199 悪意の漂流
魔術師に憧れてその道を歩き出そうと決めた者が最も消耗してしまう日は、塾に通い始めた一日目だろうとグラジラム・ポラーは考えている。
初回は高い授業料を払わねばならないし、魔術の扱い方を教わってもなかなかピンとくるものではないから。
師匠がなにを言っているのか理解する力も必要だが、それ以上にあまりくよくよしない、強い心を持っていた方が良い。
自分には無理かもしれない、大損したのかもしれないと考えてしまう者はその日よく眠れなくなって、次の日の授業もうまくいかないと相場が決まっている。
この日やって来た新たな魔術師志願の若者は良くないタイプで、のんびりじっくりと教えるグラジラムの授業にすら碌についてこられなかったようだ。
しょんぼりとした若者の背中を叩き、前向きな言葉をかけて、夕暮れの迫る道の上に送り出した上で、遠ざかる後ろ姿をしばらく見守ってやらねばならなかった。
明日もちゃんと現れるよう石の神に祈りを捧げていると、隣の家の前に人影があることに気付く。
視線を感じたのか、お隣の魔術師宅の前に佇んでいた男はグラジラムへ目を向けて、ゆっくりと近づいてきた。
「ちょっと聞きたいんだけど」
若い声に頷き、なにかなとグラジラムは答えた。
男は少しばかり小柄で細身、探索者らしい質素ないで立ちをしており、微笑んだような顔で魔術師を見つめている。
「ここにポンパって魔術師が住んでいるって聞いたんだ」
「ああ、確かに住んでいるよ」
「留守なのかな。何度扉を叩いても返事がなくて」
ポンパ・オーエンは屋敷にはいない。
しばらく他所へ行くと聞いているだけで、どこにいるのかは知らない。
訪ねてくる者がいた時には、名前を聞いておいてほしいと頼まれている。
何故そんな頼みをするかは、秘密にしなければならない。
そうして欲しいと頼まれており、グラジラムも受け入れている。
「ポンパはよく迷宮に行くんだ。気まぐれにふらっといなくなるんだよね」
「あんたに声をかけたりはしない?」
「するもんか。魔術師は変わり者が多いけど、ポンパはその中でも一番かもしれないんだぞ」
グラジラムが笑い混じりに答えると、男はしらけたような顔をして肩をすくめてみせた。
「なんの用があったんだい。戻って来たら言付けるくらいは出来るけど」
「探索に付き合ってくれる魔術師がいるって聞いて」
「そうか。君の名前は? よく行く場所を教えてくれたら、ポンパに訪ねるよう伝えておくよ。絶対に行くと約束は出来ないがね」
男はちらりと魔術師の顔を見つめると、こう名乗った。
「オイデだよ。オイデ・スロッド。北東の宿を使ってる。決まった店はないけど」
「オイデ・スロッドだね。見かけたらすぐに伝えておこう」
迷宮調査団の面々から聞かされた名は、スウェン・クルーグ。
ポンパに脅しをかけており、家に来る可能性があると言われている。
グラジラムは小さく頷くと、自分の家に戻っていった。
◇
意外なことに、ポンパ・オーエンの行方がわからない。
昼間に訪ねてみても、夜中にそっと家の周囲を廻ってみても、気配はかけらも感じられなかった。
家の中に入り込んでやりたかったが、どんな戸締りの仕方をしているのか、扉も窓も開けられない。
腐っても魔術師というわけなのだろう。
周辺に住んでいるのは魔術の使い手ばかりだから、大きな音を立てるような真似もしたくない。
共に行動している間もなにを考えているのかわからなかったが、脅しにあんなに怯えていた癖に、あっさりと逃げだすとは思わなかった。
オルヴェ・スローグはふんと鼻を鳴らし、まずは魔術師街を抜け出していく。
東側に向かったのは売家街に行く為で、ポンパの仲間だという探索者を訪ねようと考えてのことだった。
ポンパ・オーエンは特徴がありすぎる。
見かけた者は彼の姿を忘れることができないから、情報は簡単に集まっていた。
とはいえ、情報自体は少ない。はっきりとした仲間というよりは協力者どまりの探索者が数人いる程度しかわかっていない。
