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12 Gates City  作者: 澤群キョウ
04_Love will KILL you 〈愛の花は迷宮に咲く〉

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23 すべて、神の手の中

 迷宮の中でなんらかの理由で仲間とはぐれた場合、探索者たちは決断を下さなければならない。

 それはシンプルな二択で、はぐれた者を探すか、探さないか。それだけだ。


「仕方ない、それじゃあここでお開きってワケだな」

 ベリオが声をかけると、就寝中の三人の探索者は即座に身を起こし、手元に武器を手繰り寄せて敵襲に備えた。しかし戦うべき魔法生物の影はない。見張りは一人しかおらず、頭の回転の速いチョークたちはベリオの表情から「何が起きたのか」をすぐに理解し、あっさりこんな結論を出してみせた。

「俺たちはもうちっと奥に行きたいんだがね。『脱出』が使えるんだろ、そっちの神官さんは。だったら、もう何層か一緒に降りてもらえると助かるんだが」


 こんな結論が出たのは当然だ。デルフィはすっかり顔を蒼褪めさせているが、その口から反対意見が述べられる気配はない。

 

 間抜けな役立たずだから。助けたところで報酬は見込めない。姿を消した理由はおそらくなんらかの罠にかかったからで、今頃もう死体に成り果てているかもしれなかった。生き返りには金がかかるし、そもそも消えた探索者を見つけられる可能性は限りなく低い。

 危険を冒してまで探す価値は、フィーディにはないのだ。


「この近くに罠があるのか?」

 ベリオのこんな質問に、チョークは大げさに肩をすくめてみせる。

「さあな。俺たちの地図は、『正しい』階段に続く道を辿るためのものだから」

 

 ここで野営を切り上げるかどうか、チョークとレンドは話し合っているようだ。休息は充分(たっぷり)とはいえないが、動けなくもない。今のうちに進んでもいいのではないかと話す二人の声を聞きながら、ベリオは迷っていた。


 フィーディを助ける理由がない。それは理解している。

 それなのに、彼の間抜けな姿や言動が思い返されてきて、心が揺れている。


 ベリオは自分の荷物袋の横にしゃがみこむと、家から持ち出してきた地図を広げた。紙の右上に振られている番号、「八」を見つけ出して、音を立てないように残りはしまう。

 複雑な造りの「白」の迷宮の地図は、ぱっと見ただけでは自分が何処にいるのかわからない。細く長い迷路が描きこまれた紙の端から端へ、ベリオは目を走らせていく。地図のあちこちに書きこまれているメモを指で追い、そしてある一点に目が留まった。そのすぐ隣の通路には小さな印に注意書きがつけられている。

 落とし穴。通路のあちこちに仕込まれている、迷宮が用意した探索者への「贈り物」だ。

 それに落ちたのではないか。今自分たちがいる位置が地図上のどこなのかハッキリとはわからないが、地形が近い気がする。悲鳴も上げず、痕跡も残さずにフィーディが消えた理由は「落とし穴」に呑み込まれたから。これが最も「あり得る」理由に思える。


「おうおう、驚いたな。お前さんも地図を持っていたとは」

 そう考えるベリオの真上から降り注いだ影と声。振り返るとそこに、地図の残り半分、ベリオの荷物袋に入れておいたはずの束をチョークが持っていた。苦々しい表情で瞳を走らせ、小さく口の中で舌打ちをしては背後のレンドに向けて手を小さく振っている。

「返してくれ」

「なんで黙ってた?」

 地図は取り上げられ、スカウトの瞳には昏い色の炎が宿る。


 うかつだった。精度の高い地図が持つ意味、価値についてはよく承知しているのに。万が一、例えばチョークたちとはぐれてしまった時の為に持ってきた「保険」だったのに。

 抜け目のない探索者たちのすぐ傍で広げるなんて。すぐにしまえば見つからないだろうなんて、なんと安易な考えだったか。そう後悔する暇もない。

「いや、あんたたちがもっと、正確なものを持っていると言っていたから」

 必要ないと思っていた、とベリオは答えた。

 チョークはニヤリと笑って、首をゆっくり、横に振る。

「これはニーロのもんだろ。お前の相棒の、無彩の魔術師の地図だ」


 額にじっとりとした汗をたらしながらベリオは小さく口の端で笑った。そんな通り名をつけられているなんて初耳だったし、ベリオに詰め寄るチョークのために、レンドが黙って見張りを引き受けている様が少しおかしく感じられたからだ。

