220 夜明け前(中)
目的地の貸家に辿り着いたが、扉を何度叩いても応答はない。
人の気配もしないので、留守にしているのだろう。
貸家の住人たちがよく行くであろう場所に、心当たりがある。
ヘイリーは少しだけ迷ったものの、心を決めて、カッカーの屋敷を目指して歩き出した。
少し前のこと。
管理人のギアノを強く問い詰めた日を思い出し、胸の奥がじわりと疼く。
ヌエルがマージのもとにいると知っていたのに、話してくれなかったのは何故なのか。
あの時は感情的になりすぎていた。
ギアノは単に、良い友人であるマージを思いやっていただけ。
今ならこんな風に反省できるのに。
ガランに促されて謝ってはいるのだが、申し訳なさは燻って消えない。
とはいえ、こんなことくらいで足を向けないなんて、大人げない。
小競り合いを心の中で続ける間に、樹木の神殿が見えてくる。
ギアノ・グリアドのことだから、きっと笑顔で迎えてくれるだろう。
こんな願望で足を進めて、屋敷の扉を叩いて開ける。
すると、廊下の先には美しい若者の姿があった。
サークリュード・ルシオは掃除をしている最中のようで、モップ片手に客の姿を見つめている。
「あ、ダング調査官、こんにちは」
「やあ」
「ええとね、ギアノは今は買い出しに行ってて」
「いや、君たちを探していた」
「俺たち? レテウスになにか用なの」
シュヴァルに会いに来たなどと、考えてもいないのだろう。
ヘイリーは探し人の名を告げようとしたが、クリュの返答の方が早かった。
「今、迷宮都市にはいないんだ。シュヴァルの付き添いでちょっと北の方に行ってて」
「レテウス様と、シュヴァルが?」
「うん」
「北の方とは、一体どこへ?」
「この間、お客さんを案内してきてくれたでしょ」
キアルモの領主代行、ガルジアン・オーレール。
やって来た男はそう名乗り、レテウス・バロットの居場所を知りたいと頼んで来た。
「では、キアルモへ行ったのか」
ヘイリーの台詞の半分は、大きな足音にかき消されていただろう。
「サークリュード、どうした。誰か来たのか」
クリュの背後から、神官衣をまとった男が現れたからだ。
背は低いがかっしりとした体型で、足音がやたらと大きい。
現れた神官は何故だか客に鋭い瞳を向け、偉そうに腕を組んでいる。
「ケルディ、ややこしくなるから口を挟まないで」
「どうしてそんなことを言う」
ケルディと呼ばれた男はヘイリーの姿を上から下まで見つめて、制服についた紋章に気付いたようだ。
「迷宮調査団の一員、ヘイリー・ダングだ」
「おお、噂に聞く王都の迷宮調査団か。そうかそうか、私の名はケルディ・ボルティム・パンラ!」
「パンラとは、聖なる岸壁の?」
「ああ、もう。ダング調査官、あっちで話そう。ケルディは掃除をしておいて」
なにか言おうとしたケルディに、クリュはびしゃりと言い放った。
「叔父上の屋敷を綺麗にするのも、大事な役目だろ!」
そのまま食堂へ連れ込まれ、隅の席に腰かけて。
クリュも向かいの椅子を引いて座り、肩をすくめてみせた。
「ごめんね、やかましくて。ケルディは樹木の神官で、カッカー様の遠い親戚なんだ。血の繋がりはまったくないんだけど、憧れてるとかで勝手にパンラを名乗ってる」
「……そうか」
「ギアノが出掛けると、すぐに来るんだよ」
美青年は心底面倒そうにため息をつき、悪い奴じゃないんだけどねと呟いている。
すぐに先ほどの会話について思い出したようで、改めて同居人たちの行方を教えてくれた。
「ダング調査官の言った通り、二人はキアルモに行っているよ」
「ガルジアン・オーレールのもとへ?」
「うん……、正しくはあの人のお父さんに会う為に行ったんだ。お見舞いするために」
どんな事情があるのか、問おうとした口を意識して閉じた。
きっと個人的な理由があるに違いなく、今は留守だと理解して終わるしかない。
「ねえ、あの、エルディオはどうしてる? まだ調査団にいるの」
こんな問いを投げかけられて、ヘイリーは頷いて答えた。
「ああ、彼は口を閉ざしたままで、なんの事情も聞けていないから」
「怪我の具合、少しは良くなった?」
