132 翻弄
夜の神官を再び腕の中に迎え入れられたは良いが、ウィルフレドは様々なことに気付いて悩んでいた。
ラフィを手離したくはない。なので、離さないで欲しいと願われるのは構わない。
だが「もう一人」とやらはいつ出現するのだろう。
今この瞬間現れて、勝手に去っていったりはしないのだろうか。
それに、この夜の神官を連れてどこへ行く?
南側の宿は居心地も良く、二人きりで過ごすにはうってつけだ。
けれど宿泊料は高額で、すぐに資金は尽きてしまうだろう。ニーロの家から金を持ち出すわけにもいかない。
それに、無彩の魔術師と探索に行く約束をしてしまった。
「ラフィ、すみません。私はあなたが去ってしまったのだと考えてしまって」
悩んだ末に、まずは正直に探索の約束について話した。
その辺りで出会った初心者同士の約束ならば、撤回も簡単だろうが。
樹木の神官長に、助っ人のスカウトまで用意して「最下層を目指す」のならば、それは特別な挑戦だと考えるべきだろう。
散々世話になってきたニーロやキーレイに申し訳がなく、さすがに無視することはできない。
もう少し探索に励んで、家を買っておけば良かったのかもしれない。
などと思っても、ただただ遅い。資金も足りない。大きくなくても、売家は高額だと聞いている。
誰か信頼できる人間にラフィの身柄を預かってもらうのも、現実的とは思えなかった。
「もう一人」が勝手な真似をすれば意味はないし、それにラフィは魅力的すぎる。
ギアノの顔が浮かんではきたが、カッカーの屋敷にいさせるのは違うだろう。
若い男性がまともに線を引いたままでいられるのかどうか、ウィルフレドにはわからなかった。
カッカーならばどうかと思いついたが、彼は今、三人も幼子を育てている真っ最中なのだから。
結局は自分でなんとかするしかない。
探索は明後日から始まる。
では、どうする?
大きな瞳を自分に向ける美しい神官を廃墟から連れ出し、戦士は結局居候をしている魔術師の家へ帰った。
ニーロは家に残っており、ラフィを連れ帰ったウィルフレドをまっすぐに見つめている。
「昨日も会いましたね」
灰色の若者は夜の神官へこう語りかけたが、ラフィはなにも答えなかった。
「どうしました。探索に行けなくなりましたか?」
「それなのですが……」
今抱えている問題についてどう切り出したらいいのか、ウィルフレドは迷う。
ラフィは腕の中で俯くだけでなにも言わず、ニーロはその様子を見てなるほどと呟き、こう切り出した。
「あなたの中にいるという魔術師と今話すことはできますか?」
「いいえ」
「そうですか。話してみたいのですが、どうすれば彼に会えるのでしょう」
ウィルフレドはまだ「もう一人」について何も知らない。
ニーロが口にした「彼」に、思わず眉をひそめていた。
「ウィルフレド、探索に行けなくなったのなら仕方ありません。決めたのならばそう言って下さい。他の戦士を当たります」
「ニーロ殿」
「一緒に来るという手もありますよ。『黒』の迷宮に入るくらいですから、実力はあるのでしょう。六人になっても僕は構いません。術符も渡してありますし、いざという時にも困りはしないでしょう」
「一緒にですか」
「目を離さないでいたいのでしょう?」
ニーロは昨日の朝、内に潜む魔術師となにを話したのだろう。
見当もつかないが、確かに。一緒に連れていくのはいい案だと思えた。
探索に付き合わずに二人でいても、ラフィがいなくなってしまう可能性がある。
お気に入りの「黒」に飛び込んだとしても同じだ。「もう一人」をどうにかできなければ、望んだ通りの未来へ進むのは難しいだろう。
ニーロの前に現れた魔術師について、ウィルフレドがなにも知らないのも問題だと思える。
せめてどんな人物なのかわかっておきたいし、どんな条件で現れるのか把握できるのならばしておきたい。
その上で未来について考えたい。
「白」の最下層に着くかどうかはわからないが、探索の間はニーロとキーレイがいる。
二人がいればおかしなことにはならないだろう。
黙ったままのラフィを連れ出し、結局ウィルフレドは世話になった宿に戻ってきていた。
再び二人きりの時間が訪れたが、今度は甘いだけのものにはならないだろう。
神官は俯いたままで、失望した様子に見える。
麗しい黒髪と頬を撫でると、ようやく大きな瞳が向けられ、戦士はほっとしていた。
「ウィルフレド」
唇は開いたままで、言葉が続かない。
