140 人生の岐路に立ち 1
「ギアノー、ねえ、ギアノー」
自分を呼ぶ声が聞こえてきて、屋敷の管理人は作業を止めると廊下に顔を出した。
滞在している初心者の一人、十四歳のモーリが声の主だったようで、ギアノを見つけてぱっと顔を輝かせている。
「お客さんだよ」
「わかった。アデルミラ、ちょっと頼むよ」
厨房の仕事を頼れる相棒に任せて、玄関へと進む。
カッカーの屋敷を訪れる客といえば、大抵は噂を聞きつけた初心者か、伝説の探索者に相談があるかのどちらかだ。
だがこの日やって来たのは立派な外套に身を包んだ青年で、明らかに迷宮都市の住人ではない。
「君がギアノ・グリアド?」
「そうです。……俺に用があって来たんですか?」
「ああ」
まっすぐに背筋を伸ばした立ち姿や、鋭い目つきから受ける印象はレテウスに近い。
身につけている衣服も立派なもので、上等な造りだと一目でわかる。
そんな人間が何故自分を訪ねてきたのかわからないが、とにかく、立ち話で済む様子ではなく、奥の管理人の部屋へ客を案内していく。
「飲み物を用意しますね」
厨房へ走り、お茶の用意を手早く済ませて、お湯が沸いたら持ってきてくれないかとアデルミラに頼んだ。
雲の神官は快く引き受けてくれて、ギアノは管理人の部屋へ慌てて戻る。
カッカーが残していった立派な応接用の椅子に、青年は腰かけている。
表情は暗く、思いつめたような雰囲気があった。
まさか自分の家族の遣いではないだろう。
だが、そうなるとますます心当たりがない。
ギアノは戸惑いながら客の向かいに座り、まずは自分から名乗っていった。
「ギアノ・グリアドといいます。ここは迷宮都市ラディケンヴィルスの樹木の前神官長であったカッカー・パンラの屋敷で、俺は管理を任されています」
初めて会う人物だよなと考えながら、様子を窺っていく。
青年はゆっくりと顔を上げて、ようやく名前を教えてくれた。
「私の名前はヘイリー・ダング。王都から来た」
いかにも王都から来たであろう雰囲気で、それについては疑問はない。
ただ、やはり名前にも聞き覚えがなく、ギアノは静かに続きを待った。
「妹からの手紙を預かってきた」
「妹さんから?」
「君宛ての手紙だ。確認してほしい」
またも心当たりはなく、手渡された封筒にギアノは首を傾げてしまう。
「俺宛てで間違いありませんか?」
「高名な探索者であったカッカー・パンラの屋敷で働いているギアノ・グリアドという名の男性に届けてほしいと頼まれたのだ。他に同じ名の男がこの屋敷にいるか?」
「いえ、いません」
そこまではっきりと指名されたのなら、自分に宛てたもので間違いないだろう。
「妹さんの名前は?」
「チェニーだ。チェニー・ダング」
知らない名前にぽかんとしているのが伝わったのだろう、ヘイリーの眉間に皺が寄っていく。
「妹を知らないのか」
「はい、心当たりはなくって」
「調査団で働いていた。君が調査団にやってきたことがあって、その時にここで働いているのがわかったという話なのだが」
「調査団には確かに、一度伺っています」
レテウスに会いに行った時のことだろう。
調査団員は男性ばかりで、女性を見かけた覚えはない。
だが、とにかく手紙はギアノに宛てられたもので間違いはなさそうだった。
謎を解くには、読んでみるしかないだろう。
「あの、すみません。俺、ちゃんと文字を学んだことがないんです。わからないところは聞いてもいいですか」
ギアノの正直な言葉に、ヘイリーは困惑の表情を浮かべている。
「そうか……。わかった、仕方がない」
「じゃあ、開けますね」
仕事の合間に覚えた文字はいろいろとある。
けれど正式に習ったものではないので、堅苦しい文章になると解読できない。
家族へ手紙を送る時には、隣の神殿へ行ってロカに協力してもらった。
チェニーなる女性からの手紙には、まず宛名が書かれていた。
自分の名前なので、これはわかる。その次に書かれた「突然手紙を送りつけて申し訳ない」も理解できた。
