156 運命の輪
また、薬草業者としての一日が始まる。
オーリーの仮面を被ったままではなかなか考えがまとまらないが、採集の仕事が入ると、まとまるどころではなくなってしまう。
「みんな、持ち物の確認は済んだか?」
今回は十七層まで向かう採集で、最初から泊まりで行くと決められている仕事だ。
メインは群生地帯に生えている白耳草で、それ以外にもいくつか採集すべき薬草が指定されている。
ルンゲが今回の仕事について最後の確認をし、いつもの「緑」の採集チームは迷宮の穴へ降りていく。
ルンゲとミンゲが前、デルフィとメハルは後ろ。
十七層までの道のりは遠い。荷物もいつもより多くて、袋には食料や薬が詰まっている。
業者の歩き方は探索者とはかなり違う。戦いはなるべく避けて、皮だの肉だのにはあまりこだわらない。
鎧は身に着けないが、肌の露出を最低限に抑えるための採集用の服を着る。
破れにくい厚手の服は、普段着に比べて少し重たい。口と鼻を覆い、指先を守るための手袋もつけている。
「よし、行くぞ」
「あいよー!」
扉を開けて、迷宮の中へ足を踏み入れる。
少し前に深い層への挑戦をして、ファッソも含めた五人でうまく進んでいけた。その後の特別な採集の仕事も、無事にこなせた。
メハルは辛抱強く歩き続けて、リーダーの期待に見事に応えた。
もちろん、「オーリー」の評価も上がっている。ただの阿呆じゃなさそうだと思っていたと言われてドキリとしたが、ルンゲはそれ以上のことはなにも言わない。
薬草屋を隠れ場所に選んだ理由はいくつかある。
出稼ぎに出てきた少年少女が多くやってくる場所だから、メハルと共に雇ってもらえそうだったというのが一番。
表に出なくて済む仕事が多そうだし、ダンティンたちと「緑」に通った経験が生かせるかもしれないとも考えていた。
阿呆に見えても、仕事に支障がないと思ってもらわねばならなかった。
メハルと話を合わせて、同じ村からやって来た二人だと名乗り、ちょうど従業員を募っていたミッシュ商会に潜り込むことができた。
あとはすべて、メハルのお陰だ。彼が努力をし、よく働き認められたお陰で、オーリーもうまく受け入れてもらえた。
ちょっと元気なだけで、いい奴なんだよ。よくしゃべるけど、働き者なんだよ。
メハルは小柄で可愛らしい少年だが、どこか寂しげな雰囲気があって、真面目に働く姿はけなげに見える。
故郷に子供を残してきた大人たちに特に可愛がられるようになり、メハルも少しずつ心を開いていった。
大人たちの信頼を得たメハルの言葉だから、信じてもらえたのだろうと思う。
最初のうちは、本当に大丈夫なのかと思われていたことだろう。
自分とかけ離れた人間になろうとしすぎたと、今更ながらデルフィは反省しながら歩く。
そんな神官に、ルンゲとミンゲはすぐに気付く。腹でも痛いのかと聞かれるだけで済むのだから、いいのかもしれないが。
「大丈夫だぞお! オーリーは今日も、深いところまで歩くんだ!」
「本当にガリガリなのに、すごいよなあ、オーリーは」
「飯はちゃんと食ってるんだよな?」
「当たり前だよ、ルンゲさん。今日は美味しい干し肉を持っているから、食べるのが楽しみなのさあ」
例の店のものかと、リーダーは目を輝かせている。
新商品を買ったと話すと、俺らにも分けてくれよとミンゲに頼まれ、もちろんだと笑って返す。
「もうあの菓子は全部食っちまったのか?」
「うう。じゃあ、食べたってことにしておこうかなあ」
「持ってきてるのか、オーリー」
「どうしてわかったんだあ?」
「少しでいい。頼む、オーリー」
「ルンゲさんに頼まれたんじゃ仕方ない……」
自分も持っているからみんなでわけようとメハルが申し出て、ミンゲは手を叩いて喜んでいる。
まだ浅い層のうちは、こんな風に和気藹々と進んでいった。
