206 遠来の客人 1
朝が来て、目覚めて、着替えて、顔を洗って。
繰り返される日常の諸々で時が過ぎていき、勤勉な商人は今日も仕事の為に出かけて行った。
それでは、今日はなにをしようか。
サークリュード・ルシオは頬杖をついて考える。
探索には行きたい。良い仲間を見つけたいし、いつか大きな成果をあげてやると思ってはいる。
けれど、一人で外に出るとなると難しい。
急に襲い掛かってきたエルディオは捕まり、今は調査団に身柄を拘束されている。
シュヴァルを襲った男も迷宮で命を落とし、西の果てに埋められたと聞いている。
それなのに。
凶悪な犯人二人は片付いたのに、問題はまだ残っていた。
自分を裸同然の姿で屋敷に閉じ込め続けていたという魔術師が、探しているらしいから。
どうしてあそこにいたのかもわからないし、何故解放されたのかも謎のまま。
そんな恐怖の魔術師の弟子たちが複数で探していると言われては、一人で出歩くなど無理な話じゃないかとクリュは思う。なにをされるかわかったものではないから。
エルディオにされたように追いかけられ、地面に引き倒されたらどうしたらいいのか。
あの時はぎりぎりのところで救われただけ、運良くフォールードが気付いてくれただけだから。
結局今日も外へ飛び出す勇気を用意できず、捻りだせたのは小さなため息がひとつだけ。
貸家の大きな部屋にはシュヴァルの姿もある。
顔色はすっかり良くなっていて、単純に良かったなと思う。
そばにはレテウスもいて、長い腕をまっすぐに上に伸ばし、体を捻っていた。
基本的には看病ばかりする暮らしだったから、体力が有り余っているのかもしれない。
念のためにそろそろ発散させに行った方がいいのかもしれないが、ちっとも探索に行っていないせいで、財布の中身に余裕がない。
周囲の様子に気を付けながら、仲間を探すしかないのだろうか。
カッカーの屋敷に行けばすぐに見つかるだろうが、みんな年下の初心者だから、妙な奴に絡まれても対応できないだろう。
レテウスが来てくれればその辺りの不安はなくなるが、シュヴァルを連れていくのは違うと思う。
ギアノなら気安く預かってくれはするだろうが、厄介者扱いしているようで気が引ける。
現状を好転させるよい方法が見つからず、またもため息が出てしまう。
頼れる仲間の獲得か、魔術師たちの撤退か。
誰かが運命を転がしてくれないかと思うが、なにもかもそう上手くいくはずもない。
もう一人くらいいてもいいよと言ってくれたらいいのに。
アダルツォは許してくれそうだが、カミルやコルフはどうだろう。
会えたら頼んでみようかと考えていると、扉を叩く音が響いた。
既にレテウスが貸家の入り口に向かっていて、声をかけている。
「どなたかな」
隣に座っていたシュヴァルが立ち上がり、入口に近い窓辺へと向かう。
来客の姿など見えないのではないかと思うが、クリュも少年の隣に立って一緒に首を傾けていく。
「レテウス様、ヘイリー・ダングです」
扉の向こうから声が聞こえてきて、シュヴァルが呟く。
「誰か連れてるな」
「いつもの助手の人じゃないの」
「いや、違う」
角度が悪いから、誰かがいるのがわかる程度で、服の色くらいしか把握できそうにない。
クリュは窓を覗き込むのを諦めて、レテウスの様子を窺っていく。
「レテウス様を訪ねて来られた方がいらしたので、案内を引き受けました」
「ガルジアン・オーレールと申します」
濃い灰色のコートを羽織った男性が中に入って来る。
貴族の三男坊は大袈裟なくらい丁寧に挨拶をされており、本来はあんな風に扱われる存在だとクリュに思い知らせていた。
ダング調査官の用は案内だけだったようで、窓の向こうを足早に去っていく。
「シュヴァル」
レテウスに声をかけられ、小さな親分が部屋の真ん中に進んでいく。
やって来たのは誰で、どんな用事があるのだろう。
クリュは好奇心だけで目を向けたが、男の顔を見て驚いていた。
「ガルジアン殿、どうぞこちらへ」