「どうかな」

 その笑みをどう捉えたのか、チョークの眉間には大きな皺が寄る。そして口元を大きく歪ませると、嫌な臭いの息をベリオに吹きかけながら言った。

「知ってるぜ、お前が有名人(ニーロ)についてまわって大きな顔をしていることくらい」

 大した実力もないくせに。瞳の奥に浮かぶ侮蔑の色に、ベリオの指先が揺れる。

「これはあの生意気な女盗賊の作った地図だろう。この字には見覚えがあるぜ」


 ニーロはラディケンヴィルスでは名の知れた魔術師。幼い頃から迷宮に潜り、あらゆる魔術を使いこなす天才だと、大勢がその名を知っている。

 そのニーロを守り、仲間に擁して探索を続けた生ける伝説のカッカー。その妻で凄腕のスカウトだったヴァージ、剣士のマリートの名も、よほどの初心者でなければ必ず一度は耳にしているだろう。

 彼らの華々しい経歴とそれぞれの卓越した腕についてのみならず、強い繋がりについてもチョークはよく心得ていたらしい。もう探索者は引退したが、ヴァージはニーロと協力関係にある。何度も何度も、すべての色の迷宮に潜ってはその謎を解き明かそうとしてきたことを、知っているのだ。


「リーダーがいなくなっちまったんだから、俺らはこれで解散だ。報酬はこれでいいぜ、ベリオ」

 地図の束をひらひらと振りながらチョークは笑う。

 顔を歪めたまま、ベリオは動けない。チョークのナイフ捌きの鋭さを知っているし、後ろに控えるレンドの丸太のような腕が振り下ろす分厚い両手剣の威力も目にしてきた。


 ニーロは怒るだろうか。大切な迷宮の地図を奪われたと知ったらどんな表情をするだろう。勝手に持ち出したことを責めるだろうか?


「ありがとうよ」

 息苦しさで詰まったベリオの背中を叩くと、チョークは下卑た笑い声をあげながら去って行った。



「ベリオ、良かったんですか」

 デルフィの悲しげな顔に救われた気分になりながら、ベリオは苦い思いを飲み込んで答えた。うかつだったよと。

「あいつらがいなくなってから確認すれば良かった」


 心から信頼し合える仲間なんてものがこの迷宮都市に存在するのかはわからない。

 ほんの少しだけ利害が一致した程度の誰かの前で「地図」を広げたのは、完全にベリオの落ち度だった。


「あんたみたいなお人よしばっかりなら、こんな目には遭わずに済むんだろうな」

 だがお人よしたちは迷宮の中で揃って命を落とすだろう。そう考えて、ベリオは顔をくしゃくしゃに歪めて笑った。その笑みの理由がわからずデルフィは目を丸く開いたが、すぐに微笑みを浮かべてたった一人まで減ってしまった「仲間」にこう確認をした。

「フィーディさんを助けたいのでしょう?」


 仲間とはぐれた時、再会するために最も重要なのは時間だ。かかった罠が「確実に命を失うもの」ならば仕方ないが、そうでなかった場合。壁が回転して通路の向こうに放り出されたり、一層下に落とされるような罠ならば、すぐに追えば「救える可能性」がある。

「はっきりと位置が確認できたわけじゃあないが、落とし穴が近くにあるようだ」

 何層落ちたのか。時には四層も落とされて探索者を砕く凶悪な牙もあるという。だが「白」の傾向からいって、そこまで容赦のない罠があるとも思えない。


「フィーディはどうしようもないヤツだが」

 首をひねり、感傷的になっている自分に可笑しさを覚えながらぼそぼそと呟いていく。

「とてもしぶといと思うんだ」

 落ちた先でぶるぶる震えながら、親友(ベリオ)が来るのを待っているだろう。たいした怪我もしていないくせに、痛い痛いと泣いているに違いない。

「では行ってみましょう。罠の位置は確認できたんですか?」

「多分だが、右の通路の奥だと思う」


 二人は静かに、白い通路を進んでいく。

 頼りになる力自慢の戦士はいない。罠を見破るスカウトも消えた。

 熟練者とはいえない剣士と神官の二人旅はひどく心許ないものだ。しかし「脱出」は使えるし、「帰還の術符」もある。切り札をいつでも使えるように腰を低くして構えながら、二人は進んだ。


