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12 Gates City  作者: 澤群キョウ
  X13-A_Scheme of Magicians

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160 暗夜、激流(下)

 熟考の末に出した結論なのかと聞かれたら、きっと少女はなにも答えないだろう。

 マティルデだって、もっと安全で確実な方法をとりたい。

 けれど存在しないのだから、仕方がない。


 用心棒以外にも男の従業員が大勢いて、扉の前には見張りが立っていて。

 同僚である少女たちにすら、勝手な行動をすれば咎められる。

 ここから逃げ出す方法がないか、周囲の様子を見て、悩んだ末に、マティルデは決意を固めていた。


 店が開く瞬間を狙うしかない、と。


 昨日と同じ動きをさせられるなら、開店する時には入口の前で並べられるはずだ。

 支配人の挨拶があって、扉が開いたら一目散に逃げる。

 大切な客がいる場なのだから、手荒な真似はされないだろう。

 こんな考えはただの希望でしかない。マティルデもそうわかっている。

 けれど、もう、こうするしかない。チャンスは他にない。

 それに、ひとつ噂を聞いていたから。

 一日目は商人を中心に客を招待したが、二日目の今夜は、名の知れた探索者にも声をかけていると。

 

 もしかしたら、あのお髭の君辺りがやってくるかもしれない。

 樹木の神官長もかなりの有名人だと聞いているし、呼ばれているかもしれない。

 灰色の髪の若い魔術師も。ギアノが「街で一番有名な人」だと話していたから。


 知った顔がいれば、手を貸してもらえるだろうと思う。

 マティルデが本来いるべき場所について明らかになり、雲の神殿にも話がいって、元通りになる。

 こんな流れになれば最高だが、いない可能性もあるから。

 その時はとにかく、走るしかない。逃げて、人混みに紛れて、どこかに身を隠す。

 雲の神殿か、カッカー・パンラの屋敷か。グラッディアの盃でもいいし、マージの家に向かってもいい。一時的にで良いからといえば、マージならきっと助けてくれる。


 とにかく自分を知っていて、手を差し伸べてくれる人の元へ辿り着く。

 強く決意をして、開店の時間を待つ。衣装に着替え、黙って化粧をされて、観念したのだと思わせておく。


 絶対に、こんな店で働き続けたりしない。

 勝手に売り飛ばすような真似も許さない。

 

