201 明々白々
迷宮都市には九つの神殿が揃っているが、神官たちが最も忙しいのは皿の神殿だと考えられている。
「橙」の迷宮に最も近く、怪我人がひっきりなしに運び込まれるからだ。
周辺にある鍛冶やかまどにも初心者たちは溢れていて、「緑」に近い雲の神殿も似たような状況になりやすい。
樹木の神殿も「藍」や「赤」に近いので、それなりに怪我人は運び込まれてくる。
探索者たちが駆け込んでくるのは昼から夕方辺りに集中しており、どこの神殿も夜になると落ち着き、神官たちは静かに祈りの時を持つ。
今日は特に事件もなく、平穏に一日が終わりそうだ。
神官長であるキーレイはすべての報告を聞き終え、神像の前で一人、祈りを捧げていた。
「キーレイ!」
背後から聞きなれた声で呼ばれて、神官長は目を開け、ゆっくりと振り返った。
声の主は既に目の前に辿り着いており、こんな時間に駆け込んでくるのは珍しいとキーレイは思った。
「なにかあったのかい、マリート」
「ニーロの頼みを断ってくれ」
勢いよく言われた台詞の意味がわからず、首を傾げてしまう。
「ニーロの?」
「ああ。あいつ、白の五層に付き合ってくれなんて言うんだ。ファブリン・ソーたちが死んだところに行きたいから、案内してもらえないかって」
きっとすぐにやって来る。
マリートは落ち着かない様子でまくし立て、キーレイの袖を掴んでいる。
何故、の疑問が湧き上がると同時に、神殿の入り口に灰色の影が差し込んでいた。
それは瞬く間に形を変え、無彩の名で呼ばれる魔術師の姿になっていく。
「ニーロ」
キーレイが呼びかけると、マリートは神官長の背後に隠れてしまった。
そんな剣士を気に掛ける様子もなく、ニーロは神像の前まで進んで来る。
「キーレイさん、『白』に行きたいのですが付き合ってもらえますか」
「五層に?」
「いえ、前回の続きです。底を目指す探索に」
「マリートが今、駆け込んで来たんだが」
無彩の魔術師はゆっくりと頷き、それについてはもういいと話した。
「もういい?」
「確かに、行って確認したいことがありました」
詳しく確認すべく、キーレイは二人と共に長椅子に腰かけ、魔術師の話に耳を傾ける。
ニーロは殺人が原因で誰かが死んだ場合、死者がその場に残されるのではないかと考えており、ファブリンたちが命を落とした現場に行って確認したいと思ったのだという。
「俺には頼んできたじゃないか」
マリートの恨めしい声に、ニーロは静かに頷いている。
「キーレイさんも一緒ならば、現場に行きつけるのではないかと思ったのです」
あの時の悲惨な迷宮歩きが思い起こされて、キーレイは思わず目を閉じていた。
「どうだろうな。随分複雑な道のりだったから」
「マリートさんにもそう言われました。ファブリンが残していた地図にも、はっきりとここだと思える箇所はなくて」
もし辿りつけたとしても、ニーロの考えが間違っていた場合、通路にはなにも残されていないことになる。
結局、想像通りに死体が残っていなければ、そこが現場かどうかすらわからない。
「あるかないかわからない物を探しても、時間を費やすだけになってしまいそうなので」
「確かに」
「迷宮内で明らかに殺人が起きたとわかっている、貴重な機会なのですが」
こんな賭けに二人を付きあわせるわけにはいかない。
ニーロは残念そうにため息をついているが、あんな悲惨な出来事を「貴重」だなどと言わないで欲しいとキーレイは思う。
こんな誘いがあり、二日後の朝、キーレイはマリートと共に「白」の入り口に立っていた。
どこで起きたか不明瞭な殺人の現場を探すのもどうかと思うが、考えてみれば迷宮の最下層へ向かうのもとんでもないことなのではないか。
ニーロの頼みは断れないものとして刷り込まれているのか、嫌だという答えが自分の中にはないと気付いて、キーレイは空を仰いでいる。
「来たぞ」
マリートがぼそりと呟いたのは、道の先にノーアンの姿が見えたからのようだ。
新入りのスカウトは二人にぺこりと頭を下げて、隣に並ぶ。
