189 目に焔、心に光(中)
午後になってから二人は調査団を出て、町の見廻りを始めた。
北側半分にある神殿を巡るようコースを決めてあり、まずは一番近くにある雲の神殿に顔を出し、神官たちと言葉を交わす。
空き家や廃屋が見つかったら様子を確認するよう頼んであり、その報告があるかどうか聞く。
この訪問は調査団と神殿との関係を強める目的もあって、ヘイリーはどうやらほとんどの神官たちの顔を既に覚えているようだった。
雲の神殿からまっすぐ北へ向かうと娼館街に行き着くが、こちらには足を踏み入れない。
周辺にある食堂街を眺めつつ、かまどの神殿にも顔を出す。
スアリアに繫がる西の門も近くにあり、東の宿屋街へ続く大きな通りがのびている。
大通りには探索初心者たちが多く歩いているが、この道沿いにある迷宮はどれも上級者向けで、若者たちが向かうのは専ら北でぽつんと口を開けている「橙」の迷宮なのだという。
皿の神殿にも寄って、屋台や露店の並ぶ道を歩いていく。
ヘイリーの纏う調査団の制服に、誰もがどこか緊張したような目を向けている。
なにも知らない若者を騙そうとしている高利貸しだの、無茶な呼び込みをする客引きが減ったと話している者がいたらしいから、調査団が歩いているだけで多少なりとも効果はあるのだろう。
話してみれば穏やかなひととなりがわかるのだが、ヘイリーの目は鋭いから。
妹に起きた「なにか」を探る為に、いつでも神経をとがらせているようだから。
チェニー・ダングが王都へ戻される前。彼女は酷くやつれていて、死人のような顔で歩いていた。
刺々しい態度を取るせいで敬遠されていたが、長い留守の後に戻って来てからは、青白い顔でぼんやりするばかりで、団長の指示もほとんど耳に入っていないようだった。
その余りの変わりように、誰もなにも言えずにいた。
それぞれに心配はしていても、団員たちは誰も声をかけなかった。
彼女の命の輝きはあまりにも弱々しくて、触れてはならぬもののように思えたから。
少なくとも、ガランはそう感じていた。
気が強くて、迷宮都市など自分のいるべき場所ではないと考えていて、他人を撥ねつけるような態度でいたチェニー・ダングだったから。
日常を重ねていくうちに、きっともとに戻ると思っていた。
いや。
そう願っていただけだ。来たばかりの頃のように、苛々しながらも仕事をこなしていた女兵士に戻ってほしいと、やりすごしていただけ。
埋もれていた後悔を掘り起こしながら、ガランはヘイリーの斜め後ろをついていく。
一緒になって神殿を巡り、神官たちの話に耳を傾け、町に集まる若者たちに目を配り、なにかが起きれば行って声をかけていく。
こんなことでは贖罪になどならない。ガランはそう思っている。
ヘイリーがやって来た時、瞳のあまりの暗さに圧倒され、騎士の青年に怖れを抱いた。
恐ろしかったし戸惑っていたが、今はできる限り力になると決めている。
冷たい暗がりに身を置いているのに、誰よりも高いところを見つめていると知ったからだ。
「一軒、誰かが入り込んでいた形跡のある廃屋を見つけました。足跡などがあって、家具も使われた形跡があって。ですが、残されている物などはありませんでした」
皿の神官の報告を聞きながら、廃屋について詳しい話を聞いていく。
宿屋にする予定だったであろう建物のひとつで、二階は建築途中で放り出され、未完成のま残されているらしい。
すべての神殿への声掛けをした甲斐があったらしく、神官たちは協力的だった。
南側の二箇所には見廻りに行っていないし交流もできていないが、北側にある神殿との関係は明らかに良くなっていた。
大通りに近い神殿は特に、近くで暮らす探索初心者が厄介ごとを持ち込むことが多いようで、調査団の協力を喜ばしく思っているようだ。
鍛冶、石、車輪にも寄って、最後は樹木の神殿まで足を伸ばす。
カッカーの屋敷にも顔を出してギアノに声をかけ、神殿へ移動して神官長に挨拶をし、シュヴァルを刺した犯人についても報告する。
シンマの死については管理人から聞いていたようで、迷宮内で発見されたという偶然にとても驚いたとキーレイは話した。
「やはり迷宮の中で発見されるのは珍しいことなのですね」
