113 迷宮都市への帰還
馬車はカタコトと音を立てながら道を進んでいく。
迷宮都市にやって来た時にも乗ってきたが、乗合のものよりも小さいし、探索者が街中を馬車で移動することはあまりない。
東の大門から入って、南へ続く道へ。見慣れた光景でも、馬車からでは案外違って見えるものだなとフェリクスは思う。
「そろそろ着くぞ」
馬を操るカッカーの言葉の通り、すぐに屋敷にたどり着いた。
「ありがとうございます、カッカー様」
「それ以上はいいぞ」
伝説とまで言われた男の力強い笑顔に、フェリクスは小さく頷いて答えた。
ささやかな荷物を背負い、リーチェを抱いて馬車から降りる。
故郷を追われてからたどり着いた、フェリクスにとって二つ目の住処だ。
随分長い間暮らしていたのに、もうすっかり慣れているはずなのに、なぜか扉の前で足が止まってしまう。
「フェリクス、みんなまってるよ」
リーチェは青年の腕をほどいてぴょんと飛び降り、早く中に入ろうと急かした。
「ギアノにおかしをつくってもらうんだから」
「ははは。楽しみにしていたもんな」
「かあさまのぶんも、ちゃーんともってかえるよ!」
ビアーナとヴァージは北の村で待っている。メーレスも預けており、今日は連れてきていない。
おそらくは自分の甥で、唯一の血縁である赤ん坊。
これからどうやって生きていくべきなのか、フェリクスはずっと悩んでいた。
炎の中に消えていった両親と弟、連れ去られ、助けられなかった妹のことを忘れた日などない。
けれど、これほど家族について考えた日々はなかったとフェリクスは思う。
胸に滾っていた復讐の炎がなくなってしまって、目の前には小さな赤ん坊だけが残っている。
弱々しく泣いていたメーレスは、この三か月ほどの間にすっかり大きくなった。
笑いかけてくれるようになり、くりくりとした大きな瞳の中に、弟の姿を見たり、妹の面影を感じたりもしている。
「フェリクスさん!」
どこか遠くに心を置いてきたようにフラフラと、リーチェに引かれるままに歩いていたフェリクスの耳に、優しい声が届いた。
アデルミラは廊下の向こうから走ってきて、ようやく戻って来た探索初心者の男の手を取り、小さく呟いている。
「良かった、……フェリクスさん」
「アデルミラ」
赤ん坊を連れてやって来た時、アダルツォもアデルミラも随分くたびれた姿をしていた。
あの時とは違って、アデルミラの顔には本来の愛らしさが戻り、神官らしい穏やかな微笑みが浮かんでいる。
妹と甥の為に、フェリクスの為に、命をかけて来てくれたのだと後になってから気が付いて、いくつもの言葉を用意していたはずなのに、なぜかうまく出てこない。
「兄さまも、ティーオさんたちも元気です。今は『藍』の迷宮に行っているんですけど、夕方には戻るはずですから」
「ねえアデル、ギアノはどこ?」
「ああ、ごめんなさいリーチェ、お帰りなさい。ギアノさんは今、奥のお部屋で新しくここで暮らしたいという方とお話をしているんです。お菓子はちゃんとありますから、すぐに用意しますね」
「わあい! わあい!」
食堂へ向かい、リーチェの隣にフェリクスも腰を下ろした。
すぐにカッカーも姿を現したが、神殿の様子を見てくると言い残し、お隣へと去っていく。
皿を並べたトレイを持ってアデルミラが戻ってきたが、きょろきょろとあたりを見回し、首を傾げた。
「あら? カッカー様もいらっしゃいませんでしたか?」
「神殿の様子を見に行っているんだ。すぐに戻ると思う」
「じゃあ、並べておきましょうね」
行儀よく椅子に座る三歳の女の子の前に、まずは焼き菓子の乗った皿が置かれる。
これを楽しみについてきたであろうリーチェは、弾ける笑顔でフォークを掴み、早速一口頬張って笑った。