「やっとですね」
ノーアンの表情は明るい。「白」の最初の踏破者の一人になれると考えているのか、難しい挑戦の前にしては晴れやかな表情を浮かべている。
「ロウランさん、早く探索に行こうってうるさかったですもんね。じっくり進まなきゃなりませんから、すぐに魔竜に会うってのはさすがに無理でしょうけど」
ノーアンはロウランと随分親しくなっているようだ。
組んでいた三人の仲間とは別れたようであり、はっきりとニーロの協力者になったと考えていいのだろう。
珍しいことに、マリートもノーアンに対して嫌な態度を取らない。明るく軽やかで、余計なことを言わないから。おそらく口も堅いであろう新たなスカウトは、マリートにとっても良い仲間だと思える。
「あ、来ましたよ」
さすがに目が良いようで、ノーアンは道の先に現れた残りのメンバーの姿にいち早く気付いている。
まずはウィルフレドが見えて、左右に魔術師が並んで歩いているようだ。
やはり今回も六人で向かうのだろう。そういえば事前の確認をしていないとようやく気付いたが、今更言っても仕方がない。
迷宮の入り口に辿り着くなり、ロウランは仲間たちにべたべたと触れてまわった。
ノーアンに親しげに声をかけ、キーレイの腰に手をまわして調子はどうかと囁き。
マリートには肩に手を置き、声をかけるだけに留めている。
「まったく、随分時間が空いてしまったな。早く行こう、準備はいいか」
「落ち着いて下さい、ロウラン」
「これが落ちついていられるか。あんな終わり方をさせられたんだぞ、せっかくいいところだったのに」
「いいえ、確認は必要です。またあんなことが起きたら困りますから、いざという時にどうするか決めておきましょう」
はしゃぐ魔術師を抑え、ニーロは全員に術符を持っているか尋ねた。
ないと答えたキーレイとノーアンには、一枚ずつ気前よく配布されている。
前回のような分断が起きた時には、かならずすぐに地上へ戻ること。
いざという時の為に三人ずつ分けると決め、組み合わせを覚えておく。
「では、行きましょう」
確認を終えて、扉へ目を向ける。
「白」の迷宮に挑む者は今日はいないようで、穴の底には六人の姿しかない。
最下層へ向かう旅なのだから、それなりの覚悟を持たねばならない。
キーレイは息を小さく吐き、準備をしたつもりだったのだが。
光は見えた。どちらかはわからないが、魔術師が力を振るったのだろう。
誰も扉を開いていないというのに、いつの間にやらもう迷宮の中に立っている。
「一度階段の上に移動しましょう」
神官長は驚きの中にいて、マリートも同じ。ウィルフレドにも戸惑いが見られる。
言葉足らずの魔術師たちは既に階段にいて、ノーアンだけがすいすいと後に続いていた。
「ここは?」
キーレイの問いに、ニーロが答えた。
「三十層目です」
「……本当に?」
「確かに、証明するのは難しいですね」
それ以上の答えは特になかった。
迷宮内への移動の魔術を、いつの間に完成させていたのか。
驚いた様子がないので、ノーアンは既に体験していたのだろう。
ようやく見つかったスカウトの青年を、ニーロもロウランも随分気に入っているようだから。
ベリオのように、長くない探索に付き合ってもらっているのかもしれないとキーレイは考える。
「また例の鎧が出てくるかもしれんな」
ロウランはそう呟き、また破裂すると面倒だから、抑え込むような魔術を使うと話した。
「可能なのですか?」
「ああ。イブソルよ、お前が一撃で貫けば話は早くなる。期待しているぞ」
マリートはなにも答えなかったが、苛つきもしなかったようだ。
ウィルフレドも静かに頷くだけで、前回の探索の時と態度はかなり違うように見える。
夜の神官と魔術師、体を共有する二つの魂をどう捉えるべきかわからず、警戒していたようだったのに。
二人の間に流れる空気は穏やかになっている。同じ屋根の下で暮らしているから、打ち解けていくのは当然なのかもしれないが。
