173 紡がれる糸
少し小さな服を着こんで支度を終えて、レテウスは急ぎ足で廊下を進んだ。
管理人室の隣の小さな部屋には二人の神官がいて、シュヴァルに新しい服を着せている。
「あ。レテウスさん、ごめん、もっと大きな服があれば良かった」
ギアノも着替えを済ませて戻って来て、一緒になってシュヴァルの様子を窺う。
少年は目を閉じたまま、ぐったりとして動かない。
「大丈夫なのか。このまま目覚めないということも……」
「シュヴァルなら大丈夫」
なんの根拠もない台詞だが、レテウスはすがるような気持ちで頷いていた。
「回復には少しかかるだろうし、しばらくの間ここで面倒をみますよ」
「なに」
「あの家に戻って一人で診るのは大変でしょう。買い物に行く時なんか、連れていくのも無理だし、置いていくのも心配だろうし」
クリュが探索に行かずに付き合ってくれるなら、やれるかもしれないけど。
ギアノの言葉は尤もなもので、レテウスは唇を噛んでいる。
「この屋敷はいつだってなにかしら食べるものを作っているし、薬も多少は用意してあります。ここは住人のための場所だから使えないけれど、俺の寝床の隣にベッドを用意するので」
「私もここへ来て、シュヴァルの様子を見てもいいかな」
「もちろん。むしろちゃんと見にきてもらわないと」
「本当にいいのか、ギアノ」
「シュヴァルは俺の親分でもありますからね」
冗談めいた台詞に小さく笑って、それでようやく、まともに呼吸ができるようになれたとレテウスは感じていた。
ロカは汚れ物をたらいに入れて抱えて出て行き、シュクルに声をかけられて、ギアノは着替えの手伝いをし始めている。
全身を汚していた血は拭き取られたようだが、シュヴァルの細い手足は青白く、力なく横たわる姿は痛々しい。
窓の外はまだ明るく、日差しに照らされた中庭がちらりと見えた。
屋敷の住人が帰ってくる時間にはなっていないようで、酷い姿を大勢に見られなくて良かったとレテウスは思った。
「神官長様は今、神殿におられるか」
隣の神殿に大きな迷惑をかけたことをはっと思い出し、三男坊はシュクルに問いかける。
「ああ、どうでしょう。朝会合に出かけられたので、いつ戻られても不思議ではないと思いますが」
「ギアノ、シュヴァルを頼む」
三男坊が慌てて部屋を出ると、廊下の先に二人の少女の姿が見えた。
一人はアデルミラで、もう一人はララという名の樹木の神官だろう。
雲の神官はシュヴァルの命の恩人だが、大変な責を負わせてしまったようでもある。
詫びねばならない。レテウスは二人の後を追い、樹木の神殿へ続く通路へ向かう。
神官の後を追って扉を抜けると、すぐにキーレイの姿が目に入った。
「レテウス様」
「ああ、リシュラ神官長。どうか私の話を聞いていただきたい」
樹木の神官長は正式な長の神官衣を身に着けており、改まった用事から帰ってきたところのようだ。
すぐ傍にはアデルミラとララがいて、揃って悲しげな顔をして乱入者を見つめている。
「シュヴァルが怪我をしたとか」
「そうなのです。本当に突然のことで、一体なにが起きたのか……。とにかく妙な男にいきなり因縁をつけられた挙句、刺されたのです。それで私はあの子を抱えて、神の力にすがろうとここへ来ました」
キーレイは真剣な顔でレテウスの話に耳を傾けながら、指を動かして祈りの言葉を口にしている。
「私は迷宮都市での神官の決まりを知らずに、どうにか助けてほしいと入り口で騒ぎました。シュヴァルの傷は深く、酷い出血で。雲の神官アデルミラはやかましく騒ぐこの愚か者を哀れに思って手を差し伸べてくれただけなのです。罰が必要だというのなら、彼女ではなく私に与えて頂きたい」
どうか頼むと頭を下げるレテウスへ、キーレイはまずは落ち着くよう話した。
神官長はララに飲み物を用意するよう頼み、アデルミラとレテウスを奥の部屋へと呼ぶ。
「シュヴァルが街中で襲われて傷を負い、それをアデルミラが癒した。間違いないかな」