「これよ、これー!」
「美味しいですか?」
「うん!」
母と同じセリフで喜ぶリーチェに、フェリクスも思わず笑っている。
アデルミラはフェリクスにも同じものを持ってきて、お茶と一緒に並べてくれた。
「フェリクスさんもどうぞ」
屋敷が最も静かな時間帯は昼下がりで、食堂には他に誰の姿もない。
「今日から戻って来られるのですか」
「ああ。俺のベッドは残っているかな」
「もちろんです。ティーオさんがよく掃除をしてくれていたんですよ。いつ帰ってきてもいいようにって」
アデルミラが微笑み、カッカーが戻ってきて挨拶を交わす。
家主は手入れが行き届いた様子に満足しているらしく、アデルミラとその兄の暮らしについて尋ねた。
「私たちの暮らしも、問題はありません。その……、追っ手のような方が来ることも、もうないのではないかと思います」
「あれからは来ていないのかな」
「はい。カッカー様たちのところには?」
「大丈夫だ。あの村は子供が多いから、おかしく思われることはないだろう」
四人でお茶の時間を過ごしていると、廊下から音が聞こえてきて、管理人が姿を現した。
リーチェが喜んで飛んでいき、ギアノは優しく抱き上げ、フェリクスを見つけて笑顔を浮かべたものの、どうやら問題があるらしく、困った表情を浮かべたままだ。
「フェリクス、お帰り。だけど今はちょっと、カッカー様、少しいいですか」
ギアノにしては珍しい雰囲気だとフェリクスは思う。アデルミラも同じように感じたようで、リーチェを渡されて首を傾げていた。
「ギアノ、いっちゃった」
「ここはカッカー様の大切なお屋敷ですから。しっかり守ろうと考えてくれているんですよ」
「とうさまのおうち、どうしたの?」
「面談をしていると言っていたな」
「ええ。とても明るい方だったんですけど……」
二人は揃って心配したが、ギアノの相談は終わったらしく、カッカーはすぐに食堂へ戻ってきた。
リーチェはほっとしたようでお菓子をぱくぱく食べて、口の周りを汚したままにこにこと笑っている。
「いっぱいついているぞ」
ヴァージの持たせてくれたハンカチを取り出して、小さな口を拭いてやる。
そんなフェリクスの姿を、カッカーとアデルミラは優しく微笑んで見つめていた。
穏やかな時間が流れる中、廊下からギアノがひょいと顔を出して、声をかけてくる。
「アデルミラ、ごめん。ちょっと手が離せないから、お土産の用意を頼んでいいかな」
「はい、いいですよ。リーチェ、持って帰るお菓子の用意をしてきますね」
「アデル、かあさまと、ビアーナと、メーレスのぶんもおねがいね」
「ふふ、メーレスにはまだ早いですよ」
アデルミラが厨房へ向かい、カッカー親子とフェリクスが残される。
「フェリクス、本当に大丈夫か」
「はい……。カッカー様、すみません」
「謝ることはないと言っているだろう。いつ気が変わってもいいように、できる限りの準備はしておくからな」
探索者に戻ってもいいし、メーレスと一緒に生きていってもいい。
カッカーからはそう言われていた。
ニーロからの借金のことも、気にしなくて良いのだと。
「フェリクスはよく働いて、あの村の住人たちにも覚えてもらったからな。生きていく方法はいくらでもある」
きっと、探索者に戻って、命を散らしてしまわないか心配されているのだろう。
メーレスの今後については不安がない。カッカーとヴァージはまるで自分たちの子のように赤ん坊に愛情を注いでくれている。
リーチェとビアーナも、自分たちに弟ができたのだと言って可愛がってくれている。
小さな手がメーレスのふわふわとした髪を撫でている様に、たまらない気持ちになったものだった。
アデルミラたちが助けようとした女性が本当にシエリーだったのか、メーレスが自分の甥なのか、はっきりとしていない。