「『白』は上下の移動が多いところ。階段が見つかっても、最下層に繋がっているかはわかりません。確認には時間がかかるでしょうね」
ニーロの言葉に、ノーアンが頷いている。
「まずは泉を見つけたいよね」
「そうですね。休憩しやすいところもあるといいのですが」
地図を作りながら進む為に、ニーロはノーアンの隣を歩くようだ。
前で戦いを引き受けるのはウィルフレドで、マリートは後ろ。
キーレイはロウランと共に、戦士に挟まれて進む。
黒い肌の魔術師は楽しげで、よろしく頼むと神官長の腰を叩いた。
美しい魔術師は小柄で、隣に並ぶとキーレイからは顔はまったく見えなくなってしまう。
長い睫毛と、通った鼻筋がちらちらと揺れるだけ。
前回同様、驚くほどの軽装でやって来たようだ。
荷物の類はひとつも持っていない。術符を渡されているだろうに、どこにしまっているのやら。
武具の類も必要がないせいで、まるで近所に散歩に出たかのようないで立ちで魔術師は歩いている。
「どうした、キーレイ・リシュラよ」
視線を感じたのか、ロウランが目を向けてくる。
大きな瞳で見上げられて、キーレイは小さく「いえ」とだけ答えた。
「ここが本当に三十層か疑っておるのか? それなら、すぐにわかる。そろそろ出てくる頃合いだからな」
魔術師が言った通り、通路の両側の壁に異変が起きていた。
真っ白い通路に影が落ち、剣を捧げ持った鎧が二体現れ、マリートが前に進み出ていった。
「ニーロ、頼む」
剣では斬れない敵には、魔術の助けが必要だ。
無彩の魔術師は後ろに下がりながら手を振り、戦士たちに力を分け与えていく。
ロウランは少しだけ前に進んで、二人の戦いを見守っている。
初めて遭遇した時とは違って、戦士たちの動きには余裕があった。
マリートはまんまと期待に応えて鎧の魔法生物を貫き、その瞬間美しい手がゆらりと揺れる。
鎧は破裂するどころか、ぎゅっと縮まって小さくなっていた。
欠片を飛ばすことなくそのまま床に転がり、乾いた音を立てるだけ。
もう一体も同じように始末されて、戦いは終わった。
ロウランはキーレイの腰をまた叩いて、「三十層目だっただろう?」と囁いてくる。
確かに、そうなのだろうと思う。そもそも疑っていたわけでもない。確信がなかっただけで、魔術師たちが嘘をつくとは考えていなかった。
「これじゃあ戦利品は手に入らないね」
小さく固まった鎧を短剣の先でつつきながら、ノーアンは呟いている。
ロウランが大きく手を振ると、その途端鎧はばらばらになり床に散らばっていった。
「ああ、こうなるのか。すごいな」
スカウトはしゃがみこんで破片を拾い上げ、持って帰るかどうかニーロに問いかけている。
「ええ。鍛冶師に見せたいので」
「加工できるってこと?」
「その可能性はあるでしょう。とても軽いようなので、武器や防具にできれば役に立つと思います」
「なるほど。でも、そんなにたくさん持って帰れるかな」
かけらを拾うのは、ニーロとウィルフレドで引き受けている。
ノーアンは地図にメモを書き足し、壁の中から敵が出現するポイントだと記したようだ。
「通りかかるとあいつらが出る仕組みなのかな」
「そうかもしれんな」
「一度出たらもう出て来ないのか、時間が経ったらまた出てくるのか、わかったらいいんですけどね」
ノーアンは周囲の様子を窺いながら、手早く地図に書き込みを加えている。
未踏のエリアを進むのに時間がかかるのは、地図の制作の手間があるからだ。
迷宮の中では詳細にではなく記号でさっと描いていくが、それでも罠や別れ道など、記しておくべき事柄はいくつもある。
気のいいスカウトの若者は神官長の視線を感じたのか、顔をあげて微笑みを浮かべた。
「キーレイさんも自分の地図を持ってます?」
「ああ……。あるはあるけれど、君たちのように丁寧に作れそうにはないな」
「『緑』の道は全部覚えていて、一人で一番底まで行けるって聞きましたけど、本当なんですか」
「そんな馬鹿な。何日もかかるのに、たった一人で向かうなんて無理だよ」
「あはは、やっぱり。そりゃあそうですよね」
