112 てのひらに赤い痕(下)
薬草業者の集まる街角には独特の香りが漂っていた。
最近飲んだ睡眠薬と似た匂いがして、女兵士は陰鬱な気分に沈んでいく。
また夜がやってきて、嫌な夢の中に落とされてしまうのではないか。
そう思うと、目を閉じるのが怖い。
「ねえ、ねえ、調査団さん!」
がっくりと肩を落とした女の隣に、少年が駆けてくる。
やって来たのはメハルで、代わりのものを持たされたのだろう。胸に大きな荷物を大事そうに抱えている。
「ありがとう」
「いえ、いいのです。私が悪いのですから」
「そうは言うけど、あんなに立派な剣をさ。本当にいいの?」
「ええ」
「すごく高そうだったけど。迷宮で手に入れられるものじゃないの、ああいうものって」
少年はぱっちりとした目を輝かせながら、興味津々で問いかけてきた。
チェニーの姿はその正反対だ。げっそり、ぐったり、生気無し。
「あれは譲られたものなので」
「へえ、気前のいい人がいるもんだ!」
悪気のない言葉に、チェニーは更にがっくりと項垂れている。
「あの、もしかして悪いことを聞いたかな?」
調査団の女へ、メハルはおずおずと問いかける。
「いえ、悪いことなどありません。少し具合が良くないのです」
「そうなんだ。確かに、顔色が良くないもんな。仕事を休んでしっかり治したほうがいいよ」
少年はそれだけ言うと、それじゃあ、と去っていってしまった。
急いで届けなければならないのだろう。
なんとか寮へ帰り着いたが、チェニーのもとにはなんの通知も届いていないようだった。
複雑な手続きがあるのか、代替要員が来るまで解雇はできないのか。
わからないがとにかく、帰れとも働けとも言われないようだ。
自分の部屋の様子を眺めて、女はため息をついている。
なにもない。必要最低限のものしか、寮の中にはなかった。
制服や装備品は返さねばならない。
着替えはある。それ以外はない。
現金も宝石も、なにもなかった。
こんなにもなにもない部屋だっただろうか、チェニーは思いを巡らせる。
けれどなにひとつ、浮かび上がってくるものはなかった。
感情も記憶も、自分の中にはっきりと存在しているものがほとんどない。
破れた恋と、底の見えない深い後悔がひとつずつ残っているだけ。
通知はなくとも、いつ追い出されるかはわからない。
チェニーはのろのろと、私物の片づけをし始めていた。
わずかな着替え以外にあったのは、空になりかけた財布と、「橙」の丸い石が嵌まった腕輪だけのようだ。
そういえばこれがあった、とチェニーは思った。
王都の実家へ戻されるとして、これを持って帰るのか?
考えると胸が急にそわそわとして、落ち着かなかった。
ダンティンの袋の中から出て来た腕輪。きっとあの細い通路の先で見つけたものだろうと思う。
車輪の神殿へ届けておけば、いつか探しにきた彼の家族のもとへ渡るかもしれない。
けれどきっと、思い出も思い入れもない品物で、これが形見だとはとても、女には考えられなかった。
二十一層目にあるという「お宝」について、ヌエルはそう詳しく話さなかった。
そう貴重な物は出てこないだろう、くらいにしか聞いていない。
箱の中身は重要ではなかったから。そこに至る道へ、二人が進むことだけが大事だった。
ヌエルがデルフィを眠らせ、チェニーがスイッチを操作する。
そういう役回りになるように、うまく話を進めなければならなかった。
どう誘導しようか緊張していたのに、ダンティンは自ら先へ進むと決めたし、ベリオを誘った。
無関係の若者を助ける方法だってあったはずなのに。
デルフィを眠らせて連れ去るには、どうしても邪魔だったから。だから。
ベッドに突っ伏したまま涙を流し続けて、どうやら眠ってしまったらしい。
夢は見たのかどうかわからなかったが、女の心の中に嫌な記憶はなかった。
どうやら真夜中のようで、部屋の中は暗い。
そばにあるテーブルの上には、荷物の中に入れられなかった腕輪が置かれていて、かすかな灯りを受けて光っていた。