なにを言おうか迷っているようで、ウィルフレドは静かに続きを待った。
「わけのわからないことばかり言っていますね、私は」
「いいえ」
「やっと終わったと思っていたのに……」
大きなため息が漏れ、目は伏せられ、閉じてしまう。
確かに、ラフィのすべてを理解するのは難しそうではある。
けれどここで投げ出し、自分には関係ないなどと言う気はウィルフレドにはなかった。
神官の体を抱き寄せ、腕に力をこめていく。
なにが起きているのか、なにが起きるのか、知るためになにができるのか。
探らなければと思っていたのに、甘い香りに包まれて、いつの間にかベッドの上に倒れこんでいた。
黒い肌から香り立つ炎にしばし焼かれて、目覚めた時にはもう夜だった。
うっすらとした灯りに照らされた部屋の中、大きなベッドの上。
隣には夜の神官がいて、肘をついた姿勢で戦士をのぞき込んでいる。
「満足したか、ウィルフレド・メティス」
「魔術師か」
「いかにも。こんな格好で失礼するよ」
互いに一糸まとわぬ姿だった。
ウィルフレドは服を引き寄せ慌てて羽織ったが、魔術師は気にしないようでにやりと笑ったまま動かない。
「お前がラフィを殺したのか」
「ふふ、そんなことを言ったか」
麗しい姿はそのままなのに、ベッドに横たわる魔術師は明らかにラフィ・ルーザ・サロではなかった。
「何者なんだ」
「俺について知りたいのか? 夜の神官ラフィではなく?」
細長い指を唇にあてて、魔術師は妖艶な笑みを浮かべている。
「おかしいと思っているだろう。どうしてこんなにも惹かれ、溺れてしまうのか。快楽の虜になって、なにもかもうやむやにされてしまっていることに気付いただろう?」
虜にしてきた張本人から飛び出してきた言葉に、ウィルフレドは答えられない。
そんな戦士にまたひとつ笑みを投げて、魔術師はこう続けた。
「お前の魂は立派なものだ、ウィルフレド。大抵は溺れたきり浮かび上がって来られないのだから。金を持つ者はすべての財を奪われ、地位のある者は追われるまで利用し尽される。あの香りに抗えず、疑問に思うことすらできない。撫でられただけで天に揚げられて、その隙に家を荒らされる」
黒い指が伸びて来て、ウィルフレドの厚い胸をなぞっていく。
「俺に会えたことがなによりの証だ。あれへの疑念が俺を呼び起こす」
魔術師は立ち上がり、美しい裸体を薄明りの中に晒した。
長い黒い髪がさらりと揺れて、憂いを帯びた眼差しが向けられる。
「昏い夜の沼に沈められた男は一体どのくらいいたのかな。とうの昔に数えるのに飽きてしまったが、覚えているだけでも相当なものよ。そして今日、初めてのことが起きた。夜香の迷い道を抜けて、お前は唯一の存在になったんだ」
「なにを言っている」
「俺を呼ぶまではできる。だがこれまで、出会うことは誰にもできなかった。こうして顔を会わせて話までできるとはな。驚いているよ、心の底から」
目の前で揺れる黒い影から聞こえるのは、明らかにラフィの声なのに。
同じなのは外側だけで、今は魔術師がまるで諭すように戦士へ語りかけている。
「わかるな、ウィルフレド・メティス。今はあの香りがしないのだと。あれは男を酔わせる媚薬。夜の神官ラフィ・ルーザ・サロが放つ毒花の香りだ」
確かに、魔術師の言う通り。
あの香りはしていない。
だから初めてはっきりとラフィの体を目にしているとウィルフレドは理解していた。
あれほど触れて抱いたのに、手足の細さも腰の形も、はっきりとした記憶は自分の内に存在していなかった。
「聞いてくれ、鋼の精神を持つ戦士。お前はおそらく耐えられる。ラフィに仕掛けられても乗らずにいられるはずだよ。その上で考え、判断してくれ」
「お前はなにを望んでいる?」
「俺には望みなどないよ、望んでも無駄なのだから。悪いが時間が足りない。だが、必要なことは伝えた。また会えると信じているぞ、ウィルフレド・メティス」
黒い肢体がゆらりと傾いで、大きなベッドの端に倒れこんでいく。
ウィルフレドは思わず手を伸ばして、夜の神官の体を抱くと、織布で包んで寝かせた。
ラフィは美しく、たまらなく愛おしい。眼差しに宿る光に、出会った瞬間から惹かれていた。
そんな愛もあったのだと考えていたのに。
そうではなかったのだろうか。
確かに、後先考えずにいる自分を疑問に思っていた。
気付けばベッドの上で深く溺れて、財布をとうとうカラにしてしまっている。
ニーロとの約束を後回しにして体を重ね、貪って。
それから?