事前に調べておいたお仲間の家のうちの一方を訪ねてみると、小さな売家の前には大きな荷車が置かれていた。
荷物が既にいくつか載せられており、扉は大きく開け放たれている。
オルヴェはそっと扉に近付くと三度強めに叩いて、誰かいないか声をかけていった。
「なんだい、あんたは」
ここに住んでいるのは、戦士のセデルとスカウトのノーアンの二人と調べがついている。
出て来た男は体つきからして、セデルの方だろう。
ポンパ・オーエンの仲間たちは皆結構な腕前らしいから、油断は出来ない。
腕力自慢相手でも、数々の修羅場を潜り抜けて来た人間は侮ってはならない。
兄の言葉を思い出しながら、オルヴェはまたオイデと名乗り、ポンパ・オーエンの居場所を知らないかセデルに尋ねた。
「知るかよ、あんな奴」
戦士の答えはそっけない。興味がない以上に、怒りを感じさせる声色だった。
「一緒に探索をしているって聞いたんだけど」
「前はな。もう俺とは関係ない。あいつについてわかることなんかひとつもないよ」
「へえ、そうなのか……。誰か居場所を知らないかな」
「さあね」
セデルは苛々した様子で答え、ノーアンなら知っているかもな、と続けた。
同居しているはずのもう一人の名前が出て来たのが不思議で、オルヴェは更に問いかける。
「ノーアンっていうのは?」
「俺たちを裏切ったスカウトだよ。無彩の魔術師様のお仲間になったらしいから、聞いてみたらどうだい」
吐き捨てるように言うと、セデルは家の奥へ引っ込んでしまった。
この言い様からして、もうこの家に住んではいないのだろう。
情報は得られたものの、無彩の魔術師は相手が悪い。直接会うのは出来る限り避けたい。
たかだかまだ十代の若造だと思っていたが、後をつけるとすぐに立ち止まるし、振り返ってくる。
異常ともいえる鋭さがあるのは間違いなく、相手にはしないと決めていた。
腕の良いスカウトならば、少し聞いて回ればなにかしらわかるだろう。
腕の良いスカウトもあまり相手にしたいものではないが、魔術師の行方を聞くだけだから。
そこまで警戒されるはずがないと考え、オルヴェは売家街の近くで酒場を探す。
夜が訪れればどの店も賑わいだし、三軒目でノーアン・パルトは見つかった。
無彩の魔術師と共に歩めるのならそれなりの腕の主だろうに、ノーアンはあまりスカウトらしくない。
どこか曲者の香りがするのがスカウトの常なのに、見た目はごく普通だし、話しかけてみれば飄々とした雰囲気で、良識的な男だった。
「ポンパの居場所? なにか用でもあるの」
「探索に付き合ってくれる魔術師だって聞いて」
「なるほどね。確かに交渉次第で来てはくれるだろうけど、やめておいた方がいいよ。扱いが難しいから」
「そうなのか」
オルヴェがぼそりと答えると、家にいるんじゃないのかなとノーアンは笑った。
いないように思えても、中に籠っているかもしれないよと。
それ以外の可能性についてはわからないし、知らないらしい。
「一緒に行って声をかけてもらうっていうのは?」
「逆効果だと思う。ポンパは俺の顔なんか二度と見たくないだろうからね」
どうやらポンパ・オーエンと仲間たちは完全な決裂状態にあるらしい。
この分だと、エーヴとファリンの二人に聞いても情報は得られないだろう。
腕の良い仲間たちとそこまで仲を悪くして、挙句あんな阿呆どもに連れまわされていたなんて。
ポンパ・オーエンの間抜け面を思い出すと笑えてくるが、居場所がわからないのは頂けない。
あんなに怯えて震えていたのだから、大人しく家で待って、自分の来訪をすぐ迎え入れるべきなのに。
オルヴェは店を出て、道を歩きながら頭を働かせていく。
ポンパは変人で扱いにくかったが、能力は申し分なかった。
魔術師の協力者はいた方が良い。脱出の使い手ならもっと良い。
弱みを握るまでが大変で、うまくやったと思っていたのに。
想像の中のポンパの頭から髪を乱暴に引き抜き、全部荒野に巻いてやる。
