170 日々、馴染む
迷宮都市のとある貸家の住人は、毎朝早くに目を覚ましている。
鳥の囀りや鐘の音など、時間を報せるものはない。少なくとも、彼の住む貸家には聞こえない。
単純にこれまでの生活習慣の賜物で同じ時間に起きて、仕事のために出て行く同居人を見送るのがレテウス・バロットの朝の過ごし方だ。
勤勉な商人であるティーオは出て行ったが、大抵早くに出かけていくサークリュードはまだ真ん中のテーブルで朝食を食べている。
どこかしらに出かける日は朝食をとらないので、今日はのんびりと過ごすつもりなのだろう。
美しい同居人の青年の生態についてレテウスはこう理解していたが、今日は初めてのパターンの日であることが後にわかった。
「ねえレテウス」
そろそろシュヴァルの勉強を始めようと考える貴族の三男坊の前で、クリュはなぜかもじもじしている。
「なんだ、サークリュード」
「帽子を買いに行きたいんだけど、ついてきてくれないかな」
「私に?」
クリュはこくんと頷き、偉そうに座るシュヴァルにも目を向けている。
小さな親分は眉毛を片方だけ吊り上げて、二人の大人の様子を窺っている。
「買ってほしいのか、サークリュード」
「違うよ。お金は自分で出すに決まってるだろ。一緒に行ってほしいだけ」
「なにかあったのか、リュード」
唇を尖らせるクリュへ、レテウスよりも先にシュヴァルが問いかける。
金髪の美青年は少し躊躇いを見せたものの、同行を頼んだ理由を話してくれた。
「魔術師の屋敷の人間に探されてるらしくて」
「あの紫色の?」
「うん。コルフが教えてくれたんだ。俺のことを探してるから、あんまり近寄らない方がいいって」
「帽子を売る店なら、魔術師の住んでいる辺りではないだろう」
「そうなんだけど。魔術師の弟子って奴らが俺を探していてさ」
怖いからついてきてほしい。
クリュの願いはこんな単純なもので、レテウスは戸惑っていた。
「これまでは一人でどこにでも出かけていたではないか」
「探されてるなんて知らなかったんだもん」
突然髪を短くして帰ってきた理由についてクリュは語った。
迷宮の入り口付近で声をかけてきた少女がいたこと、コルフから事情を明かされたこと。
一昨日そう聞かされ、昨日一人で出かけてみたが、怖くなってしまって用事は果たせなかったらしい。
「俺の髪は目立つってコルフが言うから。だから、隠した方がいいと思うんだ」
「確かにな」
シュヴァルがぼそりと呟いて、しょうがねえなと立ち上がる。
「その魔術師の屋敷でなにかしたわけではないのだな、サークリュード」
「わからない。全然記憶にないから」
「では、問題を起こしたかもしれないのか?」
「酷いよ、レテウス。俺、悪いことなんかしないよ」
クリュの瞳に涙が浮かび、レテウスの敗北が決まる。
アダルツォなる元仲間には大変な迷惑をかけたらしいが、普段のクリュは少し図々しい程度で、自ら悪事を働くような人間だとは思えない。
なので結局出かける準備を進めて、着替えなどを済ませ、三人で家を出る。
探索者はよく服を駄目にする。破いたり痛めたりするので、上級者とよほどの洒落者以外には安い物が好まれる。
天井から落ちてくるタイプの敵や罠から身を守るための帽子類は売られているが、使い捨てを想定しているのか粗末な作りのものが多い。
なので今日は探索者向けではない南側の洋品店へ出かけたが、クリュの望むようなものはなかなか見つからなかった。
探索者以外の住人の為の店は、いくつかの種類に別れている。
金の余った商人用の高級店、街で働く女性たちの為の専門店、様々な商売用の作業服、こざっぱりとした店員向けの服などを扱う店だ。
クリュはしゃれた格好をしたいわけではなく、ちょうどよい頭を隠すものはなかなか見つからない。
いくつかの店を覗き、中を見て回り、とうとう「ただの洋品店」を見つけ出していた。
「いらっしゃいませ。なにをお探しですか」
若い男の店員が寄って来て、帽子を探すクリュに声をかけている。
レテウスがシュヴァルと共に店の入り口辺りで待っていると、ようやくお目当てのものを見つけたはずの美青年が早足で出てきて、慌てて後を追った。
「どうした、サークリュード」
「もう……、もう! なんでなんだよ!」