―― ギアノ・グリアド殿
突然手紙を送りつけたこと、申し訳なく思っています。
けれどあなた以外に頼める人がおりません。
兄に手紙を託します。大切なものもひとつ、預かってくれているはず。
この封筒の中の手紙を、デルフィ・カージンへ渡して下さい。
中は決して見ないで下さい。
腕輪は二人の形見です。
あなたになら託せると思っています。
勝手なお願いをどうか、許してください。
私は愚かでした。兄にも伝えて下さい、どうか、許してほしいと。
進んでいくにつれ、手紙の文字は乱れていった。
ギアノに宛てたメッセージの後に、いくつもいくつも謝罪の言葉が並んでいる。
読んでいるだけで胸が締め付けられるような、苦しみの中で書かれているものではないかと思えた。
封筒の中には小さく畳まれた手紙がもう一通入っており、封がされている。
読んでいる間からずっと、ギアノは混乱していた。
どうしてデルフィの名前が出てくるのか。
「二人の形見」とは一体、なんなのか?
「大切なものがひとつと書いてありますけど」
「これのことだ。腕輪だよ」
「形見の?」
「私にはわからない」
ヘイリーから太い金色の腕輪を手渡され、確認していく。
大きな橙色の丸い玉がついているが、野暮ったい形だとギアノは思った。
これを贈られて喜んだり、すすんで身につける女性はいないだろう。
「あの……、妹さんはなんと言ってあなたにこれを託したんですか?」
問いながら、ギアノは頭を働かせていた。
手紙を書いた主は、ヘイリーの「妹」であり、女性なのは間違いない。
手紙の中に出て来た名前は「デルフィ・カージン」。
謎の腕輪は「二人の形見」で、この二人にデルフィとチェニーは含まれないのだろう。
「私が聞きたいくらいなのだが」
「なにをでしょう」
「妹になにがあったのか」
ヘイリーの顔色は途轍もなく悪い。
蒼黒く染まっていて、暗い感情ばかりを抱えているように見えた。
「俺は、チェニー・ダングという女性を知りません」
「では何故、君へ手紙を託した?」
「妹さんは王都で暮らしているんですか」
「……少し前まではこの街にいたんだ。もともとは王都で兵士になったが、調査団に異動させられてね」
「それで、俺を見かけたんですね」
「本当に知らないのか」
「少なくとも、調査団員の女性と出会ったことはないです」
ヘイリーは眉間に深く皺を寄せると、大きなため息を吐き出していった。
扉が叩かれ、アデルミラが入って来る。
ギアノは立ち上がるとトレイを受け取り、礼を言って雲の神官を厨房へ帰した。
テーブルにカップを置いて、お茶を注いでいく。
腕組みをして黙り込んでいるヘイリーの前に置いて、良ければ飲んで下さいと声をかけてみる。
「……ありがとう。とてもいい香りがする」
「南の地方で飲まれているものなんです」
ヘイリーはカップを口に運んで、ゆっくりとお茶をすすっていった。
それで少しだけ、眉間に入っていた力は緩んだようだ。
「ここへ来て君に手紙を届ければ、なにもかもがわかるのだと思っていたのに」
テーブルの上に置かれた紙にちらりと目を向け、ヘイリーは唸るようにこう続けた。
「妹はひどくやつれて実家へ戻って来た。もう十八歳だし、両親はようやく帰って来たと喜んでいたよ。いつまでも男の真似事をしてと、普段から文句を言っていたから。自分も騎士になるのだと小さな頃から木の棒を振り回すようなお転婆で……。俺のあとを追いかけてきて、幼馴染たちに混じってよく遊んだものだった」
だが。
これまでに聞いた中で一番の重たさを含んだ「だが」に続く言葉は、更に重たいものだった。
「実家に戻ってから、少しくらいは良くなったようだった。母が一生懸命面倒を見て、食事をとらせていたから。あんなに痩せていては嫁にいけないだろうと言ってね。良い嫁ぎ先がないか父も探してまわっていた。そう若くもないし、愛想もないし。女らしい趣味にも興味を持たなかったから。剣を振りまわして、とうとう兵士になってしまったほどだからな。俺が悪かったのかもしれない。幼い頃に、お前など仲間にいれてやらないと言って突き放しておけば良かった。こんなことになるくらいなら」
