157 決意の行先
「……魔術師ってのは、わけがわかんねえモンなんだな」
ルンゲは弟を見つめたまま、ぼそりと呟いている。
今起きた事態の意味不明さに加えて、なぜか起きてこないミンゲに疑問を感じているのだろう。
確かに、ミンゲなら物音や話し声に気が付いて起きてくるだろうとデルフィも思う。
メハルもすやすやと眠っていて、二人が目覚める気配はない。
「ルンゲさん」
「妙な奴だと思ってはいたが、オーリー。……お前、なにモンなんだ?」
「あの、聞かれていたと思うんですが」
ルンゲは呆れたような顔で笑いながら、神官だったとはなあと呟き、弟のそばに腰を下ろした。
通路の先ではまだ、ニーロの描いた光の線がほのかに輝いている。
「お前に会いに来たって言ってたが、どうやったんだろうな?」
確かに、ルンゲの言う通りだ。
自分たちが採集の為に探索に出ていたのは店に聞けばわかるだろうが、夜明かしの場所をどうやって探し当てたのかわからない。
「無彩の魔術師は樹木の神官長様と懇意の仲と聞きますから、業者の寄りそうなところを聞いたのかもしれません」
「そんな風だと調子が狂うぜ」
ルンゲはおかしかったのか小さく噴き出し、余計な寄り道をしたことまでわかるはずがないのに、と話した。
確かに、三輪草が見つかったのは偶然の出来事で、予定していた行程とはズレが生じている。
二人は迷宮の中を地道に探し回って、やっとここに辿り着いたのだろうか?
「急に足音がしたのも、わけがわからねえな」
「急に、ですか」
「遠くからだんだん近づいてくるモンだろ、普通なら」
二人は突然近い位置に現れたように思った。
ルンゲはそう言うと、デルフィが抱えたままの袋を指さし、問いかけてきた。
「なにをもらったんだ。旨い保存食って言ってたな、あのチャレドみたいな奴は」
「ギアノです。東に出来た新しい店の食品を作っているのは、彼なんですよ」
「それってまさか、ティーオの良品のあの旨いモンのことか?」
「そうです」
ルンゲは急に鼻をすんすんと鳴らして、いい匂いがする、と囁くように言った。
確かに、袋からたまらなく良い香りが漂っていて、腹がきゅるきゅると鳴っている。
目で促されて、中身を取り出す。
ギアノは保存食の話しかしていなかったが、中にはまだ温かいパンのようなものと、乾燥果実も入っていた。
「これは、ルンゲさんが食べたがっていたものかもしれません」
「本当か」
「多分……」
「メハルに聞けばはっきりするかな」
菓子の為にたたき起こすのは気が引けるのだろう。ルンゲは鼻に皺を寄せ、口をへの字に曲げている。
「せっかくだし、食べませんか、ルンゲさん」
「そういうわけにはいかねえ。ミンゲだって食いたいだろうし」
「ちゃんととっておけばいいんじゃないですか。これ、まだ温かいんです。焼いてすぐに持ってきてくれたんだと思います」
今はきっと夜遅い時間のはずなのに。
魔術師の口ぶりから考えると、今回の訪問を計画したのはニーロの方だろうと思える。
なのにギアノはこんなに「うまい物」を用意して持って来てくれた。
「焼きたての熱いモンを抱えてきてくれたのか?」
確かに、十四層も降りるうちに冷めてしまいそうなものだとデルフィも思う。
「あの魔術師ならあっという間に進めるのかもしれませんね」
「本当にお前、オーリーなんだよな?」
結局ルンゲは焼き菓子に手を伸ばしてきて、さっそくぱくりとかじりついた。
「はあ……。マジかよ」
目を閉じたまま天を仰いで、リーダーは唸るような声を上げている。
「お前は食べたことあるのか、これ」
「いいえ、初めて見ました」
「今すぐ食え」
ギアノに渡された袋の中には、たくさんの食べ物が詰まっていた。
袋の底には籠があり、果実や菓子、干し肉と、保存用の葉に包まれたサンドがきれいに並べられている。
迷宮で夜明かしをしているところに行くから、こんなに食料を差し入れようと考えたのだろうか?