アダルツォの取り出した絵は、シエリーそのものに見えた。
アデルミラが感じたという、フェリクスの面影の話は信じても良いと思える。
大体、家族から引き離され、横暴な領主の息子に嫁がされる娘がそこらじゅうにごろごろいるとは思えなかった。
突然起きた悲劇で、妹以外のすべてを失った。
いつか助けてやりたいと願っていたのに、シエリーもいなくなってしまった。
メーレスが頼れるのはもうフェリクスだけなのだから、探索者などという危険な暮らしに身を投じるのはおかしい。
フェリクス自身もそう思う。けれどここでいきなりやめて、カッカーたちに頼り切った農村暮らしを始めるのか。
今は自分の力だけではなにもできない。誰かにすがり、助けられて暮らしていっても、責められはしないだろうけれど。
悩みは解消しないまま、悶々と過ごしていた。
妹まで失われた悲しみは、少しずつ薄れてはいる。
壊れてしまいそうだと思えるほど小さかった赤ん坊も、ずいぶんと大きくなった。
お前の妹のことが好きなんだ。恥ずかしそうに白状した親友の姿も瞼の裏に浮かんでくる。
メーレはシエリーを思い、シエリーはその愛情に答えた。
そのせいで、幼い頃からずっと一緒に過ごして来たメーレは死んだ。
なにもかもがやるせない。
やたらと膝の上にのぼって来るリーチェの頭を撫でながら、何日も悩んだ。
そんな悩める青年を、カッカーは父親のように見守っていてくれた。
ヴァージと二人で、どんな選択をしても良いのだと話し、じっくりと待ってくれた。
まだなにが正解なのかはわからない。
悩んでいるし、迷ってもいる。
けれど今は、仲間が待っているし、ニーロへの借りを返すべきではないかと考えて、戻ろうと決めていた。
「カッカー様、メーレスのことをよろしくお願いします」
「大丈夫だ、心配はいらない。もう少し大きくなったら、ここにも時々連れてこよう」
「はい」
別れの気配に気が付いたようで、膝の上のリーチェが振り返って、フェリクスへこう話した。
「フェリクス、メーレスのことは、リーチェがちゃーんとおせわしてあげる」
「ありがとう、リーチェ」
「かならずあいにきてね」
今度は逆に頭を撫でられ、フェリクスは思わず目を閉じていた。
こんなに幼い子供に気を遣わせているのだと気が付き、情けない。
挨拶が終わったところで大きな籠を抱えたアデルミラがやってきて、中身をリーチェに見せている。
「リーチェ、お土産です。ヴァージさんによろしく伝えてくださいね」
「わあい! ねえアデルミラ、フェリクスのことおねがいね」
「まあ、うふふ。わかりました。任せてくださいね」
「ギアノはまだごようじがおわらないの?」
「そうみたいですね。用事がないなら、リーチェのところに飛んできてくれるはずですから」
噂をしているとようやく管理人が戻ってきて、慌ただしくリーチェを抱き上げて構ってくれた。
屋敷と神殿の様子を確認してカッカーの用事は終わり、フェリクスのために祈ると、親子は馬車に乗り込み帰って行った。
見送りを終えると、アデルミラとギアノがフェリクスの帰還を改めて喜んでくれた。
「フェリクス、良かったよ、元気そうで」
「カッカー様たちのお陰だ」
「あの子も元気にしているか」
「もちろん。大きくなったよ。頭がぐらぐらしなくなったし、時々笑うようにもなった」
滞在していた部屋に移動してみると、ベッドもロッカーもそのままだった。
「今はティーオの他に、クレイとフレスって奴が使ってる。みんな、夜には戻ってくると思うよ」
「カミルとコルフは?」
「相変わらずだよ。アダルツォも一緒に探索に行ってる」
ギアノは今日はずいぶん忙しいようで、フェリクスを残して仕事のために去って行ってしまった。