敵が出始める二層の終わりからは、無駄な話をする暇はない。
前を行く二人の邪魔をしないように静かにして、背後から現れるかもしれない魔法生物になるべく早く気付かねばならないから。
五層目で採れる草を探して、六層目で泉によって、途中で探索初心者たちとすれ違い。
四人組の採集業者は「緑」の下層目指して進んでいく。
探索者が大勢歩いた後だから、上層ではあまり敵に襲われることはない。
「緑」は六層か、十二層を目指して歩く初心者が多くいるので、できれば十三層より下で夜明かしをしようという計画になっている。
泉の近くは夜明かしの練習をする初心者が多い。寝ている間に襲われれば誰かが怪我をしてしまうと考えて、夜明かしに慣れていない探索者は、泉のそばを好む。泊まりに慣れていない彼らはしばしばトラブルを起こし、親切な縋れる誰かを探す。だから、近場にいない方がいい。
迷宮に慣れた薬草業者はすいすいと進んでいって、結局十四層目で夜明かしをすることに決めた。
昼に入るから、休み始める時間も遅くなる。メハルは少し眠たそうで、最初の見張りはミンゲとオーリーが務めることが決まった。
獣除けの仕掛けを用意してあるから、魔法生物が入ってくる可能性は低い。
業者ならではのやり方を教えられた時、デルフィはこんなやり方があったのかと感心していた。
調合の仕方はごく一部の人間にしか知らされておらず、店ごとにレシピは違うのだという。
この便利な道具がなぜ探索者に知らされず、街で売られていないのか不思議だった。
けれど採集の仕事を始めてから、「獣を引き寄せる」薬があると知って、納得したものだった。
引き寄せの薬は、主に別れ道などで使われる。薬を投げれば魔法生物はそちらに向かう。罠があればうまく仕留めることもできる。
けれど、ルンゲの説明を聞いて、デルフィはあることに気付かされていた。
リーダーの話は、薬を間違えて落としてしまった業者が、何体もの魔法生物に襲われて命を落としたというものだった。
そもそも、この薬自体が毒のようなもので、人に当たったら危険でもあるらしい。
とにかく取り扱いには注意が必要だから、使う時には周囲の人間も気をつけねばならない。ルンゲは、メハルとデルフィにそう言って聞かせた。
その時は、なるほどと思っただけだった。
けれど何日かして、ふと思い出していた。
「黒」の迷宮に、商人の親子を連れていった時のこと。
死にかけた息子と、怯えた父親と、デルフィ、ジマシュ、フェリクスの五人で歩いた短い旅でのことを。
一層目から恐ろしい敵が現れる場所だから、犬が出てきても不思議ではない。
怪我をして血の匂いを振りまいていたディオニーが狙われるのも、仕方がないことだろう。
けれど、その後。地這犬は急に、エリシャニーを襲った。怯えながらも息子のために勇気を振り絞ってついて来た父親を襲い、容赦なく体中を食い千切っていった。
すぐに二体目が現れて、どうしようもなくなり、三人で迷宮の外へ逃れた。けれど……。
あの時、なにかが落ちる音を聞いた気がする。
あの頃、脱出の魔術には今よりも深い集中が必要で、商人の親子を共に運ぶことが出来なかった。
必死になって杖を握りしめていなければうまく使いこなせなくて、悲惨な結果に打ちのめされたものだった。
そもそもあんな計画は止めるべきだった。馬車を預けてくるように命じられて、逆らえなかった自分が情けなくてたまらない。
そんな後悔に浸っていたけれど、記憶の中には確かに、不審な物音が残っている。
ジマシュは、獣を引き寄せる薬を投げたのではないだろうか。
あの親子は、貸家にあった防具を身につけていた。着るように指示したのはジマシュしか考えられない。
だとしたらあの鎧に、薬が塗りつけられていた可能性があるのではないか?