青年はぎゅっと口を閉じ、歯をぎりりと鳴らす。
「俺は騎士団で働いているんだが、急に周囲がよそよそしくなっていった。理由がわからなくて、一番仲の良いホーナーに聞いたんだ。散々食い下がって、ようやく理由がわかった。チェニーはこの街で働いている間にたくさんの男と関係を持っていたという噂が流れていたんだ。騎士団どころか、王都中の兵士に広まっていたよ。あの男勝りのチェニーが、女だてらに兵士になったはずのチェニー・ダングが、迷宮都市では男漁りをしていて、相手の物を奪っては売り払うような真似をしていたんだと。俺は驚いて家に戻り、チェニーを問い詰めてしまった。高価な剣を奪われ、破滅に追いやられた男がいると聞いたが、本当なのかと」
ヘイリーの体は震えていて、ギアノは口を挟むことができない。
「チェニーはそんなことはしていない、知らないと答えた。だが、震えて泣いていた。動揺して、混乱に陥っていたんだ。とてもなにもなかったとは思えない態度で、俺も焦ってしまった。大声で問い詰め、それで父と母にも知られることになった」
思い出して苦しくなったのか、青年は額を抑えて項垂れていく。
「馬鹿なことをしてしまったよ。だけど冷静ではいられなかった。あんなにやつれて帰って来て、様子がすっかり変わってしまっていたから。妹の身には明らかになにかがあった。俺にはそうとしか思えなかったんだ」
チェニーは部屋に閉じこもり、出てこなくなってしまった。
母は優しく呼びかけ、父は叱り、兄は沈黙を守って、嵐が過ぎるのを待ったのだと言う。
そこから手紙へどう繋がるのか。
疑問に思うギアノへ、答えが告げられる。
「チェニーは死んだ。俺が愚かにも問い詰めてしまった二日後のことだ。家族に手紙を残して、自ら命を絶った」
ヘイリーは再び大きく息を吐き出し、膝を力強く叩くとようやくまっすぐにギアノを見据えた。
「こんな話を聞かせて済まない。俺は、妹になにが起きたのか知りたくてここに来た」
「そうでしたか。そんなことが起きたのなら、当然でしょう」
チェニーの魂が癒されるように祈るギアノに、ヘイリーは礼を告げている。
「本当に妹に心当たりはない?」
「……そうですね」
「デルフィ・カージンについては?」
あのひょろ長の、鍛冶の神に仕える気弱な探索者。
バルジとデントー。もとは二人組であったという、腕の良い探索者たちのことを思いだす。
何故偽名を使っていたのか、理由を知らない。
不思議な五人組だった。ド素人のダンティンと、スカウトのカヌート、そして、見習いだというドーン。
ヘイリーの問いに答えを示したい。
けれど、ギアノは迷っていた。
なんと答えるべきなのか。
チェニーについて、思い当たることはある。
記憶のかけらをすべて集めて積み上げたら、「あの五人組」を作りあげることは出来そうだった。
だがそうなると、彼らはただの「不思議な」五人組などではなくなってしまう。
勢いだけは一流のド素人に振り回されていた人の好い探索者たちでない、他の何かに変わってしまう。
それが正しいのかどうか、ギアノにはわからない。
「ひょっとしたら、と思うことはあります」
「なんだ」
「ごめんなさい、なにもかもが推測でしかなくて。それにその推測が正しかったとしても、あなたの妹さんとは交流はないんです。すれ違った程度でしかありません」
「どういう意味なんだ」
「いや、なんと言ったらいいのか……」
バルジについては、それなりの腕の戦士であったことしかわからない。
ダンティンも同じで、ひたすら前向きな性格のド素人だとしか言いようがない。
デントーは、鍛冶の神官デルフィ・カージン。
スカウト見習いのドーンが、チェニー・ダングだったのかもしれない。
けれど、調査団の団員が何故あのパーティに参加して、偽名を使っていたのか?