それで鬱憤が晴れるはずもないが、心は少しだけ鎮まって、オルヴェは一から考え直していった。
まずは、確実に出来ることからがいい。はっきりと成果に繋がるようにしたい。
他に心当たりもないし、魔術師の確保は後回しにしようと決める。
薬品作りは、材料さえあれば取りかかれるだろう。
できればザックレンのレシピを手に入れたかったが、ポンパの家に侵入できないなら仕方がない。
魔術なしでもそれなりの効果のものはできるとわかっている。
オルヴェは暗い道を歩きながら、考えていく。
ザックレンが居なくなった後、誰かが昏睡状態にする薬を作り上げていた。
誰がやったのかは知らない。どこかの業者をうまく取り込んだのではないかとオイデは話していた。
兄ははっきり言わなかったが、ジュスタンがまとめていた面子の中の誰かがやったのだろう。
なんとか聞き出したとかで材料だけは知っているが、どう調合するかは聞いていない。
その便利な薬は、もうほとんどがなくなってしまった。
残ったのは、ジマシュに渡されていた小瓶の分だけ。
オルヴェが兄に命じられて薬草屋に入り込んでいる間に、なにかが起きた――。
街の北東までぶらぶらと歩いて、少し奥まった客の少ない宿を選び、部屋へと入る。
まだ他の客がいないから、靴を脱いで放り出しても文句を言われなくて済む。
ベッドに転がり、ひっくり返りながら、オルヴェはまた考えを巡らせていた。
この辺りのもっと奥まったところにいくつか隠れ家があったのに、そのうちの二つが焼け落ちている。
火事の起きた夜から、誰とも連絡が取れなくなっていた。
確認したいことはいろいろとあるのに、神官がうろつくようになったし、近くの宿の主だかなんだかがしょっちゅう様子を見に出てくるようになったから、中に入れない。
誰もいないから、情報が手に入らない。
焼け跡から見つかったというたくさんの死体が一体誰なのか、確認できそうにない。
安宿街で囁かれている噂からして、皆死んでしまったんだろう。
兄のオイデも、やたらと張り合っていたジュスタンも。
死んだところでどうということはないが、憂さ晴らしに蹴りまわしていたバルバやガドもいなくなってしまった。
あの夜を無事に避けられたのは、二人だけ。
オルヴェ・スローグと、頭の悪い怠け者のシンマだけ。
そう理解できたのは、火事から随分経ってからだった。
散々調べまわってわかったのは、たったのこれだけ。
大勢集めて、うまく嵌めて、便利になるよう仕込んできたのに。
誰がどうやらかしてこんなことになったのかな、とオルヴェは考える。
例の薬を使ったのかもしれない。
できる限り拠点を廻ってみたが、それらしいものは見つからなかった。
使ってしまったか、火事で焼けてしまったのか。
「阿呆のバルバが酒と間違えて皆に振舞ったとか?」
ぼそりと独り言を呟き、オルヴェは声を潜めて笑った。
あまりにも馬鹿すぎる。いくらバルバでもそれはない。
薬は管理されていただろうから。
だとしたら、ジュスタンか、そのすぐ下についていた誰かなのか。
犯人はシンマではない。シンマにはとても出来ないと思う。
大勢を巻き込み命を奪って、逃げ遂せた誰かがいるのだろうか。
鼻をふんと鳴らして、オルヴェは考えを巡らせていく。
ジマシュの下で働く者たちは、ジュスタンかオイデの指示に従って動いていた。
互いに意識してはいただろうが、二手に分けられてはいても、諍いの類はない。そんな真似をしていては仕事がまわらなくなるし、そもそも強い仲間意識なんてものがあっただろうかと思えるし。
どこかで摩擦があったかもしれないが、どちらかの一派を狙うならともかく、両方とも滅ぼそうとする理由が思いつかない。
ひっそりと仲間から抜けていった者は、ほんの僅かだが存在している。
王都に派遣されたうちの何人かは戻らなかったというから、この集団について知っている者はいるのだろうが。
けれど、殺す理由が思いつかない。
虐げられたから? 嫌な思いをしたから?
