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12 Gates City  作者: 澤群キョウ
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156/244

150 夢の終わり

 迷宮都市の南門市場の近くに、ひっそりと営業している小さな酒場がある。

 ゾースの小瓶という名のその店は、大抵の客が誰かに紹介されて訪れる場所だ。

 集うのは、人生のどこかで一度は他人から否定され、拒まれて涙を落したことがある者ばかり。

 店主であるゾース自身もそうで、流れ流れて迷宮都市に辿り着き、「仲間」たちと出会った。

 ゾースは労働に耐え、自分の為に、仲間たちの為に小さな店を構えて安息の地を作り上げた。


 迷える「新入り」の助けになるよう、店の二階には小さな部屋が用意されている。

 街での暮らしの基盤を作るために、どうしていくべきか相談に乗り、多少の資金ができるまで泊めてやるための仮宿だ。

 だが今は、酷い怪我を負って店の裏に転がされていたヌエルが寝かされている。

 ジャファトの同居人であるユレーのお陰で、一命をとりとめることはできた。

 そこからは、薬を飲ませ、塗り込み、包帯を替えてやりながら世話をしている。

 ジャファトとユレーが交代で面倒を見て、ゾースも手を貸してきた。

 ヌエルは回復し、もう少しで身を起こせるようになるだろう。

 だが、手当は受けても肝心のことについてはなにも解決していない。

 どうして怪我をしたのかは語られず、ヌエルは口を閉ざし続けていた。


 このままいつまでも部屋を貸し続けるわけにはいかない。

 放り出すのは忍びない。だが、ヌエルは後ろ暗いものを抱えているように見える。


 ジャファトもどうしたらいいのかわからず、時折涙をこぼしているようだった。

 今日も隣に座ってあれこれ世話を焼き、話しかけているが、良い反応はないようだ。


 店の支度を始めようと階下へ降りると、店の扉を叩く音が聞こえた。

 また新たな「仲間」が訪れたのかと思ったが、扉の先にいたのはどこかで見た顔の男だ。


「やあ、ゾースさん」

「……すまない、会ったことがあったかな」

「マージからの伝言を届けてもらったギアノ・グリアドだよ。カッカー・パンラの屋敷の管理人をしている」

「ああ、ああ、あの時の! すまない。本当に」

「いいんだ。俺の顔は覚えにくいらしいからね」


 マージの居場所を教えてほしいとギアノは言う。

 ゾースは少し悩んだものの、心を決めて客を二階へ通した。




 ノックの音が聞こえて、ユレーが来たのかとマージは考えていた。予定よりも早くて、なにかあったのか不安で立ち上がる。

 けれど顔を覗かせたのはゾースで、客だぞ、の一言だけが告げられた。

 おそるおそる扉の向こうを覗いてみると、小さな台所の前に立っていたのはギアノだった。


 開けた隙間はほんの少しだけ。片方の目しか見えていないだろうに、ギアノはすぐに気付いて穏やかな顔を微笑ませた。


「やあマージ、やっと会えたな」


 マージの心に、さまざまな思いが流れていった。

 ヌエルがすぐ隣の部屋で寝ていること、マティルデをまかせっきりにしてしまっていること、ろくに化粧もしていないこと。

 ユレーが来る前にきれいにしなければと思っていたが、もっと早く取り掛かるべきだったのだろう。

 

「元気だったか?」

 管理人の男は扉に向かって歩いてきたが、マージが出てこないことをどう思ったのか、離れた位置で止まった。

「元気だよ。ギアノ、本当に悪かったね、いきなり……。理由も言わずにマティルデの世話を頼んじまって」

「なにか困っているんだろう。仕方がないさ」

 台所にあった小さな椅子をひいて、ギアノは腰かけている。

 マージは扉からほんの少しだけ目を覗かせたまま、どうしたらいいのかまだ迷っていた。

「マティルデのこと、伝えに来たんだ。あの屋敷はご存じの通り、あの子の苦手な若い男だらけだから。どうするのがいいのか俺も悩んでね」

「マティルデがどうかしたのかい」

「今は雲の神殿に世話になってるんだ」

 男性恐怖症を克服するため、神殿でしばらく暮らすことになった。

 同居人の少女の居場所を教えるために、わざわざゾースの店を探して訪ねてくれたのだろう。

「そうだったんだね。ごめんよ、ギアノ。確かにあのお屋敷はマティルデには向いていなかっただろうし」

「俺にもうちょっと時間があれば良かったんだけど、いろいろあってさ」


 姿を見せないマージの態度にも、勝手に世話を頼んだことも、責める気はないようだ。

 申し訳なさとありがたさがごっちゃになって、マージの胸がいっぱいになっていく。

 