「あの中で人を探すのは本当に大変なことです。滅多に起きない、奇跡的な出来事だと思っていいでしょう」
二十年以上も探索を続けているというキーレイ・リシュラが言うのだから、本当に稀なことなのだろう。
共に倒れていたマージについても知っていたらしく、神官長は祈りの言葉を呟いている。
「リシュラ神官長、マージという探索者を知っておられるのですね」
「交流があったわけではないのです。隣の屋敷で暮らしていた探索者の一人が、迷宮の中で倒れていた女の子を助けたことがありまして……」
神官長の言葉が止まる。
どうにも説明が難しいと前置きをすると、とにかくマージはその女の子に手を差し伸べ、自分の家に住まわせてやっていたと語った。
「ユレーが話していましたね、もうひとり一緒に暮らしていたと。名前は確か、マティルデでしたか」
ガランがヘイリーにひっそりと話しかけると、聞こえていたようでキーレイは頷いて答えた。
マティルデはギアノとも縁があり、マージが付き添って訪ねてきたこともあったのだと。
「ギアノから話を聞きましたが、随分と不可解な点があるようですね」
「そうなのです。スウェン・クルーグという男が関わっているのではないかと考え、行方を捜しているのですが、名前に憶えなどはありませんか?」
キーレイは首を振り、心当たりがないことを詫びた。
「なにかわかった時にはすぐに知らせます」
「ありがとうございます、リシュラ神官長」
「こちらこそ、あなた方の働きに感謝します」
無事が守られるよう共に祈りを捧げ、樹木の神殿を出る。
魔術師ニーロを訪ねたいところだが、既に夕暮れが迫っており、今から行くのはタイミングが悪そうだとガランは思う。
どうやらヘイリーも同じ考えだったらしく、そろそろ戻ろうかと声をかけてきた。
ここからは街のど真ん中を通った方が早く帰りつけるので、魔術師街へと足を向ける。
ポンパの家の様子が気になるが、制服姿で近くを歩くと警戒されるかもしれず、見張りを引き受けている団員の報告を待った方がいいだろう。
ヘイリーの考えはいつでもはっきりとしている。
どのようにすれば良いのか常に考え、ガランに伝えてくれる。
「皆、急にやることが増えてしまったが、どう思っているだろう」
そんな調査団員は西に向かって歩きながら、小さな声でこう呟いた。
左手に紫色の輝きを見ながら、誰にともなく。
「これまではやることがなさすぎました」
「ははは」
王都から派遣されてきた若い兵士たちは、毎日暇を持て余していたはずだ。
やる気がありすぎてこの生活に耐えられなかった者は、ちゃんと辞めていった。
ヘイリーに触発されて協力を申し出た団員もいるし、反対に不満を持っている者もいるだろうが。
仕事はようやく「妥当」になったくらいで、誰も文句など言えないだろうとガランは思う。
「動き出したが、王都とはまったく違う。……人も仕組みも、なにもかもが」
街を赤く照らし始めた太陽が、魔術師たちの屋敷の向こうに輝いている。
眩しさに目を細めがら、ガランはヘイリーの斜め後ろを歩いていく。
調査団員はまっすぐに背を伸ばしているが、呟きには力がなく、初めて弱さを感じさせられていた。
ヘイリーの不安は理解できる。
知りたいことは山のようにあるのに、どれも真実へ繋がる道がまだ見えないから。
安宿街で起きた殺人事件、迷宮で起きた不可思議に、チェニー・ダングをうちのめしたものの正体も。
「これからです、ダング調査官」
ようやく出て来たのはこんな陳腐な言葉で、ガランは複雑な気分になっている。
けれどヘイリーは振り返り、小さく微笑んでみせた。
「そうだな」
ありがとうと囁かれて、ガランも同じ言葉を心の中で返した。
「まずはとにかく、予算が増えんことにはな」
調査団に帰り着くなりショーゲンに呼ばれて、ガランは団長室で用事を申し付けられていた。
もう夕方を過ぎたが、急ぎで手紙を出してきてほしいという。
他の面々は食事の準備などをしているらしく、ぶらりと帰って来たガランがおつかいには適任のようだ。
「迷宮都市で勝手にやり始めたというのが間違っている。先に許可を求めねばならんのに」
