180 魔術師の瞳(下)
「元気そうで安心したよ」
ギアノの口から最初に出てきたのは、こんなセリフだった。
けれど表情はいつもの優しげなものではなくて、二人の間には緊張が走っている。
マティルデはそう思い、柱の陰から出ようと動いた。
だが、ギアノも動いて行く手を遮り、「少しいいか」と少女に声をかけてくる。
「今忙しいの」
マティルデが口を尖らせると、ギアノは珍しく小さなため息を吐きだし、少女を見据えた。
「屋敷の方を覗いていたけど」
「それは、その……」
「あの人となにか関係がある?」
ギアノは屋敷の前で話すベルジャンを指さしており、マティルデは焦る。
「関係なんてないわ」
「同じローブを着ているのに」
違うのか?
とんだ共通点を指摘されて、マティルデはなにも答えられない。
「魔術師に弟子入りしたっていう話はコルフから聞いたよ。夢に一歩近づけたみたいで良かったけど」
「……そうよ。私、これから魔術を学ぶの。立派な魔術師になって、探索に行くんだから」
早口でまくし立てた見習い少女に、管理人の男は「わかったよ」とだけ呟いて答えた。
振り返ってしまったせいで、ベルジャンの様子は見えない。
気になって仕方がないが、ギアノの視線がまっすぐに向けられていて、動けなかった。
「同じ弟子同士で一緒に来たんじゃないのか。用事があるなら、ちゃんと聞くよ」
けれど責めたてるような言葉は出て来なくて、マティルデはようやくギアノの顔を見つめた。
真剣な表情ではあるが、怒っているようには見えない。
心配させたのは間違いない。勝手に抜け出して探されていた身なのだから、仕方がない。
ようやく反省の気持ちが強くなってきて、マティルデは小さく頭を下げた。
「あの、勝手なことをしてごめんなさい。わたし、神殿の暮らしが窮屈になっちゃって、それでちょっと外に出ちゃって」
ギアノは小さく頷き、マティルデはどこまで話すべきか考える。
「……その後ちょっと揉め事に巻き込まれそうになっちゃったんだけど、魔術師の屋敷の人が助けてくれたの。とても親切にしてくれて、弟子入りしたいのなら、人探しをしてくれたらいいよって言ってくれて」
「人探し?」
「そうなの。ギアノの知り合いじゃないかと思って」
「俺の知り合いって?」
「サークリュード・ルシオって名前の、綺麗な男の人」
前に屋敷で見かけたことがあった。
おそらくだが、怒り顔の大男と、ギアノと一緒に帰って来たところを見かけたと思う。
マティルデは勢いよく説明していったが、大きな手のひらが調子よく進んでいたおしゃべりを止めた。
「駄目だ、マティルデ。確かに俺はクリュを知っているよ。だけどマティルデが弟子入りしたのは、ホーカ・ヒーカムって魔術師なんだろう?」
コルフがすべて伝えてしまったのなら、隠しようがない。
誤魔化すのは諦めて、マティルデは何故駄目なのか、ギアノに問いかけていく。
「どうしたんだ、マティルデ・イーデン。その男は誰なんだい」
するとそこにベルジャンが乱入してきて、妹弟子の隣に並んだ。
「俺はギアノ・グリアド。カッカー・パンラの屋敷の管理を任されている。マティルデとは以前から知り合いで」
「そうなのか、君が。僕はベルジャン・エルソー。迷宮都市でも名高い魔術師、ホーカ・ヒーカムの弟子の一人だ」
簡単な挨拶を交わすと、ギアノはマティルデに改めて向き直って、クリュを紹介できない理由を話した。
「クリュは二人の師匠の屋敷に閉じ込められていたんだ。とても酷い状態でね」
「えっ。なあに、それ」
「知らないのか。ベルジャンさんは? 以前から弟子だったのならわかるんじゃありませんか」
ベルジャンはぐっと口を閉ざして、なにも答えない。
マティルデはギアノと兄弟子の間で視線を彷徨わせているが、事情が明かされることはないようだ。
「あんな目にあわせるなんて普通じゃない。絶対にないと思うけど、納得のいく理由を話してもらえない限りクリュには会わせられないよ」
「ちょっと連れていくだけでも駄目?」
