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12 Gates City  作者: 澤群キョウ
  X13-A_Scheme of Magicians

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158 暗夜、激流(上)

「マティルデ、どこにいますか」


 神官の声に気付かずにいた少女の肩を、隣にいたサシャが優しく叩く。

 迷宮で採れるという白い石に彫刻を施す作業にすっかり飽きて、居眠りしかけていたマティルデはそれで目覚めて、慌てて立ち上がった。


「はい、はい! なにかしら」

 穏やかな神官の表情はほんの少しだけ曇っているが、苦情は言わないと決めているのだろう。

 神殿で預かっている少女に来客だと告げて、共に来るように言った。

「大切な話があるそうですから、すぐに行きましょう。サシャ、時間になっても戻らなかったら、片付けを手伝ってもらってもいいかしら」

「はい、エリア様」

 快く引き受けてくれた隣人に笑顔をひとつ投げかけて、マティルデは神官の背中を追う。



 傷ついた少女たちを立ち直らせるために、雲の神殿には別館が用意されていた。

 神官長や責任者以外の男性は立ち入らないし、そこが雲の神殿の関連施設であることは外から見ただけではわからない。

 別館は神殿から近いところに建っていて、面会は専用の部屋で行われる。

 マティルデがこの部屋へ通されたのは、初めての出来事だった。

 アデルミラが様子を見に来た時は、雲の神官だからなのかごく自然に、別館の食堂で会った。

 マージとユレーが来た時には、神殿の片隅で再会を喜んだ。


「さあ、マティルデ」


 狭い部屋の中にはテーブルと椅子があり、二人分の飲み物がもう用意されている。

 中で待っていたのはユレーで、マティルデは親しい仲間の再訪に喜びと小さな不安を覚えていた。


「ユレー、また来てくれたのね」

 同居人の女はぎこちない笑みを浮かべて頷き、飲み物を口に運んでいる。

「マージは一緒じゃないの?」

「……そうなんだよ、マティルデ」


 案内を終えた神官が小さく礼をして、部屋を去っていく。

 ユレーが伸ばしてきた手に両手を包まれて、よくない話があって来たのだとマティルデは悟った。


「いろいろ考えてきたけど、なんにせよ事実は変わらないから、単刀直入に言うよ」

 もう、マージとは暮らせなくなった。

 ユレーの言葉はこれ以上なくシンプルで、少女の心を震わせている。

「どうして?」

「あんたにちゃんと話さなくて悪かったよ。マージには大事な友達がいてね。……長い付き合いらしくてさ。そいつがどうしてか酷い怪我をして倒れてたんだ」

「もしかして、ヌーって人?」

「知ってたのかい」

「ううん、知らないけど。マージが少し話したことがあって」

 ユレーは小さく「そう」と呟き、最近家を空けていたのは、そのヌーを助けようとしていたからだったと話した。

「今、ヌウは一人じゃとても暮らしていけないんだ。働くどころか、まともに歩くことすら難しい」

「マージはヌーと暮らすってこと?」

 唇を尖らせたマティルデに、ユレーは小さく首を振り、仕方がないんだよと囁く。

「ヌーがいたら一緒に暮らせないの?」

「ヌウは男だし、なにか隠しごとをしてる。素直に手助けを受け入れている訳じゃないんだ。正直、マージにだって荷が重いだろうと思ってるよ」


 ユレーの言葉の陰には、不穏な気配が漂っている。

 ヌーはギアノを探していたはずだ。あの話をした時、マージは珍しくしどろもどろで様子がおかしかった。


「とにかく伝えないとと思って、今日はとりあえず話しに来たんだよ」

「そのヌーの怪我が治れば大丈夫なんじゃない?」

「さあ、どうかな。ヌウがどうなるか、マージがどうするかなんてわからないからね」

「マージはヌーがよっぽど大事なのね」


 しゅんとしてマティルデがこう呟くと、ユレーは珍しく険しい表情をして答えた。


「マージはあんたのことも本当に大事に思っているよ。あの子は散々悩んだし、あんたの力になれないって泣いていたんだからね」

 これまでの恩に感謝して、これからは自分の足で立つだけだとユレーは言う。

「ヌウとは違ってあたしらはどっちも健康で、条件をつけなきゃ働く場所はすぐに見つけられる」

 マージの優しさにいつまでも頼り切っていてはいけない。

 この後の暮らしを真剣に考えなければいけない。

 ユレーはマティルデの肩を優しく抱くと、一度故郷に戻って出直したっていいんだと呟いた。


 ギアノにも同じように言われた。迷宮都市できっと一番親切であろう男にも。


「その辺のやつらと組んでもいいなら探索者にはなれるよ。本当に女だけで行きたいとか、魔術を習ってからがいいなら、ひとまずどこかで働かなきゃいけないだろう。仕事はいくつか探しておく。寮に一緒に入れそうなところがないか、いくつか目星をつけておくよ。とにかくマティルデ、ここを出た後どうしていくか、決めなきゃいけないよ」