ぶつぶつと文句を言っているが、人員の増加を考えてくれているのだろう。
前向きな団長の発言に希望を感じて、ガランは急な頼みごとも快く受け入れていく。
「事件は次々に起きています。のんびりしていてはまた悲劇が起きるかもしれません。ショーゲン様の判断が、未来を守ることになるのではないでしょうか」
ただの愚痴かもしれないが、こんな返事を口にしながら手紙を受け取る。
王都宛ての急ぎの手紙は東門近くに専門で引き受けてくれる者がいるので、そこまで届けに行かねばならない。
ぐうと鳴った腹を押さえて、再び迷宮都市の道の上を行く。
足早に進んでいくと、夕食の為に出て来たであろう大勢の若者たちとすれ違った。
北東の宿屋街にも食堂はあるが、かまどの神殿近くにも安い店が多く並んでいる。
宿屋街に詰まった若者たちがいっぺんに出てくると食堂は満席になるので、あぶれた者はみんな西側に流れてくる。探索中に幸運に恵まれて、女を買いに娼館を訪れる者もいるだろう。
夜が訪れても通りは賑わっており、道の先からは喧嘩らしき声も聞こえてくる。
ガランが声のする方へ目を向けると、いくつかの大声に続いて用心棒が現れたのが見えた。
単純な争いはこうやってすぐに解決される。
騒がしい若者はつまみ出されて、よほどの絆がなければ仲間に見限られてしまうだろう。
そうなれば、また苦労して共に行く者を探す日々からやり直さなければならない。
この日食堂で起きた喧嘩は些細なものだったようで、集まっていた野次馬もあっさりと散っていった。
ガランはふとユレーのもとにいた男について思い出し、考えを巡らせていく。
ヘイリーがやって来た後、ユレーが調査団を訪れて「相談」に乗った。
解決したのは彼女自身に起きた災難についてだったが、あの時、なんと話していただろう。
友達の知り合いが大怪我をしていて、仕方なく神官に治療を頼んだ――。
医者の手当では間に合わないほどの傷を負ったので、規則を破るのを承知で神官の手を借りたと話していた。
しかしヌウとやらはまだ自由に動けず、体に包帯を巻いている。
神官の治療を受けたにも関わらずいまだにあんな状態なのは、神官の腕が良くなかったか、よほど酷い怪我をしていたのか。
妙な奴に絡まれたと本人は話していた。
止める者がいなかったのだろうか。誰もいない場所で延々と殴られでもしたのだろうか?
改めて考えてみると奇妙に思えて、ガランは首を捻っている。
思案の間に東門に辿り着き、まずは手紙を業者に託した。
乗合馬車の業者だが、騎士団とのやり取りの為に契約をしており、手紙がある時は馬を出して届けてくれる。
用事を終えたら、あとはまっすぐ戻るだけ。
東門から調査団へ帰るなら、来た道を辿るだけでいい。
再び大通りへ入り、西に向かって進んでいく。
辺りは暗くなってきたが通行人はまだ大勢いて、わいわい騒ぎながら行き交っている。
ヘイリーと共に歩いている時とは違い、ガランだけなら注目されることはない。
服装もごく普通で、探索や仕事の為にきた若者たちと大差はないからだ。
戦いの訓練を受けたこともないので、体つきもごく普通。そこらの商店で働く従業員と変わらない。
街の風景に溶け込んで、ガランは視線を彷徨わせながら歩いていった。
スウェン・クルーグの特徴については聞いている。
見つかるかどうかわからなくても、見つけたところでなにができるかわからなくても、気にかけておくべきだろうから。
調査団の一員として、ヘイリーの為に、役に立てればいい。
そんな思いで歩いていると、ふいに道の先で揺れている頭に気が付いて、ガランは心を騒めかせていた。
ほんの少しだけ足を速めて、近づいていく。後ろ頭を追っていく。
気になる輝きに近付いていくと、金色の髪はくねくねと曲線を描いているとわかった。
本人を見たのは随分前だし、ちらりと見かけた程度だ。
真っ正面から顔を見てはいないけれど、あの色の波打った髪は珍しい。
チェニーのもとを訪れ、シュヴァル少年が異常なまでに警戒する、蛇の目をした男。
シンマが行った「駿馬の蹄」にも顔を出している。まだ、関係があるかどうかはわからないが。
緊張しているのか、胸が苦しかった。
不安はあるが、見逃すという選択もなく、ガランは後を追っていく。