「落ち着け、リュード。なにも買わなかったのか」
「買わないよ、あんな店なんかで!」
どうやらお節介な店員に「そんなに綺麗な色の髪を隠すのはもったいない」としつこく言われたらしい。
荒々しい歩き方で先頭を歩いていたクリュだったが、急に立ち止まるとがっくりと項垂れ、大きなため息を吐きだしていた。
「なんで俺はこんな風なんだろう」
「サークリュード」
「いいな、レテウスは男らしくって」
ごく普通にしているだけで「喧嘩を売っているのか」と絡まれやすい三男坊は眉をひそめたが、「男らしい」の誉め言葉に少しだけ気を良くしている。
けれど、なんと返したらいいのかはわからない。
黙り込むレテウスの隣では、小さな親分が腕を組んでいた。
「布でも巻いておけばいいんじゃねえのか、リュード」
「布を?」
「布ならいくらでも売ってるだろ。お前の好きな色のモンを選んで、上手く巻けるよう練習すりゃあいいんだ」
自分の手下の中に、いつも派手な柄の布を頭に巻いて格好つけている奴がいた。
シュヴァルはぼそぼそと語り、クリュは興味を持ったらしく頷いている。
「どうやって巻くのかわかる?」
「知らねえ」
「……本当は知ってるんじゃないの」
「うるせえな。髪を隠したいんだろ。早く買いに行くぞ」
店を変えたのが良かったのか、クリュはいくつか布を選んで買ったようだ。
レテウスは街をぶらぶらと歩きながら時々辺りを見回しているが、不審な人物は見当たらない。
「腹が減ったな」
外出の目的が果たされた頃には、太陽は高いところに登り終わって輝いていた。
シュヴァルが呟いたからか、レテウスの腹もぐるぐると鳴っている。
「ギアノになにか食わせてもらうか」
どこかでなにか買うか、店に入るか。レテウスが提案する前に親分はこう言い、二人に視線を向けている。
「お菓子を作っていたらいいよね」
「菓子より飯だろ、リュード」
いきなり押しかけて良いだろうかとレテウスは思うが、ギアノに食事を用意してもらえれば間違いなく助かる。
食費も浮くし、味も良いし、片付けもしなくて済むの良い事尽くしで、三人は揃ってカッカーの屋敷へと向かった。
シュヴァルは躊躇なく扉を開けて廊下をずんずん進んでいき、二人の大人はそれにおとなしくついていく。
すぐにたどり着いた食堂には二人の男がいて、向かい合って座っていた。
「あれ、シュヴァル。レテウスさんも」
来客に気付いてギアノが立ち上がる。
向かいにいる男の顔を、レテウスは知っていた。
王都の騎士団に身を置いていたヘイリー・ダング。調査団員だった陰気なチェニーの兄で、溌溂とした性格で知られていたはずだが、管理人の向かいで座っているヘイリーの目は鋭く、表情には暗いものを感じさせられている。
「レテウス様」
目が合って、誰がやって来たのか気付いたのだろう。ヘイリーは慌てた様子で立ち上がり、シュヴァルは小さく笑ってレテウスの腰を叩いた。
「そうか、知り合いだったんですよね」
「ああ。話すのは初めてだが」
ヘイリーが深く頭を下げ、レテウスは頷いて答えた。
顔見知り程度だった間柄でしかなく、妹への印象や起きた不幸な出来事など、事情が絡まりあってなにから言えばいいのかよくわからない。
「取り込み中か? 飯を用意してもらいたくて来たんだ」
戸惑うレテウスに構わず、シュヴァルはギアノに声をかけている。
「今日はこのヘイリーさんがカッカー様……、この屋敷の主で、樹木の神殿の前神官長様に会いに来たんだ。話はもう終わったから、食事はまあ、ちょっと待ってもらえれば用意はできるけど」
ここは便利な食堂ではないんだよと管理人は言うが、小さな親分は「いいじゃねえか」で押し切るつもりのようだ。
「仕方ないな。ヘイリーさん、良ければ一緒にどうですか。俺もまだ伝えられていないことがあるので」
「いいのか、ギアノ・グリアド」
「もちろん。仕込みは済ませてあるから、すぐに用意できます」
ではお願いすると言って、ヘイリーは腰を下ろした。
少し離れた席にシュヴァルが座り、クリュはふらふらと廊下へ戻っていく。
「サークリュード、どこへ行くんだ」
「ちょっと」
どんなメニューが出てくるのか気になるのだろう。厨房を覗きに行っただけならすぐに戻ってくるはずで、レテウスはどこに腰を下ろそうか悩んだ。