 また来るからよく考えておくよう言い残し、ユレーは帰っていった。


 マティルデの中にはもやもやが渦巻いている。

 仲間になれそうな女の子を探しておいてと言ったのに。

 いつの間にか状況はそれどころではなくなっていたのに、知らされずにいたなんて。


 マティルデはしょぼくれたまま作業部屋に戻って、白い石と向かい合っている。

 面白くない作業だが、周囲の少女たちの真剣な表情を見れば、どんな軽口も言えはしない。

 


 雲の神殿の別館に身を寄せている少女は何人もいる。

 皆辛い経験をしているが、心に抱えた傷の重さ、大きさはそれぞれに違う。

 

 少女たちは雲の神の恵みを象った印を白い石に彫る作業をさせられていた。

 それは神官が身に着けるしるしに似ていて、お守り代わりになると言われて作っているものだ。

 みんなで大きなテーブルを囲んで、作業をしていく中、誰かがぽつりぽつりと語りだすことがある。


 始まりは大抵が同じで、なんにもない田舎町から出て、迷宮都市へ向かうというもの。

 ほとんどの少女たちは、仕事を探しに迷宮都市へやってくる。

 家族に仕送りをするとか、兄妹が多くて負担を減らすためとか、理由は少しずつ違う。

 そしてどこかの店で働き始めた後に、悪い男に出会ってしまう。

 同じ店で働く先輩だったり、近くで良く見かける似たような年頃の青年だったり、立場はいろいろだ。

 けれど彼らの行動は同じで、皆、少女に迫り、暴力を振るう。

 酔った勢いに負けたり、立場を利用して逃げられないようにしたり、集団になって襲い掛かってきたりする。

 

 誰かが自分の身に起きた出来事を話した時は、みんなで寄り添って声を掛け合う。

 辛かったね、よく話したね、大丈夫だよと痛みを分かち合って、心の澱を流していく。

 胸の奥底に溜まっていた涙を全部絞り出したら、次は少しだけ明るい話をし始める。

 もうだまされない。もっと慎重に行動する。身を護るための方法を考える。今度はこんな店で働きたい。

 新たな希望を口にできたら、誰かが「優しい人」について語りだす。

 受けた親切や思いやりについて話して、聞いて、希望の光を胸に灯して、微笑みを取り戻す。

 