「とにかく、マティルデは今修行中みたいな感じかな。克服できれば、これからの暮らしも楽になるだろう」

「そうだね」

「今日はその報告と、マージに頼みがあって来た」

「あたしに?」

「ああ。マージの友達の『ヌー』って奴に会わせてほしい」


 動揺で体が震えて、扉が開いてしまう。

 ヌエルを隠さなければという思いが強く働いて、マージは慌てて扉を閉めた。

 ギアノへ振り返ってようやく、素顔のまま出てきてしまったことに気が付いている。


「マティルデに言われんだ。ヌーって友達が、俺が背の高い神官と会ってないか知りたがっているんだろう?」


 マティルデが話してしまったことは聞いていた。だからいい。

 けれど、神官の背の高さや「ヌウ」の名前を口にしてしまっていたことには、気付いていなかった。


「ヌウに会いたいって、どうしてなんだい」

「俺が考えている男かどうか、確認したい」

「確認?」

「どうしても知っておきたいことがあってね。マージの友達が俺の知っている男と同一人物かどうか確認して、できればひとつだけ質問したい」


 ギアノは手荒な真似などしないだろう。

 今の自分の姿はマージではなく、素顔のまま、ジャファトのものだ。

 なのにギアノは「マージ」と呼びかけ、態度を変えない。動揺もなく、疑問もないように見える。いつも通りの穏やかな表情のまま、ただ自分の希望を伝えている。

 女の姿をしていない自分に、なにも言わない。咎めない。嫌悪の表情すら見せない。

 そんな人であってほしいと願っていたのに、マージはなぜか驚いてしまっている。


「なにを聞きたいんだい」

「それは言えない」

 客の表情は変わらなかったが、明かせない理由は一瞬でわかってしまった。

「悪いことなんだね」

「……確かに、良い話ではないよ」

 けれど、聞いておきたいことがあるとギアノは囁く。

 どうしても確認したいことがあって、証言できるのはその男だけなのだと。

「もし人違いなら、もう手詰まりなんだ」

 

 きっと当たっているのだろうとマージは思った。

 ヌウと、管理人の心当たりの男は、同一人物に違いないと。

 ヌエルは長い間姿を見せなかったし、顔つきも随分変わっていた。

 瞳をギラギラとさせるようになったし、許せない者がいると話していたから。あんな風ではなかった。ヌエルを変えてしまう大きな出来事が、マージの見ていないところで起きていたのだろう。

 

 ギアノと知り合いであることを隠したせいで、友情は破れた。

 けれどまだ、残っている。身を寄せ合っていた頃に出来た、あたたかいものが。

 それがヌエルの心からは消え去っていたとしても、見放すことなどできやしない。


 叩かれた頬の痛みと、失われてしまった絆について、ゾースの店で嘆いていた。

 店はもう終わっていたのにいつまでもカウンターに突っ伏して泣いていたら、裏口から音がして、傷だらけのヌエルが倒れていた。

 あれは「助けてやれ」という導きだったのだと思っている。

 ゾースにもユレーにも迷惑をかけた。けれどどうしても、救ってやりたかった。

 

「ヌウって奴に会うことはできないかな」


 知らないと答えれば、ギアノは黙って帰るだろう。

 そうか、仕方ない、わかったよ。そんな言葉を残して、諦めて去っていくに違いない。

 嘘に気付いていても、静かに去っていく。ギアノはそういう男だと、マージは思う。

 

 胸が痛かった。

 これまでどれだけ世話になったのかわからないのに。

 何も言わなくても察して、「マージ」と呼んでくれる優しさに、今、どれだけ救われているか。

 ヌエルに会うだけ、ひとつ質問を投げるだけ。頼みはささやかなものなのに、知らぬふりをするなんて。


「マージ、ごめん。困らせたかな?」

 なにも言えず、動くことすらできないマージのそばにやってくると、ギアノは優しく笑みを浮かべた。

「いきなり来て悪かったよ。とにかく、無事でよかった。なにがあったのか心配してたんだ」

「ギアノ」

「余裕ができたらマティルデを訪ねてやってくれないか。ユレーさんにも伝えてほしい。二人のことを心配していたから」

「ごめんよ」

「謝る必要はない。大切な友達なんだろう。俺の思い違いかもしれないんだ。気にしないで」

 