西の食堂街を過ぎ、このままでは娼館街の入り口か、荒れ地へ続く門に辿り着いてしまう。
改築の波の中でもいくつか建物が残っているから、その中に宿があるのかもしれないが。
明らかに人通りが減ってきて、これ以上追いかけるべきかどうか、ガランは迷っていた。
今、南に向かって曲がってしまえば、すぐに調査団へ戻り着く。
そんな別れ道に差し掛かった瞬間、ガランの前を行く男は突然振り返った。
「ひょっとして、俺になにか用がある?」
まだ、二人の間には距離がある。
けれど、金色の波打った髪の男は大きく声をあげ、ガランに向けて手を挙げてみせた。
顔がはっきりと見える。端正な顔立ちの色男だ。店がいくつも並んでいるから、周囲は明るい。
だから、ほんの数歩進んだところではっきりと確認できた。瞳の色は「緑」だ。
「ずっと追いかけて来たように思ったけれど、俺の気のせいかな」
男はわざわざガランに歩み寄ってきて、もう路上で向かい合っている。
調査団の下働きは頭をフル回転させて、今自分がなにを言っていいのか、考えていった。
「あの、私は王都の調査団で働いている者なんです」
「調査団で?」
口元に微笑みを湛えて、男は涼しげな眼を細めてみせた。
笑ったようでもあり、値踏みされているようでもあり。
下手な嘘では見破られる。そんな予感に突き動かされながら、ガランは口を開いた。
「人違いをしていたら申し訳ありません、以前調査団にいらしたことがございませんか?」
男は目をぱっちりと開いて、小さく首を傾げている。
「お見掛けしたように思ったのです。なにか困りごとがあっていらしたのではないかと」
ガランは小さく頭を下げながら、こう続けていく。
以前はできていなかったが、今は街の人たちの力になるように相談を受けている、と。
「あなたを見かけたのは随分前だったように思いますから、もうとっくに解決されているかもしれませんが、もしもまだお困りのことがあるならと思いまして」
「それで後を追って来ていたのかい」
「ええ、そうなんです」
様子を窺うようにガランが答えると、男は朗らかな声で笑った。
「わざわざそんなことを言う為に? ははは、どうもありがとう、誠実な調査団の人」
「私の勘違いでしたでしょうか」
「いいや、確かに行ったよ、調査団にね。けれど相談ではなくて、知り合いがいたから寄らせてもらっただけなんだ」
「そうでしたか、調査団に知り合いが」
「女性の調査団員と偶然、この近くの食堂で出会ってね」
ガランは「ああ」と大袈裟に頷き、その名を口にするかどうか考える。
「女性の団員というと、チェニー・ダング調査官ですね」
「そう。しばらく前に会ったきりだけど、彼女は元気にしているかな?」
動揺を表に出してはならない。
詳しいことなどなにも知らない、単なる下働きとして答えなければならない。
「ダング調査官はその、実家へと戻られたんです。体を壊されたとかで」
ガランの返答に、男は悲しげに顔を歪めた。
大げさなくらい首を振って、そうなのかと呟き、ため息までついている。
「そうだったんだね。そうか、……もしかしたら俺のせいかもしれない」
「えっ?」
「食堂で出会って意気投合したんだけど、その後、少し気持ちの行き違いがあってね」
わかるだろうとでも言いたげに、男はまっすぐにガランを見つめた。
ちらりと見かけた時、随分な色男だと思った。横顔ですらそう感じさせた顔は、真正面から見ても美しく、いかにも女性が好みそうな甘さに満ちている。
「彼女には悪いことをしたよ。傷つけてしまったかもと思っていたんだ」
じっと目を見つめられ続けて、背中に汗が流れていく。
緑色の魅惑的な輝きに晒されているうちに、シュヴァルが「蛇」と呼ぶ理由がわかったような気がして、ガランはゆっくりと頷きながら答えた。
「あなたのせいとは限りませんよね。他になにかあったのかもしれませんし。大体、ダング調査官はお年頃でしたから……」
苦笑いを浮かべたガランに、男はふっと微笑み、顔をぐっと近くに寄せてくる。
「確かにそうだ。すまなかったね、変な話をして」
声を潜めた男に、ガランはいやいやと手を振っていく。