やって来た男の顔は、シュヴァルとあまりにも良く似ていた。
ありとあらゆるパーツが似通っていて、どう見ても血縁としか思えない。
きっと大切な話が交わされるに違いなく、ここにいていいのか気になって仕方がない。
どうするべきか迷った末に、クリュは厨房の奥にしゃがみこんでいた。
ガルジアンと名乗った男はまず、レテウスに礼を告げ始めた。
王都から、バロット家から送られてきた手紙に驚き、半信半疑のまま迷宮都市へ来たのだと語り、緊張した面持ちで息を吐きだしている。
「いえ、本当は信じておりませんでした。性質の悪い悪戯なのではないかと疑っていたのです。とはいえ、バロット家から差し出された便りでしたから、無視はできないと思いまして」
レテウスの真剣な眼差しからは珍しく重々しいオーラがにじみ出て、思わぬところで血筋の良さを発揮していた。
「ありとあらゆる言葉を用意して来たつもりだったのですが」
客の声が再び途切れたところで、シュヴァルは隣に座るレテウスを肘でついた。
「おい、一体なんの話なんだ」
「君にはなにも伝えていなかったな」
貴族の三男坊は少年に一言詫びると、「シュヴァルの祖父」に手紙を送ったと手短に語った。
ガルジアンは戸惑いの表情を浮かべたものの、向かいに座るシュヴァルをまっすぐに見つめ、改めて名乗っている。
「私は君の母親であるシュミレア・オーレールの弟、ガルジアン・オーレールだ。王都のずっと北にあるキアルモから来た。レテウス様から君について知らせる便りを受け取り、訪ねにやって来た」
領主であるカルベリクは病に伏しており、代わりに自分がやって来たのだとガルジアンは言う。
シュヴァルは自分の「叔父」をじっと見つめて、レテウスにもちらりと視線をやって、最後に「そうか」と呟いていた。
「ガルジアン殿は、間違いないと思っておられるのか」
レテウスの問いに、ガルジアンは重々しく頷いている。
「幼い頃に見た姉の顔そのままですから。とても懐かしくて……」
客の顔は俯いて見えなくなっていった。
涙を浮かべているのかもしれない。
シュヴァルはどう感じているのか気になるが、クリュには背を向けていて、表情を窺い知ることはできなかった。
貸家での共同生活が始まって、かなりの時間が経っている。
不思議な暮らしの中で、ウィルフレドとシュヴァルの母親の間になんらかの縁があるのではないかという話は聞いていた。レテウスがぽろりと話したことがあって、その時は詳しくはわからないと言っていたのに。
今日の来客について、シュヴァルはなにも知らなかったようだ。
レテウスが勝手に手紙を送ったのだろうが、いつ、どんな経緯でそうなったのか。
ぼんやりぼんくらが定着していたはずの三男坊の意外な行動に、クリュは驚きながらも事態を見守っていく。
「シュヴァル、君の父親の名を聞かせてほしい」
いくつかの些細な話題の後、ガルジアンは意を決したようにこう切り出していた。
視線が鋭く、話し方にも知性を感じさせられる。
大人になったらこんな風になるのかなと思いながら、クリュも緊張しながら返事を待つ。
シュヴァルが自身の家族について語ったことはない。少なくとも、クリュは聞いた覚えがない。
少年の口から出て来る名は子分の二人だけで、オンダとドーム以外、なにも知らない。
「テルヴェンだ」
長い沈黙は拒否の意非表示かと思ったが、違っていた。
シュヴァルははっきりと誰かの名前を口にして、初めて会った叔父に告げている。
「山吹雪のテルヴェン?」
「……聞いたことはある。そんな風に呼ばれてたことがあるって、ドームが話してた」
ガルジアンは俯き、視線を逸らしている。
クリュはふと、「狐王テルヴェン」の話を思い出していた。
子供の頃、三つ向こうの山にそんな名の恐ろしい賊がいると大人たちが話していたことがあった、ような気がする。
「シュヴァル、君が知っているかどうかはわからないが」
姉は幸せだったのだろうか。
