12 長い一日の終わり
日課である朝の清掃を済ませると、アデルミラは雲の神殿へと向かった。
カッカーの屋敷を訪れた次の日に一度訪れ挨拶は済ませていたが、ラディケンヴィルスだけで適用される「掟」についての説明はまだ受けていなかった。
朝、キーレイに教わった通りの説明を再び聞いて、雑事を手伝い、神殿勤めの神官たちと昼食を共にとる。神官たちと迷宮都市について少しばかり話をして、アデルミラは神殿を出た。
雲の神殿は街の西側、スアリアル王国へと続く西門の近くにある。太陽はさんさんと輝き、門の近くではひっきりなしに馬車が行き交っていた。新たに迷宮都市を訪れた者、たくさんの商品を積んで西へと向かう者。自分もつい先日同じように来たはずなのに、それがひどく遠い記憶のように思えてアデルミラは小さく息をついた。
あれから毎日探索について教わる日々を過ごし、空いたほんの少しの時間の中で兄を探し続けている。カッカーの屋敷にいる者へ聞き、神殿に出入りする人間にも尋ねた。雲の神殿にも兄について伝え、もし少しでも知っている者がいればと頼んでいたが、成果はないらしい。
もしかしたら、見つからないかもしれない。
過ぎていく日々の忙しさの中で気が付き、しかし、目をそらし続けてきたその「可能性」。
迷宮の中で命を落としていたら?
生きているのか死んでいるのか、その人が目の前に姿を現さない限り、払拭できない不安。
いつまでも兄を探し続けてはいられない。こうしている間に、母の具合は悪化しているかもしれない。手紙を送っておきたいが、兄が見つからないと書くのは気が進まなかった。
神への祈りを済ませると、アデルミラは北へ向けて歩き始めた。
カッカーの屋敷は街の南側にある。南は商人や熟練の探索者が暮らす家が並ぶ場所なので、兄を探すのならば西か北東の安宿街にすべきだった。
西の門からまっすぐ北へ向かうと、かまどの神の神殿が姿を現す。
最初の日にフェリクスを探しに来た辺りだと気が付き、アデルミラは小さく微笑む。
しかしすぐに視線を落として、表情を曇らせた。あの日「黄」の渦の中に飲まれてしまった三人について、名前と、どの辺りからやってきたのかくらいしか知らない。知らないが、重たい石に挟まれて消えてしまった彼らについて思い出すと、どうしようもなく胸が苦しくなった。
いつか自分もああなるかもしれないし、もしかしたら探し求めている兄も、この街の地下の何処かで既に朽ち果てているかもしれない。
試しに何度か入った「橙」はいいとして、その他へ挑むことができるのか。いつまでも、カッカーの屋敷に集っている者たちに案内してもらい続けるわけにはいかない。信頼できそうな誰かを見つけて、自分たちだけで迷宮へ向かい、「帰還の術符」を手に入れるか、金になる道具を手に入れて帰らなくてはならないのだ。
頼りない表情を浮かべ、アデルミラは歩く。
かまどの神殿の奥には食堂が多く並んでいて、大勢の男たちが歩いている。
アデルミラはふと思い出し、東へと足を向けた。
北東の門へと続く道の途中には武器と防具の店が並び、途中には皿の神の神殿がある。そこを通りすぎ、行商人が露店を出している市場を抜け、アデルミラが向かったのは車輪の神殿だった。
北東にある安宿、「レッティンの微笑み亭」のルノルから聞いた話。
もしも探索者が戻ってこなかったら。宿に残された荷物は処分されてしまう。だが、手紙などの大切な物は車輪の神殿へ預けられるという。
何故車輪の神殿なのだろうと、アデルミラは思う。記憶だとか思い出を司るのは「石の神」だ。預かるのならば、そちらの方がふさわしそうなものなのに。
市場の南側、中堅探索者たちの為の貸家街の手前に車輪の神殿はあった。
「ようこそ、雲の神官」
入口で出てきた女性の神官に「探索者達の形見」を見たいと告げると、すぐに神殿の奥の一室へと案内された。大きな部屋には台が並んで、その上には手紙やペンダント、指輪、小剣などがところ狭しと置かれている。品物は種類によってわけられており、それぞれにいつ、どの宿の者が持ち込んだものかが書かれたメモが添えられていた。
貴金属の類をつける人ではなかった。アデルミラはアクセサリの類が置かれた一角を通り過ぎ、手紙が並べられている台へと進む。自分への手紙に対し何回か返事を送ったのだから、それを探せばいいはずだ。
しかし、ここではたと気が付く。
いつも手紙の最後に、今はどこの宿に世話になっていると書かれていたのでそこへあてて手紙を出していたが、それを「兄は受け取っていたのだろうか」?