 雲の神殿の日々は作業と、祈りと、規則正しい暮らしと、互いの声に耳を傾けるの繰り返しだ。

 安全で静かな暮らしの中で傷を癒して、少しずつ外へ行く時間を増やしていく。

 自分の経験を口に出すのはできれば乗り越えたい壁のようで、気持ちが落ち着いたら話すと良いと神官から言われている。


 それが済んだらここから出られるのだろうかと、マティルデは考える。

 今ぱっと話して、他の女の子たちと慰め合ったら、つまらない作業は終わりにして自由の身になれるのか。


 復讐は諦めるように諭され、それについては納得している。

 マティルデの細腕で勝てる訳がないし、魔術師になった後にやり返せば冗談では済まなくなる。

 そもそも、いきなり集団で殴りかかってくるような非常識な連中とは関わらない方が良い。

 神官の言葉は御尤もでしかなく、マッデンに一発くらわせたことで満足するべきだった。


 穏やかな日々の中で、気持ちはすっかり落ち着いていた。

 正直、刺激のないつまらないこの状況から逃げ出したい気持ちの方が強くなっている。

 男性と話すことくらい、できると思う。考えてみれば、「緑」の迷宮で出会った暴漢以外に、マティルデにひどいことをした男などいないのだから。

 ギアノとアダルツォは大丈夫。彼らは親切だから。二人の仲間であるコルフもカミルも、ティーオだって平気だ。

 樹木の神官長も、雲の神官長も大丈夫。お髭の君だって問題ない。

 よくよく思い出してみれば、コルディの青空で出会った大したことのない魔術師だって怖くはなかった。


 故郷になんて帰りたくはない。父も母も優しいし、兄と姉も友達もみんな親切だけど。

 あそこでは魔術師にはなれないし、のんびりと羊の世話をする暮らしなんてしたくない。


 今こそ勇気を振り絞って、飛び出すべきだ。


 必要な儀式をさっくりと済ませようとマティルデは決めたが、その瞬間、テーブルの隅から声があがった。

「あの……」

 視線は一気に声の主に集まる。

 少女たちの中で最も顔色が悪く、いつでも悲しげに俯いているカリネラが、両手を胸に当てた姿勢で小さく震えており、全員が静かに様子を窺っている。

「私、……ね」

 話が始まる前からもう涙が零れ落ちていき、両隣の少女たちが手を伸ばしている。

 右手と左手を握られ、大丈夫よ、無理はしなくていいとささやかれながら、カリネラは語り始めた。




 全員で食事を済ませて、寝室へと戻る。

 四人ずつ寝起きできる部屋が用意されているが、今はマティルデだけだ。


 カリネラは大粒の涙を流しながら、何度も何度もくじけそうになりながらも自身の経験を語った。

 それはそれは不幸な物語で、とてもマティルデの話などできる雰囲気ではなくなってしまった。


 マティルデと同じ年のカリネラは、酒浸りの父親に売り飛ばされ、娼館で働かされていたらしい。

 それだけで少女たちは息を呑んだのに、同じ店で働く他の女の子から嫌がらせを受け、従業員からいじめられ、挙句に子供まで身ごもって。

 娼館で働き続けるために、子供はどうにかしなければならなかった。

 カリネラは唇を噛んで、守ってやりたかったのにと呟き、泣いた。


 マティルデにはわからない。なにがどうすれば「子供が駄目になってしまう」のか。

 カリネラ自身も詳細には語らなかった。とにかく彼女は身籠り、けれど赤ん坊は産まれず、どこかに消えてしまったようだ。

 それ以来心が弱って、客を取るどころではなくなった。

 売られた身であるカリネラには助けてくれる人がいない。

 故郷の親ですら頼れない。将来を悲観し、絶望に暮れる少女を哀れに思った人がいて、雲の神官長の介入に繋がったのだという。


 途轍もない不幸を打ち明けたカリネラはマティルデのルームメイトだったが、今は神官の部屋にいる。

 いつも暗い理由はよくわかったし、ひどく陰気だと思っていたことは申し訳なく思う。

 家族ですら頼れない境遇には、同情するけれど。

 自分がひどく我儘で贅沢者のように思えて、マティルデは落ち着かない。


 カリネラとはあまり話したことはない。

 ここはつまらないところね、とか、早く外に出てマージたちと暮らしたい、とか。

 そんなことは言ったような気がしている。


 どう思われていただろう、と少女は思う。

 カリネラだけではなく、雲の神に仕える神官たちからも。

 マティルデから他の少女たちに、自分がここに来た理由はまだ話していない。

 この場にいるだけで、なんらかの被害にあったことは間違いない。

 口にするのも辛いことだから、無理に聞き出そうとする者もいない。

 