 心が震える。

 黙っていても許される。

 けれどそれでいいのか、迷いはあるのに、この期に及んでまだ心を決められない。


「会えるかわからなかったから、なにも持ってこなかったんだ。お菓子でも持ってくれば良かったな」


 ギアノはまたなと言い残して去っていき、階下でゾースにも声をかけているようだ。

 ちゃんと答えるべきだった。けれど、ギアノを通せばきっとヌエルはまた裏切られたと思うだろう。

 砕けた友情がもとに戻るのか、それとも二度と修復されないのか。

 未来のことはなにもわからない。いや、今現在であっても、目の前にいても、どれだけ同じ時を過ごしたとしても、人の心などわかりはしない。


 なんとか気を取り直して化粧をすると、ユレーが姿を現し、元気がなさそうだと指摘してきた。

 ギアノの来訪と、マティルデが神殿に預けられたことを話すと、同居人の女はなるほどと深く頷いている。


「マティルデが男がいても平気になったら、選択肢も増えるだろうね」

「選択肢って?」

「これからのこと、もうちょっと考えなきゃならないだろう。ドニオンは他所の街に行かされたし、そのお陰でドレーンの仲間も解散したみたいなんだ。あたしはもう付け回されるようなことはないと思う」

「良かったね、ユレー」

「ああ。あたしはもう大丈夫。今はとにかく、ヌウをどうするかだよ。一人で暮らせなくなった場合のこと、考えておいた方がいいと思うんだ」


 あんたの大切な友達なんだから。たったそれだけの理由で、ユレーはマージに付き合ってくれていた。

 交代で世話をして、家に戻り、マティルデの面倒も見て。

 けれどとんだ邪魔が入ったせいでうまくまわらなくなって、ギアノに頼る羽目になった。

 

「体が動かなくなっちまったら、ここで暮らすのは難しいよ」

 体の不自由な人間の世話を引き受けてくれる神殿もある、とユレーは言う。

 のんびりとしたのどかな田舎なら、受け入れてもらえるのではないかと。

 

 そんな暮らしを、ヌエルにさせたくはない。

 体はきっと治る。手助けが必要なら、してやればいい。

 けれど、ユレーの心配もわかる。今の「女だけ」の三人暮らしに、ヌエルを加えてやっていけるはずがない。

 いつまでもゾースに頼っていられない。


 大きな変化が起きようとしているのだから。

 不安に思って当然だ。


「マティルデがうまく独立できたらいいんだけどねえ」

 ユレーはひとりごとのように呟き、マージはしゅんと落ち込んでいく。

「女だけのパーティを作るって言ったのに」

「仕方がないよ。それにあたしは、マティルデに探索なんかやらせたくない」

「そうだね。……あたしもそう思っているよ」


 手分けして食事の支度を進めながら、マージは考えていた。

 マティルデとは偶然に出会った。武器屋に剣を取りに行ったら、いきなり声をかけてきた。


 なんと可愛らしい女の子だろうと胸がときめいて、運命の出会いなのではと思ったものだった。

 さらさらの長い髪、大きな瞳、華奢な手足と、鈴を鳴らしているように響く声。


 幼い頃、世界で一番可愛い女の子になりたかった。

 マージにとってマティルデは、なりたかった理想の姿をした女の子だ。

 守ってやりたかったし、いつまでも見ていたかったのだと思う。

 二度と野蛮な男たちに傷つけられないよう、妙な輩に手出しをされないように。


 男への恐怖を抱えて生きるのは辛い。世界の半分は男だし、この街には特に多く集まっているから。

 けれどマティルデが自由に羽ばたいて、離れていってしまうのは悲しい。

 きれいな服を着て、長い髪に花冠を乗せて、幸せに暮らしていてほしい。安全なところで優しい人たちに囲まれて、笑っていてほしい。

 美しい少女の輝きに照らされていれば、自分もきっと幸せになれる。


 マージはマティルデのようにはなれないから。

 化粧で装うことはできても、女にはなれないから。


 だからウィルフレドの妻にはなれないし、隣にいることすら許されない。


 胸の中で膨らんでいた思いが暗い影に呑まれて、マージの心は沈んでいく。


 いつか自分も、ヌエルのように傷つけられるのかもしれない。

 女の格好をしたおかしな男がいるぞと叫ばれて、石を投げられる日が来るかもしれない。

 そんな怖れをずっと抱いていた。マティルデ、ユレーと出会ってからは薄れて、忘れかけていたはずなのに。

 