「はい」
雲の神官は頷き、静かに頭を下げている。
「樹木の神殿で勝手な真似をして、申し訳ありませんでした。どのような処分をされても仕方がありません。覚悟はできています」
力強い瞳でキーレイを見つめるアデルミラの横顔にこの上ない美しさを見て、レテウスは思わず涙をこぼしていた。
「私が頼んだのです、リシュラ神官長。シュヴァルが死んでしまうと騒いで、断れなくしたのは私です」
「落ち着いてください、レテウス様。アデルミラも、心配はいらない。よくシュヴァルを救ってくれたね」
今日はすべての神殿の長が集まる会が開かれていたとキーレイは話した。
神官たちに伝えなければならないことがあり、二人にそれを、先に説明すると言う。
「既に一部で噂になっていますから、耳にしているかもしれませんが。少し前に街の北にある宿屋街で大変な事件が起きました」
二軒の廃屋に火が放たれ、一晩で十人以上の死者が出た夜があった。
恐ろしい話に雲の神官は手を組んで祈りの言葉を囁き、レテウスは言葉を失っている。
「この数年で迷宮都市には人が増えました。以前からずっと、人の出入りが激しいところではありましたが、ここ数年は特に数が増えているようなのです。統計をとっているわけではありませんから正確な数字は不明ですが、我々はそう感じています。街の治安の悪化について、懸念を抱いていました」
「そうなのですね」
「この街では争いはしてはならぬものとされています。商人たちは用心棒を置いて店を守っていますし、喧嘩が起きれば皆止めるように言います。探索をする者、商売に関わる者たちはこの決まりを守らなければならない。盗みや暴力を働くと知られてしまえば、誰にも協力してもらえなくなりますから」
こんな暗黙の了解があって街は守られてきた。
けれど逆に言えば、守られるのはこの決まりの内にいる者だけに限られてしまう。
「小賢しい悪事を働く輩など、昔からいたのではありませんか?」
「ええ、そうですね。間違いなくいたでしょう」
悪人が一人もいないところなどない。キーレイは頷き、問題はそれが「増えてきた」ことだと続けた。
「小競り合いや単純な盗みとは違う、不穏な事件がここのところ続けて起きています」
少し前にクリュが襲われたこともその一つだと、神官長は言う。
「クリュの話では、探索の仲間にしつこく誘われ、断ったら襲われたという話でしたが」
「なにか、それ以上のことがあったのですか?」
「襲い掛かって来た男は、フォールードがやりすぎて酷い怪我を負わせてしまった。男は医者に運ばれ、回復次第事情を聞く予定でした」
けれど、その日の夜に姿を消してしまった。
キーレイの口調は重たく、単に逃げただけではないのだとレテウスに気付かせている。
「得体の知れない男たちに追われたという話は、他にもあります。このまま放っておいては良くないと考え、迷宮調査団にも協力を仰いで、街の見廻りを頼んでいます」
そして、今日。神官長たちは会合を開いて、大きな決定をしたらしい。
「街中で理由もなく襲われて傷を負った者がいたとして、これを救わないのはおかしいのではないかと我々は考えました」
「シュヴァルのように、ですか」
「そうです」
「では」
レテウスが隣に座るアデルミラに目をやると、キーレイは穏やかにこう続けた。
「処分はありません」
「本当ですか」
雲の神官に問われ、樹木の神官長は力強く頷いて答えた。
「これからそれぞれの神殿で正式に話がある。近いうちに、アダルツォと共に行くといい」
「ああ、ありがとうございます、キーレイさん」
「今日のことについては、ゲルカ様には私から伝えておこう。問題にならないように責任を持って」
話の途中だというのに立ち上がり、レテウスはキーレイの手を掴んで、感謝の言葉を繰り返していった。
「よかった! 雲の神官殿になにかあってはあまりにも申し訳なかったから、ああ……、本当に良かった」