「余計なお声かけだったようですね。お時間を取らせてしまって、こちらこそ申し訳ありませんでした」
丁寧に頭を下げたガランをどう思ったのだろう。
ぐっと近くに寄せた顔はそのまま、男は囁く。
「君は随分真面目そうだ。調査団で働いているんだろうけど、どうだろう。俺と一緒に仕事をしてみないか? この街で流行っているものなら王都でも売れると考えていてね。商売をやる仲間を探しているんだ」
男はジマシュ・カレートと名乗り、手を差し出してくる。
レテウスから聞いた話と同じだ。良い仕事があると持ち掛けられ、誘われたと話していた。
「君は調査団員ではないんだろう?」
「ええ、そうです。王都からいらした皆さんの為に、あれこれと雑用を引き受けています」
「迷宮都市には面白い物が集まっているだろう。少しくらいは王都でも売られているらしいけど、良い商品はたくさんあるからね。うまくいけば大儲けできると俺は踏んでる」
どうだいと迫られ、ガランはまんざらでもない顔を作っていく。
けれど唾を飲み込み、なるべく小さく見えるよう、こんな答えを口にしていった。
「それは大変いい話なんでしょうねえ。いや、でも、故郷に年老いた親がおりまして、仕送りをしなければならないんです。この街に来ていろんな仕事をしまして、やっと安定した職場を見つけられたんですよ。たいした仕事ではありませんけれども、なんといっても王都の騎士団が相手ですから」
「なるほど、確かに調査団の仕事なら、くいっぱぐれることはないか」
「そうなんです。収入が途切れると困ってしまいますので」
男は肩をすくめて、そうか、と呟いている。
「それは残念。いつか気が変わってくれるといいんだがな。君のように真面目な人間が一番いい。信用できると一目でわかったよ」
「なんと勿体ない。ありがとうございます。その言葉だけで、もう充分です」
「ははは、欲がないんだな」
ジマシュの顔が離れていく。
ガランはへらへらと笑いながら、またぺこりと頭を下げていく。
「実は今、お使いの帰りでして……。そろそろ戻らないと、団長に怒られてしまいますから」
「こんな遅くまで大変だね。もし気が変わったら声をかけてくれないか。俺はこの辺りにいることが多いんだ。それで、君の名前は?」
「ああ、はい。ガランと申します」
「ガランだね、覚えておくよ」
軽やかな足取りで、ジマシュ・カレートが離れていく。
どちらへ去って行くのか気になるが、見ていると勘付かれない方がいいだろう。
そう判断して、ガランはまっすぐに調査団へ向かって歩いていった。
背中を流れていった汗が冷えたのか、震えが走る。
職場へ戻るとようやくほっとして、まずは団長へ手紙を届けたと報告していった。
食堂で余り物をかき集めながら、心を落ち着けようと呼吸を繰り返していく。
ジマシュ・カレートだった。そう名乗った。
額にも流れて来た汗が目の端を掠め、指で拭っていく。
「ガラン、ここにいたのか」
まだ動悸が収まっていないのに、ヘイリーの声が聞こえてきて、ガランは慌てて振り返った。
「今頃食事か」
「団長に手紙を出すよう頼まれまして」
「こんな遅くに?」
労いの言葉をかけられ、頭を下げる。
ジマシュとの遭遇について報告したいが、チェニーに対する発言について伝えるべきかどうか、悩ましい。
以前やって来た時、婚約者を名乗っていたと聞いている。
対応に当たったノーリスは本当かなと仲間に囁き、悪い冗談ではないかと話し合ったものだった。
ヘイリーは食事に付き合うつもりなのか、飲み物を用意している。
ごく自然にガランの向かいに座って、明日からの予定について話すつもりなのだろう。
今日も朝からいろいろあった。
ポンパの頭をつるつるにして、マージについて聞き、町の見廻りをした。
ガランとしても、新たにわかったことをまとめ、ヘイリーと話し合いたいと思っている。
「あの、ダング調査官」
胸の内の騒めきが抑えきれずに、勝手に口から飛び出そうとしていた。
なんと告げるべきか、考えはまとまっていないのに。
匙を握ったまままの助手の呼びかけに、ヘイリーが視線を向けてくる。
「おほう、ここにいたのだな! 小枝の店には行ったのか」