ノーアンは朗らかに笑うと、スカウトの仕事に戻っていった。
採集は終わり、再び歩き出す為に隊列を組み直す。
キーレイは頼りになる戦士たちに挟まれ、いきなり戦闘に巻き込まれる可能性は低い。
最後まで無事でいなければ、仲間を救うことができないのだから、当たり前ではあるのだが。
目を凝らし、耳を澄ませながら歩くのは大変なことで、消耗は激しいだろうと改めて思う。
一番前を行くから、スカウトは戦いに巻き込まれやすい。
ヴァージは勘も良く、戦いの腕前も確かだったが、よく怪我を負っていた。地上に戻ってから神殿に担ぎ込まれ、何度も癒したし、命を取り戻したこともあった。
迷宮都市は特別なところ。
授けられた運命に逆らえる唯一の場所だ。
生き返りの力は神秘そのもの、あの力に触れられたことはきっと神官としてこの上ない経験だとキーレイは思う。
けれど、誰かが深く傷つき、真っ青な顔で力なく横たわる姿を見るのは辛い。
できる限り、悲劇は起きないでほしい。
その為には強さが必要で、長い長い迷宮の道を歩き続けるしかない。
「白」の道をゆっくりと進んでいく。
前回は鎧との戦いの後に、妙な力に飲み込まれて「青」へと運ばれてしまった。
あの現象は必ず起きるものではないようで、今回はまっすぐに通路を進んでいた。
必ず起きるのではないのなら、少しくらいは安心してもいいのだろう。
幼い頃から迷宮に足を踏み入れ、長い時間歩き続けて来た自分ですら初めての経験だった。
あんなわけのわからない現象は、そうしょっちゅう起きるものではないと思いたい。
「なにか来るみたいだ」
ふいにノーアンの声がして、キーレイも前を向いた。
背後を歩いていたマリートが近づいたように感じる。
耳の良いスカウトの予言通り、通路の先になにかが現れ、勢いよく近づいてくるのが見える。
「猿かも」
猿に似た形の魔法生物は、「黒」でしか見たことがない。
四つ足で駆けてくる獣は灰猿よりも明らかに小さかった。
真っ白な毛に覆われていて、素早く左右に動かれると見失ってしまいそうになる。
「それ」
隣から声がして、ロウランが力を放ったとわかる。
青い光は駆け寄って来る猿めがけて飛んで、ぶつかり、毛の一部を青く染めていた。
「二匹いる!」
ノーアンが叫んだ通り、猿はもう一匹いた。青く染められた猿とぴったりと重なって進んでいたようで、探索者のもとに辿り着き、前に出たマリートとウィルフレドにそれぞれ襲い掛かっている。
スカウトはナイフを構えたまま後方に下がり、代わりにロウランが前へ進んでいく。
白いままだった猿も赤く染められ、迷宮に紛れることはできなくなっていた。
小さな体の猿は驚くべき速さで壁を蹴り、戦士たちを翻弄したが、恐るべき魔術の使い手が二人もいては有利に戦うのは難しいようだ。
ウィルフレドの胸を蹴って飛び、マリートに襲い掛かろうとしていた猿たちは、空中で急に動きを鈍らせ、剣を突き刺されて床に落ちている。
速やかに止めをさされて、魔法生物はもう動かない。
「やっぱり猿みたいだね。俺は初めて見たんだけど」
ノーアンの言葉に、ニーロも見たことがないと答えている。
「まだ来るでしょうか」
「どうかな。今のところ音はしないけど」
念の為に床におまじないの線を引き、ニーロは新種の魔法生物の体を調べ始めていた。
初めて見た物については、出来る限り調査団へ報告した方がいい。
見た目や大きさ、攻撃の仕方など、特徴をまとめて伝えれば、他の探索者たちの役に立つだろう。
「不思議な毛ですね。光っているように見えます」
「台無しにしてしまってすまんな」
灰猿のような尾はないが、代わりに腕が長い。
爪は鋭く、肉はかなり硬いようだ。
「食用には向かないようですね」
「鎧からも肉は採れないからなあ。食料が尽きる頃にこんなのばかり出るようにしているのかもね」
ノーアンとニーロはそれぞれ敵の特徴を書き記し、調査を終えた。
まだ通路のどこに罠があるかわからない状態で、いつまでも通路の途中に留まっていたくはない。