自分の罪の証であるこの腕輪を、持っていたくない。
けれど手放すのは、あまりにも不誠実だと思える。
不誠実であるのは、今日薬草屋に渡した剣についても同じだった。
いくらベリオ・アッジが極悪人だったとしても。気の弱い神官を騙して友人から引き離し、いいように利用していたとしても。
それでもダンティンにとって、ベリオは大切な仲間だったことだろう。
あんなにもわけのわからない、実力に見合わない挑戦に付き合い、的確に指導をして長い間付き合ってやっていたのだから。
ジマシュにとっては、悪魔の手先にも等しい存在だと言われていたベリオについて、チェニーはしばらく考え続けていた。
自分を仲間から追い出そうとしたし。代わりに差し出したものを平気で受け取り、欲を満たしていたし。
星がゆっくりと落ちていき、代わりに太陽が昇っていく。
街に差し込む光は少しずつ増えて、部屋の中も明るくなっていった。
過去は変えられない。時間は巻き戻らない。死者は蘇らない。迷宮に飲み込まれたものは、二度と地上へ帰ってこない。
様々な思いが過ぎていって、チェニーははっとして身を起こした。
いつの間にか眠っていたようで、ベッドの上で瞬きを繰り返している。
朝どころか、もう昼になったようだった。
腹の虫が小さく鳴って、チェニーはふと、デルフィに会いたいと思った。
彼自身はどう考えていたのか、わからないことに気が付いたからだ。
ヌエルが探しにやって来る前に、一度声をかけられている。
あの時、白い長いローブを身に着けていたように思う。
「いなくなった」とヌエルは言い、行方を追っていたのだから、きっと「逃げられた」のだろう。
あの時「待って」と言われたのは、なにか聞きたかったからなのではないか。
どこでどうしているのだろう。
「橙」でなにが起きたのか、わかっているのだろうか。
気が付いた時にはジマシュがいて、ヌエルがいて。
ダンティンとベリオ、スカウト見習いの「ドーン」はいない。
ベリオの悪の手から解放されて、真の友人のもとへ無事に帰って来られたのだと理解できなかったのだろうか。
なぜ逃げ出す必要がある?
ダンティンを犠牲にしたのが許せなかったから?
ドーンがいない理由がわからなかったから?
そこまで考えて、チェニーは慌てて立ち上がった。
どうしてこんな風に考えることがなかったのか。
ジマシュの最後の言葉に酷くショックを受けていたとはいえ。
女は最低限の身支度を済ませると、調査団長の部屋へ向かった。
ちょうど昼食を食べ終えて戻って来たショーゲンは、チェニーを目にするなり嫌そうに鼻に皺を寄せている。
「髪くらい整えたらどうかね、ダング調査官」
「申し訳ありません」
心にもない謝罪の言葉を口にして、チェニーは団長へすがりついていた。
「前借り?」
「はい」
「馬鹿を言うな!」
薬草業者へ代金を支払って、あの剣を取り戻さなければならない。
焦るあまり考えなしにショーゲンへ頼んでしまったが、このお願いは大失敗に終わった。
「明日付で解雇だ。戻る準備をしておきたまえ」
「そんな」
「文句を言える立場か、君が。大目に見ていたどころの話じゃないぞ。何か月も姿を見せなかった理由を、君は家族に正直に言えるのか?」
「ショーゲン様」
「君の父上と、将来のある兄のために黙っていただけのこと。限界などとうに超えていた。当たり障りのない理由を書いた手紙を用意してやろう。せめてもの餞別にな!」
そばにいた調査団員に、支給品の回収が指示されていく。
チェニーは慌てて部屋に戻り、まとめておいた荷物を手にすると、寮を飛び出して南へ駆けていった。
昨日もやってきたミッシュ商会へたどり着き、来訪の理由を伝える。
するとメハルが顔を出して、いらっしゃいと微笑みかけてくれた。
「どうしたの調査団さん」
「あの剣を……、その……」
「返してほしいの? 二千用意できた?」
できていない。もう支払いの当てがない。