「この街で暮らしていらっしゃるのですね」
ヘイリーに声をかけられ、レテウスは調査団員の制服に身を包んだ青年のそばの椅子を引いた。
「ああ。君は調査団に入ったのか?」
「はい」
「そうか。妹の話は聞いた。気の毒だったな」
元騎士の青年は目を伏せ、短い礼の言葉を囁く。
「レテウス様はチェニーと会ったそうですね」
「ああ。少しだけ調査団の世話になったから、その時に」
ひどくやつれていて、生気がなかった。
言えるのはこれくらいで、語ることなどなにもない。
「その子はレテウス様の縁戚なのですか?」
少しの沈黙の後にこんな問いを投げかけられて、レテウスは背後を振り返っている。
シュヴァルはいつも通りの澄ました顔で偉そうにふんぞり返って座っており、まずはきちんと腰かけるよう注意していく。
「そういった関係ではないのだが、訳があって私が養育している」
「養育?」
「ああ。もともとは人を探しにやって来たのだが」
ヘイリーは理解ができないといった顔をして、眉間に皺を寄せている。
「その方は見つかったのですか」
また、返事に困ってしまう。
なにからどう説明すればいいのか、考えれば考えるほどわからなくなっていく。
「ブルノー様を探しに来たのだ。王宮に仕えておられたブルノー・ルディスなる剣士を君は知っているだろうか?」
ならばもう、一から順に話していくしかない。
レテウスの頭ではこんな考えしか思いつかなかったが、そのお陰で事態は好転することになった。
「はい。一度だけですが、見かけたことがあります」
「そうか」
「樹木の神官長のご友人に、かなりよく似た方がおられるようですが」
「ウィルフレド殿に会ったのか?」
「神官長様に面会させていただいた時に、偶然いらっしゃったのです。チェニーと共に仕事をされたそうで、話をしてくださいました」
「君も似ていると思ったのだな」
「似ている……というより、同一人物としか思えませんでした」
ようやく自分の意見を理解できる人間が現れて、レテウスは喜びを抑えきれずに笑ってしまう。
「落ち着けよ、レテウス」
背後から親分に窘められ、思わず振り返ったが、その前にヘイリーが口を開いた。
「君、レテウス様になんという口の利き方をするんだ」
「はっ、随分と堅苦しい奴だな。ここは王都じゃねえ、貴族なんて身分も関係ない」
「なにを言う」
「ここじゃレテウスは俺の子分だぜ。図体ばっかりデカいただの十八歳の若造なんだ、お前もそんな話し方しなくていいぞ」
「子分?」
ヘイリーが驚いたのと同時に、ギアノがひょいと顔を出してシュヴァルを呼ぶ。
食事を運ぶ手伝いをするように言われて、文句を言いながらも厨房へ向かってしまった。
「なにがあったのです、レテウス様」
「いや……。あの子は少し」
「少し?」
「……変わった子供で」
いつの間にやら子分扱いされるのに慣れてしまっていた自分に気付いて、レテウスは愕然としていた。
考えてみれば正体も一切わからないまま、探りもしていない。
いくら口が立つからと言って、まだ十一歳の子供にしてやられすぎではないか。
「お待たせしました」
ショックを受けるレテウスのもとに、ギアノがクリュとシュヴァルを連れてやって来てテーブルに皿を並べ始めた。
管理人は手際よく必要なものをきれいに並べ、料理の良い香りが部屋の中に満ちていく。
どこからか滞在している初心者であろう若者もやって来て、離れた席を確保して食事の準備を始めている。
ギアノは客をもてなす為なのか、ヘイリーとレテウスのそばに座って料理の説明をしてくれた。
「どれも美味しそうだな。ギアノの故郷ってどこなんだっけ」
「カルレナンって港町だよ」
「そこの食事って美味しいものばかりなの?」
「海で採れたものの方が多く使われるから、これはカルレナン料理とはちょっと違うんだ」
「海かあ。見たことないな。川とは全然違うんだよね?」
意地悪な管理人と言っていたはずのクリュをいつ手なずけたのか、美青年はご機嫌でギアノに話しかけている。
シュヴァルについても不思議に思ったのだろうが、クリュの存在も謎なようで、ヘイリーはちらちらと視線を向けている。
レテウスも王都では味わえない料理に舌鼓を打って、昼食の時間は終わり。
