198 出会いの運命(下)
そろそろ時間だと気が付いて、アデルミラはまた厨房へ戻っていた。
樹木の神官たちの為のお茶の用意を進めながら、カッカーがまだいるのではと考え、少し多めにお菓子を揃えていく。
いつもならばギアノと共にやる作業だが、疲れているだろうし、レコと過ごす時間が必要だから。
声を掛けずに一人でお茶を淹れ、ちょうど廊下を通りかかったアグランたちに声をかけて、一緒に運んでくれないかと頼む。
ダインのしでかしのせいで屋敷の住人たちと樹木の神官らの関係は崩れてしまい、修復の為の努力が必要だった。
皆が皆ダインに手を貸したり、暴言を吐いたわけではないけれど、今は全員でことに当たる必要があるから。
最近も皆で昼食を振る舞って、関係は随分改善されている。
今日も手伝いに励む姿を見せれば、神官たちの心を動かすことができるだろう。
「アデルミラ、皆もありがとう」
神官たちが集まる部屋へお茶を運ぶと、やはりまだカッカーの姿があった。
「カッカー様、リーチェたちは元気ですか?」
「もちろんだ。ビアーナもメーレスも大きくなっているぞ」
お茶を注いでまわるアデルミラに、キーレイが問いかける。
「ギアノはどうしたのかな」
「お客さんがいらしているんです」
南の港町からはるばる訪ねて来た男の話に、神官長たちは興味深そうに頷いている。
「そうなのか。カルレナンは遠いと聞くけれど」
「ええ。馬車を乗り継いでいらっしゃったそうですよ。ギアノさんにとても会いたかったみたいで」
神官たちはレコの話に微笑み、二人の再会を喜んでくれているようだ。
すべての準備を終え、小さく頭を下げた雲の神官に、カッカーが声をかけてくる。
「アデルミラ、リーチェたちへの土産はあるかな」
「用意しています。後でお持ちしますね」
「いや、私がそちらへ寄ろう」
カッカーに頷き、アデルミラはアグランたちと共に屋敷へ戻った。
リーチェたちへの土産を包み、明日のティーオの店で売る物の支度を始めていく。
そういえば洗濯物も取り込まねばと思い出し、出来なかった掃除については後回しにすると決めた。
ギアノが不在の日はそれなりにあるが、今日は特に仕事が滞ってしまっている。
焦らず、急ぎでない物は良しとして、必要な作業から進めていこう。
心を落ち着けて作業の順番を考え、先に裏庭に行って干していた物を取り込んでいく。
誰かが適当にひっかけただけのくしゃくしゃの服を伸ばしてから厨房へ戻ると、広い背中が待ち受けていた。
「ギアノさん」
「アデルミラ、ごめん。一人じゃ大変だったよな」
「大丈夫ですよ。レコさんはお部屋にいらっしゃるんですか?」
「昼寝してる。疲れちゃったみたいでね」
「そうでしたか。お話はできましたか?」
「うん。よっぽど俺に会いたかったみたいでさ。そういや、会えて嬉しいとしか言われてないかも」
レコもさすがに、死んだと聞かされて駆けつけたとは言わなかったのだろう。
自分から伝える必要もなく、アデルミラはギアノの隣に並び、作業を手伝っていく。
「あとでカッカー様がいらっしゃるそうです」
「え、そうなの。ああ、お土産か。あれ、もう用意してくれた?」
「はい、リーチェたちも楽しみにしているだろうと思ったので」
「ありがとう。ビアーナもそろそろ食べられるかな。もうしゃべるようになっているかもしれないなあ」
夕方になれば違う仕事に追われてしまうので、急いで仕込みを進めていく。
ギアノが来れば速度はぐんと上がって、あっという間に菓子をしまう箱がいっぱいになっていった。
必要な作業が無事に終わり、ギアノはやれやれと腕を伸ばしている。
「今日、レコ爺は俺の部屋に泊めるよ」
カルレナンからわざわざやって来たのに、レコは明日帰ってしまうらしい。
「もう帰ってしまうんですか?」
「うん。明日を逃すと馬車が何日かないらしいんだ。ここは海辺とは全然違うから、落ち着かないんだろうと思うよ。俺も来た時はこんな乾いた土地があるんだって、驚いたから」
人も多くて慣れないし、早く戻りたいのだろうとギアノは言う。
「お見送りに行ってはどうですか、ギアノさん」
「え? うーん、そうだな」