そう多くもない荷物を一人で片付けて、再び階下へ降りていく。
すると廊下にはアデルミラがいて、階段を降りるフェリクスをじっと目で追っていた。
「フェリクスさん」
この雲の神官にしては、鋭い瞳だと探索者は思う。
そう感じたのは間違いではなかったようで、アデルミラは怒った顔でこう切り出した。
「どうして嘘をついたんですか」
「嘘?」
「ニーロさんからの借金のことです」
返す言葉が見つからなくて、フェリクスは口を小さく開けたまま黙ってしまう。
アデルミラは階段の終わりで立ち止まる青年の前まで進んでくると、服の胸の辺りをぎゅっと、力を込めて掴んだ。
「わかっています。探索はとても危険だから、私が戻ってこないようにそう伝えてくれたのだと」
アデルミラが戻ってきて、フェリクスはいなかった。
だから、真実が伝わるのは当たり前のことだ。
神官に宛てた手紙の内容は誰にも話していないし、ティーオあたりが話してしまったのだろう。
「でも……」
「ごめん、アデルミラ」
お互いの思いを理解できるからなのか、アデルミラはそれ以上なにも言わない。言わないまま、フェリクスの服をぎゅっと掴んだまま動かない。
フェリクスもなにも言えなかった。
嘘は良くない。けれど、ただの嘘ではなかったのだから。
「なあ、ちょっと」
背後から急に声がかかって、二人の膠着は終わった。
見覚えのない青年が立っていて、アデルミラも慌てて振り返っている。
「今日から世話になるんだけど。あの……、誰だっけな。俺の連れの、ケンローと似てるヤツ。あいつと話はつけてある」
「ギアノのことかな」
「そうそう、そんな名前だった」
「確認してきますね」
アデルミラがぱたぱたと廊下を走って、管理人の部屋の扉を叩いている。
「可愛い子だな」
新入りらしき男はにやりと笑って、フェリクスを見つめている。
「俺もここに滞在させてもらっている、フェリクスだ」
「ああ、よろしくな。俺はフォールード。さっきはあの子とモメてたみたいだけど、痴話喧嘩かなにか?」
「そんなんじゃない」
「そりゃあそうか。いくらなんでもあんなチビっこには手は出さねえよな」
品のない物言いに、思わず眉間に力が入ってしまう。
そんなフェリクスを見て、フォールードと名乗った男は声をあげて笑った。
「ああいう幼いのが好みなのか。ごめんな、失言だったよ。好みは人それぞれだもんなあ」
「彼女はもう十八歳で、立派な雲の神官だ。見た目が幼いことは本人も気にしている。そんな風に言うのはやめてほしい」
フォールードは笑いを引っ込めると。目を丸くしたまま黙った。
なんともいえない空気が流れる廊下に、ギアノとアデルミラが連れ立って戻ってくる。
「お待たせ、フォールード。案内するよ」
「ああ、よろしく」
「フェリクス、後で話そう。そろそろ夕方になるし、食事の支度を頼んでいいかな。アデルミラと一緒に」
「わかった」
二人で厨房へ向かって、大きな鍋を用意したり、水を汲んだり、火をおこしたり。
最低限の会話だけを交わしながら夕食の準備を進めていると、廊下の奥が少しずつ騒がしくなっていった。
それぞれに今日の仕事を終えて、屋敷の住人たちが帰って来たのだろう。
食料庫に寄る者もいるが、ほとんどが自分たちの部屋に戻っていく。
厨房の裏にある、庭もがやがやと騒がしくなっていった。
体や服を洗いに来た連中なのだろう。ああ、そうだったと、フェリクスは懐かしい気分になっていく。
「アデル、戻ったぞ」
厨房に入って来たのはアダルツォで、妹よりもその手前にいた青年の姿に驚き、ぱっと顔を輝かせた。
「フェリクス! 帰って来たんだな!」
「えっ、フェリクスがいるの?」
廊下の奥からティーオの声が聞こえる。
バタバタと足音が複数響いているのは、カミルとコルフもやって来たからだ。