「マージ、焦げちまうよ」

 ユレーの声で我に返ったものの、マージはまだ悩んだままだ。

 ヌエルだけではない、自分たちのこれから。マティルデがどうなるか、ユレーをどこまで付き合わせるのか。

 なにもかもが順調にまわらなくなったのだから、考えて決めなければいけない。

 だけど、真正面から受け止めるには問題が多すぎるし、ひどく重たい。


「ヌエルのことはゾースに頼んで、雲の神殿へ行こうか」


 夜の世話をし終えて、食事も済んだ後、ユレーはこんな提案をしてきた。

 なにも決められないマージの代わりに、考えてくれたのだろう。


「あの子の顔を見たら、元気がもらえるよ」

「そうだね」


 マティルデにもよくないところはある。家事は人任せで当たり前だし、仕事も熱心に取り組まない。

 それでも明るく愛らしく、前向きな性格をしているから。

 なんの根拠もないのに繰り出されるポジティブな発言に、いつだって笑顔にさせられる。

 呆れてしまったとしても、嫌な気分にはならない。マティルデにはそんな力が備わっているとマージは思う。

 

 

 次の日、まともに返事もしない怪我人をゾースに任せて、マージとユレーは街の西側に向かった。

 「緑」の迷宮にはあまり行かないので、なじみのない景色の中を歩いている。


「ちゃんと言うことを聞いているかな、マティルデは」


 ユレーのひとりごとにマージは笑ってみせたが、心はざわめいていて落ち着かなかった。

 普段から神殿には寄り付かないから。樹木の神殿で大騒ぎしていた愚か者について知らされていないか、厳しい神官に見咎められるのではないかという、漠然とした不安があるから。

 いつもよりも重たい心をそれでも動かして、雲の神殿へたどり着く。

 白を基調にした建物も、椅子にかけられた空色の布も清々しい。

 窓が多く設けられていて、太陽の光が幾筋も入り込んでいて、中は明るかった。


「雲の神殿へようこそ」


 やって来たでこぼことした二人の来訪者へ、穏やかな声がかけられる。

 女性の神官はなんの用か問い、マティルデの同居人だとユレーが説明していく。


 しばらく待つよう告げられて、大人しく神殿の隅の長椅子に座った。

 ヌエルが倒れていたあの日から、随分経っている。

「怒ってるかな」

 なんの説明もないまま生活を放り出した家主を、どう思っているだろう。

 マージがしょぼしょぼと呟くと、ユレーは呆れた顔をして背中をパンと叩いた。

「そんなわけないだろう。あんたにどれだけ世話になったと思ってるんだ」

 ただで住まわせ、食事だの着替えだのをすべて用意し、必要な時には付き添ってやって。

「あんたほどのお人よし、見たことがないよ」

 ユレーの手が伸びてきて、マージのごつごつとした指をぎゅっと握る。

「ありがとうね、マージ」


 触れ合った手のぬくもりは、静かな神殿で過ごす時にはよく似合っているとマージは思った。

 たくさんの窓から入る光の角度がゆっくりと変わり、落ちる影の色がほんのりと濃くなった頃、足音が聞こえてきて二人は顔を上げる。

 