それに、手紙をくれていたのは最初の頃だけ、もう随分前の話だ。送った手紙を大事に持ち続けてくれていたかどうかもわからない。探索者を続けていれば、荷物は増える。他愛のない話ばかり書かれた妹からの手紙など、捨ててしまったかもしれない。
それでも手紙の束に目を通し、結局自分が兄へ宛てた物は見つからず、アデルミラは小さく溜息を吐いた。見つからなかったが、だからといって兄が無事だとは限らない。宿屋がここへ形見を届けてくれるかどうかはその店の人間の心一つ。とはいえ、ここに「なにもない」のはアデルミラにとっては希望になった。
この捜索に長い時間を費やしてしまったようで、神殿の外へ出るともう日が暮れかけていた。
道の上にはくたびれた様子の探索者が大勢歩いている。今日の仕事を終えて出てきた者達が、それぞれの家や宿へ向かって歩いているらしい。貸家街へと続く道の上にはいつの間にか沢山の露店が出ていて、夕食にちょうどいい料理を並べて売っている。
どのように進んで行けばカッカーの屋敷へ戻れるかはわかっていたが、初めての道を行かねばならない。辺りは人が大勢いて賑やかだが、薄暗い。この時間帯に街を歩くのは初めてではないが、これまでは常に誰かがいた。
急に心細くなってきて、アデルミラは少し焦りながら南へ向かって歩き出した。
周囲を行く探索者達は皆大きい。探索者の男女比は大きく偏っていて、女性はほとんどいない。
「うおっ」
慌てるアデルミラと、小柄な彼女が視界に入っていなかった男がぶつかる。せっかく買ったこの日の夕食が道の上に落ちて、黒髪の戦士風の男は不機嫌そうに声を荒げた。
「何すんだ、このガキ!」
神官衣の襟元を掴まれ、アデルミラは大きくよろめく。
「ごめんなさい」
よく見ていなかったと詫び、落してしまった食事の代金を弁償しますと告げたものの、男の苛立ちはすぐに収まりそうにない。
南へは悠々、北へは安堵、東へは苛々。
南に住んでいるのは、自分たちの家を構えられる実力のある者達。北の安宿街に戻る者達はまだ駆け出しで、今日ある命に感謝を捧げながら歩く。
東の貸家街で暮らしているのは、その間にいる者達だ。野心は大きく、だが、目的の物を手に入れるには少しばかり力が足りない。だから、彼らが満ち足りた気持ちで歩いていることなど滅多にない。
「ごめんで済む話か? 見ろ、服にかかっちまった。染みになっちまうだろう」
後ろにいるのは仲間たちなのだろうが、ニヤニヤと笑っているだけで諌める者はいないようだ。
たった一人でこのような状況に陥った経験は今までに一度だってなかった。故郷の街で酔った男に声をかけられた事はあっても、家族や他の神官たちが共にいた。彼らはどう言って酔っ払いたちを追い払っていたのか? 記憶を探りたいが、掴まれた腕の痛みが邪魔をする。
「逃げませんから、離してください」
「可愛いねえ」
右へ左へ視線を動かし、兄の姿を探す。勿論、兄のアダルツォはいない。朝自分より早く屋敷を出たフェリクスは何処へ行ったのだろう? カッカーの屋敷に集う面々のうちの誰かが通りかからないだろうか。
そう願うが、通り過ぎていく人々の中に見知った顔はなかった。当然だ、とアデルミラは思う。樹木の神殿があるのは街の南。迷宮から戻って来た者達が、東側にあるこの道を通るはずがない。
「五百シュレールだな」
そんなバカな、と言いたくなるような額が男の口から飛び出す。
「この服は『紫狼』の皮で出来てるんだ。なかなか店に並ばない珍しい物なんだぞ!」
そうだそうだと周囲から声が上がり、アデルミラの腕を掴む男の手に力が入る。
アデルミラの脳裏に、かつて見た悲しげな女性達の横顔がよぎっていく。
雲の神の教えは「運命を受け入れる」というものだ。「諦める」訳ではなく、起きてしまったすべてを受け入れ、その先の未来へ向けて歩んでいく。
故に、深い悩みを抱えた誰かが神殿へ相談にやって来る事が多い。故郷の街で神殿へ通っている間に、アデルミラは何人もの女性の姿を見た。皆悲しげな顔をして、顔や体に傷を負っていた。彼女たちに何が起きたのか。アデルミラ自身はまだ知らないが、女性だけが受ける暴力については知っている。
今から自分の身に起きるかもしれない――。
そんな予感にアデルミラは震えた。何が起きようと、受け入れて乗り越える。雲の神は、心を強く持ち生きていくのだと人々に、自らに仕える神官に説く。
けれど、耐えられるだろうか?
