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12 Gates City  作者: 澤群キョウ
  X17-A_Pray for You

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207 遠来の客人 2

「あ、おはようございます、クリュさん」

 廊下でパントとクレイに声を掛けられて、そわそわしたまま頷いて。

「ギアノ、どこにいるかな」

「裏庭にいるんじゃないかな。洗濯物を抱えてたから」

「ありがと」


 ティーオの店に行ってもいいが、狭いところにずっと収まり続けるのは辛い。

 商品が食べ放題ならそれでもいいけれど、さすがに許してはくれないだろう。

 財布の中身が心許ないのだから、無駄遣いは避けたい。

 頼れる相手は最後の一人まで絞られている。

 子分同士の仲だし、親切な奴だから、きっといいよと言ってくれるはず。


「よう、クリュ。いらっしゃい」

 教えられた通り、ギアノは裏庭で洗濯をしていた。

 ベッドに掛ける布がこんもりと山を作っていて、大変そうだとクリュは考える。

「レテウスさんたちも一緒?」

「ううん、ギアノにちょっと頼みがあって」


 シーツをざぶざぶと洗いながら、ギアノはクリュの説明に耳を傾けている。

 レテウスとシュヴァルがしばらく留守にすることになり、日中一人でいるのが怖いという訴えを聞いて、なるほどねと呟いている。


「何日くらいで戻ってくる予定?」

「わかんない。レテウスは、片道で二日半かかるって言ってたけど」

「お見舞いするんだもんなあ。じゃあ、八日か九日くらいはかかるかな。でもそれも、なんの問題もなければって話になるから」

「なに、問題って」

「天気が荒れたりとか、あるかもしれないだろ」

 迷宮都市にいると忘れそうになる、とギアノは笑っている。

 ラディケンヴィルスでは雨は滅多に降らないし、気温も一年中、ほとんど変化がないから。

「そっか。確かに、山の方は天気が変わりやすいもんな」

「クリュは雪って見たことある?」

「あるよ。俺は寒いところで育ったから」

「そうなのか。雪って、氷の粒が降ってくるんだろ」


 ギアノは南の暖かいところからやって来たから、寒い地方の暮らしは想像できないようだ。

 ざぶざぶと洗う作業を続けたまま結論を出したらしく、ギアノはクリュに笑いかけてくる。


「わかった。じゃあ二人が帰ってくるまで、ここに居たらいいよ」

「え……、いいの?」

「俺の部屋の隅でいいならね」

「シュヴァルがいた時みたいな感じ?」

「ああ。ちょっと窮屈かもしれないけど」

「いいよ、大丈夫! ありがとギアノ、断られると思ってた」


 素直な感想に、親切な管理人は苦笑いを浮かべている。

 シーツをぎゅうっと絞って、ふうと息をつき、手を止めて。


「クリュを探してるのってマティルデなんだよな」

「それって、茶色い髪の女の子? コルフと話してた時に、急に出てきた」

 ギアノは眉間に皺を寄せて、なにやら考えているようだ。

「あの時、マティルデから逃げてきたのか」

「あの時って?」

「コルフと一緒に来た時だよ。髪を切った日」

「ああ、うん。そうだね。あの子、初めて会ったのに、なんでか俺の名前を知ってて」

「そうだったのか。ごめんな、クリュ」


 どうしてギアノが謝るのか、クリュにはわからない。

 詳しく聞いていいのかどうか判断をつけられずにいると、管理人は勢いをつけてシーツを広げた。


「その代わり、いろいろと手伝ってもらっていいかな。前みたいに探索の指導を引き受けてくれたら嬉しいし、食事の支度なんかは自分でする決まりだから、その辺は皆と同じように守ってもらうよ」

「わかった。大丈夫、ちゃんとやるよ」

「じゃあ、早速頼むよ」


 洗濯を手伝うよう言われて、一緒になって洗って、絞って、干していく。

 ギアノはやけに親切で、マティルデとやらが理由になっているのかな、とクリュは考えていた。


 コルフと共に逃げた時は名前を確認されただけだが、少し前、家の近くにやって来た時はウィルフレドと怒鳴り合っていたようだった。

 謝りに来たとは思えない。謝罪だけなら屋敷に連れていく必要などないのだから、目的はやはり、監禁なのだろう。

 

