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12 Gates City  作者: 澤群キョウ
  X13-B_Scheme of Magicians

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169/244

162 闇夜、濁流 2

 廃屋から出ると、路地の向こうに大勢人が集まっているのがわかった。

 空が赤く染まっている部分があり、水を運べと叫ぶ声が時々聞こえてくる。


 今いるところは火事の現場からはまだ遠く、溢れているのは騒ぎで飛び出してきただけの若者たちだ。

 どんな状態なのかわからないので、外に出たはいいが、不安を口にするくらいしかやることはない。

 そんな若者たちが大勢いて道を埋め尽くしており、先に進むことはできなくなっている。


「どうなってるんだ、みんな燃えちまうのか?」

「大丈夫さ。そんなに広がるとは思えないよ」


 安宿の外壁は大抵が石でできているが、宿の看板や窓枠、外に放り出されていた桶だのなんだの、炎が移るものもある。

 隠れ家に使っていた宿の窓は木で塞いでいたから、あそこはよく燃えたのではないかとヘリスは考える。


 どこから出てくるのか、狭い道には更に人が溢れていく。

 どこに向かうにも、この細い道を抜けなければならないのに。

 ジュスタンが出て来てからでは遅い。ヘリスを追うのが先か、死体の始末を済ませるのが先か、どちらにする気なのかわからないが、ずっとあそこに留まり続けることなどないだろうから。


「通してくれ」

 通りを塞ぐ若者の隙間に無理矢理入り込んでいく。

「おい、火事が起きてるんだぞ」

「押すなよ」

 ヘリスはなんとか抜けようとしたが、路地を埋める群衆の中にやけに勘の良い者がいたらしく、こんな声があがった。


「お前、どこから来たんだ? あっちに店はないはずだろう」


 なんとか人波をかき分けて進んでいたヘリスの肩が、強い力で掴まれる。

 トラブルの気配を感じたのか、周囲にいた人間はさっと離れていき、ぶつかられた者からまた文句の声が上がった。


「空き家だの廃宿だのに出入りしている奴らがいるっていうが、お前なのか」

「いや、違う。たまたま向こうにいただけだよ」

「本当か? あっちはやってない店だけだし、行き止まりになってるのに」

 夜になったら真っ暗になる場所で、行く理由などないはずだ。

 勘の鋭い男がこうまくしたて、周囲の人間もヘリスへ疑惑の目を向けている。

「本当になんでもないんだ。間違えて迷い込んで、その、ちょっと休んでたんだよ」

「休むところなんかないぞ」

「行き止まりで座ってたんだ」

「あんなに暗いところで?」


 盗みに入ろうとしていたのではないか。

 男がはっきりと疑いを口にしたせいで、周囲の人間の目も変わっていく。


「火事に紛れてなにをしようってんだ」

「人でなし!」

 

