209 遠来の客人 4
屋敷へ戻ると決めて、クリュはリシュラ邸を後にしていた。
一人で歩かせるのは心配だからという理由で、神官長が自ら同行を申し出て、誰だかわからないが剣を提げたお供を連れている。
「本当にいいのかな、クリュ」
あんまり念を押されると、不安になってしまう。
危険な魔術師の対策を任された張本人に言われてはハラハラしてしまうが、でも、流水の神官に勇気をわけてもらったから。
今は胸のうちに炎を感じていて、必要以上に逃げたくない気分になっていた。
「大丈夫です。一人じゃないし」
キーレイは頷き、樹木の神への祈りを囁いている。
神官たちは皆こんなにも祈りを口にするものだったのかと、クリュは感心していた。
「そうだ。神官長さん、この服、貸してもらったんですけど」
「服を? なにかあったのかな」
「マティルデって子が追いかけてきた時、俺、中庭に隠れたんです。それで汚れちゃったのかな。お屋敷に着いた時に着替えた方がいいって言われて」
この着心地の良い服は、いつもやっているような適当な洗い方をしても大丈夫なものだろうか。
心配で聞いてみたのだが、神官長からは豪邸住まいの上級探索者らしい答えが返って来た。
「君の着てきていた物は後で届けさせよう。その服はそのまま使うといい」
「え、いいの?」
キーレイは微笑んで、中庭の話を聞かせてくれた。
あそこの維持には手がかかり、定期的に職人を呼んで手入れなどをしなければならないのだと。
「あの中庭があって良かった。神殿に来ただけの者はあそこの存在にあまり気付かなくて、勿体ないと思っていたんだけど」
「昨日、チュール様とあそこで会ったんです。たまたま通りかかっただけなんだけど、チュール様が座ってて、あの中庭が好きだって話してました」
「そうだったのか。チュール様も驚いただろうね。自分とそっくりな君がいきなりやって来たんだから」
そうなのかな、とクリュは思った。
昨日、突然やって来た自分をチュールは隣に招いてくれた。
ただ隣の屋敷から現れた若者として扱い、フォールードの様子を聞き、思わず泣いてしまった自分を慰め、祈りを捧げてくれた。驚いた様子などなかったように思う。
立派な神官のようだから、多少のことでは動じたりしないのかもしれない。
ちらりと見上げた隣の神官長は、微笑んだ顔をして歩いている。
キーレイもまた頼もしく親切だが、チュールとは印象が随分違った。
樹木の神殿に辿り着き、中庭を通り抜けて、屋敷へと戻る。
厨房からは良い香りが漂っていて、ギアノが菓子を焼いているところだった。
「あ、キーレイさん。クリュも。大丈夫か、怪我はしてない?」
「うん、大丈夫」
「ではギアノ、なにかあったらすぐに報せてくれるかな。私は出掛けるから、後のことはケルディに」
「わかりました。キーレイさんも気をつけて」
神官長は去り、クリュはすすめられて厨房の隅の椅子に座った。
焼きたての菓子を一つ渡され、匂いに抗えずにそのままかじる。
できたばかりの焼き菓子は店に並んだものとは少し違った味わいで、香りが特に良い。
幸せな気分だったが、こんな好待遇は初めてで、戸惑ってしまう。
「ごめんな……、本当に。びっくりしただろう?」
「朝のこと? うん、そりゃあ驚いたよ。怖かったし」
「ティーオに言ってなかったんだ、マティルデのこと。その方がいいと思ってたんだけど」
再度謝られ、クリュは素直な気持ちを口に出していく。
「どうしてギアノが謝るの?」
問い掛けた瞬間、ふっと思い出したことがあった。
屋敷にいた女の子が、レテウスに驚いて悲鳴をあげて逃げていく姿だ。
はっきりと顔を見たわけではないが、長い茶色い髪がひらひらと揺れていた。
アダルツォの妹が後を追っていった、あの時の少女だったのではないだろうか?