「特別な御用がないなら、行ってあげて下さい」
「じゅあ、行こうかな。ありがとう、アデル」
照れくさそうな横顔に、アデルミラも体をかっかと熱くさせている。
廊下の向こうからティーオの声が聞こえてきて、ギアノが廊下に向かい、アデルミラは後片付けを手早く済ませていった。
そろそろ外出から戻る者が増えてくるから、調理用のスペースを開けて、皆がよく使う鍋を出して並べていく。
「アデル、戻ったぞ」
今日は「藍」の迷宮に向かっていた兄の声が聞こえて、厨房から廊下を覗いた。
五人組は皆元気そうで、アデルミラはほっとしながら感謝の祈りを心の中で捧げていった。
「ギアノは?」
「今はティーオさんと話しています」
「そうか。ああ、腹が減ったなあ」
「アダルツォ、先に片付けなよ」
コルフに声を掛けられて、アダルツォはばたばたと去って行く。
他にも初心者たちが戻ってきて、廊下を歩いたり、階段を上ったり下りたりしていて騒がしい。
アデルミラは厨房の傍に控えて、夕食の準備に取り掛かる若者たちの手助けをしていた。
野菜がどこだ、味付けはどうするか、質問をいくつも投げかけられ、答えていると急に廊下の先がざわめいていった。
「カッカー様」
屋敷の主の久しぶりの登場に、住人たちは背筋をぴんと伸ばして一列に並んでいる。
そんなに緊張しなくて良いと声をかけ、カッカーは一人一人に調子はどうか問いかけていった。
片付けを終えて戻ってきたアダルツォたちも家主に気付き、嬉しそうに声をかけている。
それが終わるとカッカーは住人たちに静まるように言い、皆に聞こえるよう声をあげた。
「皆、ダインたちの話は聞いているかな」
住人たちは戸惑うばかりで、誰も答えない。
それも想定していたのか、カッカーは力強く頷き、続けていく。
「彼らは迷宮で命を落としたようだ。どうやら良くない振る舞いもあったようで、とても残念に思っている。ここは迷宮について知り、どのように進んでいくか学ぶ場所にする為に用意している。探索は簡単なものではなく、危険が伴う。必ず話すようにしているが、ダインには伝わっていなかったようだ」
ダイン・カンテークが辿った運命について、大々的に発表されたわけではない。
けれど彼の無茶な挑戦については、全員が知っている。
なにが起きても不思議ではなかったから、驚く者などここにはいない。
「皆、人の話に耳を傾け、よく聞いて、しっかりと覚えていくんだ。そうできない者は探索には向いていない。失敗すれば命に係わる場所なのだと肝に銘じておいてほしい。迷宮に行って自分にはできないと思ったのなら、潔くやめるんだ。誰も責めないし、自分にあった道を選べばいい。そうした者も大勢いるのだと知ってくれ」
熟練の探索者の言葉は重たく響いて、若者たちは口々にわかりましたと答えていった。
「ダインとカステルの安息を共に祈ろう」
皆一斉に手を組んで、目を閉じ、沈黙が訪れる。
カッカーはそれ以上説教をする気はないらしく、短い静寂の後に「ありがとう」と礼を言って、厨房へやって来た。
「アデルミラ、ギアノはいないのか?」
「ティーオさんとお話しているんです。呼んできましょうか」
「いや……、いいんだ。ダインのことは少しばかり荷が重すぎたと思っていてな」
いつもと違ったところはないか、カッカーはアデルミラに尋ねた。
確かにギアノの様子はいつもとは違う。いつも通りに振る舞おうとしているが、無理をしていると感じていた。
ダインの行方や友人の死にショックを受けていたようだし、調査団の訪問にも随分緊張していたようだった。
ヘイリーは隣の神殿にこまめに顔を出していて、ギアノがいれば必ず声をかけてくる。
けれどつい数日前の訪問は、これまでにない緊迫感に満ちていたように思う。
助手と三人でしばらく部屋に籠って話をしていたが、内容は聞いていない。
「一度にいろいろなことが起きたようで、私も心配しています」
「そうか。アデルミラ、ギアノの支えになってやってくれ」
「もちろんです。出来る限り力になります」
今日のレコの訪問で、少しでも安らげれば良いとアデルミラは思う。
最後に短い祈りの時間を持つと、カッカーは家族のもとへと帰っていった。