「ちょっと連れていくだけで済むのか?」
「……たぶん」
なんとか答えを絞り出したマティルデが隣へ視線を向けると、ベルジャンはさっと目を逸らしてしまった。
ギアノが気付かないはずがなく、話が好転することも、もちろんない。
「悪いけど信用できない」
きっぱりとした言葉にくらくらとしながらも、少女は必死で頭を働かせていく。
迷宮都市に来て以来、いくつも失敗を重ねてきた。
安易に迷宮に足を踏み入れ、命を救われたのに礼も言わずに逃げ出して。
夢ばかり大きく膨らませ、必要な稼ぎを得る為の努力をしてこなかったし。
なんとか救おうとしてくれた人たちの思いを裏切り、神殿からも勝手に飛び出し、得体の知れない店でも騒動を起こした。
もうこれ以上は駄目。
失敗できない。やるしかない。
師匠の望みを叶えて、正式に弟子にしてもらって、魔術師になる。
そうしなければ住処も失ってしまうし、魔術師になるどころではなくなってしまうだろうから。
「誤解だわ、ギアノ」
ギアノはマティルデに視線を向け、誤解とはなにかと問いかけてくる。
「お師匠様のところに住まわせてもらっているけど、おかしなところなんてひとつもないもの」
屋敷に住んでいるのはホーカ・ヒーカムと使用人であるヴィ・ジョン、そしてマティルデだけ。
そう説明した後、長く街に住み続けている高名な魔術師には無責任な噂が多く流されており、そのほとんどが根も葉もない、信じる価値がないものだと話していく。
師匠の噂に話が及ぶとベルジャンも加勢してきて、マティルデはようやくほっとしていた。ところが。
「まあ、マティルデさん!」
背後から呼ばれて、振り返る。
ギアノの説得に必死になって忘れていた、一番会いたくなかった人の姿があった。
いつもは優しい顔をしているのに、今近づいてくるのは神官らしい真摯な表情だ。
雲の神殿から勝手に抜け出してから、何日経っただろう。
エリアの訪問を隠れてやり過ごし、コルフに顔を出すように言われたのに無視してきた。
アデルミラと向かい合いたくない。
裏切ってしまった後ろめたさに加えて、名前のわからないもやもやが心を覆っていく。
逃げ出したい気持ちが膨らんだ結果なのか。
不思議な力が勝手に働いて、マティルデは魔術師の屋敷の中にある仮住まいに戻されていた。
ふかふかのベッドの上にばふんと落ちて、少女はしばらくの間呆然としていた。
自分になにが起きたのか把握するまでに随分かかって、気が付いた時には日が暮れている。
呆けた心のまま廊下に出ると、食事の良い香りがマティルデを誘った。
ふらふらと歩き、食堂の扉を開ける。
そこには一人分の夕食がいつもの席に並べられており、少女はゆっくりと腰かけて、ふうとため息をついた。
考えることが多すぎて、頭がちっとも働かない。
ギアノの心を変えられれば、人探しははかどりそうだけれど。
けれど、アデルミラが声をかけてきた瞬間、逃げ出してしまった。
「マティルデ・イーデン! 戻っていたのか」
突然扉が開いて、ベルジャンが現れる。
それでやっと先輩を残して戻ったことに気が付き、マティルデは立ち上がった。
「急に消えたがなにが起きたんだ」
「あの、その……、前に部屋に戻れる鍵をもらっていて」
ヴィ・ジョンからもらった便利な道具について説明するには長くかかったし、ベルジャンは鼻息を荒くして妹弟子の特別扱いをうらやましがった。
「僕も二人を探すと誓えば部屋を与えてもらえるのかな」
兄弟子はヴィ・ジョンを探しに出て行って、マティルデは広い食堂に取り残されている。
仕方なく食事を進め、なんだかんだすべて平らげると、ヴィ・ジョンが食器を片付けるために姿を現した。
「ちょっといいかしら」
「なんでしょう、マティルデ・イーデン」
「私、まだお師匠様に会っていないの。それって、弟子としてどうなのかって思って」
ヴィ・ジョンは口元だけを小さく微笑ませている。
「あなたは弟子になりましたが、まだ仮の身分です」
「仮?」