「そんなにもアデルミラを心配して下さって、感謝します、レテウス様」
今度は椅子にどすんと座って、レテウスは唸る。
「雲の神官アデルミラ! 本当に……、本当に感謝する」
唸るばかりの大男を、アデルミラは穏やかな瞳で見つめていた。
慈愛に満ち溢れたその輝きに、見た目の幼さに惑わされていたことが思い出されて恥ずかしい。
「レテウス様、シュヴァルの様子を見に行きましょう。アデルミラ、君も一緒に」
三人で隣の屋敷へ移動して、回復部屋を覗く。
シュヴァルの着替えは終わったようだが、まだぐったりと横たわっており、目覚める気配はない。
神官たちは祈りを捧げ、自分たちの仕事へ戻っていって、部屋にはレテウスとギアノ、アデルミラが残っている。
「俺の部屋に寝床を用意したら、シュヴァルを移動させるよ。アデルミラ……、その」
「大丈夫です、ギアノさん。神殿の決まりに変更があって、処分などは受けなくて済んだんです」
「……え?」
「話すと長くなってしまいそうなので、また夜に説明させてください。今はシュヴァルさんの為に準備をしましょう」
「お咎めはなし?」
「はい」
ギアノは珍しく顔をくしゃくしゃに歪めて、おかしな顔をレテウスに見せている。
けれど次の瞬間もう振り返って部屋を出て行き、必要な作業を始めたようだ。
「レテウスさん、シュヴァルさんについていてもらっていいですか」
「ああ、もちろんだ」
「飲みものを持ってきますね」
雲の神官の瞳にも、うっすらと涙がにじんでいるように見えた。
レテウスも心底ほっとして、ベッドの隣の椅子に腰かけ、シュヴァルの髪をそっと撫でていく。
アデルミラがレテウスの為のお茶を持って来て、シュヴァルに飲ませる為の水も用意されていく。
ギアノが戻って来て、ベッドの用意が済んだと告げられ、少年を抱いて連れていく。
急拵えのベッドは小さいが、十一歳のシュヴァルならばゆったりと休めるようだ。
レテウスは隣に座りこみ、少年の目が開かないか、静かに黙って待っている。
「レテウスさん」
ギアノが小さな椅子を持って来て、レテウスのすぐそばに座る。
「なんだろうか」
「シュヴァルを刺したっていう男の顔を見ましたか」
「ああ、見た」
「キーレイさんが言ってたんですけど、今日のことは調査団に伝えるから、捜査に協力して欲しいそうですよ」
「もちろん、構わない」
了承してから、改めて事件について思い出す。
あの男には、昨日も声を掛けられている。
いくつか歯が抜けていて、そう大きくもなく、若くもない品のない男だった。
「どこで襲われたんです?」
「ここを出て家に戻る途中だ。血の跡が残っているだろうから、目にした者は驚くだろうな」
なるほど、とギアノは頷いている。
そしてはたと気付いて、レテウスは首を傾げた。
「ひょっとしたら、あの男のナイフが落ちたまま残っているかもしれない」
「ナイフ?」
「シュヴァルを刺した後、私にも襲い掛かって来たんだ。咄嗟に叩き落した。それで、男は逃げていったんだ」
「そうでしたか。……わかりました。一応、見てきますね」
レテウスを残して、管理人が去って行く。
しばらくの間、屋敷はひどく静かだった。
時々遠くから小さな足音が聞こえたが、それ以外は何の音もしない。
シュヴァルが息をしているか不安になって、レテウスは何度か少年の胸に触れ、命の音を確認している。
部屋はゆっくりと暗くなり、壁に備え付けられた灯りの放つ光が少しずつ強くなっていった。
「ねえ、ねえ、ギアノ。どこ? いないの?」
ふいに足音と声が聞こえてきて、レテウスは立ち上がった。
聞き覚えのある声の主はやはりクリュで、部屋から出てきたレテウスに気付いて駆けてくる。
「レテウス、ここにいたの。家に誰もいないし全然帰ってこないから、どうしたのかと思って」
「サークリュード、少し声を抑えてくれ」
「なんで?」
「シュヴァルが休んでいるのだ。昨日の妙な男、覚えているか」