 やって来てから今まで、事情を話した女の子は三人いた。

 皆の反応からして、似たような出来事があって、傷ついているのだと思う。

 確かに酷い目にあったけれど。

 助けてくれなかった幼馴染に一発かまして、仲間を探して一流の探索者になってやるなどと考えているのは自分だけのようだった。

 皆もっと良い職場を見つけたいとか、素敵な人と出会って穏やかな家庭を持ちたいとか、故郷に帰りたいとか、両親が恋しいとか。

 異質であることは構わない。他人は他人、自分は自分だとマティルデは思っている。

 けれど、なんとも居心地が悪い。場違いな気がしてならない。


 抱えたモヤモヤに堪えられなくなってきて、マティルデは部屋の扉をそっと開いた。

 就寝時間を迎えた別館の廊下は薄暗く、よく見えないがとりあえず人はいない。

 神官は時々見廻りをしているようだから、音をたてないように慎重に扉を閉めていく。


 そろりそろりと歩いて、曲がり角に辿り着く。

 カリネラが部屋にいるから、今夜、神官は見回りをしないのかもしれない。

 なんの考えもない。ギアノにもユレーにも言われているのに、問題が大きすぎて抱えていられず、久しぶりに自由に外を歩いてみたくなってしまって。

 そんなふわふわな気持ちのまま進んでいくと、普段なら施錠されているはずの扉は開いていて、少女を外へ導いてしまった。

 急に広がった視界に心が浮かれて、人通りのない道を歩き出す。

 誰もいない道は時々掲げられた外の灯りと月に照らされただけで、酷く暗いのに、それでもマティルデは高揚を感じて進んでいった。


 マージの家には戻れない。

 ユレーに告げられた現実に、心が軋む。

 さすがにギアノを頼るわけにはいかない。アデルミラもいるし、勝手に抜け出してきたなんてさすがに言えない。

 またキャリンのところに潜り込むのもまずい。一晩くらいなら引き受けてくれるだろうけど、どこかの店の寮だし、同じ部屋にあと三人も暮らしているのだから。

 樹木の神官長の家を飛び出した時と、今と、まったく同じだとマティルデは思った。

 着の身着のままで、一文無しで。

 不安な気持ちもあるが、どこかおかしくもある。また同じことを繰り返しているという反省もあるが、うきうきした気分でもあった。

 解放感のままに歩いていくと、すぐに魔術師街に行き当たった。

 夜中にそのあたりを彷徨っている気の良い魔術師がいて、弟子にしてくれて、住み込みであれこれ教えてくれるとか。

 探索者のための貸家や売家とは違った趣の魔術師の家々に、都合の良い期待をしながら歩いていく。

 親切で腕の良い魔術師がいて、一流の探索者へ続く道へ導いてくれたらいいのに。

 マティルデがそばにあったしゃれた石造りの屋敷を覗き込むと、急に窓の中に怪しげな色の光が浮かび上がって、慌てて逃げ出していく。


 雲の神殿へ戻らなければという思いはあった。けれど今夜はどうやら逃げ出したい気持ちの方が強かったようで、マティルデはいつの間にか派手な外装の店の前に辿り着いていた。