そして、最後の一人。スカウトのカヌート。
スカウトであるマージの知り合い、ギアノが神官と会っていないか気にしていたという、「ヌー」なのではないか。
何故マージが心配し、マティルデがあんなに必死になって伝えに来たのか。疑念は心に沈んだまま残っている。
あの五人は、「橙」の最下層を目指す探索に出たきり戻ってこなかった。
誰も戻らず、荷物は残されたまま。宿はなくなり、「コルディの青空」を訪ねてくる者もいなかった。
「人には言えないような話なのか?」
「いえ、そういうわけではないんです。ひょっとしたらと思うことはあるけれど、理由がわからない。あなたの妹が何故……」
ドーンはバルジと関係を持っていたはずだ。
二人の間に流れる空気について指摘をした時、バルジはそう認めた。
だが、多くの男と関係を持っているような様子はなかったように思う。
ドーンは女であることを隠すために、わざと汚い格好をしていただろうから。
「何故、なんだ?」
「すみません。俺も今混乱していて。デルフィ・カージンについては、彼はもう死んだものだと俺は思っていました」
「死んだ?」
「探索に出かけたきり、戻って来なかったから」
「迷宮探索というやつか」
「そうです。彼は迷宮に挑む探索者だったので」
ヘイリーに告げられる確かなことは、ただ一つだけだ。
デルフィは戻ってこなかったし、あれ以来姿を見ていない。
けれどそれは、必ずしも「死」を意味するわけでもない。
「わかった。私はこれから調査団へ行って話を聞くつもりだ」
「そうですか」
「また君に会いに来てもいいかな?」
「ええ。力になれるかどうかはわかりませんけど」
「手紙と腕輪を預けてもいいか」
「もちろん、構いません」
もしもデルフィが生きていて、街に残っているのなら。
再会できれば「二人の形見」の意味はわかるかもしれない。
「突然すまなかった。気が動転していたとはいえ、失礼な真似をしてしまったね」
「いいんです。俺も、少し考えてみます」
「ありがとう」
ギアノの心に嵐をひとつ残して、ヘイリー・ダングが去って行く。
玄関でぼんやりと立ち尽くすギアノの隣には、いつの間にかアデルミラが並んでいた。
「ギアノさん、どなただったんですか?」
「王都から来た騎士だって」
「騎士?」
「まだよくわからない。変だよな、はっきりと俺を指名して来た人がいるのに、なにがなんだか……」
アデルミラは一緒に管理人の部屋にやって来て、使った食器を片付けてくれている。
残ったお茶を注いで飲み干し、ギアノは渡された手紙と腕輪をじっと見つめた。
「腕輪ですか?」
「うん」
「なんだか不思議な形をしていますね」
「そう思う?」
「アクセサリーとして使うには大きいように思います」
アデルミラは小柄だから、余計にそう感じるのかもしれない。
ギアノは納得していたが、雲の神官は小さく首を傾げて、こう続けた。
「迷宮で見つかったものなんですか?」
「どうしてそう思うの」
「街で売られているように見えないからでしょうか。それで、迷宮の中にあったのかなと考えてしまったんだと思います」
そう言われてみれば、迷宮に割り振られた色そのもののように見えてきて、ギアノはしばらく腕輪を見つめた。
食器は働き者の神官が片づけてくれており、管理人は手紙を鍵のかかる引き出しにしまって、仕事を再開させるために厨房へと向かう。
「なあ、アデルミラ」
「なんでしょう?」
果実の皮を一緒になって剥きながら、ギアノはアデルミラに問いかけていった。
「神官が偽名を使うって、あり得ると思う?」
「偽名?」
そんな神官がいたのですか、と赤毛の少女は首を傾げている。
悩みながらも肯定し、ギアノは自分の出会った探索者について説明していった。
「そう長い間一緒に暮らしたわけではないんだけど、打ち解けてくれてね。しょっちゅう祈っているから、気になって聞いたんだ。神官なのかって。戸惑っていたけど、後から名前を教えてくれた。自分は神官で、本当の名前は違うんだって」