自分を殺そうとした男の容態について聞くのは、何故なのだろう。
ヘイリーは不思議に思いながらも、答えていく。
「神官に癒してもらったので、多少は良くなっただろう。まだ、自由に歩き回れる状態ではないんだが」
「そうなんだ」
「体の痛みは軽くなったと思う」
「そっか……。なんで俺にあんなことしたかは、話してないんだね」
美しい青年は視線を外へ向けて、切なげな表情を浮かべている。
窓から入る光を受けて輝く様子に、ヘイリーは子供の頃、母に連れられて流水の神殿を訪ねた時のことを思い出していた。
王都の流水の神殿の奥の小部屋には、大きな絵がかけられていた。
これは大地の女神を描いたものだと母は言い、きれいだねと、うっとりした顔で祈りを捧げていた。
女神の髪は長く、ゆるく編んであって、クリュのように短くはなかったが。
青く輝く瞳の色も思い出の中で見た気がして、調査団員は母を思い出し、元気でいるだろうかと考えている。
「君はジマシュ・カレートなる男と会ったことはあるのかな」
シュヴァルに話を聞いてみたかったが、いないのならば仕方がない。
このまま帰っても良かったが、なにか聞いているのではないかと考え、ヘイリーはクリュを見つめた。
「ううん、ないよ。特徴くらいは聞いているけど」
「そうか」
「その人の話をレテウスに聞きたかったの?」
つい、首を横に振ってしまった。
では誰に聞きたいのかとクリュが思うのは当たり前で、ぱっちりと開いた青い瞳に、貸家を訪ねた理由を話していく。
「シュヴァルにか。そりゃあそうだよね、レテウスに聞いても多分なんにも覚えていないだろうし」
「そう思うのか」
「だって、ぼんやりしてるもん。ジマシュって男のことは、シュヴァルが警戒しろって言うの、不思議だったんだけどね。ちらっと見ただけでそんなことわかるはずないって、疑ってたから」
バロット家の三男坊の散々な言われように、笑いそうになってしまう。
ヘイリーはぎりぎりのところで堪えて、新たに湧き出した疑問を投げかけていった。
「今は信じているのかな」
クリュの瞳はぱたぱたと瞬き、きらりと光っている。
「シュヴァルは本当に鋭いからね。この間、ウィルフレドさんって人が来たんだ。シュヴァルのお見舞いに来てくれて、どうして襲われたかわかるかって聞かれてて。もちろん、理由がわかるわけないんだけどさ。あのシンマって男が最初に俺をじろじろ見て、その後にシュヴァルに声をかけるなんておかしいって話してたんだ」
「確かに、気になる話だった」
「調査官さんもそう思うんだね。シュヴァルは、シンマって男は俺とレテウスのことは知っていたんじゃないかって言ってた。俺とレテウスがいるのはわかっていたから、仲間の可能性があるのはシュヴァルだけって考えたんじゃないかって」
「仲間の可能性……?」
「本当に狙われているのは、自分じゃないんだとも言ってたかな」
クリュは斜め上を見上げて、シュヴァル少年について更に語っていく。
「シュヴァルがジマシュって男を警戒するのは、似たような悪い奴を知っていたからなんだ。家族も仲間も、多分、育ったところも全部、めちゃくちゃにされたらしくてさ」
蛇の目をした男にすべて奪われ、その冷酷さを目の当たりにしていたから、ジマシュの本性にも気付いたのだと思う。
クリュに聞かされた話は随分と悲惨な内容で、ヘイリーは心を痛めていた。
「あの子に、そんな過去があったのだな」
キアルモからやって来た領主代行の男は、シュヴァルと似た顔をしていた。
そっくりではなかったが、血縁なのではと思わせる面立ちだったとヘイリーは思う。
複雑な身の上なのだろうと考える調査団員に、クリュはまた瞳を向けている。
「そんな経験がなくても、あの子なら気付いてたかもしれないけどね。全然普通の十一歳じゃないから」
「確かに、あの記憶力には驚かされたよ」
「ね。なんでも覚えてるんだ、見たものも、聞いたことも。それにねえ、レテウスのこともすぐに見抜いたんだよ。出会ってすぐに、ぼんやりしてて、生活力がなさそうだってわかってた」
酷い言われようにまた笑いそうになり、ヘイリーは耐える。
「君もそんな風に思っていそうだが」