二人のうちのどちらかを連れてくるか、授業料を支払うか。
どちらかが完了しなければ、師匠の前に通す訳にはいきません。
そう言われては、もう黙るしかない。
すごすごと部屋に戻ってローブを脱いでいると、扉を叩く音が聞こえた。
ヴィ・ジョンが気を変えたのかと思いきや、やってきたのはベルジャンだった。
「マティルデ・イーデン。すべてが中途半端だった」
「中途半端って?」
「そもそも僕たちは今日、人探しをしていたじゃないか。君が消えた後、散々だったよ」
しょんぼりと萎れる妹弟子に、ベルジャンはいやいやと手を振っている。
「いいんだ。食堂で会った時に先に話すべきだった」
「あの後、どうなったの?」
「君が消えてしまったことについてなにかわかるかと聞かれたよ。そんな便利な物を持っていたなんて知らなかったから、わからないとしか言えなかった」
「それは、そうよね」
「サークリュード・ルシオについても絶対に教えられないそうだ。あの管理人とやらに頼むのは諦めた方がいいだろうな。別にあそこに住んでいるわけではないんだろう?」
「多分だけど、貸家で暮らしているわ」
マティルデが答えると、ベルジャンはふむと呟き、ギアノから警告されているかもしれないと続けた。
「サークリュード・ルシオは一旦諦めて、先にもう一人を当たってみよう。無彩の魔術師の家に出入りしていると言っていたな」
「ええ」
ロウランに会うのは、怖い。
あれこれ言われたが、あまり理解ができていない。
けれど嫌だと言えるはずがなく、明日はベルジャンと共に向かうしかない。
「ヴィ・ジョンと交渉して、僕もここに住まわせてもらえることになったよ」
「そうなの」
「ああ。部屋に札がかかっているから、見ればわかる」
ベルジャンは「では明日」とあっさりと去って行き、廊下のだいぶ先の部屋に入っていった。
不安は消えないが、どうしようもない。明日行って、ラフィ・ルーザ・サロを見つけるしかない。
ベッドに倒れ込むと優しい香りが広がって、包まれて、心が少しずつ解れていく。
うまくいかない日々に焦っているけれど、この香りに包まれるとなぜか安心して、眠ることができていた。
翌日の朝も気持ちよく目覚めて、まずは身支度を整える。
食堂には二人分の食事が用意されており、この日はベルジャンと共に朝食の時間を持った。
ニーロの家の場所について問われたくらいで、会話は弾まない。
食事が済んだら出かける用意をして、ホーカ・ヒーカムの弟子は二人で揃って屋敷を出た。
「マティルデ・イーデン。君はラフィ・ルーザ・サロなる人物には会ったのか」
「ええと……。わからないわ。会ったと思うんだけど」
ロウランと名乗った女について、ぽつりぽつりと語っていく。
異国から来た黒い肌の持ち主など、迷宮都市には一人しかいない。
けれど瞳の色は違うし、神官ではないと本人も言う。
「どういうことなんだ」
そう言われても、マティルデにはわからない。
ホーカ・ヒーカムの屋敷から出るよう言われたことも打ち明けられないまま、進んで行く。
「ここよ」
貸家街と売家街の間に、黒い石でできた小さな家が建っている。
ベルジャンはここが無彩の魔術師の家かと呟いて、興奮した面持ちで眺めている。
「魔術師ニーロにも頼んでみよう。彼が来てくれれば謝礼が出る」
「そうね」
「今日はどちらかは連れていかないと。授業が受けられないのは困るんだ」
「なあに、授業が受けられないって」
マティルデが首を傾げると、ベルジャンは昨日起きた出来事について話した。
「ヴィ・ジョンと交渉して部屋を与えてもらったはいいが、そのかわり、人探しを済ませてからでないと授業を受けられないと言われてしまってね」
「そうなの?」
「君も人探しを完了させなければ、術師ホーカに会えないのだろう」
条件があるなら先に言ってほしいものだよ。
ベルジャンはそう呟くと、扉の前に進んで早速強く叩いている。
心の準備がまだできていない。
マティルデは緊張を強くしながら、誰も出てこなければ良いと考えていた。