すると入り口から声がして、頭をきらりと輝かせながら魔術師が乱入してきた。
ヘイリーはあからさまに迷惑そうな顔をし、ポンパは明らかに怯んでいる。
だが歩みは止まらない。魔術師は二人のそばまでやって来て、勝手に近くの椅子を引いて座った。
「そんな顔をしなくても良いのではないかな」
「もう時間も遅い。そろそろうろつくのは止めて、休んではどうだろう」
「むう、むう、まったく調査官殿は。冷たいことを言わないでくれまいか」
「我々になにか用があるのか?」
「だって皆、ポンパを避けるのだ。忙しいと言ってもくれずに、黙って、さっと、誰も彼も!」
相手をしてくれるのはお前たちだけではないか、とポンパは訴えている。
ヘイリーの冷たい視線に悲しい顔をしているものの、去る気はないようだ。
「相手をしておくから、君は食事をするといい」
助手の食事が進んでいないことを気にしたようで、ヘイリーがこう促してくる。
ポンパがいてはジマシュの話はできない。ならば、食事を進めた方がいいだろう。
魔術師はこまごまと文句を言い、ヘイリーは渋面のまま適当な相槌を打っている。
自宅が無事か、様子はどうか、スウェンは来たのか、ポンパはとにかく騒がしかった。
「ポンパ・オーエン、ひとつ尋ねてもいいか」
「なんと、ポンパの質問に答えていないのに、そちらから問うというのか」
ケチをつけられても動じることなく、ヘイリーは魔術師へ質問をぶつけている。
「マージという探索者を見かけた者がいないか探したい。『藍』に入ったところを見た者がいないか探したいのだが、そういった場合は入口に並んでいる探索者に声をかければいいのかな」
「それはそうだ。それしかないであろうな」
「鹿の角を集める、一日で戻る探索だったらしい。稼ぐのが目的で、魔術師も同行しているとしたら、どのくらいの時間に迷宮に向かっただろう?」
ポンパはにやりと笑っている。
そのくらいもわからないのかとでも言いたげな、いやらしい笑顔だった。
「ダング調査官、ヌウという男に聞けばはっきりとわかるのではありませんか」
「ああ、そうか。その通りだな、ガラン」
助手の横槍で問題はあっさりと解決し、ポンパは歯を剥いて怒りだしている。
「なんだお前らは! ポンパをおちょくる為に申し合わせていたのか!」
調査団員が言い返そうと口を開いたのに、魔術師の方が早かった。
「一日で稼ぐのなら早朝に決まっている! 鹿が現れるのは八層以降、しかもそう大量に現れるものではない。鹿は集団で出てこないし、足が速いのだから。しかもだ、角を大量に採るのは時間がかかる。切り落とすのは大仕事だぞ。ついでに肉も獲ると儲かる。鹿は良い、皮だって高く売れる、初心者では狩れない手強い奴だあ!」
「早朝だな。わかった。感謝する」
感情のない声で答えて、ヘイリーが立ち上がる。
うるさい魔術師の腕を掴んで立たせて、ゆっくり食べるよう言い残し、去って行く。
ガランが食事を終えて片づけを始めると、調査団員は疲れた顔をして戻って来た。
飲みかけだったお茶を手に取り、喉を潤し、ため息をついている。
「魔術師は物静かなものだと思っていた」
ぼそりと出て来た一言に、つい笑ってしまう。
「せっかく教えてやった店に行っていないのかと文句を言われた。あの調子では、足を運ぶまで毎日言いに来るだろうな」
やれやれと腰を下ろしたヘイリーの向かいに、ガランも戻る。
遅い夕食の間に散々考えたが、心はまだ決まっていない。
「あの髭の男についてなにかわかるかもしれないから、ラッサムの小枝は行ってみるべきだろうな」
「そうですね」
反射的にこう返したガランに、ヘイリーが目を向けている。
鋭く、炎の宿った瞳を向けて、助手を見つめている。
「明日は午後から出ようか。宿を探すのも、見廻りしながらにしよう」
「どうかしましたか、ダング調査官」
「疲れているようだから」
「いえ、そんなことは」
ありません、と答えた助手に、調査団員は目を伏せている。
「あの魔術師の相手を朝からしていたんだ。明日はゆっくりでいい。疲れていては頭も回らなくなる」
いつもありがとう。
ヘイリーはそう言い残すと去って行き、ガランは複雑な思いを抱えたまま自分の部屋に戻っていった。




