115 友の決断
次の日の朝、フェリクスが階下へ降りると食堂にフォールードの姿はなかった。
疲労に負けてしまったのか、まだ目を覚ましていないらしい。
早くから働いている雲の神官兄妹の手伝いをしていると、カミルとコルフが揃ってやって来て挨拶を交わした。
「おはようフェリクス、ティーオは?」
「ああ。昨日は遅く戻って来て。……今日も用事があるとかで、もう出かけていったよ」
「ふうん。なにをしているんだろう、朝早くから、夜遅くまで?」
朝食の支度を済ませて、いつもの仲間でテーブルを囲む。
遅れてやって来たアダルツォは、ティーオがいないことに気付き、説明を受けるとこう話した。
「俺も今日は探索を休んでもいいかな。一度雲の神殿へ挨拶に行きたいと思っているんだ」
アデルと一緒に、とアダルツォは穏やかに微笑んでいる。
「二人で来た時、世話になった神官がいてね。あの兄弟に会えるといいんだけど」
「二人で行くの? 大丈夫かな」
「大丈夫だろう、もう」
カミルはまだ油断しない方がいいのではないかと言い、アダルツォは戸惑っている。
フェリクスは申し訳なくて、こんな提案をしていく。
「じゃあ、俺も一緒に行くよ。もとはと言えば俺たちのために」
「いいんだよフェリクス、もう謝らないでほしい」
謝罪の言葉を遮ったが、雲の神官は同行については歓迎だという。
ぜひ一緒に迷宮都市を歩こうという話になり、カミルとコルフもふむふむと頷いている。
「そういや『緑』の迷宮に行くくらいで、あっち側って歩いたことがないもんなあ」
「なんにもないって話だけど。東側とは雰囲気が違うって言うよね。みんなで行ってみようか」
若者たちが盛り上がっているところに、暗い影が差し込んできて全員で振り返る。
そこには頭をぼさぼさにしたフォールードが立っていて、どこに行くつもりなのか問いかけて来た。
「西側に雲の神殿があって、アダルツォたちと一緒に行ってみようって話になったんだ」
「俺も一緒にいいか? ここって随分大きい街なんだろう。俺も見てみたい」
「ああ、もちろん。いいよな、アダルツォ」
「いいよ。疲れは平気かな」
「ベッドに入った途端に寝ちまったよ。思ったより消耗してたみたいだ」
だけどぐっすり寝たから大丈夫、とフォールードは言う。
敵も出ないなら安心だと軽口を叩きながら厨房へ向かい、また皿をいっぱいにして戻ってきて、座るなりかきこんでいく。
「ゆっくり食べた方がいいって。体に良くない」
「チュール様と同じこと言うんだな。神官はみんなそう言うのかい」
「え? どうかな」
「皿の神官の方が食事時はうるさいんじゃない?」
アデルミラもやって来て、兄の隣に座る。神官の食事はささやかな量で、フォールードはじろじろと可愛い食事を見つめている。
朝食が終わる頃にはギアノもやって来て、フォールードとフェリクスへ調子はどうか尋ねた。
二人の調子は良好で、それは良かったと管理人も微笑んでいる。
「探索に一緒に行ったんだって?」
「ああ。空きが出たって話だったからよ。親切に案内してもらってありがてえ限りだ」
「運が良かったな、このメンバーと行けるなんて。いい経験ができたんじゃないのか」
他の新人から呼ばれてギアノが去って行き、六人は出かける支度をするために立ち上がった。
雲の神殿は迷宮が描く四角の反対側にあり、魔術師たちの住処の辺りを通り抜けるか、南北どちらかからぐるりと回るか、どのルートで行くべきか考えなければならない。
「真ん中を突っ切った方が早いけど、万が一はぐれると厄介だよね」
「あそこの通り抜け問題、なんとかならないのか、コルフ」
「俺に言われても困るよ。でも確かに、前よりも少し迷いやすくなった気もするね」
誰がどんなタイミングでどの路地へ放り出されてしまうのか、コルフにもよくわからないらしい。
魔術師の私塾へ向かう者は大抵が無事に辿り着くらしいが、それ以外の一般人は知らない道へ放り出されることが増えて、最近「ど真ん中」はすっかり避けられるようになっていた。
「ニーロさんがまともに通れるようにしてくれないかな」