「マージ、ユレー!」


 長い髪が結われて後ろにまとめられ、白い服を身に着けているからか、記憶の中のマティルデよりも大人びて見える。

 けれど浮かべている笑顔はいつも通りの明るいもので、マージは思わず立ち上がっていた。


「マティルデ、ああ、ごめんよ。本当にごめん」

 ぱたぱたと駆け寄ってきた少女は二人の前で止まると、腰に手を当て頬をぷうっと膨らませて見せた。

「もう、マージもユレーも、心配したのよ!」

「ごめん」

「良かった、会えて」

 華奢な手が伸びてきて、マージの指に触れる。

「もう、泣くことないでしょ、マージったら」

 勝手にこぼれてきた涙を拭い、三人で並んで長椅子に座った。


 まずは互いの無事を喜び合い、ギアノに世話になったことを話し、沈黙が訪れる。

 結局、どうしてこんな事態になってしまったのか、説明するのは難しかったから。

 マージが言わなければユレーも話せず、互いに目を合わせても、言葉が出てこない。


「マティルデ、どうなんだい、神殿での暮らしってのは」

 見かねたのかユレーが質問を投げかけて、マティルデは肩をすくめながら答えた。

「つまんないわ。それに忙しいの。毎日早く起きて、いろいろとお仕事して、神官さんたちから話を聞いて過ごしてる」

「つまんないって、あんたって子は」

「だってつまらないんだもの。……でも、ここの神官長様は平気になったわ。優しくて楽しい人なの」

「男の人なのかい、神官長様は」

「そうよ。大真面目な顔をしているのに、面白いことばかり言う人で」


 マイペースな少女の様子は相変わらずで、きっちりと管理された暮らしを窮屈に感じているようだ。


「みんな親切だけど、厳しいの。時間をもっとちゃんと守りなさいって毎日言われてるわ。それに、探索に行くのはやめた方がいいなんて言うの」

「そりゃあそうだよ。あんたは特に恐ろしい目にあったんだから」

「もう、ユレーまで! 私は魔術師になりにここへ来たのよ。襲ってきた連中を探すのはやめろっていうのは、そうしようかなと思ってるけど」

 将来の希望に変化はないようだが、復讐計画はどうやら取りやめになりそうだ。

 ユレーは明らかにほっとした顔をして、相棒へ向けて笑みを投げかけてきた。

「神官ってのはありがたいもんだね、マージ」


 すぐそばに神官が控えていて、マティルデの発言に顔をしかめている。

 気付かれまいとこらえているようだが、隠せていない。


「とにかく、男が怖いのをなんとかしてからだよ、マティルデ」

「そうよね。他にも怖い思いをした女の子がいて、励まし合ってるの。悪い人もいるけれど、優しくて良い男の人もいるんだって」

「ああ、そうさ。あんたは立派な人を何人も知っているんだ。そうわかっているんだから、大丈夫さ」

「うん」


 そろそろ戻るよう声をかけられて、マティルデはまたぷうっと頬を膨らませている。

「マティルデ、神官さんたちの話をよく聞くんだよ」

「わかってるわ、ユレー。ねえマージ、私、男の人が平気になっても、女の子だけのパーティを作って探索に行きたいって思っているの。前で戦える戦士を一人と、神官を一人、探しておいてね」


 面会の時間は短い。近況を話す時間がなかったことが良かったのか、悪かったのか、マージにはわからなかった。

 ろくに答えもできないまま、修行中の少女が去って行ってしまう。

 手を小さくあげて、姿が見えなくなるまで見守っただけ。マージは謝っただけ。話もろくにしていない。


 どんな約束もできる状況にない。だから無責任な返事はできない。

 でも、今の暮らしが終わるかもしれないと言えなかったのは、誠実ではなかったと思える。


 帰り道の間、ユレーが他愛のない話をいくつか振ってきて、マージはそれになんとか答えていった。

 いつものようには会話は弾まず、少しずつ沈黙が増えていく。

 一度家に戻って、必要な支度を済ませ、ゾースの店へと向かう。

 話し合いが必要だろうからと、ユレーも同行してくれている。

 また沈黙の道を進んで、街の南門近くの「ゾースの小瓶」へ。


 街には夕日の強い光が差し込んでいて、影の色を濃く際立たせている。


 ゾースの小瓶は街の片隅にある。大きな通りよりもずっと奥の、目立たない場所に建っている。

 夕方になるとすっかり他の建物の影に飲み込まれてしまうので、外の灯りは早いうちにつけている。

 

