14 迷宮心中(下)
檻の中で過ごす最後の夜。
狭い部屋、窓にはまった格子、すすけた燭台、少し埃臭いベッド。そのすべてと今夜でお別れだ。
彼女を救ってくれた「成功者」は、迷宮都市最後の夜を仲間たちを過ごしているらしい。飲んで騒いで、明日の朝になったら迎えに来るという。
一晩だけ待ってくれ。彼はそう言って、一夜分の料金を店に支払ってくれていた。何処か高級な宿にでも移してくれればいいのに。カティリアはそう思うが、そう言葉に出して機嫌を損ねる必要はない。にっこりとほほ笑み、感謝の言葉と口づけを返して、長い間暮らしてきた自分の部屋で最後の時を過ごしていた。
店の中のあちこちから、客と女たちの声が漏れ聞こえてくる。
探索を終えた命知らず、儲け話を探しに来た商人、延々と続く自慢話とも、つまらない嫌がらせをしてきた意地の悪い女たちとも、今日でお別れだ。
満足感に包まれながら、カティリアは格子の隙間にのぞく夜空を見つめていた。
「カティリア」
窓辺に佇む彼女を呼び止めたのは、デリンの声だ。窓の外へ目をやると、悲しげな青い顔がカティリアを見つめていた。
「行ってしまうって、本当かい?」
「……ええ、本当よ。あなたにはとても世話になったわね」
礼を言おうとすると、デリンは窓の下から去って行ってしまった。
どうしたのかと戸惑っているうちに、今度は扉がそっと開かれる。
「デリン、どうしたの?」
店で働く者が、この時間に女たちの部屋へ入ってくることはない。何かトラブルでも起きない限り、部屋へ立ち入るのは許されていなかった。
「逃げよう、裏口の鍵を持っているから」
男の真剣な眼差しに、女はただただあっけにとられている。
「なにを言っているの?」
「僕がもたもたしていたのが悪かったんだ。本当にごめん、カティリア。けれど大丈夫。一緒に逃げよう」
「そんな、出来ないわ」
デリンの瞳の中に浮かぶ炎に、カティリアは心の中で舌打ちをした。
彼が自分に好意を持っているのはわかっていた。
しかし、一緒に逃げようなどと言い出すとは思ってもみなかった。そこまで自分に入れ込んでいるとは。愚かな男だとは思っていたが、まさかここまで馬鹿な考えを持っていたなんて。
逃げられるわけがない。この店から勝手に出れば用心棒たちが追ってくる。この街から出る為に必要な金だって、持っているとは思えない。
どう考えても無理だ、とカティリアは優しく諭していった。逃げても追われる。逃げたとして、着の身着のままで何処へ行こうというのか。あらゆる角度から、この無謀な計画を止めさせるよう説いていく。
「でもこのままじゃあ、カティリアはどうなるんだ。好きでもない男のところへ行くなんて」
デリンは力強くカティリアの手を握り、こう結論を出した。
「やっぱり逃げよう」
余りにも自分本位な考えに腹が立って仕方がない。
とはいえ、怒らせたらなにをしでかすか。カティリアは悩んだ。どう伝えれば理解してもらえるか、穏便に済ませられるか?
「逃げたら、なによりあなたの為にならないわ。だって追われるようになるのよ。店と、私を引き受けてくれた人が、仲間と一緒になってやってくる」
裏口の鍵を持ち出したことは誰にも言わない。だから、そっと返してきて。
心の底からあなたを思っている。慈愛に満ちた表情を作って、カティリアはデリンの手を握った。
男の瞳が潤んで揺れる。
わかってもらえた、と女は思った。しかし、次の瞬間、世界は突然闇に閉ざされてしまった。
次にカティリアが見た物は、ぐらぐらと揺れる地面だった。
肩に担がれ、運ばれている。腹に走る鈍い痛みの次にそれに気が付いて、カティリアは思い切り暴れた。
「うわあっ」
大切な彼女を地面に落としてしまって、デリンは慌てる。
せっかく奇跡的に、誰にも気づかれずに店から出られたというのに。
周囲にはぱらぱらと通る者がいて、二人を訝しげに見つめている。
「カティリア、こっちへ!」
「離してちょうだい!」
自分の腕を掴もうとする手を、思い切り払う。カティリアはよろよろと立ち上がり、目の前で呆然とするデリンを睨みつけた。
「なにをしたの? ここはどこ?」
そこはラディケンヴィルスの道の上。迷宮の入口が並ぶ中央広場の近く、かまどの神殿の南東の通りだった。
「君を救いたいんだ。お金を積まれたら君たちは断れない。好きでもない相手に一生を捧げるなんて、カティリア、君にはさせたくないんだ!」
デリンの全身から漲る愛情はどこから出てきた物なのか。
さっき、優しく手を握ってしまったのがいけなかったのか。
「私は望んで行くのよ! 今ならまだ間に合う」
急いで店に戻らなければ。戻って、デリンが勝手にしでかしただけなのだと話さなければ。
「望んで行くだって?」
彼女は自分を特別に思っていてくれたはずだ。窓辺から投げかけられた優しい微笑み、苦しい胸のうちを自分にだけ打ち明け、頼ってくれていたのに。
カティリアがふらっと現れた成金の探索者を愛しているなどとはとても思えない。あんな男よりも、ずっとずっとそばに居て、ずっとずっと長い時間を過ごしてきたのは自分なのに――!