自分の腕を掴んでいる大きな手の力の強さ、夕闇の中にギラギラと光る野蛮な瞳の色、周囲の男たちの唇の端に浮かぶ下卑た笑み。
目を、唇を強く閉じ、祈りの言葉を心の中で唱える。しかし、足元から寒気が這い上がってきて体は震えて止まらない。
観念した様子の少女に満足気に笑う男の肩を、誰かが掴んだ。
「私の娘に何か用かな?」
突然かけられた声に、男も、アデルミラも驚いて振り返る。
薄い闇の中に、背の高い男が立っている。後ろに流された薄い茶色の髪、口元には美しく切りそろえられた髭。身にまとっている外套は、一目で上等な造りなものだとわかる。
「なんだあんたは」
「私の娘に何か用かと聞いているんだ」
ラディケンヴィルスには王都から派遣されている調査団がいる。その他にも、兵士の一部が治安を守る為の「衛兵」として派遣されている。
だが、彼らが守るのは街の南西にある、商人たちの家や高級宿が並ぶ住宅街と、西側にある調査団の事務所の周囲だけだ。街の北と東側には、彼らは滅多に姿を現さない。
「いや、ぶつかって汚したんだよ。見ろ、ここに染みが」
「何処だ? 私には見えないが」
男から放たれる威圧感に、柄の悪い探索者達は怯んだ。堂々たる体躯、鋭い瞳、明らかに「只者ではない」。王都から派遣されてきた、それも責任ある立場の者なのではないか。それがたまたま、滅多にこない町の東側へやってきたのかもしれない。
男は丸腰だ。長い剣だとか、武器の類を身に着けている様子はない。
しかし、あまり逆らっていい相手とは思えない――。
ちょうどいい捨て台詞を思いつかなかったのか、探索者たちは無言で去って行ってしまった。
「ありがとうございました。助かりました」
アデルミラの言葉に、男はいやいや、と小さく頭を振って答えた。
「余計なお世話だったかな?」
「いいえ。とても怖い思いをしました」
ほうっと息をつき、小声で祈りを捧げるアデルミラに、男は目を細めて微笑んでいる。
「神官殿を助けられて何よりだった。……その代わりといってはなんだが、一つ相談に乗って頂きたい」
「まあ、なんでしょう」
突然の申し出に、アデルミラは小さく首を傾げる。
「私の名はウィルフレド・メティス。ついさっきこの街へ辿り着いたのだが、一文無しでね。神殿の隅、いや、物置の隅でいいから、今夜の寝床に貸してもらえないだろうか」
カッカーの屋敷に集う者は皆、大抵は初心者か駆け出しの探索者で、誰も彼も金を持っていないし身なりも装備も貧相だ。探索に慣れて少しずつ稼げるようになってくれば、屋敷を「卒業」して出ていくようになっている。宿なり、貸家なりに住んでいる者達も出入りは続けるが、ここに住みついていいのは「初心者」だけという暗黙の了解がある。
なのでアデルミラが連れ帰った初心者らしからぬ、それどころかまるで探索者には見えない男の姿に、屋敷に集った面々は驚いていた。
「なるほど、探索者に屋敷を解放しているとはこういう事か。カッカー殿の名は聞いたことがありましたが、いや、立派なお方だ」
切りそろえられた髭を撫でながら話すウィルフレドの姿に、ヴァージは苦笑を浮かべている。
「あなたは? とても『探索者志望』とは思えないけれど」
「私は迷宮都市へ人生のやり直しを求めてやって来たのです。探索者になるのに、年齢の制限はないのでしょう?」
ここまでの道中で名乗り合い、アデルミラが十七歳だというとひどく驚かれたが、ウィルフレドが三十七歳だという話にアデルミラもまた驚かされていた。
「何処で出会ったんだ、彼に?」
アデルミラがこの日あった出来事を話すと、フェリクスは申し訳なさそうに顔を歪めた。
「すまない、車輪の神殿の話をすっかり忘れていた。もっと早くに一緒に行けば良かったのに」
「謝らないでください。私が考えなしに行ってしまったんです。本当に浅はかでした」
アデルミラも随分と疲れていたが、フェリクスも顔に深い疲労の色を浮かべている。何か話したいように見えたが、それを尋ねる前にウィルフレドが二人へ声をかけてきた。
「アデルミラ、ありがとう。お蔭で今夜は野宿せずに済んだ。君たちもここへ来たばかりだと聞いたが」
「ええ、そうです。こちらはフェリクスさんといって、同じ日に同じ馬車でこの街へ来たんです」
「そうか。よろしく、フェリクス」
差し出された大きな手を、フェリクスは少し躊躇いつつ握った。
「今日から同じ部屋に泊めさせてもらう。いろいろと教えてもらえると嬉しい」