この疑念がなければ、意思もないまま進んでいたのだろうか。
ニーロの家の二階から金を持ち出して、夜の神官の虜になって、自分の考えなど捨て去って。
それから――?
迷宮を抱く街に流れ着いたのは同じ。
二人が見つめていた終わりの在り方も近しいものだと思えたのに。
夜の神官ラフィが歩んだ人生はどこまでが真実で、どこを目指しているのだろう。
わからない。
ウィルフレドはベッドに横たわると、美しい黒髪の中に顔を埋めた。
唇を重ねたあの日から、何度も繰り返してきたはずなのに。
あの香りがしないだけで、こんなにも違うものなのだろうか。
火種になるものはなにひとつ存在せず、ただ静けさだけが部屋を満たしている。
あんなに激しく求めあったのに、あれほど他の男に渡したくないと思っていたのに。
「ウィルフレド」
頭を抱えている間に時が過ぎていって、朝の気配が少しずつ漂い始めた頃、声が聞こえた。
掠れた弱々しい声は夜の神官のもので、自分の隣で座りこむ戦士を不安げに見つめている。
「ラフィ」
「どうしたのです、怖い顔をして」
唇が揺れると、鼻先に香りが届いた。
甘く心地よい、夜の神官の放つ抗いがたい芳香が。
「いえ……」
勝手に引きずりこまれていこうとする体を、疑念が止めた。
あの魔術師らしき人物の言葉をすべて信じているわけではない。
けれど確かに、とても不思議に思っていた。
例えば、キーレイはラフィと二人きりで向かい合っている間、何も思わなかったのか?
自分だけに向けられた力なのだとしたら。
それならばすべて、すっきりと納得がいく。
抗いがたい魅力は全方向へ放たれていると思っていたが、そうではなかった。
鋭くウィルフレドだけに向けられ、深く刺されていたのだとしたら?
「ウィルフレド」
再び呼ばれて、戦士は思わず頭を小さく頭を振っていた。
香りだけではなく、耳をくすぐる声もひどく甘くて、取り込まれてしまいそうだったから。
大きな瞳はそのまま、零れ落ちそうな程だし、長い睫毛の瞬きも、宿った星のような輝きも変わっていない。
気を緩めればまた吸い込まれるのだとウィルフレドは確信し、戦士がそう気づいたことに、神官も勘付いたようだ。
明らかに動揺した様子で、ラフィは俯き、爪の先を噛んだ。
「出会ったのですね」
目の前の麗しい神官の内に潜む魔術師に、確かに出会ったようだった。
けれど戦士がそう認める前に、夜の神官は顔を歪めて呻いた。
「あれの言うことはすべて嘘です」
夜の神官はベッドから飛び出して、二階の窓から夜の闇の中へ消え去ってしまった。
慌てて追いかけても、窓の外に広がっているのは僅かな灯りと闇ばかり。
夜の神が神官を匿っているのか、姿はどこにも見えなかった。
朝がやって来て、困り果てたウィルフレドはニーロの家に戻った。
騎士団長だっただの、王の懐刀だっただの。
街で囁かれる噂が空々しく聞こえるほどの情けない結末を抱えて、仕方なく戻っている。
「戻りましたか、ウィルフレド。準備は済みましたか。それとも、これから支度をするのですか?」
「白」の最下層へ挑むのは明日。
保存食を買った程度で、他はなにも用意できていない。
ラフィをどうするか悩んでいたが、解決することはもうできないだろう。
だったら、おとなしく探索に付き合って、最初の踏破者の栄光を目指すしかないのかもしれない。
「支度はこれからします」
「わかりました」
財布は空っぽなのだから、なんにせよ探索に挑むしかなかった。
ラフィが戻ってくるかどうかもわからない。
装備品を確認し、袋に消耗品を詰めていく。
突然去っていったのは、何故なのだろう?
