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12 Gates City  作者: 澤群キョウ
38_Defender 〈刮目相待〉

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172 壊乱

 次の日の朝、クリュは気持ちを切り替えられたのか朝早くに家を出て、ティーオも出勤して今は二人だけが貸家に残っている。

 これまでの教育の甲斐があって、シュヴァルは教えた文字をすべて自在に読み書きできるようになっていた。計算も早い。偉そうな振る舞いには変わりはないが、他人を罵ることはなくなっていた。


「なあ眉毛、ギアノのところへ行こうぜ。お前に話がある奴がいるかもしれないだろ」


 小さな親分がこう言い出したのは、少しばかり暇を持て余しているからなのだろうとレテウスは思う。

 屋敷に行けば少なくとも裏庭で体を動かすことはできる。指導を必要としている者がいなくても、少しの間場所を借りてシュヴァルにも剣の扱い方を教えてやればいい。

 ギアノは屋敷のあちこちで様々な仕事をこなしているので、最近食事を巻き上げ続けている礼に手伝えることがあれば引き受けたらいいだろう。


 カッカーの屋敷に辿り着いて勝手に入ると、廊下の先には小さな赤毛の少女が立っていた。

「まあ、こんにちはシュヴァルさん。それに、レテウスさんですね」

「よお」

 シュヴァルは軽く手を挙げ、レテウスは丁寧に頭を下げる。

「私は雲の神に仕える神官でアデルミラ・ルーレイと申します。何度かお見掛けしたことはあったんですが」

 挨拶をしていなかったと詫びる神官に、レテウスは首を振っている。

「私の方こそ、名乗るのが遅くなり申し訳なかった。レテウス・バロットだ。よろしく、雲の神官殿」


 真摯に神に仕える者には敬意を払うべし。

 父からの教えを守り、レテウスは小さな神官に丁寧に名乗った。

 アデルミラは穏やかな顔に笑みを湛えて、ギアノは今来客の相手をしていると教えてくれた。


「お茶を用意しましょうか」

「ついでに食う物も出してくれないか?」

「今は、すぐに食べられるものがないんです。よければ一緒に作りませんか?」


 雲の神官はにこにことして、シュヴァル相手にもまったく動じる様子がない。

 準備しておけば簡単に仕上げができる料理を教えるからと、二人に厨房に来るように言って、早速料理の指導を始めている。

 道具を用意するよう言われて、レテウスも慌ててナイフを手に取り、一緒になって野菜の下拵えを始めていく。


 アデルミラはいくつかの料理の作り方を本当に教えてくれた。

 下拵えの仕方を丁寧に説明して、レテウスが理解できるまでじっくりと付き合ってくれた。

 実際に自分でやることでよりしっかりと覚えられるから。アデルミラはそう言って決して手を貸さず、何度でも見本を見せて、三男坊ができるまで見守りながら、自分の作業もどんどんと進めているようだ。


 ギアノによく似た働き者なのだなと三男坊は思い、作業が終わったところでようやく、隣にあるのは樹木の神殿なのにという疑問に行きついていた。

 しかしその前に、なによりも感心させられていることがある。


「君は私のことは怖くないのか」

 問われたアデルミラは目をぱっちりと見開いて、首を傾げている。

「私の顔は大勢が恐ろしいと思うようなのだが」

 雲の神官はそんなことはないと答え、また愛らしい顔を微笑ませている。

「少し前にこの屋敷で、悲鳴をあげて逃げられたこともある」

「マティルデさんですね。彼女は大変な目に遭ったことがあって、特別に男性を恐れていたんです」

 それは仕方のないことであり、レテウスが恐ろしいからではない。


 アデルミラの態度は揺るがず、三男坊は驚いていた。



 お茶を用意するから食堂で待つよう言われて、シュヴァルと二人で隅の席に腰かけて。

「彼女はとても立派だな」

 幼いうちに神に仕える道を選ぶという、その精神の気高さよ。

 レテウスは感心して呟いたが、隣に座るシュヴァルは白けた顔で子分を見つめている。

「シュヴァル」

 返事もしない小さな親分へ、三男坊は年上の人間としての務めを果たすべきだと考え、後で隣の神殿へ寄ろうと持ち掛けていく。

「この屋敷の隣に神殿があるのもなにかの導きなのだろう。本来、騎士が向かうべきは鍛冶の神殿だが、樹木の神官長は大変立派な人物だし、どの神殿であっても学びには変わりないからな。シュヴァル、君は文字の読み書きは十分にできるようになった。次は真摯な祈りを自分のものにしていこう」