無彩の魔術師にそんな力があるのかどうか、若者たちにはわからない。
結局、「橙」通いで北は何度も歩いたから、南を回ってみようと決まる。
アダルツォとアデルミラは新しいさっぱりとした服を着て、揃いのしるしを首からさげている。
フォールードはきょろきょろとあたりを見回して、流水の神殿はどこかフェリクスへ尋ねた。
「流水はもっと向こうにある。探索で成功した人たちが住んでいる住宅街の中にあるから、なにかのついでに通りかかるようなことはない」
「そうなのか。だけど別に、行ったって構わないんだろう?」
「もちろん、神殿なんだからいつ寄っても構わないはずだ」
「そうか。チュール様がずっと通っていたって話だから。俺も行って、ちゃんと感謝を捧げたい」
新入りは神妙な顔をして、手にぐっと力を入れている。
この会話を聞きつけて、カミルとコルフが割って入って来た。
「ねえ、流水の神官チュールって、カッカー様と同年代だよね。ものすごく美しい人だったって話だけど、今はどんな感じなの」
「だったじゃねえ。今もだ。あの人は天から遣わされた特別な神官だぞ」
「四十半ばくらいだろ。男の人なんだよね?」
「そんなの関係ないんだ、チュール様には」
そんなに、とコルフは驚いている。
カミルは首を傾げながら、どんな風なんだとフォールードへ問いかけた。
「どんな風って。チュール様の姿、知らないのか」
「名前は知ってるよ。流水の神官っていうのも、カッカー様の仲間で、一度目の黄金期のメンバーだっていうのもね。だけど見た目については、美しかったっていう以外は聞いたことないな。活躍していたのは二十年も前だし、知ってる人も少ないんだろうけど」
「キーレイさんは見たことあるかな」
「ああ、キーレイさんならあるかもね」
仲の良い二人の会話は軽やかに進んだが、フォールードはそれを遮り、自分の救い主である神官について語り始めた。
「チュール様は女神の再来とまで呼ばれた清らかな美しさを持った方だ。男とか女とかはもう関係ない。髪は長くてまっすぐで白く耀いているし、宝石みたいな青い瞳に見つめられると吸い込まれてしまいそうになる。いつも優しく微笑んだ顔をしていて、どんなに汚れた子供が近づいていっても逃げたりはしない。むしろ自分から近づいて行って、頭を撫でて、神の恵みがあるように祈ってくれるんだ」
「フォールードのいた町で神官として働いているの?」
「俺が連れていかれた町だな。そう、流水の神殿で働いている。そこにアークのおっさんもいて、一緒に俺みたいなクソガキをしつけ直してるんだ」
「しつけ直しねえ」
「アークのおっさんは厳しい。チュール様は優しい。農作業や狩猟の手伝いをさせて、剣の使い方、文字だの計算だの、二人でなんでも教えてくれる。儲けがないから飯は貧相だけど、みんな文句は言わねえ。チュール様を見たら、反抗する気なんか消え失せちまうんだ」
「見ただけで?」
「光り輝いてるからな。神なんて本当はいねえんだって俺は思っていた。生まれ育った村にいたのは飲んだくれのエセ神官だったからよ。神殿勤めの奴なんざ、適当なことばっかり言いやがるクソッタレなんだって思ってた。だけど俺はわかった。インチキなのはあのエセ神官だけだったって。チュール様は本当だった。怪我をすれば治してくれて、それがまたあったけえんだ。あのあったけえのが欲しくて、わざと怪我しようか悩んだくらいだからな。だけど俺はやめた。そんな真似をしたら、悲しい顔をさせちまうから。そういうのは駄目なんだ。チュール様を悲しませるのはナシってみんなで決めた。チュール様は優しいんだ。本当に優しい。いたずらしてアークのおっさんに叱り飛ばされた後、わざわざやって来て、反省したことを誉めてくれるんだぜ。本当はいけないとわかっている、賢い子だって。心の中に優しさも勇気もみんな持っていて、それがうまく出せないだけなんだって言ってくれるんだ。わかっているから、ちゃんと立派な大人になれるんだって、親父と真逆のことを言う。俺がすごく嫌だった親父の罵声とは、まったく逆のことだよ。本当に欲しかった言葉を、赤の他人のチュール様は俺にくれるんだ」