ティーオが帰って行ってもギアノは姿を見せず、夕食の時間帯を迎えてアデルミラはばたばたと走り回っていた。
鍋の様子を見たり、料理に助言をしたり、誰かが皿を落として掃除の支度をしたり。
てんてこまいになった妹を見かねたのか、アダルツォとフェリクスが手伝ってくれている。
「ごめんごめん、アデルミラ」
やっと管理人が現れて、アデルミラの隣に並んだ。
掃除、片付け、鍋の番など、あっという間にスムーズに回りだして、アダルツォたちも夕食へ戻った。
「レコ爺の話が長くってね」
きっとそうだろうと思っていた。
神官は微笑んで、夕食を用意しようか問いかける。
「俺がやるからいいよ。後で一緒に食べよう」
アデルミラは頷き、作業を続けていく。
「カッカー様も来たんだよな?」
「ええ、レコさんのことは伝えてあります」
樹木の神官たちも久しぶりの再会を喜ばしいものとして話していたと伝えると、ギアノは照れたような顔をして笑った。
「レコ爺には随分世話になったんだ。海のことは全部レコ爺に教わったんだと思う」
「私にもそう話してくれましたよ」
「俺の小さい頃の話、した?」
「はい。とても可愛かったって話していました」
「まったくもう……。恥ずかしいったらないな」
同じ話ばっかりじゃなかった?
ギアノは顔を赤くして問い掛け、アデルミラは首を振っている。
「そんなことありませんでしたよ」
「そう? 失礼なこと言わなかったかな」
「大丈夫です。レコさんはとても優しい方でした」
すべての発言は、ギアノの身を案じて出てきたものだった。
より良い将来が導かれるよう、心の底から祈っているのだとアデルミラは感じている。
初心者たちの食事がそろそろ終わりそうだと気付いて、ギアノは自分たちの分の支度を始めた。
アデルミラは食堂を片付け、床に落ちたごみを拾っていく。
レコがやって来て、三人で夕食の時間を持ち、忙しい一日はようやく終わり。
今日は二人だけのささやかな時は持てないらしく、アデルミラは兄と共に祈りの時間を持つと、静かに床に就いた。
「お嬢ちゃん、ちょっといいかい」
アデルミラが朝の支度を始めようと厨房へ向かうと、後ろからこんな声がかかった。
「レコさん。おはようございます」
「おはようさん。昨日はありがとうな」
ぺこぺこと頭を下げる漁師の男に神官は微笑み、今日戻ってしまうなんてと別れを惜しんだ。
「ああ。南に向かう馬車は少ないらしくてね」
「そうなんですね。せっかくいらしたのに」
「いいや、いいんだ。俺ぁ海の男だからな。帰って、またすぐに漁に出ないといけないのさ」
川とはくらべものにならないほど、海は広いと聞いている。
水は塩辛く、どこまでも広がっているのだとギアノは話していたが、どんなものなのか想像ができない。
「ギィが見送りに来てくれるって言ってよう」
「レコさんと出来るだけ長く一緒にいたいんでしょう」
「そうかな。あいつはそんな風に思ってくれているのかな」
「もちろんです。レコさんが会いに来てくれて、ギアノさんは本当に嬉しかったと思いますよ」
酒を出してくれなかったけどなあ、とレコは呟いている。
漁に出る男は酒が好きで、いつも飲んだくれているんだとギアノも話していた。
「なあ、嬢ちゃん。これを受け取ってくれないか」
廊下の端で、レコはごそごそと荷物袋を探っている。
アデルミラに差し出されたのは、白く輝く丸い石があしらわれた髪飾りだった。
「これを私に?」
「ああ。これは俺の女房の形見でよ」
「そんな大切な物、受け取れません」
「いや、お嬢ちゃんにもらってほしいんだ。俺ぁ、決めてたんだよ。ギィが嫁を貰うことになったら、これをあげるんだって。こんな古いもんでお嬢ちゃんには悪いんだが」
あいつは俺の息子だからな、とレコは言う。
真剣な目でアデルミラを見つめながら、古びた髪飾りを差し出し、受け取るのを待っている。
「ギィの奴を、よろしく頼む」
老漁師の瞳はみるみる潤んで、神官の心を揺らした。
「わかりました。大切にしますね」
「ああ、ありがとうお嬢ちゃん。いつかあいつと一緒にカルレナンへ来てくれな」
「ええ」