それだけでわざわざ迷宮都市へ戻って来て、全員が集まる場所を把握し、火をつけて始末する?
出来るかと問われたら、オルヴェの答えは「否」だ。
ジマシュに問われたのなら、なんとかします、くらいは言うだろうけれど。
全員の居場所も予定も把握しきれると思えない。集められはしないだろうと思う。
万が一出来たとしても、全員を同じ日に始末するのは無理だ。数人ずつ分ければいけるかもしれないが、そんなことをしていたら誰かしらに気付かれる。
些細なことでもおかしいと思えば伝え合うのが決まりなのだから。
またごろんと寝返りを打って、オルヴェは小さく唸るように笑った。
こんなことを考えても、あまり意味がないからだ。
自分以外の駒がすべてなくなったのに、ジマシュはまるで気にかけていない。
それどころか、たった二つしか残らなかった駒のうちの一つを自ら捨てた。
シンマについてはどうでもいい。あんな役立たずはいようがいまいが関係ないから、オルヴェとしても心底どうでもいい。
けれど今の、誰もいない状況は不便で仕方がなかった。
ジマシュだって情報が入ってこなければ困りそうなものなのに。
気になったことはすべて自分で調べなければならないし、ひとつひとつ確認するのも面倒だった。
ふいに足音が聞こえてきて、オルヴェはベッドの上で身を起こしている。
誰かと話す声も聞こえるから、何人かで宿を取った客なのだろう。
どうやら違う部屋に通されたようで、扉の開閉音がした後は静かになっていた。
運が良ければ今日はこのまま、四人用の部屋を一人で使うことができるだろう。
そうなればいいと考え、空腹を覚えてオルヴェは立ち上がる。
近くの食堂で夕食を済ませ、宿に戻ってくると部屋には新たに二人の客がやって来たようだった。
声をかけられ、探索をしているのかと言われて、答えを濁しておく。
そのつもりで来たけれど、自分に向いているかどうかわからなくて。
こんな風に答えれば、初心者丸出しの若者はみんな引いていく。
彼らが求めているのは頼れそうで、長く付き合っていけそうな「仲間」だから。
オルヴェとしても、街へ来たばかりの探索者志願に用はない。
うまく嵌められるのは、探索を諦めたものの街に残った半端者だから。
一度夢が破れて、探索とは違った輝かしい未来を求めているのに、うまくやれていない奴がいい。
少しだけ頭が回る奴はもっと良かった。
のし上がってやるとか、ライバルを出し抜いてやろうと考えている人間の方が、より深く嵌るから。
ジマシュから具体的な指示は受けていない。
シンマの始末を手伝わされたが、その後についてはなにも言われなかった。
オイデとジュスタンはなにかしら仕事を任されていたようなのに。
兄がどんな風に仕事をこなしていたのか、思い返してみてもよくわからなかった。
使えそうな人間がいれば取り込み、肩を抱いて仲間になったと酒を飲み、仕事を覚えさせ、裏切らないよう躾けていた。それは知っている。
そうやって躾けた連中に仕事を割り振り、役に立つのだと示し続けていたのはわかるけれど。
「そうするしかないのか?」
同じ部屋の客たちは既にいびきをかいていて、こんな独り言に答える声はない。
死んだ兄が夢に出てくるはずもなく、朝になって目覚めてから、オルヴェはすべて自分で決めるしかないのだと悟った。
ザックレン・カロンが作った薬草のレシピをまとめた物が欲しかった。