恩人の神官について語る時、フォールードには情熱のスイッチが入ってしまうらしい。
あまりに熱い賞賛の列挙に、アダルツォとアデルミラは身を縮めてしまっている。
「白く輝く髪に、青い瞳。女神のような光り輝く美しさね」
コルフがこう呟き、アダルツォは首を傾げている。
「クリュみたいな感じかな」
「いやいや、クリュは……」
「あの適当な喋りを我慢したら、結構近いのかも。黙っていればあいつ、随分きれいだもんなあ」
フェリクスが誰の話をしているのか尋ねると、アダルツォが自分の昔の仲間だったんだと打ち明けてくれた。
大きな借金を負う原因になった男だが、また違う「酷い目」にあっていたとかで、神官の語りは同情的だ。
「チュール様ほど美しい人がそんなにごろごろいるわけないだろう」
「そうだね、ごめんごめん。髪と瞳の色が多分同じなんだろうなって思っただけだよ」
アダルツォは謝り、フォールードはすぐに怒りを引っ込めていった。
場が収まって、今度はコルフがこんな話をし始めている。
「クリュといえばさ。俺、そろそろ『脱出』を習いにいこうかと思ってるんだ」
「へえ、それはいいね」
「どうしてそのクリュって奴の話になるんだ?」
「俺の悩みは、誰に習うかってことなんだよね。一応術師ホーカに師事はしているんだけど、クリュのことを思いだすとちょっと迷いが出てくるというか」
コルフの悩みは、雲の神殿までの道中で語られていった。
アデルミラには聞かせたくないとかで、フェリクスはコルフと二人で少し後ろをついて歩いている。
魔術師の屋敷のとんだ秘密が暴露されて、コルフが悩むのも当然だろうとフェリクスは思った。
語らいながら進んでいき、「紫」「白」の迷宮の入り口を覗くだけ覗いて、雲の神殿へ。
六人は目新しい風景を見回しながら、観光気分で歩いていく。
目的地は「緑」の入り口からすぐ近くで、まずは揃って神殿の中へ進んだ。
せっかく来たのだからと雲の神に祈りを捧げて、兄妹の用事が済むまで近くで待つことが決まる。
「ギアノってこの辺りの店で働いてたんじゃないか」
「もうなくなったって言ってたよ」
「そうなんだ。確かに、あっちの方はなにもないな。ああ、建て替えするのかな。資材が積んである」
カミルは目が良くて、遠くのものにもすぐに気が付く。
「あっちにすごく大きな店があるみたいだ」
「すごく大きい?」
「見に行ってみよう」
四人の若者が進んでいくと、「バルメザ・ターズ」の看板を掲げた巨大な店舗が姿を現した。
昼間だというのに大量に並んだランプに火が灯されているし、従業員らしき男が大勢並んでいる。
仕立ての良い上等な服を着ているし、誰も彼も見目麗しい若者のようだ。
「商人はこういう店に通うんだなあ」
「なあ、この街って女は住んでないのか? 全然見かけないけど」
「いるよ、フォールード。そのうちわかるだろうけど、大抵の女の子は店の中にいる」
西側の景色も、フォールードの反応も新鮮だとフェリクスは考えていた。
迷宮都市へやって来た若者は最初に驚くのは人の多さだが、その次に考えるのは「女がいない」ことだろうと思う。
実際には女性はたくさん住んでいる。その辺で目にしないだけで、あちこちで働き、男には向いていない仕事を請け負ってくれている。
「あの店、入るだけでいくらとられるんだろうね」
コルフが笑い、カミルが呟く。
「商人って儲かるんだな。探索の超上級者とやり手の商人なら、どっちの方が金を持っているんだろう」
「あのカッカーっておっさんの屋敷は随分でかいじゃないか。探索で儲けてあんなに大きな屋敷を建てたんじゃないのか?」
フォールードの発言を受けて、三人は考える。
「確かに。新しい屋敷も作ってるもんな……」
「だけどさ、キーレイさんの実家も大きいよ。お父さんが一代で作った薬草業者だっていうけど、随分儲けたんじゃない?」
「キーレイさんもきっとお金持ってるんだろうな。いや、神官だし、寄付とかするのかな」
「誰だよキーレイって。チュール様のことも知ってるとか言ってなかったか?」