探索から帰った将来有望な四人組は、大切な仲間の帰還をわあわあ騒いで喜んで、フェリクスの手を取ってぶんぶん振ったり、良かったと涙ぐんだりしている。
「フェリクスさん、少しお話してきたらどうでしょう?」
「でも」
「大丈夫です。朝のうちに仕込みは済ませていますから。それに、戻って来た皆さんがそれぞれ作業もしますし」
背中を押されて厨房を出て、食堂の隅に向かう。
ティーオたちはそれぞれの荷物を片付けてから戻ってくると、改めて仲間の帰還を祝い、喜んでくれた。
「迷惑かけてごめん、みんな」
「そう言うと思ってたよ、フェリクスなら。なあカミル」
「そうだね。まずは謝るだろうと思ってた。そんな必要はないっていうのに」
ティーオは黙って背中を叩いてきたし、アダルツォも隣の席にやってきて祈りを捧げてくれた。
全員で再会を感謝して、フェリクスはまずこう切り出した。
「探索をしていくと決めたよ」
「その、いいのかい。甥っ子と離れても」
「もちろん、すごく悩んだ」
唯一の残された肉親と一緒に暮らすべきではないか。
とはいえ、自分に、赤ん坊と暮らす生活を用意できるのか?
「だけどいきなり農村で暮らし始めるというのも、すんなり受け入れられなくて」
ニーロに支払っていない五万シュレールを片付けるべきではないか。
母の残してくれた形見の指輪を、手元に取り戻しておきたいとも思う。
「カッカー様たちと過ごしていろんなことを考えたよ。俺がもたもたしていたせいで時間が過ぎてしまったんだと思ったし。もちろん、焦っていてもロクな結果にはならなかっただろうけど。……過ぎてしまったことをいつまでも後悔していてはいけないと諭されたし、悲しいものは悲しいんだと、涙を流していてもいいと慰められたりもした」
ヴァージの優しい微笑みと、カッカーの力強い声に励まされる日々だった。
親のいないメーレスの世話を引き受けてくれて、そのせいで寂しい思いをさせているリーチェとビアーナと長い時間を過ごしていった。
「俺はいまだになにが正解なのかはわからない。迷宮都市で暮らし続けるべきなのかどうか、随分迷ったよ。俺がここにやってきたのは、強くなりたいと願ったからだ。妹を救いだす為に必要な力をつけて、必要な資金を用意しようと考えてやって来た。……考えてみれば、初日の大失敗で、もうどうしようもなくなっていたんだけど」
情けない顔で笑うフェリクスの手の上に、アダルツォが手を伸ばしてふわりと重ねて来た。
「フェリクス」
「アデルミラと出会ったのは偶然だよ。助けたと言ってくれるけど、あの時俺が勝手に去って行かなければ、あんな目には遭わずに済んだんだ」
「でもそのお陰で、俺は救われた。アデルと俺が救われて家へ帰されたから、メーレスを連れて逃げることもできたんだ」
すべては今に繋がっている。
シエリーを救えなかったけれど、残した命を守ることができた。
アダルツォの瞳は妹と同じ色だし、眼差しの真摯さも変わらない。
「俺が家に戻って、母様の最期に立ち会えたのも、フェリクスのお陰だ」
「亡くなったのか?」
アダルツォは黙って頷き、二人はもう戻る家もないのだと手短に話した。
「俺たちの境遇はよく似てる。これからどうすべきかまだ悩んでいるけれど、フェリクス。今はこうして、頼れる人もいて、稼ぐ方法だってある。ここでアデルが世話になっていたことが、俺たちを救っているんだ」
雲の神官は神妙な顔をして、フェリクスをまっすぐに見つめている。