いきなり飯を用意しろとやって来た親分に片付けをするよう言って、ギアノはヘイリーと共に奥の部屋へ去っていってしまった。
「あの赤毛の女はいねえのかよ」
シュヴァルは文句を言いながらも、クリュと一緒に皿を洗っている。
レテウスが厨房の入り口付近でその様子を眺めていると、背後から声をかけられ、振り返った。
「あ、あの……。ウィルフレドさんと立ち会いをしていた人ですよね?」
探索初心者らしい若者が三人いて、おどおどしながらもレテウスへ問いかける。
「ああ、一度だけだが」
「あなたも剣の指導をしてくれるんでしょうか?」
「私が?」
眉間に力を入れた瞬間、三人はいっせいに下がっていってしまった。
「すまない、怒っているように見えるだろうか。私はこういう顔なだけで、決して怒っているわけではないのだ」
「本当ですか」
「本当だとも」
そんなに恐ろしく見えるのかと傷つきながら、なるべく穏やかな表情を作り出していく。
レテウス自身にはうまくできているかわからなかったが、自分なりの優しさをイメージしながら顔の力を抑えていった。
すると効果があったのか、若者たちは目をきらりと光らせ、意外な言葉をレテウスに放った。
「ウィルフレドさんが、あなたはちゃんと基礎から学んでいる良い剣の使い手だと話していたんです」
心の奥底から湧き出した感動に圧倒されてしまい、若者たちへの返事ができない。
ウィルフレドは自分がブルノーだと認めてはくれないが、憧れの人であることは間違いがなく、知らされた誉め言葉に体を震わせている。
「あなたに教えてもらえればきっと剣が上達するって言われました」
「ウィルフレド様がそう仰っていたのか」
「ええ、……っと。もしかして、ウィルフレドさんって偉い人なんですか?」
偉い人ではないが、偉大な人物ではある。
これをどう説明すればいいのかわからず、レテウスは気合の入った顔で唸り、また若者を驚かせていた。
「やっぱり駄目ですか」
「なにがだろうか?」
「剣の指導を」
若者の声は小さくなっていって、語尾はまったく聞こえない。
「教えてやれよ、レテウス」
厨房の奥からシュヴァルの声が聞こえてきて、三男坊はようやく理解していた。
「私に教えてほしいというのか、君たちは」
「そう言ってんだろ? 鈍い奴だな、本当に」
片づけが済んだのか小さな親分が出てきて、若者たちへ問いかける。
「今からやるのか。飯を食ったばかりなら、すぐにやらねえ方がいいか」
謎の子供が出てきて戸惑っているのだろう、若者三人はひそひそと話し合っていたが、どうやら前向きな結論が出せたようだ。
「じゃあ、準備をします」
裏庭を片付け、必要なものを用意するので、すべて完了したら声をかける。
三人はそれぞれ、パント、クレイ、フレスと名乗り、備品置き場へと走っていった。
足音が響いて、厨房からクリュが顔を出し、ちょこんと斜めに傾いていく。
「ちょっとシュヴァル、まだ終わってないよ」
少年は「けっ」と言うだけで答えず、美青年は口を尖らせた。だが、その前に交わされていた会話を聞いていたようで、こんな問いをレテウスに向けて投げた。
「レテウスが剣を教えるの?」
頷きながら、貴族の三男坊ははたと気付く。
「……引き受けてしまったが、できるだろうか」
「あのヒゲオヤジが認めたんだ。お前ならできるってことだろう」
シュヴァルの言葉であっさりと気を良くしたレテウスに、クリュも笑っている。
「俺も教えてもらおうかなあ。レテウス、想像していたよりもずっとすごかったし」
「そうか」
「うん。剣なんか飾りで持っているだけだろうと思ってたのに」
「酷いことを言う、サークリュード。共に迷宮に行った時に見ただろう」
ほんの少しだけだが、迷宮の中に共に踏み入って魔法生物と戦ったのに。
レテウスはそう考えたが、兎だの鼠だの相手ではとても実力を発揮できたとは言い難いのではないかと気付いていた。
迷宮に潜む敵はどれも小さな獣ばかりで、戦士や騎士相手に剣を磨いてきたレテウスには未知の戦いだったと言っていいだろう。
「私の剣は強者を相手にしてこそ発揮されるものなのだ」
三男坊がせっかくきりりと決めたのに、クリュの姿はなかった。