ジマシュもそれだけは求めていたようなので、手に入れたい。
あの糞野郎の家の片付けに関わった魔術師は二人。つまり、レシピの価値をわかっているのは、ポンパ・オーエンと無彩の魔術師ニーロだけ。
一方には手を出せないのだから、薄ら禿を締め上げるしかない。だが、行方がわからない。
念のためにもう一度家を探って、見つからないなら仕方がない、他の仕事に取り掛かった方がいいだろう。
手下を増やしておきたいが、そう簡単にちょうどいい落伍者は見つかるものではない。
だから、見つけ次第やるしかない。
カッカー・パンラの屋敷の管理人についてはもういいだろう。
しばらく見張っていたが、鍛冶の神官との接触はなかったようだから。
男のくせに家のことに夢中なお人よしらしいから、今は放っておく。
神殿への出入りも、今更のように思える。
見張りや聞き込みは今は止めて、もっと具体的に、自分のできることを探した方がいい。
また薬草業者に潜り込んで、協力者を得るのが良いかもしれない。
昏睡の薬の材料はわかっている。調合の人間とうまく知り合えれば、また作れるかもしれない。
ジマシュはあの薬を気に入ったようだった。
飲むと体が動かなくなり、目を覚まさなくなると聞いている。
シンマにおしおきをすると言って、ジマシュは小男を連れて「藍」の迷宮へ向かった。
偶然見かけたヌエルの友達だというスカウトも、言葉巧みに抱き込んで。
無関係の男もひとり。魔術師のふりをするよう言われ、小銭で応じたばかりに穴の底へ落とされた。
柄杓を渡され飲み干して、三人はその場に倒れた。
床に崩れ落ちたシンマへ向けた、あの瞳。
満足そうに歪んだ緑色の輝きを、はっきりと覚えている。
「この薬、体が動かなくなるだけかもしれないって聞いているよ」
ぴくりとも動かなくなったシンマをまっすぐに見下ろして、ジマシュはそう囁いた。
閉じていた小男の瞼を無理矢理開いて、オルヴェに二人を穴の底に落とさせて、一部始終を見せつけていた。
「シンマ、見えたかい? お前がわけのわからないことをしたせいで、関係のない二人が落ちていってしまったけど」
シンマからの返事はなかった。
ジマシュに直接声をかけられ、仕事を任せられるか試そうと言われ、あの日はかなり浮かれていた。
痛む腕の怪我に耐えながら、探索の上級者らしく振舞えという命令通り、ありえない程気取った態度で歩いていたけれど。
「ははは、泣いてるのか? じゃああの話は本当だったのかな。いいね、いい効果だ。最後にやっと役に立てたな。偉いぞ、シンマ」
そんな呟きの後に、小男も大穴に落とされて消えた。
役立たずの始末はこれで済んだし、無関係な二人が巻き込まれたことで少しだけ気分を良くして、ジマシュはこの日の探索を終えた。
戻る間に、大勢の初心者とすれ違うことになる。
ジマシュは顔を伏せ、普段は被らないフードで髪を隠して、まるで仲間を失ってしまった間抜けのように落ち込んだ振りをして歩いていた。
もちろん、オルヴェも同じように、あまり顔を上げないようにしょぼしょぼと歩いたつもりでいる。
「藍」に朝からやって来る連中は、皆稼ぎを得る為に張り切っているから、他人のことなど気にかけたりしない。
初めてやって来たような連中には、他人を気に掛ける余裕などない。
宿を引き払い、大通りに出てゆっくりと歩きながら、オルヴェは今日なにをするか考えていた。