デルフィも一番上にのせられていた焼き菓子を手に取り、かじっていく。
「美味しい」
「こんなところで食えるとは思わなかったぜ」
「本当ですね」
ルンゲはもぐもぐと口を動かしながら、袋の中身を確認している。
目をきらりと輝かせる様子はどこか無邪気で、普段の仕事中には見せないものだ。
「メハルはお前の正体、知ってんのか?」
不意に問われて、デルフィはどきりとしている。
けれど、この状況で答えないわけにはいかないだろう。
「半分くらい、でしょうか。本当の名前は教えたことはありません。身を隠していたことは知っています。神官だということもわかっていたと思います」
「お前らが同じところから来たってのは、嘘だったんだな」
「すみません。その方が、メハルを雇ってもらいやすくなると思ったので」
「いいんだ、別に。そんな些細な話を責める気はねえぞ。メハルはもう店にとっちゃ最高の従業員なんだからな」
ルンゲの手には、最後のひとかけらが残っている。
四人組のリーダーは小さくなってしまった焼き菓子を持ったまま、「オーリー」にこう語りかけてきた。
「いろいろ事情があるみたいだが、俺が気にしてることはひとつだけだ」
「なんでしょう、ルンゲさん」
「お前、行っちまうのか?」
ミッシュ商会で働くのをやめて、どこかへ去ってしまうのか。
ルンゲの問いに、デルフィはいつまで経っても答えられずにいる。
「お前がいなくなったら困るな。せっかく良いチームが出来たってのに」
「……ありがとうございます」
「やめろよ、まったく。まともなオーリーってなんなんだ、慣れる気がしねえよ」
ルンゲはそう答えたが、自分たちも協力するから、必要なら事情を話して聞かせるといいと言ってくれた。
「隠せないだろ、こんな旨いモンがいきなりここにある理由を。だからミンゲにはある程度、話をする。いいな、オーリー」
「はい」
「今のうちに全部食っちまえばバレねえかもしれないが、さすがにそんなひどい真似は俺にはできねえ」
深刻な顔でかけらを見つめるルンゲの姿に、デルフィは思わず笑ってしまう。
「あのチャレドみたいな奴、いつか俺にも紹介してくれ」
「わかりました。きっと、仲良くなれると思います」
「なあオーリー、とにかく、どうするか決めたらちゃんと知らせろよ。悪いようにはしねえから」
そろそろ交代の時間になると言って、二人を起こしてもいいかルンゲに問われた。
こんな質問になら、すぐに答えられる。
わかったぞ、やっと寝られると、オーリーなら言うだろう。
大きな決断をしなければならなかった。
無彩の魔術師の提案のうち、他の街へ逃れるという選択肢だけは絶対に選べない。
ベリオたちの辿った運命については、理解できた。もっと詳しく話を聞く必要はあるだろうけれど、ギアノとニーロが調べ、考えて、確認して出した結論なのだから、信じると決めている。
ベリオとダンティン。生きていて欲しかった二人。けれど、もういない。二人は永遠に戻らない。
そして、ドーン。迷宮調査団員のチェニー・ダング。今なら彼女が憔悴していた理由もわかる。
ジマシュとの間になにが起こったのかはわからないが、二人を罠に掛け、命で償うしかないと思い詰めて、実行してしまったのだろう。
それぞれの身に、相当なことが起きた。
ヌエルも酷い怪我をしているというが、ジマシュと無関係ではないのかもしれない。
これからどうするのか?
もちろん、ニーロの望みに応えるつもりだ。
けれどメハルのことが気にかかる。ミッシュ商会は良い職場だし、ルンゲたちがいて、心配はないけれど。
すぐに仕事を辞めて去るには、急すぎる気がしていた。
「なんだ、この匂い? 兄貴、なに食ってんだ?」
「お前、起きた瞬間にそれか。すごいな」
「は? んん? 本当になんの匂いなんだ。すごく腹が減る!」
ミンゲがぱっと目を覚まし、メハルも起き上がっている。
ルンゲに休むように言われて、デルフィは休憩場所の隅に追いやられてしまう。
目を閉じ、背後のざわめきを聞きながら、溜まった疲労に流されて、眠りの海へ誘われていった。
揺れる波の中にベリオの顔を見て、ダンティンの声を聞く。
ドーンとカヌートの様子を思い出し、その背後に輝くジマシュの瞳に体がすくんでしまう。
揺られ流され、たどり着いたのは故郷にある小さな神殿だった。
小さな村にしては珍しく鍛冶の神殿があって、修行に励み、さまざまなことを学んだ。
デルフィ、ジマシュと共に行くのか?