ガルジアンは静かに、まるで独り言のように呟いている。
つまり、シュヴァルの父親は山賊で、母親はキアルモというところの領主の娘ということなのか。
そんな二人が普通に出会って結婚したという話なはずがない。攫われていっただとか、そんな事情があるとしか思えない。
クリュが勝手に厨房の隅でハラハラしていると、意外にも少年は力強く返事をしていった。
「俺はそう思う」
まだ小さな背中がぴんと伸びて、まっすぐになっていく。
「俺がまだ二歳にならないくらいの頃に病気で死んだらしいから、全然覚えてないんだ。でも皆、俺の為に思い出を話して聞かせてくれた。どんな料理が好きだったとか、どんな失敗をしたとか、王都に行った時にあった面白かったことを聞かせてくれたとか……。皆何度も、いろんな話を聞かせてくれた。俺と似てるっていうのも、何回言われたかわからねえ。シュミがいるみたいだって、笑った顔がそっくりだってしょっちゅう言われたよ」
クリュからは、ガルジアンの顔がよく見える。
悲しげに目を伏せたまま、眉間に皺を寄せているようだ。
姉が山賊に攫われて、行方がわからなくなっていたのだから、ずっと心配していたのだろう。
笑顔で暮らしていたと言われても、納得いくはずがない。
「テルヴェンは今、どうしている?」
次にガルジアンから出て来た問いはこんなもので、確かに、とクリュも思った。
シュヴァルが迷宮都市にやって来た理由はずっと謎のまま。オンダのこともあり、聞いてはいけないような気がしていたけれど。
「もういない」
「いないとは?」
「死んだんだ。あちこちから流れて来たはぐれ者を受け入れて大勢で暮らしていたけど、悪い蛇がやって来て全部乗っ取ったから」
「……蛇?」
「どこから来たのかは知らない。愛想が良くて、頭が回って、ちょっと抜けてて。すぐにみんなに馴染んだと思ったら、あっという間に自分のものにしやがった。あの谷の全部、なにもかもを。邪魔なものは排除して」
長い沈黙が続いた後、レテウスが腕を伸ばして、シュヴァルの肩を抱いたのが見えた。
話は理解できなくても、恐ろしい体験をしたとわかったのだろう。
シュヴァルの話は断片的で、クリュにもよくわからない。
けれど小さな肩も、声も震えているから。
初めて聞く弱々しい声に、クリュも涙を浮かべている。
「俺は見てないんだ。見ないようにしてくれたから。子分が俺を逃がしてくれた。だから今、どうなっているかまではわからない。すまない」
「いや、いいんだ。そんな話を君から聞きたいわけではない」
「でも覚えておいてくれ。ネブ・ルビエンって男だ。よく見ればわかる。他人を獲物としか思ってないような、冷たい目をしてるから」
「……わかった、ネブ・ルビエンだな」
「悪い、あんたには関係ないよな、こんな話」
「いや、そんなことはない。危険なのだろう。聞かせてくれてありがとう、シュヴァル」
こんな会話が終わり、ガルジアン・オーレールは目の前の少年をじっと見つめている。
哀しみを湛えた青い瞳を何度か瞬かせていたが、やがて強い光を宿すと、今度はレテウスへと目を向けた。
「もしも本当に姉上の子供だったとしても、いくらか渡してオーレールの家については忘れるよう頼むつもりでした」
そんな覚悟があったから、たった一人でここまで来た。
ガルジアンはそう語り、首を振っている。
「不安だったのです、とても。父にとって、姉のことはずっと心残りでしたから。あれからもう十五年も経って、口にはしなくなりましたが、きっと今でも苦しんでいるはず。手紙を受け取った時、弱っている父に伝えるかどうか迷いました。期待させていいのかも、知らせずに逝かせるのが正しいかどうかもわからなくて」
「父君はそんなに弱っておられるのか」
「いつ神の膝元に招かれてもおかしくはないと医者に言われております」
ガルジアンの手が伸びて、シュヴァルの小さな手を包んでいく。
十一歳の手をすっぽりと包むほど大きな手を持つ男は、再び甥に語りかけていった。