いや、わかっている。誘惑に耐えたからだ。
つまりラフィはあの甘い香りを自在に操れるのだろうし、それでウィルフレドを虜にしていたのだろう。
ならば、魔術師の言葉は正しい。
暗澹たる気分だったし、酷く複雑で、自分の間抜けさが恥ずかしかった。
この数日で起きた出来事といえば、美しい神官に翻弄され、欲に溺れ、金を使いきっただけ。
ろくに服も着ず、髪も髭も整えていない。
ギアノが作った保存食をしまい込みながら、ウィルフレドはまた考える。
何故、ラフィは自分に近付いたのか?
出会いは偶然だったのかもしれない。袖が触れ合い、その後に再会を果たした。
金もなければ地位もない、迷宮に潜って命を削るだけの愚かな暮らしをする中年に、利用価値などあるのだろうか?
単に、抱かれて乱れたくなっただけ?
そんな馬鹿な。自分の考えこそが乱れている。ウィルフレドは自嘲の笑いを漏らし、作業を続けていく。
剣の手入れもすすめていくうちに、昼が訪れていた。
ニーロはあまり食事に行かない。財布が空っぽのウィルフレドは、どうしようか悩んでいた。
深いところまで挑むのならば、体調は万全にしておきたい。
金に頓着のない魔術師ならば、食事代くらい簡単に貸してくれるだろうが。
一階の広い部屋で髭の戦士が思い悩んでいると、扉が開いて誰かが入って来た。
机に向かっていたニーロと同じように、ウィルフレドも視線を向ける。
戦士の知る限り、この家に勝手に入って来るのはマリートだけだ。
キーレイならば必ず扉を叩くし、挨拶の言葉と共に姿を現す。
「ありがとうよ、ニーロ。お陰で準備が済んだ」
ウィルフレドが思わず立ち上がったのは、入って来たのが夜の神官だったからだ。
いや、違う。夜の神官の姿はしているが、今現れたのは内に潜んでいたはずの魔術師だった。
「ウィルフレド・メティス。そうか、お前が帰る場所はここなのだな」
「ラフィは?」
「お前を魅了しきれなかったのがショックで引っ込んでしまったようだ。こんな失敗は初めてだから、仕方あるまい」
二人の存在の仕方がいまだによくわからないのだと気付いて、ウィルフレドは口を噤んだ。
そして更に気になるのが、ニーロへの親しげな視線だった。
「借りた金はほとんど使ってしまったよ。明日お前について行けば返せるかな?」
「おそらくは」
「心配するな、足手まといにはならん」
黒い肌の魔術師は青紫色のローブを身にまとっていた。
長かった髪は切られ、肩につくくらいの短さになっている。
耳に揺れていた宝石もどこへ行ったのか、なくなったようだ。
魔術師はウィルフレドの視線に気づいて、にやりと笑っている。
「明日一緒に行かせてもらうことになった」
なんと答えたらいいのかわからず口を閉ざす戦士に、魔術師は構わずに続けた。
「途中でラフィに変わってしまうかもしれんがな。だが問題はない、あいつはやたらと強いから。迷宮の中で困ることはなかろうよ」
「魔術師」
「ニーロ、俺はなんと名乗った?」
無彩の魔術師は冷静な視線を向けたまま、こう答えた。
「ロウランと呼んでくれと言っていましたよ」
「だそうだ、ウィルフレド。俺はロウラン。夜の神官の同居人だ」
ロウランは親しげに戦士に笑いかけてきて、一緒に食事でもどうかと誘った。
「金ならニーロから借りた分がまだ残っている。お前はもう一文無しなのだろう」
この魔術師の正体について知りたい気持ちもあって、ウィルフレドはこの誘いに乗った。
ロウランは戦士だけを連れて街をぶらぶらと歩き、適当に目に入った店を選んで中へ入っていく。
夜の神官から甘い香りはしないが、美しいことに変わりはない。
道を歩く若者たちも、店で働く給仕や料理人たちも、麗しい黒い肌の「ロウラン」に目を向けている。
話し方からして、ロウランは男なのだろう。
穏やかなラフィとは違って、座り方も物の扱い方も少しばかり荒い。
「迷宮で採った獣の肉を使っているのか?」
