212 敬愛なる隣人 (下)
雲の神殿への帰り道を、ゲルカはヘイリーと並んで歩いていた。
ヘイリーが今日は街の見廻りをしておらず、せめて雲の神殿までの道を歩きたいと望んだからだ。
既に夕日が西の果てに隠れようとしている時間帯で、外は薄暗い。
ところどころに掲げられた松明が辺りを照らし、乾いた土で出来た道を橙色に染めている。
ゲルカも、今日は劇場に行っていない。結局、キーレイの顔も見ていない。
どちらも今から向かうには時間が遅い。
劇場の様子は見に行ってもいいかもしれないが、一人で行かない方がいいだろう。
「ダング調査官」
考えを巡らせている間に思い出したことがあり、ゲルカは隣の調査団員へ声をかけた。
「なんでしょう」
「君は最近この街にやって来たという、黒い肌の女性を知っているかな」
「魔術師ロウランのことですか?」
答えはすぐに返って来た。はっきりと言い切るのは、面識があるからではないかと神官長は考える。
「知っているのかな」
「宿屋街で火事が起きた時に協力してもらったのです」
「女性の魔術師に?」
「ええ。ガランが気付いて力を借りようと提案してくれたのです。以前、調査団に来たことがあるらしく、きっと腕のある魔術師だろうからと言って」
ロウランと名乗る魔術師は快諾し、火事は一瞬で収まったとヘイリーは話した。
二軒とも火を消した上、中の捜査にも力を貸してくれたのだと。
「神官たちに力を借りるよう助言してくれたのも魔術師ロウランです」
「そうだったのか。優秀な魔術師が、北の宿屋を使うとは意外な話だ」
しかも、女性の身なのに。
安宿は男性専用などではないが、女性の利用者は少ないだろうとゲルカは思う。
「ガランも同じように考えて、何故こんなところにいるのか尋ねていましたよ」
「ほう」
「味の良い食堂に行った帰りに男に声をかけられ、しつこく付きまとわれたと話していました。その男を撒く為に宿屋街に入って、身を隠していたそうです」
「ああ、ではバジム殿が焦がれているのは魔術師で間違いないのだな」
ギュインの話に出て来た、ザグとやらに絡まれた時のことだろう。
北には安さが売りの食堂が多く並んでいる。店主たちは客を呼ぶ為に工夫を凝らして、自慢の美味い物を作り出す努力を欠かさない。
「なんの話です?」
「すまんすまん、今、この近くにできた劇場の主について調べていてね。彼は今、異国から来たという黒い肌の美女に恋をしているらしいんだ」
ゲルカにつられたのか、ヘイリーは笑みを浮かべている。
「確かに、魔術師ロウランはとても美しい方でした」
「面識があるんだな」
「ええ。何度も助けて頂いています」
「もしや、居場所を知っている?」
若者の顔から笑顔が消えていく。
ヘイリーは目を伏せて、無彩の魔術師の家にいると思うと話した。
「魔術師ニーロの家に?」
「はい。おそらくは、ですが」
灰色の魔術師は、デルフィとの会話の中にも出て来た。
ヘイリーは鋭い目をしていて、なにか思うことがあったように見えた。
調査団員はそれきり口を閉ざしたままで、もう雲の神殿に辿り着いてしまう。
夜が既に訪れているから、いつものように神殿に寄っていきはしないだろう。
神官たちと和やかに言葉を交わすような余裕もなさそうだった。
「クラステン神官長、では」
「ダング調査官」
ゲルカは呼び止め、ヘイリーは立ち止まる。
顔だけを振り返らせた調査団員へ、まずは神殿までの同行に感謝を伝えた。
「無彩の魔術師殿と話す必要があるのではないかな。行って、すべて問うといい。彼はまだ若いが、とても思慮深い青年だ」
「何故、そんなことを言うのです」
「デルフィとの話の中で、いくつか引っかかっているようだったから」
「わかりましたか」
「ああ。魔術師ニーロには、探している人がいるそうだよ。ひょっとしたら君たちは、同じ苦しみを抱えているのかもしれない」
ゲルカの言葉をどう受け止めたのかは、わからなかった。
小さく礼をして去って行くヘイリーの顔は、夜の影に隠されて、よく見えなかったから。
