよい「行き止まり」とやらで水を飲み、軽食を取っていく。
ロイズは休憩とは無縁で、見張りの為に通路の先へ目を凝らしているが、少年たちの会話は耳に届いていた。
「探索者というのは、あの死骸から肉や皮をとるそうだな」
ジビランの口から漏れ出した唸り声に、マリエスは笑ったようだった。
少年たちの声ははっきりと聞こえるが、それに応えているであろうギャレンの声は低すぎて聞き取れない。
「もちろん、そんな真似をする気はない。ジビランをこれ以上怖がらせても仕方がないからな」
「それはようございました。体調は如何でしょう。お疲れではありませんか」
「疲れてはいないが、少し息苦しいかもしれないな」
まったくだ、とロイズは思った。
予行の時にはなかった息苦しさを、若い騎士もまた、感じていたから。
前回は人が多く、通路も汚らしくて辟易したのに。
美しく輝き、誰もいない迷宮の方が息苦しく感じられるのは何故なのだろう。
世界から隔絶されたように思えるからなのだろうか。
騎士の護り手たる鍛冶の神に祈りを捧げながら、ロイズは再びこの旅の無事を願っている。
「用を足すのも、そこらで済ませなければならないのか」
その通りであり、用を足す間の見張りもロイズの役目だ。
少年たちのみならず、中年二人にも付き合い、最後は自分も用を足して、重装備で来たら大変だと考える。
探索者たちは迷宮の奥深くに向かう為に、何日も泊りがけで挑むという。
強い敵に備える為に防具は必要だが、着脱の手間や長時間の移動を考えると、重装で固めない方が良いだろう。
「ロイズ、済んだか」
「今行きます」
急かされ慌てて身支度を整え、仕事に戻る。
探索を生業にするのは絶対にやめておこうと考えながら、ロイズは橙色のタイルを蹴って四人の元へ走った。