 マティルデを動かしているのは怒りの力だ。

 探索者になれるはずがないと笑われた悔しさを燃料にして、心の炎にくべていく。

 お前はただ、可愛い女の子でいればいいのだなんて、言われたくない。

 これまでの自分の暮らしを反省しつつ、決意を新たにし、絶対にここから出るのだと気持ちを強く持っていく。


 練習の時間は、我慢してお尻を振った。

 急に大人しくなったマティルデを、店の人間はニヤついた顔で見つめている。

 ラジュとジュエットにも、「ようやく受け入れた」ように見せなければならない。

 怒りの力で頭をフル回転させて、しおらしく、悔しげに振舞って、苦痛の時間をやり過ごしていった。


「さあさあ、今日の営業が始まるぞ! お客様を出迎えるんだ!」


 昨日うまくやった少女たちの足取りは軽く、反抗的な新入りがちゃんとついてくることに安堵しているようだ。


「あたしを呼んだ人、こんなに大きな石のついた指輪をしていてね。金貨をくれたのよ!」

「金貨! あんた、随分うまくやったのね」


 自慢話と、金持ちに貢がせる方法がひそひそと交わされていく。

 少女たちはどうすれば支払いを弾んでもらえるのか、教えたり教えられたりしながら士気をあげている。


「マティ、今夜は頑張んなよ。うまくやれば、あの子みたいにたくさんお金をもらえるんだから」


 結局、誰一人として名前がわかる娘はいない。

 いや、知らなくていいのだ。必要ないのだから。

 マティルデは少女たちの列に並んで、ゆっくりと進んでいった。

 裏切るそぶりなどかけらも見せずに、従順に。

 まだ閉じられた扉の前に辿りつき、一番端に立たされる。


 扉のすぐ脇には大きな体の用心棒が立っており、まずは彼に捕まらないようにしなければ。

 客はゆっくりと入ってくるので、隙間を見つけて走り抜けていくつもりだ。


 高鳴る鼓動を鎮めるべく、マティルデは考えを巡らせていた。

 客に混じっていてほしいけれど、お髭の君も、神官長も、本当はこんな店には来ないだろうと思っていたから。

 あの灰色の魔術師は言わずもがなだ。女の子が舞い踊る様に興味などなさそうだし、隣に座らせてべたべた触って喜ぶとは思えない。

 けれど、そこでふといい考えが浮かんで、マティルデは顔を上げた。


 誰か知り合いが来たように振舞えば、時間が稼げるのではないか。

 いきなり走り出せば、すぐに逃げたと勘付かれてしまう。

 お客を歓迎しているように見せかければ、店の人間も止めに入らないかもしれない。


 知り合いが来たように振舞って、少しでも距離を稼ぐ。

 客の波に紛れて身を隠し、一気に走る。


「さあさあ、皆さま、お待たせいたしました!」


 我ながらいい案だと心を高揚させながら、支配人の声を聞く。

 少女たちは一列に並んで、麗しい微笑みで客を出迎えるように言われているから。

 マティルデはまっすぐに前を向いたまま、心の中で呟く。絶対に、この機会を逃さないと。


 カリネラの涙を思い出しながら、心を強く整えていった。

 彼女が勇気を出して語ってくれたことに深く感謝しながら、マティルデは足首を揺らして、靴がすぐに脱げるよう紐を緩めていく。

 ぺたんこで無駄な飾りのついたこの靴では、走りにくいだろうから。


 勿体ぶってゆっくりと開かれた扉から、外の空気が流れ込んでくる。

 そこにはっきりと自由の匂いをかぎとって、マティルデは拳を握った。

 一人、二人と笑顔の男性客が入って来て、頭を下げるよう声がかかる。

 その瞬間、扉の向こうにいる背の高い男に狙いを定めて、声をあげた。


「あ! 来てくださったのね!」


 周囲の視線が集まる。

 店の従業員たちは戸惑いながらも、近づいては来ない。

 マティルデはギアノのことを思い出しながら、全力で笑顔を浮かべて客の中へと進んでいった。

 もう少しで裸になってしまいそうな衣装に、男性客は笑みを浮かべるだけでなにも言わない。

 小走りで、嬉しそうに、足を弾ませ、服についた飾りが跳ねて音がするように。

 しゃらんしゃらんと定めた地点へ飛び出し、「嬉しいわ」だとか、「良かった」と口にしながら進み、完全に扉の外に出た瞬間、靴を脱ぎ捨てて。

 客と客の隙間に身を滑り込ませて、驚いて避けてくれた男性たちに感謝しながら、人波が途切れた瞬間、一目散に駆け出していく。


「あっ!」

 誰かが気付いて、待て、と声が上がる。

 客が大量になだれ込んでいる間に、できるだけ離れなければならない。

 足の裏に土を感じながら、全速力で走る。

「誰か、捕まえてくれ!」

 背後から大きな声がして、通行人が何人か立ち止まっていた。

 勢いよく走っているのはマティルデだけで、逃亡者の候補は通りに一人しかいない。


 道の先にいた若者が気付いたらしく、駆け寄ってくるのが見えた。

 もう一人、また一人、協力者が増えていく。

 このまま雲の神殿へ辿り着きたかったけれど、三人の合間をすり抜けるのはいくらなんでも無理だ。

 だからマティルデは方向を変え、近くにあった細い路地へ入り込み、すぐそこにあった樽を掴んで転がそうとした。

 中身が入った樽は重たくて、びくともしない。

 自分の非力を嘆きながら、また走る。

 「あっちだ」とか、「捕まえろ」の声が追ってくる。

 道をみつけてはこまめに曲がって、なんとか撒いてしまいたいのに。

 振り切れない。胸が苦しくなってきたし、足の裏も痛むから。

 どこかに隠れられる場所がないか探すが、見つからない。

 大勢の声と足音がして、さっきまで漲っていた根拠のない自信が、みるみるしぼんでいく。

 