二人の若者たちに思いを馳せながら神殿へ戻ると、並んだ長椅子の中にぽつんと一人、座っている者がいた。
神官たちは出払っているのか、姿が見えない。
神殿の中が静かなせいか、ゲルカのたてた足音が聞こえたようだ。
長椅子に座っていた女は立ち上がり、ようやく現れた神官の姿を認めて近づいてきた。
「すまないね、待たせてしまったかな」
「ううん、いいんだ。少し考えたいこともあったし」
地味な顔をした女はゲルカの前まで進んでくると、腕章に気付いて声をあげた。
「神官長様?」
「ああ。私はゲルカ・クラステン。雲の神殿へどんな用かな」
女はユレーと名乗り、少し前に神殿に預けられていた少女の知り合いだと話した。
「マティルデの」
ユレーは静かに頷き、マティルデの行方を知っているかゲルカに尋ねた。
「魔術師ホーカ・ヒーカムに弟子入りして、彼女の屋敷で暮らしているそうだが」
一度は会えたが、それっきりだ。
あの屋敷に近付いても神官は退けられるばかりで、姿は見られていない。
ユレーも似たような状況らしく、屋敷の前で会えたけど、と呟いていた。
「いろいろと状況が変わっちまったから、一度会って伝えておきたいんだけどね」
「そうか。マティルデのことは本当にすまなかった。あの時戸締りをきちんとしておけば、こんなことにはならずにすんだだろうに」
「ううん。あの日がなくても、どこかで似たようなことが起きたと思うんだ。あの子が大人しく神殿で暮らしていけるはずがなかったんだから。あたしたちが悪かったんだよ。目を離すんじゃなかった。せめてあたしだけでもあの子についていてやれば良かったのに」
涙を浮かべる女の肩に手を置き、ゲルカは静かに祈った。
マティルデについての話はいくつか聞いている。
魔術師の弟子になっただけではなく、街中で荒々しく振舞う様子を見たと報告を受けていた。
「あたしはもう、この街で暮らすのは終わりにしようかと思っててさ」
誰にともなく、ユレーは呟く。
「だけど、マティルデをこのままにしておいていいのかどうか、わからなくって」
なんと声をかけるべきなのか、ゲルカは心のうちを探っていく。
ユレーはどうやら街に来たばかりの若い娘ではないようだ。
ニ十歳を超えた女性はあまり多くない。迷宮都市で暮らしているのはうら若い娘たちか、故郷に子供を置いて出稼ぎにやって来た料理や掃除の達人ばかり。もしくは夫と共に商売に携わっているかで、それ以外の存在は珍しい。
「あの子には力を貸してくれる人が大勢いるから、あたしがいなくたって、平気だと思うんだけどね」
台詞に合わない寂しげな声に、ゲルカは首を振っている。
「君はどうしたい? マティルデに会わないまま去ってもいいのかな」
「そりゃあ、会っておきたいよ。そう長い間じゃなかったけど、女ばかりで三人で暮らしたからね。すごく楽しかった。マティルデは家のことなんかなんにもしやしない怠け者だったけど、いてくれるだけでぱっと明るい気持ちにさせてくれるんだ。無邪気で、素直じゃないところもあるけど、すごく可愛い子で」
だから、探索なんかに行かせたくなかった。
魔術師になる夢など、諦めてしまえばいいと思っていた。
ユレーは額をおさえて、こうぼやいている。
ギアノの嫁になって、幸せに暮らしてくれたら良かったのに、と。
「ギアノというのは、ギアノ・グリアドという名の青年のことかな」
「ふふ、あいつ、雲の神官長さんにも知られてるのかい」
「名を聞かされただけだよ。迷える神官の良い友人でいてくれるようでね」
「ああ、ギアノはとんでもなくいい奴だよ。なにをやらせても上手くやるし、本当に優しくってさ」
デルフィが逃げ込んできた時も、名前を聞いたと思う。
この近くにある食堂で働いていたと聞いたはずだが、見かけたことはない。
デルフィにも、ヘイリーにも協力し、無彩の魔術師とも面識があるようだ。
ただの若者ではないのだろう。一度会ってみたいものだと、ゲルカは思う。
ユレーは吐息を漏らし、神像を見つめていた。
まだ心が決まらないのだろう。