「あの子はいろいろあってね。少しの間面倒を見てほしいって頼まれたんだ」
「女の子の面倒を?」
「うん。説明するにはちょっと……、だいぶ込み入ってるんだけど」
「別にそこまで詳しく話さなくてもいいよ」
ギアノは助かると呟き、最終的にマティルデは雲の神殿に預けられたと、手短に話した。
「あの子は男が怖くて、それを克服できると思って頼ったんだけどね。でも、神殿暮らしが窮屈で、抜け出しちゃったんだ。鍵が開いてたらしくて、夜中にこっそり出て行って、トラブルに巻き込まれて」
気が付いたら魔術師の弟子になっていた。
急にいい加減にまとめられた説明に、クリュは顔をしかめてみせた。
「わかるよ。わけがわからないよな。俺も人から聞かされただけで、詳しくは知らなくて。西にできた大きな劇場で働かされそうになって、逃げて、それで魔術師の屋敷に辿り着いたとかで」
「そんなことで弟子になれるものなの? 魔術師になるの、大変そうなのに」
「俺もそう思ってるよ。それに、マティルデは本当はあんな風じゃないんだ。もっとのんびりした女の子のはずなのに」
ため息をつく管理人の横顔には、苦悩の色が浮かんでいる。
「あの子、ギアノの恋人なの?」
「え? いや、違う。そういうんじゃないんだ。ちょっと頼られてただけで」
「本当に?」
急に慌てだした様子がおかしくて、クリュはにやりと笑う。
「違うって。そんな顔をするなよ、クリュ」
「顔が赤いよ」
「え? いや、その……」
「いいじゃないか、別に、好きな女の子がいたって」
大きな瞳の可愛い子だった。
頼られ、面倒を見ていたのなら、浅い関係ではなかったのではないか?
「誤解だ、クリュ」
「へえ、そっか、ふふ」
「わかった、誤解されたままの方が困るから、正直に言うよ」
まだ人には言わないようにと前置きをして、ギアノは本当に正直に打ち明けてくれた。
アダルツォの妹、アデルミラと結婚の約束をしているのだと。
「え、そうなの。そっか。ごめん、ギアノ」
「いいんだ。隠すようなことじゃないんだよな、本当は」
「なんで秘密にしてるの?」
「クリュはダインを知ってるよな。少し前にここで暮らしてた」
「ああ、あの嫌な奴?」
ダイン・カンテークは死に、預けた商人とカッカーの間で少し揉めている。
今はめでたい話をするタイミングではないから、皆が騒がないようまだ公表していない。
ギアノはため息まじりに深刻な顔で、もう茶化すことはできなかった。
「そうなんだ……。ギアノも大変だね」
「クリュだって大変だろう?」
ギアノは小さく微笑むと、あの後どこに隠れていたのかクリュに尋ねた。
神殿に繋がる中庭の木陰に身を潜めていたと話すと、そうかと呟き、小さく頷いている。
「探しに行きたかったんだけど、ティーオが混乱しちゃって」
「ティーオはあの子とどういう関係なの?」
「随分前の話だけど、マティルデは迷宮の中で倒れてて、ティーオが助けたらしいんだ」
そんな大変なことをやり遂げたとは、驚きだった。
今は商人になってしまった同居人について、根性のある男だったと感心し、好意を寄せていたからこそ、最近の様子について伝えられなかったという経緯も理解していく。
「キーレイさんが助けてくれたのかな」
「ううん。俺はずっと隠れてて、チュール様が来てくれたんだ」
「チュール様って、……フォールードの恩人の?」
「見てないの? 昨日も来てたけど」
「俺は見てない。今、迷宮都市に来てるのか」
「うん。俺は昨日たまたま中庭でチュール様に会って、それで今日もあそこに隠れたんだ」
その後はキーレイの家に匿われたが、結局は帰って来た。
クリュの説明に頷くと、管理人はこんな俗っぽい質問を投げかけて来た。
「そのチュール様って、本当に似てたのか?」
「俺に?」
ギアノが頷き、クリュは考える。
確かに似ていたけれど、形だけの話に過ぎず、自分から認めるのは気恥ずかしい。
「見た目は似てるかも。自分の顔みたいだって思ったから」
「じゃあ、似てるってことだよな」
仕事の速い管理人は、クリュが気付かないうちにお茶の用意をしていたらしく、期間限定の居候にもふるまってくれた。