 罠にかかって消えた誰かを探すのは重労働で、普通の探索者ならばやらない。たいした罠ではないとわかっているのなら、正確な地図があるのなら少しくらいは試してもいい「救出」だが、ベリオとデルフィにはそれを知る術がない。


  

 通路の奥を右に曲がって、隣の真っ白い道を進む。ベリオは腰の道具袋を開くと、小さな石をいくつか取り出してその奥へと投げた。石はパラパラと落ちて転がり、すぐに静寂が取り戻される。

 石は何にも当たらず、ただ通路の上に転がるだけだ。

 しかし、ただひたすらに白いだけの通路に影を落とし、探索者たちに「気付き」を与える。

「そこの壁、何かありますね」

 通路の端に落ちた黒い染みに導かれて、デルフィは短い通路の途中でしゃがみこんだ。手を伸ばしてそっと床を叩くと、通路の左側の一部が音もなく動いて落ちた小石を飲み込み、すぐに元通りになった。

「間違いないな」

 一瞬だけ開いた口の中から漂ってきたのは、小便の臭い。

「きっと最悪の姿で待っているぞ、あいつは」

 突然の不幸に驚き、漏らしながら落ちて行ったのだろう。涙も鼻水もよだれも、ありとあらゆる体液をふりまきながら助けを待っているに違いない、とベリオは苦い顔で笑う。

「一層分の落とし穴のように感じられました。『白』でなければもう少し、わかりやすいのでしょうが」

 ただただ白いばかりの迷宮は眩く、見ただけでは距離が測りにくい。落とし穴が開いた隙にのぞきこんだ景色はやはり「白」だったのだが、小石がすぐに床に跳ね返されたようにデルフィは思った。


 もう一度壁を叩き、迷宮の口を開けさせる。小さな小さな黒い染みが白い通路に落ちているのが見える。しかし、フィーディの姿はなさそうだった。近くにいるのならば小石の落ちる音に気が付くだろうに、彼の声は聞こえず、影は見えない。


「ここから降りてみましょうか」

「小心者だと思っていたのに、案外大胆なんだな」

 落とし穴を使った下層への移動は、とても有効な迷宮の探索方法だ。しかし、それは「下がどのような状態なのかわかっている」場合に限られる。

 そこに更なる罠が待ち受けている可能性はいくらでもあるのだから。

「下には何もありませんでした」

 そう、何もない。血の跡や、引きちぎられた衣服や装備の類も落ちていないようだった。すくなくとも、そこに即、死に繋がるような仕掛けはなさそうではある。

「落とし穴があるかもしれないけどな」

 ベリオの言葉に、デルフィは何故か微笑みを浮かべて頷いた。

「いいのか? 俺に付き合う義理はない。今すぐ一人で脱出してくれても構わないぜ」


 食堂でたまたま合席し、ほんの少し話しただけの仲だ。ちょうど神官を探していて、手が空いていたからともに来ただけの、本当に何の繋がりもない「仲間(パーティ)」が命を懸けてくれる理由とは何か? ベリオにはわからない。


「いいのです。すぐに行けば助けられる可能性は上がりますから」

 デルフィもまた、わからない。ベリオがフィーディを救いたいと思う理由が。こんな感傷は迷宮探索に最も不要で、足を引っ張るだけのものなのに。彼はそれを知っているはずなのに、今は何故か引きずられることを良しとしている。


「わかった。デルフィ、いざという時は『術符』を使う。どんな状態になろうとも必ず、共に帰還する」

 ベリオはそう言うと、腰の袋から青い札を取り出して振ってみせた。それを再びしまい、小さな荷物入れをぽんぽんと叩く。


 そして二人は、『白』に仕掛けられた罠へと飛び込んだ。


 「白」の迷宮の九層目に人の姿はない。着地した二人が立てた音以外には何も聞こえず、動くものもない。

「あいつなら動かないと思うんだが」

「追われたのかもしれませんよ、ベリオ」

 デルフィの冷静な意見に、なるほどとベリオは頷いた。落ちたところで魔法生物に出くわしでもしたら、慌てて逃げ出すだろう。


 白い通路には誰の姿もなかったが、かすかに臭いが漂っていた。ベリオが考えた通り、フィーディはだらしない姿で落ちていったらしく、目を凝らすと彼の残した「落し物」が点々と見て取れた。