「妙な男って、シュヴァルに話しかけてた?」
「そうだ。あの男がまた現れて、いきなり刺されたんだ」
クリュは目と口をまんまるに開いて、呆然と三男坊を見つめている。
「……今、刺されたって言った?」
「ああ」
「嘘でしょ。どこにいるの?」
「この奥に」
クリュはよろよろと進んで、部屋に勝手に入っていく。
レテウスも一緒になって戻り、横たわる少年の前に並んだ。
「シュヴァル」
「大丈夫だ。神官に助けてもらったから」
「え? どうやって?」
驚く美青年に、レテウスは経緯を説明していく。
詳しい話を簡潔に伝えるのは難しく、神殿の決まりに変更があったようだ、とまとめた。
「そっか。良かった」
クリュは小さな親分の手を取り、そっと撫でている。
「顔色がすごく悪いね」
「傷が深かったからな」
「その男、どうしたの。シュヴァルを刺した後、どうなったの?」
「逃げていった。私にも襲い掛かってきたが」
「レテウスは怪我してない?」
「私は大丈夫だ。ナイフを叩き落したら、慌てて逃げていった」
「強いんだね、レテウスって」
すごいなあ、とクリュは呟いている。
首の辺りに触れているのは、自分が襲われた時のことを思い出しているのだろう。
しばらくの間、二人で並んで少年の様子を見守っていた。
クリュは美しい顔に憂いの陰を落として、シュヴァルの手や足を優しく撫でてやっている。
「……シュヴァルはどうなるの。家に戻れる?」
「元通り元気になれば、いつでも戻れるはずだ」
「ギアノが面倒見てくれるの?」
「私だけでは難しいだろうからと、世話を引き受けてくれた」
「そうだね。レテウスだけじゃ、できないよね」
「サークリュードが協力してくれれば、なんとかできると思うぞ」
クリュは小さく「そっか」と呟き、必要ならそうする、とレテウスへ告げた。
「いいのか、サークリュード」
「いいよ。シュヴァルの為なら」
いつでも気ままに振舞う美青年からの思いがけない言葉に、三男坊は眉をひそめている。
「なんだよその顔は」
「いや、少し意外に思えて」
正直なレテウスの呟きに、クリュは目を伏せ、睫毛をぱたぱたと揺らした。
「だって、たったの十一歳なんだよ」
言動はちっとも子供らしくないけれど。
「……可哀想だよね、シュヴァルって。家族も残ってなさそうだし、なんだか大変な目に遭ったみたいだし、そのせいで子分もいなくなっちゃったみたいだし。訳のわからない魔術師の屋敷に閉じ込められた上、今は全然知らない大人と一緒に暮らしてる」
ひとつだって本人が望んだわけじゃないのに。
クリュはしゅんと俯いて、まだ小さな手を強く握っている。
「俺、嫌な思いはいっぱいしてきたけど、シュヴァルみたいな辛い目にあったことはないよ」
同居人の呟きに、レテウスは再び自分を恥じていた。
ブルノー・ルディスを探し出すのに夢中で、ウィルフレドに認めてもらいたい一心で迷宮都市での暮らしをなんとかこなしているが、同居人の少年の身の上について深く考えたことがなかった、と。
いつでも生意気で、なんでもお見通しで、すぐにどんなことも覚えてやれるようになってしまって。
悲壮を漂わせたことなどほとんどなかったから。
悪い蛇の話をした時、オンダを思い出した時には涙を見せたことはあったけれど。
辛い目にあった、悲しみに暮れていると、シュヴァルが訴えたことはなかった。
「シュヴァルはすごいよ。俺より十も年下なのに」
クリュは鼻をすすりながら呟き、レテウスは驚いて視線を向けている。
「サークリュードは今、何歳なのだ」
「俺? 二十一だよ。多分だけど」
「多分とは」
「記憶がない時期があるからさ」
年上だったか、とレテウスは目を閉じ考える。
誰よりも強そうで、悲しみを見せようとしない十一歳の少年と。
ふわふわとして落ち着きがなく、可愛さを振りまくばかりの二十一歳と。
見た目に惑わされるな。
