18 夜明かし
「フェリクス、アデルミラ! お前らも来ていたなんて、これはまさに神様の思し召しってやつだなあ」
満面の笑みを浮かべているのは、カッカーの屋敷でフェリクスとウィルフレドの二人と同部屋で暮らしているティーオだ。快活で素直な少年だが、考えも言動も、何もかもがまだ軽い。
「女の子が倒れてるんだ。そこまで引っ張って来たんだけど、俺はもう限界なんだ。助けてくれないか?」
こう頼まれて思わず、フェリクスはニーロとマリートの方へ振り返った。
「なあ、頼むよ。体中が腫れちまってるんだ、アデルミラ、治してもらえないか?」
ぐらりと心を揺らしつつ、アデルミラもまた引率の二人に向けて振り返っていた。マリートは目を閉じて溜息を吐き出しており、ニーロはいつも通りの無表情のまま微動だにしない。
「アデルミラ、お願いだよ。すぐそこなんだ、早く戻らなきゃ」
「ティーオ、お前は一人なのか?」
こう声をかけたのはウィルフレドで、同じ部屋の仲間の質問にティーオは怒ったような表情で答えている。
「五人で来たんだ。訓練の後、酒場で会った連中と一緒に。『緑』で練習しようって言ってたから、仲間に入れてもらったんだよ。で、女の子が倒れてて、助けようって言ったのにあいつら、さっさと上がって行っちゃって」
ここにたどり着くまでにすれちがった四人組の中に、その薄情な連中がいたのだろうか。
ニーロとマリートの表情は冷め切っている。あの二人に手伝ってくれと申し出る勇気は、フェリクスにもアデルミラにもなかった。ティーオも気まずさを感じているらしく、ちらちらと二人の様子を伺いながらも、初心者達だけに助けを求めてきた。
「なあ、頼むよ。アデルミラ、手当てだけでも駄目かな? そこの通路の先に寝かせてきちゃったんだ。早くしないと鼠が来ちまう」
助けてあげたい、とアデルミラは当然思っている。他の仲間に見限られたというのに、たった一人で見知らぬ誰かを救おうとしているティーオに手を差し伸べたい。何層目から歩いてきたのかはわからなかったが、ティーオの髪は乱れ、顔は汗にまみれている。
しかし、迷宮の中を探索している間の鉄則はきっと守るべきものだし、今は初の「夜明かし」の訓練中だ。
ニーロとマリートが見ている。お前たちはどうするつもりだ? と。
少女を助けた後についても問題だった。例え傷を治したところで、ティーオがたった一人で連れて帰れるかどうか。一日探索をして、少女とはいえ誰かを連れて上がって来たのなら、体力はもう残っていないだろう。
中途半端な手伝いをしても地上に戻れなければ意味はない。見殺しにするのとなんら変わりがなかった。
悩めるアデルミラの横顔を見つめているのは二人。フェリクスと、ウィルフレドだ。
神官が探索者として生きるのは、大変かもしれない。フェリクスはそう思った。人を救い、手を差し伸べる者であらねばならないのに、迷宮都市ではそうはいかない場面も多い。
「マリート殿、ニーロ殿、ティーオの言っている少女を助けに行ってもよろしいですか?」
ウィルフレドがこう声を上げて、フェリクスとアデルミラは心の底から驚いた。
マリートは楽しげに笑い出し、ニーロの表情には変化がなかったが、こう答えた。
「構いませんよ。これから休憩の時間ですから、自由に過ごしてください」
「ありがとうございます」
美しく礼をして、ウィルフレドはティーオに向けて微笑み、新参仲間の神官へ向けて声をかけた。
「アデルミラ、私も行くから共に来てくれ。全身が腫れているというのなら、神官の力が必要だろう」
「ええ……」
通路の先へ去っていく三人と、この場に残る二人。両方へ目をやってから、フェリクスは結局ティーオたちの後を追う。