 あの忌まわしい劇場からでたらめに進んできたせいで、どこへ向かっているのかもうわからなくなっていた。

 けれどふと、マティルデは気付く。

 街のど真ん中、魔術師街の辺りにいるのではないかと。

 通りの雰囲気が急に変わって、小さな一軒家が並び始めていた。

 ようやく迷い道が解消されて、塾にも行きやすくなったと言われたけれど。マティルデもこの知らせには喜んだけれど。

 今はあの魔術師たちのいたずらが失われたことが惜しくてたまらない。

 迷い道のままなら、追っ手など簡単に撒けたのに。


 魔術師街に入ったからか、人通りはすっかりなくなってしまった。

 もう夜の遅い時間だから、余計になのかもしれないが。

 誰も歩いていないし、箱だの樽だのも置かれていない。

 すっきりと片付いた道はまっすぐで、これでは見つけて下さいと言っているようなものではないか。


 心にひゅうっと冷たい風が吹いてきて、マティルデは身を震わせている。

 急に足がおぼつかなくなって、よろけてしまう。

「きゃあっ!」

 思わず声が出てしまい、慌てて抑えたが、もう遅い。

「声がしたぞ!」

 急いで立って、足の痛みに耐えながら、また走る。


 ここからどう進んだら、安全な場所に辿り着けるのだろう。

 もう、方向もわからない。空を見上げる暇もない。


「ギアノ、助けて」


 涙をこらえながら、胸の中で呟いてみる。

 もちろん、管理人の男が目の前に現れたりはしない。

 ひょっとしたらマティルデの行方がわからないと聞いて、心配して、探しに出てくれているかもしれない。


 けれど、こんなわがままな女の子のために一日中自由に時間を使えるはずがないのだから。

 みんなに頼られ、さまざまな仕事を引き受け、こなしている人だから。

 だから、道の上にギアノの姿はない。呼んだとしても、優しい声は聞こえない。


「おい、待て!」

 

 ふいに腕を掴まれ、体中から一気に血が引いていく。

「離して!」

 手首を掴む力の強さに、マティルデは暴れた。

 背後から近づいてきたから、男の姿は見えない。

 腕を捻り上げられそうになって、悲鳴が漏れてしまう。

 まだ自由な左手で、衣装についていた無駄な紐を引きちぎって、思い切り振り回す。

 端についていた飾りがどこかに当たったのか、ぎゃあ、という声と共に解放されて、勢い余って転がってしまう。


「おい、こっちだ! 女がいるぞ!」


 反撃に悶えながらも男は声を張り上げ、マティルデは立ち上がり再び走り出した。

 けれどもう、勢いがない。ちっとも早く走れない。怖くてたまらなくなってきて、涙が零れだしている。

 どうして、いつも、こんなに。

 後悔と反省と、怒りと情けなさでぐだぐだになりながら、足音とは逆の方向へ向かって逃げる。


「いたぞ!」


 低い大きな声に追い立てられて進んだ先で、道は左右にわかれていた。

 正面には高い柵があり、中には紫色に輝く妙な形の柱が見える。

 

「おい、止まれ!」


 なにかが飛んできて、マティルデの足元で音が響いた。

 思わず視線を向けた先に、小さなナイフが落ちている。

 刃物を投げつけられたのか。

 そう思ってしまったのが最後。

 目の前にはもう何人もの男たちが迫っており、勝手に逃げ出した少女を強い視線で捉えているとわかる。


「手間かけさせやがって」


 ど真ん中にいるのは、店の用心棒の一人だ。

 隣にももう一人、見た覚えのある男がいる。こちらは左目を抑えていて、きっとマティルデの反撃にあったのだろう。

 その他に、店とは関係ないであろう野次馬も混じっている。

 怒りと好奇の目に捕らえられて、左右どちらに逃げるか考える時間はもうなかった。


 後ずさるマティルデの背中に、柵が当たる。

 ひやりと冷たくて、薄い透けた布越しに、待ち受ける運命の悲惨さを予感させている。


「大人しく一緒に帰るなら、手荒な真似はしないでおいてやるよ。できれば傷つけたくはないんでね」


 用心棒に手を差し出されて、マティルデは震えた。


「さあ、帰るぞ、新入り」


 運命の別れ道。大人しく帰れば、今、傷つけられはしないけど。

 でも、娼館に売り飛ばされてしまう。店とは関係のないただの迷子なのに、値段を付けられ、横暴な支配人の懐を暖める羽目になってしまう。


 ここで歯向かったら、どうなる?


