210 敬愛なる隣人 (上)
「すいませんが、神官様とお話するようなことはございませんでね」
街の西に新しくできた大きな劇場には、派手な色の看板が掲げられている。
ウベーザ劇場は最近大々的にオープンしたばかりの、迷宮都市では初めての「劇場」だが、今はひっそりと静まり返っていて、扉の前に大きな体の用心棒が一人いるだけだった。
前に通りかかった時は綺麗にされていた入り口周辺には、割れた木箱や樽が転がっている。
昼夜を問わず必要以上の数の灯りが掲げていたはずが、光はどこにも見当たらない。
そんな劇場の正面入り口の前で、ゲルカ・クラステンは小さく唸っている。
劇場の主、バジム・ウベーザと面会する為にやって来たのに、何度呼んでも誰も出てこないし、ようやく姿を見せたと思ったら、強面の大男は同じ答えを繰り返すだけだったから。
雲の神殿から、ウベーザ劇場まではそう遠くはない。
既に朝来て、諦めて、少し経ってから再び足を運び、また諦めて、昼下がりに三度目の訪問をしているわけなのだが。
すぐに戻れる距離とはいえ、こんな無意味な行き来を繰り返すのはそろそろ終わりにしたい。
大男はゲルカの顔を見ようともせずに、断りの言葉を繰り返している。
正面からでは駄目なのだと考え、入口からはとりあえず去ると決めた。
「ゲルカ様」
道の向こうから雲の神官が駆けてくる。
まだ若いオルガスという名の神官は、劇場の裏手を指さし、従業員が作業をしているようだと教えてくれた。
大きな劇場の裏の通路は細く、横に大きいゲルカが通り抜けるには時間がかかった。
けれど進んでいくと確かに半裸の大男たちが三人いて、けだるそうに物を運ぶ姿が見えてくる。
「で? お嬢ちゃんたちの見張りはどうなってるんだよ」
「ジュエットとザグでやってるみたいだぜ」
小箱を出して、隅に重ねて山にして。
男たちは揃いの服を着て、作業をしつつ、愚痴をこぼしているようだ。
「黒い女ってなんなんだよ。なんであんなわけのわからねえことになっちまうんだ」
「俺は見たよ。本当に肌が黒いんだ。色っぽい目をしたいい女だったぜ」
「ラジュが迎えに行ったんだろ」
「昨日は朝から酒かっくらって暴れてたから、駄目だったんじゃねえかな」
ようやく広い場所に辿り着き、ゲルカは男たちに声をかけた。
狭い隙間から突然現れた神官に、三人は驚いて声をあげている。
「なんだ、あんたは」
「私は雲の神官、ゲルカ・クラステン。この劇場の主、バジム・ウベーザに会って話を聞きたい」
「神官がなんであんなところから入り込むんだよ」
「入れてくれなかったのだから仕方ないではないか」
大男のうちの一人が、追い返そうとゲルカを押してくる。
「入口で通せない奴が入って来ていい訳ないだろ」
残りの二人に手伝うよう声をかけているが、男たちは応じず、その場を動かない。
「なあ、もうやめねえか。この店、もう駄目だろ」
「料理人も逃げたもんな」
「このままじゃタダ働きさせられるかもしれねえぞ」
どうやら従業員たちも困っているようで、ゲルカは祈りの言葉を口にしていた。
雲の神は、人生で与えられた試練を乗り越えるよう人々に説く存在だから。
男たちには不運が訪れているようなので、ここぞとばかりに声をかけていく。
「君たち、この劇場は今どのような状態にあるのかな。用心棒を連れて魔術師の屋敷を襲撃したと聞いているが、なにか知らないだろうか」
三人の男たちに、順に視線を向けていく。
真ん中の男はゲルカと目が合うと気まずそうにして、俯いてしまった。
「事情を聞きたいだけだ。我々は雲の神に仕える者、誰かに罰を下す為に働いているわけではない」
「あのさあ、あの、俺のことを覚えてるよな」
真ん中の大男に、ゲルカはゆっくりと頷いている。
マティルデが行方不明になった後、神殿に押しかけて、あの娘を出せ、衣装を返せと騒いだうちの一人だ。
「本当に話を聞きにきただけ?」
「ああ。君たちも先日の魔術師街の騒動について知っているだろう。この劇場の主が、ホーカ・ヒーカムという魔術師の屋敷を訪れたと聞いている。訪問の理由と、なにがあったのか、聞いて確かめたいだけなんだ」