もっと詳しく調べるのは、三十層目の構造を知ってからになるだろう。
「罠のありそうなところって、魔術でこう、ぱっと調べられないのかな。ポンパがそんな話をしていたような気がするんだけど」
「少しくらいならわかります」
「え、本当?」
「罠の仕掛けにはいくつか種類があります。動力が違うといえばいいのでしょうか。小さな魔術の力で動くものならば、感知は可能です」
ニーロの話に、ノーアンは一瞬で笑みを引っ込めてしまった。
説明はまだろくに為されていないが、「白」の三十層ともなれば、「小さな魔術の力」程度で動く罠などないと思ったのだろう。
「『橙』ならわかる?」
「感知できないものもあったと話していました。僕も興味はあるのですが、どうも分類が難しくて、なかなか調査は進みません」
こんな会話が交わされている隣で、キーレイは戦士たちに怪我をしていないか問いかけていた。
爪で傷つけられていないか確認し、違和感などはないか二人から聞き出していく。
ウィルフレドもマリートも大丈夫だと答え、色がついたお陰で戦いやすかったと話している。
「さっきの色を付ける力、行き止まりに出てくる奴に使えばいいんじゃないのか?」
マリートが呟き、ロウランは何の話か問いかけている。
「見えない敵が出るんだ」
「音は?」
「しない。行き止まりになっている部屋で、どこからかぬるっと現れる」
「音がせんとは厄介だな」
敵の存在に気付けなければ、色をつけるどころではない。
ロウランは詳しく聞かせるように剣士に言い、マリートは戸惑いながらも答えている。
その傍らで、ニーロはノーアンに毛皮を採るよう頼んでいた。
「小さくても構いませんから、白い部分を取ってくれませんか」
「かなり小さくなるけど、いい?」
「変化を見る為なので、どんな大きさでも大丈夫です」
はぎ取った後、時間が経つと質が変わるものがある。
紫狼と呼ばれる犬の毛皮は時間が経つと光沢が出るので、派手好きな者が好んで買い求める。
大抵は劣化するが、魔法生物については「やってみないとわからない」。
ノーアンは器用にナイフを扱い、白い猿から毛皮をはぎ取って、保存用の大きな葉に包んで袋にしまった。
「では、続きです」
戦闘の後の処理が終わり、隊列通りに並んで再び歩き出す。
未踏の階層を進むのも、初めての敵と戦うのも時間がかかる。
進んだ距離はまだまだ短い。なにも見つかっていない。
最下層に行く為には、じっくりと時間をかけて進まねばならなかった。
魔竜が待ち受けているかどうかわからないし。
どこに階段があって、どう繋がっているか、すべて探らなければ辿り着けないから。
焦らず、確実が一番良い。
探索者は深い層へ進む度に、初心を思い出さなければならない。
どれだけ手練れが揃っていても、油断をしていれば足元をすくわれる。
ずっと共に歩み続けている樹木の神に祈りを捧げながら、キーレイは白い床を踏みしめて進んでいた。
仲間たちの慎重な歩みに合わせて、ゆっくりと。
信仰と共に歩く神官の隣には、黒い肌の魔術師の姿がある。
何故だかわからないが、「藍」の迷宮に付き合わされた。
噂の「大穴」の底に案内させられた上、脱出の魔術の使い方を教えられていた。
確かに、もっとうまく扱えるようになればと思っていた。
戦士たちを守るいいやり方があるなら、怪我をしてから治すよりもずっといいのだから。
神官の立場を超えてしまうような気がして積極的になれずにいたことを、見抜かれてしまったのかもしれない。
ニーロに聞いても、魔術については理解できなかった。それでほっとしていた自分も間違いなく存在していた。
夢を見た時といい、「藍」での時間といい。
心に直接触れるような教え方をされて、今なら間違いなく、脱出はできる。六人だろうが、大荷物だろうが運べるという自信がある。
キーレイに力を与えた魔術師は、静かに歩みを進めている。
視点が高いところにあるせいで、顔は見えない。
不思議な人物だと、改めて思う。
ラフィはどこへ行ってしまったのだろう?