 今は最低限の灯りしかつけられていないが、大きな看板が光を受けて輝いており、店の名前が見える。


 ウベーザ劇場


 大きな扉が取り付けられており、装飾のあちこちが金色に輝いていて眩しい。

 建物脇から漏れだした光に気付いて、少女はそっと近づき、のぞき込む。

 ついつい奥へ進んで、裏口へ。

 ちょっとだけ、見たらすぐに戻るという誓いはあっという間に消え去って、中に広がっていた異世界に足が止まってしまった。

 たくさんの木箱が置かれ、美しい衣装が吊るされている。

 輝く石で飾りたてたドレスのあまりの美しさに、マティルデは息を呑んでいた。

 深紅のドレスには、赤い輝きが。紫のベールにも、青いスカートにもそれぞれに合わせた石が添えられ、眩く光っている。 


「あんた、新入りかい」


 初めての光景にくぎ付けになる少女の隣には、いつの間にか女が立っていた。

 びっくりしてなにも答えられないままマティルデが振り返ると、長い艶やかな黒髪の美女がいて、微笑みを浮かべている。


「名前、なんだっけ?」

「マティルデよ」

 勝手に入ったことを詫びるか、間違えて入ってしまっただけだと言い訳するか。

 そんな下らない二択で悩んでいる間に、話は勝手に進んでいく。

「マティね。良かった、可愛い子が来てくれて。衣装合わせに来たんだろう? 早く済ませて、練習に戻るよ」

「あの、あたし」

「ふふ、確かにちょっと足りないねえ。大丈夫だよ、胸には詰め物を入れたらいいのさ」


 マージよりもずっと派手な化粧をした女に連れられ、小部屋へ放り込まれてしまう。

 あっという間に服を脱がされ、やけに露出の多い衣装に着替えさせられ、おまけに化粧まで施され。


「あんた、この足の痣はなんだい。怪我でもしたのかい?」

 マティルデの答えは不要らしく、口を開く前に女は笑った。

「まあいいよ。目立たない位置だし、ごまかせる。それよりも、もう少し色気が欲しいところだね」


 女の手際が良いせいで、あっという間に仕上がり、手を引かれるままに店の奥へと進んでいく。

 荷物だらけだった部屋から出て、廊下を抜けて、また別の大きな部屋へ入り、更にその奥へ。

 扉の向こうでまず見えたのは、眩しい光。

 目が慣れてきて、大勢の女の子がいるとわかる。

 広い大きなスペースにはたくさんの少女が揃いの衣装で並んでいて、奥にはいくつか楽器が置かれている。

「遅いぞ、ラジュ」

「新入りの用意があったんだよ」

「じゃあ始めるぞ! 配置について」


 なにがなにやらわからず、マティルデはひたすらにまごまごしてしまう。

「マティ、あんたはこっちだよ」

 着替えさせてくれた美女に連れられ、列の後ろ側の一番端に立たされると、音楽が流れ始めた。


 ラジュと呼ばれた美女が前に進んでいって、歌い始める。

 すると少女たちは手を振り、足をあげ、踊り始めた。


 透けた素材でできた衣装がひらりひらりと揺れている。

 ラジュは体中につけたアクセサリをじゃらんと鳴らしながら、美しい歌声を響かせている。


「あんた、振りを覚えてないの?」

 背後から腕を引かれて振り返ると、厳しい表情の女がマティルデに向けてすごんでいた。

「覚えてるはずないわ。さっき急に着替えさせられたんだもの」

「踊れるって聞いていたのに」

 慌てて否定するマティルデに、女ははっきりと舌打ちをしている。

 歌が途切れて、真っ赤な口紅のラジュが近づいてきて、どうかしたのかと問いかけてきた。

「この子、踊れないらしいんだよ」

「ドゥストの踊りだよ。覚えてるでしょ」

「知らないわ、そんなの」

「ああ、また調子の良いこと言ってたんだね、ザグの奴! まったくいい加減なんだから……」


 一日で覚えられそうかと確認されて、マティルデはまた首を横に振っている。

 ラジュと女は顔を見合わせ、一瞬で意思の疎通を終えたようだ。


「給仕にまわせばいいんじゃない?」

「ううん。もうちょっと胸が大きい方がいいんだけどねえ」

「確かに。はは、腰回りも貧弱だけど、顔は可愛いよ。とびっきりね。大丈夫でしょ」


 二人はマティルデの体のあちこちを勝手に触り、軽口を飛ばしながら笑っている。

 少女は慌てて自分はここの従業員ではないと訴えたが、女たちは顔を見合わせるだけで何も言わない。

 まったく取り合ってもらえない状況にようやく焦り始めて、マティルデはぺこりと頭をさげ、誠実な謝罪をしなくてはと口を開いた。


「勝手に覗いたりしてごめんなさい。あたしはちょっと外を歩いていただけだったの。事情があって自由に歩けずにいたから、久しぶりの夜の散歩が楽しくって、それでたまたまこの店に辿り着いただけで」

「そうね、そうよね。偶然なのよ」

 ラジュは訳知り顔で頷き、マティルデの肩に腕を回してぐっと引き寄せる。

 女から漂う香りは甘いが、ひどく重たい。甘ったるすぎて思わず顔をしかめた少女に、歌い手の女はにっこりと笑った。


「みーんなそう言うの。思っていたよりも厳しくしごかれて、逃げ出したくなってね。はは、あたしもそうだったなあ。初めて劇場で働き始めた時は」

 懐かしいと笑うのんきな女に、マティルデは頬を膨らませている。

「違うわ、私は」

「練習も厳しいし、売り上げがなきゃ扱いだって悪くなる。でも、結構いい仕事だよ。明日の開店であたしらがうまくやって、軌道に乗せれば全部うまくいく。お客がいっぱい入れば、みんながっぽり大儲けさ」

「ねえ、話を聞いてよ」

「聞いてるよ、マティ。ビビっちゃったんだろう。確かに信じられないくらい大きな店だもんね。でも大丈夫、すぐに慣れるし、あんたの可愛い顔ならその体でも良いお客さんがつくよ。困った時にはジュエットを呼んだらいい。どんなトラブルにも対応してくれるから」


 どうやらもう一人の女の名はジュエットらしい。

 マティルデに理解できたのはそのくらいだった。

 いつの間にか踊りの練習は終わり、少女たちは一か所に纏められ、ラジュとジュエットの二人に追い立てられるように廊下を進んでいく。


 マティルデはいくつか苦情を申し立てたが、まったくまともに相手にされないまま終わった。

 たどり着いたのは大きな部屋で、まずは着替えを済まさなければならないらしい。

 開かなくなってしまった扉相手に憤慨していると、後ろからおとなしそうな少女が声を掛けてきて、早く衣装を脱ぐように言った。


「ねえ、あたし、ちょっと覗いていただけなの。間違えて従業員にさせられちゃっただけなのよ」

「そんなこと言われても困るわ。とにかく早く着替えを済ませて」

「どうして誰もわたしの話を聞いてくれないの?」

「ねえ、困るの! 衣装はきっちり揃えてそこにかけるのよ。これが終わらなきゃみんな休めない」

 マティルデが振り返ると、踊り子の少女たちがみんな視線を向けていた。

 いそいそと脱ぎながら、あるいは着替えを身に着けながら。揃いも揃って冷たい目でマティルデを見つめている。

「もう遅いでしょ。明日だって昼から稽古があるのよ。一人でも遅いとみんな怒られるから」


 ほら早く!