調査団を解雇されてしまっては、借金の類ももうできない。
今制服姿のままで駆けこめば、ぎりぎり借りることはできるかもしれないが。
けれどそんな安易な振る舞いをした犯人はすぐにバレて、ますます激しい怒りを買うことになるだろう。
なにも考えずに飛び出してきたチェニーの様子に、メハルは首を傾げている。
だがやがて、女がやって来た理由を推測できたらしく、ぱっと顔を輝かせた。
「そうだよね、そりゃそうだ。あの剣はきっと高く売れるから。弁償の分以外はちゃんと返してほしいよね」
それなら、一緒に道具屋に行って確認したらいいと少年は笑った。
「しっかり鑑定してもらうといいよ。どこか、行きつけの店はある?」
「いいえ……、そういうところは」
「そうなんだ。じゃあ、うちの使っているところでいいかな。薬草業者は草ばっかり採るモンだけど、時々珍しいものも持って帰るんだ。迷宮には魔力っていうのかな、特別な力のある物が落ちていて、そういうのはいい鑑定師のいる店にいくらしいんだよ」
そう望んでいるわけではない。だが、言い出せない。
チェニーがまごまごしている間に話は進んで、メハルと共に道具屋へ向かうことが決まってしまった。
「メハル、これを持っていけ。ミッシュさんの名前が入っているから、これを店主に見せてちゃんと鑑定してもらうように」
「あいよー」
「その店ではあいよなんて言うなよ。ルーレランの店だからな。この道をまっすぐ行って、東に向かうんだ。ナリキエの厨房って旨い店の二軒隣にあるから」
「ああ、あの立派な店の」
「高いモンは必ず書類を作ってくれるから、代金ちょろまかすんじゃないぞ」
「そんなことしないよ。調査団さんが一緒なんだから」
「口答えするんじゃない。はは、すいませんね、今人手が足りなくて。調査団さんよろしくお願いします」
メハルは木の札のようなものを手渡されており、腰に付けたポーチにそれを大事にしまった。
腕にはしっかりと、美しい剣が抱きかかえられている。
「それじゃあ行こうか」
少年に促され、チェニーも歩き出す。
たとえばあの剣が途轍もなく高額で売れたとしたら。
この後の生活も安定するだろう。
王都へ戻るのなら多少なりとも身なりは整えておくべきだと思える。今のやせこけたみすぼらしい姿で帰るよりは、新しい服を身に着けて、髪もきれいに切ってもらうべきだろう。少しくらいは、事態がマシになるだろうから。
「ルーレランの店は結構古くからあるんだって。魔術師と協力してるからしっかり鑑定できるし、それにねえ、特殊な薬を作ることもできるんだってさ。お金がかかるからあんまりやらないみたいだけど」
虚ろなチェニーを気遣っているのか、メハルはよくしゃべった。
道具屋にたどり着く前にこんな話題が飛び出して来て、女はぼそりと呟いている。
「魔術師の力で、特別な薬を作れる?」
「うん。どんなものかは知らないけどね。売ってもいないみたいだし」
「売っていないのですか」
「迷宮で薬草を採るのも結構大変だからね。たくさん作るためには、いろいろ試さなきゃいけないし」
草そのものの効果以外も、魔術師の力で得られるのだろうか。
チェニーは考え、空を見上げた。
「すべてを忘れられる薬も、いつかはできる?」
「えっ。すべて?」
「辛い記憶を消せるような、そんな都合のいい薬ができたらいいと思っただけです」
「なにかあったの?」
メハルのまっすぐな問いに、女は答えられずに黙り込んでいる。
少年はそれ以上おしゃべりをせず、ゆっくりと歩いて進んで、件の道具屋へたどり着いていた。
そう、たどり着いてしまった。
あの剣を、売ってしまって良いのか。
チェニーは深く迷っていた。
ずっと手放したいと思っていた。持って帰ったことを後悔していた。
けれどあれは自分の犯した罪と、ベリオの生きた証でもある。
「ミッシュ商会の従業員で、メハルといいます。これ、店主さんに見せるように言われていて」