地這犬の動きは不自然だった。ディオニーに飛びついたのに、足場代わりとでもいうように彼の体を蹴って飛び、エリシャニーを襲った。
親子を見捨てた自分の罪深さに震えるばかりで、あの時は気付けなかった。
けれど、ベリオと共に歩き出し、連れ戻され、再び逃げ出して、今。
得体の知れない闇を幼馴染に感じている。
それは昔からよく知っていたのに、あまりにも恐ろしくて、まっすぐに見つめられなかったものだ。
「なあ、オーリー。あの菓子は何時頃行ったら買えるんだ?」
ミンゲの明るい声にはっとして、デルフィは返事を探す。
「寝てただろう、今」
「寝てない……」
「疲れてんだろうけど、集中しないとな。メハルと兄貴を守れるのは俺たちだけなんだから」
顔をぶるぶると振って、デルフィは意識を夜明かしの方へ向けなおした。
ギアノのことも気になる。手紙の行方も心配だし、チェニー・ダングについても不安が残っている。
ジマシュについても、考えなければいけない。
自分を探すだろうと思っていたが、起きた出来事は単なる探し人以上のことばかりだ。
ベリオとの再会を望んでいるのに、心の奥底では絶望を感じている。
一体なにが起きているのか、全容を知るのは怖い。
だから今、単なる夜明かしをする薬草業者でいられることがありがたかった。
旨い干し肉を四人で分け合って、二日目も仕事の為に進んでいく。
目的地である十七層目に辿り着いたら、手早く採集を進めていかねばならない。
群生地帯には業者たちが恐れる「あれ」が出てくるかもしれない場所だから、順番に見張りをたて、時々声を掛け合いながら白耳草を摘んでいく。
籠がいっぱいになったら忘れ物がないか確認し、帰路につく。
探索者と同じで、帰り道は行きよりもずっと厳しいものになる。背負った籠が単純に重たいし、迷宮の中で何日も過ごすと心身共に疲れ果てるからだ。
それでもミッシュ商会の四人組は足を動かし、店の利益のために緑色の道を行く。
「兄貴、三輪草の匂いがする」
十五層でミンゲがこう言い出し、ルンゲも立ち止まった。
「本当か」
「多分」
初めて聞く草の名前に、メハルとデルフィは顔を見合わせている。
「ルンゲさん、特別なものなの?」
「初めて聞いたか? だろうな、あれは滅多に見つからねえモンだから。どっちだ、ミンゲ。近いか?」
「遠くはないよ、匂いがしてるんだから」
「メハル、オーリー。疲れてるだろうが、行くぞ。三輪草が見つかったら……」
一行のリーダーはそこで言葉を止めると、地図を見るから見張りをするよう二人に頼んだ。
十五層の地図をミンゲと一緒にのぞき込んで、罠がある位置を指さし、注意が必要な場所を確認しているようだ。
目と耳だけではなく、ミンゲは鼻も良いらしい。
二人に導かれて行った先で、本当に三輪草は見つかった。何本かの通路を行って戻って、床を這う蔦の中を探る必要はあったが、不思議な輪の形をした草が生えていて、ルンゲが丁寧に採集して布に包んでいる。
「やったな、兄貴」
「ああ。しかし、十五層で見つかるとはな」
「こいつは深いとこでも滅多に見つからねえ貴重なモンなんだ。メハル、オーリー、あとでよく見て、形を覚えておくといいぜ」
ルートを外れたから、まずは元の道に戻らなければならない。
ルンゲは自分の頬を強く二回叩くと、また地図の確認をして、四人を無事に階段へ導いてくれた。
計画通りなら、二回目の夜明かしは十二層で行われる予定だった。
帰り道こそ、回復の泉の力を借りたいものだからだ。
「仕方ねえ、今日はこの辺りで休もう」
十四層を歩いて、ちょうどいいでっぱりに辿り着き、ルンゲが呟く。
「明日気合を入れて、夜までに地上へ戻るぞ」
「あいよー!」
十二層までたどり着ければ泉の恩恵に預かれるし、初心者たちが戦いを引き受けてくれるから、進む速度は一気にあがる。
そこまでの辛抱だとルンゲは言い、食事の間に二人にこう注意をした。
「三輪草の話は誰にもするなよ。ミンゲはああ言ったが、見るなら店に戻ってからだ。他所の業者に知られないように帰るぞ」
こうまで言うのは、よほどあの草が貴重だからなのだろう。