「もしかして駄目かな。こういうこと言うと怒られちゃう?」
「王都ではやめておいた方がいい」
クリュは舌を出し、誰にも言わないでねと囁いてくる。
てへへと笑った顔は愛らしく、路上の事件についてガランが痴話喧嘩を疑った理由がよくわかった。
「でも、仕方ないと思わない? レテウスって頭がガチガチなんだもん」
「レテウス様の頭が固いのも、仕方がないのではないかな」
「あはは、そんなこと言うの。……俺、シュヴァルが蛇の目の話をした時に、本当かなって疑ってたんだけどさ。レテウスだったら簡単に騙せるだろうなとも思ったんだ」
世間的に正しいことしか受け止められない男だから、とクリュは言う。
裏に企みが潜んでいるなんて夢にも思わない、まっとうな人間だから、と。
「シュヴァルに鍛えられて、だいぶ柔軟になってきたけどね」
「そうか」
「真面目だし、責任感もあって、いい奴なのにね。レテウスがぼんやりしていても幸せに暮らせるのって、すごくいいことなんじゃないかなあ」
その通りだと、ヘイリーは思う。
誰も彼も平穏に暮らせるのが一番良い。
すべての人々がそう願ってくれればいいのに、何故だか他人を陥れる者はいなくならず、世の中を乱してほくそ笑んでいる。
「クリュ、お客さんが来てるって?」
食堂の入り口から声をかけてきたのは、ギアノだった。
来客が誰かはすぐにわかって、管理人は小さく頭を下げている。
厨房の片づけを頼まれて、クリュは渋々去って行った。
かわりにギアノが目の前にやって来て、ゆっくりと腰を下ろしていく。
「ヘイリーさん……。あの、毎日お疲れ様です」
これまでで一番堅苦しい態度に、ヘイリーは思わず苦笑いを漏らしていた。
「君こそ相変わらずよく働いているんだろう。今日はシュヴァル少年に話を聞きたくて、ここにいるのではないかと思って来たんだ」
「そうでしたか、シュヴァルに」
「今は不在だと聞いた」
「ええ、旅が長引いているみたいで」
会話が途切れて、気まずい沈黙が訪れる。
屋敷への道の間に考えていたことを思い出し、ヘイリーは小さく頭を下げていった。
「ギアノ・グリアド。先日は済まなかった。あんな風に、君を責めるような言い方をして」
「いえ、いえ。そんな。いいんです。仕方がなかったでしょうから」
「デルフィ・カージンが調査団へ来たよ」
「そうですか。それは、良かった……」
ギアノはそう答えると、なにか飲む物を用意すると言って厨房へ去って行った。
ひとりになった間に、心にケリをつけていく。
それはどうやら、ギアノも同じだったようだ。
「デルフィに会っていたこと、黙っていてすみませんでした」
香りのよいお茶を差し出し、ギアノは頭を下げている。
「無彩の魔術師と共に会ったそうだな」
「デルフィはニーロに手紙を渡していたらしいんです。会って話したいと伝えられたそうで、俺にも声がかかって」
「魔術師ニーロから?」
「はい。ヌエルの件もそうですけど、デルフィについても報せるべきでしたよね」
「何故教えてくれなかったのかな」
心を平静に保ちながら、問いかける。
ギアノは迷ったそぶりを見せたが、答えを示してくれた。
「ヘイリーさんが最初に俺を訪ねてきた後、考えたんです。あなたの妹を知らなかったけれど、俺とデルフィを知っている可能性がある女性が一人だけいる、デルフィたちと組んでいたドーンなのかもしれないと」
そんなに早くに勘付いていたのかと驚きつつ、ヘイリーは頷いている。
ギアノの話は続き、「橙」の二十一層で見つかる腕輪や、チェニーの持っていた剣についてなど、周囲に話を聞いてまわっていたことが明かされていく。
「最後に話を聞きに行ったのが、ニーロです。あの時は単純に、迷宮の調査に一緒に行ったと聞いたから、確認してみようと思っただけだったんですけど。その時に、道具屋でチェニー・ダングに会ったと聞きました。剣の売却の話から、もともとはニーロのものだったということもわかりました」
ニーロの家から持ち出された剣、神殿の前で声をかけてきた、ひょろ長い不審な男。
いくつもの会話の流れの果てに、デルフィ・カージンの名前が出て来たとギアノは話す。