「ああ、ミッシュ商会さんね。少々お待ちを」
どんなに悩んでいても、時は止まらない。
メハルは店に入って話を進めており、商会の札はもう出されてしまった。
店の奥から年配の男が現れ、木の札を確認している。
店主は気の良い男のようで、メハルの明るい話し方を誉めて笑った。
「この剣の鑑定をお願いします」
「ほう」
細やかな細工が施された鞘がきらりと輝いて、光のかけらがチェニーの目に飛び込んできた。
店の奥へおそるおそる進み、メハルの隣へ立つ。
「この感じは『緑』で見つかるものかな」
店主は独り言を言ってはふむふむと頷き、メハルはその様子を興味深げに眺めている。
「その剣、特殊な力があるんですか?」
「いかにもありそうだ」
少年の問いに微笑むと、店主は客二人の顔を順番に見つめて、こんな提案をした。
「今ちょうど、鑑定をよく依頼する魔術師が来ているんだ。その人に見てもらうかい」
「それ、頼まない理由なんてないと思うけど」
「いやいや。私がすごいと思って高値を付けても、案外たいしたことがなかったりすることもあるんだ。魔術師に頼んだ方が正確な値段がついて、大抵の人は少し儲かるんだが、その逆もたまにはある」
「あはは。この剣はどうなりそう?」
「これは見てもらった方がより高価になるものだと思う。だがね、魔術師に鑑定代を払う必要はある。その分、渡せる金額は少し減るよ」
メハルが首を傾げて、どうする? と問いかけてくる。
チェニーはわからなくて、目を逸らしてしまう。
「それ、二千以上にはなりそうかな」
「なる。もう少し高い値が付くだろう」
「それじゃあ、頼んだ方がいいかな。いいよね、調査団さん」
心になんの決着もつけられないチェニーは、結局答えることができなかった。
メハルは優しく背中を撫でてくれて、女の代わりに「お願いします」と店主へ頼んだ。
ルーレランの店の主は大きく頷くと奥へ引っ込んでいって、どうやら魔術師に声をかけたようだった。
やがて戻って来た店主のあとから、まだうら若い青年がついてきてカウンター前までやってくる。
「あっ……」
チェニーが思わず声を漏らしたのは、現れたのが無彩の魔術師だったからだ。
ニーロは店主に案内されてまずは剣を見て、続けて客へ視線を向けた。
「確か以前に『紫』の調査を頼んできた、ダング調査官ですね」
「ええ。久しぶりですね」
無彩の魔術師は小さく頷くと、持ち込まれた剣を手に取り、しげしげと眺めた。
美しい鞘の先から柄までじっくりと、取り出した剣も時間をかけて見ているようだが、魔術を使ったような気配はない。
剣は鞘にしまわれて、カウンターの上に置かれた。
「この剣は」
どこで手に入れたのですか?
そう尋ねるつもりだったのだろう。
それは最も恐れていた言葉で、空に出される前にチェニーは剣を奪った。
「あの、かわりに、これを!」
剣を床の上に置いて、荷物袋を漁っていく。
もちろんロクなものは入っていない。慌てた女の手が当たり、弾かれて腕輪が飛び出し、転がっていってしまう。
メハルが拾ったが、ニーロがカウンターから出て来て、腕輪は取り上げられてしまった。
「珍しい物を持っていますね」
「珍しいの、それ?」
「ええ、とても」
魔術師が笑い、少年は目を輝かせている。
剣よりも高く売れるものが出て来たと思ったのかもしれない。
メハルが腕輪を取り戻そうとするような気配はなく、魔術師の説明は続く。
「これは『橙』の迷宮の二十一層で手に入る、決して一人では手に入れられないもの。手にするためには三人必要で、『絆の証』などと呼ばれることもあります」
「絆の証?」
「ええ。罠の仕掛けを操った先にありますから、信頼できる誰かと共に行かねば入手できません」
ニーロは黙り込む調査団員へ視線を向けて、微笑んだような表情を見せた。
「あなたも二十一層へ?」
まさか、そんな代物だったとは。
体が勝手に震えだして、チェニーはびくびくとしながらやっと答えを絞り出していく。