その先、というティーオの表現はとてつもなく軽かった。通路を何度も曲がり、敵が出てくるのではないかと怯えながら進んで、六層へ続く下り階段の前がようやく目的の場所だった。
緑の迷宮に抱かれて、少女は通路のど真ん中で倒れている。
「よくこんなところに寝かせておいたな」
息を切らせつつ、フェリクスは大いに呆れながら声を上げた。
「仕方ないだろ、端に寝かせたら危ないんだから」
ウィルフレドは抜いたままだった剣を鞘にしまって、倒れている少女の首に手を当てている。
「まだ生きている」
アデルミラは必死になって、息を整えようと深呼吸を繰り返している。
どこで何が待ち受けているかわからない迷宮の中を走るのは、危険だ。もう二度としたくない経験だとフェリクスは思う。
倒れている少女の体はあちこちが赤や紫に染まり、腫れあがっているようだった。厚手の生地で作られた服を身に着けていて、武器や防具の類はなく、腰についている小さな袋以外所持品はない。
茶色の長い髪を後ろに一つでまとめていて、苦しげな表情で浅く息を吐いている。どのような顔なのか、今の状態ではわからない。
「この迷宮で毒を受けたのでしょうか?」
ようやく呼吸を落ち着かせて、アデルミラは少女の隣にしゃがみ、パンパンに膨らんだ手を取って、雲の神への祈りの言葉を紡いでいく。
暖かく柔らかな光が少女を包み、癒していく。その間もウィルフレドは通路の先へ目を光らせ、敵の襲来に備えている。
その様子に感心しつつ、フェリクスは脱力しきっている少年に向けて問いかけていた。
「ティーオ、どうするつもりだ? この子を連れて帰るつもりなのか」
「当たり前だよ」
「どうやって? 意識が戻っても、たった二人で地上へ戻るのは大変だろう」
きょとんとした表情からは、深い考えなどそもそもなかったであろうことがよく伝わってくる。だらしない姿勢で座り込んでいたティーオは慌てて立ち上がり、ウィルフレドの腕を掴んで喚き散らした。
「無理だよ、一人でだなんて」
「我々は訓練の途中だ。マリート殿とニーロ殿を付き合わせるわけにはいかない」
ティーオに付いて地上へ戻るなら、今回の探索はこれで終わり。
せっかく名うての探索者が二人、一緒に来てくれたというのにこんな中途半端に終わらせるのは余りにも勿体ない。
フェリクスは複雑な気分だった。つい一緒に来てしまったが、ここで見放すのなら最初から助けずにいるべきだっただろう。いくら弱い敵しかいないとしても、たった一人で誰かを庇いながら進めばどうなるかは目に見えているのだから。
「フェリクス、頼むよ。『術符』なんて持ってないし、ニーロさんに頼んだら『脱出』で戻れるだろ? なあ、一緒に頼んでくれよ。可哀想じゃないか、この女の子、一人で倒れてたんだ。置いていかれちゃったんだよ、動けなくなったからって。何にも持ってなかったんだぞ。身ぐるみ剥がれちゃったんだよ」
アデルミラの癒しが効いたのか、少女の顔色は少しばかり良くなっているようだった。苦しげだった表情も、すっかり安らかになっている。
腫れが引いて顔がはっきりとわかり、少女は十五か十六か、そのくらいの年齢であるように見えた。肌は白く艶やかで、手足は細長く頼りない。何も持っていなかったとティーオは言っているが、この体型では重たい装備品はそもそも身につけていなかっただろう。
「ニーロ殿がそんな頼みを聞くとは思えないが」
「そうだけどさあ。……でも、フェリクス達はじゃあどうやって一緒に来てもらったんだよ。よく考えたら凄いな。どうしてニーロさんやマリートさんと一緒に『緑』に来てるんだ?」