 辺りを警戒しつつ、悪臭を放つ足跡を追っていく。少しずつ薄れていく小さな小さな水たまりを追って角を曲がり、そこで二匹の青い蜥蜴と遭遇する。

 長い舌をちろちろと揺らす青蜥蜴(ザルタール)を剣で突き刺して倒し、ベリオは額の汗を拭った。頼りになる誰かのいない戦いは久しぶりで、よく勝てたものだという思いが心の隅から顔を出している。振り返った先にいるデルフィは明らかに安堵を覚えた様子で、成り行きで二人きりになってしまったパートナーの実力がそれなりだとわかってほっとしたのだろう。

 この程度なら戦える。自分に言い聞かせながら、ベリオはフィーディの残した痕跡を再び探した。戦いが起きた通路はすぐに行き止まりで、迷惑な迷子の姿は見えない。

「ベリオ、また落とし穴があるかもしれません」

 確認しましょうと言って、デルフィは蜥蜴の尾を通路の先に向かって投げた。一本目は白い通路に赤い飛沫を撒き散らしただけだったが、二本目が落ちたあたりの床はぐらりと揺れた。 

 近づいてそっと床を叩くと、やはりそこにも落とし穴があった。今度は見えた。視界の端に入ったのは見覚えのある古びた靴の先で、角度からして持ち主は「倒れて」いるようだ。

 もう一度、罠を動かして下の層を覗く。はっきりとは見えない。動く影は確認できない。靴の先は動かない。


 フィーディを見失ってから経った時間がどのくらいか、ベリオは目を閉じる。

 しかしすぐに意を決して目を開き、デルフィに合図を送る。

 青白い顔の神官は頷き、二人は再び、「白」の開けた口に飛び込んでいく。


 そこに怖れていた魔法生物の姿はなかった。

 探していた尋ね人の姿はあったが、首はあらぬ方向に曲がっており、ちぎれかけて壁に巨大な赤い花を咲かせている。

 鼻をつく血の臭いも、誰かが無様に命を失って倒れている姿も、すべて「迷宮の当たり前」だ。何度も不快な思いをしたし、もっと酷い光景はいくらでも目の当たりにしてきた。


 何でもないのだ。探索者にとって、それは。何でもない光景だと思えなければ、探索者などやっていけないのだから。


 しかし、ベリオは手に持っていた剣を落とした。

 デルフィはがっくりとうなだれ、膝をつき、哀れなリーダーの手を取る。


 フィーディを襲ったのは生物型ではない敵だったようで、食われた跡は残っていなかった。魔法生物には地上の動物をかたどったものが多く、そういった型は大抵、死体を食い荒らす。そうではない、泥や鉱石、粘液のような何かで出来たものにやられたのだろう。首を無理やりねじ切られたらしく、フィーディの顔には強烈な絶望と恐怖が貼りつけられている。


 つれて帰るかどうか、ベリオは迷っていた。金は払える。しかしそれは、ニーロのものだ。確かにベリオが報酬として受け取ったものではあるが、働きに見合っていない。ただ、ついていっただけの実力の伴わない「従者」に、見合っていないのだ。

 

 どうして自分がこんなにも感傷的な気分でいるのかわからず、ベリオは苛立っていた。

 不安と、焦燥と、空虚。混じり合って、ベリオの立つ白い床を揺らす。

 油断してはならない、迷宮の中なのだから。視線を走らせるが、いつものように動かない。よく休んでいないから。ちっとも集中できずにいる。これからどうしたらいいのか、わからないから。

 

 歯をきりきりと鳴らし、ベリオは頭を激しく振った。悩んでいられる状況ではない。探索者が身の振り方を考えるのは、迷宮を出てからにしなくてはならない。ぼうっとしていてはデルフィまで巻き込んでしまう。神官は神への祈りを捧げているのか、フィーディの手を握ったままぶつぶつと呟いている。