デリンは駆け出し、逃げる女の手を掴む。
「おい、なにやってるんだ? 姉ちゃん大丈夫か?」
ただならぬ様子に、通行人たちも驚いてこう声をかけた。
「助けて!」
カティリアのあげた悲鳴に、通行人の男が近づいてくる。
何故助けを求めるのか?
本当は、気が付いていた。
彼女は自分を愛してなどいない。
デリンの心が波立っていく。
では、今掴んでいる手を離すのか?
店に戻ったら、どうなるのか?
何もない人生だった。貧しい田舎の農村に生まれ、ただただ痩せた大地を耕すだけの人生を歩んでいくはずだった。
それを変えたのは、同じ村の幼馴染の言葉だ。「迷宮都市」へ行こう。そこへ行けばなにもかもが手に入るから。王都で一生遊んで暮らせるような、莫大な富が手に入れられるかもしれないから。
けれど、そんな夢を掴むことができるのはほんの一握りの者だけ。
剣の才能も、魔術の知識も、神々への深い信仰もなければ、手先が器用なわけでもない。共にやって来た仲間からも見捨てられ、誰かにいいように使われ、知らぬ間に借金を押し付けられて、気が付けば娼館で下働きをする日々を送っていた。
希望のない人生だった。しかし、自分を照らす太陽を見つけたのだ。窓辺で遠くを見つめている美しい瞳。それが自分に向けられ、声をかけられて、死んでいた魂は再び蘇った。
カティリアがいなくなる。自分以外の男に迎え入れられて、結ばれる。
彼女のいない人生に意味があるだろうか?
勝手に女を連れ出したことを責められるだろう。
一生あの店から逃れられなくなるかもしれない。
大きな体の用心棒たちに、殴られるかもしれない。
時々いるんだ、そんな間抜けな連中が。店の女に恋をして、一緒になろうって言って逃げ出したりしてな。そんなの上手くいくわけがない。追われて、捕まって、ボコボコにされておしまいさ。女はもう店から一生出られない。男は死ぬか、不自由になった体を引きずって、死ぬまで働かされる羽目になる。
わかるな? と店の主人であるジュジュードは言った。デリンが店で働くようになってすぐ、こんな話を彼に聞かせていた。
でも仕方ない。カティリアは優しかったから。美しくて、儚くて、甘い声で自分を救ってくれた女神だったのだから。
カティリアがいるから、自分も生きている。それなのに――。
おしまいだ、と彼は思った。
カティリアは自分と共に生きてはくれない。もし逃げられたとしても、逃げられなかったとしても、彼女を得ることはできない。
本当はわかっていた気がする。デリンはようやくそう思う。彼女は自分を愛していないし、共に逃げてくれるはずもない。
「カティリア!」
デリンは叫び、カティリアを助けようとしていた男にぶつかって倒すと、手に持っていた店の鍵で思い切り左目を突いた。
「ぎゃああ!」
男は悲鳴をあげ、女は慄く。
震えるカティリアの細い腕を掴み、デリンは走った。
今いる場所から最も近い迷宮の入口。八番目の渦、「青」の迷宮へ。
入口のある穴へ飛び込み、扉を開ける。カティリアのあげる悲鳴を聞きつけて何人かが後を追って来たが、そこが「青」の入口だと気が付いて足を止めた。
迷宮都市の地下にある九つの迷宮のうち、最も攻略が難しいであろうとされているのは「黄」、そして「青」の二つ。
「黄」が怖れられている理由は、仕掛けられた罠の凶悪さからだった。魔法生物はあまり多く出て来ないが、かかれば命を落とすであろう仕掛けがこれでもかという程仕掛けられている。通路に、壁に、罠を巧妙に隠し、黄金の輝きは素知らぬ顔で探索者の命を奪う。