「私は、あの賊の息子である君を受け入れられない。姉がいなくなってからの時間は我々家族にとって、とても辛く苦しいものだったから。立ち直るには時間がかかったし、今は私にも妻と子がいて、これからキアルモを守っていかねばならない立場だから」
これ以上の苦しみも、余計な火種もいらない。平和の為にそうしなければならない。
シュヴァルとよく似た顔の男はそう話したが、「けれど」と続けていく。
「父に会ってもらえないだろうか。虫のいい話だと思う。申し訳ないと思っている。けれどシュヴァル、これが私の正直な気持ちだ。父に君を会わせたい。君の姿を見て、話して、そうしなければならないと思ってしまったんだ」
まったく無関係な立場で、クリュに口を挟む権利はない。
厨房の前でしゃがみこんだままでいなければならないが、落ち着かなくて腰が浮いてしまう。
すべてを失ったシュヴァルも、家族を奪われたガルジアンたちも、どちらも辛い思いをしてきたに違いなく、どちらの味方になろうとか、そんなつもりもなく、そもそもはっきりとした意見などまったくないのだが。
部屋の隅で、持て余した感情を涙に変えては床に零して。
そんなクリュとは違い、シュヴァルは落ち着いた声で叔父の頼みに答えていた。
「いいぜ。心配しなくても、俺はあんたにしがみついたりしない。爺さんに会っても余計なことを言ったりしない」
「シュヴァル、……いいのか」
「何故だかこんなところで暮らすことになっちまって、苦労もあったけど、気の良い連中が力を貸してくれてるんだ。あんたから見たら粗末な暮らしだろうけど、ちっとも悪くなんかないんだぜ。もう少し大きくなったら、借りをきっちり返していかなきゃならねえ。自分の借りは自分で返すのが筋だからな。俺はこれからも、ここで生きていかなきゃならないんだよ」
レテウスの顔は見えなかったが、きっと驚いていただろう。
シュヴァルがただの子供だったことなどなかったけれど、さすがにこんな答えが出て来るとは思っていなかったから。
「そうか」
ガルジアンの答えはこれだけだった。
あとは穏やかな声でありがとうと呟いて、手に力を込めただけで、話はついたようだ。
叔父と甥の手が離れていって、部屋の中に静けさが戻っていく。
これからどうなるのだろうとクリュが考えていると、客の視線はまた、レテウスへ戻った。
「レテウス様にお伺いしたいのですが」
「なんだろう」
「我々の家族について、誰から話を聞かれたのですか」
シュミレアが攫われたのはもう十五年も前の話で、まだ若く、王都で暮らしていたレテウスが知っている理由がわからない。
確かに、とクリュは思った。シュヴァルが母親とその実家について知っていて頼んだわけではないだろうから、他にレテウスに伝えた者がいるはずだ。
「リーガー・エルセンですか」
ガルジアンは真剣な目を向け、こう続ける。
「父はずっと、リーガーが姉を見つけてくれると言い続けていたのです。一時期山賊の討伐隊を率いていたらしいのですが、彼が探し当ててくれたのではありませんか」
レテウスがどんな顔をしているのか、クリュからは見えない。
三男坊はしばらく置き物のように動きを止めていたが、こほんと咳ばらいをすると、掠れた声でこう答えた。
「そのリーガーとは、どのような人物なのだろうか」
「申し訳ありません。きっと会ったことはあるのでしょうが、私もまだ幼かったので。あの中の誰がリーガーだったのか、どのような人物だったのか、はっきりとした記憶はないのです」
こんな返答を受けて、レテウスは首を小さく傾げた。
後ろから見ていたから、そうわかったのかもしれない。
微かに迷ったような動きを見せると、客の問いにこう返していく。
「私がシュヴァルと共に居る姿を見たと、声をかけて来た者がいたのです。シュミレア・オーレールの捜索に当たったことがあると話し、シュヴァルと無関係とは思えないのだと」
それでキアルモへ宛てて手紙を書いた、というのがレテウスの言い分のようだ。