 あんな目に二度と遭いたくない。

 裸同然の格好でぼんやりとさせられ、抗うことも許されないまま、人目に晒されていたなんて。


 考えていると涙が出てきて、鼻もむずむずしてしまう。

 ギアノは客の異変にすぐに気付いて、優しく背中を撫でてくれた。


「大丈夫か、クリュ」

「うん」

「レテウスさんは頼もしいもんな」


 確かにな、とクリュは思った。改めて能天気なボンボンの存在について考え、いてくれるだけで安心だったのかも、という結論に辿り着いている。


「お隣には神官が大勢いるから、心配しなくていい。ホーカ・ヒーカムの屋敷のことは、キーレイさんが今、動いてくれているみたいだし」

「神官長さんが? あの屋敷をどうするの」

「いろいろと問題が多いから、直接話をつけようとしてるんだ」


 神官たちにも話を通しておくよ、とギアノは言う。

 神官長が対応している魔術師絡みのことだから、ちゃんと伝わるだろうと。

 ありがたい申し出で、頼って良かったとクリュは思った。

 洗濯が終わって屋敷の中に戻ると、廊下でアデルミラに会い、しばらく世話になることを伝えていく。

 アダルツォとほぼ同じ顔の雲の神官は、よろしくお願いしますと微笑んでくれた。


 いくつかの屋敷の仕事を手伝い、昼になって食事を済ませ、お茶を振舞われ。

 クリュは食堂でのんびりしていたが、ふと自分が一人きりになったことに気付いていた。


 ギアノもアデルミラもどこでなにをしているのか、近くに姿がない。

 厨房にも廊下にも裏庭にもおらず、一気に心細くなっていく。

 新たに用事ができたのか、クリュのことを忘れてしまったのか。

 今日は屋敷の住人たちは全員出かけているらしく、大きな屋敷が急に静けさに包まれてしまったように思えて、落ち着かない。


 神殿に向かえばいいのか、なにか仕事がないか探してみればいいのか。

 立ち上がったものの、どうしたらいいのやら。

 意味もなく食堂周辺を行ったり来たりしていると、扉が開く音が聞こえた気がして、クリュは廊下の先を覗いた。


 扉が開いて、つるりと頭を剃り上げた大男が立っている。


「おや、流水の神殿に行ったのではなかったか」

 大男の声はよく響いて、体の芯をびりりと震わせる。

 クリュが立ちすくんでいる間に目の前までやって来て、つるつるの頭を斜めに傾けている。

「……いや、そうか。おお、本当に!」

「え、なに?」

 男は白い歯を見せて笑顔を作ると、クリュの手を握りしめてこう話した。

「カミルとコルフが言っていたのは君なんだな」

「え、え? 誰なの」

「ああ、すまん、すまん。驚かせてしまったか」


 手を掴んだまま、男が名乗る。

 カッカー・パンラ。樹木の前神官長で、この家の主なのだと。


「あなたが聖なる岸壁の、カッカー・パンラ?」

 カッカーはにっこりと笑い、チュールによく似た若者の話を聞いたと話している。