年老いた神官に、そう問われたことがあった。
まだ迷宮都市に行くと決める前。ジマシュに行くぞと言われるよりも前のことだ。
あの時、否定したけれど、行くぞと言われたら断れないだろうと考えたのを思い出す。
ずっと一緒にいたから。ジマシュは頼りになる、頭の良い、僕の友人だから。
あの頃はまだ、そうだった。
そのはずだ。
そうだったと信じたい。
それとも、ずっとずっと違っていたのだろうか?
まだ幼く無邪気だった子供の頃から、二人の関係は定まっていたのか。
自分のために動く、利用できる便利な駒になるよう、心を染められていたのだろうか。
決して裏切らない人の好いデルフィは、ジマシュの理解者でも、一番の友人でもなかったのだろうか――。
「オーリー、朝だぞ」
本当は朝かどうかは、迷宮の中ではわからない。
けれど夜明かしを終えたら、起こす時にはこう声をかけるしかない。
「おはよう、オーリー」
メハルとミンゲに声をかけられ、笑顔を返す。
二人の様子に変わりはないが、オーリーらしくない振る舞いをしていてもなにも言われない。
ルンゲはミンゲにどう説明したのだろう? わからないが、帰りの支度をする四人の間に流れる空気は、とても穏やかだった。
「例のサンドを食べようぜ。兄貴、食事はこれでいいよな」
「いいに決まってるだろう。早く用意してくれ。楽しみにしてたんだ」
ギアノの差し入れの袋はもうぺちゃんこになっている。
焼き菓子は食べ終わり、保存食と果実は四等分にされてそれぞれの荷物袋に入れられたらしい。
「おいおい、こんな旨いモン初めて食ったぞ」
ルンゲの喜ぶ声を聞きながら、デルフィも一つ手に取って食べる。
彼の料理を食べたのは、コルディの青空に寄った時だけだ。
店主のバルディがメインで料理をしていると言っていたから、ギアノの腕はバルディよりも良かったか、あれから腕をあげているのだろう。
「これは売ってねえのかな」
「売ってたらいいよなあ」
ギアノは今、どこで暮らしているのだろう。
時間がなかったから、なにも聞けなかった。
ニーロを訪ねれば教えてもらえるだろうか。
遠慮なく急かし、少しくらいなら文句を返せる程度の間柄なのだから、仲は悪くはないはずだ。
食事を終えて、片付けを済ませ、重たい荷物を背負って歩き出す。
まだ採集の途中だというのが信じられない。迷宮の中で誰かが訪ねにやってくることなど、本当に珍しい体験だろうと思えた。
いつもよりもいい物を食べたからか、ルンゲとミンゲは上機嫌で歩いている。
メハルはいつも通り隣にいるが、静かに口を閉ざしたまま進んでいた。
前列からの呼びかけには答えるが、それ以上の反応は見せない。
デルフィもなにから話せばいいのかわからず、なにも言えないままだ。
十二層について、回復の泉の水を飲み、更に進んでいく。
上がって行くうちに探索者たちとすれ違うようになって、迷宮の恐ろしさは薄れていった。
肩が痛い。籠が重たくて、足も随分疲れている。
六層に辿り着き、また泉の世話になって、体は安堵に満たされる。
ますます増えていく探索初心者たちと道を譲り合い、夜になる前にようやく、地上へ辿り着いていた。
「よし、店に帰るぞ」
「あいよー」
夕日の落ちた迷宮都市の西側の道を、四人は並んで歩いていく。
予定よりも遅かったなと声をかけられたが、薬草を倉庫にしまう作業を終えた時には、店のまとめ役はすっかり上機嫌になっていた。
「そういえば、見せてもらうのを忘れていたね」
メハルは小声でそう呟き、デルフィに向けて微笑んでみせた。
「そう……だなあ。見せてもらえば良かったかなあ」
「なんだよオーリー、その変な話し方は」
心が定まっていない。ニーロに協力するつもりなのに、ミッシュ商会からすぐに去る気もないから。
オーリーのままでいるのか、デルフィに戻るのか、決められない。
ルンゲの前で仮面を外してしまったし。
ギアノと会ってしまったのも大きい。彼は見た目にまったく惑わされず、一目で鍛冶の神官だと気づいてくれたから。
なにもかもが半端なまま、片付けを済ませていった。
摘んで帰った草を倉庫に移し、使った装備を洗って、干して。
寮の食事の時間は過ぎていて、デルフィはメハルと二人きりで夕食を平らげ、遅い時間に体を洗った。
二人はすっかり夜が更けてから、ようやく部屋に戻っていた。
長い採集が終わったら、一日休みを取ると決まっている。
だから明日、どうしてもみんなと朝食をとりたいのでないなら、寝坊しても構わない。
「オーリー、……さっき気付いたけど、頭のてっぺんのあたり」