「偽名を使うなんて、ほとんどないことだと思います」
「そうだよね」
「でも、メーレスを連れて逃げていた時、私たちも身分を隠していました。神官の兄妹だと知られていましたから、目立たないよう神官衣は脱いでいましたし……」
長く逃げ続けるような状況になったのなら、名前を偽ることも考えていたかもしれない。
アデルミラの言葉にいちいち頷きながら、いろいろあったなあとギアノは思い出している。
「その方は誰かに追われていたのでしょうか?」
「神官が追われるようなことってあるのかな」
「神官であっても、悪事に手を染める方も時にはいます」
デルフィの気弱なあの様子。悪いことをするようなタイプではないと思う。だが――。
「自分がやらなくても、巻き込まれる可能性はあるか」
「どんな方だったんですか、その神官は」
「鍛冶の神官だと言っていたよ。気が少し弱かったけど、頼れる男だった。物知りだったし、考え方もすごく真っ当でね」
アデルミラは頷き、相槌を打ってくれている。
「背が高いんだけど痩せていてさ。キーレイさんと同じくらいあるのに、体格的には頼れそうになかった」
「ギアノさんはその頃、街の西側で暮らしていたんですよね」
「ああ。雲の神殿が近くにあって、そこに時々行っているような話を聞いたかな。違う神殿でもいいんだなって思ったもんだよ」
こう言ってから、ギアノは少しだけ後悔していた。
目の前で急に浮かない表情をし始めたアデルミラも、兄と一緒に樹木の神殿の世話になっている。
無神経な発言をしてしまったのではないかとギアノは慌てたが、雲の神官から思いがけない言葉が飛び出してきた。
「キーレイさんと同じくらい背が高い方で、雲の神殿にも行かれていたんですか」
「うん。実際に見たわけじゃあないけど、そんな話をしていた気がする」
「すごく痩せている方ですか」
「そうだな。結構な細身だった」
もしかして、心当たりがあるのか?
ギアノの問いに、アデルミラは持っていたナイフを置いて、語りだした。
「メーレスを連れてここまで逃げてきた時、念の為に西側の門から入ろうと兄さまが言い出したんです。東から逃げてきたのだから、東門から入るよりはいいだろうって。それに、雲の神殿に助けを求めに行けると思って」
神官長のゲルカとは何度か会っていて、頼れる人物だとわかっていたから、そう考えたとアデルミラは語る。
「でも、神殿に着く前に雲の神官と出会ったんです。神官長様が着る長いローブを纏った、とても背の高い人でした。痩せていて、顔色も悪くて、誰かを探しているような雰囲気でしたけど、私たちに手を貸してくれて、樹木の神殿まで付き添ってくれたんです」
「迷宮都市にやって来た日だよね?」
「そうです。あの時は追われていたので、互いの名も知らせないまま別れました」
アデルミラたちがやって来たのは、ギアノが管理人になった後。
バルジたちが探索に出かけて戻らなかった頃よりも、ずっと後だ。
「この間、兄さまと一緒に雲の神殿に行ったんです」
「ああ、そういえば行っていたね。フェリクスたちと一緒に出掛けた日だよな?」
「そうです。あの日、世話になった神官について尋ねたんです。とても背の高い神官に助けてもらったことを伝えて、お礼をしたいって。でも、そんな神官はいないと言われました」
「いない?」
「ええ。特徴を伝えたんですけど、そういう外見の者はいないって」
アデルミラがまっすぐに見つめてきて、ギアノは考えこんでいた。
背の高い雲の神官の正体がデルフィだったのなら、彼は無事に「橙」から戻っていたことになる。
マティルデから聞かされた「ヌー」の話。
あれを聞かされたのは、菓子の試験販売の三日目だった。
そして今日渡された手紙。
調査団で働いていたというチェニー・ダングが、あの五人組の一人、ドーンだったとしたら?