もう一度くらいポンパの家を訪ねておきたいが、あまり人目につくのもどうかと思える。行くのなら深夜がいいだろう。
まずは、入り込める薬草業者を探そう。
オルヴェはそう決めると、大通りを西に向かって進み始めた。
一人では調合は出来ないから、技術のある者を抱き込みたい。
長く続いている大手ではまずい。どこかから独立したばかりの連中がいい。
ついでに倉庫からいくらか失敬できればいいから、南西側で居つける場所を見つけておきたかった。
ポンパの家の様子を見るにも、盗みに入るにも、行動は深夜になってしまうから。
北東の安宿ならいつでも空きはあるが、深夜にやって来た一人客は目につきやすい。
探索で大失敗したくらいしか、そんな時間に一人きりでやって来る理由はないから。
これまではいくらでも夜に潜り込める場所があったのに、なくなってしまったから。
新たに使えそうな場所があればいい。
薬草業者や寮がある辺りならば、神官がうろつくことはないように思える。
とはいえ、人目が多い場所だし、誰も管理せずに放置されている建物があるかどうか。
面倒なことばかりが増えている。オルヴェはため息をつきながら、周囲の様子を注意深く窺いながら歩いていった。
西の門が見えて来たら南へ向きを変え、進んでいく。
新しく宿だか食堂が出来ているようで、資材を運ぶ男たちの姿があった。
調査団の大きな建物も見える。
当然、チェニー・ダングについて思い出し、オルヴェはにやりと笑った。
これまでに失敗した間抜けは何人もいたが、あの女が一番だったと思うからだ。
少し優しくされただけであんなにも惚れ込んで、ヌエルなんかと張り合い、他の男に体を許してまでジマシュにしがみつこうとしていた。
目をかけられてなんかいないのに。
あの男が誰かを大切にしようなんて考えるはずもないのに。
低い笑い声を漏らしながら、オルヴェは考えていた。
ジマシュはどうやってあそこまで深く深く他人を取り込めるのだろう、と。
あまり近くで見られていないから、詳しくわからない。
オイデに伝えられるだけの情報では、理解できない。
深い深い沼に沈めて、なにもかもを奪い去るにはなにが必要なのだろう。
簡単ではないはずだ。それぞれに合わせたやり方があるに違いない。
阿呆のバルバと、兄のオイデで同じなはずがないのだから。
ジマシュに付き従う気などないが、その方法は知っておきたい。
シンマや女装のスカウトと話す様子で、そのかけら程度は目に出来たが。
少しくらいは「手柄」を立てて、そばにいられるようにして。
なにもかもを学んだら、貯め込んでいるという噂だし、全部奪ってしまおう。
迷宮都市はすべてが手に入るところだ。
田舎の冴えない暮らしでは望めないなにもかも。
富も、命令ひとつで自在に動かせる手下も。
金があれば、どんないい女だって手に入る。
うまくやれば、無彩の魔術師だってどうにかできるようになるだろう。
カッカー・パンラももう年だし、周囲が片付けば怖くなどない。
まだ若く美しい妻を奪って、従えてやろう。
艶やかな黒髪の美女を脳裏に描き、オルヴェは進んだ。
女の肌は滑らかで、豊かな胸も大きな尻も、たまらなく魅力的だ。
あんなに美しい女は見たことがない。初めて目にした時から、欲しくて欲しくてたまらなかった。
髪を掴んで乱暴に引き倒し、それから?