髪が伸びて来て、地の色が出て来てしまったのだろう。
賢い少年はこういった細かいところにすぐに気付いて、染める手伝いをしてくれる。
「もう遅いけど、どうする? 今のうちに染めちゃう?」
「いえ、メハル。……もういいんです」
代わりにお願いがあると打ち明け、はさみを用意してもらう。
デルフィは椅子に座ると、メハルに髪を短く切るように頼んだ。
「切るの? できるかな。散髪なんてやったことないけど」
「適当で大丈夫。短くなればいいですから、お願いします」
デルフィの頼みを受け入れて、メハルはおそるおそるといった様子ながら、はさみを動かしていった。
少しずつ少しずつ、切られた髪がぱらぱらと落ちていく。
時々大きくジョキンと音がしたが、デルフィが笑うと、メハルはほっとした様子で作業を続けていった。
ぼうぼうに伸びた髪を短くするのは、時間がかかる作業だった。
深夜になってしまったのでメハルは先に休ませ、床に落ちた髪を集めてまとめ、デルフィは薄暗い部屋の中で髭を剃っていった。
店を辞めるのはもう少しだけ先にしたいが、ニーロに協力すると決めたのだから。
だったらもう、別人のふりをするのも終わりにしようと決めた。
デルフィの姿に戻ればすぐに見つけられて、ジマシュがやってくるかもしれない。その時は堂々と向かいあい、自分だけで事態を収める。
もう、決めなければならなかった。
これまでに目を逸らしてきたものと、向かい合わねばならないのだから。
どんなに嫌でも、おぞましくても、まっすぐに見つめなければ相手の正体は見えない。
見えなければ戦えない。理解しなければ、勝つこともできない。
無彩の魔術師の瞳を思い出す。
ピエルナという名の女性がどうなったのかわからないが、彼の中には怒りが潜んでいると感じた。
あの人は恐ろしい人だったのかもしれない
それを認めたくなかった
知らずにいたかった
自分も同じだ。気づいていたのに、目を逸らしていた。
チェニー・ダングを責めることなどできない。
ベリオとダンティンを思うと、たまらない気持ちになるけれど。
二人だけでなく、チェニーのためにも祈りが必要だとデルフィは思う。
「ベリオ、僕に力を貸して下さい」
気の弱い神官のために、いつも前に出てくれていた相棒の後ろ姿を思い出す。
ベッドの下に隠していた剣を取りだし、強く抱きしめながら、三人の魂が癒されるよう鍛冶の神に祈りを捧げていく。
チェニーがこの剣を、ベリオから奪ったのだろうか。
持ち続けることで、自分の罪を忘れないようにしていたのだろうか?
死者はなにも語れない。二人から話が聞ければいいのにと思うが、もう遅い。
「本当はそんな顔だったんだね」
昼近くになってからようやく起きると、メハルは朝の挨拶の前にこう呟いていた。
「大丈夫なの、オーリー」
「もう逃げないと決めたんです」
「昨日、うまいものが配達されたんだってルンゲさんは言ってたけど、本当はなにがあったの?」
そんな理由ではミンゲもメハルも納得するはずがない。
デルフィが思わず笑うと、メハルもつられたのかにっこりと笑った。
「ギアノが来たんです」
「ギアノ・グリアドが?」
「無彩の魔術師と一緒に、二人で来ました。メハルに頼んだ手紙は無事に届いていて、それで来たと話していました」
「夜明かししているところに来たってことだよね」
「そうです。どうやってあそこに辿り着いたのかはわかりませんが、とにかく二人が来て、話をしました」
ベリオたちの行方については納得するしかない。だから、メハルの協力はこれ以上必要なくなった。
今までの働きに感謝をして、デルフィは改めて自分の名を少年に知らせた。
「僕の名前はデルフィ・カージンです。鍛冶の神に仕える神官ですが、最近はちっとも神殿に行けていません」
「はは、そうだね」
「メハル、これまで本当にありがとう。君の協力のお陰で、無事にギアノと再会できました」
「そうかな。俺、役に立ったのかな」
「疑う余地もないほどに。メハル、少し前にも同じようなことを言いましたが、僕は君に本当に感謝しているんですよ。たくさん手を貸してもらったし、君を助けたいという気持ちが僕に命を与えて、ここまで生かしてくれたんです」
デルフィはメハルの手を取ると、鍛冶の神に祈りを捧げた。
二人のこれまでが無事に守られたことを感謝し、メハルの未来に特別に輝かしい光が与えられるよう願う。
「神官の命を救ったのですから、このお願いは聞き入れられなければいけません」
「オーリー」
そう呟いてから、間違えたと気づいて、メハルは言い直す。