 容赦なく殴られるのだろうか。あの、「緑」の迷宮の時のように。

 彼らは初めて会ったはずのマティルデをなぜか責めたて、なじり、暴力を振るった。

 どうしてあんな目に遭わなければならなかったのだろう。

 希望を抱いて、故郷を出たのに。夢をかなえる為にやって来たのに。

 

 迷宮で出会った暴漢たちよりも、用心棒たちの体はずっと大きい。

 腕は丸太のように太くて、きっと力が強いだろう。

 死んでしまうかもしれない。非力な小娘は、誰にも申し開きできず、誤解されたまま、理不尽な理由で神のひざ元へ送られるしかないのか。


 そんなのは嫌だとマティルデは思った。

 死ぬのも嫌だし、勝手に新しい仕事をさせられるのも嫌だと。


「どうした、早く来い。それとも痛い目に遭いたいのか?」


 大男が迫ってきて、少女は涙を振りまきながら叫んだ。


「私はここに、魔術師になりに来たの!」


 人生で一番の大声を張り上げていた。

 誰かに届けばいいと、最後の願いを込めて。


「あ? なんだ、どこへ行きやがった?」


 するとなぜか、男たちは慌てた様子で辺りへ視線を彷徨わせ始めた。

 地響きのような低い声で、マティルデへの恫喝の言葉を口にしながら。


 まだ、目の前に少女はいるのに。


「おい、どこに隠れた!」

「うるさいぞ、こんな夜中になんなんだ!」


 近くの屋敷の扉が開いて、魔術師らしき男が姿を現し、苦情をまくしたてた。

 用心棒たちは舌打ちをすると、こそこそと話し合い、別れ道の先へ分かれて散っていってしまった。


「なにが起きたの……」


 マティルデが柵にはりついたまま呟くと、背後から穏やかな声が響いた。


「ここは魔術師ホーカ・ヒーカムの屋敷。あのような輩どもは、庭に入ることすら許されません」


 少女が慌てて振り返ると、柵の向こう側に黒づくめの細長い男が立っていた。

「魔術師の屋敷?」

「おや、術師ホーカに学ぼうと来られたのではないのですか」

「それって、……弟子入りってこと?」


 細身の男は黙ったまま、微笑みを浮かべるだけで答えない。

 今の状態から動いて平気なのかすらわからず、マティルデは柵にべったりとくっついたまま、首だけを背後に向けて叫ぶ。


「そうよ! 私、お師匠様になってくれる魔術師を探していたの」

「では、どうぞこちらへ」


 もたれかかっていた柵が消えてなくなり、マティルデは思い切りひっくり返っている。

 男が静かに手を差し伸べてきて、おそるおそる掴み、立ち上がる。

 足が痛い。いや、全身のあちこちが痛くて、呻き声が漏れてしまう。

 そんな少女に男は首を傾げて、とんでもない薄着に駄目出しをした。


「そのような格好では、術師ホーカの前へ通すわけにはいきません」

「あの、私、なにも持っていないの。着替えを貸してもらってもいいかしら」

 男はゆっくり頷き、魔術の修業をする者にふさわしい服があると答えた。


 少女たちを閉じ込めて働かせる悪徳劇場の従業員は追い払われ、マティルデは救われた。

 偶然辿り着いただけの場所だが、ここは魔術師の屋敷らしい。

 本当にいいのだろうか。そんな思いも心の中にあるけれど。

 

 行くか戻るかしか道がないのなら、今、目の前に開かれた道を行くしかない。

 

 弟子入りの方法がこれでいいというのなら、この機会を逃す手はないとも思えて、マティルデは名乗った。

「私、マティルデ・イーデンよ」

 男は微笑みを浮かべて、ゆっくりと頭を下げている。

「迷宮都市で最も偉大なる魔術師、ホーカ・ヒーカムにお仕えしております、ヴィ・ジョンと申します」


 ヴィ・ジョンに導かれて、庭を抜けていく。

 魔術師の屋敷の庭には紫色の輝く柱が何本も立っているし、様々な箇所に紫色のものが使われているのがわかった。

 扉は黒い木で出来ているが、紫色のプレートが輝き、光を放っている。

 