男たちは顔を見合わせて、ひそひそと言葉を交わしている。
キーレイは用心棒が大勢倒れていたと話していたから、三人の中にも屋敷へ同行した者がいるのではないかと思えた。
「あの日は、バジム様はひどく酔っぱらってて」
「明け方になって急に皆を叩き起こしたんです。今から行くぞって」
一人が話し出すと、残りの二人も口々に「あの日起きた出来事」を語り始めた。
営業が終わってようやく眠れると思ったのに、ついてくるよう言われて、魔術師の屋敷に向かったのだと。
「でも、覚えてねえんです。屋敷には行ったはずなんですが」
「皆、外でひっくり返ってたって聞きました」
「ソリスとクレッジは中に入ったとか言ってたかな」
何故向かったのかはわからないのか。
ゲルカが問いかけた瞬間、近くにあった扉が勢いよく開き、派手な化粧の女が飛び出してきて、ゲルカの首元を掴んだ。
「なんだい、あんたは! 人様の劇場に勝手に入って来るんじゃないよ!」
「おい、やめろよラジュ。その人は神官長様だぞ」
「それがどうしたってんだよ。ただの爺じゃないか」
ラジュと呼ばれた女はゲルカの頬をスパーンと叩き、男たちに追い出すよう命じている。
「すいません、すいません、神官様」
店の裏手で愚痴をこぼしていた男たちは、そう囁きながらもゲルカとオルガスの腕を掴み、正面玄関まで連れていった。
劇場の中には小部屋がいくつもあり、廊下も随分入り組んでいるようだ。
右へ左へ散々曲がった先でようやくホールに出て、正面入り口から追い出されている。
「二度と来るんじゃないよ!」
ラジュの一喝と共に外に出されて、二人の神官は顔を見合わせていた。
入口に立っていた大男は説教をされるようで、劇場の中に入っていき、鍵の閉まる音がする。
オルガスと目が合い、ガルカはやれやれと肩をすくめていた。
「どうしましょう、ゲルカ様」
確かに話し合いは必要だ。次はどんな手を打つか決めなければならないが、雲の神官長は少し離れたところに少女の集団が立っているのに気付き、歩みを進めていく。
「君たち、どうしたのかな、こんなところで」
まだ幼さの残る少女たちばかりで、大人の姿は見えない。
迷宮都市ではあまり見かけない光景であり、どうやら少女たちも同じ思いを抱いていたようだ。
「神官様、どうしてあのお店から追い出されたんですか」
もう五十歳にもなる、長の証であるケープをまとった神官が、手荒に店から追い出される姿もまた稀なものだ。
迷宮都市に限らずなかなか起きないことであり、少女たちが不安に思うのは無理もない。
「もしや、あの劇場で働こうと思って来たのかな」
「え……。あの」
「歌と踊りが出来る子を探してるって聞いて」
私はできないけど、と呟く声も聞こえる。
みんな顔を見合わせ、そわそわした様子で内緒話を繰り広げていた。
「悪いことは言わない。止めておきなさい。どんな噂を聞いたかはわからないが、あの劇場は君たちの父親ほどの、うんと年上の男たちが楽しむ為の店なんだ」
客の膝の上に座り、体を触らせるような仕事をしなければならないよ。
神官の言葉を信じた者は顔を青くし、疑う者は他の少女へ目をやっている。
「今はトラブルも起きていてそもそも営業どころではなさそうだ。望んだような稼ぎは得られないのではないかな」
地道な労働を続ける日々に飽きてしまう気持ちはわかる。
簡単に大金を稼げると囁かれて、揺れてしまうのも仕方がない。
ゲルカはこれまでの人生で見てきた大勢の女性たちの涙を思い出し、少女たちの為に祈っていく。
激しい雨に打たれぬよう、大きな枝葉が弱い者を包み、守ってくれるように。
雲の神の手が小さな者の為に、特別な恵みを注いでくれるように。
神官の言葉をどう受け止めたかわからないが、少女たちは道を引き返していった。
どこかの店の寮で暮らしているのだろう。帰り道が守られるようもうひとつ祈りを捧げて、ゲルカも神殿へ戻る。