 ヘリスは慌てて逃げようとしたが、大勢に囲まれていて身動きができない。

 ほとんどが探索初心者か商人であろう「素人」の集まりだが、人数が多すぎる。

 騒ぎを聞きつけて更に人が集まり、ヘリスを囲む。

 最初に疑念の声を上げた若者に胸元を掴まれ、力づくで逃げ出すという選択肢はなくなってしまった。


「盗みなんかしていない。頼む、離してくれ」

 このままではジュスタンが来てしまう。今、男に掴まれているせいで見えない後ろ側から、建物の陰になっている闇の中から、あの髭の男がやって来てしまう。

 集団のどんな決まりも罰も関係ない。とにかくここから逃げ出さなければならない。

 一文無しだろうがこの街から出て、嫌でたまらなかったはずの故郷に戻りたくて仕方がなかった。


 夢は破れたきりで、そのまんま。

 一度は諦めた自分でも、たくさんのものが得られるのではないかと思っていたけれど。

 命がなくては意味がない。

 いつも通りの顔と声でいくつもの命をあっさりと摘み取り、火をくべる男から逃れなくては、夢すら見られなくなってしまう。


「追われてるんだ。逃げなきゃ、殺されちまうんだよ」

 震えながら懇願してみたが、青年の反応は極めて悪い。

「認めるんだな、悪事を働いていたって」

「違う。俺はなにもしてない」

「なにもしていない奴が追われるもんか」


 いちかばちか、力尽くで逃げるしかないか。

 自分の胸倉を掴む男を振り払おうとヘリスは決意を固めたが、次の瞬間、悲鳴が上がった。


「うわあ!」

「危ない!」


 掴まれていた手が離れ、突き飛ばされてヘリスは側にあった建物の壁にぶつかって、よろけた。

 悲鳴を聞きつけた者たちも事態に気が付いたらしく、路地の先へ逃げようとして叫んでいる。


「どけ、どけ!」

「ナイフを持ってる!」

「あっちも火事だ!」


 ヘリスの目の前には、大きなナイフを手にしたジュスタンが立っていた。

 真っ暗だった行き止まりには、炎の放つ赤い光がちらちらと踊っている。


「ジマシュの指示なのか」

 ヘリスの問いに、ジュスタンはなんの反応も見せない。

「まさか、お前が勝手にやったのか?」

「……みんな俺を困らせるから」

 ぼそぼそと囁くような声が聞こえたが、理解できない。

「俺を困らせる奴らはいらない」

「困らせるってなんだよ」

 だから命を奪ったのか? 

 ヘリスの問いに、ジュスタンは力強く頷いている。

「これが正義だ」

「正義だと? ジマシュは」

「あいつもだ。あいつが一番だよ、ずっとずっと俺を困らせている!」

 声は大きいのに、表情には変化がない。

「なにを言ってるんだよ、ジュスタン」

 髭の大男はやたらと静かだが、手に持ったナイフは血で濡れている。

 今も刃先から赤い雫を滴らせ、暗い路地に男たちの命のかけらを振りまいている。


 あまりにも異常な様子を見せるジュスタンに、ヘリスの理解は追いつかない。

 仲間を殺したことにすらなんの感情もなさそうで、恐ろしくてたまらない。

 とにかく、ここから逃げたくてたまらなかった。

 路地を塞いでいた若者たちは今、二人を遠巻きにして囲んでいる。

 どこかに逃げられる隙間がないか目で探るが、見つからない。ジュスタンから目を離す訳にもいかないし、視線をどこに向けたらいいかわからず、頭が混乱していく。

 

 ヘリスがおろおろしていたのはほんの一瞬。

 長い長い一瞬だった。

 その一瞬のうちにどうしたらいいのか悩み、視線を彷徨わせ、最後にジュスタンと目があってしまう。

 しまったと思った。

 けれどもう、どうしようもない。

 