「屋敷の隣に樹木の神殿があるだろう。そこで神官長を務めている方だよ。迷宮都市産まれで、探索歴ももう二十年を超えている高名な人だ」
「すごいオッサンがいたもんだな」
「キーレイさんはそこまでの年じゃないよね。まだ三十にもなってないはず」
じわじわと「不死」の通り名が浸透しつつある神官長について、若者たちは無責任に語り合っていった。
さすがに誇張し過ぎではないかとフォールードは疑い、いやいや本当だからとカミルとコルフが答えている。
若き日の流水の神官を見たかもしれない神官長の存在は無視できないようで、帰ったら会いに行くと新入りは息巻いている。
「そういや、魔術師の屋敷も大きいよな、コルフ」
「そうだね、魔術師も儲かるか。特に壺だな。壺造りができれば喰いっぱぐれずに済む」
コルフはこう答えたが、すぐに頭を振って更に続けた。
「いや、魔術師ってだけじゃだめだ。探索者も商人も、儲けるためには相当腕が良くなきゃ」
「そりゃあそうだ」
「いいじゃねえか、迷宮都市。大金持ちになる方法は、たくさんあるんだな」
新入りの戦士は空を見上げて、右手を突き上げると大声で叫んだ。
「俺は大金持ちになって、でっかいお屋敷を建てる!」
「いいねえ、フォールード。故郷にお屋敷か」
「いや、故郷じゃねえ。世話になったチュール様の為だ。チュール様が面倒をみてくれている行き場のないチビたちもみんな暮らせるような、でっかくてきれいなお屋敷を建てるのが、俺の夢だ」
大きな夢を聞かされたところで、雲の神官兄妹が道の上に現れた。
一緒にやって来た四人を探していることにカミルが気づき、急いで合流していく。
西側にある食堂に入り昼食をとって、薬草屋だの市場だのを見学して、屋敷へ戻る頃にはもう夕方だった。
有意義な休日を過ごした六人が中へ入ると、ティーオは厨房にいて、夕食の準備を手伝っている真っ最中だった。
「お帰り、みんな」
「ティーオ」
カミルとコルフは妙に気まずそうな顔をしており、フェリクスはその理由を察していた。
フォールードのことが気に入ったのだろう。
生意気で挑戦的だったのは最初だけで、腕は確かだし、性格もさっぱりとしていて悪い人間ではないとわかってしまったから。
剣が使えて手先も器用だとわかれば、大勢から誘いがかかるようになるだろう。
まだ十六歳、将来有望な若手が現れたと二人は考えているはずだ。
荷物を部屋に置いて厨房へ戻ると、ティーオは鍋の番をしているらしく、かまどの前に立っている。
「ティーオ」
「お帰り、フェリクス。アデルミラたちと雲の神殿に行ってたんだろう? 良かった良かった。俺は帰りが早かったから、今日は代わりにギアノの手伝いをしてるんだよ」
「手伝うよ」
少しずつ探索から戻ってくる者が増えて、食料置き場に肉が運ばれてくる。
初心者たちも一生懸命、慣れない調理に挑戦していく。
皮を厚く剥かれた芋は小さくなってしまうし、調味料を入れすぎたり、逆に少なかったりと大騒ぎだった。
「なあフェリクス、あいつ、どうだった。あの新しく来た、ちょっと強気な奴は」
「フォールードか。腕は良かったよ」
「そいつは良かった」
いつもならばもっと、根掘り葉掘り聞いてくるのに。
ティーオの様子を窺いつつも、フェリクスはなにも言えない。
ここでフォールードが才能豊かで見どころがあると話してしまえば、誰かが聞きつけて明日の約束を取り付けてしまうだろう。
迷宮都市へ戻ってきたけれど。迷宮へ探索に出かけたけれど。
戦いや日常のふとした隙間に、メーレスを抱いた時のあたたかさを思い出している。
探索をしていく以上、絶対に危険な真似はしないなどと誓うことはできない。
「藍」で大穴に落ちてしまったり、間違えて「黄」に入り込んで罠の先へ飛び降りたり。
今、自分が生きているのが不思議なほど、危険な目に遭ってきた。
けれどニーロに借金を返して、母の指輪を取り戻したい。
妹を失い、幼子を抱いている自分に、あの魔術師が同情してくれるだろうか。
せめてもの思い出だからと、やって来て掌の上に渡してくれるようなことが、あるだろうか?