自分の分も用意して、ギアノは一口すすってふうと息をついている。
「でもさ、ギアノ。俺、似てないと思ったんだ」
「チュール様に?」
「うん。似てると思ったけど、俺と違ってなんていうか、綺麗で」
どっちなんだよ、とギアノは笑っている。
唇を尖らせたクリュをまじまじと見つめて、こう呟いた。
「クリュも綺麗だよ。自分だとそう思わないもんなのかな」
「わかんない」
「俺はものすごくびっくりしたからな」
「なにに?」
「クリュと初めて会った時だよ。ティーオがあれこれ言ってきたから、どんな奴が来るのかなって思ってたけど、衝撃だったからね」
「なんだよ、衝撃って」
「こんなに綺麗な人間がいるのかって驚いたんだよ。死んだのかと思ったくらいだから」
「死んだって、なんで?」
「聞いたことあるだろ。死んだ時は、案内人が来て女神のところまで連れていってくれるって。光り輝く美しい使者が共に歩いてくれるってやつ」
「なにそれ、聞いたことないよ」
「え、本当に? あれ、もしかして漁師だけの話なのかな」
管理人の話すおとぎばなしについては心当たりがないが、とにかくギアノは、死が訪れた時に現れる使者なのかと思ったようだ。
「カッカー様の奥さんでヴァージさんって人がいるんだけどさ。ヴァージさんも美人で驚いた。あんな綺麗な人初めて見たと思ったんだ」
「へえ」
つるつる強面のあの前神官長に、そんなに素敵な奥さんがいたなんて。
クリュは感心し、ギアノはにこやかな顔で続けていく。
「あと、最近やって来たっていう西の国出身の魔術師の人ね」
「それって、肌が黒いっていう? 神官じゃなかったっけ」
「神官じゃなくて魔術師だよ。その人もまあ、びっくりするほど綺麗でね。さすが迷宮都市はあちこちから人が来るところだって思ったんだ」
ウィルフレドも相当な男前だし、街中で働く従業員にも美しい人は大勢いる。
ギアノはそう話した上で、だけど、と更に続けていく。
「一番びっくりしたのはクリュだ」
「……どういう意味?」
「一番きれいだと思ったのはクリュだって話だよ。俺の場合はだけどね」
褒められたのだろうけれど、礼を言うべき話なのかどうなのかよくわからない。困ってしまってなにも言えない。
お茶を飲んでは考え、まとまらずにまたお茶に手を伸ばし。
「ギアノさん、あ、クリュさんも」
声をかけてきたのはアデルミラで、にこにこと優しい笑顔を浮かべている。
「ああ、もう時間か。クリュ、今からお隣にお菓子を運ぶから、手伝って」
「お隣って、神殿に?」
「そう。お茶とお菓子を用意してるんだ。一人になるよりいいだろ」
ギアノが菓子を焼いていたのは、神官たちの為だったらしい。
毎日用意してもらえるなんて、うらやましい話だ。
クリュはそんな考えで複雑な胸中を紛らわせ、二人と一緒になってトレイを運ぶ。
戻ってきたら夕食の仕込みを始める時間だと言われ、野菜の皮剥きを任される。
貸家でよくやる仕事なので、指導されなくてもこのくらいはできる。
芋の皮を剥いていると、レテウスとシュヴァルがどうしているか気になってきて、クリュは窓の外を見上げていた。
最初のうちはオンナ呼ばわりされたし、レテウスがなんにも知らなくて怒ったこともあったけれど。
今はギスギスすることはなくなり、日々はうまく回っている。
あんな風に他人と暮らせるようになるとは思ってもみなかった。
旅が無事に進んでいくように祈りたいが、どうしたらいいのだろう。
樹木の神官長と、同じ顔の流水の使徒。自分の為に祈ってくれた二人の言葉を思い出し、シュヴァルの顔を思い描いていく。
「あ、クリュ」
厨房の入り口からティーオが覗き込んでいた。
バツの悪そうな顔をして、今日は本当にごめんな、と掠れた声で謝ったようだった。
「ちょっと待ってて。先にギアノのところに行ってくるから」
今日の売り上げの管理があるのだろう。ティーオは廊下を駆け抜け、すぐに戻って来るとクリュの隣に座った。
すぐそばでアデルミラが作業をしていたが、察してくれたようでなにも言わずに厨房から去っていく。