「あの、俺、サークリュード・ルシオっていいます。アダルツォと昔一緒に探索をしていたことがあって、それから、あと、今はティーオと一緒に暮らしていて」

「そうか。皆と縁があるのだな」

「はい。ギアノにもいろいろ、世話になって」

 なんとか自己紹介を終えたクリュを、カッカーはまじまじと見つめた。

「いや、あのチュールに似ているなんて、まさかと思っていたのだが」

 そこまでは上機嫌なようだったのに、急にはっとしたように目を見開き、カッカーは頭を垂れていく。

「ホーカが君に酷いことをしていたらしいな」

 何故だかすまないと謝られ、クリュもさすがに焦ってしまう。

「カッカー様が謝る必要はないんじゃないかと思うんです、けど」

「いや、君に起きた出来事は、私と仲間たちが起こした諍いが元になっている。とうに終わったと思っていたのに、今になって無関係な君を巻き込んでいたなんて」


 廊下のど真ん中で、カッカーは祈りを紡いでいった。

 過去の遺恨が断ち切られ、平穏が訪れるように。

 傷ついた心が癒され、代わりに勇気で満たされていくように。


 カッカーの声はよく響き、祈りも力強く、クリュの心を震わせていた。

 暖かいものが胸のうちに溢れ、護られているような感覚で満ちていく。


「ありがとうございます、カッカー様」

 礼を言った若者に、カッカーも微笑んでいる。

「いや、アークが見たらさぞ驚くだろうな」

「アーク?」

「昔の探索仲間なんだ。チュールと共に暮らしていてね」

 こんな発言でふと気づいて、クリュはカッカーに問いかける。

「チュールって神官が来てるんですか?」

「ああ。君はフォールードを知っているかな。二人はフォールードに会いにやって来たんだ」


 フォールードから、チュールの話を聞いたことを思い出す。

 二十年も前に探索をしていたと言っていたが、何年ぶりに迷宮都市へやって来たのだろう?


 カッカーには用事があるらしく、最後に若者の手を強く握りしめると廊下の先に去ってしまった。

 家主がいなくなると急にまた静かになってしまい、クリュはまた落ち着かない気分になってうろうろし始めている。


 自分の使ったカップを洗うかと厨房へ向かってみたものの、あっという間に終わってしまってなにもすることがない。

 アダルツォたちは探索に行っているのだろうか。うまくいっていてほしいとは思うものの、早く帰ってきてほしくてたまらない。

 ギアノはどこへ行ったのだろう。心細さが増してきて、もう神殿へ向かうべきだとクリュは考え、食堂から出ようとしたところで、窓辺に浮かぶ不気味な影に気付いてしまった。


「わあ!」


 広い食堂の窓は、きっと大通りに面していると思う。

 人が行き過ぎる様子は常にぼんやりと見えているのだが、それとは違う、顔を押し付けているかのような黒い影が窓の下の方にあって、クリュは驚いて、叫んで、駆け出していた。