今更気が付いたらしく、ティーオは今度は興奮したような様子だ。
「私が頼んだのだ」
ウィルフレドの答えに、少年は顔をくしゃくしゃに顰めている。
「頼めば来てくれるの? それならそうと早く教えてくれれば」
「さあ、わからぬよ。ニーロ殿は忙しそうだし、少し気紛れなところもありそうだ」
四人が去って行き、休憩の為の小部屋にはニーロとマリートだけが残っている。
「行っちまったな」
苦笑いする剣士の隣で、魔術師は憮然とした表情を浮かべている。
「どうするつもりでしょう?」
「さあな」
新米たちがどうしようが、二人には関係ない。これっきり姿を見なくなってしまったとしても、それは迷宮都市の「いつものこと」に過ぎない。
「『緑』は久しぶりだ。特に用もないが、こうしてたまに来るのもいいかもしれないな」
とってつけたかのような適当なマリートの台詞に、ニーロは少しだけ笑ってみせた。
「本気で言っているんですか?」
「冗談だよ」
ただ懐かしいだけさ、とマリートは呟く。
「俺にもお前にも、おっかなびっくり迷宮を歩いていた頃があったんだと思うと、変な気分だ」
「僕にはそんな経験はありません」
ニーロがこう答えると、マリートは大声で笑い始めた。
通路の先からかすかに笑い声が響いてきて、四人の新米たちは身をすくめている。
「なんだ、あれ。鼠とか兎以外の魔法生物がいるのかな」
「マリート殿の声のように聞こえるが」
慄くティーオの背を、ウィルフレドが叩いて落ち着かせている。
結局、ひとまずは報告のために二人のところへ戻ろうと決め、その後について、頼もしい髭の男はゆっくりとこう切り出した。
「私がこの子を背負って地上まで送ろう」
フェリクスとアデルミラは戸惑いながら、ウィルフレドを見つめる。
「でも、探索は?」
「屋敷まで送ればいいのだろう。その後私は一人で、ここへ戻ってくる」
これにはさすがにティーオも驚いたらしく、仲間たちの顔の間で視線を彷徨わせている。
「一人でだなんて……」
「大丈夫だ、アデルミラ。あの鼠程度なら大した敵ではない。道順もさほど難しいものではなかった」
助けを求められてそれに応じたのだから、最後まで責任を持つべきだ、とウィルフレドは話した。そして、どうするのが一番いいか考えて出た結論がこれなのだと。
「ティーオ一人では無理だ。だが、この四人で帰るのもおかしい。ニーロ殿とマリート殿は我々の訓練の為に来てくれた。『夜明かし』をするのが目的だったのに、その前に帰るのは違うだろう。ニーロ殿に『脱出』を頼むのも、全員で一緒に帰るというのも違う」
そんな頼みをしては、きっと彼らは二度と手を差し伸べてくれないだろうから、とウィルフレドは話している。
自信があるのだろう、とフェリクスは思う。ウィルフレドの剣の腕はきっと、これまでに出てきた鼠程度では計れない。今いる五層まで、自分は何もしていない。アデルミラも、ニーロも、マリートも戦いに関しては何もしてこなかった。たった一人ですべての敵を切り捨てている。
「アデルミラ、ウィルフレドの言う通りにするのが一番いいと思う」
「フェリクスさん」
「俺達が一緒に行っても邪魔なだけだ。もう夜になって、随分体力も消耗している。俺達はこの機会にちゃんと『夜明かし』をしておくべきだと思う。ウィルフレドなら」
フェリクスが見上げると、髭の男は力強く頷き満足そうに笑みを浮かべた。
「せっかくの機会だ。必ず戻ってくる」
「でも、休む時間がなくなってしまいます」
ティーオについてカッカーの屋敷まで戻り、この五層まで再び降りる。一体どれほどの時間がかかるだろう?