まったくもってその通りであり、シュヴァルにそう言われたのがまだ今日の出来事なのかと、信じられない思いだった。
「朝は一緒に料理をしていたのに」
「二人でここに来てたの?」
「そうだ。屋敷の住人は誰も残っていなくて、雲の神官殿にいくつか料理を教えてもらったんだ」
「アダルツォの妹かな。あの小さくて可愛い子だろ」
「ああ。彼女はとても立派な志を持つ、素晴らしい神官だ」
話している間に足音が近づいてきて、誰かが部屋に入ってくる。
「あれ、クリュ。レテウスさんも。なにをしてるの」
やって来たのは営業終わりのティーオで、ギアノはどこか二人へ尋ねた。
「わからない。そう遠くへ行ったわけではないと思うのだが」
「そこ、誰か寝てる?」
同じ貸家の仲間へ、今日起きた事件が告げられる。
ティーオは驚き、可哀想にと少年の顔を覗き込み、大変だったねと二人を労ってくれた。
「あ、ティーオ。ごめん、待たせたかな」
「ギアノ、お帰り」
管理人が戻って来て、なにかを机の上に置いている。
まずは売り上げの処理をするべく、二人でなにやら話し合っているようだ。
「二人も家に戻るよね」
精算を終えたティーオに声をかけられ、レテウスは悩んだ。クリュも似たような考えでいたようで、ギアノの袖を掴んでいる。
「目を覚ますまで付き添っちゃ駄目?」
「クリュ、随分優しいんだな」
「一人じゃ寂しいだろうから」
「ギアノが付いてる。大丈夫だよ」
管理人の部屋はそう広くもないし、これ以上寝床の準備はできない。
ティーオに諭され、クリュは帰ると決めたようだ。
「明日の朝、様子を見に来るね」
「大丈夫。ちゃんと世話をしておくから」
ギアノは力強く頷き、レテウスを呼んだ。
「ナイフ、落ちてましたよ。これで間違いないかな」
戻ってきた時に机に置いたのは、シュヴァルを傷つけたナイフだったようだ。
布に包まれた刃は血で汚れており、貸家へ続く道の上に落ちていたらしい。
「形状まではさすがに記憶にないが、大きさはこんなものだったと思う」
血の跡とナイフがそこら中に落ちているはずはないのだから、管理人が見つけてきたのは事件に使われたものだろう。
背後から覗き込んで来たクリュは目に涙を浮かべて、赤黒く染まった布を見つめている。
「痛かったよね、シュヴァル」
そういえば、シュヴァルは痛いなどと一言も言わなかった。
苦しかっただろうに、あの男を追って捕まえるよう命じたし、傷の深さに気付いて覚悟を決めていたようだった。
いつの間にか夕方になっており、屋敷には大勢の探索初心者たちが戻ってきてわいわいと騒いでいる。
三人は混雑する廊下を抜けて、貸家へ向かって歩いた。
市場に買い物に行くつもりだったのに。
男に遭遇した道の上には黒い大きな染みが残っていて、レテウスは思わず立ち止まる。
「ここ?」
「ああ」
もっと早く異常に気付いて、守ってやれれば良かったのに。
悔しい思いが湧き出してきて、体が震えてしまう。
ティーオが気を利かせて夕食を用意してくれたが、いつものように喉を通らない。
気がつけばため息ばかりついており、シュヴァルが心配で仕方なかった。
「レテウス、着替えたら?」
服が小さく見える、とクリュは言う。
「ああ、そうだな」
今日着ていた服はどうなっただろう。王都に帰された時に持ってきた、良い物だったけれど。
洗っても、血の染みは簡単に落ちはしない。じっとりと濡れた感触を思い出し、またため息をついている。
食事を終えて、着替えも済ませて、いつもなら十一歳の少年に早く寝るよう言い始める頃になっていた。
「目、覚めたかなあ」
頬杖をついて呟くクリュに、ティーオが笑いかけている。
「大丈夫だよ、あの子なら」
「俺もそう思うんだけど」
「随分シュヴァルのことを気に入ってるんだな、クリュは」
「うーん。そういうことになるのかな。確かに。うん」
美しい青年はこくこくと頷いて、こう続けた。
「信頼できるから、シュヴァルは」
「信頼ね」