 食堂から飛び出して、廊下を走る。

 屋敷の入り口には鍵などかけていないから、誰でも入って来れるから。

 もう一つの出入り口である大きな扉に向かって、あわあわと進んでいく。

 樹木の神官たちが出迎えてくれることを信じて扉に手をかけ、中庭へ足を踏み入れる。


 カッカーの屋敷と樹木の神殿を繋ぐ廊下には、美しい中庭が設えられている。

 迷宮都市では珍しく木の生えている場所で、他所からわざわざ土を運んできて作ったものだという。

 中庭はそう広くはないがとても美しく、特に農村出身の者が懐かしく感じる場所らしい。


 シュヴァルが世話になっている間に何度か通り、ぼんやりと眺めていた時に樹木の神官からそう説明されていた。


 急いで通り抜けようとしていた神殿へ続く道だったが、その真ん中あたりでクリュは思わず足を止めていた。

 中庭で咲く花々の中に、誰かが座っているのが見えたから。

 外から差し込む光を受けて、長い髪を白く輝かせている。

 微笑んだような優しい顔に、凍った湖を思わせる薄青の瞳が瞬きを繰り返していた。


 普段、日常のありとあらゆる場面で、なるべく見ないようにしていた自分の顔のように思えたから。

 それで足が止まってしまったし、庭にいた誰かも急に駆け込んで来た者に気付いている。


 クリュが動けずにいると、庭にいた誰かが立ち上がり、にっこりと笑った。


 とても不思議な気分だった。

 ちっとも好きではない自分の顔と同じなのに、きれいだと思えていたから。


「もしかして、あなたがチュール?」


 そろそろと近づきながら問いかける。

 中庭の美しい影が纏っているのは、青く染められた神官衣。

 街の北側で暮らす初心者たちがあまり見かけないそれは、流水の神に仕える者の証だ。

 神官は優しい顔で頷き、エルチュール・トゥレスと名乗った。

 なのでクリュも、自分の名をチュールへ告げる。


「初めまして、サークリュード」

「みんなクリュって呼ぶよ」

 チュールは微笑み、小さく頷いている。

「流水の神殿にいるんじゃないかって、さっき、カッカー様が」

「ええ、訪ねてきましたよ」

「一人なんですか」


 神官は一人きりで、同行者の姿はない。

 疑問に思うクリュに、チュールはにこにこと笑いながら答えてくれた。


「私はここが好きなのです。せっかく迷宮都市に来たのだから、この小さな美しい庭で少しだけ、ゆっくり過ごしたくて」

「アークって人は?」

「カッカーがなにか言っていましたか」

 流水の神官は「撒いて来ました」と言って、楽しげに笑っている。

「予定ははっきり決めてありますから、そのうち勝手に来るでしょう」


 そう話すと、樹木の神殿に用があったのではないかと問われた。

 引き留めてしまったのならすまないと謝られて、クリュは首を振っている。


「ううん。俺、外から覗いてる変な奴がいた気がして、びっくりして、逃げてきたんだ」

「では、私と同じですね」


 チュールは白い手をゆらゆらと揺らし、クリュを招いた。

 迷宮都市では貴重な緑あふれる庭の中にそろりそろりと進んで、神官のもとに辿り着く。

 足元には白と青の花が咲いているが、その中に大きな石が隠れているとわかる。

 チュールが石の上に腰を下ろしたので、その隣に座る。


 自然とそうしてしまった自分も、今の状況も、なんだか不思議だとクリュは思った。

 同じと言うのは、逃げてきたことを指すのだろう。

 共に迷宮都市にやって来た仲間から、逃げてきた?

 わからないがとにかく、ここまで抱えて来た恐怖心はどこかに消えて、すっかり穏やかな気分になっていた。


「君はフォールードを知っていますか?」

「うん」

「手紙を一度くれたきりで、どうしているか心配していたんです。喧嘩などしていないでしょうか」


 優しい声で問われて、クリュは大きく頷き、はたと気付いて首を傾げている。

 暴力沙汰は間違いなくあったが、あれを喧嘩と呼ぶのは違う気がする。


「まさか、やってしまいましたか」

「ううん。その、ちょっとあったんだけど、あれは喧嘩なんかじゃなくて。フォールードは俺の命の恩人なんだ」

「君も共に迷宮に?」

 

 クリュはぶんぶんと首を振り、自身に起きた出来事を語っていった。

 朝を迎えた道の上で突如襲われ、追われて、命の危機という場面で、フォールードが駆けつけ助けてくれたのだと。


 話している間に、涙が湧き出してぽろぽろと落ちていった。

 いつもそう。泣きたいわけではないのに、体が勝手に震えて涙をこぼしてしまう。

 隣で座る神官はクリュの肩を抱き、手を握ってくれている。


「おそろしい思いをしたのですね」

「うん。だけど、ごめんなさい。俺、もう大丈夫なんだ。泣きたくないのに、なんでか涙が出ちゃって」

 