「本当にごめん。知らなかったんだ、いろいろ。マティルデが弟子入りしたとか、クリュを探しまわってたとか」
静かに頷き、しょぼくれる同居人に目を向ける。
「すごい迫力だったよな。怖かっただろ」
「うん。でもまあ、捕まらなかったし、いろんな人が手を貸してくれたから」
「そっか。……昨日、家に戻って来なかっただろ? 俺だけじゃ頼りないのかってちょっと思ってたんだけど、こっちにいて良かったんだよな」
貸家にマティルデが来ていたら、危なかったと思うから。
ティーオは珍しく落ち込んだ様子で、クリュは大丈夫だからと答えていく。
「俺、ティーオの店にいさせてもらおうかって考えたんだよ。でも、邪魔かなって思ったんだ。店の邪魔するよりは、ここでなにか手伝った方が良さそうだって思っただけで」
「そうなの? クリュがそんな風に気を利かせてたなんて、意外だな」
「どういう意味だよ」
「いや、ちょいちょい見てるから、図々しいところを」
心当たりがあって、言い返せない。
食べ放題なら行ってもいいと考えていた自分を思い出し、クリュは唇を尖らせている。
「レテウスさんたちが戻るまで、ここにいるよな?」
「うん」
「あの二人、いてくれるだけで心強いもんな」
レテウスは単純に強いし、迫力がある。
シュヴァルは頭の回転が速いし、口で敵う者などいないだろう。
小さな親分と大きな子分が戻ってくれば、安心できる。ティーオの言う通りだと考え、クリュは素直な気持ちを打ち明けていった。
「レテウスはなんていうか、扱いやすくって。貸家で暮らせるようになってラッキーだって思ってたんだけど」
でも、今は仲良く過ごせるようになったから、出会えて良かった。
そう言いたかったのに、ティーオはクリュの言葉遣いが引っかかったようだ。
「なんだよ、扱いやすいって」
「珍しいんだよ。すぐに俺が男だって気付くのも、がっかりするだけで終わるのも」
ティーオたちと遭遇した時はほとんど裸だったから、誰も勘違いせずに済んだ。
出会い方が違っていたら、どう接していたかはわからないとクリュは思う。
「レテウスは変なこと言ってこないし、シュヴァルはまあ、最初は嫌な呼び方してきたけど、もうやらないだろうから」
「……苦労が多いんだな、クリュ」
「うん」
「だけどさ。世話になってると思うなら、ちゃんと一部屋分の家賃を払ったらどうかな」
何故、ただで住んでいると知っているのか。
なんとか誤魔化したいところだが、クリュははたと気付いて、ティーオを見つめた。
「そうだよね。わかった。探索に行けるようになったら、ちゃんと払うよ。神官長さんならあの魔術師のこと、なんとかしてくれるだろうし。探されなくなったら多分、大丈夫だろうから」
「お、言ってみるもんだな。本気で言ってるんだよな、クリュ」
「なんだよその言い方は」
「いや、ただで住み着いてるんだから、言われても仕方ないだろ」
「だって、変な奴に邪魔されることが多いんだもん。記憶も全然戻らないし……」
体がぶるっと震えて、涙が込み上げてくるのがわかる。
泣き虫な自分は嫌だ。チュールと向かい合った時間を思い出し、心の炎にくべる燃料がないか探していく。
探索者になりたい。迷宮は、自由なところだから。
探索者には敵と戦い、歩き抜く力さえあればいい。
誰もが平等に命をかけて、目標に向かって進む場所。
他人に構っている場合じゃない。だから、あそこでは誰もクリュに余計なことなど言わない。
チュールが迷宮に自由を見出した理由をはっきりと理解し、神官にもらった勇気のかけらを投げ込んでいく。
必要なのは涙ではなく、心のうちで燃え盛る炎だ。
そう強く意識すると、泣き虫な自分は引っ込んでいって、涙が落ちることはなかった。
「俺、頑張る。いい仲間を探すんだ」
「クリュ、お前、どうしたんだよ」
「なにが?」
「いつもなら泣くところだろ」
そんなことを言われたら、また泣き虫が動きだしてしまうではないか。
「ティーオの意地悪」
「どうした、クリュ。喧嘩してるわけじゃないよな?」
いつの間にやって来たのか、ギアノが厨房を覗き込んでいた。