「その時、ジマシュ・カレートについて教えられたんです」
「……私が君を訪ねたばかりの頃に?」
一瞬、耳が痛くなる程の沈黙が流れた。
ギアノは観念したように「そうです」と、小さな声で答えている。
ずっと前に、既に知っていたのだと。
「すみません、本当に。ニーロに口止めをされていて」
「口止めだと?」
「あなたには伝えないでおいてほしいと」
「どうして」
つい、言葉が強くなってしまう。
憤りが抑えきれなくて、体が震えていた。
「私にだけ何故隠すんだ」
「違うんです。ヘイリーさんに隠したいわけじゃないと思うんだ。ニーロは……、ジマシュ・カレートは危険な男で、狙った相手を苦しめる為に、容赦なく仕掛けて来るような奴なんだと言っていて」
この言葉の意味について考えたと、ギアノは言う。
視線を彷徨わせ、どう伝えるか決めたのだろう。
まっすぐにヘイリーを見つめて、再び口を開いている。
「デルフィと会った時、ニーロはあなたの妹について、利用されたんだと話してました。ジマシュ・カレートは他人の弱みを握って利用し尽くすような男だからと」
管理人の青年は苦しげに、呻くように話している。
ダンティンが巻き込まれて死んだことにも、きっと理由があるのだと。
「あなたの妹には、必要以上の苦しみが降り注いだんだと思っています。ベリオたちは罠にかけられたようだけど、チェニー・ダングが望んだわけじゃなくて、そうするように仕向けられたんじゃないのかな」
心が渦に飲まれていく。
憤りや悲しみ、やるせなさに、失望も交えて、闇の中に消えていこうとしている。
そんなヘイリーの瞳に、ひとかけらの光が映った。
ギアノは体を震わせ、目に涙を浮かべているようだ。
彼は友人を失った。共に探索に挑もうと約束していた、ベリオ・アッジを。
命を奪ったのは目の前の男の妹だというのに、ギアノは今、祈りを捧げている。
雲の神に仕える者の指の形を作って、苦しみが晴れるようにと、ダング家の兄妹の為に。
「ニーロが言いたいのは、そういうことなんだと思います。ジマシュ・カレートは紳士的で魅力的な男だけど、同じ人間だと思わない方がいいとも話していて」
「……そこまで言っていたのか?」
ギアノは頷き、息を吐いている。
「絶対に近付かないよう言われました。ニーロがそこまで言うんだから、本当に危険な相手なんだと思います。ヘイリーさんに話さないよう言ったのは、隠したいからじゃなくて、守る為だったんじゃないかな」
しばらくの沈黙の後に感謝だけ伝えて、ヘイリーは調査団へと戻った。
なにをする気も起きなくて、部屋にこもって一人で物思いに耽っている。
夕暮れ時、腹の虫が鳴いている。
昼食をとるのを忘れていたと気付いたが、足が動かない。
窓から差し込む橙色は不快でたまらないが、目を閉じても眩しくて、逃れられそうにない。
今日は有用な話が聞けた。
忘れないうちに紙に記して、資料にして残しておいた方がいい。
頭ではそう考えているのに、ベッドに横たわったまま、ため息ばかりついている。
「ダング調査官」
扉の向こうから声がして、のろのろと起き上がった。
声の主は下働きのキャルデンだろう。ガランと同じ部屋で暮らしているからか、ヘイリーにも気を遣ってくれている。
「お客様がいらしています」
「今行く」
立ち上がって、放り出していた制服を身に纏い、ようやく廊下へ出る。
待っていたのはやはりキャルデンで、緊張した面持ちで客の名を告げた。
「無彩の魔術師が下で、お待ちです」
急いで階段を駆け下り、応接室へと向かった。
中には確かに、灰色の髪の魔術師が居て、ヘイリーに背を向けて座っている。
「待たせてしまって、申し訳ない」
向かいの椅子に腰かけると、ニーロが静かに頷く様が見えた。
「いえ、突然来たのはこちらです」
「ノーアン・パルトから聞いたのかな」
「ええ。あなたが来たと伝えられました」
灰色の瞳に、きらりと光が差したように見えた。
本当かどうかはわからないが、知性に満ちた魔術師の目が輝いたように、ヘイリーは思っていた。
「大切な話をしなければならないようなので」
「……教えてもらえるのかな」