「ああ、お前もだったのか、ヘリス」

 言い終わると同時に刃が振り下ろされて、ヘリスは慌てて避けた。

 二人が争い始めたことで悲鳴があがり、道を塞ぐ者が引き倒され、小競り合いが始まってしまう。

「やめてくれ! 俺は」


 髭の男は次の一撃を繰り出し、ヘリスの言葉など聞く気はないと示した。

 ジュスタンを困らせたことは、きっとあったのだと思う。些細なミスならいくつもしてきたから。

 みんなそうだ。指示を守らなかったり、時には軽くサボったりしていた。けれど。


「殺されなきゃいけないほどなのかよ!」

 ナイフを避けながら、ヘリスは叫ぶ。狭い路地をよろめきながら進み、逃げ場のない若者たちが悲鳴をあげる。


 廃屋からあがった炎はいつの間にか大きくなって、暗い道を赤く照らしていた。

 行き止まりには不要になった物があれこれ置かれていたから、それに燃え移ったのかもしれない。


 路地の先を目指してヘリスが走り出すと、更に大きな悲鳴があがった。

 来るな、やめろと声があがり、「宿の中に逃げろ」と叫ぶ者が現れ、大勢が扉に殺到していく。

 開かない扉もあったし、誰かが入ってすぐに閉めようとし、揉める若者たちもいた。

 けれどこれで路地から人は減った。

 ヘリスは逃げようとし、もちろんジュスタンが追ってくる。

 大男の振り下ろしたナイフに背中を切り裂かれて、悲鳴を上げながら倒れてしまう。


 人を襲っている者がいることが明らかになり、騒ぎは路地の向こう側まで広がっていく。

 火事に夢中になっていた若者たちは驚き、混乱し、逃げろと叫んでいる。

 道の先からはますます人が減った。

 これで逃げられるかもしれないが、背中が痛む。

 ジュスタンは無傷のままで、またナイフを振り上げている。


 ヘリスが体を捻って襲撃を避けると、手に触れたものがあり、それを掴んで思い切り叩きつけた。

 落ちていた木の棒の正体はわからないが、たいして太いものではなく、ジュスタンの腕にぶつかると折れてしまったようだ。

 けれどそれで、ナイフは落ちた。

 飛びついて、掴んで、転がって、立ち上がる。

 大声で吠えながら襲い掛かって来たジュスタンに、急いで構えて、反撃を食らわせる。


 髭の男は手のひらを切り裂かれ、思い切り叫んだ。

 耳を塞ぎたくなるほどに大きな声をあげて、ヘリスは慄き、更にナイフを繰り出していく。


「黙れよ、黙れ!」


 夢中で傷を負わせていくと、ジュスタンの体はようやく崩れ落ち、地面に伏した。

 だが、ヘリスの足を掴み、噛みついてきて、戦いは終わらない。

 痛みのあまり、ナイフを落とし、叫ぶ。と同時に、突然世界が激しく揺れた。


「やったぞ!」

「取り押さえろ!」


 視界が一気に霞んで、見えなくなっていく。

 景色は角度を変え、いつの間にか目の前にあるのは足ばかりになっていた。

 倒れて動けない体に何度か衝撃が加えられたが、もはや痛みすら感じられなくなっている。

 棒かなにかで殴られているのだろうとヘリスがぼんやり考えていると、ジュスタンが目の前に落ちて来て、口から大量に血を吐き出すのが見えた。


 なんらかの音がしているのはわかる。

 けれど、ぼやぼやとしていて何の音なのかわからない。

 辺りがみるみる暗くなっていって、火事は収まったのだろうかとヘリスは思った。

 迷宮都市の北東、王都へ続く大門の近くの、みすぼらしい宿ばかりが並ぶ場所で。

 すべての色が失われていく。

 痛みはないが、ひどく寒かった。

 自分を包み込む静けさが酷く寂しくて、ヘリスの目から涙が零れていく。

 

 世界のすべてがぼやけて消えていこうとする中、するりと影が落ちてくる。

 誰かが自分の顔を覗き込んでいると、最後にわかる。


 鬼気迫る顔の主を、ヘリスはよく知っていた。

 

「許して……」


 やはり、あんな真似はするべきではなかったのだ。

 男たちに声をかけ、次々に関係を持ち、相手の物を奪うふしだらな女などではなかったのだから。

 深い後悔に襲われ、ヘリスは何度も何度も目の前の男に詫びていく。

 けれどその声はほとんど形にならず、迷宮都市の裏路地の闇に溶けて消えていった。





 