「君は今はどこで寝泊まりをしているのかな」
「グラッディアの盃って店があるんだ。女性客ばかり集まる店が東の方にあって、そこで働かせてもらってる。あそこは本当は女性の探索者が集まれる場所にするつもりだったらしいから、あたしには合ってるかと思ってさ」
「探索をして暮らしていたのかね」
「前はね。こんな顔じゃ誰も嫁にもらってくれないだろうから、地下のバケモノを倒して大金持ちになってやろうって思ってこの街に来たんだ」
でも、出来なかった。迷宮に入るのは簡単でも、歩き続けるのはとても難しいことだったから。
ユレーの正直な言葉に、ゲルカは深く頷いていた。
迷宮都市に来たのだからという理由で何度か挑んだことがあるが、続けていけるとはとても思えなかった。
「今、魔術師の屋敷の問題をなんとかしようと考えている。実際に動ける者は限られるが、どうにかしたいと大勢が考え、できることをしているんだ。だからユレー、マティルデにも案外近いうちに会えるかもしれないよ」
「本当かい?」
「すまない、約束はできないのだが……。けれど、必ず解決されるはずだ。もしもマティルデに会えた時には、君のことを伝えよう。ユレーが会いたいと言っていたと、必ず」
「ありがとう、神官長様。やっぱり神官ってのは、いい奴がなるものなんだね」
そうであってほしいと、ゲルカは思う。
無理矢理神官への道を歩まされる者も、いなくはないと聞いているから。
遅い食事を一人でとって、次の日の朝。
ゲルカはいつも通りの時間に目覚めると、今日こそは劇場を訪ねるべく行動を始めた。
神官たちと食事をとり、祈りの時間を持ち、報告に耳を傾け、朝早くから駆け込んで来た初心者たちの傷も癒した。
「よし。オルガス、劇場へ向かおう」
まだ若く、迷宮都市へ来たばかりだが、オルガスはとにかく体格が良い。
顔もやけに老けて見えるので、大男ばかりの用心棒と向かいあうには持ってこいだし、性格も真面目で責任感がある。
なので今日もお供にオルガスを連れ、ゲルカはウベーザ劇場へと向かった。
「昨日は営業できたのだろうか。確認はしたかな」
「はい、ゲルカ様。夕方頃に見に行った時には客が何人か待っていましたが、結局扉は開かず、誰も出て来ませんでした。皆、諦めて帰っていきましたよ」
「案内をする者もいなかったのかな」
「僕が見ている限りではいませんでした。貼り紙なども見ていません」
では、経営陣の連携も取れていないのだろう。
ギュインは、腹心が二人いると話していた。
主を差し置いて好き勝手できないのかもしれないが、それにしてもお粗末ではないかとゲルカは思う。
「閉まっていますね」
正面入り口に辿り着いたが、扉は閉ざされていた。
立派な扉にはなにかぶちまけた跡があり、周囲には様々なごみが転がっている。
「荒れているな」
オルガスが進んでいって、扉を叩いた。
太い腕が当たると結構な音が響いたが、応答はなく、誰かが中で動いている気配もない。
裏口へ回ってみようと声をかけ、二人で進んでいく。
二日前に神官が忍び込んだ狭い裏口周辺にも人の気配はなく、覗き込んでみてもなんの音も聞こえない。
「行ってみるか」
「大丈夫ですか。狭いですが」
「知っているよ」
狭くとも一昨日は抜けられたのだから、今日も問題ないはずだ。
ゲルカは壁に挟まれながらも進んで、なんとか中へ辿り着いている。
大きな木箱がたくさん置かれていた。
蓋がされている物もあるが、多くは放り出されたままで中が見えていた。
そのほとんどに中身がない。小さなかけらや使い古したボロ布ばかりで、がらくた以外に残されている物はないようだった。
二日前は、ここで用心棒たちが小箱を丁寧に重ねていた。
劇場なのだから、衣装だの、食器だのをしまっていたのではないかとゲルカは思う。
「ゲルカ様、ドアが開いています」
劇場内に通じる扉の前で、オルガスが声をあげていた。
その先の廊下の様子を確認して、灯りがついていないことも合わせて告げられる。
「随分曲がりくねっていたから、灯りがないと危険だろうな」