 真剣に話したというのに、シュヴァルはなんとも言えない生意気な表情のまま、いつものようにふんぞり返っている。

 むっとして眉間に皺を寄せると、少年は食堂の出口にちらりと視線を向けてから、囁き始めた。


「お前、さっきの赤毛が俺と年が変わらねえくらいだと思っているんだろ」

「神官殿を赤毛などと呼ぶな、シュヴァル」

「違うぜ、レテウス。お前と同い年くらいだよ」

「……誰が?」

「アデルミラ殿だ。さっき俺たちを扱き使った、雲の神官の」


 言葉は聞こえているのに意味合いはすんなりと頭に入って来なくて、レテウスはしばらくぼんやりとシュヴァルを見つめた。


「見た目に惑わされるなよ、眉毛」

「惑わされてなどいないが」

「リュードの言うこともすぐに聞いちまうし、頼りねえんだよな、お前は」

「サークリュードが男性だということなら、承知している」

 憮然として答えるレテウスへ、シュヴァルはふんと笑っている。

「あいつの見た目がうんと醜くても、同じように扱うか?」

「当たり前だ」


 考えもなしにただただ反発していると気付きながら、止められない。

 そんな内心を見抜いているのか、シュヴァルの態度には余裕が漂っている。


「お待たせしました」


 険悪な空気の中、アデルミラがトレイを持って現れる。

 穏やかな笑みを浮かべながらカップをテーブルの上に並べると、二人の来客へ申し訳なさそうに詫びた。


「同じようにしているはずなんですが、どうしてもギアノさんが淹れた物と同じにはできないんですよね」

 注がれた茶の色も、漂う香りにも違いなどないようにレテウスは感じている。

「今日はお話が随分長くなっているみたいで、お待たせしてしまってすみません」

「いや、いや、いいのだ。我々が勝手に来ただけなのだから」

「剣を教わりたいと言っていたパントさんたちも、今日は出かけてしまっているんです」


 話している間にシュヴァルの言葉が理解できていた。

 確かに雲の神官は小柄だが、態度といい、声といい、とても落ち着いている。どちらも明らかに子供のものではない。


「手伝っていただいたお陰で、シチューがもうすぐ出来上がります。ギアノさんの話も、さすがにそろそろ終わると思いますから」

 用意ができたらすぐに持ってくると言い残し、アデルミラが去って行く。


 あの小さく愛らしい姿で、自分と同じ年頃なのか。

 ようやくシュヴァルの言葉が追い付いてきたが、にわかには信じがたく、思わず唸ってしまう。


 やがて廊下の向こうから声が聞こえてきて、再びアデルミラが現れ、二人の食事を用意してくれた。

「やあ、レテウスさん、シュヴァル。随分待たせちゃったみたいで」

 ギアノも現れ、すぐそばの椅子を引いて座る。

「今日は見事に誰も残ってないんだ。せっかく来てくれたのに」

「いや、いいのだ」

「客はもう帰ったのか、ギアノ」

「客というか、新しい利用者だね。話の長い子でさ、趣味だの家族だの、随分詳しく教えてもらったよ」


 アデルミラは更に二人分の食事を持って来て、疲れた様子の管理人の前にも並べている。

 ギアノはそれに礼を言い、レテウスたちにも作業を手伝ってくれたことを感謝してくれた。


「レテウスさん、今日来てくれて良かった。実は昨日の夜にカッカー様と話をして、新しく作る探索初心者たちのための訓練所の講師を探しているって聞かされたんです」

「訓練所が出来るのか」

「新しい屋敷と呼んでいるけれど、実際の使われ方は訓練の為の場所になる予定なんです。実際に迷宮に入る前にある程度の知識や技術を身に着けられるよう、出来れば腕の良い講師を揃えたいとカッカー様は考えているらしくて」