 街の北東付近で騒ぎが起きていると伝えられ、夜遅くに寮を飛び出し、ヘイリー・ダングは路地にあふれ出た若者たちに指示を出していた。

 制服を着た人間の登場に探索初心者たちはほっとした様子で、水を運ぶ手伝いに精を出している。

 大勢いすぎても邪魔だからと野次馬たちは追いやられ、共同の水場から汲まれた水が次々と運ばれていた。


 火元になった廃宿の炎はなかなか収まらない。

 なにか理由があるのではないかと考えていると、人が襲われているという報告が届き、奥まった路地の先にやって来ていた。


 どうやら、細い道の先でも火事が起きているようだ。窓を木で塞いでいたのか、炎が噴き出している箇所がある。

 そして道の上には男が二人、血を流して倒れていた。


「ダング調査官!」

「なんだ、ガラン」

 こちらにも水を運ぶ協力者が必要だと考えるヘイリーに、ガランは道の先を指さし、こんな報告をした。

「魔術師がいます。協力してもらえば、火を鎮めてもらえるかもしれません」

「魔術師?」

「以前、調査団に新しく発見したものを持ち込みに来られた方です。とても有名な探索者と一緒に来ていたので、それなりの腕の持ち主ではないかと」

「こんな場所に、腕の良い魔術師など通りかかるか? 人違いではないのか」

「人違いなんてしようのないお方です。それに、ここにいる理由なんてどうでもいいじゃないですか。緊急事態なのですから、とにかく頼んでみましょうよ」


 ちまちま運ぶよりも、魔術師に水を出してもらった方が圧倒的に速く済むはずだとガランは言う。

 魔術師などろくに会ったことのない人種だし、彼らの使う力も見たことがない。

 「橙」に行った時に魔術師は同行していたが、彼が出るまでもなく探索は終わってしまった。


 半信半疑のままガランの後をついていくと、野次馬の先、建物の陰にひっそりと佇んでいる人物がいた。

 黒い肌に、黒い髪。瞳と着ているローブの色は青紫色だが、その人物に気付いた瞬間、暗がりにくっきりと姿が浮き上がったような気がしている。


 大きな瞳といい、微笑んだような形の唇といい、信じられないほどに美しい。

 こんなにも美しい女性がいるのかと思ったし、浅黒い色の肌も初めて目にしていた。

 ガランが「人違いなどしようがない」と言った理由がよくわかる。


「あの、突然申し訳ありません。魔術師様」

 ガランの呼びかけに、大きな瞳が向けられる。

「何故、魔術師と呼ぶ。どこかで会ったか?」

「我々は王都の調査団の者です。以前、無彩の魔術師と共にいらしていたのを見かけまして」

「ああ。確かに一度、訪ねたな」

 黒い肌の魔術師はゆっくりと頷き、ガランに促されてヘイリーは前へ進んだ。

「私は迷宮調査団員で、ヘイリー・ダングと申します。今、この奥で火災が起きていて」

「火を収める手伝いをしてほしい?」

「ええ」

 まっすぐにヘイリーの顔を見つめたまま、美しい顔は小さく頷く。

「いいだろう」

 案内するよう言われて、路地の奥へと向かう。

 倒れている二人の男の傍らには、様子を見張るためなのか若者が何人か立っている。

 なにか言いたげな様子の若者たちに少し待つように言い、路地の突き当りまで魔術師を案内していく。


「魔術の力で消せるでしょうか」

「造作もないことだ」


 魔術師は神秘的な美しさを持っているが、受け答えはちっとも可憐ではなかった。

 だがその分、頼もしい。ずばりと言ってのけ、周囲に人を寄せないよう、近くに誰か潜んでいないか声をかけろと指示を出している。

 ヘイリーは消火のための魔術が使われると呼びかけ、近くにあった建物の扉を叩いて回った。

 呼びかけに応じて出てくる者はいないが、仕方がない。

 火を消すよう頼んで、ガランと揃って二人の男が倒れている辺りまで下がる。


 男たちの様子も気になるが、まずは火が本当に消えるか確かめるべきだろう。

 自主的に見張りをしてくれている若者に任せ、ヘイリーは魔術師の様子を見つめた。

 王都にも魔術師はいるが、彼らの仕事を見たことはない。なにができるのか、どのように振舞うのかも知らない。

 迷宮都市には王都よりも多く魔術師がいるが、彼らは街中で力を使わないようだった。

 仕事場か、迷宮の中だけ。そんな決まりがあるような話をガランから聞かされている。


 黒い肌の魔術師はヘイリーから離れたところに立ち、ほんの少しだけゆらりと手を動かすと、くるりと振り返った。

「消したぞ」

 確かに、窓から噴き出していた炎は掻き消えていった。街の片隅を照らしていた光も消えて、路地の向こうは闇に閉ざされていく。

 うっすらと白いもやが見えているのは、煙なのだろうか。わからないし、一瞬の出来事すぎて戸惑ってしまう。

「近づかん方がいい。まだ熱が残っているからな」

「どうやって火を消したのです」

「水を撒くと思ったか?」

「違うのですね」

 魔術師は小さく笑い、調査団員の背後に倒れる男を指さしている。

「あやつらはどうした。何故あんなところに倒れている?」

「私もここに駆けつけたばかりで、事情はこれから聞くのです」

「この街では刃傷沙汰など起きないと聞いていたが」


 倒れている二人は傷だらけで、どちらも頭から血を流している。

 駆けつけた時と今とで、状況はなにも変わっていない。

 二人を見張っていた若者たちは応急処置などは一切しなかったようで、頼むべきだったかとヘイリーは少し後悔していた。


「ここでなにがあったのか、君たちは見ていたのか」

「ああ。そいつがナイフを振り回してたんだよ」

「そっちじゃないぞ。追われてるって逃げて来たんだからな」

 その場に残っていた若者たちは口々に自分の目撃したものを報告してきて、ガランが一度黙るように声をかけていく。

「順番に聞いた方が良さそうです」

「ああ……」

「どうかしましたか、ダング調査官」


 細身の男は仰向けだが、大男はうつ伏せになって倒れている。

 生死を確認するべく、ガランの手を借りて仰向けにし、道の上に二人を並べた。

 