「探してみましょう」
倉庫として使っていたであろう場所を探し回ると、部屋の隅に手持ちの燭台があり、火をつける道具も見つかった。
オルガスに灯りを持ってもらい、廊下へと出る。
劇場の中は複雑な造りで、進んでいくと左右に扉がいくつもあった。
そのひとつひとつに手をかけ、開くかどうか確認していく。
拍子抜けするほどあっさりと扉は開き、神官たちは中の様子を確認していった。
ベッドがいくつも並んだ部屋があり、化粧をするための台が置かれた部屋もある。
ベッドの数に対して寝具はありえない程に少なく、化粧道具もいくつか落ちているだけ。
「なにもかも持ち去られた後のようだな」
「そうですね、誰もいませんし」
オルガスの言った通り、誰もいない。
用心棒以外にも、踊り子、給仕、料理人と、大勢働いていたようなのに。
「まだ見て回られますか?」
「ああ、バジム殿はまだ、残っているのではないかな」
バジムがおかしくなったのは、美しい魔術師に恋い焦がれているから。
だったらその魔術師に下された命令は、守るのではないか。
ゲルカは考えを神官に明かしてみたが、オルガスはピンと来ないようで首を傾げている。
どの部屋もがらんとしていて、強奪の気配だけが漂っていた。
空の瓶や、放り投げられたハンガーくらいしか残っていない。
同じ光景が繰り返されていく。華々しく開業したはずの劇場には静寂が満ち、がらくたを気紛れに転がしているだけ。
それでも辛抱強く廊下を歩いていった先で、ゲルカたちはとうとうそれまでとは違う、大きな部屋に辿り着いていた。
舞台があり、椅子が並んでいる。台の上には楽器が並んでいたり、立てかけられていた。
視線を動かせば、贅沢なつくりの客席が見えてくる。
大きなテーブルにはしゃれた形のソファが設えてあり、灯りを受けて輝いていた。
ここだけは荒れた気配はなかったし、人の姿もあった。
「ねえ、バジム様……。いい加減目を覚まして下さいよ」
掠れた声が聞こえてきて、ゲルカは客席のど真ん中に向かって歩いた。
男と女が一人ずつ。どちらも見覚えがないが、男はきっと「バジム様」なのだろう。
「そこにいるのが支配人、バジム・ウベーザかな?」
ゲルカが声をかけると、女が弾かれたように立ち上がり、振り返り、どこから入ったのかと叫び声をあげた。
「勝手に入って申し訳ない。だが、今日は止められなかったのでね」
「あんた、雲の神官かい。しつこい連中だね、毎日毎日、一体なんの用なのさ!」
気の強そうな女は、ラジュとどこか似ている。
「君がジュエット?」
「だったらなんだってのさ」
「落ち着いて、我々は争いに来たのではない」
体に触れないように身を逸らすゲルカに、急にのしかかってきた者がいた。
左からぶつかられて、神官長は無様に床に転がっている。
「女神からの伝言きゃあ! あの美しい方は、なんとぉ?」
無精ひげの男が目の前に迫っていて、さすがの神官長も焦ってしまう。
唾をまき散らされて不快極まりなかったが、オルガスが引き離してくれたようで、急いで立ち上がる。
「酔っているのか」
バジムと思しき男からは酒の匂いがぷんぷんと漂い、オルガスから逃れようと暴れまわっている。
離せ、馬鹿野郎と散々叫んで、とうとう盛大に嘔吐して。
若い神官が悲鳴を上げると、バジムの体が落ちて床に倒れてしまった。
「バジム様! いやだ、もう、ザグ! ザーグ!」
女が叫び、どこからか大男が駆けてくる。
水を持ってこいと言われて再び去っていき、女は泣き出し、劇場は居たたまれない空気に包まれていた。
「落ち着いたかね」
吐瀉物はザグという大男が片付け、バジムは寝かされ、ジュエットはゲルカの前に座っている。
劇場の派手な柄の椅子は事情聴取には似合わないが、仕方がない。
「すいませんでした、あたしも落ち着かなくって」
「どうやらおかしなことになっているようだね」
きっと綺麗に化粧をしていただろうに、今は涙で崩れてしまっている。