「ええ、そうです。この街で出てくる肉類は、ほとんどが探索者が迷宮で採ってきたものですよ」
「便利なものだな」
「いえいえ、そんな。あそこは恐ろしいところですよ。みんな命がけで潜って、肉だのなんだの拾って帰ってきてるんです」
声をかけられた給仕は頬を赤く染めて、ロウランへ視線をちらちら送っている。
魔術師は出された食事をきれいに平らげて、ウィルフレドへ笑いかけた。
「ものを食べたのは久しぶりだ」
「あなたは、いや、あなた方は一体何歳なのです」
「そんな質問に意味があるとは思えんな。……ふふ、嘘だよウィルフレド。年齢は大いに気になるだろう。だがすまない、答えようがない。俺にはあれから何年経ったのかさっぱりわからんのだ」
「あれからとは?」
「ラフィと同居を始めてからだ。俺たちは互いに力を強めたり弱めたりを繰り返していて、どんな状態にあるのかすらわからなくなる時間もある」
「二人は一体どのような状態にある?」
「さて、どう答えたものか」
「ラフィはあなたに体を奪われたと言っていた。命を落とすよう仕向けられたのだと」
「先に言っておこう、ウィルフレド。俺たちは一つの体の中に存在しているが、互いに会話などはできんのだ。どう考えているのかは、他人を介して知るしかない。ここまではわかるか?」
「直接対話ができないとは?」
「ラフィの言い分はお前から聞くしかないということだ。あれが何を考え、次にどう出るかはわからん。多少ののぞき見くらいはできるのだが」
のぞき見とはなにか尋ねると、ロウランは首を小さくひねったものの説明をしてくれた。
意識がラフィのものになればロウランは体を動かせないが、どこに行ったのか、誰と会ったかは「見る」ことができるのだと。
「ただし、声は聞こえない。視界がどのくらい鮮明になるかも、その時次第だ」
「私の名を知っていたようだが」
「魔術師の力を知らんのか? 一緒に暮らしているのに」
魔術でなにがどこまでできるのか、ウィルフレドは知らない。
ニーロは確かに心の中まで見ているかのような発言をするが、実際に胸のうちを見ているのだろうか?
「そんなことはまあいいのさ。とにかく俺たちは、すべての経験を共有しているわけではないのだ。だから今何歳なのかは正確にはわからん。生まれた地からも遠く離れてしまったからな。土地が変わればなにもかも変わる。言葉も、暦もだ」
「なるほど」
「ラフィは確かに、命を落とすよう仕向けられたよ。それについてはよく知っている。だが、もう忘れてしまったのかもな。仕組んだのは俺ではないよ。俺は死んでしまった哀れな神官の体を借り受けただけだ」
「あなたではない?」
「敢えて間違えて覚えているのかもしれんな。あれにとっては魂が砕けるほどの悲劇だったから」
「ラフィになにがあったというんだ」
「知ってどうする、ウィルフレド。遥か過去に起きたどうにもならん出来事など、あれに伝えてもまた傷つくだけだ」
もう全員が死んでしまったのだから、意味はない。
ロウランは呟くように言うと、話題を変えた。
「似ているかもしれんな」
「似ている?」
「お前だよ。見た目はそうでもないが、背の高さは同じくらいだし、その目の感じは近しいように思う」
「私が、誰に似ているんだ」
「夜の神官が愛した男にだよ。あれは神に仕えて大勢の為に働いていたが、信じていたのはその男、ただ一人だけだ」
「ラフィが……」
「その男もラフィを愛していたが、結局は他の女を娶ることになった。それでラフィはひどく落ち込んで、隙をつかれたんだ」
本当かどうかはまだわからない。
けれど魔術師が真実を語っているのなら。
あまりにも酷な出来事だとウィルフレドは思う。
「町中から疎まれていたと話していたが」
「そうだな」
「何故なんだ」
「あれはなにも悪くはないよ。仕方がない、世の中にはどうにもならないことがあるんだ」