ニーロは頷き、穏やかに話を始めていった。
「まずは、ギアノに口止めをしていたことを謝っておきましょう」
「何故口止めをしたのかは?」
「あなたがどのような人物かわからなかったからです。妹と同じような感情的な性格だと困ると考えていました」
冷静な口調に、ヘイリーは思わず目を閉じている。
キーレイにチェニーについて尋ねた時も、含みのある言い方をされたはずだ。
「もう話してもらえると考えていいのかな」
「そうですね。あなたは既にジマシュ・カレートに辿り着いているようですし」
「君もあの男を探っているのか?」
ええ、とニーロは答えている。
涼しげな顔で、小さな声で。
「けれど、言えることはありません」
「何故だ?」
どうして隠すのか。
ヘイリーは戸惑い、腹の底に怒りを感じながら、魔術師へ問う。
「伝えられる有用な情報がひとつもないからです」
「どういう意味なのか、わかるように教えてくれ」
「僕は彼にいくつも疑念を持っています。けれどそのすべてに、証拠がない。彼を糾弾する者もいません」
全員、死んでしまったので。
すべて、迷宮の中に飲まれて消えたから。
魔術師の言葉の真意がわかり、ヘイリーは小さく唸っている。
「チェニー・ダング調査官は、デルフィ・カージンや兄であるあなたになにかを伝えたくて手紙を残したはず。ですが、自らの命で償う程の決意をしたにも関わらず、具体的な名前を書き記すことはなかった」
「ジマシュ・カレートのせいか?」
「そうなのだろうと思います」
たとえチェニーが生きていたとしても、その名を口にすることはないだろう。
ニーロが断言できる理由がわからず、ヘイリーの心は激しく揺れた。
「今日はあなたにお願いがあって来ました」
「私に、なにを?」
「ジマシュ・カレートを追うのなら、慎重に動いてほしいのです」
「そんなことを頼みに来たのか」
「ええ。下手に火をつけようとすれば、あなたが火だるまにされてしまうでしょうから」
そうなったら最後、ギアノやカッカーの屋敷の住人が巻き込まれてしまうかもしれない。
キーレイや神官たち、もちろん、調査団で働く面々も。
ヘイリーの周囲にいるあらゆる人々に巻き込まれる可能性があり、そうなっては困ると魔術師は話した。
「あなたはチェニー・ダングの実の兄で、ジマシュ・カレートにとっては興味深い存在だと思いますから」
「興味深いとは、どういう」
「ジマシュ・カレートが望むものがなにか、考えたことはありますか?」
「望むもの……?」
チェニーとヌエルの目的は、デルフィ・カージンをジマシュ・カレートのもとへ連れていくことだっただろうと思う。
その為に、ベリオとダンティンの命を奪った。何故そこまでしたかはわからないが、二人を排除しようとしてそうなったのではと考えている。
二人はこの目的を果たした。
だが、チェニーは調査団に戻っている。
ヌエルはクリュに襲い掛かり、撃退された挙句、何者かに襲われた。
最初の目的はわかるが、結果については理解ができない。
目指す男の思惑がわからないせいなのかと、ヘイリーは考える。
「なにを望んでいるのか、聞いてもいいか」
「これは僕の想像に過ぎませんが、それでもいいですか」
灰色の髪がふわりと揺れた。
瞳と同じ、珍しい色だ。
それはきっと、選ばれた者の証なのだろうとヘイリーは思った。
その瞬間、急にそんな考えが浮かんできて、無意識のうちに「構わない」と答えてしまっていた。
「他人の苦しみが欲しいのです」
「……苦しみが、なんだって?」
「ジマシュ・カレートにとって、他人の不幸こそが最大の娯楽なのだと、僕は思っています」
言葉を失ってしまう。
あまりにも、理解が出来なくて。
「何故?」
「考えても仕方がありません。そのような生き物なのだと思うしかない」
「そんな人間がいるというのか」
「すべての人間が善良ではないと、あなたも知っているでしょう」
貧しさに耐えかねて、盗みを働いてしまったとか。
お互いの主張に折り合いがつかず、つい揉めてしまったとか。
確かに、無数の争いを目にしてきた。
仲裁に入ったことなど、いくらでもある。