目の周りを奇妙な色で彩った女は、何度も何度もため息を吐きだし、涙ぐみながら答えた。
「あんなにうまくいってたのに。オープンしたところまでは良かったんです。お客は大勢来たし、本当に金持ちばっかりで、みんな稼げてたんですよ。ろくに踊りができない子も、金貨をもらって喜んでいたんです」
「今は誰もいないようだが、なにがあったのかな」
「わかりませんよ、そんなの。バジム様が急に黒い女神がどうこうって言いだして」
掃除の後片付けを終えたのか、大男が戻ってくる。
どこか能天気な顔をしたザグが神官の前に来ると、ジュエットは急に立ち上がり、怒りの声をあげながら拳を振るった。
「あんたが余計なことを言ったから! この、もう、あんたみたいな馬鹿がどうして残ってるんだよお!」
「ジュエット、落ち着きなさい。彼を責めてもなにも解決しない」
二人がかりで女を止めて、水を飲むように言う。
バジムは寝言なのか、女神よ女神よと声をあげて、ジュエットはまた泣いた。
「ザグ、君は魔術師ホーカ・ヒーカムの屋敷へは行ったのかな?」
「ああ。はい。行きました。バジム様が行くぞって言ったもんで」
「そこでなにが起きたか、知っているかな」
「うーん。行ったけど、誰も出て来なかったんです。魔術師に出て来いって呼びかけたのに、なんにもなくて」
あまり期待をせずにいたのに、初めてまともな証言が出てきて、ゲルカは驚いている。
「脅かしてやれってバジム様が言うもんで、柱を割ったり、ベンチをひっくり返したりしてやりました」
「なんてことを」
「バジム様が言うもんで」
「そうか。それで、なにが起きたのかな? 誰も出て来なくて、ただ帰ったわけではないだろう」
「もちろんですよ、バジム様は絶対にあの屋敷を手に入れるって、張り切ってたもんで……」
ザグは急に口をぽかんと開けたまま、動きを止めてしまった。
突然ぴくりとも動かなくなった大男の背後で、オルガスも眉間に皺を寄せている。
「ザグ?」
「ああ、すいません神官様。張り切っていたけど、どうしたんでしたっけ」
「我々にはわからない」
「あ、そうか。うーんと、バジム様が屋敷の奥に向かっていって、ついて来いって言うもんで、みんなでついて行こうとして……」
ゲルカとオルガスをたっぷり待たせたが、続きはない。
ザグは二人の神官に向かって首を傾げ、えへへと笑っている。
「記憶にない?」
「わかりません。みんなそう言ってましたよ。気が付いたら外でひっくり返ってたって。でも、バジム様は女神に会ったって喜んでました。ラジュにおつかいに行かせてましたし」
「女神に会った?」
「あのどデカい屋敷に来てくれて、話が出来たって喜んでました」
ザグが笑った分、ジュエットか悲しむ仕組みになっているようだ。
女の悲しげな泣き声は結構な大きさなのに、大男には気にする様子がない。
「ラジュという女性はまだ残っているのかな。今、どこに?」
「またおつかいに行ってます。女神に出す為のごちそうを用意しなきゃならないんで。料理人がいなくなっちまったみたいですからね」
「気の毒に」
背後からオルガスがこう囁いたのが聞こえてきて、まったくだとゲルカは思った。
ラジュが戻って来なかったとしても、仕方がないとすら思える。
魔術師ホーカ・ヒーカムの屋敷には誰もいなくて、対応がされずに困っている。
ウベーザ劇場もこのままにしてはおけない。
劇場部分以外に置かれていた物はほとんど持ち去られたようだし、金銭的な被害はかなりのものだろう。
残っているのはここにいる三人とラジュだけで、営業できるはずがない。
「バジム殿にこれ以上酒を飲ませないでくれないかな。話を聞きたいんだ」
「どうでしょうねえ。酒が好きな人なもんで」
「我慢させてくれないか、ザグ。こんな状態では君たちも困るだろう」
「そうだなあ。もうマリーデンの劇場に戻らないと駄目なのかも」
「他にも劇場を持っているのかな」
「ええ、神官様、ウベーザ劇場をご存知ない? マリーデンと、ジョットンデンにもあるんです。ここよりは小さいですけどねえ。若くて可愛い子に会いたきゃ、劇場へ! 男なら知っていて当たり前、ウベーザで遊んで一人前ぇ!」