「緑」の迷宮近くにあるせいで、雲の神殿は忙しい。
探索初心者だの業者だのがしょっちゅう駆け込んでくる為、昼から夕方にかけては特に忙しない。
ゲルカ自ら癒しを施すことは余りないのだが、手が足りない時には駆り出される。
他にも、商店や娼館で働く娘たちの相談にも乗っている。話を聞くのは女性の神官だが、深刻な時にはゲルカが行って共に話を聞く必要がある。
本当はあんな劇場のごたごたに関わりたくはないが、キーレイばかりに厄介ごとを背負わせるわけにはいかない。
樹木の神官長の実力は折り紙付きだが、まだ若い。便利屋扱いして押し付けようとする者が多すぎる。
魔術師ホーカの問題は、知らない間に随分と大きく膨れ上がっているようだ。
ならばひとつくらい、年長者の自分が重荷を引き受けてやるべきだった。
ウベーザ劇場から最も近いのは雲の神殿で、行き来にも時間がかからないのだから。
いくつかの用事の為に呼ばれて、神官たちと話し合い、指示をしているうちに日が暮れていた。
疲労を覚えて、ゲルカは神官長の部屋で腰かけ、お茶を飲んでいる。
迷宮都市に来てからそろそろ十年。
年々多くなる雲の神殿ならではの仕事の為に、どうしても引き受けてもらいたいと頼まれてやって来た場所だ。
家族は故郷に残したままで、しばらく顔を見ていない。
子供たちはとうに大人になって孫もいる。愛らしい幼子たちの顔を思い出すと気持ちが和むが、あれから大きく成長していることだろう。
五十歳。そろそろ迷宮都市での勤めは終わりにして、後任に引き継がせるべき時が来たとゲルカは思う。
ラディケンヴィルスは特別な街で、神官長には「バイタリティ」が必要だから。
経験も必要だが、それ以上に有事に的確、迅速に対応できる体力が求められるところだった。
のんびりとした田舎町なら、年をとっていても充分に務まる。
迷宮都市の神官長たちは、他の土地と比べて圧倒的に皆若い。
いつの間にか一番年上になってしまったと、ゲルカはしみじみと考えていた。
まだやれるとは思うが、もっとやれる者がいるのも確かで、ならばそろそろ考え始めた方がいい。
雲の神殿は唯一街の西側にあり、窓から黄金に似た夕影が差し込んでいる。
光の中に大地の女神を思い描いて、ゲルカは祈る。
ひとときの静けさに身を置いていた雲の神官長だったが、誰かが扉を叩く音がして、目を開いた。
「ゲルカ様、よろしいですか」
やって来たのは神官のエリアで、神官長に用があるという者の来訪を告げられる。
現れたのは昼間にも見た大男のうちの一人で、はっきりと見覚えがあった。
「俺ぁギュインっていいます。さっきはラジュがすいませんでした。気が強い女でして」
「いいのだ。来てくれてありがとう、ギュイン。話を聞かせてくれるのかな」
「神官長様ってのは、さすがなんですね。俺みたいなバカの考えなんてお見通しなんだ」
何故だか体を縮こませたまま、ギュインはゲルカの向かいに腰を下ろしている。
恐縮した態度でもう一度昼間の非礼について詫び、もう劇場の仕事は辞めると前置きして、話し始めた。
「神官様は、魔術師の屋敷に行った理由を知りたいんですよね」
「ああ、そうだ。何故ホーカ・ヒーカムの屋敷に押し掛けたのかな」
「バジム様が最近、惚れちまった女がいるんですよ」
その惚れた相手に大きな屋敷を贈りたくて、ホーカ・ヒーカムのもとへ向かった。
ギュインの話はたったこれだけで、ゲルカは困惑してしまう。
「家を贈る?」
「あのくらいデカイ屋敷でなきゃならないんだって、バジム様が」
「屋敷を買い取る為の交渉に行ったということかな」
「だと思うんですが、あの屋敷に行ったかどうかはよくわからなくてですね」
ギュインも駆り出されたし、向かった記憶はあるが、気が付いた時には屋敷の外でひっくり返り、仲間に起こされていた。
大男がわかるのはそれだけらしく、ゲルカは考えを巡らせていく。
「バジム殿が恋い焦がれている相手というのは、どこの誰なのだろう」
黒い女とは何を指すのか。
神官長の問いに、ギュインは興奮気味に答えている。