ティーオは慌てて手を振り、なんでもないよと嘯いている。
「せっかくだし、ティーオも食べていったらどう?」
「いいの、ギアノ」
「一人じゃ寂しいだろ」
危ういところで涙の出番はなくなり、ごめんごめんと謝られて、諍いは終わった。
二人でスープを作り、アデルミラに頼まれて皿を出して並べていく。
初心者たちが大勢屋敷へ戻ってきたらしく、廊下の向こうが騒がしくなっていった。
今日の成果を報告しあったり、ギアノに肉の買取りを頼んだり。
鍋の番に飽きてクリュが廊下の様子を眺めていると、一際大きな声が聞こえてきて、馴染みの五人組が姿を現していた。
「お帰り、フェリクス!」
「うまくいったの?」
まずはアダルツォが、周囲の声ににこやかに答える様子が見えた。
次にカミル、コルフが続いて、大きな影がにゅうっと現れる。
フォールードもかけられた声に答えていたが、クリュと目があった瞬間、驚いた顔をして固まり、背後にいたであろうフェリクスがぶつかってしまったようだ。
「なんだ、どうした、フォールード」
廊下の角で動かなくなってしまった戦士のもとに、クリュは急いで向かう。
「あれ、クリュ。来てたの?」
「うん」
アダルツォに頷き、戦士に呼び掛けていく。
「フォールード」
「は、はい」
「まだ聞いてないかな。チュール様が来てる」
「はい?」
「恩人なんだろ。チュール様とアークって人が、フォールードに会いに来てて」
「……はい?」
「今、樹木の神官長さんの家にいるんだ」
フォールードはしばらく目を瞬かせていたが、急に言葉を理解できたのか、慌ててクリュの肩を掴んだ。
「痛ぁ!」
「うわあ、すまねえ!」
今度は激しく謝られ、落ち着くよう声をかけていく。
もう一度流水の神官の話を聞かせると、フォールードは焦ったのかその場でくるくると回り始めた。
「行かなきゃ! ああでも、体を洗った方がいいよな! はっ、着替え! うう、おい、そんなことしてたら遅くなっちまわねえか!」
「フォールード、落ち着けって」
見かねたのか、アダルツォが手を引き、フォールードを連れて裏庭に去って行く。
放り出された荷物はフェリクスが拾って二階に持っていき、親切なことに着替えを用意して届けている。
まだ少し水に濡れた状態で廊下に現れると、フォールードはどちらへ向かうか迷いを見せたものの、樹木の神殿に続く扉に飛び込んでいった。
「騒がしいな。フォールードの声がしたみたいだけど?」
ギアノがやって来て、クリュはこう答えた。
「チュール様が来てるって教えたんだ」
「キーレイさんの家にいるんだっけ」
だから、樹木の神官に案内を頼もうと思ったのだろう。
夜も更けてきたが、寝る時間にはまだ早い。
「探索から戻ったばかりなのに」
「でも、早く会いたいんじゃないかと思って」
「フォールードはまあ、そうだろうな」
「チュール様もだよ。フォールードのこと、聞かれたんだ」
クリュが答えると、ギアノは少し驚いた顔をして、そうかと呟いた。
残された四人の為に夕食を用意して運び、隣に座って、仲間に入れてよと言ってみる。
良い答えはもらえなかったものの、カミルたちの態度は柔らかくなって、以前のような冷たさはなくなったようだった。
カッカーの屋敷で最も有望だと思われている五人組は、「赤」の探索に行ってきたらしく、二十層目に辿りついたと話してくれた。
「クリュ」
翌朝、ギアノに声をかけられて目を覚ました。
管理人の部屋の片隅で身を起こし、寝坊したのかと焦って立ち上がる。
「フォールードが話があるんだって」
「俺に?」
窓の外はまだ薄暗く、早い時間だとわかる。
クリュが廊下に出てみると、フォールードが緊張した顔をして待っていた。
「おはよ、フォールード」
「はい」
「話ってなに?」
大きな体の戦士はぱくぱくと口を動かし、すうはあと何度か呼吸をして、気持ちを整えたようだ。
「昨日はその、教えてくだすって」
フォールードは必要以上に頭を下げて、ありがとうございましたと言っているようだ。
「チュール様のこと?」