メハルは神妙な顔をして頷き、そんなに珍しい物の匂いまではっきりと覚えていて、気付いたミンゲをすごいと称えた。
片づけをして、用を足し、夜明かしの仕掛けを設置すると、四人は休んだ。
疲れ果てた状態で、見張りを引き受けるのは辛い。けれどルンゲは顔色一つ変えずに、まずはメハルとミンゲを休ませると決めた。
「頼むぞ、オーリー」
「大丈夫だぞお」
いつものように答えたが、声を張り上げる元気はあまりなかった。
ぺらぺらとしゃべり続ける気力はなく、内心ではらはらしていたが、ルンゲは単純に疲れているのだろうと判断したようで、ねぎらいの言葉をかけてくれた。
「静かなお前もいいもんだな」
「そうかあ? オーリーは元気が取り柄なのに……」
「元気なのと静かなのは別だろ。ちゃんと帰る分の力をとっておけよ」
ルンゲのことをしみじみと良いリーダーだと考えながら、デルフィはじっと座って通路の先を見据えていた。
敵が現れても、通路に撒いた薬の力で大抵は追い払える。
ダンティンたちと深い層へ向かっていた時よりは、不安は少ない。
あの無鉄砲な初心者と二人で見張りをしたことは一度しかないが、落ち着かなくて大変だった。
そんな風に思い出すうちに、ベリオとの最後の時間が思い出されて、胸が苦しくなっていく。
「ん?」
そっとため息をついた瞬間、ルンゲが声をあげた。
オーリーらしからぬ様子に気付かれたのかと思ったが、四人組の頼れるリーダーは「足音がする」と呟いた。
「誰か来るな」
「誰か? 兎か、鼠かなあ」
「いや、足音だ。人の足音がするが……」
「緑」の十四層なのだから、誰かが通りかかってもおかしくはないのに。
ルンゲは眉間に皺を寄せており、何故なのだろうとデルフィは思う。
「近いぞ」
ルンゲは呟き、少ししてから「二人来る」と続けた。
たった二人で十四層。仲間がやられてしまった探索者かもしれない。
助けを求められる可能性を考えているのか、ルンゲは腰を浮かせて備えている。
デルフィの耳にも足音が聞こえてきて、通路の先に人影がぼんやりと浮かんだ。
二人はまっすぐにこちらに向かって歩いてきているようだ。
「お前、……チャレドか。アードウの店の奴だよな」
前を歩いて来た誰かに、ルンゲはこう声をかけている。
「はは、違うんだ。よく間違われるけどね」
返事があって、近づいてきた二人の姿がはっきりと見える。
手前の人物の困った笑顔にははっきりと見覚えがあった。
そして後ろからついてきた二人目は、ルンゲも知っていたらしく、驚きの声をあげている。
「無彩の魔術師?」
「夜明かし中に申し訳ありませんが、少し邪魔させてもらいます」
迷宮の中で夜明かし中に現れたのはギアノとニーロで、デルフィはどう振舞ったらいいのかわからない。
ゆっくりと立ち上がったままで動けないひょろ長に、突然の来客が近づいてくる。
「やっと会えたな。……なんて呼んだらいいんだ? まだ、デントーのままがいいのかな」
髪も違う色に染めているし、髭も伸ばしてぼうぼうなのに。
見る目があるのか勘が良いのか、ギアノは業者の正体に一目で気づいたようだ。
「どうして……」
「どうしてって、一言で説明するのは難しいな。でも、お前に会いに来たんだよ」
震えてまともに動けないデルフィの前にギアノが近づいてきて、強く抱きしめられた。
生きていて良かった。
そう囁く声が聞こえてきて、涙がこぼれてしまう。
「オーリーに? 用があって? 来たのか?」
「そうです。あなたにも説明をしますが、少し待っていて下さい。誰も近づかないようにしますから」
戸惑うルンゲの向こうで、ニーロが動く様子が見えた。魔術師の指先から光の粒が溢れて、通路に輝く線が引かれていく。
「それにしてもすごい髭だな」
「よく気付きましたね、僕だって」
「目を見りゃわかるさ」
「どうして無彩の魔術師と二人で?」
「話すと長くなるけど、バルディさんの店に客として来てくれて知り合ってね」
それから縁が出来たとギアノは言うが、話は大きく飛んで、あの剣を探していたことに話題が移り変わっていく。
「あれは、ベリオ・アッジが持っていたものだよな?」