「遠い国から来たっていう、肌の黒い、いい女らしいです。目が大きくて、とろんとしていて」
「夜の神に仕える神官殿か」
少し前に、雲の神殿にやって来た異国の神官としか思えず、ゲルカは問う。
ラフィ・ルーザ・サロと名乗った女性神官は確かに見たことのない肌の色をしていて、大変に美しい人物だった。
「いや、ロウランって名前の魔術師ですよ。バジム様は最近その女を探し回るようになっちまってて、ついこの間やっと見つけたんです。その時に一緒に行った奴が言ってたんで、間違いないです」
では、神官ラフィとは別人なのだろうか。
あんなに美しい女性が二人もいるのか、それとも、姉妹でやって来たのか。
不思議に思うゲルカに、ギュインは肩をすくめてみせる。
「バジム様がフラフラするようになって、営業にも支障が出てたんですよ。魔術師の屋敷に大勢連れていったもんだから、そのせいで踊り子が逃げちまいまして。いつの間にか料理人の男とデキてたとかで、一緒に。入ったばかりの娘にも一人逃げられたし、このままじゃ他の娘っ子たちも続いちまいます。ジュエットが随分厳しく締め付けてたから、売り上げの悪い子は特に、不満があると思うんで」
店の目玉であろう少女たち以外もきっと、不安や不満を抱いているだろう。
劇場周辺の清掃も行き届かなくなっているようだし、裏で見かけた仕事風景も、本来は用心棒たちがするものではなかっただろうから。
「今、バジム殿はどうしているのかな」
「ああ、ロウランって女から劇場で待ってろって言われたとかで、自分の部屋にいるらしいです」
「なんとか会えないものだろうか」
「どうでしょうねえ。今はとにかくラジュとジュエットがぴりぴりしてて」
「ラジュというのは今日会った女性かな」
「ああ、すいません。そうです。ラジュは舞台で歌ってるんで、ちゃんと営業できないと困っちまうんだと思います。ジュエットっていうのは、娘っ子たちの教育係で。ジュエットもかなり気の強い女だから、一筋縄ではいかないんじゃねえかなあ」
他にも営業に関わる腹心が二人いるとギュインは話した。
彼らは必死に走り回って、今夜はなんとか開店させると思う、らしい。
「君はもうあの劇場は辞めるのか」
「正直、もう駄目だと思うんです。バジム様はおかしくなっちまったとしか思えなくって」
「急にそんなことになってしまったのかな?」
「ええ。そもそもは、ザグって奴の話がきっかけだったんです。北にある食堂でおそろしくいい女を見つけたって、飯の時に言いだして。バジム様は鼻で笑ってました。俺はいろんな街でいい女をたくさん見て来た、どうせたいしたことないだろうって」
その後街へ繰り出して、バジムは黒い肌の女を見かけた。
偶然の出来事で、見かけただけ。言葉も交わしていない。
それなのに劇場の主はその一瞬で恋に落ち、どうしても会いたいと彷徨い歩くようになってしまったという。
ゲルカは夜の神官の行方を知らない。
すべての神殿をまわると聞いたが、その後どうしているかはわからなかった。
「ギュイン、話を聞かせてくれてありがとう」
情報を伝えてくれた礼を言うと、大男はまた身を縮めてぺこりと頭を下げた。
「いえ、神官長様。ラジュを止められなくって、すいません」
叩かれたところは痛くないか、ギュインは心底申し訳なさそうに尋ねている。
「ガキの頃、雲の神殿に世話になってたことを思いだしたんです。おふくろに連れられて神殿に行って、親切にしてもらったなあって」
どこかの街の雲の神に仕える同士に、心の中で礼を言う。
ギュインは故郷へ戻ると言うので、旅の無事を祈り、神殿の入り口まで付き添い、見送りをした。
「ゲルカ様、食事の用意ができました」
エリアに声をかけられ、神官たちの待つ食堂へと向かう。
祈りの時間を持ち、今日の糧に感謝をし、静かに食事をすすめていく。
それが終わると、ゲルカは神官たちにこう尋ねた。
異国から来た黒い肌の女性について、なにか知らないかと。
「それは、無彩の魔術師と共にいた方でしょうか」
「ウィルフレドという武人の恋人だと聞きましたが」