大抵は話し合いで片が付く。もちろん、すんなりと解決できずに、拘束するような場合もあったけれど。
「では、チェニーが死んだ理由も? あの男にそうするよう仕向けられたというのか」
ニーロはなにも答えない。
来た時と同じ涼しい顔のまま、口を閉ざしている。
「どうしてそんな顔をしていられるんだ!」
「ダング調査官、落ち着いて下さい」
心は一瞬で沸騰したが、魔術師の視線に冷やされたのか、立ち上がりかけていた調査官を再び席に着かせている。
「……そうか。そうだな。こんな風では困ると、君は思っていたんだな」
すまないと謝り、息を整えて。
落ち着こうと呼吸を繰り返すヘイリーに、ニーロは再び話し始めた。
「僕の考えは推測に過ぎません。ジマシュ・カレートがどのように周囲の人間を唆し、悪事を働かせるのか、語る者はいません。証拠なども一切ない。そのように振舞える人間だと、まずは理解してください」
「本当にないのか?」
「ええ。既に聞いているかもしれませんが、僕は仲間であった女性探索者の行方を探しています。ある日突然姿を消してしまったピエルナという名の女性を、もう三年も探し続けています」
「仲間を」
「ピエルナさんは『赤』の迷宮にたった一人で取り残されて死にました。深い傷を負い、力尽きた。恐らくですが、僕はそう考えています」
迷宮の中で起きた出来事をどうやって知るのだろう。
ヘイリーは戸惑ったが、ニーロの表情は至極真剣なもので、異議を口にできる雰囲気ではなかった。
「あなたはカッカー様に会ったことはありますか」
「ああ、一度、話をさせて頂いた」
「ヴァージさんには?」
「誰かな」
「カッカー様の妻ですが、元はスカウトで、探索の仲間でした。ヴァージさんとピエルナさんは仲が良くて……」
ふいに遠い目をして、無彩の魔術師は口を閉ざした。
ヘイリーは、ゲルカの話を思い出している。
自分とニーロは同じ苦しみを抱えているかもしれない。そう言われたはずだ。
「ヴァージさんが打ち明けてくれたことがありました。ピエルナに良い人ができたようなのだと」
「それは、いつの話なのかな」
「ピエルナさんがいなくなる少し前です。ヴァージさんはあの時、恋人ができたのに話してくれないと言いたかったのだと思います」
「仲が良いのに、打ち明けてもらえなかったと?」
「恐らくは。僕はまだ幼くて、ヴァージさんがなにを言いたいのかよくわかりませんでした。僕が理解していないとヴァージさんもわかってはいたのでしょうが、それでも口にしたかったのだと、今は思っています」
あの時抱いた疑念について、どうしても誰かに伝えておきたかったのだろう。
ニーロは独り言のように呟き、かつての仲間について更に語った。
「ヴァージさんはピエルナさんが身籠っていると考えていました。これについては、行方がわからなくなってから言われたのですが」
「この件に、ジマシュ・カレートが関わっていると?」
「ええ。ですが、僕がこう考える理由を裏付けるものはありません。ピエルナさんに繋がる情報は本当に僅かな上、当時話を聞かせてくれた人は、もういませんから」
「死んだのか」
思い切って問うたヘイリーに、ニーロは鋭い視線を向けている。
「そうです」
なにもかもが推測でしかない。
チェニーについても、ピエルナについても、状況は同じだ。
証言も証拠もなく、怪しい影がちらりと見えるだけ。
けれどきっと、目の前の魔術師はこう考えている。
ただ死んだのではなく、みんな、消されたのだと。
「僕はあなたの邪魔をする気はありません。今日来たのは、そんな相手だと知ってほしかったからです」
「……なら、どうすればいい? できることはないのか」
「今はまだ。手を出せば、ジマシュ・カレートはただの被害者になる。そうなれば、彼の思う壺です」
落ち度はそのまま弱点になり、攻められるだけ。
無彩の魔術師は無情にそう言い放ち、立ち上がっている。
「ダング調査官」
これで話は終わり。ニーロの姿は扉の向こうへ消えていく。
「必要なのは、生者の声です」
それはあまりにもかすかな声で、本当に魔術師が囁いたものだったのか、ヘイリーにはわからなかった。