ズバリと言われて、鍛冶の神官の心は大きく揺れた。
「デルフィ、『橙』の二十一層には行ったのか」
「ギアノ」
「なにがあったんだ、迷宮の中で」
デルフィが視線を移すと、ルンゲが真剣な表情でこちらを見ていた。
ニーロにどう説明されたのかわからないが、とにかく今はぎゅっと口を閉じて、黙って見つめている。
「僕たちは二十一層に行きました。罠の見本がたくさん置かれている区画があって、その先に貴重な物が手に入る場所があると言われて、向かったんです」
そう言い出したのはカヌートで、ベリオには先に説明をしていたようだった。
仕掛けを操作した先に、「いいもの」がある。
カヌートが足の痛みを訴えたから、自分が見てやることになった。
ダンティンはベリオを誘って意気揚々と細い通路に入っていき、ドーンがスイッチの操作を引き受けた。
「……僕が覚えているのはそこまでです。気が付いたら地上に、……戻っていました」
「誰かと一緒だったか?」
「カヌートと」
胸がつまって、言葉が途切れる。
ギアノはそんなデルフィに小さく頷くと、落ち着いて聞くよう背中を叩いて、こう話した。
「カヌートとは会ったよ、本当の名前は違うみたいだけど。あいつはひどい怪我をしていて、今は療養してる」
「怪我を?」
「理由はわからない。なんにも話してくれなくてね。ただ、今もこの街にいるのは確かだ」
「彼の名は、本当はヌエルだと思います」
「だからヌウって呼ばれてるんだな」
ギアノは小さく笑ったが、すぐに大きく息を吐き出し、少し間を置いて、意を決したように続けた。
「ドーンと名乗っていた女は、迷宮調査団の一員だった。本名はチェニー・ダング、知っているか?」
「……ええ。わかっています。街中で偶然見かけて、ドーンだと思ったので、探っていたんです」
「そうか。残念だけど、彼女は死んだよ」
「死んだ?」
「それと、……おそらくだけど、ベリオとダンティンももう死んでいる。例の『橙』の細い通路に入っていたところを見たって言うなら、そう考えるしかない」
心がばらばらに砕けてしまいそうだった。
ベリオとダンティンの行方について、どこかで諦めてはいたけれど。
けれど、生きていて欲しかった。
そんな願いの粉砕とは別に、チェニーの正体や、ヌエルの今、ギアノがそこまで調べている理由など、わからないことが溢れて混乱してしまう。
「チェニー・ダングには兄がいて、妹が死んだ理由を探っているんだ。彼女は俺たちに手紙を残していて、わざわざ訪ねて来てね」
これはお前に宛てられたものだと、一枚の紙を渡される。
「いろいろあって、先に中を見た。ごめんな」
自分に宛てられた手紙のあまりの弱々しさに、デルフィは項垂れていく。
苦しみが伝わってきて、また涙がこぼれてしまう。
ギアノはデルフィに寄り添い、背中に手を当てたまま、「絆の証」と呼ばれる腕輪がどうやって手に入れられるものなのかを語った。
本当なら「決して裏切らない仲間がいたから」手に入れられるものなのに。
恐ろしい刃を操る仕掛け。操作を引き受けたドーンがこんなにも悔いて、二人のために祈ってほしいと願うのは、彼女が罪を犯したからなのだろう。
「あの時、カヌートに頼まれて彼の足の様子を診ていたんです。いえ、診ようとしていました。靴を脱いでいるところまでは覚えていますが、その後はわかりません。気付いた時には、以前住んでいた貸家にいました」
「貸家?」
「ベリオと組む前に住んでいたところで」
「そこに誰がいましたか?」
声をかけてきたのは無彩の魔術師で、いつの間にそばにやって来たのか、まっすぐにデルフィを見つめていた。
その名を口にするのが、ニーロの問いに答えるのが、怖い。
唇が震えてなかなか声が出せなかったが、視線はまっすぐに向けられたままで、デルフィはとうとう答えを示すことになった。
「ジマシュという名の男です。彼は僕の幼馴染で、同じところで育って、共に迷宮都市へやって来ました」
「ジマシュ・カレートですね」
ニーロの声に、デルフィはゆっくり頷くしかない。
「あなたはあのジマシュという男に追われているのですか」
追われているのか?