 レテウスのことも伝えておいた、とギアノは言う。

 教える技術はこれからきっと上がっていくだろうからと笑っている。


「私にできるだろうか」

「すぐにって話じゃないから、心配しないで下さい」

 屋敷はまだ建てている最中で、完成まで少し時間がかかるらしい。

「地図を書いたり罠を外したりする方法って、教えてもらえるのか」

 シュヴァルがぼそりと呟いて、管理人は頷きながら答えた。

「スカウト技術ももちろん、講師を用意すると言っていたよ」

「その訓練所の話じゃなくて、教えてくれる奴は今ここにはいないのか」

「今の話か。そうだなあ、時間があればヴァージさんも来てくれそうだけど、カミルに頼めば早いかな」


 そこまで答えてから、ギアノはシュヴァルの問いの理由について考えたようだ。


「もしかして、探索しようと思ってる?」

 少年は素知らぬ顔でシチューを食べており、答えない。

「……スカウトは危険な役回りだよ。一番前を行くし、命を落とす可能性は高くなる」

 少しの沈黙の後に、ようやく少年は答えた。

「行くなんて言ってねえだろ」

「そう?」

「俺には面倒みなきゃなんねえ奴らがいるからな」

 こんな返答にギアノはほっとしたように笑っている。

「そうだよな。頼りにしているよ、親分」


 食事は終わり、片づけは任せて、レテウスたちは屋敷を後にした。

 さすがに連日夕食を集ることはできず、今日は自分たちで料理をするしかない。


 市場に寄って買い物をしなければ。買い物をするなら、なにを作るのかある程度決めておく必要があるだろう。

 昼はシチューを食べたから、夜は違う物にしたい。

 簡単に調理できるもの。なにが良いか考えながら歩いているうちに、そういえばアデルミラにいくつかヒントをもらったことを思い出していた。

 下拵えをしておけば、すぐに完成するもの。普段からやっておけば、食事の支度はぐっと楽になる……。

 いくつか教えてもらったはずだが、もう既に記憶から抜け落ちている物があった。

 隣を歩く記憶力の良い少年なら覚えているだろうか。


 レテウスはそう考え、隣へ問いかけようとしたのだが。


「おい、……おい!」


 突如、背後から声が響いた。

 貸家街へ続く道は大きくなくて、人通りが少ない。

 今は探索者も商売人も歩く時間帯ではないので、辺りには誰の姿もない。

 