「なあフェリクス、夕食が終わった後、ちょっと話したいことがあるんだけど」
ティーオの声にはっと我に返って、フェリクスは咄嗟に笑顔を浮かべてルームメイトに応えた。
「なんだ、話したいことって」
「長くなるかもしれないから、あとで。おなかがすいてるだろう?」
俺も腹ペコだと笑って、ティーオは鍋の中のスープを仕上げていく。
六人で集まって食堂で夕食の時間を持ち、あれこれと話をしていった。
迷宮都市について詳しく知りたいフォールードは、先輩たちに様々な質問を投げかけ、教えられては頷き、目を輝かせている。
また急いで食事を詰め込んでアダルツォに注意をされ、またやってしまったと頭を掻いて笑っている。
新入りに対する警戒はすっかりなくなっていて、食事の時間は穏やかに過ぎていった。
片付けが終わるとフォールードはキーレイに会いに行ってくると言い出し、念のためにとアダルツォが付き添いを申し出て、連れ立って隣の神殿へ向かっていった。
カミルとコルフはギアノに例の旨いお茶を頼み、のんびりと寛いでいる。
「フェリクス、ちょっと」
ティーオに声をかけられて立ち上がる。部屋ではなく、二人は中庭にたどり着き、向かい合っていた。
夜になり、辺りは薄暗い。乾いた涼しい空気はひんやりとしていて、時々吹いてきた風が、庭に植えられた木の葉を揺らしている。
「ごめん、部屋には二人がいるから」
「大丈夫だ。どうしたんだ、ティーオ。なにか問題を抱えてるのか?」
「いやいや、そんなんじゃないよ。問題なんてないんだ」
気を遣わせちゃったかな、と友人は笑っている。
ティーオは庭の隅にある丸太を指さし、座ろうとフェリクスを誘った。
隣り合って腰かけ、フェリクスはティーオをじっと見つめた。
いつも明るく、よく笑う男なのに、今日は真剣な目をして黙っている。
問題はないというが、深刻な話があるのだろう。
フェリクスは考え、ティーオが話し始めるのをじっと待った。
「フェリクス」
少し長い沈黙の後に、ティーオは話し始めた。
「俺さ」
「うん」
ふう、と聞こえる。息を大きく吐き出して、ゆっくりと吸って。
ティーオは胸のあたりを抑えると、くしゃっとした笑顔を作り、フェリクスへ告げた。
「俺、探索をやめる」
フェリクスは驚き、ティーオは困ったような表情を浮かべている。
「探索者をやめるのか」
「うん。そう。はは……、そうなんだ。ちょっと前から考えてたんだ。俺には向いていないんじゃないかって」
「ティーオ」
「いや違うな。違うんだ、フェリクス」
「なにが違う?」
「探索者よりも、もっと他に向いている仕事があるんじゃないかって考えて」
探索者をやめようと思ったきっかけについて、ティーオはフェリクスに語っていった。
「まずは、全然背が伸びないってことだな。あんなに歩き回ったり戦ったりしているってのに」
カミルとコルフは背が高くなっているのが、はっきりとわかるのだとティーオは言う。
年も近く、同じ時期に迷宮都市にやって来て、一緒に過ごすようになったから。
彼らは大きくなったのに、自分はそうでもないと気が付いたのだという。
「小さいなら小さいなりの戦い方はあるのかもしれないけど、でもまあ、行ける場所は限られちゃうだろう」
「黒」のようなタフな戦いが求められるところには、自分はもう行けない。
ティーオは情けない顔で笑いながら、「それに」と続けていく。
「剣の腕も上がってないと思うんだよね」
「そんなことないだろう?」
「少しくらいはよくなった、って程度だよ。重たい剣は持てそうにないし、それにさ、剥ぎ取りも苦手なんだ。力が弱いのかもしれない。教わったり試したり、いろいろやってみたけど、どうにも上手にはやれなくてね」
フェリクスがいない間、アダルツォを迎えて四人で迷宮へ通った。
それで痛感したと、ティーオは話した。