「いえ……、不要だからと、人にもらって」
「不要ですか。確かに、不要かもしれませんね。これ自体に大した価値はありませんから」
「価値ないの?」
「ええ、高く売れる物ではありません。特別な効果はなにもない、ただの腕輪ですから」
「なんだ、そうなのか」
「大層なところに隠されていますからね。期待する人も多いのですが」
ニーロは橙色の石の嵌まった腕輪を、ゆっくりと回しながらこう話した。
「この腕輪は、手に入れること自体に意味があります。探索者たちが互いに協力をし、信頼を高め合い、二十層分もの道のりを進んだ先で見つけるのですから」
「へえ」
「珍品ではありますが、実用性はありません。服飾品としての評価もよくないようです。店先に飾るくらいはいいかもしれませんね。これは記念の品物として持ち続ける人が多いといいますから」
そんな品物なので、売り値はせいぜい百シュレール程度なのだという。
メハルは明らかにがっかりした顔で、魔術師から腕輪を渡され、チェニーへ差し出した。
手が震えて、うまく受け取れない。
なにもかも見透かされているとしか思えなかった。
無彩の魔術師は、ベリオのかつての仲間、相棒だった人間で。
あの剣について、知っているのではないかと思えた。
初めて見るものではない視線のようだと感じた。
それに、腕輪の話も。
「橙」の「二十一層」の「罠の先」だと知っている。
三人以上の人間が協力しあわなければ手に入れられない、「絆の証」だと知った上で、あんな目を向けている。
「どうしたの、大丈夫」
チェニーが落とした腕輪をメハルが拾い上げ、袋に入れる。
それを手渡され、女は強く握りしめたまま、後ずさりしていった。
「調査団さん?」
親切な若い薬草業者はもう目に入らない。
その向こうにいる無彩の魔術師の灰色の瞳が、まっすぐに向けられているのが耐えられなくて、チェニーは店を飛び出していった。
「ねえ、ちょっと!」
大きな声で叫んでも、チェニーは振り返ることはなかった。
遠ざかっていく背中を見送り、メハルは中へ戻り、店主と魔術師になんだか申し訳ないと謝っている。
「どういうことなんだい」
「あのお客さんに二千シュレールもらわなきゃいけなくって。それで鑑定してもらいに来たんだけど」
「どうする? 剣は置いていったようだけど」
「売ってもいいとは言っていたんだけど。なんだか様子がおかしいし、持って帰るよ。また来るかもしれないし」
「そうかい。なあ魔術師さん、ちなみにどんな剣なんだい、あれは」
興味津々の店主に問われ、ニーロは小さく頷いて答えた。
「あれは『緑』の深い層に隠されていたもの。とても軽くて持ち運びが楽なのと、蔦や葉などの植物に対して、特別によく切れるという力があります」
「それじゃあ、『緑』や『紫』に持っていくと楽になりそうだ」
「そうですね。その為の武器なのだと思います」
「よく見ただけでわかるね」
メハルが呟くと、無彩の魔術師は囁くような声でこう答えた。
「僕が見つけたものなので」
いくら待ってもチェニーは戻ってこない。
調査団の制服が見当たらないことを確認してから、メハルは持ち込まれた剣を再び抱えると店へと戻った。
ミッシュの名前入りの札を返し、剣の売却ができなかったことを素直に話す。
指導役の男は呆れた様子で、じゃあどうするんだと新入りに尋ねた。
「あの人、もしかしたらまた来るかも。なにかワケありみたいだし、俺がこれを預かっていたいんだけど」
「弁償はどうすんだ。二千だぞ?」
「俺がかわりに払います」
「ん? そんなに払えるのか、お前」
「うん。なんとか。ぎりぎりだけど」
「貯めこんでるんだな。払ってもらえりゃあいいんだが、大丈夫なのか、本当に」
「大丈夫。ルンゲさんと採集に行くようになって、結構もらってるんだ」
「はあー、そうか。採集組か。最近入った連中は見込みがあるって、ルンゲもご機嫌だったな、そういえば。お前のことだったんだなあ」