 三男坊が声の方へ振り返ると、まだ少し離れたところから駆け寄ってくる男の姿が見えた。

 それは昨日の帰り道にわけのわからないことを言って来た男で間違いないが、名前は思い出せそうにない。

 レテウスが思わずシュヴァルへ目を向けると、少年は目を鋭く細めて男を見つめていた。


 立ち止まった二人の元へ、男は息を切らせながら近づいてきて、追いつくなりシュヴァルの腕を掴んだ。

「なんだよ。離せ」

「お前……、直属なのか。そんなに評価されているのかよ」

「なに言ってんだ、お前」


 男はレテウスに目もくれず、シュヴァルにまくしたてていく。


「俺はまだ仲間入りしたばっかりだから、いきなりは駄目だったんだ。ああ、しくじった! 結局無視されちまったよ、旦那に」

「旦那って誰だよ」

「そりゃあ、ジ……」


 男はそこではっとした顔を作ると、慌てて両手で自分の口を塞いだ。

 目をぎょろぎょろと動かして周囲の様子を窺い、来た道、逆方向を見やって、またシュヴァルに迫る。


「ノープの旦那か、その下だよ。いやもう、誰でも構わねえ。どこにいる?」

「ノープって誰だよ」

「え?」

 何度も腕だの肩だのを掴まれてうんざりしたのか、シュヴァルは不機嫌そうに答えている。

「なにを勘違いしてるのか知らねえが、俺は誰の手下でもないぞ」

「だって昨日、教えてくれたよな」

「なにを?」

「なにって、店……」


 男がどうして言葉を失ったのか、レテウスにはわからない。

 急に深刻な顔をして、抜けた歯の目立つ口を閉じ、身を縮めて立ちすくんでいる。

 そんな様子を見て、シュヴァルは肩をすくめてみせた。


「行こうぜ、眉毛」

「ああ……」


 歩きだした少年の隣に追いつき、並ぶ。

 シュヴァルは小さいのに歩くのが早い。

 並べばでこぼことして、シュヴァルの頭はレテウスの胸の下辺りで揺れるのが常だ。


 元通り貸家に向かって歩き出したので、市場に買い物に行こうと伝えなければならない。

 アデルミラに聞いたレシピを覚えているか、確認もしておくべきだろう。

 頭の中で台詞をまとめ始めたレテウスの耳に、背後から足音が、走る速度で近づいているのが聞こえて、振り返る。


 すぐ隣で、シュヴァルもまた振り返っていた。

 まだ十一歳の少年は出自も家族構成も謎で、どこでどんな風に育ってきたのかわからない。

 わからないが、とても鋭く、年齢に似合わぬ高い能力の持ち主だと言っていいだろう。


 けれど、次に起きることの予測まではついていない。

 どれだけ勘の鋭い人間だったとしても、未来を完全に予知することなど不可能だから。

 普段目にしている現実からはみ出すような意外なことが起きれば、事態を瞬時に把握できないのも仕方がない。


「うっ」


 弱々しい声がして、シュヴァルがよろけ、地面に倒れていく。

 手で押さえた腹の辺りはみるみる赤く染まって、地面にも黒い雨がぱらぱらと撒き散らされている。


 男の手には大きなナイフがあり、血でべったりと濡れていた。


「わあああ!」


 その刃は、レテウスにも振り上げられた。

 事態を把握できていなくても体は反射的に動いて、鋭い手刀の一撃で男はよろめき、凶器を地面の上に落としている。

 落ちたナイフ、刃についた血、そして倒れたシュヴァル。

 すべての情報が繋がって、異常なことが起きたのだと、三男坊はようやく悟る。


「貴様! なんの真似だ!」


 レテウス・バロットが腹の底から声をあげると、男は顔を歪めたまま逃げていってしまった。

 突然起きた事件に頭が混乱していたが、それも一瞬のこと。

 慌てて振り返り、倒れたシュヴァルを抱き起こす。


「シュヴァル!」

「馬鹿野郎、追え。……あいつをぶちのめしてこい」


 力のない声に、レテウスは激しく動揺していた。

 少年の腹からはとめどなく血が溢れでて、赤い染みを大きく広げている。


「あんなの、野放しにしちゃあ……」

 レテウスは着ていた上着を脱いで、傷口に巻き付けて強く縛った。

「しゃべるな、シュヴァル。すぐに神殿へ運ぶからな」

 その間にも少年の顔色はみるみる血の気を失って、青白くなっていく。

「しっかりしろ、私が見えるか」

「見えるぜ、そのぶっとい眉毛なら」

「大丈夫だ、神官たちに頼めばすぐに治る」


 巻きつけた上着にもあっという間に血が染み込んで、黒く染まっていく。

 レテウスはシュヴァルの体を抱き上げると、来た道へと走り出していた。