追われていたのだろうとは思う。
逃れたいと思っていたのはデルフィで、ジマシュから離れ、なるべく会わないようにしていた。
ベリオと共に行動し始めた頃は、その程度だったはずだ。
ジマシュはデルフィを故郷から共にやって来た「仲間」として扱っていた。
探索に便利な魔術を習わせ、様々な仕事に付き合わせていた。
なにも言わずに勝手に去ったことを、怒っているかもしれないと考えていたけれど。
あんな異様な形で連れ戻されるとは思ってもみなかった。
二人に監禁されていた場所からはなんとか逃れたが――。
「今も追われているかどうかは、はっきりとはわかりません。でも、僕は……、彼から逃れたいと思っています」
「迷宮都市を出ようとは思わなかったのですか?」
「ベリオたちがどうなったのかわからなくて。僕はジマシュの貸家から逃れた後、あなたと樹木の神殿前で会いました」
「ええ、覚えていますよ。あの時はあなたがデルフィ・カージンだとわかりませんでしたが」
では、どこかで気づいたのだろうか?
わからないが、今は細かな事情を聴く時ではないと考え、デルフィは素直に胸の内を話していく。
「あの時、僕はベリオが本当にいたかどうかすらわからなくなりそうだったんです」
「探索者の行方を知る方法はないのか、僕に聞きましたね」
デルフィたちになにが起きたのか、すべてを知っているのはヌエルとチェニー・ダングだけのはずだとニーロは言う。
けれどチェニーは死に、ヌエルは話さない。
だから、推測して考えるしかない。
「ダング調査官は腕輪を二人の形見と言っている。後悔に苛まれ、自ら命を絶つほど悩んだのなら、彼女があなた方に書いた手紙に嘘はないでしょう」
曖昧な言葉ばかりで、はっきりと名指しされた者はいない。
けれど、チェニーのもとにジマシュが現れたことがあると聞いている。
無彩の魔術師はこれまでに得た情報について説明をすると、こう結んだ。
「ダング調査官は、ジマシュ・カレートに利用されたのだと思います」
「利用?」
「あなたを連れ戻すための駒の一つにされたのではないでしょうか。あの男はそういう人間です。他人を魅了し操って、自分の手を汚すことなく望みを叶えさせる。自分はなにもしていないと言って逃れるために、他人の弱みを握り、利用し尽くすのです」
他にも被害者はいる、とニーロは言う。
「先にひとつだけ質問させてください。デルフィ・カージン、あなたはピエルナという名の女性に心当たりはありませんか?」
「ピエルナ?」
「短い赤毛の若い女性です。剣を使う探索者で、腕はそこそこ。田舎出身で品はありませんし、美人でもありません。けれど周囲の人間から好かれる、明るくて世話好きな女性でした」
ルンゲとギアノがなんとも言えない顔でニーロを見つめている中、デルフィは自分の記憶を探っていく。
ピエルナの響きには覚えがある。はっきりとした知り合いではないが、どこかで耳にしたことがあったはずだ。
「その名で呼ばれていた人に覚えがあります。随分前ですし、後ろ姿しか見ていないのですが……。赤い短い髪で、ジマシュよりも背が、このくらいは低かったから」
両手で子供の頭一つ分くらいの隙間を作って、考える。
あの身長差なら、女性だと考えていいのではないか。
「どのくらい前の話ですか?」
「……三年くらい前でしょうか。僕は神殿で用事を頼まれて、石の神官長のもとへ向かっていたんです。その途中、どこかの家に入ろうとしているジマシュを見かけて声をかけたんですが、彼は気付かないまま中に入っていってしまいました」
あの時、赤毛の誰かを先に中に行かせていたはずだ。
「探索に共に行ける仲間」をよく探していたから、その為に誰かと会っていたのだろうと思って、たいして気にしていなかった。