ニーロが留守にしていて、また明日出直すしかなくなれば、少しくらいは気持ちも落ち着くだろうから。
そんな乙女の思いは叶わず、扉が開く。
出てきたのはまたもロウランで、朝も早いのに何故とマティルデは驚いていた。
「無彩の魔術師になにか用か?」
ロウランに問われて、ベルジャンは体をぶるっと震わせている。
「おや、小娘。師匠には会えたか」
黒い肌の美女は後ろに立つマティルデに気付いたようだ。
魔術師見習いの少女は頷くこともできず、兄弟子の背中に一歩近づいている。
「あの……。僕はベルジャン・エルソーと申します。魔術師で、異国から来たという神官を探しています」
「その娘に教えられてここを訪ねたのなら、探している神官ではないと聞いたのではないか?」
「あ、はい。まあ。そんな話は聞いたような気がしていますけれども」
兄弟子は体をくねくねと揺らし、もごもごと呟いている。
マティルデが様子を窺うと、いつもは青白い顔が真っ赤に染まっていた。
「しっかりしてよ、ベルジャンったら」
黒い肌の美女は余裕の笑みを浮かべており、今日も途轍もなく美しい。
ベルジャンがふにゃふにゃになってしまった理由がわかり、マティルデはため息をついていた。
すると扉がまた開いて、中からもう一人の人物が姿を現し、驚きの声をあげた。
「マティルデ」
ニーロの家のはずなのに、中から出てきたのはウィルフレドだった。
背の高い戦士は戸惑った様子で少女を見つめている。
魔術師のローブを身に着けているし、男と共にいるのが驚きだったのだろう。
けれどすぐに穏やかな顔を作ると、なにか用があるのか、マティルデに尋ねた。
「ここはニーロって人の家ではないの?」
「確かにニーロ殿の家で間違いないが」
説明をしようとした戦士に、ロウランがしなだれかかっていく。
ウィルフレドの腰に手をまわし、ぴったりと身を寄せ、空いたもう一方の手で逞しい腕を撫でまわしている。
余りにも堂々と親密な様子を見せつけてきた二人に、マティルデは怒りを覚えて声を上げた。
「やっぱりあなたがラフィ・ルーザ・サロなのね」
ロウランはにやりと笑い、ウィルフレドは女の腕を振りほどいている。
「違うぞ」
挑発的な返事は無視して、マティルデはウィルフレドを強く睨んだ。
「何故ラフィの名を?」
「探しているの。お師匠様に連れて来て欲しいって頼まれたから」
その神官はウィルフレドの恋人だと聞いている。
まくしたてるマティルデに、戦士は困った顔をして首を振った。
「違うんだ、マティルデ。神官ラフィは……」
ウィルフレドは困った顔でロウランを見つめている。
マティルデが頬を膨らませていると、しばらくしてからようやく答えが聞こえた。
「もういない。探しても会えないと思う」
「どういうことなの。この人がラフィ・ルーザ・サロなんでしょう?」
「違うと言っておるだろう。何度言わせる気だ、マティルデ・イーデンとやら」
ロウランと名乗った女はまたウィルフレドにべたべたと絡みながら、不敵な笑みを浮かべている。
「どうして嘘を言うの」
「俺の言葉を嘘にしているのはお前だろう。なぜ疑う? そんなに神官らしく見えるのか」
「そんなの、見ただけでわかるはずないでしょ」
言い返してから振りかえってみたが、ベルジャンはまだもじもじとしていて役に立ちそうにない。
仕方なく、マティルデは改めてロウランを睨んだ。
そんな少女の様子に、黒い肌の女は笑いを漏らしている。
「なにがおかしいのよ」
「行ってやっても構わんぞ。別人でもいいと言うのならな」
今度は思いがけない台詞が出てきて、マティルデは戸惑う。
「どちらにしても終わりの始まりだ。ひとつの、大きな区切りがつくだろう」
「なんの話だ、ロウラン」
ウィルフレドに問われ、ロウランは首を傾げてみせた。
「俺だってたまには他人に親切にすることくらいある。相手がどんなぼんくらだろうがな」
戦士はこの発言を諌めたが、女は気にするそぶりすら見せずに笑っている。