 全力で走っているのに、遅い。十一歳の体など重くはないのに、どうしてこんなにものろのろとしているのか。

 怒りと焦りで音が遠のいている。なのに、胸の音がやかましい。

 いつもより激しい鼓動に追い立てられるように足を動かし、レテウスは必死になって走る。


 樹木の神殿は大きい。

 建物には辿り着いたが、入口まではまだ遠い。


「シュヴァル、聞こえているか」

 少年の返事はなく、レテウスが慌てて視線を向けると、いつも鋭いはずの目は虚ろでどこも見ておらず、空ですら映していないように感じられた。

「馬鹿者! シュヴァル、起きろ!」

 大きく叫んで、走って、大通りへ。道の上にいる誰かにどいてくれと叫んで、神像の横の入口へ駆け込み、神官を呼んだ。

「誰か! 誰か来てくれ、怪我をしたんだ!」


 神殿の床の上にシュヴァルを寝かせて、手を貸すように頼む。

 すぐそばにいたのは神官ではなく、なんらかの用で訪れた客のようだ。

 レテウスの剣幕に驚いたようで視線を彷徨わせ、一緒になって神官を呼んでくれている。


「シュヴァル」

 腹から流れ出た血は、レテウスをも赤く染めていた。

 どちらが怪我人かわからなくなってしまいそうな程に、どちらの腹もびっしょりと濡れている。

 三男坊は額にじっとりと汗をかきながら、少年の手を掴んだ。


 息が浅い。血が止まらない。瞼が震えて、ゆっくりと力なく閉じていく。


「シュヴァル、しっかりしろ!」

「まゆげ……」

「今、神官が来る。目を閉じるな」


 頬を叩き、何度も何度も呼びかけていく。

 すると少年の目はうっすらと開いたが、唇の震えは止まらないし、返事は信じがたいほどに弱いものだった。


「世話、かけたな」

「なに?」

「いいんだ、もう。……これで、オンダと、……ドームに、会える」


 呼吸は既に、今にも途切れてしまいそうなほどに弱い。

 青い瞳に映った自分の戸惑う顔が見えた瞬間、レテウスの中で怒りが爆発して、シュヴァルの手を両手で強く掴んだ。


「馬鹿を言うな! 一番の子分だったその二人が、こんなに早い再会を喜ぶはずがない!」

 神の膝元で再び会うのなら、立派な大人の姿になってからでなければいけない。

 大きな声でシュヴァルの名を呼び、行っては駄目だと繰り返していく。


「レテウスさん、どうなさったんですか!」

 ふいに影が差して顔をあげると、アデルミラと樹木の神官の少女が青い顔をして立ちすくんでいた。


「いきなり刺されたんだ。シュヴァルが、知らない男に。頼む、早く助けてくれ!」

 アデルミラの隣にいた少女は「手当の用意を」と言い残し、慌てた様子で走り去っていく。

「手当? それでは間に合わない! 神官の奇跡の力を分け与えてくれ」


 ララは立ち止まったが、戻って来てはくれなかった。

 アデルミラも苦悩の表情で、両手を組んだまま。


「何故来てくれない? 神官たちよ、頼む、この子を助けてくれ」

 

 樹木の神殿の床は血で塗れ、そばに敷かれた緑色の絨毯の端を黒く汚している。

 少年はもう呼びかけに答えず、ただ、目を薄く開いたまま、浅く呼吸を繋いでいるだけ。


 これ以上はもう保たない。あまりにも血が多く流れ過ぎている。

 顔色は青を通り越し、暗い影が紛れ込んで、命の終わりを数え始めていた。


 摩訶不思議な縁で繋がった、赤の他人の生意気な少年。

 シュヴァル。

 正体は謎のまま、何故か暮らしを共にしてきた。

 勝手に子分にされて、日々、馬鹿にされていたように思う。顎でいいように扱き使われ、悔しい思いをさせられてきた。


 けれどウィルフレドからの大切な預かりものだから、命を救わなければならない。


 頭の中でぎゅんぎゅんとこれまでの思い出が駆け巡り、レテウスは慌てて首を振った。


 違う。今胸にあるのは、そんなどうでもいい思いだけではない。


「このまま死なせるわけにはいかない」


 確かに関係はとても歪だが、そんなことはどうでも良い。

 最早問題にならないほどの、些細なことだ。


「この子は少しばかり荒っぽいところがあるが、とても賢いんだ。私なんかよりもずっと賢くて、きっと立派な男になるだろうから。いや、私が教えて、しっかりとした大人になるよう育てる。シュヴァルは、これから先も長く、幸せに生きなければならない子なんだ。そう願う人間が私の他にも何人もいるから。……だから頼む、この子をどうか助けてくれ!」