「俺だけじゃなくて、皆ギィの奴が大好きなんだよ。あんなによく働く良い子は他にいねえから。お嬢ちゃんのことも歓迎するからな。俺ぁ戻ったら、とんでもなく優しい可愛い子がギィと一緒になるんだって、皆に話しておくよ」
一気にまくし立てたところでギアノが姿を現し、レコは途端に口を閉じてしまった。
「おはようアデルミラ。レコ爺、準備は良い?」
「おうよ。挨拶もこの通り、済んだぞ」
「もう行くんですか?」
「馬車の出発が早いらしいんだ。見送ったらすぐに戻るよ」
「わかりました。レコさん、どうかお気をつけて」
「ああ、嬢ちゃん。またなあ」
初心者たちが迷宮に挑むよりも早く、二人は屋敷を出て行ってしまった。
どこかで朝食を一緒にとるのかもしれない。
アデルミラは渡された髪飾りを部屋にしまって、厨房へと戻る。
ティーオの店の為の菓子を用意しながら、大きな鍋でスープを温め、早起きの者の為に支度を進めていった。
やがて少しずつ青年たちが食堂にやって来て、屋敷の中は活気づいていった。
迷宮に向かう者は今日は多くないようで、朝の時間はゆったりと流れていく。
それでもばたばたと働いていくうちに、ほとんどの者が朝食を終えたようだった。
菓子も焼き上がり、配達を請け負ってくれる者がいないか声をかけ、手を挙げてくれたダムたちに頼んで、片付けに戻る。
廊下を行き来する様子からして、今日は裏庭で訓練が行われるようだ。
それなら、洗濯物は端に避けておくべきだし、道具がすぐに出せるよう、物置を開けておいた方がいいだろう。
雲の神官はそう考えて、厨房の火の始末をすると庭へ向かった。
誰かが片付け忘れた服を取り込み、籠の中に入れていく。
アデルミラはよいしょと籠を持ち上げて、裏庭の入口へと向かった。
すると扉が開いて、フェリクスが姿を現していた。
「やあ、アデルミラ」
「フェリクスさん。これから訓練ですか?」
「うん。今日はフォールードが教えるんだ」
「そうなんですね」
「だけど、フォールードだけじゃ心配だろ?」
フェリクスが笑い、アデルミラもつられて微笑んでいる。
アダルツォも後からやって来るとフェリクスは言い、既に片づけを始めていたことに気付いてアデルミラへ礼を言った。
「今日はギアノを見てないけど」
「昨日からレコさんという方がいらしてたんです」
「ああ、故郷から来たっていう」
「馬車が早い時間に出るそうで、ギアノさんは見送りに行きました」
フェリクスは穏やかな顔でなるほどと呟き、慌ただしいんだなと笑った。
笑ったままアデルミラをじっと見つめており、何故なのか神官の少女は考えている。
「アデルミラ」
「なんでしょう?」
「昨日の夜、考えたんだ。あの時偶然、同じ馬車に乗り合わせたこと」
もう随分前の出来事だと、アデルミラは思い返していた。
アダルツォを探す為に迷宮都市に行くと決めて、馬車に乗った日のことを。
「あの日偶然同じ馬車に乗っていたせいで、俺が黙って去っていったせいであんなことになってしまって」
確かに、あの日の出来事は忘れないだろうと思う。
「橙」と間違えて「黄」の迷宮に迷い込み、前を歩いていた三人が無惨に命を散らし、二人で怯えながら道を進んだ。
記憶は随分薄れてきたが、あれ以上に恐ろしい出来事はもう起きないだろうと思える。
「あの時、アデルミラと出会わなかったらどうなっていただろうと考えたんだ」
偶然ニーロが通りかかり、二人は地上へ無事に戻ることができた。
フェリクスが抱えていた事情を打ち明け、魔術師の心に訴えかけて、術符を渡され、命拾いしていた。
カッカーの屋敷に導かれたのも、あの経験があったからだ。
「あの日の出来事がなければ、私は兄さまに会えなかったかもしれません」
ひょっとしたら、永遠に再会の時は来なかったかもしれない。
アデルミラでは居場所を見つけられず、アダルツォは娼館街に閉じ込められたまま。
自分がどう行動していたかもわからない。雲の神殿を頼っただろうとは思うが、迷宮都市に居続けたか、すぐに故郷へ戻ったか、想像がつかなかった。
「俺も、シエリーについてなにもわからないままだったろうと思う」
フェリクスの眼差しに、哀しみの影が揺れている。