「わあ」


 屋敷の中は広く、屋内だというのに庭のようなスペースが少女を出迎えていた。

 天井は高く、まるで昼間のように明るく照らされ、ベンチがいくつも並んでいる。

 誰もいないがらんとした広間を抜けて、長い廊下の先へ。

 行き止まり近くの部屋へ通され、ヴィ・ジョンは椅子に座るよう少女に命じた。


「まずは手当を」

 

 柔らかい布が暖かいお湯に浸され、体のあちこちについた泥を拭ってくれる。

 間違いなく男性であろうヴィ・ジョンに対する恐怖心はまったくなくて、マティルデは大人しく手当を受けた。

 薬や包帯が用意され、優しく傷に塗られていく。

 どれも良い香りがして、心も穏やかになっていくのがわかった。

 じんじんと熱くなっていたところも、いつの間にやら痛みが引いている。


「今日はもう時間が遅いので、続きは明日にしましょう。弟子の使う部屋に案内します」

 また廊下を移動して、マティルデの名の彫られたプレートが下げられた部屋へ通される。

「私の名前?」

 これが魔術師の為せる業なのかと感心しながら、少女は部屋へ入り、柔らかそうなベッドに思わず息を吐いていた。

「服はどれでも自由に使って構いません」

 コルフが着ていたような丈の長いローブを見つけて、マティルデは感激していた。

 簡素なデザインではあるが、裾や袖口には細かな刺繍が施されていて、いかにも魔術師らしく見えたから。

「では、また明日の朝に」

 ヴィ・ジョンは深く頭を下げ、最後まで紳士らしく振舞って去っていった。

 まさかの展開に、マティルデは部屋の真ん中で一回くるりとまわると、そのままベッドにばふんと倒れ込み、小さな声で笑った。

 あの時、決意して良かったのだ。とんでもない大失敗をしたけれど、最後の最後で大逆転が待っていたのだから。


 悪徳劇場で踊り子にされそうになっていたのに、事態は一気に進んで、今はもう魔術師の弟子。

 この柔らかなベッドでじっくり休んで、師匠に挨拶を済ませたら、少しだけ外出させてもらえるよう頼めばいい。

 雲の神殿か、ギアノのところへ行って事情を話し、もう心配はいらないと伝えれば問題は解決するだろう。

 ユレーを悩ませることも、もうない。一緒に暮らせないのは寂しいけれど、それも少しの間だけだ。

 あっという間に様々な魔術を身に着け、ホーカの弟子として迷宮探索に挑み、成功を重ねていく。


 立派な魔術師になれたら、怪しげな劇場の支配人だって、話を聞かない歌姫だってもう怖くない。


 昨日までとは打って変わって快適なベッドに、マティルデはすっかり満足して沈んでいった。

 誰かのすすり泣く声がしないし、一人で部屋を使うなんて贅沢をしたのも初めてだったから。

 ほのかに香る花のような匂いが満ち溢れ、辛気臭さなどかけらもない。

 気付けばすっきりと回復した状態で朝を迎えていた。


 着替えを済ませたところで扉が叩かれ、ヴィ・ジョンに招かれて廊下を進む。

 男は少女の姿を「見違えた」と褒め、髪型もきれいに整えてくれた。


 連れていかれた先は立派なテーブルと椅子の並んだ食堂だった。

 用意された食事は一人分で、マティルデは席に通されて座る。

 お召し上がりくださいと言われて、安心して匙を手に取り、久しぶりのまともな食事にすっかりご機嫌になっていたのだが。



「ホーカ・ヒーカムに会う前に、授業料の支払いをお願いします」

 満腹の少女は次に連れていかれた小部屋で、頭を真っ白にしていた。

「あの……、昨日の夜も言ったけど、私、なにも持っていなくて」

「昨夜はなにやら理由があった様子でしたので、お助け致しましたが」

「ええ。ありがとう。本当に助かったわ。あなたは命の恩人よ」


 ヴィ・ジョンは鋭い目を細めて、見えるのか見えないのかわからない瞳でマティルデを見据えている。

 然るべき場所に戻れば、授業料を支払う準備があるのでは?