「危険なところは避けたんだよ。ただでさえ人数が少ないんだからってね。癒しの力があるからなんとかなったし、カミルが結構戦えるから無事に帰れた。俺の力は本当にささやかでさ。『赤』に入った時、もう無理だってわかっちゃったんだ」
「ティーオ」
「それにね、フェリクス」
突然の悲劇に見舞われた青年が不在にしていた間に、屋敷から何人も去っていった。
まず名前があがったのは、同じ部屋に滞在していたはずの初心者たち三人について。
「アルテロたちは、『橙』に行ってみるって言って帰って来なかった」
「そうか」
「誰の手も借りずに、自分たちだけで行くって言ってね。アルテロと、カランと、ヨンケと。三人だけで行ったのかどうかはわからないけどさ。とにかく帰って来なかった」
死んだとは限らない。だけど、生きている証拠もない。
同じ屋敷に滞在していた誰かが、僅かな荷物を残して消えてしまった時。
探索者を目指す若者たちは、どうしても考えてしまう。
あれは、明日の自分なのかもしれないと。
「あと、ガデンね」
本人は屋敷を出て、独立してやっていくと言っていたけれど。
きっと故郷に帰ったのだとティーオは笑っている。
「ガデンはずっとサボってただろ。探索する気があるのか聞かれて、慌ててロカたちに声をかけて探索に行ったんだけど、全然なんにもできなかったんだって」
「そんなことが?」
「一緒に行くんじゃなかったって、ロカは怒ってたよ。そんなことで怒るのは、ちょっと修行が足らないと俺は思うけど」
「ははは」
「……仲間とうまくやるのも大事だけど、やっぱり腕を上げなきゃ探索は続けていけない。自分でそう名乗っていれば、いつまでも探索者ではいられると思うけど。そんな真似しても仕方ないだろ」
カミル、コルフ、アダルツォ。
スカウトと、魔術師と、神官と。
特別な技術を持った希少な仲間たちと一緒に歩いていくには、自分では足りない。
ティーオはそう語ると、星が瞬く夜空を見上げて大きく声をあげた。
「あーあ、本当、もったいないと思ってるんだよ、フェリクス。いい仲間を見つけるのが一番大変だってのに。おれはその一番大変なことはできたのに、それ以上のことはできそうにないんだ」
「だけど、ティーオ」
「いやいや、フェリクス。フェリクスはやれるよ。少なくとも、俺よりはね」
ティーオは大きな目を細めて笑顔を作ると、決心の最後の決め手についてこう語った。
「ギアノが来たのも大きかった」
「ギアノが?」
「ああ。ギアノは探索者になるために来たって言ってただろう。どのくらいやる気だったのかわからないけど、とにかく今は屋敷の管理の仕事をしてる。ヴァージさんがいなくなったのは本当に、本当に残念なんだけど。だけど、ギアノは働き者で、なんでもよく気付くし、どんなこともすいすい出来ちゃってさ。あっという間に馴染んだし、今じゃみんなすっかり頼りにしてる」
「確かに」
「俺は探索者として名を挙げるのが、一番すごいことだって思ってた。だけど、そうじゃないんだよな。この街には探索者になろうと大勢がやって来る。それを、いろんな仕事をする人たちが支えてるんだ。宿屋がなきゃ野宿だし、食堂がなきゃみんな焼いただけの肉をかじる羽目になるだろう」
武器や防具のような探索の道具だけではない。水が出てくる壺がどこでも使えるようになっているのも、その辺に行き倒れが転がっていないのも、死んだ誰かがちゃんと埋葬されるのも、毎日着る衣服が手に入るのも、なにもかもが誰かの仕事なんだと気づかされた。
「当たり前のようになんでも揃ってるけど、当たり前じゃないんだ。だってここは、なんにもない一面の荒野だったんだから」
黙って頷くフェリクスの肩を強く叩くと、ティーオはこんな宣言をした。
「俺は探索は諦めるけど、この街で暮らしていくよ。故郷に帰ってもなんにもないから。俺は一つ目の夢を諦めるけど、次を見つける。この街で、必ず成功してみせるよ」