 チュールは頷き、静かに祈りの言葉を紡いでいった。

 清らかな水が、苦しみを流してくれるように。

 またも胸のうちが暖かくなり、クリュは涙を拭っていく。


 すると扉が開く音がして、ひとりの男が神殿側から飛び出してきた。

 渡り廊下の真ん中で立ち止まり、視線を彷徨わせ、目当ての人物を探し当てたようだ。


「チュール! ここにいたのか!」

 剣を提げた中年男は気合いに満ちた声をあげ、驚いた顔をしてまた叫ぶ。

「二人いる!」

「アーク、声が大きいですよ」


 チュールは立ち上がり、クリュの手を引いた。

 アークは口を閉ざし、二人の姿をまじまじと見つめている。


「彼はサークリュード・ルシオ。フォールードを知っていて、話を聞かせてもらっていたのです」

「いや、チュール……」

「ありがとう、サークリュード」

「うん」


 神官は連れのもとに静かに向かっていき、また会えるようにと囁くと去っていってしまった。

 クリュはしばらくぼんやりしていたが、屋敷に戻るとギアノの姿があり、ほっとして菓子作りの手伝いに励んでいく。


 そのまま時が流れて行って、初心者たちが大勢戻り、夕食の時間の混雑を乗り越えて。

 客用の簡易な寝床は小さくて足を伸ばせなかったものの、扱き使われたからかすぐに眠りの中に落ちていった。



 カッカーの屋敷の朝は早い。

 クリュが目を覚ますと、ギアノとアデルミラは既に労働を始めていた。

 初心者たちの為に食事とティーオの店の売り物を用意しているらしく、二人で厨房に籠っている。


「よう、クリュ。早いな」

 起こしたかな、とギアノは笑っている。

 もう少し寝ていたらいいと言われたものの、漂う香りのせいでおなかがすいてきて、そのまま二人の手伝いに精を出していく。


 「橙」に挑むのか、何人かの住人が起きてきて、食堂でわいわい騒いでいた。

 そんな光景を目にして、レテウスとシュヴァルはどうしているだろうとクリュは考える。

 今はまだ旅の途中で、どこかに宿でもとっているはずだ。

 キアルモには行ったことはないが、その途中で、故郷の近くを通っているかもしれない。


 ふるさとにはあまりいい思い出がない。

 二度と帰らないと決めたところだが、丘の上の景色がふわんと脳裏に浮かんでくる。

 そうなると家族の顔が思い出されて、胸のうちに様々な感情が満ちていった。

 懐かしい気持ちはあるけれど、帰りたくはない。なにがあったとしても、あそこにはもう戻れない。

 クリュは小さくため息をつき、ギアノの目を盗んで果実を一切れ口に放り込み、甘酸っぱさで心に蓋をしていった。


「クリュ、今なら人数が少ないし、食事にするといいよ」


 ギアノに声をかけられ、トレイを渡される。

 焼きたてのパンからは良い香りが漂い、ようやく幸せな気分が顔を覗かせていた。


「いいの?」

「いいよ。手伝ってくれてありがとな」


 朝の仕事はまだちっとも終わっていないのに。

 働き者の二人は揃って優しい笑顔で、親切を素直に受け取り、食堂へと向かう。


 昨日からずっと、アダルツォの姿を見ていない。

 カミルもコルフもフェリクスもいないから、探索に行っているのだろう。

 つまり、フォールードも留守であり、せっかくやって来たチュールたちとの再会は果たせていない。


 流水の神官はどこに滞在しているのだろう。

 さすがに昨日帰ってしまったとは思えないが、北のあんな安宿で過ごすような人物とは思えない。

 それに、いつまで迷宮都市にいられるのか。

 同じ顔をしているせいなのか、気になってしまう。

 

 自分がホーカ・ヒーカムに追われているのは、チュールに似ているせいらしい。

 では、本人が現れたら? 

 魔術師はちゃんと、本体を狙うようになるのだろうか。


 考え出すと落ち着かなくなってきて、食事がなかなか進まない。

 おなかは空いていても、頭も心も不安でぎゅうぎゅうになっていると、食欲はどこかに追いやられてしまうようだ。


 ため息をついたり、天井を見上げたりする様子がおかしく見えるのか、食堂にやって来た初心者たちから声をかけられることはなかった。

 パントとクレイが近寄って来た気がするが、結局なにも言われなかったし、食事を終えるとどこかへ去っていったようだ。


「あ、クリュ」


 ふいに声をかけられて目を向けると、ティーオが食堂の入り口に立っていた。

 そういえばここで世話になるとはっきり伝えていなかった。

 昨日の夕方頃に会ったから、きっと察しているだろうけど。


 おはようと声をかけようとしたが、同居人の背後にはもう一人、誰かがいるようだ。


「今、話せるか? この子がクリュに話があるらしくって」


 ティーオの隣に現れたのは魔術師らしい長いローブを身に纏った少女だった。

 ぱっちりとした大きな目は愛らしく、茶色の長い髪を複雑な形に編み込んでいる。

 けれど瞳はギラギラと輝き、憎悪の炎を滾らせていた。


「サークリュード・ルシオ」

 名前を呼ばれて、慌てて立ち上がる。

「今日はあの大男を連れていないのね」


 勢い余って椅子を倒してしまったが、気にしていられない。

 二人の間には大きなテーブルがあるから、どちらに逃げるか決めなければならない。

 

「やめろよ、来るな」

 