「ウィルフレドよ、この娘は間違えているのだ。今すぐローブを脱ぎ捨て街を出なければならんというのに、まだこんなところでもたもたと文句を言っている。昨日も教えてやったのだがな」
「マティルデになにが起きている?」
「ふふ。言ったところでこの娘は信じまいよ。俺の話など聞く価値がないと思い込んでいるからな」
青紫色の瞳の輝きに、また圧倒されている。
マティルデは足を震わせながらベルジャンを見たが、ぼんやりとした兄弟子は何も言わず、動く気配がない。
「ニーロならば中にいる。呼んでやろうか? 来たところでなんの意味もないだろうがな」
その声は幾重にも聞こえてきた気がして、マティルデは慌てて耳を抑えた。
「お前の役目を果たすがいい、マティルデ・イーデン。甘い言葉で無知な小娘を騙そうとする小賢しい魔術師に、“お前の野望は既に潰えた”と伝えろ」
それなのにぐわんぐわんと頭の中に響き渡り、少女の心を恐れで満たしていく。
恐怖のあまり混乱に陥ったマティルデはその場から逃げ出し、迷宮都市の道を走り彷徨っていた。
慣れない道を駆けて、逃げて、抜けていき、息切れしたまま倒れ込んでいた。
汗だくになって見上げた景色には見覚えがある。
マージの住んでいた貸家の入り口だった。
こみ上げて来た涙に突き動かされて、マティルデは扉へと進んで行く。
手をかけると、鍵がかかっていなかったのか扉はあっさりと開いた。
「マージ」
本当にいなくなってしまったのか。わからなくて、マティルデは大切な仲間の名前を呼んだ。
返事はないけれど、灯りがついていて、奥に誰かが座っているのがわかる。
「マージ?」
いつも三人で囲んでいたテーブルの向こうに、男が座っていた。
あちこちに包帯を巻いている、見覚えのない男だ。
突然入って来たマティルデをまっすぐに見つめているが、何も言わないし動かない。
「だれなの」
部屋の様子は以前と少し変わっているようだった。
あれこれ置かれていた物がなくなって、広くなったように見える。
テーブルと大きな椅子だけはそのままで、マティルデの定位置だったところに男は座っていた。
「もしかして、ヌー?」
そう問いかけた瞬間、背後から音がしてマティルデは振り返った。
どこへ行っていたのかユレーが戻ってきたらしく、いるはずのない少女に驚いたようだ。
「ユレー、あれがヌーなの?」
「……そうだよ。あいつは体が治りきってなくて、まだ自由に動けないんだ」
「マージはいなくなったんでしょう」
「ああ。だからあたしが代わりにいろいろとね」
ユレーとマティルデがここへ戻れなくなったのは、マージが古い友人を迎え入れたからだ。
あの時、雲の神殿で世話になっていたけれど。
けれど、戻る場所を失ったのはあの男のせいで、マティルデの心は苛々と揺れ始めていた。
「忘れ物があったのかい、マティルデ」
「そんなのないわ。私はなんにも持っていなかったもの」
ユレーは頷き、そうだったねと呟いている。
「ヌーと暮らしているの?」
こんな問いかけに、ユレーはしばらくなにも答えなかった。
なにを言うか迷ったようだが、結局返事はこれだけしか出てこない。
「まあね」
「私は追い出されたのに」
「なんてことを言うんだよ、マティルデ」
「だってそうじゃない。ヌーは守ってあげているのに。ひどいわ、ユレー」
胸のうちに湧き上がって来た不安と苛立ちが、勝手に唇からこぼれていってしまう。
とんだ言いがかりだとわかっていても止められず、そんなマティルデにユレーはため息まじりに答えた。
「仕方ないだろ。本当に酷い怪我をしていたんだ。誰かが助けてやらなきゃならないんだよ」
「でも、マージがいなくなっちゃったのはヌーのせいじゃない!」
「やめな、マティルデ」
ユレーは怒ったようで、少女の首根っこを掴んで家の外へ出た。
扉を閉め、声を潜めて、馬鹿なことを言うんじゃないと凄んでいる。
「あいつはマージの大切な友達なんだ。あの子は本当に悩んで悩んで、ヌウを助けると決めたんだよ。あいつの命を救うために、他のものを全部諦めるって決めたんだ」