「これからの人生について不安はあると思う。いつまで経っても尽きないかもしれない。けれどフェリクス、神は行いを見ている。俺たち兄妹を危機から救い出し、小さな赤ん坊を守ろうと思うフェリクスの正しい魂を決して見捨てはしないだろう。不幸がないとは言えない。けれどきっと、大きな祝福がフェリクスの人生の上に訪れると俺は思うし、アデルと一緒に祈っているから。これからの暮らしのうち、どれくらいの期間になるかはわからないけれど、俺たちはフェリクスの力になると誓う」
「大袈裟だよ」
「そうかな。いや、そう思われていても構わない。フェリクス、どうか人生の恩人であると思うことを許していてほしい。本当に、言葉では言い尽くせないほどに感謝しているから」
手に力を籠めるアダルツォに、フェリクスは戸惑いながら、小さく頷いてみせた。
そこまで考えてくれているとは予想外で、驚いてしまう。
そんな二人の熱い再会を見守り終わって、カミルは大きく頷くと明るく声を上げた。
「君がいない間に、いろいろあったんだよ、フェリクス」
「追手が来たような話は聞いてるんだけど」
「みんなで追い返したヤツだな。すぐに納得してくれて良かったよ。怖い顔をしていたけど、根は良い人間だったんだろう」
ここからしばらく、フェリクスが不在の間に起きた出来事が語られていった。
アダルツォが入ってパーティが安定しそうだとか、おしゃべりなガデンがとうとう屋敷を出ただとか、ギアノの作る美味いものが飛ぶように売れたとか。
若者だけの会話は明るく朗らかで、フェリクスが胸の内に抱えていた緊張は、ようやくほどけ始めている。
「代わりに誰か入れたりはしなかったのか」
「俺たち、将来有望そうだって噂になったんだよ」
「ガデンが失敗した反動でね。もともと半端に入れたら、追い出すのに苦労しそうじゃないかって話はしてたんだけどさ」
「四人で行っていたんだな」
「そうだよ。いや、神官だよ、フェリクス。待望の神官の加入だ! アダルツォにはもうずいぶん世話になっているよ」
カミルとコルフの調子は随分良いようで、新しい仲間の神官を褒めちぎっている。
褒められた神官は謙遜しつつ、信頼を得られたことは喜んでいるようだ。
「五人組としても頑張っていこう。アダルツォを入れて、慣れる為に肉と皮の採集をやってたんだ。しばらく続けていこう。ギアノの役にも立っているし、稼ぎにもなるし」
「ギアノは美味い味の保存食を作ってるんだ」
「へえ、そうなのか」
「これがねえ、ちょうどいいんだよ。迷宮の中でなくたっていいんだ。小腹がすいた時なんかに齧るのにちょうどいい」
アダルツォはにこにこと微笑んでいて、あまり口数は多くない。
しゃべっているのは主にカミルとコルフで、いつもならやかましいティーオはなにか気を取られることがあるのか、会話には加わっていなかった。
「なあ、今夜はどこか、ちょっといい店に行かないか。今日は鹿が採れたんだよフェリクス」
「いいねえ。フェリクスが戻ってきたし、景気付けに美味いものを食べようじゃないか」
屋敷の初心者たちが戻ってきて、廊下の向こうからいろんな音が聞こえてきていた。
厨房で料理を作ったり、なにかもらえないか様子を探ったりしているのだろう。
「アダルツォ、たまにはアデルも誘ってみたらいいんじゃないかな」
「ああ、そうか。そうだな。たまにはいいかもしれない」
「心配しなくていいよ、フェリクス。俺たちがみんなで出すから」
「そんな、悪いよ」
「歓迎させてよ。フェリクスのその真面目なところ、俺たちは好きだけどさ。力を抜く日があってもいいと思うんだ」
コルフが笑い、隣でカミルが頷いている。アダルツォは妹を呼びに行って、ティーオもようやく笑顔を見せている。
「ありがとう、みんな」
感謝の言葉を口にしてみると、体に漲っていた緊張がふわりと消えたような気がした。
こんなにも得難い出会いをしていたのだとわかって、フェリクスは胸のうちに、とても熱いものを感じながら立ち上がった。