いくつかの天才的な思いつきにニヤつきながら、オルヴェは決意を強くしていく。
人妻だろうが関係ない。
欲しいものはすべて手に入れる。
その為ならどんなこともする。
今の状態は不便極まりないが、口煩い兄はいなくなったし、監視がなくなったのは逆に良かったと考えるべきだろう。
ジマシュも一人きりなのだから、オルヴェの行動のすべてを把握できるはずがない。
野望を果たす。どんなことでもやってみせる。
持たざる者が多くを手に入れる為に、最速の道を行く。
以前入り込んでいた業者はもう解散したが、知った顔は残っているかもしれない。
念のために服や髪の印象は変えてある。
働き口を探すふりをしながら、街の南西をオルヴェは歩いた。
新興の業者の噂はいくつか耳にしている。
やる気に満ちたところは駄目だ。
多少汚い真似もする、弱みを握りやすい奴らがいい。
実際に見てみなければ判断はできない。
新興の業者は「紫」には挑まないから、「緑」で見張って見つけるしかない。
大手の業者は昼間から仕事を始めるが、新しい業者たちは時間を少しずらす。
本当は先に入りたいのに、早い時間は探索の連中が大勢やってくるから。
仕方なく夕方から穴倉に入って、大手の業者たちが取り残した分を拾って帰る。
薬を作って、売り捌き、儲けで店を大きくしていって。
うまくいけば人が増えるし、大手の連中に混じっていける。
本当はそんな決まりなどないのに、何故だか新しく薬の仕事を始めた連中は大きな店に遠慮して、細々と営業するようになっていた。
「馬鹿馬鹿しい」
オルヴェの呟きは、迷宮都市の騒めきの合間に消えていく。
迷宮都市の南西をしばらく歩き回ってみたが、やはり入り込めそうな廃屋はないようだ。
仮暮らしの場所を探すのは諦めて、宿がないか探していく。
結局もっと北に行かなければ宿はないらしく、この日は西側に残っていたみすぼらしい宿屋を見つけ、夜を明かしていく場所に決めた。
おんぼろの宿は食事のサービスはついておらず、オルヴェは仕方なく北にある食堂街へ向かった。
夜になると娼館の客が増え、お楽しみの前の腹ごしらえをする者も多い。
それ以上に多いのはやはり安宿街で暮らしている探索初心者で、若者たちが集うと「話し上手」が現れて腕前を披露し始める。
オルヴェの入った店でも若者たちに囲まれて、最近街で取りざたされている噂話を聞かせる男がいた。
「皆、知っているかい……。今日は少し怖い話だから、臆病な奴は今のうちに耳を塞いだ方がいい」
男の気取った話し方は鼻につく。
けれど大勢は気にしないらしく、早く教えてくれと声を上げていた。
「はは、そう焦るなよ。いいか、怖くなったら離れるんだぞ。……これから話すのは、女の亡霊の話だ」
たっぷり焦らしてから飛び出してきた言葉に、周囲から声があがる。
亡霊の響きに驚く声もあったが、聞いたことがあるという答えの方が多かったようにオルヴェは思った。
「結構前の話なんだが、案外多いらしいんだ。血塗れで、剣を抱いて歩く女を見たって奴は、結構な数いるんだと」
「俺も見たぞ!」
「本当かい。それじゃあ、この間起きたとんでもない事件がこの亡霊の仕業だってのは知っていたかな?」
大声で答えた誰かに、語り部の男はにやりと笑ってみせた。
精一杯恐ろしい表情を作った効果があったのか、若者たちは驚き、どよめいている。
「恐ろしい事件については知っている者も多いだろう。なにせ、お前らが散々世話になっている、北東の宿屋街で起きたんだからな。最近やって来たばかりの者がいたらいけないから教えておいてやるけれど、ほんの少し前、宿屋街の奥で火事が起きた。一軒じゃなく、二軒同時にだよ。誰も使っていないはずの放り出された廃屋が急に燃え出して、中で何人も死んでいたんだ」
語り部は俯きがちに、おどろおどろしく話を進めていく。