 その灯りが、今日はついていない。ごく普通の店なら、決して遅くはない。

 だからユレーはなんとも思っていないが、マージは不安を覚えて足を速めていった。

 店の扉を開けて、奥にある二階へ続く階段へ急ぐ。

 ゾースがうっかりしていただけ、なにか用事があっただけ。そんな理由であってくれと願っていたけれど、叶わなかった。


 二階の狭い台所にはゾースがいて、腕組みをして立っている。

 見つめているのは怪我人が寝かされている小部屋の方で、開いた扉の向こうにヌエルの姿が見えた。


「ヌウ!」

「ジャファト、やめろ。手を貸すな」


 肩を掴もうとする店主の手を振り払い、小部屋へと急ぐ。

 ヌエルは包帯が巻かれた体に無理矢理服を着込んでおり、ベッドの脇で立ち上がろうともがいていた。

 慌てて手を貸そうとしたが、マージの手は荒々しく払われてしまう。


「まだ無理だよ、ヌウ、どうしてこんな」

「俺が出ていくよう言ったんだ」

 歯を食いしばるヌエルの代わりに、ゾースが答えてくれた。

「なんで?」

「もうこれ以上手助けは出来ない」

「どうしてだよ、ゾース!」


 大柄な店主はマージを手で制し、ゆっくりと首を振った。


「お前もヌウも大切な仲間だ。だから助けた。だがこれ以上はもう無理だ」

「だから、どうして?」

「わかるだろう。あんな怪我をするなんて普通じゃない。ヌエルは理由を言わないんじゃなくて、言えないんだ」

 そんな人間を匿い続けることはできない、とゾースは言う。

「ねえ、もう少しでいいから」

「駄目だ」


 ゾースは早く支度を済ませるように言い残して階下へ去っていく。

 マージは振り返り、床に這いつくばるヌエルへ手を伸ばした。


「離せ」

 やっと声を聞けたのに。冷たい言葉はあまりにも悲しく響いて、マージは涙をこぼしている。


「あいつ、俺を裏切りやがった」

「ゾースが?」

「ギアノ・グリアドを連れてきたんだ」


 今日、雲の神殿へ行っている間に、ゾースはギアノを連れてきたとヌエルは言う。

 いくつか問いを投げかけられ、それに答えるよう迫られたのだと。


 ギアノが訪ねて来た時の会話を聞いていたのかもしれない。

 ゾースの考えもわかる。

 噂を聞きつけて、みんな藁にもすがる気持ちでこの店を訪れる。

 ヌエルもマージもそうだった。微かな希望の光を求めて、本当に助けてもらえるのか疑いを抱えながら、勇気を奮って店の扉を叩くのだ。

 この部屋はそんな新参たちの為に開けておくべき場所で、頑なに口を開かないヌエルをいつまでも置き続けることはできない。


「ギアノはなんて?」

 ヌエルは答えず、強い目でマージを睨みつけるだけだ。

「どうして言えないんだよ、ヌウ。あんたが悪くないなら言えるはずだろう」

 

 どんなに涙をこぼしても、結局答える声は聞こえてこなかった。

 ヌエルはなんとか立ち上がろうとしてはよろけて、そのたびに手を出し、払われ、視線を背けられている。


「馬鹿、ヌウ! どうしてなんだよ、どうしてなにも言ってくれないんだ」

「しつこいぞ。俺がいつ助けてくれと頼んだ!」


 あまりにも強い否定の言葉に、マージの世界は激しく揺れた。

 目もよく見えないし、体は震えているし、音もよく聞こえない。

 遠くからユレーの声が聞こえているように思った。

 大丈夫かい、マージ、しっかりするんだと、背中を支えられているような気がしている。


 壁に手をつき、扉にしがみついて、ヌエルは一人で出ていこうとしていた。

 床にへたりこんで、大声で泣きながらも、マージはそんな気配に気付いていた。


 そんな体で、まともに歩いていけるはずがない。階段で転がり落ちて、動けなくなったら、ゾースはどうするだろう?


 あの時と同じように、街の片隅に転がされてしまう?

 医者に運び込んでくれるだろうか?


 いや、それどころか、死んでしまうかもしれない。

 

 そんなのは嫌だ、とマージは思った。

 無事に店を出ていったとしても、その先に待ち受けている運命は間違いなく過酷なものになる。

 このままでは、ヌエルは誰にも気づかれない間にこの世から消え去ってしまう。

 どこかの神官にささやかな祈りを捧げられて、西の荒れ地に掘られた粗末な穴の底に埋められる。

 その死に気付かれず、誰にも訪れてもらえない。どこに埋められたのかもわからない。

 

「いやだ、いやだよ、ヌウ、待って!」

 そんな悲しい運命を歩ませたくなくて、マージはヌエルを追いかけ、後ろから強く抱きしめる。

「離せ」

「駄目だよ、そんなの。行っちゃ駄目だ」

「お前には大切なお仲間がいるんだろう」


 マージはヌエルを強く抱いたまま、涙で濡れた顔で振り返った。

 ユレーは戸惑った顔で立ちすくんでいたが、やがて意を決したようにこう切り出した。


「マージ、あんたはヌウといてやりな」

 呆然として答えられないマージに、仲間の女は冷静にこう続けた。

「マティルデはあたしがなんとかする。心配いらないよ、助けてくれる人が何人もいるんだから」

 ユレーは小さく頷くと、二人のそばまでやって来て、膝をついて囁く。

「なにがあったのか知らないけど、ヌウ、あんたは本当に幸運だよ。あんなに酷い怪我をしていたのに助かったんだからね。心から案じてくれる友達もいる。感謝して、まずは体を治しな」