「そう。ヌーがよっぽど大事だったのよね、マージは」
「あんたのことだって本当に心配していたさ! だけどあの時は神殿の世話になっていただろう。男が怖いのを治せるかもしれないって、安心してたんだよ」
マティルデは涙をこらえながら、ぼそりと呟く。
あそこには仕方なく行っただけだと。
「マティルデ、あんたねえ」
「どうしてみんな意地悪ばっかりするの?」
「意地悪なんて誰がしたんだ」
「マージもユレーも私になにも言わずに置いていったじゃない。ギアノだって、あの屋敷にいるのは良くないって、神殿に頼れって追い出すし! 魔術師になる為に頑張っているのに、邪魔されてばっかりだもの!」
とうとう大粒の涙をこぼし始めたマティルデを、ユレーは複雑な顔で見つめている。
申し訳なさと、困惑と、その他にもいくつかの感情が揺れ動いていたが、最後は真剣な顔で口を開いた。
「ねえマティルデ。あたしはあんたに魔術師になってほしくないよ。マージとも話していたんだ。あんたみたいな可愛い子に、危ない目に遭ってほしくないってね」
「なによ、それ」
「迷宮のことなんてお話として聞くくらいがちょうどいいんだ。マティルデ、マージもあたしも、あんたに幸せに暮らしてほしいと思ってる。ギアノに嫁にしてもらって、探索なんか忘れちまいな」
マティルデは愕然として、ユレーにひとつだけ問いを投げた。
ずっとそう思っていたの?
ユレーは頷き、マティルデの心は激しく燃え上がっていく。
「なによ、嫁って! ギアノは私のことなんてどうでもいいのに!」
怒りに任せて叫んだ途端、悲しみも同じくらいあふれ出して、とめどなく涙が零れ落ちていった。
「私は魔術師になるから、誰かのお嫁さんになんかならない。みんな私が嫌いなんだわ。邪魔ばっかりして、私には無理だって決めつけて!」
体が感情についていけなくなったのか、マティルデは地面に座り込んでわんわん泣いた。
とうとうユレーが抱きしめてきたが、それを力一杯払って、ようやく立ち上がる。
あれこれと声をかけられたが、すべて無視して歩き続けた。
いつの間にかユレーの姿はなく、ぼやけた視界に紫色に輝く建物が浮かび上がった頃、マティルデの涙はようやく枯れたようだった。
びしょぬれになった顔を拭きながら進んで行くと、ホーカ・ヒーカム邸の門の前で誰かが現れ、行く手を塞ぐ。
「マティルデ、ようやく会えたね」
待ち受けていたのは雲の神官長、ゲルカ・クラステンだった。
ゲルカは探していた少女が泣いていることに気付いて、ケープの中からハンカチを取り出し、マティルデの手に握らせる。
「無事でいるとは聞いていたが、ちゃんと姿を見ておきたくてね」
神官長の声は優しく、怒りなどかけらも含んでいない。
きっとエリアも、アデルミラも同じだっただろう。
怒られると思っているのはマティルデだけで、神官たちは行方のわからない少女の身を案じていただけなのだから。
「ウベーザ劇場という店の者がやって来て、君に衣装代を払うよう言ってきたんだが、心当たりはあるかな」
どきりと胸が痛んで、ようやく止まった涙がまたぽろぽろと落ちていく。
嫌でたまらない体験について、話したくないけれど、誰かに知ってほしい気持ちもある。
ユレーに話せずに終わった悪夢は雲の神官長にこそ伝えておくべき話で、マティルデは何度も何度もつかえながら、あの夜起きた理不尽な一部始終を伝えていった。
「そんなことがあったとは。辛かったね、マティルデ」
温かいゲルカの手に力をもらって、なんとか話し終えることができた。
マティルデは幼い子供のようにしゃくりあげながら、最後に要望を伝えていく。
「あんな滅茶苦茶なところ、潰れたらいいんだわ。酷い目にあっている子は他にもいるの。みんな助けてあげて」
雲の神官長は力強く頷き、調査をすると約束してくれた。
試練を乗り越えた魂に、祝福が与えられますように。