 細身の男は頭に大きな傷が出来ていて、うっすらと目を開いたままぴくりとも動かない。

 頬に涙の流れた痕がついていて、哀れを誘う。


 大男の顔は髭に覆われていて、こちらも目をうっすらと開いている。

 瞳から光は消えてすっかり虚ろだが、その顔に記憶を刺激されてヘイリーはこう呟いた。


「見た顔だ」

「本当ですか?」

「……街を歩いている時に話しかけてきたんだ。調査団で仕事がないか、雇ってほしいと頼んできた男だと思う」


 スタンと名乗っていたはずだ。とはいえ、男について知っていることなど他にはない。

 スタンもまた、頭に怪我をしている。手にも傷があり、激しい争いがあったのは間違いないだろう。


「この二人が争いあっていたのか。それとも、他に誰かいたのか」

 ヘイリーが若者たちへ問いかけると、一人が手を挙げ、話し始めた。

「いいえ、いないと思います。そっちの細い方があの奥から逃げて来て、その時はこの辺りは人でぎゅうぎゅうで」

「その髭が襲い掛かっていたんだよ、俺は見たぞ」

「細い方がナイフを持って暴れてなかったか?」

「大男の方が襲われてたと思うけど……」

 後から口を出してきた青年が、突然悲鳴を上げてヘイリーの視界から消えていった。

 他の若者たちも「うわあ」と叫んで後ずさっていく。

「ダング調査官!」

 ガランの指さす先で、異変が起きていた。

 倒れたままのスタンは目をかっと開いており、傷だらけの右手を持ち上げようとしている。

「おい、なにがあったんだ」

 ヘイリーは即座に膝をつき、髭の男に問いかける。だが、大きく開いた目はどこか遠いところへ向けられており、返事も意味不明のこんなものだった。


「……女神様。俺ぁ、やりました……。……けは、まだ……ってい……ど……」


 スタンと名乗った男の口には笑みが浮かんでおり、満足げな表情を作ると、手はぱたりと地面に落ちてしまった。

 男の命は尽きてしまったようだ。

 ヘイリーが立ち上がると、すぐ隣には麗しい魔術師が佇んでいた。


「あなたを女神だと思ったのかもしれませんね」

 魔術師は目を伏せるだけで、なにも答えない。

 周囲に残っていた若者たちも、美しい影に気付いて頬を赤く染めている。

 皆魔術師に気を取られてしまったようで、目の前に死体が落ちているというのに、恐怖や混乱は消えてしまったようだ。


 狭い路地の奥の緊急事態は一応、収まったようだった。

 火事はもう一か所で起きており、消火できたかどうか気にかかる。

 しかしこの場でおこった詳細不明の殺傷事件には、早急に取り掛かった方がいいだろう。


「ガラン、もう一か所の火事の様子を見て来てくれないか」

「私がですか」

「ああ。早く消さねば大勢が困るだろう。魔術師殿、申し訳ないのですが」

 事情をすべて説明する前に、魔術師はこくりとひとつ頷いて、ヘイリーに向けて微笑んでみせた。

「乗りかかった船だ。いいだろう」

「ご協力に感謝します」


 もう少し人手が欲しいところだが、もう夜も随分更けてきた。

 調査団の人間が協力してくれるかどうか、ヘイリーにはわからない。

 ガランが戻ってから考えようと決めて、この場に留まってくれていた若者たちに順番に話を聞いていく。


 いつの間にか若者は数が増えていて、争いが起きた時に近くの建物の中に逃げていたことなどが明かされていく。

 普段は起きない大きな事件に皆興奮しているのか、全員が並んで順番に話を聞かせてくれた。


 ほとんどの者が「二人が争いあっていた」「隙をついて、ナイフを持っていた男を殴って取り押さえた」程度しかわかっていないようだ。

 だが、火事の起きていた路地の行き止まりの方から男たちが現れたこと、先に襲いかかったのは髭の大男の方であることなどが証言され、大体の流れが判明していく。


「あの奥の辺りは、普段は誰も使っていないのだな」

「そうなんですが、時々出入りしている連中がいるって噂はずっとあって」

「この二人に見覚えはある?」

 若者たちは誰も答えない。はっきりと見た記憶がある者はいないのだろう。


 二人の男の死体をどうするか、悩ましい。

 燃えてしまった廃屋も調べておいた方がいいだろう。

 しかし、ガランと二人でどこまでできるかとヘイリーは思う。

 夜も遅くなり、疲労も感じている。廃屋の中は真っ暗だろうから、調べるのなら明日の方がいいかもしれないが――。


「ダング調査官」

 悩めるヘイリーのもとにガランが戻ってきて、火は収まった、と報告される。