シエリーのことを思い出すと、アデルミラの胸にも痛みが走って、祈りの為に手を組んだ。
「ずっと悔いていたんだ。アデルミラを巻き込んで、あんな恐ろしい思いをさせて。あの時馬車に乗り合わせない方が良かったんじゃないかって」
「フェリクスさん……」
「だけど、あの日がなければ今もない。俺はシエリーがどうなったかわからず、メーレスについても知らず、良い仲間や友人と出会うこともなかっただろう」
そう呟くと、フェリクスは優しい顔をして笑った。
アデルミラを見つめて、君と出会えて良かったのだと話した。
どうして急にこんな話をしたのかは、次の瞬間わかった。
「ギアノとのことを聞いたよ。おめでとう、アデルミラ」
「えっ?」
「アダルツォが、みんなには内緒だけどって俺に話してきたんだ」
「まあ……、もう、兄さまったら……」
「わかるよ、アダルツォも嬉しくてたまらないんだって。俺もとても喜ばしく思っている。ギアノは本当に良い奴だし、アデルミラを大切にしてくれるだろうから」
あの日。
途中から馬車に乗って来た青年の姿をアデルミラは思い出していた。
目を伏せ、誰とも話をしようとせず、フェリクスはいつの間にか姿を消していた。
放っておいて良いとは思えずに探し回って、運良く西の食堂で見つけることができたけれど。
「黄」の迷宮で死んでしまった三人を思うと胸が苦しい。
迷宮の恐ろしさを思い知り、兄はもう見つからないのではないかという思いも芽生えていた。
あれから、様々な出来事があった。
ティーオたちと出会い、ウィルフレドに助けられ、迷宮に挑んだり、危機を乗り越えたりした。
迷宮都市から追い出されて故郷へ戻ったが、フェリクスのことを忘れたことはなかった。
フェリクスもまたアデルミラを忘れず、アダルツォを見つけ出し、家族のもとへ戻してくれた。
不思議な見えない絆があると、フェリクスは感じてくれているのだろう。
それはアデルミラにも、アダルツォの中にもある。
兄妹は雲の神の特別な導きを、共に胸の中に抱いていた。
「大丈夫、二人がいいと言うまで、俺は誰にも話さないから」
フェリクスはこう言って微笑んでいたが、ふと遠くへ目をやって、ぼそりと呟いた。
「ギアノは最近少し参ってるみたいだけど、大丈夫かな」
「そうですね……。ダインさんのことだけではなくて、いろいろとあって」
「いろいろ?」
「はい。調査団の方にも協力しているみたいで」
ダインについても大変な思いをしたと思っているが、調査団への協力の方が深刻なのではないかと感じている。
ヘイリー・ダングは何度も屋敷を訪れギアノと話しているが、詳しい内容は聞いていない。
どうやら鍛冶の神官が関わっているようではあるが、ギアノはこの件に関してはアデルミラになにも話そうとしなかった。
「調査団っていうのは、ヘイリーさんのこと?」
「はい、そうです。最近は助手の方と二人で活動されているようで」
「アダルツォも協力したと話していたよ。事件があって、似せ書きを描いたって」
フェリクスはこう答え、庭の隅にある石をじっと見つめた。
なにか考えているようで、アデルミラも黙って待っている。
「あの時の男を覚えている?」
訓練の参加者はまだ来ない。
声も聞こえてこないので、準備に時間がかかっているのだろう。
「あの時のというのは……、食堂で会った?」
「ああ。ジマシュと名乗った男だ。金色の波打った髪の」
「はい、覚えています」
「あれから会ってはいないよな?」
フェリクスの問いに、アデルミラは素直に頷いて答えた。
普段から出かける先は決まっている。ティーオの店まで配達に行くか、雲の神殿に向かうかだ。
その間にジマシュの姿を見かけたことはない。
フェリクスもアデルミラの答えに頷くと、声を潜めて話を続けた。
「ヘイリーさんはあのジマシュという男を探しているようだった。多分、良くない話なんだと思う」
「あの方を?」
「詳しくはなにも言わなかったけれど、アデルミラ、あの男には気を付けるんだ。あの時の出来事はきっと……、偶然ではない」
「橙」と「黄」の迷宮は、似て非なる場所。
どう行けば良いのか、北か南か、言い間違えたか聞き間違えたのだと思っていたけれど。