これまで似たような年代の青年たちばかりだった屋敷の中で、ウィルフレドの存在は明らかに浮いている。親子程歳の離れた誰かがやって来るとは、思ってもみない出来事だった。
「荷物は何もないんですか?」
一つの部屋に置かれているベッドは四つ。これまでフェリクスとティーオの二人で使っていた部屋に、新しい仲間が加わった。
「ああ」
着ていた外套以外には、小さなナイフを持っているだけ。所持金も本当にないらしい。王都の騎士団に所属していると言われたら間違いなく信じてしまいそうな外見なのに、とフェリクスは思う。
「へえ」
ティーオは目を爛々と輝かせて、新しく入って来た仲間を見つめている。
この街に「探索者」になりに来た人間に対して過去を聞くのはタブーだ。しかし、ウィルフレドは余りにも異質だった。
「なあ、あの人、何があったんだろうな?」
ウィルフレドが部屋を出ていくなり、ティーオはこうフェリクスへ耳打ちしてきた。
「さあな」
「だって、あんなに立派そうな格好をしてるじゃないか。着ているものも上等そうだし、偉い人っぽい感じがプンプンしているだろう?」
「俺もそう思うよ。だが」
「わかってるよ、過去については聞かない。でも、気になるじゃないか」
ティーオはフェリクスよりも少し前にラディケンヴィルスへやって来た十五歳の少年で、とにかく落ち着きがない。毎日剣の練習をしては腹が減ったと騒ぎ、しょうがない奴だと皆を和ませるムードメーカーだ。
ティーオに悪気がないのはわかっているし、嫌いな訳でもなかったが、フェリクスは「それどころではなく」、落ち着かない気分で屋敷の庭へ出た。
アデルミラの兄を探すつもりだったのに、ジマシュの誘いに乗って「黒」の迷宮へ足を踏み入れてしまった。それは人助けであり、詫びであり、報酬を得られる仕事であり、この街で生きていく為に必要な経験だった。
腰の道具袋の中には三千シュレールもの大金が入っている。それについて、アデルミラに告げなければならない。だが、どうやって手に入れたのか、どこまで話していいかわからなかった。
ジマシュは恐らく、最初からあの商人の親子を救うつもりなどなかったはずだ。彼の言った通り、魔法生物がいつどこで現れ、誰に攻撃するかなどわかりようもないとは思う。それでも、今日迷宮の中であったすべてが「偶然」などとは思えなかった。失敗した時の報酬について取り決めをしていると言っていたが、それも真実なのかどうか。死人に口なし――。哀れな商人は、「黒」の迷宮で永遠の眠りについている。
そして、自分もその手助けをした。
小さな棘が心に刺さって、チクチクと痛んだ。彼らを見殺しにして、あの指輪を奪ってやろう。そう持ち掛けられたわけではない。そんな話なら当然断っていた。しかし、あの親子は死んでしまった。五つの宝石のついた指輪は売り払われて、フェリクスの手元には三千シュレールがある。
ジマシュの緑色の瞳。その中から放たれている圧力に押されっぱなしだった。
報酬を受け取ってしまったのも、彼から放たれる強さに逆らえなかったからだ。二人の関係がいかなるものかはわからないが、あれ程悲しげに蹲っていたデルフィが何故ジマシュに付き従っているのか、なんとなくわかるような気がしている。そう考えて、フェリクスは深く息を吐き出した。
この街に集う探索者達。
過去に傷がある者も多いだろうとフェリクスは思う。自分もそうだ。家族を失い、妹を取り戻すと誓い、そして……犯してしまった罪。あの日の光景は一生忘れない。強くあらねばと思ってしたことだったが、間違いだった。
しかし、だからといって歩みを止められはしない。
今も苦しんでいるであろう妹、炎に焼かれて死んでいった家族を思えば、止まっている暇などはない。後悔している時間があるなら、その分強くなるよう努力すべきだ。
樹木の神殿の庭には多くの木が植えられていて、今はエーメリアの花が咲いている。
眩い月の光を浴びて輝く白い花からは優しい香りが漂って、フェリクスはふと、アデルミラの姿を思い浮かべていた。
妹を取り戻し、家族の仇を討ちたい。一番強い思いはそれだが、あの頼りない小さな神官を、なんとか無事に故郷へ帰してやりたい気持ちもあった。彼女の兄は何処にいるのだろう。
それさえわかれば、家に帰してやれるのに。
こんな危険な街から遠ざけ、アデルミラにふさわしい幸福な人生を歩ませることができるのに――。
胸に渦巻く様々な思いに、それを持て余している自分にため息をついて、フェリクスはしばらくの間、夜空に浮かぶ星を眺めた。