「ロウラン様が消し止めてくれました。近くの宿の主人が、人が入れないよう道を塞いでくれるそうです」

 魔術師はまだガランの隣に居て、調査団員に向けて笑みを投げかけてくる。

「ロウランという名なのですね。本当に、協力に感謝致します。あなたがいて下さって本当に良かった」

「そういえば、どうしてこんなところにいらしたんですか」

 ガランの不躾な問いに、ロウランは肩をすくめるとこう答えた。

「かまどの神殿の近くにうまい飯を出す店があると聞いて、行ったのだ。食事はすぐに済んだが、店を出たところで声をかけてきた男がいてな」

 自分の店で働いてほしいと声をかけてきた男にしつこくまとわりつかれた、と魔術師は語る。

「いくらでも稼げるだのなんだの、いくら断っても離れてくれんでな」

「それはさぞご迷惑だったことでしょう。どこの店の者でしたか」

「わからんよ。名乗りもせんで、金の話しかしなかったからな」


 その男をなんとか撒いて振り切る為に、北東の安宿街の路地に入ったが、火事が起きたせいで大勢の若者が溢れて、今度は出られなくなって仕方なく留まっていたらしい。


「災難でしたね」

「仕方あるまい。それに、あのしつこい男からは逃げられた」

「もうお帰りになられますか。できれば送って差し上げたいところなのですが」

「まだ仕事があるのか。大変だな、迷宮調査団というのは」


 ロウランは口元に笑みをたたえたまま、ヘイリーとガランを順に見つめた。

 二人しかいないのは、これは調査団の仕事などではないからだ。

 大変だと駆け込んできた若者がいたのに、応じたのはヘイリーだけであり、ガランは見かねてついてきてくれただけ。


「あの燃えていた家には、もう入っても平気だと思うぞ」

「そうですか。ありがとうございます」

「調べるのか」

「その必要はあると思います。ですが……」

「確かに、ろくに灯りもない状態では難しかろうな」


 魔術師は世にも麗しい微笑みを浮かべると、人手不足の調査団員へ手を差し伸べてくれた。


「良ければ手を貸すぞ」

「よろしいのですか?」

「構わんよ。手を貸せば仕事が早く終わって、家まで送ってもらえそうだからな」

 こんな遅い時間に一人で街を歩くのは、トラブルの元だからとロウランは言う。

 確かに、こんなにも美しい女性が一人で夜道を行くのは危険だろう。

「ダング調査官、でも、この二人をこのまま放っておくわけにはいきませんよ」


 路地にはスタンたちの死体が転がっており、すぐそばには明日の朝営業を始めるであろう店もある。

 確かに、このまま放置するわけにはいかない。だが、二人きりでは出来ることにも限りがある。


「近くに神殿があるだろう。神官に協力を頼んではどうだ」

「なるほど。確かに、神官たちなら力を貸してくれそうです」

 一番近いのは皿だが、かまどや石、鍛冶の神殿もそう遠くはない。夜中でも起きている者がいるはずで、話くらいは聞いてもらえるだろう。

「この辺りで店をやっている連中にも助力を頼めばいい。調査団に協力する優良な店だと言い張れるようになると言ってやれば、何人かは応じてくれるのではないか」


 魔術師の提案にいちいち頷いて、ガランにおつかいを頼む。

 大男を運ぶためには台車があった方がいいだろうから、持っている者がいないか探すように指示を出した。


「魔術師ロウラン、あの廃屋の中を調べに行ってよろしいでしょうか」

「もちろん、いいぞ」


 ロウランはきょろきょろと視線を彷徨わせると、道端に落ちていた棒を拾い上げ、ゆらりと手をかざした。

 すると何の変哲もない木の棒は明るく光り出し、辺りを照らした。


「これが魔術の力なのですね」

「初めて見たのか」

「はい。魔術師とはこれまで縁がありませんでしたから」

「この街の水は、魔術で出来た壺から湧きだすもののようだぞ」

「ああ、そうでした。我々は皆、普段から魔術の恩恵に預かっているのですね」


 夜になると街が暗闇に閉ざされないよう、道や店の外に灯りが掲げられる。

 それらにも魔術が使われるようになれば、さぞ便利だろうとヘイリーは考えた。


「もう一本用意するか。こちらはお前が持つといい」

 光る木の棒を手渡され、ヘイリーは路地の奥へと進む。


 火事が起きた建物の扉は燃えてしまったようで、手で触れると砕けながら倒れていってしまった。

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