 ズバリ問われたが、そんなものはもちろんない。住む場所すら、今はないのに。


「私、仕事を探していたの」

「踊り子の仕事をされていたのですか」

「あれは私がやろうとしていたことではないの。劇場の裏口が開いていて、ちょっと覗いてみただけなのに、引きずり込まれて勝手に働くことにされていたのよ」


 悪夢のような体験を説明すると、ヴィ・ジョンは「大変な目に遭われましたね」と同情してくれたようだ。

 けれど、それはそれ。授業料の支払いとは関係ないらしい。


「お支払いができないのなら」

「ねえ、待って。あの、頑張ってすぐに魔術を覚えるから、それで探索に行って、後から払うっていうのはどうかしら」

「それはできません。同じような提案をされる方はいらっしゃいますが、すべてお断りしています」


 なぜなら、魔術師に支払う授業料は「高い」からだ。


「どうしても魔術が身につかない方もおられます。なので、出世払いは不可とします」

 払うあてがないのなら、そのあてが出来てからまたいらして下さい。

 ヴィ・ジョンが立ち上がり、マティルデは焦る。

「あ、あの! ここのお屋敷でなにかお仕事をして、それを授業料にあてるっていうのは? こんなに大きなお屋敷だもの、私にできることはないかしら」

 

 ピンチからの大逆転で掴んだチャンスを逃したくなくて、少女は柄にもなくこんなことを言い、男は「ふむ」と目を閉じている。


「マティルデ・イーデン。あなたは、どうしてもホーカ・ヒーカムのもとで学びたいと願われているのですか」


 魔術師の弟子になれるのなら、ついでに支払い問題もなんとかできるのなら、誰が師匠でも構わないのだが。

 そんな軽口を叩ける状況ではなく、マティルデはほんの一瞬だけ迷ったが、結局勢いのまま答えた。


「そうよ、私は魔術師になりたいの。立派な魔術師に……、ホーカ・ヒーカムみたいな人に教わりたいってずっと考えていたんだから」


 ヴィ・ジョンはまた「ふむ」と呟いて、少女をまっすぐに見つめた。

 内心がバレていたらどうしよう。適当に答えたとわかったら、追い出されてしまうだろうか。

 マティルデは額にじっとりと汗をかきながら、細長い黒づくめの男の言葉を待った。


「……実は、術師ホーカには特別な願い事がございます」

「願い事?」

「ええ。この屋敷に連れてきてほしい者が二人いるのです。そのうちのどちらかを連れてきたのなら、特別に弟子入りをさせましょう」

「連れてきてほしい人って、この街にいるの?」

「ええ、どちらも」


 ヴィ・ジョンは唇にほんのりと笑みを浮かべると、二人とも連れてきた場合はもっと「良いこと」があると囁く。


「二人とも連れて来られた場合、すべての授業料が免除されます。ありとあらゆる秘術を教え、最後まで指導すると約束しましょう」

「え、すべて?」

「すべてです。また、この願いを叶えると誓ったのなら、この屋敷に個人の部屋と、自由に暮らす権利も与えます」

「探すって約束したら、ここで暮らしていいってこと?」

「必ず連れてくると誓えば、です」

「誓うわ!」


 あのふかふかとしたベッド、広い部屋。振舞われた食事は美味しかったし、食器はどれもピカピカに磨かれていて美しいものばかりだったから。

 鼻息を荒くして答えたマティルデに、ヴィ・ジョンはにやりと笑っている。


「では、昨日使われた部屋をあなたのものに致しましょう。あそこにある物はすべて自由にお使いください。食事は日に三度用意いたします。要、不要の連絡はしなくて結構。ただし、外に出る際は必ず、弟子の証であるローブを身に着けて下さい」

「わかったわ」

「では、連れてきてほしい二人について教えましょう」


 ここでようやく、マティルデは気付いていた。

 自分には手に負えないような人物を連れてこいと言われたら、どうしようかと。


「一人目はサークリュード・ルシオ。白く輝く金髪に、氷のような薄い青の瞳の大変に美しい青年です。年は二十歳前後で、どうやら探索をして暮らしている様子。ぬけるように白い肌の、女性と見紛うほどの美貌の主です」