「そうです。それで、チュール様なんですが、もうそろそろこの街を発つ予定になっておられますようで」
「ねえ、普通にしゃべっていいよ」
「そうですかい? じゃあ、普通に」
おかしな返答をして、フォールードはそわそわした様子で話を続けた。
「チュール様はもう、神殿に戻るらしいんです。長居しない方がいいんじゃないかってことで」
最近起きた騒ぎは、因縁の魔術師、ホーカ・ヒーカム絡みのようだから。
確かに、のんびり滞在してはいられないだろう。
チュールは良いと言っても、アークが黙っていないに違いない。
「昨日の夜会いに行けて良かったです。今朝聞いてたら間に合わなかっただろうから」
「ちゃんと会えたんだ。良かったね」
「はい。それでこの後、見送りに行くんです」
「そっか」
「チュール様が、もう一度クリュさんに会いたいって言ってて」
意外な話に、クリュは驚いていた。
胸のうちに暖かいものが生まれて、フォールードに向けて頷き、答える。
「わかった」
「良かった」
戦士の向こうから誰かが歩いてくる。
小さな影の正体はアダルツォで、正式な神官衣を身に着けていた。
「アダルツォ」
「やあクリュ、おはよう」
「チュール様は兄さんにも会いたいって言ってて」
「兄さん?」
「俺のこと。フォールードはなんでかそう呼ぶんだ」
アダルツォは困った顔をしているが、嬉しそうでもあった。
「すぐに行かなきゃってことだよね。着替えるから、ちょっと待ってて」
管理人の部屋の隅で、一番きれいな服を選んで着替え、廊下へ飛び出していく。
二人と共に向かった先は街の南側、リシュラ邸の前で、既に馬車が用意されていた。
「チュール様!」
フォールードの呼びかけに頷き、流水の神官は三人の若者を優しい顔で出迎えてくれた。
まずは小柄な神官に目を留めて、白い手を差し出している。
「君がアダルツォ・ルーレイですね」
「はい。雲の神に仕えています」
「フォールードによくしてくれて本当にありがとう。これからもこの子を頼んでいいですか」
「もちろんです」
神官同士だからなのか、二人は自然と声を合わせて祈りを捧げている。
それが終わるとチュールはクリュの前にやって来て、にっこりと微笑んでくれた。
「サークリュード。昨日は私の話を聞いてくれてありがとう」
「そんな。俺の方こそ、たくさん聞いてもらって」
短い時間だったが、多くのものをもらったように思う。
体の奥からこみあげてくるものがあったが、クリュはなんとかそれをこらえて笑顔を作った。
チュールの手が伸びてきて、優しく抱きしめられる。
体が触れ合う感覚が、酷く懐かしい。
胸の内から湧き出してきた暖かいものに押され、クリュも神官の背に手をまわし、身を預けた。
「君の未来に、いつまでも美しい水が注がれ続けますように」
囁くような祈りの言葉が、心の奥深くまで、静かに、静かに、沁みていく。
「ありがとう、チュール様」
幸せな時間はこれで終わり。チュールはアークの隣に並ぶと、また必ず来ると言って馬車に乗り込んでいった。
◇
「なんていうかさ……」
屋敷の食堂の端の席で、アダルツォはほうっとため息をついている。
「どうしたの、アダルツォは」
コルフとカミルは怪訝な顔で仲間の様子を窺っている。
「すごかったんだよ」
「なにが?」
「綺麗でね」
「なにが」
「俺にはわかります、兄さん」
フォールードの隣で、フェリクスも不思議そうな顔をしていた。
二人は目の前に用意された朝食に手をつけず、ふう、ほうとため息ばかりついているようだ。
「こんなところまで俺に会いに来てくれるなんて……。チュール様は本当に優しい人なんだ」
「アークも来たんじゃないの?」
フォールードは首を振り、もう一人の恩人の話題を完全に無視してみせた。
「二人もチュール様を見たら腰を抜かしちまうぜ」
「呼んでくれたらよかったのに。僕たちだってカッカー様の昔の仲間に会ってみたかったよ。なあ、コルフ」
「ふふ、そうだろう、そうだろう。ひと目見たら一生忘れないぜ」
会話がかみ合っていないと思ったのか、カミルとコルフは顔を見合わせている。