シュヴァルもいないし、若者三人組は用意の為に行ったきりまだ戻っていない。
仕方なくレテウスは記憶を頼りに裏庭へ続く扉を探して、練習会場へ向かう。
パントたちが片づけを進めている様子を眺めていると、クリュとシュヴァルもやって来てレテウスの隣に並んだ。
だがただ待つのは面白くなかったのか、小さな親分は道具置き場を覗き、中を漁っている。
「なんだ、これは」
小さいのにやたらと迫力のある少年の声に、三人は一斉に振り返る。
「あれ、なんだったっけ?」
「見たことあるぞ。説明してもらったよな、クレイ」
「してもらった。ええと、確か、罠を外す練習をするための道具だったかな?」
「これで練習できるのか?」
木の板にごちゃごちゃとなにかが付いているが、レテウスからは練習用の道具の様子は詳しくは見えない。
「頼んだら教えてもらえるって言っていたよね」
「ギアノに聞いたらわかると思うよ」
「ありがとよ」
シュヴァルは謎の道具を抱えて戻ってくると、裏庭の隅にある丸太に腰かけ、さっそくいじり始めている。
クリュも興味を惹かれたのか、そばに行って様子を見ているようだ。
「用意できました」
若者たちから声をかけられ、レテウスは頷いて答えた。
上着を脱いでクリュに預け、庭の真ん中に進んで練習用の剣を受け取り、そして、また悩む。
剣の扱い方を教えるとして、なにから始めたらいいのだろう、と。
「どうしたの、レテウス。そんな顔して」
膝に上着を乗せたまま、遠くからクリュが問いかけてくる。
「いや、なにから始めたらいいのかと思ってな」
「どのくらい使えるのか、とりあえず見せてもらったらいいんじゃないの」
それもそうかと納得して、パントたちに剣を何回か振るように言う。
三人とも一生懸命にやっているが、体の使い方がまずなっていない。
そこまではわかる。だが、どう指導したらいいのかがわからない。
見本を見せてみても当然同じようにはやれないし、表現のへたくそなレテウスの言葉は伝わりにくいようで、若者たちは困った顔をし、怒り顔に恐れを抱き始めているようだ。
とうとう裏庭は沈黙に包まれ、居たたまれない空気が満ちていったのだが。
「レテウス」
声をかけられ振り返ると、シュヴァルが近づいてきて初心者三人組へ声をかけた。
「お前ら、こいつは腕はいいがしゃべるのは下手クソなんだ。でも聞かれたことは馬鹿正直に話すから、そっちからわからねえことを聞いてやってくれないか」
シュヴァルの言葉に納得がいかない部分はあるが、反論するのも難しい。
レテウスは悩みすぎてこれまでで一番の恐ろしい顔をしていたが、パントが勇気を振り絞って前に進んだ。
「レテウスさん」
三男坊と目が合うと、若者の額には汗が浮かび、顔色も蒼くなっていく。
震えるパントにもなんと言ったらいいのかわからない。そんなレテウスの尻を、シュヴァルは音がするほど強く叩いた。
「偉そうなしゃべり方をするが、こいつはまだ十八だ。年はそんなに変わらねえだろ。顔は本人の言う通りこういう造りなだけで、悪い奴じゃねえ。遠慮せずになんでも聞け」
シュヴァルの方がよほど偉そうなしゃべり方をするとレテウスは思ったが、まだ体の小さな少年の言葉に安心したのか、パントはようやく質問を口にしていった。
「その、……振り下ろす時に、どうしても、剣が左に流れちゃうんです」
「なるほど。では、一度やってみせてくれ」
パントが剣を振るが、遅い。剣に振り回されて体がよろけて、戦うどころではない。
どうしてそんなにも不安定なのかレテウスには理解ができず、指導ははかどらなかった。
パントの様子を見て残りの二人もあれこれと悩みを打ち明け、どう解決するかレテウスは考えたが、わからなくて体が斜めに傾いていく。
どこか諦めの空気が流れ始めて、三人からもう終わりにしましょうと申し出られて、稽古は終わった。
役に立てなかったとレテウスは思い、肩を落としている。
パントたちは片付けの為に道具を集め、所定の場所にしまっており、貴族の三男坊の仕事はもうない。
気が付けば連れの二人の姿も見当たらず、レテウスは戸惑いながら屋敷の中に入り親分たちの姿を探した。
「ここにいたのか」
微かに声が聞こえてきて、管理人の部屋に入るとシュヴァルたちの姿があった。