「男の人なの?」

「ええ。見た目だけなら女性と思ってしまうでしょうが、男性です」


 安易な選択を悔いていたマティルデだったが、思い当たることがあって、心に平静を取り戻していた。

 マージたちが帰って来なくて、ギアノの世話になっていた時。

 廊下をすごい形相で歩いてきた大男がいて、思わず逃げてしまった、あの瞬間。

 あの怖い顔の男の後ろに、きらきらと輝く髪を見た気がしている。


 あの時ギアノも一緒になって帰って来たのだから、きっと知り合いなのだろう。

 もしそうなら、この屋敷へ連れてくるくらい、簡単にできる。


「サークリュード・ルシオね。わかったわ」


 あの部屋に紙とペンはあっただろうか。聞いた話をメモしておいた方がいい。

 少女は考え、ヴィ・ジョンの話に耳を傾ける。


「二人目の名は、ラフィ・ルーザ・サロ。異国から来た、夜の神に仕える神官です」

「夜の神?」

「遥か遠い異国から来たという話ですから、我々の知らない神が信じられているのでしょう」

「そういうものなのね。その人はどんな風なの」

「この辺りの人間とは違う黒い肌の持ち主ですから、見ればすぐにわかります。髪は黒く、瞳は黄緑色」

「黒い肌って、日焼けをしているってこと?」

「いいえ。そもそもの肌の色が違うと考えるべきでしょう」


 見ればわかるほど違う、ということなのか。

 マティルデは不思議な気分で頷き、もう一度名前を教えてくれるよう頼み、記憶していく。


「その神官はどこにいるの?」

「わかりませんが、無彩の魔術師ニーロ様、樹木の神官長であるキーレイ・リシュラ様、そして最近名を挙げている御武人、ウィルフレド・メティス様とこの屋敷を訪ねて来たことがあります」


 知った名前が出てきて、マティルデの心はまた軽くなっていった。

 キーレイの居場所はわかっている。話を聞いてくれるだろうし、協力もしてくれるはずだ。


「わかったわ。きっと、二人とも連れてこられると思う」

「それは素晴らしい。もしや、無彩の魔術師ニーロ様と面識が?」

「それって、灰色の髪の魔術師よね。会ったことはあるわ」

「先の二人とは別に、ニーロ様もこの屋敷にお招きしたいと術師ホーカは考えています。ニーロ様をここへ連れてこられる者には、五万シュレールの謝礼が支払われるでしょう」

「えっ、……五万?」


 ヴィ・ジョンはゆっくりと頷き、微笑んでいる。

 あの灰色の魔術師を連れて来ただけで、そんな大金が支払われるなんて。

 信じられない話だとマティルデは思った。

 けれど男は大真面目な顔で少女を見つめており、冗談を言っている様子はない。


「私、出かけてくるわ」

「これはこれは、頼もしい」


 ヴィ・ジョンは不敵な笑みを浮かべると、マティルデを呼び止め、これを持っていきなさいとなにかを差し出してきた。


「鍵?」

「ええ。これを持っていれば、帰りたいと願った時にあなたの部屋へ戻ることができます」

「どういうこと?」

「あなたに貸し与えた部屋への入り口を作り出すものです。決してなくされませんように」


 半信半疑のまま玄関へ案内されて、魔術師の屋敷の外へ出る。

 朝日を浴びて紫色の石がきらきらと輝いており、気持ちが晴れ渡っていくのがわかった。

 鍵の効果はよく理解できていないが、自分の部屋に一気に戻れるのならこんなに便利なことはないだろう。


 それに、魔術師のローブを身に着けている。

 自由の身で。

 