デントー、カヌート、ドーンは「橙」から無事に戻っている。
それなら形見の腕輪の「二人」は?
安否が確認できていないバルジと、ダンティンだと考えられるのではないか。
腕輪についている橙色の玉。
謝罪だらけの手紙。
何故「ヌー」とやらは、自分が「神官と会っていないか」気にしている?
デルフィの残していった神官のしるしは、引き出しの中に大切にしまっている。
それは「ひょっとしたら生きているかもしれない」と思っていたからだ。
もしも無事でいるのなら、渡してやりたいと思っていた。
「ギアノさん、大丈夫ですか?」
「ん? 大丈夫だよ、少し驚いたけど」
考えていても仕方がない。想像はできても、真実かどうかはすぐにわからないだろうから。
けれど、ヘイリーの苦しみを思うと胸が詰まった。
きっと仲のいい兄妹だったのだろう。
アダルツォとアデルミラのように。フェリクスと妹のように。
「とりあえず仕事を済ませよう。夕方になる前に終わらせないと面倒だからなあ」
屋敷の住人たちの為に家事をこなし、ティーオの店のために菓子の仕込みを進めていく。
そんな中ふと思いついたことがあり、樹木の神殿へのお茶の用意が済んだあと、ギアノは出かける支度を始めた。
「アデルミラ、ちょっとレテウスさんのところに行ってくる。すぐに戻るから」
「わかりました。いってらっしゃい、ギアノさん」
チェニー・ダングが自分を見かけた時。
ギアノが王都の調査団へ行ったのは一度だけで、滞在していたレテウスに会うためだ。
ならばレテウスは、チェニーを知っているのではないか。
きっと家にいるだろうと考えて貸家へ向かうと、案の定貴族の青年は在宅していた。
「おう、料理人じゃねえか。今日はなにを持って来た?」
中に入れば親分が待ち受けていて、小さな体で豪快に笑っている。
「今日はなにもないんだ。ごめん」
「なんだと……?」
「ちょっとだけ確認したいことがあって。レテウスさん、いいかな」
「私に?」
奥の部屋のドアが開いて、クリュがちらりと顔を見せている。
少し前に妙な男に襲われたとかで、しばらく探索に行くのは控えると話していた。
「クリュ、調子はどうだ」
「お菓子を持ってきてくれたかと思ったのに」
「ごめん」
「どうかしたの? なんだか変だよ」
「今日は正直、動揺してる。おみやげはまた今度持ってくるよ」
ギアノはレテウスの隣に招かれて腰かけ、貴族の青年に問いかけていった。
「レテウスさんは、王都の調査団に所属していたチェニーって女性を知ってます?」
「チェニー・ダングなら知っている。滞在している間に世話をしてくれたからな」
背筋をまっすぐに伸ばしたレテウスは、更にこんなことまで教えてくれた。
「彼女の兄とも顔見知りだ。話したことはないのだが」
「ヘイリー・ダングで間違いありません?」
「ヘイリーを知っているのか」
「今日、来たんです」
「迷宮都市へ?」
「はい。屋敷に、俺を訪ねに」
「ギアノを?」
レテウスの眉毛は相変わらず吊り上がっていて、眉間に皺が寄ると完全に怒った顔になってしまう。
「チェニー・ダングがどんな女性だったか、覚えてませんか」
「彼女がどんな風だったか?」
女の話をしていると思っているのだろう。シュヴァルは遠いところに座っているが、ちらちらと視線を向けてくる。
クリュも部屋から出て来て、親分の隣にそっと座った。