「デルフィ、……店をやめちゃうよね」
少年は大きな目に涙をためて、頬を赤く染めている。
「もう一緒に働けないなんて寂しいよ」
「それなんですが、メハル。もう少しだけここで世話になろうと思っているんです」
「え? まだ、いるの? いいの?」
「ええ。無彩の魔術師に協力していくつもりですが、それですべてが済むわけではありません。神官の寮が空いているかわかりませんし、悩みもあるんです」
「なにを悩んでるの?」
「神官という身分であっても、薬草業者として働いていてもいいんじゃないかと思うんですよね」
大真面目な顔で話すデルフィの様子がおかしかったのか、メハルは目を潤ませたまま笑いだしていた。
「そんな馬鹿な話があるかなあ」
「オーリーは馬鹿なんですよ。だから、仕方がないんです」
「じゃあ、薬草屋のままでいるの?」
「わかりません。今までのように勤めるのは少し難しいと思いますから、受け入れてもらえるかどうか。相談してみないといけませんね」
髪を切って、髭を剃ったから、本来の自分の姿に戻っているはずで、それは「オーリー」の姿ではない。
まだ寮の二人部屋から出ていない。あの扉を開けば、きっとさまざまな声がかかるだろう。
「メハル、変なところはありませんか? 髭はきちんと剃れているでしょうか」
「ここ、ちょっと残っているよ」
左の顎のあたりを指さされ、少年の手を借りて最後の仕上げに取り掛かる。
髪はがたがたしているようだが、そのうちなじんで気にならなくなるだろう。
服を着替えて、靴を履き替え、心をしっかりと持ち、部屋を出る。
「おなかがすいたね、オー……フィ」
「ふふふ、誰のことでしょうか」
「仕方ないよ。さっき聞いたばかりなんだから」
「オーリーでもいいですよ。あだ名のようなものだと思えばいいんです」
二つ目の偽名は、見失った相棒の名前からつけた。
ベリオとは正反対の、物陰で震える臆病者。オーリーの名は、自分にふさわしいものだとデルフィは思う。
「メハル、誰だいその人は」
「……あれ? ひょっとしてオーリーなのか?」
顔は一致しなくても、体型は隠しきれない。だから、すれ違う従業員たちは見覚えのない男の正体に少しずつ気付いていった。
それらすべてに笑顔を浮かべて答え、ルンゲたちを探す。
今日は休んでいるかもしれないと思ったが、兄弟は薬草倉庫の前で見つかった。
「そいつは誰だ、メハル」
「オーリーだろ、よく見ろミンゲ」
ミンゲはぎょっとして兄を見つめ、ルンゲはにやりと笑った顔を二人に向けた。
「なんだったかな、お前の名前は。聞いたはずなのに、どうしてもオーリーだって思っちまうよ」
「オーリーと呼んでくれても構いませんが、ミンゲのためにも名乗っておきますね。僕の名前は、本当はデルフィ・カージンといいます。鍛冶の神に仕える神官です」
「マジかよ兄貴。オーリーがおかしくなっちまったってことか? 飯がいきなり現れたのと関係があるのか?」
「あるぜ、ミンゲ。だが、詳しい話は後だ。デルフィ、どうするか決めたのか」
「はい。悩んでいることがあるので、相談に乗って下さい」
ルンゲは力強く頷くと、近くの小部屋へ入るようデルフィたちに言った。
狭い小部屋は従業員の面接などに使うところで、メハルと共に来た日のことを思い出す。
小さなテーブルを挟んで四人で向かい合うと、ルンゲはなるほどと呟き、またにやりと笑った。
「あいつの話、本当だったんだな」
「あいつって?」
「ガデンって奴だよ。母ちゃんの形見を落としたってしょぼくれてた」
「ああ、あの言うことを聞かなかった我儘な奴か」
「緑」に取り残されていた自分を、メハルとオーリーが助けてくれた。
ガデンの話は到底信じられるものではなかったのに、不思議に思ったとルンゲは言う。
「そんなことがあるわけがねえと思ったが、あいつが一人で戻れるはずもないからな」
「え、あいつ、戻ってこれたのか?」
ミンゲは休みを取っていて、ガデンの訪問については知らなかったようだ。
「つまり、お前らは助けに行ったってことか。メハル?」
「うん。あの……、浅い層なら間に合うかもって、オーリーが気にしてて」
「確かに浅い層かもしれねえが、二人で行くなんて危ねえだろ。二度とすんなよ、オーリー」
「はい、申し訳ありませんでした」
「それで、ますます不思議なんだけどよ」
いくら浅い層であっても、ガデンを救いに行って戻ったにしては、時間がかかってなさすぎる。
ルンゲは鋭い目をきらりと輝かせると、デルフィを見据えた。
「まだなにか隠しているな、神官さんよ」
どんな隠し玉を持っているんだ?