「青」が怖れられている理由は、その構造にあった。「青」の迷宮は通路がところどころ水没している。水の中を潜って進み、魔法生物と戦わなければならない。何層続いているのかわからない程深く沈んでいる箇所があり、小さな水たまりかと思いきや中には人の肉を喰らう魚が潜んでいるという。
安全に水の中を進む方法がなかなか確立されず、「青」の迷宮の中がどうなっているのかはほとんど解明されていない。
探索に携わる者はそれを知っていて、余程の理由がなければ「青」に足を踏み入れたりしない。
「嫌、嫌! 離して! お願い!」
恐ろしい程強い力で自分を縛るデリンの腕の中で、カティリアは叫ぶ。
「わかった、あなたと一緒に行くから。なんでも言うことを聞くから! だからお願い、ここから出して!」
濃さが少しずつ違う小さな青い石が組み合わされ、床には美しい模様が描かれている。
壁は氷が張ったような薄い水色で、透き通っているかのような錯覚を起こさせる。
神秘的な美しさの「青」の迷宮に、女の叫び声がこだましていく。
「デリン、ごめんなさい。あなたの気持ちを知っていたのに……、裏切られたと思ったのね? 本当にごめんなさい。あの人と行くのは止める。あなたと行くわ。こんな恐ろしいところから出て、ね? 一緒に何処か、誰も追いかけてこられないくらい遠い所へ行きましょう」
涙を流しながら訴えるカティリアの言葉に、デリンは笑顔で頷いた。
「ありがとう、カティリア」
女の言葉が真実でも嘘でも、デリンには関係なかった。
カティリアという太陽を自分のものにするには、もうこうするしかない。
人生の最後に、輝く宝石を手に入れて、世界で最も美しい場所に辿り着いた。
これまでの惨めな人生。見てきた風景。
土埃、蜘蛛の巣、実のないスープ、つぎはぎだらけの服、かさかさに乾いた、汚れた手。
それに比べて、ここはなんて美しいんだろう。
清浄な青の輝きが溢れている。澄んだ水が満ちている。隣に、愛する女性がいる。
二人の足元には水が忍び寄っていた。
素足に冷たいものが触れて、カティリアは震える。
「デリン」
迷宮の入口はすぐそこにある。
引きずるようにして連れてこられた通路を、少し戻れば外に出られるはずだ。
デリンは幸せに満ちた表情で微笑んでいる。
微笑みをたたえたまま、動かない。
「嫌……!」
誰か助けて。
その叫びは水に飲まれて、誰の耳にも届くことはなかった。
下働きのマヌケがしでかした事件の所為で、店の主ジュジュードの機嫌は悪かった。
せっかく入って来た大金を返さなければならないし、鍵を付け替えなければならないし、お前の店の人間のせいで大怪我をしたという男が、毎日毎日「金を寄越せ」とうるさく言ってくるからだ。
「まったく、どいつもこいつも使えない奴らだ!」
その怒りを受けるのは店で働く他の下働き達で、デリンが鍵を持ち出せたのは誰の所為か、追及を受け、責任をなすりつけあい、最終的に全員の借金が少しずつ増えた。
「はあ」
ため息をつきながら、アダルツォは箒を持って店の裏口へ回った。
これまではデリンが嬉々としてやっていた仕事だ。
裏口を見上げれば、昨日の夜までカティリアがいた部屋の窓がある。
デリンの気持ちを少しくらいは理解できる。
けれど、「青」の迷宮へ飛び込むなんて。
恐ろしいことをするものだと、アダルツォは小さく呟く。
「また帰る日が遠のいちまったなあ」
今の自分の現状を家族へ知らせるべきかどうか。
故郷で待っている母や妹の顔を思い浮かべて、青年は思い悩みながら掃除を始めた。