いくらか証言は出てきたが、魔術師なのか神官なのかはっきりしない。
瞳の色は黄緑色だと記憶していたが、青紫色だという声も聞こえている。
「リシュラ神官長と歩いていらしたところを見ましたが……」
最後にはこんな話が飛び出してきて、ゲルカは首を傾げた。
すべての神殿を巡ったのだから、キーレイも夜の神官とは会っているだろう。
一度確認しに行くべきだと考え、神官たちへ礼を言う。
神官長はお年なので、夜間の仕事からは解放されている。
神殿近くの寮へ戻って、着替えながら明日の予定について考えていく。
劇場の様子は見に行きたいが、駄目そうならなにか手を打った方がいい。
大抵の商人たちは互いについて知っているが、バジムはそうではなさそうだった。
誰か親交のある者がいないか探りたいが、誰が適当なのかはまだ思いつきそうにない。
黒い肌の女については、キーレイに聞くのが早いだろう。
今は魔術師の屋敷を訪ねる為に外出している可能性が高いから、手紙で済ませても良いかもしれない。
寝間着に着かえてから、女に叩かれたことを思い出し、頬を撫でる。
特に痛みもないから問題はないだろう。
あんな風に暴力を振るわれたのは久しぶりで、ゲルカは小さく笑いを漏らしていた。
神官長の朝は早い。
神殿の別館で預かっている少女たちになにかが起きるのは大抵夜中で、朝は必ずなんらかの報告がある。
辛い出来事を思い出して泣き出す子もいるし、胸に溜め込んでいた怒りを爆発させた娘に壺を割られることもある。
今日は悲しみに暮れる少女に、神官が一晩中付き合っただけで済んだ。
部屋がからっぽ、行方がわからないと言われた時以上の衝撃はきっとないだろう。
全員が無事に朝を迎えられただけで、もう充分。
雲の神に感謝の祈りを捧げて、ゲルカは一日の務めの為に神殿へと向かう。
朝も早いのにもう怪我人がやって来ており、癒しの順番を待っていた。
「緑」に挑んだ初心者であろう若者たちは、ろくな装備品も持っていないようだ。
五人で来たようだが、揃いも揃って傷だらけで、神殿の入り口が血で汚れていた。
「大丈夫かな。この傷、鼠にやられたもののようだね」
癒しの為の神官は今は三人しかおらず、二人は顔を歪めたまま順番を待っている。
うーうーうるさい若者の前に進み、ゲルカは跪いて祈りを捧げていった。
ズボンの裂け目は血が滲んで黒ずみ、ブーツも傷だらけで穴も開いている。
少しくらいは訓練をしてから挑んでほしいものだが、カッカーの屋敷以外に練習できる場所はない。
西の荒れ地か、街に入る手前の空き地を使えばいいのだろうが。
なんにせよ、迷宮に挑む為に鍛えるという強い意思がなければ、探索志望の若者たちがわざわざ訓練をすることなどない。
東の大門近くに建設中の訓練施設が早く完成すればいいのだが、揉め事があったと聞いている。
なにもかもがうまくはいかないのが人生ではあるのだが。
若者たちの為に私財を投げうつカッカーに、なにか良いことがあればいいとゲルカは思う。
「よし、これでいい」
「ありがとうございます、神官様」
ボロボロになった若者に礼を言われて、隣でしょぼくれる仲間にも癒しをかけていく。
服も靴も新調しなければならないだろう。
いきなり探索に挑むのではなく、しばらくは地道な労働に精を出した方がいい。
そんな助言をして、若者たちを送り出した。
財布の中身は乏しく、正規の癒しの料金は徴収できていない。
今夜の宿代まで搾り取るわけにはいかないから、仕方がない。
神官たちは早速床の掃除に取り掛かり、雲の神殿の床を元通り、白にしていく。
神官長も一緒になってたらいを運び、椅子についた汚れを拭った。
初心者たちが大勢やってくる神殿は、若者たちのせいでとにかく汚れる。
「橙」に近いかまどや皿の神殿も同様で、神官たちは皆いつか掃除の達人になるのが常だった。
長椅子の下を拭いたせいで、腰が痛い。
ゲルカはやれやれと立ち上がり、伸びをしていた。
「ゲルカ様」
名を呼ばれ、ゲルカは振り返る。