ルンゲに迫られ、デルフィは「脱出」の魔術を使えると打ち明けていく。
「なるほどな。まったく……。本当に……」
ミンゲは驚いて固まっており、ルンゲはなにやらぶつぶつと文句を呟いている。
「じゃあ、あれだな」
一体なにを言われるか、デルフィははらはらと待っていたのだが。
「とんでもねえ事態になった時には、お前がみんなを救ってくれるんだろうな」
ルンゲたちとの採集の仕事で、大きな危機に遭ったことはない。
優秀な兄弟は油断をせず、的確な指示を出して、四人の安全を守っているからだ。
「もちろんです。そんな事態には滅多にならなさそうですけど」
「はは、ミンゲは目も耳も鼻もいいからなあ」
「なんだよ兄貴。兄貴だっていいだろう?」
「うるせえな、今は黙って褒められてろ」
座ったまま足を繰り出し、いつもより弱い力で蹴りが入れられる。
ミンゲは照れているのか、恥ずかしそうに鼻を擦っている。
「悪かったな、話が逸れて。相談ってのはなんだ?」
「はい。実はまだ、この店で働かせてほしいんです」
生々しい仲間たちに起きた悲劇や、ジマシュの恐ろしさについて語る必要はない。
魔術師に頼みごとをされたから協力しなければならないこと、これまではどうしても身を隠していなければならなかったことなどを説明していく。
けれどすぐにここから離れるのは忍びないし、できれば仕事を続けたい思いがあることなども伝えた。
すべてを聞き終えると、店に相談して、うまくやっていく方法を探るとルンゲは答えてくれた。
「三輪草を見つけた手柄もあるし、今なら少しくらいの条件は飲んでもらえるだろう」
「あれはミンゲが見つけたものですよね」
「違うぞ。採集に行って持ち帰ったものは、全部チームの手柄だ」
ルンゲはこう言い放ち、ミンゲも笑っている。
「旨いものをたくさんもらったのは、お前らの手柄だけどな」
この発言にメハルは戸惑い、ぼそぼそと呟いている。
「俺、関係ないと思うけど」
「メハルのせいで、俺はあの店の菓子が食いたくてたまらなかった」
「俺のせい?」
「だから余計に美味く感じたんだよ。そういうことでいいだろ、メハル」
とにかく今日は、しっかり体を休めろと指示が出る。
メハルは頷き、まずは昼ご飯を食べようと話がまとまって、小部屋を出た。
「オーリー」
食堂へ向かおうとしたデルフィを、ルンゲの声が引き留める。
「間違えた。デルフィ」
「いいんです、どちらも僕の名前ですから」
こう答えた神官に、薬草業者の青年は真剣な目をして、抑えた声で自分の思いを伝えた。
「……死ぬなよ、絶対に。約束していけ」
ルンゲの不器用な優しさに、感謝の思いが溢れていく。
「ありがとう、ルンゲさん」
「礼は良いから、ほら」
手を差し出されて、デルフィも自分の手を差し出し、強く握る。
「気を付けるんだぞ」
固い握手を交わしている間、ルンゲたちの身が守られるよう、デルフィは自分の神に祈った。
重たい悲劇に打ちのめされていたが、その先の得難い出会いが、自分に生きる糧を与えてくれている。
しみじみと思い知らされながら、神官はメハルと共に寮の食堂に向かって歩いていった。