美しい体の内のどこかに潜んでいるのだろうか。閉じ込められているのか。
樹木の神殿で異国の神官と向かい合い、遠い西の国を見守る神々の話を聞いた。
迷宮都市に夜の神がいないように、ラフィ・ルーザ・サロの生きたところに樹木の神は存在しないという。
農作の神がそれにあたるのかもしれないと、微笑んでいた姿を思い出す。
ロウランと同じ顔でも、間違いなく違う、儚げで可憐な表情だった。
母なる大地の女神は同じ。その教えも変わりはないのに。
西の果てで、夜を守る神がいるのはどうしてなのだろう。
盗賊や娼婦、病人や世間に背を向ける者。
日の当たる場所を好まない人たちを守る存在は、ラディケンヴィルスにも必要なのではないかと思える。
最近起きたいくつかの事件が頭をよぎるが、今は考える時間ではない。
キーレイは気持ちを切り替え、視線をまっすぐ前に向けていく。
危険な罠があり、手強い敵が現れ、神官の力を求められ。
そうして進んでいくうちに、いくつかの下り階段を発見していた。
「白」では階段が見つかったら、とりあえず進んでみると良い。
すぐに行き止まりならば、地図にそう書き込んで終わりにできるから。
長く続いていたり、別れ道になっていれば時間がかかるので、後回しにした方がいい。全体の形がわかっていた方が地図は作りやすいし、どんな風に続いていくのか予想も立てやすくなる。
まだ、回復の泉は見つかっていない。
今回見つかった階段の先はどれも道がまだ続いているものばかりなので、どこから見て回るか決めなければならないだろう。
三十層でもニーロの描くおまじないの線は自分たちを守ってくれるだろうか?
キーレイの心はさまざまな考えで溢れていたが、今日は終わりだという確認が為された後、気が付いた時にはもう地上に戻っていた。
「それではまた明日の朝、同じ時間にここで」
ああ、そうか、とキーレイは思い知っていた。
迷宮の中の狙った位置に行けるようになったのだから、夜明かしの必要はもうないのだと。
探索の合間にあっても、自宅のベッドで眠れるようになった。
朗報でしかないのに、何故だか邪道な気がしてそわそわしてしまう。
まったく、便利極まりない。ごく普通の食事をとり、安全に休み、戦利品の取捨選択をする必要もなくなったなんて。
ニーロはすぐに去って行き、マリートも後を追うように道の先に消えていく。
残った三人の仲間たちは腹が減っていたようで、食事に行こうと考えたようだ。
「さて、飯にするか。キーレイよ、良い店へ案内してくれ」
ロウランに声をかけられ、四人で連れ立って迷宮都市の夜道を歩いた。
馴染みの店に入って、席に通され、並んで座る。
厳しい探索を行った日にこんな風に過ごしたことがあったかどうか。
キーレイは不思議な気分だったが、店の人間にはそんなことはわからない。
「よいところへいらっしゃいました、リシュラ神官長。今日は銘酒が届いたのです。王都の南東、一番の名産地、マリーデンをご存知ですか」
両親も通っている店なので、頼まなくてもお勧めの料理が勝手に出てくる。
酒も当たり前のように運ばれてきたが、意外なことにロウランはほんの少し注がれたところで手を出し、このくらいで良いと断りをいれた。
「ロウランさん、苦手なんですか」
ノーアンの問いに、魔術師は肩をすくめている。
「酒は好きだよ。なによりも好きなのだが、この体が受けつけん」
「ああ、弱いんですね」
「いや……」
ロウランは目を閉じ、ゆっくりと首を振っている。
「酒を飲むと匂いが抑えられなくなってしまう」
「匂い?」
「この体は特別製でな。酒を飲むと男を狂わせる香りが漏れ出してしまうのさ」
「……どういう意味です?」
「嗅いだ男の理性を崩壊させ、獣に変えてしまう。どれだけ我慢強い人間も狂わせる恐ろしい猛毒が、体から染み出してしまうのだ」
そう呟くと魔術師はキーレイへ目を向け、お前でも耐えられんだろうな、と続けた。
匂いの話は、ウィルフレドから聞いている。
ラフィに溺れたのは、神官の体から放たれる香りのせいだったのだと。
「それ、ニーロにも効きます?」
ノーアンがそう聞いたのは、単に好奇心からだったのだろう。
ロウランは愉快そうに、試す価値はあるかもしれんな、と笑ってみせた。