 清々しい気分で深呼吸を繰り返し、マティルデはまずどこへ向かうか決めた。

 昨日までの顛末を知らせるべきであり、探し人の居場所を知っているかもしれないのだから。

 樹木の神殿の隣、カッカー・パンラの屋敷に向かって、まずはギアノに会って話す。


 服装のお陰か、ヴィ・ジョンが整えてくれた髪型のお陰か、胸に自信がみなぎっていた。

 もう無力なただの小娘ではなくなったのだという気持ちで悠々と街を歩けば、そこらを歩いているだけの青年たちも怖くない。

 何人で歩いていようが、視線を向けられようが、まったく気にならない。

 「紫」の迷宮入口を見つけ、方角にあたりをつけて、東へ向かう。

 さまざまな商店の従業員が歩いていたし、女の子を運ぶ馬車も行きかっている。

 それはいつも通りの迷宮都市の朝の風景だが、マティルデは新鮮な気持ちで歩いていた。


 心を締め付けていたものがなくなったせいか、歩む速度も上がったようで、あっという間に樹木の神殿が見えてくる。

 あそこから大勢の若者が出てきたとしても、大丈夫。

 

 胸のうちを明るいものばかりで満たして進んでいったマティルデだったが、屋敷の扉が開いて、小さな人影が出てきたことに気付いて、足を止めた。


 赤い髪に白い神官衣。雲の神官、アデルミラに違いない。

 胸の前で手を組んで、悲しげに俯き、目の辺りを拭っているのが見える。

 

 足が止まって、心に一気に影が差してくる。

 違うかもしれないけれど。他に、なにかあったのかもしれないけれど。

 

 マティルデが姿を消してしまったことは既に伝えられているだろう。

 アデルミラが雲の神殿へ連れて行ってくれた張本人なのだから。


 自分の行方がわからないことを心配しているのか。

 勝手に抜け出すような子を連れてきたのかと責められたのか。

 わからないけれど、悲しげな姿をしているのは、自分のせいではないかとマティルデは思う。

 

 今すぐ走りだして、アデルミラの名を呼ぶべきだ。

 勝手に神殿から出たことは謝って、その後巻き込まれた事件について正直に話し、なんとか逃げ出して今は大丈夫だと伝えればいい。


 まだ、間に合う。今なら笑い話で済む可能性がある。

 そう思うが、怒られたり、なんらかの罰があったらどうしようかという不安もあって、足が動かない。


 よろよろと歩き出したアデルミラの後ろから誰かが追いかけてきて、神官は振り返っている。

 ギアノの姿が見えて、マティルデは思わず近くの曲がり角に身を隠していた。


 ギアノとアデルミラはなにやら言葉を交わしているようだ。

 小柄なアデルミラのために、ギアノは膝を折って、目線を合わせて話している。


 神官は項垂れ、また涙を拭う。

 管理人の男は首を振って、語り掛け、まっすぐにアデルミラを見つめている。


 マティルデが物陰に隠れているうちに、二人の間にどんな会話が交わされたのか。

 それはわからない。聞こえないし、想像もつかない。

 マティルデにはまったく関係のない可能性があるが、とにかく。


 ギアノはアデルミラを抱きしめ、優しく髪を撫でた。

 


 そして二人は屋敷へ戻っていった。――多分、だけれど。

 よくわからないのは、マティルデが「自分の部屋」に戻ってしまったからだ。


 どうして戻ってしまったのかも、なぜ自分が口をへの字にしたまま涙をこらえているのかもわからない。

 倒れ込んだ自分を優しく包み込んでくれるベッドがあったことだけが、救いになっている。


 マージとユレーに会いたくてたまらない。

 あの二人が暮らす部屋に戻って、胸のうちに生まれたもやもやについて聞いてほしい。

 正体がわからなかったとしても、一緒になって抱えて、大丈夫だよと言ってほしかった。


 けれど、もう、ない。マージは古い友人の為に、女三人の暮らしを終わらせてしまったから。


 ベッドに横たわったまま、無気力に捉われ、マティルデは夜までぼんやりと過ごした。

 本当はやらなければならないことがたくさんあるとわかっているけれど。

 そんな思いは部屋の隅に追いやって、見ないようにして。

 

 今日だけは、このままで良いことにしよう。

 明日になったら起き上がって、必要なことをしていく。

 

 そう決めたけれど。できるかどうか、自信がなかった。

 そんなふにゃふにゃな心のまま、夜がやってきて、いつの間にやら眠りに落ちて。


 こうしてマティルデ・イーデンの魔術師の弟子としての始まりの日は、静かに終わった。



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