「ひどく陰気だったよ。顔も地味だし、愛想もないし」
正直すぎる言葉に、ギアノは思わずぽかんとしてしまう。
客の表情に気付いたようで、レテウスは肩をすくめてみせた。
「お世辞を言っても仕方ないだろう。もともとヘイリーの妹は可愛げがないことで有名だった。とはいえ、あそこまでとは思わなかった。声も小さいし、覇気もなかった。あれでは嫁にもらう男など現れないだろう」
「ひでえことを言いやがるな、レテウス」
ギアノが思ったことは、かわりにシュヴァルが口にしてくれた。
だが、レテウスは口をへの字に曲げて、親分に対して抗議の声をあげている。
「実際に彼女を見ていないからそう言えるんだ、シュヴァル。君も彼女に会っていれば、同じように思ったはずだぞ」
「覇気がないというのは、元気そうではなかったってこと?」
「ああ、そうだな。ヘイリーは随分快活そうな男なのに、本当に彼の妹かと疑いたくなるほどだった」
ギアノに会いに来たヘイリーは、まったく快活そうな様子ではなかった。
妹の死に打ちのめされたようなので、レテウスの印象と違うのは仕方がないと思える。
チェニーはひどくやつれて帰って来たという話なので、覇気がないという言葉は正しいのだろう。
「彼女についてなにか気になったことはありませんでしたか」
貴族の青年は腕組みをしてしばらく考え込み、やがて視線をクリュに移してじっと見つめ始めた。
「なんで俺を見るの、レテウス」
「あの時、サークリュードも一度宿舎に来ていたのではないか」
「行ったけど、女の人は見てないよ」
クリュの返事は簡素そのものだったが、レテウスはクリュを見つめたままだった。
金髪の美青年は嫌そうに身をすくめて耐え、貴族の男はゆっくりとギアノに視線を移した。
「彼女を紹介されたのは、ウィルフレド殿を知っているからだった」
「え?」
「一緒に仕事をしたことがあるとかで」
では、ウィルフレドからもなにか聞き出せるかもしれない。
頷くギアノに、もうひとつ、思い出したことが告げられる。
「やたらと立派な剣を持っていたな」
「剣?」
「酷いことをと言われるかもしれないが、彼女にはあまりにも似つかわしくないと思ったので覚えていた」
高価な剣を奪われ、破滅に追いやられた男がいる。
ヘイリーが聞いた噂の中にあったはずだ。
「立派な剣っていうのは、やっぱり売ると高いものなのかな」
「物によるだろうが、あの剣は高く売れただろうと思う。とても美しかったよ。細かな細工が施されていて、個性的だった。あの剣のことはみな覚えているのではないかな」
ギアノは息をふうと吐き出し、立ち上がった。
レテウスは女性の好みにうるさそうなので、あそこまで言った相手にちょっかいを出すとは思えない。
今の話の通り、関係はごく浅いもので終わったのだろう。
「もう帰るの、ギアノ」
「ああ。急に出てきたんだ。仕事はまだ残ってるから」
「おい、今度はうまい物を持ってくるんだぞ。いいな、料理人」
「わかったよ、親分」
貸家から出て、屋敷へ急いで戻っていく。
心がずっしりと重く、しっとりと濡れていて冷たい。
けれど夕食前の時間は嵐のような忙しさで、ギアノの心はそれで少しだけ温まっていった。
屋敷で暮らす若者たちと言葉を交わし、感謝し感謝され、明日の支度をしっかり済ませて、夜。
ギアノはふと思い立って部屋を出ると、隣に建つ樹木の神殿へと向かった。