祈りの言葉を唱え、ゲルカはまっすぐにマティルデを見つめている。
「この屋敷で暮らしていると聞いたが、マティルデ、雲の神殿に戻ってきてはどうだろう」
「神殿へ?」
「良き師になってくれるであろう魔術師の紹介もできる。助けてくれたというが、マティルデ、なんらかの条件をつけられたのではないのかな」
また、否定だ。
魔術師ホーカ・ヒーカムの弟子になった少女に、やめるべきだと囁く声がまたひとつ。
「交渉が必要ならば私が力になる。決して悪いようにはしない。神殿に戻るのが嫌なら、他の場所も用意はできるから。樹木の神殿のリシュラ神官長に頼めば、良い住まいを提供してもらえるだろう。なんにせよ、ここに住んではいけない。ホーカ・ヒーカムには……」
「お師匠様は妬まれているのよ。成功した魔術師だから。お金をたくさん持っているから」
しかも、女の身で。
魔術師として名を挙げ、富を築き、こんなにも大きくて立派な屋敷を建てた。
生意気だと感じたうだつのあがらない男たちが、酔った勢いでいい加減な噂を流しているに違いない。
マティルデはそう考え、目の前に立つゲルカからゆっくりと離れていった。
「マティルデ、もう少し話そう」
「いいえ、私、お師匠様の為にしなきゃいけないことがあるの」
「行ってはいけない。戻って来なさい」
「駄目よ、だって誓ったんだもの。それにほら、万が一ゲルカ様が正しかったとしても、このまま黙って行くなんて良くないから」
雲の神官長はもう一度少女を止めたが、屋敷の中から声が自分を呼ぶ声が聞こえて、マティルデは門へ向かった。
「マティルデ・イーデン。早く中へ。術師ホーカが君を待っている」
「今行くわ、ベルジャン」
マティルデが屋敷の中へ飛び込むと、扉は勝手に閉まった。
入ってすぐのホールは光に満ちて眩く、小さな紫色の輝きがそこらじゅうを舞っている。
夢のように美しい景色は花のような芳しい香りで溢れ、少女はうっとりしながら奥にいる人影を見つめていた。
「わが弟子、最も若く未来ある者、マティルデ・イーデン」
うっすらと姿が見えてくる。
ぼんやり、ふんわりとしていて、わからない。けれど、優しくて、美しい。
「ヴィ・ジョンが厳しくしてごめんなさい。この立派な屋敷には、良からぬ輩が入ろうとすることがあるのです。あなたが本当に弟子として相応しいか見極める為に、あえてああしていたのです」
決して悪意があってのことではない。
師の声は心に染み入るように入ってきて、マティルデは静かに頷いていた。
「私の望みを叶えようと、頑張ってくれているのですね」
とても嬉しく思います。
微笑み、そして、寂しげに俯いて。
「何故だか誤解されることが多いのです。何故なのでしょうね」
「それは、お師匠様がすごいからだわ」
「私を信じるのですね」
「ええ」
光り輝く魔術師が近づいてきて、マティルデはじっと師匠の姿を見つめた。
幻のように揺らぐその姿の中で、瞳だけが爛々と輝いている。
「富はあっても、私は孤独……」
真っ白の中に浮かぶ瞳のど真ん中から、目が離せなくなっていた。
心に溢れた畏怖が掻き消え、同情で埋め尽くされて、マティルデは思わず「師匠」の手を取っていた。
「私がいるわ。力になる。誓ったもの」
「そうね。あなたは誓った。だから、この屋敷に連れてこなければならない。必ず、サークリュード・ルシオと、ラフィ・ルーザ・サロの二人を、私の前に」
その名を聞いた瞬間、青紫色の瞳がマティルデの脳裏に浮かんだ。
閃光のように鋭く記憶の中に入り込んで来たが、少女はそれを必死で振り払い、真に心を通い合わせた師の手を強く握る。
「はい、必ず」
再び誓いを立てた弟子に満足したのか、白い影は紫色に輝く宝石のついたネックレスをマティルデの首にかけた。
「わあ……」
赤と青が均等に混じりあった美しい煌めきに見とれている間に、ホーカ・ヒーカムは姿を消していた。
けれどマティルデはそれに気づかず、いつまでもいつまでも、与えられた宝石をうっとりと見つめ続けた。