アデルミラが不安を正直に口にしても、髭の男から余裕の色は消えなかった。
「大丈夫だ。もっと大変な日はこれまでにいくらでもあった」
では行こう、とウィルフレドはティーオの背を強く叩いた。疲れがたまっているらしく、少年はふらふらとよろけている。
「自分の身は自分で守ってくれ。それと、無事に着いたら相応の礼をしてもらう」
ティーオはギョッとした表情を浮かべたが、ウィルフレドはそれに構わずアデルミラたちに手を挙げた。
「朝まで待っていて欲しい。遅かったら、先に行ってくれ」
少女を背負い、ウィルフレドはティーオと共に去っていく。アデルミラたちも慌ててその後を追った。ニーロ達のところに一度は戻ろうと言っていたのに、忘れたようだ。
途中に出てきた小ぶりな鼠はあっさりと、少女を背負ったままのウィルフレドに切られていた。そこから戦利品を、という訳にはいかず、死骸をそのままに四人は通路を走り抜けていく。
何度も曲がって、見覚えのある角に差し掛かる。
「では、フェリクス、アデルミラ、必ず戻る」
青い顔のティーオに追われながら、ウィルフレドは早足で去って行く。
残された二人はしばらくその後ろ姿を見送って、待たせていたベテランたちのもとへと戻った。
「で、どうしたんだ?」
戻るなりマリートにこう問われ、フェリクスは事の顛末をすべて話した。
「なるほど。助けるなら最後まで、な。その通りだ。中途半端が一番良くない」
あの男なら本当に朝までに戻るだろう、と続けて、剣士は床にごろんと横になってしまった。
ニーロは荷物を背中の下に置いて小さく丸まり、目を閉じている。
フェリクスとアデルミラは用意をして夕食を済ませると、恐る恐るニーロの書いたおまじないの線の内側に身を横たえた。
隣でちょこんと横たわっているアデルミラの姿に妹を重ねてフェリクスは目を閉じ、そしてここまできてようやく、年頃の少女が男達に混じってたった一人でいるのだと意識をし始めてた。
このような状況で、異性がいるという気にはならないか、と慌てて邪念を打ち消していく。フェリクスはアデルミラについて、妹のようだとしか思えないし、ニーロは「女性」に興味がなさそうに見える。マリートにも乱暴な印象はなく、突然手を出してくるだとか、そんな展開はないだろう。ウィルフレドも同様だ。
それ以前に、ここは迷宮の中だった。
通路の先に目をやれば、白い花が咲いている。蔦が絡み合って壁に這い回り、明るくて見通しもいい。ここが何処なのか、やはり忘れそうになってしまう。
しかし、延々と真っ暗闇が続いているよりはいい。フェリクスは「黒」の迷宮を思い出していた。あそこはとにかく暗かった。目を閉じれば浮かび上がるのは、もう妹の顔ではなく、地這犬に喰い殺される哀れな商人の親子の姿だ。
彼らの家族はどうしているだろう。夫と息子がいつまでも帰って来ないと、妻は嘆いているのではないか。生きているのか死んでいるのかさえわからず、延々と待ち続ける日々を過ごしているのではないか。
胸が痛んで、苦しかった。そういえば彼の馬車はどうなったのだろう。いや、決まっている。ジマシュが処分して、金に換えているに違いない。
小さく呻きながら、両腕で顔を覆う。ラディケンヴィルスの迷宮では、毎日数えきれない程の命が散っているだろう。彼らもそのうちの一つずつに過ぎない。そう思っても、やりきれない物がある。
「眠れないのですか?」
小さく控え目にかけられた声は、ニーロのものだ。フェリクスはゆっくりと起き上がると、若い魔術師に向けてこくんと頷いた。
「初めての夜明かしで、ぐっすり眠れる人間などほとんどいないでしょう」
薄いマントに身を包んだまま、ニーロはフェリクスをまっすぐに見つめている。その奥でマリートは横たわったまま動かない。アデルミラはどうだろうと思ったが、背後からは何かが動くような音は聞こえてこなかった。
「この迷宮を作った魔術師たちはとても親切ですよ。『緑』には色んな薬草が生えていますが、その中には睡眠薬になる物もあるんです」
初心者たちがしっかり体を休められるようにしているんでしょうね、と言ってニーロはニヤリと笑った。
「そんな物を使ったら、寝ている間に鼠に喰われてしまいそうだ」
「冗談ですよ」
すっかり白けた顔になって、魔術師はぷいとそっぽを向いてしまった。
「いやでも、この魔法生物の入って来られない線が使えるなら、薬も効果がありそうだ」
「残念ですが、この線の効果も永遠ではありません。それに、実は効かない敵もいるんです」