オルガスの唸るような声が聞こえてきて、思わず笑ってしまう。
笑っている場合ではないが、こんなでたらめな状況ではもう笑うしかない。
雲の神官長はそう考えていたが、ジュエットがおいおいと泣き出し、慌てて引っ込めていく。
「ザグ、ジュエット、我々の話を聞いてくれてありがとう。また明日ここへ来てもいいかな。バジム殿と直接話したいんだ」
「ねえ、神官様。バジム様に忘れさせて下さいよ。女神がその辺を歩いているわけがないんだって、思い知らせて下さいよお」
「ああ、出来る限り力を尽くそう。君たちも大変だろうが、まずはまともな状態に戻さなければなにも始まらない。とにかくこれ以上、酒は与えないようにしてくれ」
「わかりましたよ。大体、酒なんてもうないんだ。残ってた分は全部飲み尽くしちまったんだから」
あんなにあったのに、恩知らずどもが持っていってしまったから。
ジュエットは再び涙に濡れて、ザグが背中を撫でてやっている。
今はこれ以上聞けることはないだろう。劇場の主の居場所は確認できたし、他に行かねばならないところができた。
「あちらの大きな入口から出たいんだが、開けてもらうわけにはいかないかな」
「ああ、いいですよ。ラジュもそろそろ戻って来るだろうし」
緊迫感のない大男は神官たちの為に扉を開けて、手を振って見送ってくれた。
「ザグはバジムという男とどういう関係なのでしょう」
オルガスがこんなことを言いだし、ゲルカも考える。
「親族なのかもしれないな」
「なるほど。……不思議な男でしたね」
二人で小さく笑いながら雲の神殿に戻り、ゲルカはひとまず自分の部屋で、短い休憩の時間を持った。
キーレイを訪ねなければならない。
バジムは屋敷で女神に会った。ロウランという魔術師がやって来たに外ならず、あの日屋敷に向かったキーレイが知らないとは思えない。
午後はエリアと共に神殿を出て、街の東側に向かった。
念のために魔術師街は避け、南側の道を通り抜けていく。
急ぎ足で樹木の神殿を訪ねると、入口でちょうどキーレイと鉢合わせになった。
樹木の神官長はどこかへ出かけるところのようで、正式な長のケープを身に着けている。
「ゲルカ様、どうなさいました」
「聞きたいことがあって来たのだが、出かけるところかな」
「ええ、そうですが。でも大丈夫です。少しならば」
キーレイは神殿の中へ引き返し、そう言ってくれるならばとゲルカも続いた。
長の為の部屋に通され、手短に用を告げていく。
「バジム・ウベーザに会ってきたよ」
「彼はなんと?」
「いや、話せてはいないんだ。彼は女神に恋い焦がれて、ひどく酔っぱらっていてね」
「え?」
「劇場の仕事も放りだしているんだ。従業員はもうほとんど残っていない。物も持ち去られた後で、すっからかんになっている」
キーレイはよほど驚いたらしく、なにも言わない。
「リシュラ神官長はあの日、魔術師のロウランという女性と一緒だったのかな。無彩の魔術師殿と向かったと聞いていたと思うが」
「……ええ。ニーロと共に向かったのは間違いありません。ロウランは後からやって来たのです。彼はその、ニーロと師弟のような関係のようでして」
奇妙な単語が飛び出してきて、ゲルカも戸惑っていた。
単なる言い間違えかもしれない。そんな風に気を取り直し、抱えて来た疑問について更に口に出していく。
「バジム殿が女神と呼んでいるのはそのロウランのようだが、リシュラ神官長は知っていたかな?」
キーレイ・リシュラが目を逸らす姿を、初めて目にしていた。
樹木の神官長は困ったように手で顔を覆って、ため息をついているようだ。
「ゲルカ様、それについては後から知ったのです。ロウランは我々を心配して来てくれたのですが、劇場の主についても心当たりがあったようで」
観念したかのような樹木の神官長の話に、ゲルカは頷いている。
嘘を言うはずがない相手なのだから、信じる以外にない。