 ヌエルは答えず、マージもなにも言えない。口から漏れ出すのは嗚咽ばかりで、ユレーに言うべき言葉はいつまで経っても見つからなかった。


「こうするのが一番良いんだ。もう泣くのは止めな、マージ」

「ユレー……」

「とにかくあんたの家に移動しよう。そこまでは手伝うよ」


 ユレーはゾースに世話になったと礼を言い、長く居座って悪かったと謝っている。

 手を貸してもらって、ヌエルを背負い、姿が見えないように大きな布をかけて。


 歩き出したら、すぐにマージの家に帰り着いてしまった。


 三人の女の持ち物はあっという間に仕分けられて、ユレーはもう二人分を抱えている。

 夜だというのに躊躇いもせず、この家をマージたちの為に開けるために、出ていこうとしていた。


「マージ、大変だろうけど、頑張るんだよ。ヌエルを助けられるのはあんただけなんだから」

「ねえ、ユレー」

「ああ、マージ! あんたは本当に優しくていい女だ。いつでもちゃんと化粧をして、きれいな服を着ていてさ」

 よろよろと近づいてきた背の高いスカウトを抱きしめ、ユレーは囁く。

「本当にこれまでありがとうね。あたしはもう、あんたを妹だと思ってるくらいさ。だからどうしても困った時には、いつでも呼びな。あたしはこの街のどこかにいるからね」

 また泣き出すマージの背中を、でっかい妹だねと言いながら、ユレーは優しく撫でる。

「まったく、あんたの泣く声は本当にやかましいよ」

 近所に迷惑だよと笑われ、マージは必死になって涙をこらえていく。

「こんなに突然、本当にごめん」

「なにか起きる時ってのは、いつだってそうさ」

 世話になり始めた時の方がよほど突然だったと、ユレーは笑っている。

「必要なら、街を出ることも考えるんだよ。とにかく、二人が無事でいるのが一番大事なんだから」

「ユレー、また会えるよね?」

「馬鹿だね、マージ。そんなの当たり前だろう!」


 それだけ言い残すと、迷宮都市の姉妹は去っていってしまった。


 ベッドにはヌエルが横たわっている。

 力尽きてしまったのか、眠ったふりをしているのかわからないが、今は大人しく目を閉じている。


 眠るヌエルしかいない部屋は静かで、寂しくてたまらなかった。

 怪我をしているところを避けて、髪を撫でていく。

 ひねくれ者で秘密を抱えているけれど、触れた指先が暖かい。


 確かに、ユレーの言う通り。ヌエルを救えるのは自分しかいない。

 ユレーとマティルデたちとの楽しい女だけの暮らしと、天秤にかけなければいけなかった。

 どちらに傾いているかはわかっていたのに。言い出せず、決められなかったマージの背中を、ユレーは押してくれた。


 胸のうちにいくつもの不安と後悔が渦巻いている。

 もっと良い方法がなかったか、頭の中がぐるぐるして落ち着かない。


 泣いたりこらえたり、うとうとしたり。

 嫌な夢を見たり、優しい思い出に浸ったりしながら、マージはようやく朝を迎えていた。


 明るい光が窓から入り込んできて、マティルデの笑顔を思い出す。

 ユレーが姉なら、マティルデは迷宮都市でできた可愛い妹だ。

 自分を受け入れてくれた、優しい姉妹たち。

 二人とまた笑って会うために、今の状況をなんとか乗り越えなければいけない。


 自分で選んだ道なのだから。


 まだ目を閉じているヌエルの頬にそっと触れて、マージは呟く。


「ヌウ、いつかあんたが話してくれるって、信じてるからね」


 傷の具合を見て、食事をとらせなければならない。

 目が覚めたらどんな態度で接してくるか見極めて、これからの暮らしについて決めよう。

 二人にとって、より良い未来に繋がる日々にするために。


 スカウトの女はそう決意して、朝日の差し込む台所へと向かった。

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