フェリクスの真摯な瞳を前に、アデルミラは考える。
あの日どうしてあんなことが起きてしまったのか、原因を示すものなどなにもない。
個人の記憶などあやふやなものだから、宛てにすることなど出来ない。
けれどこんな風にフェリクスが真剣に話すのは、理由があるからだと思えた。
「もしもまた出会うことがあっても、決して関わらないでくれ」
「……わかりました。フェリクスさん、覚えておきます」
神官の答えに、青年はほっとしたような顔を見せている。
話が終わった途端にフォールードの怒ったような声が聞こえてきて、フェリクスは慌てて様子を見に走り出していった。
今日の訓練は激しいものになるかもしれないと考えて、昼食を多めに用意しようとアデルミラは厨房へ向かった。
昼になる前にギアノも戻って来て、「いつも通り」に時が進んでいく。
神官たちの為のお茶の支度を進め、甘いものが大好きな少女たちの為に菓子を作り、汗だくになった若者たちの洗濯を手伝って、放り出された木剣は拾って物置に戻しておく。
夕食の時間を乗り切れば、時の流れは一気に遅くなる。
本当はそうではないけれど、アデルミラはそう感じていた。
今日は辛いことも大変な試練もなく、無事に一日が過ぎていった。
アデルミラは部屋に戻って、そういえばと思い出してレコから渡された髪飾りを取り出し、手のひらの上を眺めている。
古びているものの、まあるい白い珠の輝きは美しい。
光を浴びると虹のような色を浮かべていて、不思議だとアデルミラは思った。
レコはまだ旅の途中だろうから。漁師の無事を祈り、目を閉じる。
すると扉を叩く音が聞こえて、神官は立ち上がった。
「ギアノさん」
「アデル、昨日も今日も作業を任せちゃってごめんな」
「気にしないで下さい。レコさんがいらしてくれて、本当に良かったですね」
ギアノは照れたような顔で頷き、アデルミラは別れ際に渡された物を見せた。
古びた髪飾りを目にして、青年は「へえ」と呟いている。
「レコ爺がこれを?」
「奥様の形見だと仰ってました」
渡された経緯を話すとギアノは急に顔を真っ赤にして、そうなんだと囁くように言った。
「大切な物でしょうから、受け取っていいのか迷ったんですけど」
ギアノが死んでしまったと聞いて慌ててやって来たのに、レコはこの髪飾りを持ってきていた。
ブラウジたちの言葉を信じていなかったのか、信じたくなかったのか。
今更わかるはずはないけれど、とにかくギアノにできることはすべてしてやれるよう、備えて来たのだろうと思える。
「受け取ってくれて、ありがとうな」
目を逸らしたまま礼を言うギアノに、アデルミラは静かに頷いている。
「カルレナンの漁師は結婚をする時、相手に真珠を渡すことになってるんだ」
「真珠?」
「これだよ、この白くて丸いやつ」
海の中で貝が抱いて眠る宝石なんだとギアノは言う。
「俺が持ってないだろうって、心配してたんだろうな」
確かに。生存の確認をした後に、恋人がいるかどうかをまず気にしていたから。
アデルミラは微笑み、神官の表情に気付いた管理人はまた顔を赤くしている。
「ダインの話は終わったんだ。ダインを預けた親族の人には、カッカー様が全部伝えてくれるって」
「そうでしたか」
「もう少ししたら、俺たちのことをちゃんと話すよ」
ギアノの手が伸びてきて、アデルミラの細い指先に触れる。
控えめに触れて来た手を包み込んで、神官は祈りを捧げていった。
ダインとカステルの魂が癒されるように、そして、様々な出来事に真正面から向き合うギアノの心が強くあるように。
「ありがとう、アデル」
なにも言葉にしていないのに、祈りの内容がわかったのかもしれない。
ギアノは穏やかに礼を言って、照れくさそうな顔で口を開いている。
「俺もレコ爺に土産をもらったんだ。干した貝柱なんだけどね」
首を傾げるアデルミラに、ギアノはにこにこと笑っている。
たいした物ではないが、迷宮都市では滅多に手に入らない珍品なんだよと。
「あんまりたくさんはないから、何に使おうか迷ってるんだ」
「美味しい物が出来るんですね」
「そうなんだ。ロウランさんにまた料理を出す約束をしたから、その時に使おうかな」