同じ言葉を本人の口からも聞いた。
そのように生まれついてしまったから、仕方がないのだと。
ウィルフレドがまっすぐにロウランを見つめると、魔術師は僅かな沈黙の後に再び口を開いた。
「あれの母親の出自がよくなかった。父親はいわゆる豪商というやつで、強引に嫁がされたらしくてな」
「政略結婚か」
「そうだ」
ラフィの母親は、遠い国から嫁いできたと話していた。
肌が黒いのも母親譲りなのだと、キーレイに問われて答えていた。
「あの頃にはもう悪習もなくなっていたのだが、過去に実際に起きていたことだ。都合よく消したりはできん」
きっと、嫌な言葉が飛び出してくる。
だから戦士は問わなかったのに、魔術師は勝手に答えを示した。
「愛玩用の奴隷をせっせと生み出しては高値で売りつける国があったのさ」
ロウランにとっては他人事なのだろう。やれやれとでも言いたげな顔で、こう続けている。
「見目麗しい者を選び抜いては交わらせ、生まれた子供を高値で売って……。他に売るものがなかったのだろうな。昔の話で、今は違うだろうが」
「ラフィはそんな奴隷の裔だと?」
「そうだ。奴隷の中にも特に愛され、大切に迎えられた幸せ者がいた。あれの母親はもちろん奴隷などではなく、ただの商家の娘だったよ。ただの商家の娘にしては有名だったようだがな。黒い宝石だの、秘宝だのと呼ばれていたと聞く。実際、恐ろしく美しい女だったよ。見た目はラフィと変わらん。よほど血が濃いのだろう、父親の面影などかけらもなかったから」
さてと呟き、ロウランは店員を呼んで支払いを済ませた。
食事が終わり立ち上がろうとしたウィルフレドへ、魔術師はそっと近づき、こう囁いてくる。
「ラフィの持つ特殊な力も母親譲りだ。世界一の美しい奴隷たちは、香りも一級品だったという」
より美しく、細長い手足、滑らかな肌と、艶のある髪。そして、甘い香りを放つ者。
選び抜かれた者たちが生んだ子供の中から、更に「良い」子を選んで交わらせたどり着いた「完成形」。
「あれの母親の放つ香りは強烈すぎて、ずっと屋敷の奥に閉じ込められていたほどだ。誰もがうらやむ美しさを持ちながら、遠い地の見知らぬ男に嫁がされた挙げ句、女たちからは妬まれ、結局は奴隷上がりだと蔑まれ……。そんな扱いを受ける女のもとに生まれたのがラフィだ」
そんな母と子は、どんな日々を生きていたのだろう。
「それが夜の神官の言う『仕方ない』さ」
やるせない話に、ウィルフレドは気分を落ち込ませている。
ラフィにはなんの咎もないのに。
遥か昔に人の道から外れた者がいて、搾取された人々がいて。
彼らは命を繋いできただけなのに。
「確かに出自については哀れだが、ウィルフレド、あれは神官のくせにひどい嘘つきだぞ。自分の持つ力をわかっているし、強かに利用してきた」
「ラフィが?」
「自分も危うく堕とされるところだったのに。見た目と違って随分と呑気な男なのだな、お前は」
ロウランは楽しげに笑っている。
ラフィとは違った距離の近さがあって、魔術師はずっとウィルフレドの隣を歩き続けた。
夕食にはニーロも誘い、夜は二階の大きなベッドでなぜか一緒に横たわっている。
「いつあれが目覚めるかわからんからな」
そう言われてしまうと強く断ることも難しい。
魔術師の言葉はすべて嘘だとラフィは言った。
けれどロウランも、同じ言葉で夜の神官を語っている。
どちらかだけが真実を話しているわけでもなければ、すべてが嘘でもないのだろう。
二人についてはまだなにもわからない。
これから共に歩く中で注意深く対応していくしかなかった。
「もう散々楽しんだろうが、まだ足りないというのなら相手をしてやってもいいぞ」
「何を言う」
「俺が相手じゃ欲情できんか」
ロウランはにやりと笑うと目を閉じ、ウィルフレドの隣で眠ってしまった。
心がざわめいて落ち着かなかったが、翌日の探索に備えて戦士も目を閉じ、この日は眠った。