「なんでもすぐに理解するし、嘘もつかないし」
「確かに。誤魔化したりはしなさそうだ」
「だろ。そう思うよね、ティーオも」
二人の会話の隙間に、何かを叩く音が差し込まれている。
誰かがドアを叩いていることに気付いて、レテウスは家の入口へと急いだ。
「シュヴァルか?」
ろくに確認もしないまま扉を開けると、貸家の前には二人の男が立っていた。
一人ははっきりと知っている。迷宮調査団の制服に身を包んだ、王都の騎士であったヘイリー・ダングだ。
「ヘイリー・ダング」
「レテウス様、夜分に申し訳ありません。リシュラ神官長より、今日起きた事件について聞きました」
記憶が新しいうちに、話を聞かせてほしい。
ヘイリーの言葉に納得して、レテウスは二人の男を家の中へ通した。
ティーオとクリュは驚いたようだが、飲み物を用意して並べてくれている。
「彼は調査団の一員で、捜査の手助けをしてくれているガランです」
丁寧に頭を下げる連れの男には、見覚えがある。
ガランは余計な話をする気はないようで、ヘイリーの少し後ろに控えて、紙などの用意を進めていた。
「被害にあったのは、シュヴァルという名の少年だそうですね」
「そうだ」
「カッカー・パンラの屋敷で会ったあの子で間違いありませんか」
失礼な話し方を注意したことを覚えているのだろう。
まだ二日前の出来事だ。
あまりにも濃密な一日を過ごしたせいか、もっと前のことのように感じられている。
「間違いない」
「犯人の男は、何故その子を刺したのでしょう」
「わからない。急な出来事だった」
「なにも言わずに、突然刺してきたのですか」
いや、会話はあった。会話の内容は意味不明だったが、話をしていくうちに男の様子には変化があったようにレテウスは思う。
「その前に話しかけてきた。走り寄ってきて、シュヴァルの腕を掴んで」
「男はなんと?」
なんだっただろうか。
レテウスは頭を働かせて、前日も男に遭遇したことを思い出していた。
「サークリュード、昨日のことを覚えているか」
話を振られて、クリュはぱっと顔を上げている。
頭に巻いた布は既に取られており、部屋の灯りを受けて金色の髪がキラキラと輝いている。
「全部は覚えてないけど」
「昨日とは?」
「犯人の男には昨日も会った。いきなり話しかけて来て、訳のわからないことを言っていて」
「なにを話したのですか」
レテウスは混乱しながらもクリュに瞳を向ける。
美しい青年は記憶を探っているのか、真剣な瞳でテーブルの上に置かれたカップを見つめていた。
「シュヴァルはその男に名前を聞いていたよね」
「名前を?」
「なんだったっけな。変な男で、本当に意味のわからないことを言ってきたんだ。そういえばシュヴァルに話しかける前に、なんでか俺をじろじろ見てきて」
「そういえば、そうだったな」
「何故見られたかはわかるかな」
「わからないよ。全然知らない奴だった。見覚えもない」
クリュをじろじろと見たのは、美しさに気を取られたからではないだろうか。
あの時は頭に巻いた布も取れてしまっていたから、珍しい髪の色が目に入っていたはずだ。
レテウスはそう言うかどうか悩み、決める前にクリュが口を開いた。
「店を教えてって言ってたよね、レテウス」
その前にもなにか言っていたけど、とクリュは呟いている。
「確かに、店の名前を聞いていたな」
「なんの店を尋ねたかは?」
「ええとね。……今夜の店、って言ってた気がする。シュヴァル、答えていたよね?」
「その少年は、男の問いを理解していたと?」
「ううん、違うと思う。知り合いなんかじゃないだろうし」
クリュに「ねえ」と声をかけられ、レテウスも頷いて答えた。
「知っている店の名を適当に口にしただけだと思う」
「男は適当な店の名で納得したのですか?」
「そうなるかな……」
答えておきながら、そうだろうかとレテウスは悩んだ。
あの店の名。駿馬の蹄。ジマシュ・カレートがよく使っているから訪ねてほしいと指定した食堂の名前だ。