ウィルフレドとキーレイ、そして初めて屋敷にやって来た美しい魔術師に食事を出していたのはつい三日前の出来事だった。
屋敷の住人たちが樹木の神官の為の食事を作り振舞っていた日。アデルミラは若者たちの手伝いをしていてはっきり見た訳ではないが、それはそれは美しい女性がやって来て、ギアノの食事を楽しみ、褒めていたのは知っている。
ダインの捜索とヘイリーの訪問でいつもよりも元気のなかったギアノが、この日だけは少し楽しげだった。
単純に料理を振舞っただけで、良い気分転換ができたのだろうとは思っていたけれど。
「ウィルフレドさんといらっしゃった、魔術師の方ですか」
「うん。ものすごく綺麗な人でね、ニーロの家で会った時はびっくりしたよ」
正直な誉め言葉に胸がちくちくと痛んでいる。
見た目は簡単にどうにかできるものではないとわかっているし、もう気にしないと決めているのに。
ちんちくりんなちびっこ神官と思われるのは、自分の見た目なら当たり前。
これまでの数年間で受け入れると決めてきたではないかと、アデルミラは指を組んでいる。
「レコ爺には従兄弟がいてさ。ロムっていう爺さんなんだけど、二人は仲が良くていつも一緒にいるんだよ。ロム爺は奥さんがやかましいってレコ爺のところに入り浸ってるんだけど、本人も相当なおしゃべりなんだ」
ギアノは楽しそうに笑いながら、ロウランの話し方はロムとほとんど同じなのだと語った。
「なんでかわからないけど、いつでも自信満々で偉そうな話し方をするんだよね」
「ロムさんが?」
「そう。ロウランさんは本当に物知りなんだろうけど、ロム爺は全然そんなことないんだ。記憶間違いもすごく多くて。レコ爺に適当なことを言うなってずっと言われてるのに、全然改めなくってずっとぺらぺらぺらぺら話す人でね」
だからロウランと話すと、ロムを思い出して、懐かしくて楽しい気分になるんだ。
ギアノはにこにこと笑っており、アデルミラもおかしくなって笑い声を漏らしていた。
ところがその途端、管理人の青年は急に真剣な顔をして、まっすぐに神官の少女を見つめた。
「ごめん、アデルミラ。他の女の人を綺麗だなんて褒めたら駄目だったな」
「え……。でも、本当に綺麗な人ですし」
「確かにそうだけどさ。でも、そんな顔させたくなかった。だから、ごめん」
表情に出てしまっていたかとアデルミラは思う。
気恥ずかしくもあり、嬉しくて、くすぐったい気分でもあった。
「俺はアデルが好きだよ。力になってもらって、いろいろと教えてもらって、ずっとそばにいたいと思ってるんだけど、その……。俺はアデルの目とか、髪の色とか、本当に可愛いと思ってる」
「え。あの……」
「小さくて可愛いって意味じゃないよ。アデルはすごく綺麗な目をしてるから」
ギアノの手が伸びてきて、右の頬に触れる。
指先が揺れて、優しく撫でられて、アデルミラは口を開いた。
「私も、誰よりも優しくて、頼もしくて、真摯に生きる貴方を尊敬しています」
「尊敬?」
じっと見つめられて、雲の神官の少女は短く息を吐きだし、生まれて初めての愛の言葉を口にしていた。
「ギアノさんが好きです。こんなに誰かのことで胸がいっぱいになったのは、初めてです」
猛烈な勢いで血が駆け巡って、体が熱い。
胸の鼓動がやかましくてよく聞こえなかったが、ギアノはどうやら「俺もだよ」と囁いたようだった。
優しく微笑んだ顔が近づいてきて、唇が触れる。
とても短い口づけだったが、その一瞬は二人の心を強く結びつけ、大きな幸せで満たしていった。
「お休み、アデル。また明日な」
誠実な青年は神官をほんの数秒だけ抱きしめると、自分の部屋に戻っていった。
優しく微笑んだギアノらしい顔に、アデルミラはほっと息を吐いている。
温かい思いを胸に宿したままベッドに腰かけて、雲の神に祈りを捧げていく。
自分に与えられた幸せに感謝をし、このほのかな愛がギアノの支えになるように。
ベッド脇の小さなテーブルの上で、大きな一粒の真珠が光を放っている。
ろうそくの火を受けて輝く宝石に微笑みを浮かべると、アデルミラは横になり、愛しい人の顔を思い浮かべながら眠りの中に落ちていった。