すぐに持って来られるか問われ、メハルは頷き走った。
寮へ戻り、用意していた二千シュレールを持って、再び店へと急ぐ。
「おお、本当にある。すごいな、採集なんて行きたくないって思っていたけど、そんなに稼げるなら考えなおした方がいいかもしれない」
やるなと背中を叩かれ、メハルは答えた。
「ルンゲさんとミンゲさんがすごいんだよ。二人ともそんなに年上って訳じゃないのに、腕がすごくいいからさ」
「そうだよな。あの兄弟が来てくれて良かったよ。ルンゲさまさまってやつだなあ」
店の奥で清算を済ませて、仕事へ戻る。
採集にも行くが、加工もやるし店番もやる。
まだ若い下っ端のメハルは、おつかいもよく頼まれる。
働き者の少年はすべてに愛想よく答えて、この日の仕事を終えた。
すぐ近くにある男性用の寮に戻ると、この日は非番だった同僚が待ち受けていた。
例の剣は人目につかないように布をぐるぐると巻いてあり、メハルは持ち帰ったそれをオーリーへ差し出している。
「びっくりするほどうまくいった」
寮の部屋の中では、間抜けなお調子者の仮面は外されている。
オーリーは黙ったまま剣を受け取り、巻かれていた布を取ると丁寧に畳んで、相部屋の仲間に返してくれた。
「うまくごまかせましたか?」
「ううん。なんでか逃げて行っちゃったんだ、あの調査団の女は」
店で起きた出来事を思い出しながら、正確を心掛けて説明していく。
魔術師が出て来た瞬間、明らかに狼狽していたこと。
橙の二十一層で見つかった腕輪を持っていたこと。
「オーリー、平気?」
腕輪の話を終えたところで、オーリーの顔も相当に緊迫したものになっていた。
あの調査団の女と、剣の持ち主と、正体を隠しながら暮らすオーリーと。
かつては親友だった男、付き従うスカウト、そしてもう一人、チェニーがその名を呟いていた、ダンティン。
彼らの間に、一体なにが起きたのだろう。
身を隠して暮らしたい、知られたくない相手と、探りたい人間がいることは聞いた。
しばらく協力してきたが、あのチェニー・ダングという女性は、オーリーと同じくらい傷ついて苦しんでいるのではないかとメハルは感じている。
「大丈夫です」
ガリガリにやせ細ったオーリーと、やつれたチェニーからは同じ気配を感じている。
二人はなにに追われ、どうしてこんなにも悩み苦しんでいるのだろう。
肝心な部分は隠されている。君に危険が及んではいけないからと、あえて語らないのだとオーリーは言う。
謎多き髭もじゃの男は、自分の手元にやってきた美しい剣を撫で、目に涙を浮かべていた。
彼の望みはいくつかある。一つは今日叶ったが、他についてはどうだろう。
「あの調査団の女は、ひょっとしたら解雇されちゃうのかも。もう二度と会えないかもしれないよ」
「そうですか。どこか別の街へ移動してしまうのでしょうか」
「もともと王都から来てるってさ」
お使い業務の間に仕入れた情報では、団長から随分怒りを買っているらしく、そろそろクビになるだろうという話だった。
オーリーは彼女から話を聞きたいようだが、あの様子では難しいのではないかとメハルは思う。
「なにもかも忘れられたらいいのにって言ってた」
「彼女がですか?」
「辛い記憶を忘れたいんだって」
同僚は口をぎゅっと結んで、思案に耽っている。
お調子者を演じている時とはまるで別人で、メハルはオーリーをしげしげと眺めた。
「そろそろまた髪を染めた方がいいかも。根元が見えてきているから」
背が高いからあまり人目にはつかないけれど、せっかく頑張って別人を演じているのだから、隙は見えない方がいいだろう。
「手伝ってくれますか、メハル」
「もちろん」
オーリーの願いはあと二つ。
チェニーとの対話は難しそうだが、ギアノ・グリアドという名の男はまだ街のどこかに残っているかもしれない。
どちらも叶えてあげられたらいいのにと思いながら、メハルは染髪のための道具を揃えて、準備を進めていった。