いや、違う。シュヴァルは「駿馬」としか言わなかった。
「シュヴァルは途中までしか答えなかったが、男はそれでわかったと言って、去って行ったんだ」
そうだ、シュヴァルはすべてを口にしなかったのに。
男は上機嫌で去っていき、そして、今日。
「今日の昼過ぎに男と再び会った。背後から駆け寄ってきたんだ。焦っているような様子だった」
今日の出来事を知っているのは、レテウスとシュヴァルだけ。クリュには頼れない。
思い出さなければならない。会話はそう長く続かなかった。訳のわからないことを言っているとしか思わなかったが、重大なヒントが隠されているかもしれないのだから。
「シュヴァルの腕を掴んで、自分にはまだ駄目だったと言っていたように思う」
「駄目だった?」
「いきなりは駄目だったと。……旦那に無視された、とまくしたててきて」
ヘイリーは頷き、ガランは証言を書き記している。
「誰かの名を挙げて、居場所を教えるように頼んで来たんだ」
「名前はわかりますか」
「いや、すまない」
シュヴァルならきっと、はっきりとすべてを覚えているだろう。
情けない気分になりながら、レテウスは記憶を必死に掘り起こしていく。
「その名前を挙げた者でなくても良い、誰でもいいから、居場所を教えてくれと男は言った」
そしてシュヴァルは、知らないと答えた。
自分は誰の手下でもないと言い、男はそれで言葉を失い、凶行に及んだ。
「シュヴァルという少年は、誰かと間違われていたのでしょうか?」
ガランから問われ、レテウスは悩む。
「そうかも。昨日会った時、随分若いんだなって言われてたよ」
クリュが代わりに答えて、ヘイリーの視線が移っていく。
「それに、お前はナントカさんの方だよなって」
仲間だと思われていたのではないか。
クリュの証言に、ヘイリーは眉を顰めている。
「名前、なんだったかなあ。スアリアの手前の集落出身だって言ってたと思うけど」
ねえ、と声をかけられたものの、レテウスの記憶には残っていない。
悩める貴族の青年の様子をどう思ったのか、調査官は「わかりました」と呟いている。
「また思い出したことがあったら聞かせてください」
「ああ、もちろん」
レテウスは答え、クリュも頷いている。
「シュヴァルは記憶力がすごくいいから、きっと全部覚えているよ。本人から聞くといいと思う」
「もちろん、目が覚めたら話を聞かせてもらいます」
ヘイリーはガランになにかを囁き、捜査に協力した二人を順に見つめている。
「男に教えたという店の名前はわかりますか」
「ああ。シュヴァルは途中までしか言わなかったが、おそらくは『駿馬の蹄』だ」
「レテウス様もその店を知っておられたのですか」
「いや、行ったことはない。シュヴァルに行くなと言われていて」
「あの子供に? 何故です」
十一歳の子供に行くなと命じられる店があるなど、確かにおかしいことだろう。
「良からぬ店なのですか?」
ヘイリーの隣からガランが怪訝な目を向けて来て、レテウスは焦った。
「いや、普通の食堂だと思う。一緒に仕事をしないか持ち掛けてきた人物がいて、彼がよく使っている店を教えてくれたんだ。私は店の名を忘れていたが、シュヴァルはしっかり覚えていたようだな」
「そこに行くなと言われたのですか?」
納得がいかないらしく、調査団の二人は顔を見合わせている。
「それって例の人が誘ってきたところ? ジマシュとかいう」
クリュがなにげなく繰り出した一言で、貸家の中の空気は一気に変わった。
奥に座っていたティーオも振り返ったし、なによりも、ヘイリー・ダングの表情は大きく変わっている。
目を鋭く据わらせ、ぎらりと瞳を輝かせ。
顔色も蒼褪め、体を小さく震わせている。
「そろそろ戻ろうと思っていましたが、申し訳ない。ジマシュという名の男について聞かせて下さい」
その瞳に宿った光の余りの暗さに、レテウスは思わず頷いていた。