 一斉に急かされて、マティルデも慌てて衣装を脱いでいく。

「着替えは?」

「もう、これでも着てちょうだい」

 苛々と手渡された服を受け取り、急いで身に着け、衣装はちゃんときれいに揃えて指示されたところへしまう。

 全員が着替え終わったことが確認され、隣の部屋へ。

 化粧を落とすよう言われ、ここでもせかされ、手出しをされながら顔を洗い、終わったらまた更に奥の部屋へと向かう。

 ベッドがずらりと並んだ大きな部屋で、マティルデはくらくらしていた。

 けれどここでぼんやりすることは許されないらしく、一番奥の空いたベッドへ行くように言われ、仕方なく向かい、他の少女たちに倣って横になる。


 声が聞こえる。全員揃って床に就いたと誰かが宣言して、扉が開いて。

 背の高い男がやって来て、少女たちがベッドに横たわっていることを確認し、去っていくと灯りが消された。


「……ねえ、ねえ」


 静かになったのを見計らい、隣のベッドに向かって声をかけていく。

 けれど「駄目よ」とか、「寝かせて」とか、そんな返事がしたっきりで、さすがのマティルデももうなにも言えない。

 こっそりと立ち上がろうとしただけで咎められ、もう寝るしかない。

 

 見知らぬ部屋の硬いベッドに横たわり、マティルデは雲の神に謝っていた。

 真摯な祈りからは程遠いが、きっと必死の思いでいることは伝わっただろう。

 勝手に抜け出してしまった自分の愚かさを、人生で一番深く後悔していた。

 作業にも真面目に取り組まず、祈りや学びの時間をめんどくさいと考え、ちょっとくらいいいだろうという安易な思いで抜け出して。

 挙句の果てがこれだ。ギスギスした職場に組み込まれ、踊り子だか給仕だかの仕事をさせられそうになっている。


 神殿での規則正しい暮らしとは違って、今日の就寝時間はひどく遅い。

 雲の神殿では早すぎてなかなか眠れなかったが、今日は訳のわからない状況への不安でなかなか寝付けない。

 明日の朝になったらまず、手違いで入り込んでしまったことを責任ある立場の人に伝える。

 取り合ってもらえなかったら、雲の神殿へ確認してもらうよう頼むしかない。


 ユレーが今どこで暮らしているのかはわからないから、すぐに頼るのは難しいだろう。

 マージは身動きが取れるだろうか? ギアノなら頼めば、迎えに来てくれるだろうとは思う。

 アデルミラに頼んだのは自分なのに、こんなことになってしまって恥ずかしい。

 さすがにいろんな人に叱られるだろう。

 この世で一番嫌いなのは説教の時間で、マティルデの心はどんよりと曇っている。

 けれど仕方がない。自分の浅はかさが撒いた種なのだから。怒られたとしても、今回はきっちり受け止めなければ。

 小さくため息を吐いて、誰に怒られるのが一番マシか考えては項垂れて。


「ちょっと、あんた、早く起きなさい」


 いつの間にやら眠っていたようで、今は容赦なく体を揺らされている。

 マティルデが目を開けると、四人か五人か、少女たちが覗き込んでお寝坊さんを急かしていた。


「遅れたら朝食抜きにされちゃう」

「お願いだから早く起きて」


 とうとう手を引かれて体を起こされ、三人がかりで立たされる。

 まともに覚醒しないまま少女たちの列に加えられ、状況を把握しないまま先へと進んでいく。


 後ろの少女が歩きながらマティルデの髪をまとめて紐でしばり、前を行く少女に目元をこすられる。

 さすがに目が覚めて、どこへ行くのか問いかける。

「行けばわかるから」

 

 列になったまま進んで、止まって。

 順番に用を足して、また列になって進んだ先で食事をとって。

 次は着替えの時間らしいが、マティルデは責任者を探したい。


 けれどウベーザ劇場の人間は、まったく人の話を聞かないと決まっているらしく、結局周囲の流れに巻き込まれ、マティルデは給仕用らしき衣装に着替えさせられていった。

 

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