「では、石の神殿近くですね」
「そうですね。はっきりとした場所は覚えていませんが」
「わかりました」
ニーロは目を閉じたまま頷き、小さく口を動かしている。
なんと言ったのだろう。わからないが、独り言はすぐに終わったようで、またまっすぐに見つめられている。
「デルフィ・カージン。あなたはこれからどうしたいですか?」
「これから……?」
「ベリオが生きている可能性はもうありません。ダンティンという名の探索者も巻き込まれ、あとの二人はそもそも『仲間』ですらなかった」
「橙」を目指した五人組について、これ以上探る必要はない。
ニーロはそう断言をして、「これから」について神官に問いかける。
「ジマシュ・カレートから逃れたいのなら、この街を出た方がいい。あなたは神官なのですから、どの街に行っても困ることはないでしょう」
ルンゲの口がぽかんと開いている。
そういえば夜明かしの途中なのだと、改めて思い出す。
「平穏に暮らしたいのなら、故郷以外の場所を目指すのがいいでしょう。彼の知らない、縁のないところの方が安全だと思います」
ですが、と無彩の魔術師は続ける。
「僕はあなたに協力してもらいたい」
ニーロの瞳はあまりにもまっすぐにデルフィを見つめていた。
「迷宮は罪を隠すための便利な場所などではありません。彼のやり方に気付く人間が現れたり、増えてしまっては困ります。そもそも、ジマシュ・カレートのやり方はあまりにも非道で、許されるものではないのです」
あの男を引きずり出すには、デルフィの協力がいる。
無彩の魔術師の声は落ち着いているが、内に秘められた怒りがあるように神官は感じていた。
「心を決めるには時間がいるでしょう。そもそも、ここで聞いた話を信じられないとしても無理はありません。今日は突然来て、驚かせてしまいましたね」
「確かに、驚きました」
「絶対に安全な場所でなければと思い、タイミングを測っていました。必要なことはすべて伝えましたから、心が決まったら訪ねて下さい。これからは誰か必ず家にいるようにしておきます。僕以外が出てきても、心配せずに名乗って下さい」
「あの……、あなたに宛てた手紙を、もしかして見てもらえたんでしょうか」
「もちろん見ました。だから今日来たのです」
当たり前のようにニーロは言い、話は通してあるので樹木と雲の神官長にも頼って大丈夫だと付け加えた。
これで用事は済んだらしく、ギアノに「帰りましょう」と声をかけている。
「ごめん、ちょっと待ってくれる?」
「手短にお願いします」
ギアノは勝手な魔術師の言葉に苦笑しながら近づいてくると、デルフィの手を取り、なにかを握らせた。
「これ、俺が預かっていたんだ。やっと返せたな」
正真正銘、自分の授けられた神官の印だった。
父親がつけてしまった小さな傷が、記憶通りの位置に入っている。
「ギアノ」
「ごめんな、手短かにって言われているから」
今度は背負ってきた袋からなにかが出てきて、渡される。
大きく膨らんだ袋からはいい匂いが立ち上ってきて、なぜかほんのりと温かい。
「ちょっと潰れているかもしれないけど、味は問題ないはずだ。バル……、ベリオに頼まれた、旨い保存食だよ。作ってみたらみんな喜んでくれてね。今、店でも売ってるんだ。ティーオの良品って店で」
「知っています。行きましたから」
「え、本当に?」
「ギアノ、急いでください」
「わかった。デルフィ、会えて本当に良かった。話してないことがまだあるから」
「ギアノ」
「わかったよ、もう。じゃあな、邪魔してごめん」
魔術師に促され、ギアノが離れていく。
脱出の魔術の力で二人の姿は一瞬にして消えて、迷宮の十四層には夜明かし中の業者だけが残っていた。