声をかけて来た男の名は、やけにもにゃもにゃとした言い方で、クリュの耳には届かない。
レテウスにしては妙な態度だが、ガルジアンはわかりましたと答えている。
そこから更にやりとりがあって、シュヴァルのキアルモ行きは決まった。
いくつかの万が一に備えて、レテウスが同行することで話はまとまっている。
「本当は誰から聞いたんだ」
客が去っていくと、シュヴァルは即座にこう切り出していた。
レテウスへ鋭い視線を向けて、凄むように。
その姿はやたらと頼もしく、本当にすっかり回復したんだなとクリュを安心させている。
「なんの話だ、シュヴァル」
「どうせヒゲオヤジなんだろう」
「なん……、なんの話なのだ、シュヴァル」
「それで誤魔化せると思ってんのか? 他にいねえだろ。認めろ、正直に」
大きな部屋の真ん中のテーブルで、二人が向かい合っている。
クリュは水を汲んで、疲れたでしょと差し出しながらそのまま椅子に腰かけ、話に加わっていた。
「リーガー・エルセンってのがヒゲオヤジの正体なのか」
「いや……。それは、わからない」
確かにシュヴァルと母親についてはウィルフレドから聞いた。
レテウスはそう白状したものの、あくまで捜索をしていた中の一人だったとしか聞いていないと説明している。
「ウィルフレド殿は、シュヴァルを『とても大切な方の息子』だと言っていた。賊を退治する為に派遣されたが叶わず、君の母親を見つけ出せず、心残りで忘れられなかったとも」
「なんで名前をごまかした?」
「ごまかすとは?」
「さっき、ヒゲオヤジの名前をわざと言わなかっただろう」
確かに。もにゃむ・ふにゃす、のような響きで、とても人名とは思えなかった。
うっかり忘れたのかと思ったくらいで、わざとだったのかとクリュは驚いている。
「あいつの正体を知りたかったんじゃないのか」
レテウスが迷宮都市を訪れたのは、ブルノー・ルディスを探す為。
ウィルフレドの無茶な頼みを聞き入れたのは、彼がブルノーだと考えていたからだ。
ウィルフレドがブルノーなのか、いまだにわかっていない。
何度か会って、確かにあんな戦士は他にいないだろうとクリュも思っている。
いくらレテウスでも、人違いなんかではないだろうと思えるからこそ、いまだにはっきりしない理由がよくわからなかった。
「もう、いいのだ」
「あん?」
「ウィルフレド殿は剣の道に生き、極めようとしている戦士で……。あの方は、それでいいんだ」
「ブルノー・ルディス探しは、もういいの?」
急にこんなことを言いだしたのが不思議で、クリュは思わずレテウスを見つめた。
三男坊は視線に気付くとふっと微笑んで、今の素直な思いを同居人たちに明かしてくれた。
「私が求めていたのも、出会ったのも、目指す剣の道の先に立つ素晴らしい達人だった」
それでいいのだ、とレテウスは言う。
凛々しい眉毛によく似合う清々しい表情で、もう周囲がああだこうだ言う話ではないのだとクリュは理解していた。
「成長したじゃねえか、眉毛」
シュヴァルもにやりと笑っている。
失礼なことを言うなと注意するかと思いきや、確かにレテウスには変化があったようだ。
「ガルジアン殿には礼儀正しく接するんだぞ」
「わかってるよ、そんなこと」
「そうなのだろうが、改まった場には相応しい作法というものがある。必要な時には声をかけるから、言う通りにするように」
大真面目な顔で言われて、シュヴァルも静かに頷いている。
「ああ、頼むよ」
ガルジアンとは明日の朝落ち合う約束で、レテウスは旅の支度をし始めていた。
王都から持ち帰った鞄を引っ張り出し、シュヴァルの服をどうしたものかと呟きながら、必要な物を揃えて詰め込んでいる。
「キアルモって遠いのか」
シュヴァルは椅子にふんぞり返ったままで、クリュは記憶を探った。
「キアルモって結構、北の方だったと思うんだよね。俺が住んでたところからだと丸一日かかるとかだったけど」
迷宮都市から向かうとなると、どうだろう?