 既に四人もできた新しい子分を、導かないまま消えてしまうつもりなのか。

 そんなことは許されない。駄目だと首を振りながら、レテウスは叫ぶ。


「シュヴァル、目を開けろ、今すぐに!」

「……アデルミラ、駄目だよ」


 叫んだ瞬間、三男坊の隣に少女が跪いて、シュヴァルへと手を伸ばした。


「あ、ギアノ! アデルミラが」

「なんだ? ……どうしたんだ、シュヴァル! レテウスさん!」

 なにかが落ちて激しく割れる音が響き、ギアノは現れるなり服を脱いでシュヴァルの腹に当てている。

「いきなり刺されたんだ」

「シュヴァルが、どうして?」

「わからない、そんなことは!」

「アデルミラ」


 樹木の神官の少女の声がして、アデルミラは歯をくいしばる。

 一瞬だけ、ちらりと管理人の横顔を見つめたが、意を決したように強い瞳を輝かせると、祈りの言葉を紡ぎ始めた。


「空を行く自由なる雲の神よ。その慈愛の力で、弱き者へ恵みの雨を降らせ、命の雫を分け与え給え」


 白い柔らかな光が神官の手のひらに集まり、シュヴァルの小さな体を包み込んでいく。


 レテウスはただ待つしかない。小さな手を握りしめて、癒しの力がシュヴァルを救うと信じるしかなかった。

 王都で通った鍛冶の神殿を思い出しながら、自らも祈りを捧げていく。

 剣を片手に堂々と立つ神像の形を瞼の裏に思い描いて、父の声を思い出していく。

 正しき者に、力を与えよ。強き者には、心を与えよ。

 レテウスも小さく声に出して、強く強く願っていく。


 何人もの男たちが守ろうとしてきた小さな命を、ここで消す訳にはいかない。


 似たような太い眉毛の男であったであろうオンダ、鋭い目で危機を予知したというドーム。

 自分の命と引き換えにしてでも、守り抜いた二人の宝。

 二人も、既に失われていたという母親も、シュヴァルとの再会を待ってはいるだろうけれど。

 けれどまだ早い。もっと多くを学び、より鋭く、強い意思をもった強い男になってからでなければ、喜んでもらえるはずがない。


「アデルミラ!」

 隣のギアノが立ち上がり、よろめいた神官を受け止めていた。

「大丈夫です。傷も、塞がりました」

 きっと、と小さな神官は言う。弱々しい声で、すっかり青い顔をしていたが、凛とした表情でレテウスに向けて頷いている。

「ああ、ありがとう。良かった、シュヴァル」


 長い間癒し続けて、力を使い果たしてしまったのかもしれない。

 すっかり汗だくになったアデルミラは、ギアノの手を借りてなんとか立ち上がっている。


「ララ、樹木の神殿で勝手な真似をしてしまってごめんなさい。キーレイさんが戻ってきたら、声をかけに来てくれませんか」

「……ごめんね、ごめんね、アデルミラ」

「いいえ、ララ。私が自分で決めたんです」

「ごめんなさい」


 ララが泣き出し、神官の少女たちは強く抱き合っているようだ。

 会話の内容はよくわからなくて気になるが、今はそれどころではない。

 レテウスはシュヴァルの頬に触れて、そっと抱き起こしていく。


「シュヴァル、聞こえるか?」

「傷を確認しよう」


 床の上で少年のぬくもりを確認していると、管理人が戻って来て、シュヴァルに巻かれた服をゆっくりとはがし始めた。


「ギアノ、手伝うよ」

 まだ若い少年のような神官がやって来て、並ぶ。

 もう一人がたらいを持ってきて、血に塗れたレテウスの上着はそこに放り入れられる。


「大丈夫そうだね。良かった、こんなに出血して、危ないところだった」

 ギアノの手も服も結局、真っ赤に染まってしまっている。

「レテウスさん、着替えを用意するよ。案内するから、洗い場を使って」

「しかし」

「シュヴァルの体もきれいにしてやらなきゃ」

 

 それに、神殿の入り口をいつまでも塞いでいるわけにはいかない。

 確かにその通りで、レテウスはシュヴァルを抱いて立ち上がった。


「シュクル、掃除を頼んでもいいかな」

「いいに決まっているよ。ギアノも早く体を洗って、着替えた方がいい」

「ああ、俺もか。うわ、酷いな。ロカ、少し手を貸してくれないか」

 樹木の神官たちは頼みを快く受け入れてくれたようだ。

 二人ともまだ若いが、シュクルと呼ばれた神官はたらいを抱えてもう走り出している。


 行きましょうと声をかけられ、隣へと続く通路へ向かう。

 神官に扉を開けてもらって、通り抜けて、管理人の部屋の隣へ案内されて。


「ここは回復が必要な人の為の部屋なんだ。シュヴァルはここで休ませよう。まずは体を拭いて、着替えさせてやらないと」


 ベッドの上に大きな布を何枚も重ねて、少年をそっと寝かせて。 

 シュヴァルの見守りはロカという名の神官が引き受けてくれたようだ。

 レテウスたちは裏庭の洗い場へ向かい、急いで汚れた服を脱いでいく。

 下履きまで血がしみ込んでいたことに気付いて、レテウスは驚き、息を吐きだしていた。


「癒しが間に合って、本当に良かった」

 鍛冶の神への感謝を呟く三男坊の隣で、管理人の表情は厳しい。

「どうかしたか、ギアノ」

「……いえ」

 そういえば、神官の少女たちの様子もおかしかったことと思い出して、レテウスは管理人へ問いかける。

「なにか問題が?」


 ギアノはしばらく黙って水を流し続けていたが、小さな声で、ぼそりと呟くように答えてくれた。


「この街で神官が癒していいのは、迷宮で受けた傷だけって決まりがあるんです」


 シュヴァルの傷は、街中で受けたもの。

 この決まりを破った者は、離れた街へ修行の為に送り出される。

 アデルミラは以前にも同じ経験があり、一度は故郷へ帰されていたことが語られる。


「では、彼女はすべてわかった上で?」


 ギアノは力なく頷くと、着替えを取りに行ってくると言い残して、水場から去って行った。


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