「酷いな、フォールード。チュール絡みだとなんでそんな風になっちゃうんだよ」
「おい、呼び捨てにするんじゃねえって言ってんだろ!」
コルフの笑い声が響いている。
五人組の朝食の席は和やかで、今だとばかりにトレイを持って近づき、クリュもすぐそばに腰を下ろした。
「おはよ、みんな。俺もここで食べていいかな」
「やあ、クリュ。二人と一緒に見送りに行ってたんだって?」
カミルに問われ、頷いて。
「昨日ちょっと、いろいろあって。チュール様に助けてもらったんだ」
「助けてもらった?」
「なにがあったんだい、クリュ」
マティルデという子の話をしてもいいのだろうか。
この面々はティーオの元仲間で、なんらかのしがらみがあるかもしれない。
クリュはそう考え、言葉を選んで事情を話していった。
「偶然そこの、神殿との間の中庭で会ったんだよ。フォールードはどんな感じかって聞かれて、答えて、それで悩みを相談させてもらって」
「ここに来てたの?」
「うん。お気に入りの場所だって話してた」
強い視線を感じる。
クリュを睨みつけるように見つめているのはもちろんフォールードで、鼻息荒く話に耳を傾けているようだ。
アークと同じように、チュールを特別な人だと思っているのだろう。
「清らかで美しい女神の再来」の姿しか見たことがないに違いない。
流水の使徒エルチュール・トゥレスは、家を追い出された子供たちを優しい神官の顔で迎え入れて、共に過ごしているだろうから。
あんな風に愚痴を言ったり、アークを撒いて逃げる様を見たのは自分だけなのかもしれない。
二人だけの秘密ができたようで、なんだかおかしくなってくる。
理由がはっきりとわかれば、いちいち睨みつけてくる戦士のことももう怖くはない。
「ねえ、フォールード。俺に剣を教えてよ」
「は? え、なんですかい」
チュールは共に暮らすアークの愚痴を言っていたが、ちゃんと褒めてもいた。
元は王都の騎士で、剣の達人だったのだと。
「アークに教えてもらったんでしょ? だったらフォールードに教えてもらえば上達できるってことだよね」
頼むよとまっすぐに見つめると、フォールードは顔を真っ赤に染めて、唸るように答えた。
「わかっ……ち」
「いいってこと、だよね?」
「ああ」
ぎりぎり聞き取れる程度の重低音に、カミルとコルフは吹き出している。
「あの、クリュさん」
「なに?」
「俺からもその、お願いが、あるんですけど」
「お願い? なあに」
掠れる声を聞き逃さないよう、耳を傾ける。
フォールードはカップを掴むと水を荒々しく飲み干し、息を大きく吐き出してからようやく、用件を伝えた。
「怒り顔の野郎といっぺん、やりあってみたいんだ」
「怒り顔って……、レテウスか。うん、いいよ。今はちょっと旅に出てるから、戻ったら伝えるね」
「旅に出てるの?」
コルフに問われて事情を伝えると、カミルとフェリクスも納得いったようだ。
「だからギアノのところに泊まってるのか」
「うん」
「貸家から追い出されたのかと思ったのに」
いひひと笑うコルフに、クリュは抗議の声をあげていく。
「なんだよもう、俺が追い出されるわけないだろ」
「さあ、どうだか」
レテウスもシュヴァルも、自分を追い出すはずがない。
カミルもコルフも自分たちの暮らしを知らないからこんな風に言えるだけだ。
何故だか身を寄せ合って暮らしていたおかしな三人組から始まったけれど。
二人は大切な仲間で、迷宮都市で見つけた新しい家族でもある。
今は助けてもらうことの方が、少し多いくらいだが。
ちゃんと家賃を払って、泣き虫を卒業して強くなれば、二人も自分を頼るようになるだろう。
そんな存在になりたいとクリュは思った。
レテウスにもシュヴァルにも、もちろんおまけのティーオにも。
君が居てくれて良かったと思ってもらえるようになりたい。
「見てろよ。俺も強くなって、いい仲間を揃えてやるからな」
まずは食事だと、朝食を口に放り入れていく。
もしも魔術師の弟子が現れても、今度は自分の力で追い返してやる。
クリュはそう心に決めて、友人たちとの食事の時間を過ごしていった。