クリュは買った布を頭に巻いて、にこにこと微笑んでいる。
「あ、レテウス。ギアノが巻き方を教えてくれたんだ」
海の男風だよと言いながらくるりと回って、クリュは上機嫌なようだ。
「そうか。良かったな、サークリュード」
「レテウスさん、剣の使い方を教えてくれたんでしょう」
なんでもできる管理人は若者への指導への礼を言ってくるが、三男坊の心は複雑だった。
「いや、役に立てたかどうか」
「確かにな」
反省する青年に対し、小さな親分は手厳しい。ギアノは首を傾げて、なにか問題があったのかシュヴァルに問いかけている。
「教えるのが下手クソなんだよ、こいつは」
「仕方がないだろう。人に教えるなど初めてだったのだから」
「大体、土台が違うんだ。そういうことに気付かなきゃ、教えるのは無理かもしれねえな」
管理人の部屋の中で一番いい椅子に座ってふんぞり返るシュヴァルの言葉が、すんなりと入ってこない。
黙りこくるレテウスへ、親分はふふんと鼻で笑った。
「お前は小さい頃からずっと剣を振ってきたんだろうが、あいつらはそうじゃねえ。この街にふらっと来て、あの穴倉に入るために慌てて武器の使い方を覚えてんだよ」
「土台が違うというのは、そういう意味か」
「眉毛は体が大きいし、その道の人間にずっと教わってきたんだろ。あのヒゲオヤジとやりあえる程だ。ド素人の悩みなんざ、想像がつくわけがねえ]
クリュとギアノは感心した様子でシュヴァルを見つめ、レテウスはようやく理解が追い付いて頷いていた。
「そうだ。確かに、彼らがなぜまっすぐに剣を振れないのか、よくわからなかった」
では、自分には剣の指導など無理なのだろうか。
レテウスはしゅんと落ち込んだが、管理人の表情は明るい。
「なら、子供の頃に教わっていたことを思い出したらいいんじゃないかな」
「子供の頃?」
「レテウスさんだって最初から今みたいに出来た訳ではないでしょ」
記憶を探り、幼かった日々まで辿っていく。
自在に馬を駆り、剣を見事に扱う長兄に憧れ、自分もああなりたいと強く思っていた。
次兄と共に父に教わり、城仕えの騎士に学んだ日々について思い出していく。
「最初のうちは練習用の軽いものをひたすらに振っていた。毎日、朝から晩まで」
「そんなところから始めると、時間がかかりすぎちゃうんじゃない?」
確かに、クリュの言う通り。そもそも子供の頃の自分と、既に成長した若者たちとでは始め方も違っていて当たり前だろう。
「サークリュードはどうやって剣を扱えるようになったんだ」
「俺は別に……。見様見真似でなんとかやってるだけだよ」
「ギアノは? 剣を扱えるのか」
ふいに問われて、管理人は少しの思案の後に答えてくれた。
「故郷に居る時は猟の手伝いをしていたから、それが役に立っているのかも」
「そうか。迷宮の中で戦うのは獣のような敵だったな」
「全部が全部動物の形ってわけではなくて、石でできた人形なんてのもいるらしいですよ。魚もいるし」
「魚が?」
「『青』にしかいないみたいだから、初心者は出会わないと思うけど」
迷宮で泳ぐ魚の話にクリュが驚き、ギアノにあれこれと質問を投げている。
獲るだけでも危険だし、食べると恐ろしく不味いと説明され、がっかりしているようだ。
「レテウスさん、よければまた剣の指導に付き合ってやってください」
ギアノは穏やかな顔で微笑んでいるが、シュヴァルの表情は厳しい。
「金になりゃあいいのにな」
「うーん、お金はちょっと難しいな。他に教えに来てくれる人たちにも払っていないし」
管理人は苦笑いをしていたが、四人分の食事を用意し、お土産として持たせてくれた。
現金も欲しいが、食事の用意を二回しなくて済んだのは十分ありがたい。
三人で並んで貸家へ向かって歩きながら、今日は何のために外に出たのか、レテウスはようやく思い出していた。
クリュの髪は巻いた青い布で隠されていて見えなくなり、輝きは封印されている。
複雑な思いがぐるぐると渦巻いていたが、当初の目的は無事に果たされたのだから。
細かな出来事がたくさん起きてレテウスの心を乱していたが、問題はひとつ解決されたのだと考えれば安心感が湧き上がって来て、単純な三男坊は帰り着いた頃にはすっかり上機嫌になっていた。