 背後のテーブルに腰がぶつかり、がたんと音を立てていた。

 マティルデは自身を案内してきた男をじろりと睨み、命令を下している。


「あいつを捕まえて」

「えっ? クリュ、お前なにかしたのか?」


 ティーオは戸惑った顔をしているから、同居人を捕まえる為に来たのではないのだろう。

 マティルデは苛々とした声でもう一度同じ命令を出したが、ティーオは困った顔をしたまま固まっている。

 今すぐ逃げたいが、マティルデは出口近くで身構えていて、このままでは食堂からは出られない。


「ギアノ! ギアノ、助けて!」


 近くにいるのではないかと考え、管理人を呼ぶ。

 大声を出した甲斐があったのか、ギアノはすぐに駆けつけて、招かれざる客の存在に気付いてくれた。


「マティルデ? なにをしてるんだ」

「あいつを捕まえなさい!」


 びしりと指をさされて、クリュは焦った。

 相手は魔術師、おかしな力を使われたら、どうなるかわからない。

 涙が込み上げてきて、景色が一気に歪んでいく。


 けれどどうやら、ティーオもギアノも命令通りに動かせはしないようだ。

 管理人はマティルデを取り押さえようとし、クリュに逃げるように叫んでいる。


 ギアノが魔術師を食堂の奥へ追いやり、廊下へ繋がる道が開いて、クリュは慌てて走りだした。

 左へ曲がれば管理人の部屋で、行き止まり。

 だから右に曲がって、駆け抜けていく。このまま樹木の神殿に向かった方がいいと考え、扉を押し、廊下へ足を踏み入れた。


「サークリュード・ルシオ!」


 雄たけびと、足音が追いかけて来る。


 愛らしい顔に似合わない憎悪に満ちた怒声に慄き、クリュは慌てて中庭に飛び出し、並んだ樹の陰に身を潜めた。

 こんもりとした可愛らしい茂みだけで、身を隠し通せるだろうか。

 びくびくしながら涙をこらえていると、屋敷の扉が勢いよく開き、マティルデが駆け抜けていくのが見えた。


 ティーオとギアノも追いかけていって、神殿から叫び声が聞こえてくる。

 様々な男女の声が聞こえてきて、クリュは必死になって体を小さく丸めていた。


 どんなに抑えても、涙が溢れて止まらない。

 どうしてこんな目に遭わなければならないのかわからなくて、苦しくてたまらなかった。


 頬も、抑えていた手のひらも、涙でびっしょりと濡れている。

 しばらくすると神殿は静かになったが、どうなったのかはわからなかった。

 魔術師が暴れて、神官たちもみんな倒されてしまったのかもしれない。

 今は声を潜めて、クリュが様子を見に来るのを待ち受けているのかもしれない。

 不安が尽きなくて、動けない。

 優しい色の花が咲く景色も、今は慰めにはならなかった。


 クリュを追う弟子は一人ではないようなことを、コルフが言っていたから。

 誰かが潜んでいたらと思うと、屋敷にも戻れない。


 見知った誰かが現れても、心を操られているかもしれない。

 魔術師の屋敷ではみんなぼんやりとしていたから。

 クリュも記憶を奪われ、何故あそこへ行き、どうやって過ごしていたのか知らないままだ。

 シュヴァルは大きな椅子に座って、世話をされていたと言っていたけれど。

 街中では魔術は使わない決まりがあるというが、悪い人間なんだから、ルールなど簡単に破ってしまうだろう。

 

 自分でできることがない、対抗する方法などない。

 こんな弱虫でいたくないのに、どうしたらいいのかわからない。

 恐怖と無力さのせいで、涙ばかりがぽろぽろと落ちていく。

 樹木の神殿に隠された美しい庭の葉に、雨のように降って、時々ぱたりと音を鳴らした。


 そんな風に身を隠して、たっぷりと時が流れていって。

 扉が開く音がして、クリュは体を震わせていた。


 足音が聞こえてくる。

 さらさらと長い衣が擦れるような音が近づいてきて、とうとうまた囚われてしまうのだと、クリュは目をきつく閉じている。


「良かった。サークリュード、ここにいたのですね」


 震えながら見上げると、樹々の向こうから自分と同じ顔が覗き込んでいた。

 優しい青の衣を纏っているのは流水の神官エルチュール・トゥレスで、クリュの隣に膝をつくと、優しく抱きしめ、もう大丈夫だと囁いてくれた。


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