 そして、顔をあげたベリオは気が付いた。倒れた間抜けのすぐそばに何かが落ちている。壁にむけてぶちまけられた赤の中に、何かが紛れている。そばに寄ってみると、フィーディの体に隠れるようにしてそれは咲いていた。血の海に浮かび上がっている形はまるで花のようで、ベリオはそれを取り上げると右の袖で表面をそっと拭いていく。

「ベリオ」

 背後から声をかけられて振り返り、ベリオは顔色をますます悪くした神官に向かって頷いた。

「もう」

 声が途切れてしまう。もう戻ろう、付き合ってくれて感謝している。そう伝えるつもりだったのに、驚きの余り声が出ない。


 フィーディの傷はふさがり、瞬きをしている。どう見ても死んでいたはずの男が、手をぴくぴくと動かしている。

「生きていたのか?」

 「まさか」と呟き、ベリオは顔をひきつらせたまま笑った。だが、どうやら「そうだった」らしい。背後にある巨大な赤い花は消えておらず、傷を負っていたのは確かだ。ぎりぎり、風前の灯だった命を奇跡的に救われたのか。とんだ幸運の持ち主に、やはり笑うしかない。

「大丈夫か」

 フィーディはゆっくりと目を開け、呆然としている。

 その隣で、デルフィはふらふらと倒れ、息を荒くしている。


 あれ程の深い傷を癒したのだから、神官の力を使い果たしたのだろう。そう理解して、ベリオは腰の皮袋に手をかけた。もたもたしていられる場合ではない。フィーディを襲ったなにかがまたやって来る可能性はいくらでもある。


 取り出した「帰還の術符」に金色の文字が浮かび上がっていく。


「愛しき地上へ、あたたかな命と、信じる仲間と共に」

 

 光が満ちて、世界の色は「白」から「黄金」へ塗り替えられていく。

 耳に届き始める音はない。辺りはまだ暗く、夜が明ける少し前のようだった。

 帰還の門で客を待ち受ける荷運び人の姿はなく、仕方なくベリオは迷宮のすぐそばにある宿に二人を担ぎ込んだ。



 自分が命を落としかけていたことなど忘れたかのように、目を覚ましたフィーディは上機嫌だった。迷宮の中ではない暖かい場所、ベッドの中で目覚める至福に酔い、更にはベリオがうとうとしていた隙に、テーブルの上に置かれた白晶石の華(ビーネレース)に気が付いたからだ。


 制止する声は虚しく部屋の中に響いて、残ったのは疲労困憊のベリオとデルフィだけ。


 バタバタと去っていくやかましい足音で神官も目を覚まし、呆れた顔で腕を組むベリオを見てすべてを悟ったようだ。

「行ってしまったんですか?」

「仕方ない。もともと報酬なんか当てにできない仕事だったからな。むしろ見込みのない愛の告白につき合わされなくて良かったよ」

 デルフィへの報酬は自分が払うとベリオが話すと、人の好い神官は微笑みを浮かべて首を振った。

「いいんです、僕も期待はしていませんでしたから」

 ベリオも小さく笑うと水差しを傾けて、二つ並んだ器に注いでいった。

 一方をデルフィに渡し、もう一方を一気に飲み干して、大きく息を吐き出していく。

「どうして付き合ってくれたんだ?」

 無茶苦茶な探索だったのに。ベリオの苦い顔に、デルフィはまた微笑む。

「そうですね」

 

 これは僕の贖罪なのです。


 絞り出すようなデルフィの声を、ベリオは口を結んだまま受け止めていく。

「ずっとジマシュと共に探索をしてきました。彼は……、彼は、非道な男なのです。探索者などどうせ迷宮で命を散らすものだからと、大勢を利用し、騙してきました」


 直接手は下さないが、そうなるように仕向け、金品を奪う。罠を利用してひっかけ、善意の第三者を装って謝礼をむしり取る。迷宮は利用するもの。それがジマシュの考えで、デルフィも付き合わされてきた。