わあわあ騒いでいたはずの聴衆も声を潜めて、あれこれ囁き合っているようだ。
「死んだのは皆、大人の男ばかり。奴らは全員積み重ねられたまま死んでいたんだ。神官たちが大勢でやって来て、調べてそうわかっている。ここまでは知られているらしいが、実は神官たちがもう一軒見つけていたのは知っているか? 男たちが死んでいた廃屋はもうひとつあったんだよ。焼かれはしなかったらしいがね」
「何人死んだってんだ……」
思わず声をあげた客に向け、男はにやりと笑いかけている。
「あの日はそれで終わったが、神官たちはまだ探してる。どこの神殿も人を出して、打ち捨てられてしまった廃屋をひとつひとつ巡ってるんだそうだ。わかるだろう。大の男がいっぺんに何人も殺されるなんて、人間の仕業じゃないのさ」
田舎から出て来たばかりの若者は震えあがっているが、もちろん眉唾だと声を上げる者もいる。
真相を知るオルヴェは噴き出すのをこらえながら、食事をゆっくりと進めていた。
「確かに、悪霊かどうかなんてわからないさ。だけど、あれだけ神官が出てくる理由はなにか言えるかな? 剣を抱いた女は神の膝元に招かれ損ねたんだと俺は思うね。どこの誰のせいなのかわからないが、余程男に恨みがあるに違いないよ」
神官たちは女を憐れんで、なんとかしてやろうと思っているんじゃないのかな?
語り部はしっとりと話をまとめると、軽く礼をして酒場の奥に去っていった。
ああいった手合いがどんな暮らしをしているのかわからないが、想像力豊かな連中なのだろうとオルヴェは考える。
美しく頭の切れる男に恋い焦がれ、未練たらしく街に残って醜態をさらし続けた醜い女がいただけなのに。
女はすごすごと王都へ戻り、ばら撒かれた噂に追いつめられて、自ら死を選んだ。
その後、兄が王都からやって来た。
騎士団を辞めて迷宮都市に移り住んだのは、妹の死の理由を追い求めているからだという。
オイデから、そこまでは聞いている。
ヘイリー・ダングは妹の後を継ぐように調査団に入り、この街で暮らし始めたのだと。
哀れな妹には、哀れな兄が相応しい。
チェニーが何故ジマシュと行動を共にし、神官の仲間の命を奪ったのか。
迷宮都市にその理由を探しに来たのは、張本人が誰にも打ち明けなかったからだ。
大層な忠誠心だとオルヴェはほくそ笑んでいる。
ヘイリーは一生かけても真相には辿り着けない。
生き残っているのはあのひょろ長い神官だけで、あの男も真相など知らないだろう。
他の関係者は全員死んだ。愚かな女も、同じようにジマシュに恋い焦がれていた変態のヌエルも。
それどころか、ジマシュの下で働いていた者のほとんどが命を落とし、二度と口を開くことはない。
最早オルヴェと、ジマシュしか残っていない。
つまり、どれだけ嗅ぎまわろうと、どんな協力者を得ようと意味がない。
食事を終えて、オルヴェはぶらりと迷宮都市の道を歩き始めた。
昼の間に目をつけておいた薬草業者の倉庫を覗きに行こうと考えて、南へ続く細い路地を進んでいく。
途中で迷宮調査団の本部が目に入り、男は哀れな団員のことを思ってやった。
チェニー・ダングは愚かでどうしようもない女だったが、根性だけはあったから。
ジマシュに気に入られたい一心で、神官と共に行動していた探索者と寝てまで五人組に居座っていたと聞いている。
最後はその男を容赦なく罠にかけ、殺し、美しい剣を奪って迷宮から生還した。
ジマシュに捨てられても命令通りに死ぬまで口外せずにいたなんて、たいした胆力ではないか。
亡霊も、その兄も、いつまでも迷宮都市を彷徨えばいい。
なにも得られず、求めるものが何なのかわからないまま、永遠にぐるぐると歩きまわっていればいい。
オルヴェはふんと鼻を鳴らして、調査団の大きな建物の前を通り過ぎていった。