声をかけてきたのはオルガスで、その背後にはひょろ長い影が控えていた。
「神官長様にどうしてもお話があるそうでして」
「そうか。では、私の部屋へ」
顔を見なくても、名乗られなくても、シルエットですぐにわかった。
やって来たのは鍛冶の神官、デルフィ・カージンであり、もじゃもじゃと生えていた髭はもうなくなっていた。
白い雲の神官衣は、掃除をした後は必ず汚れる。
ゲルカは手早く上着を脱ぎ、気付いた神官が受け取ってくれた。
「久しぶりに顔を見られたね」
「はい、ゲルカ様」
腰をとんとんと叩きながら神官長の部屋へ向かい、デルフィを迎え入れる。
清潔な神官衣を纏っている間にオルガスがやって来て、二人分の飲み物を置いて去っていった。
「相変わらず、随分痩せている」
ちゃんと食べているかと問いかけると、デルフィは薄く微笑んだ顔で頷き、大丈夫だと答えた。
「ならば良いが」
鍛冶の神官は擦り切れた服に身を包んでいて、首にぶら下げた神官のしるしだけがきらりと光っている。
いくつもの染みがうっすらと見えているし、独特の香りがして、薬草業者のようだとゲルカは思った。
まずは二人で祈りを捧げていく。
再びまた会えたこと。今日まで身が守られ、無事に暮らしてこられたことに。
「それで、デルフィ・カージン。今日はどうしたのかな」
この鍛冶の神官が現れるとしたら、なにかがあった時だと思っていた。
理由はいくつもある。
そもそも、最初に現れた時から、デルフィはいくつも秘密を抱えていただろうから。
今、目の前に座るデルフィの表情は穏やかだが、苦悩の色も浮かんでいるように見える。
瞳の奥に不安の影を感じ取り、ゲルカはまっすぐに見つめたまま答えを待った。
「ゲルカ様は、迷宮調査団のヘイリー・ダングを知っていますか?」
「ああ、知っているよ」
まずはこう問いかけ、デルフィは答えを聞いて俯いている。
「ダング調査官は最近この街へ来たばかりだが、治安を守る為に歩き回り、人々の相談に乗っている。大きな事件が起きた時には調査に向かい、火事にも対処してくれた」
デルフィは静かに頷き、息を吐いている。
なにを伝えにやって来たのか、ゲルカも口を閉ざしたまま、静かに待つ。
「僕は……、ヘイリー・ダングに会いに行かねばなりません」
「話すことがあるのかな」
「はい。彼に会って、伝えなければならないことがあります」
ゲルカはそうかと言って頷き、デルフィは目をふせたまま、こう続けた。
「共に来て頂くわけにはいかないでしょうか」
「私に?」
「はい。僕が話す間、同席して頂きたいのです」
「大切な話のようだね」
「そうです。これ以上口を閉ざしていてはならないと知ったので」
細い体を震わせ、デルフィは強い口調でそう話した。
「私の力が必要だというのなら、共に行こう」
「ありがとうございます、ゲルカ様」
大きく頷くゲルカに、デルフィは強く目を閉じると、もう一つの頼みを打ち明けていった。
「それから、この話が終わった後で」
「なんだろう、デルフィ」
「雲の神殿に仕えたいと思っています」
鍛冶の神官の目はまっすぐにゲルカに向けられている。
「長い間鍛冶の神に仕えてきましたが……、今の僕に必要なのは、雲の神の教えだと思うのです」
「もう決めたのかな」
「はい。時間をかけて考えました」
「ならばその通りにしよう」
デルフィは頷き、神官長に向けて深く頭を垂れていく。
「ダング調査官の元へは、早く行った方がいいのかな」
「はい、できるだけ早く」
「今から向かおうか」
ヘイリーは毎日迷宮都市を歩き回っている。
確実に会いたいのなら、朝の早い時間に向かった方がいいだろう。
ゲルカは神官に声をかけ、衣を用意するよう頼んだ。
急に用意されたまっさらな白い神官衣はデルフィには短い。丈の長さで信仰が損なわれるわけではないが、着ると幼い子供のような姿になってしまい、改めて用意しようと話はまとまっていた。
とても神官らしい姿ではないが、大切なのは心だから。
ゲルカはそう話すと、新たな使徒と共に迷宮調査団へと向かった。