考えてもわからず、クリュは口を尖らせている。
「ここから向かうとなると、二日半ほどかかるだろう」
個室からレテウスの声が聞こえてきて、「だって」とシュヴァルに伝える。
もちろん既に聞こえていて、小さな親分はふふんと笑っていた。
夕方になるとティーオが戻って来て、早速大きな鞄に目を留めている。
「レテウスさん、王都に戻る……の?」
「いや、違う。ただ、少し留守にさせてもらう」
「そうなんだ。どこに行くのかは、聞いてもいいのかな」
ティーオの視線は何故だかクリュに向いたが、勝手に答えていいのかよくわからない。
事情は込み入っていて、説明するとなると相当長くなりそうだ。
シュヴァルが話してくれるかと思いきや、親分も語る気はないらしく、黙って夕食を食べている。
なんといっても、王都からやって来た名家の子息と謎まみれの子供親分が相手だから。
ティーオもそれ以上踏み込めなくなったらしく、曖昧なまま次の日の朝を迎えて。
勤勉な商人が家を出るよりも早く、二人は後を頼むと言って出かけていってしまった。
「シュヴァルと二人でどこに行ったの?」
ティーオの視線の向ける先は決まっている。クリュしか残っていないのだから、聞かれるのは当たり前だ。
「あのね、レテウスがシュヴァルのお爺さんに手紙を書いてたんだ。お母さんがキアルモってところの領主の娘だったとかで」
「ウィルフレドに話してたやつ?」
「知ってるの?」
「知ってるというか。前にレテウスさんを王都に帰らせた時、ウィルフレドに話してたんだよね。お母さんの名前を知りたかったとかなんとか」
偶然居合わせただけのようだが、ティーオはほんのりと事情を知っていたらしい。
クリュは補足をいれながら、昨日、叔父にあたる人物が訪ねてきたことについて説明していく。
出かける支度をしながらも、なるほど、へえ、とティーオは興味深そうに話を聞いている。
「はあ……、あるんだなあ、そういうことって。娘とか妹とかが悪い奴に攫われてって、あるもんなんだなあ」
「誰か他にもそんな人がいたの?」
「フェリクス、わかるだろ。フェリクスは妹を無理矢理連れて行かれちゃったんだ」
「え、そうなの。そんな……、妹はどうなったの?」
ティーオはなにも答えず、悲しい運命を辿ったとクリュに報せている。
「フェリクスの妹は赤ちゃんを産んでてね。アダルツォとアデルミラがその子を連れて逃げてきたんだ」
「赤ちゃんを……」
「あの時だよ、クリュ。お前、二人を探してる人がいたよーって能天気に連れてきただろ」
あれは雲の神官兄妹を追いかけてきた悪党だったことが明かされる。
カミルたちに怒られた記憶ははっきりと残っていて、クリュは衝撃を受けていた。
「そんな……。そんな事情があったなんて、俺、知らなくて」
気分が一気に落ち込んで、涙が勝手に溢れていく。
ティーオはばつの悪そうな顔をして、わかっているよと言ってクリュの肩を叩いた。
「済んだことだし、仕方ない。誰ももう怒ってないから、泣くなよ」
「うん」
そう言われても簡単に止められるものではなく、涙は頬を伝ってぽろりぽろりと落ちていった。
「もう、ズルいんだって、お前の涙は」
「ズルいって、なにが?」
「こっちが悪いことした気になるんだよ!」
ごめんなと大声で謝り、仕事に遅れてしまいそうだとティーオが去って行く。
そうなってようやく、クリュは気付いていた。
レテウスとシュヴァルはしばらく戻ってこない。
つまり、家にいる間は一人きりなのだと。
「うわ、嘘、いやだ、ティーオ、ちょっと待ってよ!」
もう頭に布を巻いている暇はない。
クリュは慌てて必要な物を掴むと、涙を散らしながら新米商人の後を追って走った。