いつでも真顔のまま表情を変えないニーロの言葉が、どこまで冗談なのかさっぱりわからない。フェリクスは曖昧に笑いながら、魔術師の灰色の瞳を見つめた。
何の動揺もない、落ち着いた色。知性の煌めきはあるが、明るさは感じられなかった。自分よりもずっと年下でありながら、探索者としてもう六年もこの街で生きているという。いくつもの迷宮の最下層へ辿り着いていて、「赤」の最初の踏破者になったという話はカッカーの屋敷で散々聞かされた。
「何か技術を身につけたいのであれば、薬師もお勧めですよ。『緑』の深いところと、『紫』では貴重な薬草が採れます。調合して売ればいい値段になります」
それなりに強くなければ採集が難しいですけどね、とニーロは続けている。真剣なアドバイスとして言ってくれているのかよくわからないままフェリクスはありがとうと答え、思わず、ポロリと胸のうちにひっかかっていた物のカケラを吐き出してしまった。
「ニーロ……は、『黒』の迷宮に入ったことが?」
灰色の瞳がキラリと光る。
「ええ、ありますよ。僕はすべての迷宮に足を踏み入れています」
だろうな、とフェリクスは思う。ジマシュの同じ発言よりも、すんなり納得がいくと思った。
「『黒』に何か用があるのですか?」
「いや、ない。その……、『黒』というからには暗くて、進むのが難しいのかなと思って」
エリシャニー親子の件は、やはり話せない。話したところでニーロはフェリクスを責めたりしないだろう。何か言うとしたら、せいぜい「いい経験をしましたね」くらいだろうとは思う。
だが話したら、あの悲劇について口にしたら、フェリクス自身の心が潰れてしまいそうだった。
ジマシュという男をどこかで、ただの親切な人間だと思いたい気持ちがあった自分の愚かさ。彼の仲間であるはずのデルフィのあれ程までの苦しみ様、死んでいった哀れな父と息子。受け取ってしまった三千シュレールは、荷物の奥にしまいこんで隠している。一緒に借金を返さなければならないのだから、アデルミラには告げなければいけない。そう思っているのに、いまだに話せずにいる自分の卑怯さが胸に突き刺さっている。
誰かに話すには、心の整理がついていない。心の中で混じり合う感情を、まだ人に上手く説明できそうになかった。
「あなたの言う通り、『黒』は一筋縄ではいかない迷宮です。『緑』とは対照的で、とても暗いところです。灯りはついていて、通路の先は見えます。でも、暗いのです。壁も床も真っ黒ですし、通路の幅がとても狭い。しかも緩やかに曲がっていて、振り返っても来た道が見えない箇所が多い。魔法生物も浅い層からすぐに出てきますし、獰猛なものが多いのです。夜の闇の中のようで、奥深くまで進めるのは余程強靭な精神の持ち主だけでしょう」
ニーロは視線をまったく動かさない。じっとフェリクスを見つめたままで、まるで心の中まで見通そうとしているかのようだった。
「僕も最下層まで行きたいのですが……。余程の手練れが集まらなければ、無理でしょうね」
「挑戦しているのか?」
「ええ、五回行ってすべて失敗しました。あの息苦しさに耐えられる者は稀です。ほんの少し油断をしたところに、ちょうどよく罠や魔法生物が待ち構えている。通路が曲がっているせいで、正確な地図もなかなか出来ないのです」
そうそう、地図の製作もいいですよ、とニーロは続けた。正確な地図が出来て出回っているのは、まだ「橙」と「緑」だけだからと。
「スイッチの箇所を完全に抑えた『藍』の地図を作れば、大儲けできるでしょうね」
ニーロの声の調子は変わらない。陰惨な「黒」の迷宮について語るのも、会得しておくといいお勧めの技術についても、まったく同じ話し方をしている。
先ほどの薬の調合について、地図の製作について、何故そんな話をしたのか。もしかしたら進路の決まらない新米の為なのかと考え、その意外な親切さにフェリクスは思わず小さく吹き出してしまった。
「なにかおかしな話をしましたか?」
「いや、すまない。教えてくれてありがとう」
この二人の会話を聞いて、アデルミラも小さく微笑みを浮かべていた。心を縛り付けていた緊張がほぐれて、今度は一日の疲労が一気に噴き出してくる。
背後でごそごそと音がしているのは、フェリクスが横になった音なのだろう。じんわりと温かさが伝わってきた気がして、アデルミラの意識は安堵の中に沈んでいく。
やがて音がして目を開けると、既にニーロとマリートは起きていて食事の支度を始めていた。
そして二人の横には、ウィルフレドが立って一緒になって作業を進めていた。