「最初は違っていたのです。この街に来たばかりの頃、僕たちはまだ真っ当な探索者でした。でも、いつの間にか彼の心は歪んでしまった。苦労せずに多くを得る方法はこうなのだと、人を騙すようになってしまいました。それどころか最近では、何かを得るためではなく、誰かを苦しめるためにわざわざ嘘をついているのです。街へやってきたばかりの新参たちに、誤った情報を流しているのだと話していて」

 どうやらフェリクスとアデルミラを「黄」に導いたのは「この」ジマシュで間違いないらしい。それにしてもいやらしい奴がいたものだと、ベリオは不愉快な気分で顔を歪めた。

「何度も止めましたが、僕は無力でした。神に仕え、努力してきたはずなのに、彼の心には何一つ響かない。それどころか悪事の片棒を担いで、ついこの間も……」


 何があったのか、デルフィからそれ以上語られることはなかった。蒼白い顔の神官はそこで唇を強く結んで、貝のように黙り込んで震えている。


「なあデルフィ、俺は、スカスカなんだ」

 小刻みに揺れる背中に手を置き、ベリオも胸の内を吐き出していく。

「街で一番の魔術師に、たまたま出会った。『藍』の中でだよ。調子に乗って深く潜り込んで出られなくなった時にあいつが来たんだ。俺は仲間を置いてその後についていった。一緒に探索するようになって、危険な場所にも散々行った。あいつの後姿をずっと見てきた」

 だけど、仲間じゃないんだ。

 言葉は藍色に染まって、質素な客室の床に落ちていく。板と板の細い隙間の暗がりの中に吸い込まれて、消えていく。

「俺はもう一度やり直すつもりだ。ちゃんと最初から、仲間を探して、『橙』から順番に、少しずつ深く深く潜っていって」

 それで、探索者になろうと思う。語り終えたベリオは、清々しい笑みを浮かべていた。

「どうだ、一緒に。悪いが金はない。持っていると言ったが、置いてきちまったからな。今更取りに行くわけにもいかない。最初から、やり直すんだから」


 デルフィの脳裏に過ぎったのは悪魔のような幼馴染の顔だ。

 彼に見つからずにいられるだろうか。彼は追ってくるだろうか。街は狭く、しかし、とても広い。迷宮に人生を賭けようとする命知らずは大勢いて、名も知らぬ探索者など気にも留めないだろう。


「いいんですか、ベリオ」

「ああ。デルフィはどうする? もしもそのジマシュってやつが恐ろしいなら、どこか遠くの街へ行った方がいいかな」

 

 客室の窓から入る光はとても控え目で、部屋の中は暗い。時間は昼だが、安い宿屋街は店がひしめくように建っていて、太陽の恵みは部屋の中まで入って来なかった。

 しかし、窓のそばに置かれているベリオの剣に反射した光がふっと、ほんの一瞬だけデルフィの視界を白く染めた。


 ただそれだけだったのに、心を覆っていた不安が霧散して消えていく。


 悩んで苦しげなベリオを救えればと思っていた。

 一人きりになってしまったフィーディを救いたかった。

 ジマシュに騙されて死んでいった哀れな親子の姿が目の裏に焼き付いて離れなくて、苦しくてたまらなかった。どれだけ神殿で祈りを捧げても消えない光景を打ち消すために、他の誰かを救って行こうとデルフィは心に決めていた。


 だから、分の悪い賭けに乗った。あれだけ文句を言っておきながらフィーディを救おうとしているベリオに、光を見た。


 そしてとうとう、神の手は伸びてきてデルフィを救ったのだ。

 あの時、「白」の迷宮で伸びてきた神の指先。

 それはフィーディを救った。だが、デルフィをも掬い上げたに違いない。思わず息を呑み、神官は祈りの形に指を組んだ。暗い天井を見上げ感謝の言葉を心の中で紡いで、デルフィはまっすぐに新しい「仲間」を見据える。


「いいえ、ベリオ。僕はあなたと共に行きます。過去は取り戻せませんが、やり直すことはできるはずですよね」

 

 力に満ちあふれた神官の表情に、ベリオは驚いていた。

 しかしそれは、むしろ歓迎すべきものだ。迷宮都市では、信じられる、力のある「仲間」こそが最も強い武器になるのだから。


 二人はお互いの手を強く握ると、階下の食堂でこの後についての話し合いを早速始めた。

 

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