「ロウランはバジム・ウベーザに随分しつこく付きまとわれていたそうなんです。どんなに冷たくしても効果がなくて、困っていたと話していました」
キーレイはバジムとロウランの間で起きたやりとりについて、語っていった。
絶対に実現できない条件を突きつければさすがに諦めると思い、ホーカの屋敷を手に入れるよう話したのだと。
「なんと馬鹿馬鹿しい話なんだ」
「ロウランもそう言っていました。私たちが足を踏み入れた時、バジム・ウベーザは屋敷に囚われていたのですが、ロウランを見るなり騒ぎ始めました。それで、劇場で待てと言ったのだと思います。彼はすぐに飛んで帰っていきました」
「その時話せなかったのは、そのせいか」
「ええ。あの時はニーロが気分を悪くして、休ませねばならなかったのです。ロウランが来てくれなければ迷い道は解消されなかったのですが、そのせいでというか、なんというか。バジム・ウベーザとは話せませんでした」
屋敷で起きた出来事については理解が出来た。
ならば明日、素面に戻っているよう期待して、劇場を訪ねるしかないだろう。
「その魔術師殿に協力してはもらえないのかな。命じてもらえばなんでも話してくれそうだが」
「……申し訳ありません、ゲルカ様。ロウランから頼まれているんです。バジム・ウベーザとは二度と会いたくないんだと」
この条件と引き換えに、魔術師の屋敷の調査に力を貸してもらう約束になっている。
キーレイの話に、そこまでなのかとゲルカは驚いていた。
「そうか。ならば仕方がない。我々だけで訪ねてみるとしよう」
「ありがとうございます、ゲルカ様。お願いします」
「ああ。ところで、少し気になっているのだが」
「なんでしょうか」
「その魔術師のロウランとは、夜の神官ラフィと別人なのかな? どちらも遠い異国から来た、黒い肌の美女のようだが」
そんな人物が二人いるのか、単なる好奇心で問うただけなのだが。
キーレイの顔には隠しきれないほどの戸惑いが満ちている。
「なにか、聞いてはならぬことだったのかな?」
「いえ……。私は二人に、会いました。夜の神官ラフィと、魔術師ロウランに」
二人は別人であり、夜の神官は既に迷宮都市から去っている。
樹木の神官長はこう答えたが、声はどこか虚ろで、ゲルカの心に小さな石を投げ込んでいた。
「すまない、リシュラ神官長、出かけるところだったのに」
「いえ。私の方こそ、ちゃんと伝えてないことが多かったようです」
「いいんだ。君も忙しいのだろう」
キーレイはようやくほっとした顔をして、そうですね、と呟いている。
「また明日、劇場を訪ねるよ。営業を続けていくのは難しそうだから、どうするつもりなのか話を聞いてくる」
「お願いします。私もこれから、ホーカ・ヒーカムの屋敷へ行ってきます」
「例の魔術師とかね?」
「ええ……、そうです」
「無彩の魔術師殿はどうした。なにか問題が?」
「あの屋敷では今、ニーロにとって良くない力が働いているようなのです」
キーレイの表情は険しい。まだ若い灰色の魔術師の身を案じているようで、ゲルカは口を閉ざした。
魔術師のことは、神官にはわからないから。
これ以上聞く必要はなく、ゲルカはキーレイと共に短い祈りの時間を持ち、樹木の神殿を出た。
「エリア、酔いに効く薬は、神殿には用意がないかな」
「さすがに酔い覚ましはなかったと思います」
「では、買い求めなければならないな。酔っぱらいを一瞬で元に戻すような薬があればいいのだが」
「聞いたことがありませんが……。業者に聞いてみましょうか」
雲の神官は二人で連れ立って、街の南の通りを歩いていく。
引退についても考えなければならないが、若い者たちが大きな問題に立ち向かおうとしているのだから。
今は立ち止まり、出来る限り力を貸していく。
酔っ払いの相手くらいで済むのだから、面倒がっている場合ではない。
エリアと共に酔い覚ましの薬を探し、何軒かの薬草業者を廻る。
さすがに一瞬で素面に戻す薬はなかったが、できる限りの支度をして、ゲルカ・クラステンは雲の神殿へ戻っていった。




